黄色の苦労   作:n4yuuuu

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Take2. 踏み込むべきところ、別のところ

 今回の現場は、宮崎。高千穂。

 地名だけ聞くと、ロケーション勝ちだと思われがちだけど、実際は、そう単純じゃない。

 

 光は強い。影も、はっきり落ちる。映える。

 だからこそ、誤魔化しがきかない。

 

 高千穂の朝は、相変わらず早い。山に囲まれているせいで、太陽が顔を出す前から、空の色だけが先に変わる。薄い青が、少しずつ白に近づいていく。その変化を、現場にいると嫌でも意識させられる。

 

 今日は、昨日よりもタイトだ。

 観光地である以上、撮影に使える時間帯も場所も限られているし、その上、今回のスケジュールは過密だ。人が入らない一瞬を狙って、段取りを一気に詰めることもある。ミスが許されない、というより、やり直しがきかない。

 

 ケーブルを担ぎながら、頭の中で今日の流れをなぞる。

 

 カメラ位置。

 導線。

 音の反射。

 

 考えるべきことは多い。

 その分、余計なことを考える隙は、本来ないはずだった。

 

 ──はずなのに。

 

 昨日から、ずっと気になっている。

 何が、というほど具体的なものじゃない。ただ、現場に入った瞬間から、心のどこかに引っかかりがある。説明しようとすると消えてしまう程度の、違和感。

 

 こういう感覚は、だいたい当たる。だからこそ、考えないようにして、手を動かす。考えないようにしていたものは、忙しさが一段落した瞬間に、逆に浮かび上がる。だから現場は嫌いじゃない。手が動いている限り、余計なことを考えずに済む。

 

 でも、その行為がかえって、現場は考えすぎる人間に優しくないのだと思わされる。

 

「おはようございまーす」

 

 まだ完全に起き切っていない声が、後ろから聞こえた。

 振り返ると、B小町のメンバーが揃っている。昨日よりラフな服装で、メイクも最低限。それでも、立ち方や視線の置き方には、すでに“映る側”の癖が滲んでいた。

 

「今日、なんだか霧が出そうな雰囲気よね」

 

「そうかな~?でも、逆に使えたら綺麗かも!」

 

 他愛のない会話。

 けれど、全員が同じ方向を見ている。仕事の顔だ。そしてその中に、あのMEMちょもいる。

 

 視線は合わない。

 意識的に外している、というほど露骨でもない。ただ、昨日と同じ距離感を、彼女も選んでいるように見えた。

 

「朝凪くん、ちょっといい?」

 

 現場全体を見渡していた声が、俺を呼んだ。

 アネモネ・モネモネさんだ。

 

 今日はキャップを被り、資料を片手に持っている。表情は以前と変わらない。感情を前に出さない代わりに、状況だけを正確に掴もうとする目。

 

「このあと、渓谷側のカット、予定より十分早めたい」

 

「人の入りですか」

 

「うん。それと、光。今の角度、逃したくない」

 

 即断即決。

 迷いがない。

 

「機材、こっち回します」

 

「助かる」

 

 それだけ言って、アネモネさんはもう次のスタッフに指示を飛ばしていた。

 

 現場が動き出す。

 カメラが据えられ、音声がチェックされ、B小町が立ち位置につく。笑顔の練習をする者もいれば、目を閉じて呼吸を整える者もいる。それぞれの準備の仕方が、そのまま性格を映していた。MEMちょは、その少し後ろで、ストレッチをしていた。

 

 視線は下。

 呼吸は一定。

 集中している横顔。

 

 アイドルとしての顔だ。

 

 ただ、昨日と同じかと聞かれたら、そうとも言い切れない。ほんのわずか、タイミングがずれている。動きが遅いわけでも、雑なわけでもない。むしろ正確だ。

 だからこそ分かる。“余計なもの”を、きちんと内側に押し込めている。

 

 俺は、それ以上考えない。

 現場で見えるのは、今、映るかどうかだけだ。理由や背景を掘り下げるのは、俺の仕事じゃない。

 

「じゃあ、いきまーす」

 

 アネモネさんの声が、場の空気を切る。一斉に、世界が“撮影用”に切り替わった。

 

