環姉妹の真ん中っ子 作:匿名
終わりの夢
「わたしが死んだら、この記憶を、過去のわたしに送って」
大粒の雨が顔中を叩く。山頂は空気が薄く、細く湿った風は骨まで通る鋭さで抜けていく。息を整えて顔を上げると、青空に蓋をする鈍色の雲が、風に押されてのろのろと這いずっているのが見えた。北西の方角には異様な光景があった。黒く巨大な塔が聳え立っているのだ。ちょうど隣町の見滝原を踏み潰すほど太く、雲を超えるほど高い塔が。
それは、呆れるほどに穢れを蓄えた魔女だった。
胸中に冷気が溜まっていく。ソウルジェムの濁りは冷たくどろどろとしている。あの魔女は、地上から生命力を一生懸命に吸い上げていた。
このままだと、魔力を徴収されて、わたしも魔女になる。だから、誰かを呪う前にソウルジェムを砕くべきだ。人を傷つける前に、魔法少女として死ぬべき……なんてただの言い訳。
やっとみんなに会いに行けると思った。
だから、生きるか死ぬかの瀬戸際なのに焦りは感じなくて。ホッとする気持ちばかりが大きかった。痛いのは怖いけれど、生きることをやめる理由ができてわたしは安心していた。
本を抱きしめる。どこにもなかった。桜の木なんて、どこにも。
誰とも繋がらなくなった約束の糸だけが小指に絡まっている。
キュゥべえが、ただじっと、赤い目をわたしに向けている。
◆ ◆ ◆
「──ゆめ!」
目が覚めたとき、寒くて寒くて仕方がなかった。ベッドの中で息を凍らせるわたしを姉ちゃんが助け起こし、眉を八の字にする。
「大丈夫? 時間になっても起きて来ないから様子を見にきたんだけど……凄く魘されてたよ」
わたしを心配してくれる声に平気だと答えたかった。だけど意識がまだ夢路を歩いているのか、今もあの山の中で雨に打たれている気がして。本当は今が夢で、わたしはソウルジェムが穢れ切って走馬灯を見ているだけだったとしたら。
ひたいと首すじに姉ちゃんの手が触れる。触れたところから染み入るようにぬくもりが入ってきて、ようやく肩の力が抜けた。魂が肉体に落っこちてきたみたいに、ずんとした現実感が全身にかかる。暴れていた心臓が徐々に落ち着いていく。
恐る恐る姉ちゃんを見ると、いつもとおんなじキツすぎないつり目がわたしを優しく眺めていた。
「熱は無いみたいだけど、体温が低い。気分はどんな感じ? つらくない……?」
生きてる。姉ちゃんも、わたしも。
胸にあたたかな安堵が込み上げた。もう何度も見た夢なのに、起きるたびにどっちが現実なのか迷って、夢と違うところを探して必死に安心しようとしている。でも、今日は【記憶】通りの夢だったからマシなほうだ。わたしは涙が滲んだことを気づかれないように強く目をしばたたいた。
「……平気。ちょっとだけ、気分悪いけど」
「顔がまっしろだよ。お出かけはやめておいたほうがいいと思う」
「お出かけ……?」
姉ちゃんの顔が、更に深刻そうになった。いったいどうしちゃったの? という感じじゃない。
「今日は家族みんなで外食に行く日でしょ……? ゆめ、ずっと楽しみにしてたのに」
「あ──」そういえば、そんな話だった。慌てて頷く。「そう、だったね。楽しみに……」
楽しみにしてた。ういの退院記念に、美味しいものを食べに行こうと……病院食しか知らないういが、新しい味を楽しめるように、家族みんなでどこに行くか話し合って……。
「ゆめ?」
心配させている。すぐに笑って、なんでもないよと言って、出かけるのを楽しみにしなくちゃいけない。なのに、わたしは笑えない。
「……ごめん。やっぱり、今日は」
顔も見ずに言って、家族といえど失礼な態度だったのに、姉ちゃんはちっとも責めないで柔らかな声を出した。
「うん、そんな気がした。じゃあ、私もお留守番しようかな。せっかく時間を作ってくれたお父さんとお母さんには申し訳ないけど……」
かぶりを振る。
「姉ちゃんは行って」
「……え」
ショックを受けたように目を見開く姉に、わたしは畳みかけた。
「お土産買ってきて」
「お、お土産っ?」
「甘いのお願い。これお金」
「え、え、えええ?」
ベッドから出て、机の横にかけてある鞄を漁る。立ちくらみを起こしてふらついたのを姉ちゃんが支えてくれた。「こら……!」叱りつける声を無視して、鞄の中から財布を取り出す。
わたしは千円札を姉の手の中に押しつけて、もう一度、
「お願い」
と言って上目遣いをした。
困り眉がもっと、へちょりと垂れる。仕方がないなぁって表情をしてわがままを聞いてくれる優しさがわたしは好きだ。
「もう元気になったんじゃないの?」
「全然。わたし家にいるから、姉ちゃんは母さんたちと行ってきてね。……気をつけて。車が通るところはちゃんと
「もぉ〜……」
溜息をついて、姉ちゃんはわたしの背中をベッドのほうに押した。
「体を温めること! 言う通りにしてあげるから。ゆめこそちゃんと休んでるんだよ? 変なことしてたら、怒るからね」
「わかってる」
「本当かなぁ……魔女狩りにも行っちゃ駄目だよ?」
「もちろん」
「約束だからね……? ハァ……お母さんには、私が言っておくから」
姉の手がベッドの上に戻ったわたしを毛布でぐるぐる巻きにして、首元まで覆ってしまう。チョココロネの具みたいな見た目になったわたしに安心したのか溜飲が下がったのか、姉ちゃんはほっと息を吐き、安静にするよう厳重に言い含めた。
「うん」
良い子の返事で頷く。普段あまりわがままを言わないことが功を奏したらしく、姉ちゃんがわたしの動きをそれ以上警戒することはなかった。
部屋を出て行こうとする彼女を、わたしはつい引き止めた。
「姉ちゃん。この部屋……おかしなとこない?」
怪訝そうにしながらも室内を見渡して、姉ちゃんは首を傾げた。
「模様替えしたの? ごめんね、私にはちょっとわからないかも」
いってきますの声と施錠音が聞こえたあと、車の発進音が外から響く。家族を乗せた車が遠ざかっていくのを聞いてから、わたしは体に巻きついた毛布を剥がし、上体を起こした。
閉め切ったカーテン越しに仄かな光が室内に流れている。……出入り口から見て、わたしの部屋の右半分は家具が無い。部屋の縦半分に定規で引いたような、わたしが使うスペースとそうでない空白地帯の境界線がある。
この明らかな異常に姉ちゃんはなんの反応も示さなかった。直接聞いてみても、何か違和感があるとか、頭が痛むとかいった素振りもない。ああやっぱり、姉ちゃんは何も覚えていない。
わたしの部屋の右半分には鏡写しのように、妹が使う家具を置いていた。姉ちゃんにはわたしの下にもう一人、『環うい』という妹がいた。生まれたときから体が弱く、隣町の病院で入退院を繰り返していた少女。
いつからか。具体的な日付はわからないけれど、彼女が使う分の家具が消えていた。家具が消えてるだけでなく、みんなで撮った写真からもういの姿が消失している。姉ちゃん、うい、わたしの並びで撮った写真が以前から姉ちゃんの部屋に飾られているけれど、姉ちゃんとわたしの間に人一人分の空白を残したおかしなワンショットになっていた。そんな感じの変な写真がアルバムに何枚だってあるのに、家族は素知らぬふりをする。よく話すクラスメイトも、わたしが妹を見舞うために神浜に通っていたことは割と有名な話なのに、聞いてみるとなぜかわたしの体が悪く、放課後遊べなかったことになっていた。
三週間くらい前から起きている異変だ。はじめ、わたしも違和感を覚えるだけで何が欠けているのかは全く気づかなかった。一週間経ち明確に記憶の異常に気づき、更に一週間かけて環ういの名前と姿をはっきり思い出した。そして、今日に至るまでわたしはひっそりういに関しての調査を行っていたのだ。
環ういは存在ごと消えている。誰の記憶にも残っていないし、学校の名簿からも消えている。
わたしはういの存在が自分の妄想なんかじゃないと信じている。理由はいくつかある。まず、本当に最初からういがいないのならわたしの部屋半分が切り取られたように家具が無かったり、写真でわたしと姉ちゃんが変な距離を取っていたりするようなことはないはずだ。他にも、姉ちゃんが書き溜めていたういたち用のレシピノートがそのまま残されていたり、これは些細なことだけど母さんがお味噌汁を一人分多く注いだり、父さんがわたしたちに何か買ってくるとき、姉ちゃんとわたしとあともう一人誰かお揃いで使えるようなキーホルダーを選んだりしないと思う。
そして、わたしはキュゥべえから聞いたのだ。ういの同級の親友であり、姉ちゃんとわたしとも交流があった里見灯花と柊ねむが魔法少女になったことを。
ただ、キュゥべえは二人が何を祈ったのか把握できていない。接触しようにも神浜市全土がインキュベーターを拒絶する結界に覆われており、市内に足を踏み入れた途端、彼は意識を失うらしい。
神浜には、いま各地から魔女と魔法少女が集まっているとも聞いた。キュゥべえが情報を得ようにも彼女らはみな口を閉ざし、調査の進捗は芳しくない。そしてそれらの異常は、灯花とねむが契約した時期とぴたりと一致しているのだと言う。
二人が何をしているのかわたしは知らない。でもういの行方と彼女たちは深い関わりがあるように思えた。そうでなくてもあの二人が魔法少女になったのなら必ず接触しなければならない。たとえあの子たちがわたしのことを覚えていなくても、わたしの目的は変わらない。
わたしは、姉ちゃん、うい、灯花、ねむの四人に生きてもらうために魔法少女になったのだから。
姉を強引に外出させたのは一人で神浜に行くためだ。姉ちゃんに言おうか迷っていたけれど、夢を見たことで覚悟が決まった。あの人には、安全な場所にいてほしいって。こうなるとういを覚えていない姉をあまり刺激したくもないし、体調不良を装えたのはちょうどよかった。
考えをまとめ、姉ちゃんたちを乗せた車が忘れ物かなんかで帰ってくることがないのを確認して、わたしはベッドを抜け出した。
学習机には姉と母が持ってきてくれた水差しと朝食が置かれてある。お行儀が悪いながらわたしは立ったままご飯をいただいた。
外で食べるものよりも味の薄いお味噌汁は後味が柔らかく、素材の味が引き立っておいしい。悪夢でささくれだった心が、あたたかくなる体とともに回復していく気がした。
春休みの只中であるせいか神浜駅は人が多い。人がつかえないように気持ち急いで改札を抜け、時刻表を確認しに向かう。昔、姉ちゃんと二人だけで里見メディカルセンターまで行こうとしたときに乗る電車を間違えて、北養区とは反対方面に向かってしまったトラウマがあって、今でも乗り場や時間はしつこくチェックする癖がある。
新興都市と銘打つだけあって駅構内は広く、店舗も充実している。雰囲気も真新しく、神浜と比べれば宝崎市は静かというか、田舎って感じがしてくる。さて時刻表……視線を巡らせたときだった。