 俺はレンズの外側に立つ。いつも通りの位置だ。中心には行かない。でも、離れすぎもしない。誰かが輝くための場所を、静かに整える。

 

 それが、今の俺の仕事だ。

 

 ――そして、その選択を、後悔しないために、今日もここに立っている。

 

「朝凪くん」

 

 こちらを見ないまま、アネモネさんは言った。

 

「過去があるのは、悪いことじゃないから」

 

 慰めでも、探りでもない。現場の人間が、事実として口にする声音だった。

 

「……なんのことですか?」

 

「むしろ、映像には出やすい」

 

 俺は、何も答えない。反射板を持ったまま、指先にかかる重さを少しだけ調整する。

 

 出る。

 感情よりも先に、癖や、間や、判断の速さとして。隠したつもりでいるものほど、フレームの中では目立つ。それを、俺自身が一番よく知っている。

 

 そしてアネモネさんは、その“出やすさ”を否定しない。

 

 ただし――

 

 一拍、間が空く。

 

「――持ち込まなければ、ね」

 

 線を引く。

 使うか、使わないか。映すか、切るか。過去そのものじゃない。それを、今の現場に必要な形に変換できるかどうか。

 

 それだけを見ている。

 

 次の指示に向かって歩き出す背中は、もう完全に仕事の人間だった。

 俺は、その背中を追わない。理解した、で終わる話じゃない。アネモネさんの言葉は、心に残るためのものじゃなく、次の判断を早めるためのものだ。

 

 俺は視線を落とす。

 

 足元の砂利。

 反射板の縁。

 ケーブルの影。

 

 感情を整理するより先に、身体が現場に戻っていく。考えるべきことは、もう別のところにある。

 

 ――今、この瞬間に、何が起きているか。

 

 風は、目に見えない。だから厄介だ。

 

 木々の揺れ方。

 渓谷から返ってくる音の速度。

 反射板の影が、地面に落ちる位置。

 

 どれも、単体では問題にならない。けれど、全部が同時に起きたとき、“次”が分かる。

 

 光が跳ねる。

 その一瞬が、いちばん映像を壊す。

 

 経験、というほど大層なものじゃない。ただ、何度も失敗を拾ってきただけだ。失敗する前に止める。そのために、レンズの外側に立っている。

 俺が声を出す前に、アネモネさんは、すでにこちらを見ていた。

 

 目が合う。

 理由を聞かれることはない。

 

 必要なのは、「今かどうか」だけだ。

 

 俺は、短く息を吸う。

 

「……一回止めてください」

 

 俺の声に、現場が一瞬だけ静まった。困惑と、疑問。そういった感情がこの場を覆っている。

 

 渓谷側から、予想より強い風が入っている。

 反射板が、僅かに揺れていた。

 

 この角度だと、光が跳ねる。

 

 顔に、出る。

 

「風、想定より来てます」

「反射、ズレます」

 

 アネモネさんが即座に判断する。

 

「一回下げよう。立ち位置、五十センチ後ろ」

 

 スタッフが動く。

 反射板を押さえ直す。

 カメラが回る。

 

 そのときだった。

 MEMちょの足元で、小さく、砂利が音を立てた。

 

 バランスを崩すほどじゃない。でも、踏み出すタイミングが、ほんの一瞬遅れる。

 

 それを見て、俺は反射板の角度を変えた。

 ほんの数度。でも、光は正直だ。彼女の顔に落ちかけていた影が、消える。

 

「……今の、いい」

 

 モニターから目を離さず、アネモネさんは続けた。

 

「次、同じ条件でいこう」

 

 確認は、ない。理由の共有も、ない。現場では、それが一番重い判断だ。偶然じゃない、と言っているのと同じだった。

 

 スタッフが動き出す。誰も、異を唱えない。

 

 俺は反射板を持ち直しながら、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

 信頼は、言葉じゃなく、進行で示される。

 

 アネモネ・モネモネは、そういう人間だ。

 

 MEMちょは、何も言わない。視線も、こっちを向かない。ただ、一度だけ、深く息を吸ったのが見えた。

 