「モキュ?」
行き交う人々の足の間から一瞬、白猫が見えてわたしは足を止めた。きびすを返し、白猫──キュゥべえがいたはずの方向へ足を進める。キュゥべえが嘘をついた? そんな馬鹿な。彼は言いたくないことは曖昧模糊な話し方をして誤魔化すけれど、嘘だけはつかない。
雑踏の隙間からやっぱりキュゥべえの姿が見える。どうやら彼は北出口に向かっているらしい。人を避けながら、涼やかな風が吹き抜けてくる方向にわたしも駆けた。
外に出ると駐車場に続いた。並んだ車がさんさんと春の陽射しに降られている。
駐車場を縁取る植え込みの隅に、彼はいた。
キュゥべえがふくよかな尾をうねらせる。グロゼイユを思わす透き通った赤い目はつい昨日見たばかりの色だ。ただ、本来の彼とは違い、その姿は一回りほど小さい。まるでキュゥべえの子どもみたい。垂れた耳の一部を通して浮かぶ、あの金色のリングも無い。
「キュゥべえ? 神浜には入れないって……」
「キュッ! モキュキュ」
小さいキュゥべえは答えることなく、尖った耳をぴこぴこ動かし無邪気に鳴いた。
どうしたものかと思案したわたしの困惑などなんにもわからないんだろう。小さな彼はととと、と真っ直ぐにわたしの元へ向かってくる。足元でぴたりと止まったキュゥべえは、ただじっとわたしを見上げた。
陽射しの熱にじっとりと汗が滲んでいく。こんなところでいつまでもじっとしているわけにはいかない。迷いつつもしゃがみ、小さな体の前に両手を差し出した。キュゥべえはまるで当然の権利とでも言うように堂々とわたしの手の中に収まり、
「っ!!」
わたしは飛び退いた。半端に持ち上げられたキュゥべえが空中に放り出され、器用に着地する。わたしはその姿を信じられない思いで眺めた。
「
キュゥべえは首を傾げる。
「モッキュ?」
「話せないの? テレパシーは……繋がらない。なんだって、そんなことに? 体は?」
「キュ?」
「わからないの?」
願いの結果? キュゥべえになりたいとでも願った魔法少女がいたのだろうか。いくつか質問を重ねるけれど、いまいち返答の規則性が無く、はっきりとした知能を感じられない。
とはいえこの子の中に誰かのソウルジェムが入っていることは確定だ。何せ、わたしの固有魔法が反応したのだから。物理的に入っているのかそれとも魔法での細工があるのかはわからないけれど。
この場合、どうすればいいんだろう。小さいキュゥべえ……彼女は元に戻りたいと思っているのだろうか。最初に考えた通り願いの結果こんなことになっているのもありうる。そうだとしたら余計なお節介を働かせて体を元に戻したところで、本人の望みじゃない可能性も……。
……ソウルジェムの真実を知っていれば、キュゥべえに攻撃的な魔法少女も出てくるだろう。神浜にキュゥべえ排除の結界を張った魔法少女なんかが該当しそうだ。だとすれば放っておくと、この子の身に危険が及ぶ可能性がある。そもそもどうやってソウルジェムの浄化をするのかもわからないわけで。
とりあえず、連れて行ってみようか。もし神浜の魔法少女に心や記憶を読み取れる魔法少女がいるのなら、グリーフシードを引き換えにすればキュゥべえに魔法を使ってくれるかもしれない。
「……わたし、北養区に行こうと思ってるんだ。里見メディカルセンターっていう、大きな病院」
さっきはごめんね、と謝って、キュゥべえの前で膝をつく。
「妹を捜してるの。……あなたも、一緒に来る? 他の魔法少女に見つかったら、危険かもしれないし。わたし、あんまり強くないけど……」
「モーッキュ! モキュ、キュッキュ!」
「うえっ」
キュゥべえが突然近づいてきたかと思うと、足首……靴下に噛みついて、くいくいと引っ張ってくる。
「どうしたの? 行きたいとこがあるの?」
「キュ!」
正解だ、と言わんばかりに口を離し、彼女は足音も立たないくらい軽やかに駆けて行っては、
「モキュ!」
と立ち止まり、振り返る。ついてこいということ? 首を傾げつつ、わたしはキュゥべえを追いかけることに決めた。病院内部への潜入方法はまだ考えてなくて、仮にそれが果たされたとしてもういの名前が消えていることを再確認するだけに終わったら、次の行動に迷ってしまう。立ち止まって余計な時間を食うくらいなら何かしていたほうが、たとえ無駄だとしても気が晴れる。
「モッキュ!」
「わかったわかった、今行くから……」
わたしがキュゥべえについて歩き出すと、一定の距離を保ちながら彼女も進む。
キュゥべえを捜すために姉ちゃんの静止を振り切って散策や寄り道を繰り返したり、こっそり来訪してあちこちを歩いたりしたから神浜については割と勝手を知っている。ここと見滝原は死ぬ気でマップを頭に入れたおかげで、基本的に迷子になることはない。
キュゥべえは北に向かって進んでいく。淀みない足取りで、どんどん町の中心部から離れていく。
住宅街に入り、北部の山麓に近づいたのか建物の奥に緑が増えてくる。閑散とした道を通り、人目につかない路地裏を抜ける。ときおり誰かの談笑の声や車の走行音が遠くから響いてきたけれど、次第にわたしの足音ばかりが目立ちはじめる。
一瞬、罠だったらどうしようかと思った。かすかに緊張を宿しながら、それでもキュゥべえの姿から目を離せなくて小さな足跡を辿る歩みが止められない。不信感と好奇心がせめぎ合う。
発展著しい新西区とはいえ末端は凍てついたように静かだ。どれくらい経っただろう。ときどき休憩も入ったけれど、魔法少女でなければ終わりの見えない長い散歩に
ふと、胸の中を冷たい風が流れていった。ソウルジェムに魔女の気配が触れる。
宝崎市の魔女よりも、ずっと暗く煮詰められた絶望に肌が粟立つ。噴き出した魔力の霧、その端がかすめた程度なのに、ぞぞ髪立つのを感じる。
立ち止まった。逃げる。逃げよう。ちょっとこれは無理。宝崎魔女とは格が違う。後ずさり、魔女の魔力の範囲から抜けようとする。
「キュ!」
長く、息を吐く。
ひたいに噴いた汗を拭う。嫌だなぁ、と思いながら、わたしは魔女の魔力が濃い方へ足を向けた。
キュゥべえはどんどん魔女の気配が濃いほうへ向かっていく。本当に罠だったりする? これ。冷や汗が幾筋も体を這い、悪寒に背筋が戦慄く。結界には入らない。絶対に。
小さなキュゥべえが小走りになった。軽く息を整えながら足を早める。彼女が辿り着いたのは建設放棄地らしき空き地だ。ここに結界がある。
案内を終えたからか、キュゥべえが走り寄ってきて、わたしの足首にくるくるとまとわりつく。頬擦りして、今度はたしたしと靴下を掻いてくる。苦笑して小さな体を抱きあげてやりながら、これからどうすればいいんだろうと悩んだ。この子がわたしに何を求めているのか全くわからない。
小さなキュゥべえは結界に入ろうとしないわたしを咎めることなく、腕の中ですっかり寛いでいる。伸びしたり、胸元へすり寄ってみたりと好き放題だ。なんてマイペースなんだろう。人の気も知らないで。
「……結界に入りたいの?」
キュゥべえはなんの反応も見せず、喉元をくすぐられて目を閉じている。
「戦いたくないんだけど──」
そう言ったとき、魔力が揺らいだ。
「!」
魔法少女の力を感じる。前方に視線を飛ばした。
建設放棄地の入り口全体が揺蕩っている。水面にはりついた景色が波打つように。揺らぐ空間の中から、色が滲み出る。それは二人の人間の形を取った。少女と女性のもの。
「呆気なさすぎてつまんなーい。みふゆがこの魔女は強いっていうから、わたくし気合入れてたのに!」
心臓が凍りつくかと思った。
少女の甘ったるい声が、がらんどうの空に谺する。全身がぎくりと硬直した。わたしは彼女を知っている。
里見灯花。長い栗色の巻き毛を持ち、人形のように愛らしい顔立ちをした少女。
白く小さな手に、得物らしき傘を持ち。胸にソウルジェムを飾り、クリノリンを顕にした、黒と赤を基調としたロリータ・ファッションに身を包んでいる。
元気そうだ。よかった。どうして魔法少女なんかに。灯花が願いを叶えたことはキュゥべえからの情報で知っていたはずなのに、実物を目にすると心臓が絞られたような心地がした。
病室にいた、今にも手折れそうな儚い少女の像は完全に払拭されている。それだけが、救いだった。
頬をぷっくり膨らます灯花に、同じく魔法少女衣装を着た隣の女性が眉を下げて笑った。その姿が姉と重なって、心の柔らかいところを躙られた気がした。
姉ちゃんはよく、そんな笑い方をする。そこは姉ちゃんの立ち位置だった。灯花のわがままに困り笑顔で、でも嬉しそうに応えてやるのは、いつも姉ちゃんだったのに。
「すみません、灯花の才能を見くびっていたようです。素質のある魔法少女でも、苦戦する程度には強かったはずなのですが……まさか契約して間もないあなたが魔女に反撃も許さず撃破してしまうなんて、思ってもみなくて」
「みふゆ、知らないの? 魔法少女の才能は溜め込んだ因果の量で決まるんだよ? なら、人類史の始まりから誰一人成せなかった魔法少女の救済を果たすこの天才のわたくしが、凡庸な魔女一体に遅れを取るわけないよね」
「ふふ、そうですね。あなたは強い。……けれど、魔法少女の在り方は、才能だけで決まるわけではありませんよ?」
女性が振り返り、わたしを見た。
濃い灰緑色の目が網膜を越して脳まで貫く。にこやかな微笑み。穏やかな目元は、決して睨みつけているわけでも、凄んでいるわけでもないのに、息が詰まるような圧力を感じる。
ざり、と音がして、自分が無意識にあとずさったことを知った。
女性につられ、灯花もこちらを見る。砂糖を煮詰めたようなカラメル色の目が、きょとんと瞬いた。よそよそしい誰何の目だった。
「……誰? 魔法少女?」
「神浜の魔法少女ではありませんね。魔女狩りのルールは知っていますか?」
テリトリーのことを言っているのだろう。背中が汗ばむのを感じる。間が悪い。魔女反応を追ってきたと思われてもおかしくない状況だ。ある意味では正しい。だけど、わたしが追っていたのはこの小さなキュゥべえだ。魔女を狩るつもりなどさらさらなかった。
一拍の沈黙を置いて、唇を割ったときだった。不意に灯花が駆け寄ってきた。スキップするような、跳ねる足取りはやはり、記憶の弱々しい彼女とは似ても似つかない。フリルたっぷりのスカートが華やかに回る。
女性が軽く目を瞠る。
「灯花?」
女性の声に答えず、灯花はつかつかと歩んでくる。わたしはほんの僅か、灯花がういを、わたしを覚えているのではないかという期待を持った。考えてみれば、姉妹で撮った写真が残っていたり、家族のういへの癖が健在していたりと、こんなにも世界の辻褄合わせは杜撰なのだから。ういの存在が消えても姉ちゃんとわたしの関係は繋がっている可能性はある──誰って、聞かれたのに?