 偶然だ。

 そういうことにしておく。現場では、たいていのことは、そうやって処理されるのだから。

 

 

 

 

「――はい、ここまで。お疲れ様!」

 

 アネモネさんの声が飛ぶ。

 張りつめていた空気が、音を立てずにほどけていく。誰かが深く息を吐き、誰かが肩を回す。笑い声までは出ない。ただ、緊張だけが抜ける。撮影が終わった、というより、一段落した、という感じだ。

 

 俺は反射板を畳みながら、指先に残る微かな震えを確かめる。

 失敗していない。でも、余裕があったわけでもない。

 

 ちょうどいい、というのが一番近い。現場では、それが一番信用できる手応えだ。

 

 少し離れたところで、B小町のメンバーが水を飲んでいる。MEMちょは、キャップのつばを直しながら、スタッフの説明を聞いていた。

 

 こちらを見ない。でも、背中の向きは変わらない。

 偶然、視界の端で動きが重なる。それだけだ。

 

 声をかける理由も、かけない理由も、今は同じ重さで並んでいる。

 俺は、どちらも選ばない。

 

 余白は、埋めるためにあるんじゃない。次のカットに、支障を残さないためにある。

 そう思いながら、ケースの留め具を一つ、静かに閉めた。ケースを肩にかけ、周囲の動線を確認する。

 

 撤収は滞りない。

 誰も浮ついていないし、誰も引きずっていない。

 

 いい現場だ。

 そう判断したところで、足音が横に並んだ。

 

「さっきの対応、助かった」

 

 アネモネさんだ。

 こちらを見ず、モニターの方に視線を残したまま。

 

「ギリでしたけど」

 

「ギリで止められたなら、それで十分」

 

 評価でも、会話のきっかけでもない。事実の確認に近い。

 

 数歩、並んで歩く。

 スタッフに次の段取りを指示し、それが終わってから、アネモネさんは一度だけ間を置いた。

 

「……MEMちょ」

 

 その名前が出た瞬間も、俺は足を止めない。

 

「今日、少しズレてた」

 

 確認ではなく、共有だ。

 

「本人は、たぶん自覚してる」

 

 だから、これ以上は現場では触れない。そういう前提が、言葉の裏にある。

 

「でも、崩れてはいない」

 

 俺は、そう返す。

 評価でも、庇いでもない。

 

「踏み外しかけても、戻り方を知ってます」

 

 アネモネさんが、ほんの一瞬だけこちらを見る。

 頷きはしない。でも、否定もしない。

 

 現場は、すでに次へ向かっていた。

 スタッフの足音が重なり、ケーブルが巻かれ、さっきまで人の視線を集めていた場所が、ただの通路に戻っていく。撮影が終わったあとの現場は、いつも少しだけ軽い。成功でも失敗でもない、「処理が済んだ」という空気。

 

 その中で、アネモネさんだけが、処理を終えていなかった。

 

「戻り方を知ってる、か」

 

 歩調は変えない。足音のリズムも、周囲との距離も。ただ、その言葉だけを口の中で転がす。

 

 声は低く、抑揚がない。

 感想じゃない。評価でもない。確認しているのは、再現性だ。

 

「珍しいのよ、あのタイプで」

 

 主語はない。

 けれど、今この距離、この静けさで、誰の話か分からないほどこの現場は鈍くない。

 

 B小町の待機位置。

 スタッフの導線。

 モニター前に残る人影。

 

 すべてが、次の段取りへと流れていく中で、その名前だけが、逆方向に引っかかっている。

 

「怖がりなのに、線を越えること自体は、あまり躊躇しない」

 

 俺は、反射板ケースのベルトを締め直す。緩みがないか。金具が鳴らないか。運ぶときに余計な音が出ない、ちょうどいい張り。こういう感覚は、言語化する前に、身体が先に覚える。

 

「普通は逆」

 

「はい」

 

 即答。

 

 補足はしない。補足した瞬間、話題が“性格分析”に寄る。ここで必要なのは、感情じゃない。使えるかどうか、それだけだ。

 

「……で」

 

 アネモネさんは、その削ぎ落とされた会話の隙間に、迷いなく足を踏み入れる。

 