灯花の足音をやけに冷たく感じて、わたしは彼女の右手に握られた傘に目をやった。
「──!」
傘の先が跳ね上がり、まっすぐにわたしの胸元を突こうとした。
咄嗟に体を横に逸らす。「灯花!?」女性の声が、うわんと響き渡る。
「何をしてるんですか! 事情も聞いていないのに攻撃に移るなんて──」
「うるさいにゃあ……別にわたくし、この人に攻撃したわけじゃないもん」
「いや、どう見ても攻撃したでしょう! 彼女が避けられたからよかったものの、対応できていなければ無事では済みませんでしたよ!」
「起こらなかったことをぐちぐち言わないでくれる? それに、わたくしたちは魔法少女だよ? ちょっとした怪我の一つや二つで死にはしないことくらい、なが〜い魔法少女人生のなかでみふゆはとっくの昔に知ってるよね?」
「そういうことを言っているのではありません。以前から思っていましたが、灯花。あなたは人命を──」
「軽視してるっていいたいの? 今も多くの魔法少女を救ってあげてる、わたくしが?」
「……欲や目的のために人を蔑ろにしているでしょう」
「その分救ってるんだからいいでしょ!? みふゆはほんっと、頭がかたいんだから! そんなだから浪人したんじゃない?」
あんまりな台詞に女性がうっと胸を押さえて、肩を落とした。
「今は、関係ないです……それ……」
息も絶え絶えに女性が言う。か、可哀想……。
ふんっと鼻を鳴らし、灯花は女性から顔を背ける。彼女のとろりとした目がわたしを見、興味を失ったように視線を下げる。灯花が小さなキュゥべえを見る。その目が憎々しげに歪む。
「まだいたんだ……それ。そんな邪魔者、わたくしたちの神浜にはいらないのに。あのとき、もっとうまく狙っておけばよかった……」
これは、キュゥべえに対する敵意? それとも内部にいる魔法少女に?
灯花が傘を手に、一歩足を踏み出す。よくない空気を感じて、わたしはその分後退した。灯花が小さなキュゥべえを見つめたまま、わたしに笑いかける。
「綺麗なお姉さん。それ、渡してくれる?」
「……」
わたしはキュゥべえを抱く腕に力を込めた。灯花の目が温度を無くす。あたたかくも冷たくもない、それこそ小さなキュゥべえよりインキュベーターらしい目になる。
「……ね、お姉さん。救われたくない? 戦いの日々から。魔法少女の運命から!」
冷えた感情を感じる。だけどどこかムキになっているあたり、入院時代と変わらず、わかりやすい子だった。
「灯花!」
今度こそ女性が咎めるように叫んだ。先ほどの言い分といい、最初の威圧は外部の魔法少女のわたしを警戒しつつ、事情を聞き出すためのものだったんだと思う。少なくとも害意からじゃない。
彼女が灯花を止めているのは、わたしに対する気遣いに見えた。
近づいてきた女性が灯花の肩を掴む。
「みふゆは黙って!」
「いいえ、黙りません。それだけは、それだけはしてはいけない!」
灯花の顔が歪んだ。
「決めたでしょう。勧誘するのは全てを知っている魔法少女だけだと」
“全てを知っている魔法少女”。
──「救われたくない? 戦いの日々から。魔法少女の運命から!」
………………まさか。
ありえないことじゃない。灯花の頭のよさなら隠された真実に気づいてもおかしくない。というより、キュゥべえの語り口で、むしろ気づかないほうがおかしい。疑問点を突き詰める子だったから。
だとすれば──どうして契約を? 焦る必要はなかったはずだ。何せ、灯花とねむ、二人の病気もほとんど完治していたのだから──
「……っ!」
灯花が再び女性から顔を背ける。その顔がわたしを見つけ、歪に唇を吊り上げた。女性からしたらせせら笑いに見えただろう。そんな、意地の悪い笑い方。
「ソウルジェムが穢れきったら、魔法少女は魔女になるの」
女性が、ひゅっと息を呑んだ。
「でも、この神浜では魔女にはならない。わたくしたちマギウスがつくった自動浄化システムによって、魔女化っていう魔法少女にとって最悪の結末を覆せるの。くふふっ! すごーく素敵な話でしょー?」
「……」
「お姉さんがそいつを渡してくれたら、お姉さんのこと、マギウスの翼でわたくしたちの次くらい偉い地位で迎え入れてあげる! そして、この自動浄化システムを世界に広げて、一緒に魔法少女を解放しよう? お姉さんは何もしなくても、魔女にならなくて済むんだよ? こんなにおいしい話って他にないよねー?」
──あ、なんならお姉さんが住む町を最優先で解放してあげる!
灯花は断られるなど微塵も思っていない、満面の笑みでそう続けた。
冷静に。落ち着いて、考えよう。
彼女の言が正しければこの町では魔女にならない。
……小さなキュゥべえを差し出し、灯花の言葉に頷けば、たぶん彼女の仲間には入れる。ういのもう一人の親友、柊ねむの現在だってわかるかもしれない。過去を伏せて、ただいなくなった妹を捜しに来たのだと訴えれば、灯花もわたしをそこまで不審には思わないはず。
逆にここで彼女の誘いを拒絶したら、後々マギウスとやらに接触し、懐柔するのは難しくなると思う。
「……わたし、は」
でも、灯花は明らかにこのキュゥべえに敵意を向け、殺そうとしている。その理由が、インキュベーター憎しなのか、それともキュゥべえの中にいる魔法少女に対しなのかわからない。
灯花を人殺しにさせたくない。今の彼女は女性とのやり取りを見る限り、精神性がういと出会ったばかりの頃に逆戻りしているようだった。
キュゥべえは、差し出せない。
……それに偶然かもしれないけど、この子は灯花とわたしを再会させてくれた。あのときこの子ではなく、里見メディカルセンターを選んでいたら、灯花には会えなかった。わたしは小さなキュゥべえに恩がある。
これで、全てが間に合わなかったら。この決断でういに辿り着けず、灯花とねむも失って、姉ちゃんも死んでしまったら……そう考えると、手っ取り早く灯花に取り入るためにキュゥべえを渡してしまいそうになる。
万年桜の元に集まる約束をした、あの四人のためなら、わたしは他の魔法少女を……きっと、殺せる。
姉ちゃんたちの未来が繋がるなら、どんな酷薄な決断だってしようと思う。
でも、同時に、これ以上手を汚してしまったら、彼女たちに顔向けできないとも思ってる。
本当に追い詰められない限り、わたしはそういった決断はしない。みんなの悲しい顔は見たくないから。……どの面でって自分でも思うけど。
わたしは灯花と目を合わせた。
「一つ、聞いてもいい?」
「何かにゃ?」
女性が息を詰めて、わたしたちのやり取りを窺っている。
「『環うい』って知ってる?」
「だぁれ、それ。みふゆは知ってる?」
「いえ……」
「じゃあ、『柊ねむ』は」
言い切らないうちに、灯花の顔がぐるりとこちらを向いた。
「ねむの知り合い?」
「……っ」
友だちだったよ、とか。今のわたしが言える言葉じゃない。灯花の記憶が無いんだから、ねむだって。
目蓋を下ろして息を吐く。灯花を納得させる論理は思い浮かばない。ねむに関しては完全に失言だった。
踵を返し、駆け出した。何かありますと言わんばかりの態度だけど、そのことを考慮できるほど精神的な余裕が無い。
「……にゃっ!? 逃げた!? なんでぇ!?」
「危険人物だと思われたんじゃないですか? 今の動き、ワタシから見てもちょっと怖かったですし……そもそも突然武器を向けたのは灯花でしょう」
「終わったことを蒸し返さないでくれる!? というか、魔女化の話も流されたよねー? わたくし、どの角度から見ても大事な話をしてたよ? 魔法少女が魔女になるなんて、普通ならソウルジェムが濁るくらい重大なことでしょ!?」
「それは……」
「……何これ。何これ何これ何これ! あったまきた……! わたくしはあんなにも譲歩してあげたのに、全部無視して逃げるなんて……!」
地を蹴る音がした。
「いいもんいいもん! どーせねむの知り合いでしょ? キュゥべえは殺して、あいつはマギウスの翼に入れてやるから! 下っ端も下っ端、黒羽根以下でこき使ってやるんだから!」
「やめてください。マギウスの翼の評判が地に落ちます。彼女とキュゥべえのことなら、あとでワタシがどうにかしますから、あなたは頭を冷やしてください。さっきの暴挙、忘れたとは言わせませんよ」
「離してよ!」
「駄目です」
「う〜〜〜〜……!」
そのとき、遠ざかっていく灯花の声が嫌な喜色を帯びた。
「ああ、二人ともやっと来た! アリナ! あっちに逃げた魔法少女とキュゥべえを捕まえて! キュゥべえのほうは殺していーよ!」
「こら灯花! アリナ、聞かなくていいです! 事情は後ほど説明しますから、まずはワタシたちの仕事を優先しましょう」
「ハァ?」と疑問符を吐く声が聞こえる。周囲に人や車が動いていないせいか、聴力を強化すれば背後の会話は容易に聞き取れた。
走るわたしに気遣ってか、小さなキュゥべえが腕から抜けて肩に乗る。ショルダーバッグに手を突っ込んだ。
「わたくしの言うこと聞いて! 明日一日みふゆのこと、貸し出してあげるから!」
「ちょっと灯花ァ!?」
「乗った」
「乗らないでください!」
「……何があったの?」
フィンガースナップの鋭い音が耳朶を掠める。はっと振り返ると、緑髪の少女がアスファルトを蹴り飛ばしたところだった。変身した少女と同じスピードで、路地裏の天井が緑色の透明な防壁につつまれていく。
「あっ、もう! 灯花!」
あの結界が通路を閉ざすのも時間の問題だろう。わたしはバックから手を抜いた。握ったグリーフシードを左手の中指に当て、追手に向けて放り投げた。
「ごめんね」
少女の目が見開かれる。穢れを吸い、限界を迎えたグリーフシードが孵化する。
「シット……!」
「にゃ!? 魔女……!」
その頃にはわたしは前に向き直り、急速に構築される魔女結界からの脱出を果たしていた。
路地裏に入る。ほっと息を吐きつつ、とりあえず現場から離れようと走った。
「はあっ、はあっ……」
「モキュッキュ!」
「んっ……大、丈夫。大丈夫。──落ち着こう。ちょっと動揺しすぎてる」
小走りで町の方に向かいながら急いで息を整える。思っていた以上に忘れられていたことが精神に響いている。震える手で横髪を撫でつけるように耳にかけた。その手の甲を慰めるようにキュゥべえが頬でこすって、余計に苦しくなる。目の奥が熱くなって、地面の凹凸がぐちゃぐちゃのマーブル模様を描く。
呼吸が落ち着かない。立ち止まって何度も深呼吸をする。あの灯花の眼差しを思い出すと、そんな資格も無いくせに、胸のなかからじくじくと負の感情が湧いてくる。わたしは波打つ心を均して、必死に機械的な考え方をしようとした。
「冷静に。冷静になろう。大丈夫。わたしの夢は叶う。姉ちゃんも灯花も生きてる。まだ誰も手遅れだって確定していない。前を向け。前を向け。前を向け。やれることは、充分にある」
どくどくと胸が騒ぎ、嫌な想像だけが頭の中で膨らんで思考回路を圧迫する。根拠の無い大丈夫を重ねた。そう思わなければやっていけない。
なんとか不安を切り離そうと苦戦していたそのときだった。
「っ!」
ぞっとしたものがうなじを舐めた。ほとんど反射的に飛び退くと、ちょうどわたしの右手……キュゥべえがいた位置に、緑色の閃光がよぎった。
すぐさま変身し、追手に向けて構える。
「モッキュ!?」