「あなたは、ああいう“戻り方”を、どこで覚えたの?」

 

 質問の形をしているが、選択肢は用意されていない。

 これは、経歴確認だ。

 

 事故る人間か。

 踏みとどまれる人間か。

 現場を壊す側か、守る側か。

 

 俺は、一拍だけ間を取る。

 思い出すためじゃない。余計なものを削るための間だ。

 

「現場です」

 

「どの?」

 

「失敗した現場」

 

 それ以上は言わない。

 

 名前も。

 時期も。

 結果も。

 

 それらはすべて、今この現場では判断材料にならない。アネモネさんは、その情報量で満足する。

 

「……なるほど」

 

 肯定でも、同情でもない。内部で、一つ分類が終わっただけの声音。

 

「じゃあ、彼女は今、ちょうどいい位置にいる」

 

 評価が下る。

 感情の話じゃない。立ち位置の話だ。

 

「踏み外す手前。でも、画を壊すところまでは行かない」

 

 止める理由はない。

 引き上げる理由もない。

 

 だから、使う。

 その判断は、もうこの人の中で確定している。

 

「ただし」

 

 条件が付く。

 ここが、本題だ。

 

「あなたが近すぎると、彼女は自分の線を見誤る」

 

 初めて、視線がこちらを向く。

 

 責める目じゃない。

 探る目でもない。

 見えている目だ。

 

 俺は、一度だけ息を吸う。胸の奥に残る余計なものを、一息で落とす。

 

「……距離は、保ちます」

 

 約束じゃない。

 調整だ。

 

「ええ。それがプロ」

 

 即断。

 評価は、ここで終わり。アネモネさんは、もう次の段取りに意識を移している。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

 会話は切れる。

 残るのは、言葉じゃない。

 

 配置。

 距離。

 役割。

 

 フレームの外側にも、線は存在する。それを見落とさないこと。それを、踏み越えないこと。

 

 それが、俺の仕事だ。

 

 そのまま歩き出すと思ったアネモネさんが、不意に足を止めた。完全に止まるわけじゃない。一拍だけ、次の動線を考えるときの間。

 

「……今日、このあと時間ある?」

 

 唐突だけど、軽くはない。空気が、一瞬だけ別の色を帯びる。

 

 俺は、反射板ケースを床に置かず、肩にかけたまま答える。

 

「段取り次第です」

 

 予定を言わない。空いているとも、空いていないとも。

 アネモネさんは、それで十分だと判断する。

 

「じゃあ、軽くご飯」

 

 言い方は、業務連絡と同じ温度。

 

「打ち上げじゃないわよ。現場の延長」

 

 わざわざ言うあたり、本当にそのつもりなのだろう。

 

 俺は、一瞬だけ考える。

 断る理由は、特にない。受ける理由も、感情じゃない。

 

「場所は?」

 

「近くでいい。音がうるさくないところ」

 

 条件が、もう目的を物語っている。

 雑談は要らない。表情も見ない。必要なのは、声のトーンと、返答の速度だけ。

 

「MEMちょのこと、もう少し聞きたい」

 

 やはり、本題はそこだ。

 

「現場じゃ、線が多すぎる」

 

 フレーム。

 立場。

 役割。

 

 全部が、邪魔になる。

 

「あなた、あの子を“人”として見てる」

 

 断定。

 評価でも、褒めでもない。

 

「それが、武器になるか、ノイズになるか」

 

 見極めたい。

 そう言っている。

 

 俺は、短く頷く。

 

「食事なら、画は回りません」

 

「ええ」

 

 即答。

 

「だから、行く意味がある」

 

 そう言って、アネモネさんは再び歩き出す。今度は、完全に次の予定へ。

 

「三十分でいい」

 

 時間まで、指定される。

 

「それ以上は、情報過多」

 

 最後に、それだけを残す。

 俺は、その背中を追いながら、頭の中で距離を測る。現場より、少し近い。でも、踏み込む線は、まだ向こう側だ。

 

 この誘いは、きっかけにすぎない。境界線を、一段ずらすための入口にすぎない。そして多分、本当に測られるのは、その席で俺が何を語らず、何を残すかだ。

 

 

 

 

 

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