小暗い道の奥から足音が響いてくる。ぬうっと姿を現したのは、手元にルービックキューブのようなものを浮かばせた高校生くらいの魔法少女だった。面立ちに外国の血を感じさせる。色白で、長い緑髪を背中に流し、首元にはソウルジェムが輝いていた。さっき灯花と合流した少女だろう。
「へぇ、今のアボイドするんだ?」
間違いなく手強い相手だ。素質で完全に負けている。因果律が灯花クラス。わたしの強みである魔力量もあちらのほうが上。
必死に頭を回す。相手のパーソナリティを見抜こうと一挙手一投足に視線を走らせる。息がつまり、緊張が最高潮に達する。
この距離だと、逃げるのは難しい。
「やってくれたヨネ。でもああいうやり方もあるってラーニングできたから、ソイツを引き渡せば許してアゲル」
「……どうやって脱出したの」
「アリナの固有魔法は結界生成。つまり結界のエキスパートってコト。魔女がクリエイトした空間をぶち抜くくらいわけないんだヨネ」
自負心がある。魔法を開示したのは、キュゥべえを殺すのも、わたしを捕まえるのも容易いと思っているからだ。そしてそれは、正しい。こっちだって出し抜くビジョンが思い浮かばない。孵化直前のグリーフシードは使い切ってしまった。
返事の代わりに、わたしは目を細める。攻撃の躊躇いの無さも気になった。あれはたぶん、わたしごと撃ち抜いても構わなかったんだ。灯花とつるんでいるようなら魔法少女の真実を知っていると仮定しよう。ソウルジェムさえ無事なら、魔法少女は心臓が破けても、頭を潰されても回復する。灯花の指示は守れる。
「キュ」
小さなキュゥべえが、フードの中に潜って、わたしの後ろに隠れた。
「……お願い、見逃して。キュゥべえが邪魔なら連れて帰るし、この町の情報は漏らさない。約束する」
「……フーン?」
少女が片眉を跳ねる。
「そんなにそいつが大事? キュゥべえとかキルしようがブレイクしようが、どこからでもポップするのに?」
「…………この子は、キュゥべえじゃない」
因果量と立ち振る舞いからしてなんらかの分野に才能がありそう。所感だけど、ういと姉ちゃんに会って間もない頃の灯花とねむに似ている。同情はあまり通じないタイプ。だから、まず、興味を引くべきだと考えた。こういう天才は下手にお涙頂戴をするより、ひとまず手を引くべきだと思わせる価値を示すほうがよく効く、し。対話に持ち込める。
問題はわたしが齎す情報が既知のものである場合だけど……幸い少女は手を止めた。路頭の石に向ける関心の無い目が、少しだけ真剣味を帯びる。
「体の中にソウルジェムがある。この子の正体は魔法少女だ」
「アーユークレイジー? アリナのインタレストが欲しいならもっとマシなトールテールを聞かせてヨネ」
「嘘じゃない。これがただのインキュベーターだったら、わたしだってこんな必死に守らないよ」
「そ。……で?」
少女がさも胡散臭そうに目を細め、わたしたちを睥睨した。
「トークは終わり?」
「──……」
「その顔、その目。アリナをコントロールしようって態度が気に食わない。ハッ……バレてないとでも思った?」
少女の唇がいびつにつり上がる。
……駄目だ、この人。なんか駄目だ。
根本的に相性が悪い気がする。滴るような悪意を感じる。その目が、その視線が……人を人と思っていない。自分の世界に自分一人しかいない。
「癪だけど、確かにそのキュゥべえは気になるワケ。だから、アナタの目の前でソイツをディセクションしてアゲル。ひとつひとつ、丁寧に……アハハッ、ちゃんと泣き叫んでアリナのこと満足させてヨネ!」
猛毒を思わす甘い痺れを帯びた声が、高らかに響いた。
少女がルービックキューブを掲げる。打ち上がったキューブが上空で星のようにまたたいた。迸る光の雨と魔力の濃さに臓腑が冷たくなる。少女が弾丸のごとく駆け出し、迫る。
わたしは後退しつつ、ぐんと左手で糸を引き寄せた。蜘蛛の糸ほど細い魔法の糸が路地裏に張り巡る。光に照らされた糸が刹那、稲妻のように空間にひび割れをつくった。
弾けた雨粒がせっかく張った糸を焼く。雨はやまない。馬鹿げた魔力量……!
千切れた糸を操って少女の足止めをしようとするけど、彼女はまとわりつく糸くずが肌を傷つけるのも構わず、徒手状態でわたしに向けて腕を伸ばす。右手の糸を鞭のようにしならせて牽制しようとして、わたしはまた左手の糸を引っ張った。ぐんと体が横に引っ張られる。自分の体にくくった糸により、わたしの体は不自然に飛んだ。
わたしがいた場所が、べこっと凹む。突然正方形の透明な箱が現れたような、でたらめな光景だ。ガラスの箱は脈絡もなくねじれ、弾け飛んだ。咄嗟に顔を庇う。結界の断片が腕をずたずたに切り裂いていく。灼熱の痛みが吹き荒れる。
強引な回避の結果、わたしは地面に倒れ伏した。黒いブーツのつま先が鳩尾に入りかけ、寸前で糸を引く。背中を引っ張られ、なんとかバックジャンプを成功させる。
息もつかない。光の雨が再度路地裏の闇を照らす。緑色の流星がわたしを的に走ってくる。糸の強度を上げ、その閃光を切り落とす。糸も焼け落ちるが、閃光は上下に裂け勢いを落としていく。
「……っ」
「キュゥ……」
対人戦は苦手。遊ばれているのがわかる。攻撃を凌ぐのが精一杯。悔しい。とても、悔しい。
全身がきりきりと痛む。ソウルジェムが悲鳴をあげている。
「決ーめた」
少女の背後に、無数に正方形の箱が浮かび、輝く。光線が量を増す。砂塵が舞い上がる。光に焼かれて視界が使えない。わたしはひたすら、魔力の気配を探って糸の鞭で光弾を切り落とすしかできなかった。
「ドッペルを使わせてアゲル。アハァ……マジックガールが絶望する瞬間って、ホントゾクゾクしちゃう……」
不意に、弾幕が止まった。
ヒュンっと、糸が空白を打つ。目の前が残像で覆われ、わたしは一瞬硬直した。
焼けるように足が痛んだ。
「え、あ」
後ろ、から?
長く扱ってきたせいか治癒魔法は得意だった。優先して回復した視界が、確かに前方から光を放たれたのを見た。その光に向けて糸を振るったのに、光が消えて……脇腹を熱が焼く。自分の背に一瞬、割れた空間が見えた。
「そういう!」
結界の入り口を前方に、出口を後方に作って光線に擬似的な瞬間移動をさせている。徐々に肉を削ぎ落としていくつもりか。わたしが体の傷を繕っていくのを見て、少女の笑みが深まっていく。治りきらない内に次の攻撃がくる。こいつ、わざとギリギリを……!
「この、猟奇趣味……!」
「ハァ? アリナにそういうプレファレンスはないんですケド。アリナがライクなのは生物の生と死。中でも人間──魔法少女の
青白い肌を薔薇色に染めて、陶酔したように少女は溜め息とともに囁いた。常軌を逸した言動にゾッとするよりも、その台詞にドキリとした。人を魔女化させることを躊躇わない素振りが、まるで。
足がとまる。驚いて目を向けると、左の膝が透明な緑の立方体で固定されていた。関節を固められて体が不自然に硬直する。
「ああ、安心して? あのキュゥべえはディセクションしたあとデリートするカラ! アッハハハ!」
結界を払おうとした腕が固定される。ひたいからどっと冷や汗が吹き出る。
うなじでキュゥべえがうずくまっている。
死神の鎌の冷たさを首筋に感じた。
どう、しよう。どうしようどうしようどうしよう。死んじゃう。死にたくない。頭がまっしろになる。ちゃんと考えなきゃいけないのに。冷静に。冷静にって、言葉だけが、ぐるぐる、ぐるぐる、頭を回る。
やだ、いやだ、まだやらなきゃいけないことがある。灯花とねむを、魔法少女から人間に戻して、ういのことも見つけて。姉ちゃんを、姉ちゃんを助けなきゃいけない。
ワルプルギスの夜だって、
ルービックキューブが悪魔の輝きを見せる。閉ざしそうになった目蓋を、必死に開いた。目を閉じるな! 体が壊れたって魔法少女なんだからソウルジェムが無事であれば生きていられる。思考する。諦めない、わたしは絶対に諦めない。いっときの痛みなんて噛み潰せ。
………………姉ちゃん。祈るように、いろはのことを想った。
一瞬が、ひどく。ひどく、間延びした。
誰かが走ってくる音と、何か鉄を引きずる音が、束の間の沈黙に挟まれる。
キューブが電気を落としたみたいに、ばちんと光を消した。少女が身を躱す。少女がいた場所に、金色に光る用紙のようなものが何十枚も押し寄せ、竜巻のように凄まじい音を立てて巻き上がった。
やがて渦巻いていた風が消え、用紙が花びらのように散っていく。もうもうと立ち込める砂埃の中から、激しい呼吸の音を聞いた。ちゃき、と金属が鳴る。ず、ず、とアスファルトを削る鉄の音がする。
長い緑髪が靡く。狂った哄笑が嘘のように少女の横顔からは表情が抜け落ちている。見開かれた翡翠の目が、ぐりんと不届き者を顧みた。
現れたのは、長い亜麻色の髪を持つ魔法少女だった。アカデミックドレスを思わせる衣装を着こなしており、黒いマントが翻るさまは外見年齢の幼さを忘れる静かな知性を感じさせた。片足に鉄球がついた枷を嵌めていて、どうやら聞こえてきた金属音の正体はこれだったらしい。
彼女は左手に角帽を抱き、もう片方の手に大きく分厚い本を浮かばせている。開いた本がみずからページをめくり、何枚か剥がれ、明らかに攻撃的な意志を持って緑髪の少女に向け空中に並んだ。
「──なんのつもり?」
少女が発した低い声に、彼女は答えない。必死に息を整え、真っ青な顔に汗を垂らしながら、こちらを見た。
「ゆめお姉さん……!」
血を吐くような声が路地裏に響いた。
彼女は、磨き抜かれたアメジストの目をしている。
灯花がああだったから、期待なんてもう欠片もなかった。ういがいなくなり、里見メディカルセンターに通っていた過去が無くなっている今、わたしたちが知り合うはずがない。あんなに妹を溺愛していた姉ちゃんでさえ忘れていたんだから、わたし以外覚えているわけない。わたしが覚えてるのだって、ういが大切だからという理由だけでなく、ある魔法がかかっているのが原因だ。
だから、わたしをそう呼ぶ人は、いないはずなのに。
呼吸を止めて、わたしはその子を見た。
いつか【記憶】の中で、彼女と同じ顔を持つ少女が慕わしげにわたしに微笑む。
「忘れないで」と小指を結んでくる。
痩せ細った体。
土気色の肌。
抜け落ちる髪。
ミイラのように痩けていく顔のなかで、アメジストの目だけが瑞々しく輝いていたのを“覚えている”。わたしだけが覚えている。
彼女は、【記憶】の少女ではない。でも、わたしに忘れないでといったその人が、この世界では覚えてくれていたことに、なんていう巡り合わせだろうと思った。
震える唇を開く。
「ねむ?」
彼女は、柊ねむは、くしゃりと顔を歪めて頷いた。
あさき『ゆめ』みし
から名前が来ています。マギレコに同じ音の苗字を持つ子がいますが普通に無関係です。
名前被り避けたかったのですがいろは唄縛りは流石に厳しくてこうなってます。
〈環ゆめ〉
自分がみんなを助けるんだ! と使命感に燃えている光属性の魔法少女。14歳。
対人戦がやや苦手。
環姉妹の中では一番魔力が多く、やちよくらいはあるが、灯花・ねむ・アリナには及ばない。
〈柊ねむ〉
宝崎市でいろはお姉さんと穏やかに暮らしているはずのゆめお姉さんが(一応)味方のクレイジーサイコアーティストにリョナられていたときの心境を百文字以内で答えよ。