環姉妹の真ん中っ子 作:匿名
誤字報告ありがとうございます。
荒い呼吸音が路地の壁に打ち返ってくる。疲れ果てたように項垂れたねむは、依然として本のページを少女に向けながらも、唸るように言った。
「……アリナ。ゆめお姉さんを離して。今すぐに」
アリナと呼ばれた緑髪の少女は、物珍しそうにねむをじろじろ見つめたあと、こちらに向けてさっと手を振る。
「埋め合わせはちゃんとしてヨネ」
手首や膝を自由になる。直前まで結界を振りほどこうとしていたのもあり、わたしはバランスを崩してたたらを踏んだ。たったそれだけの出来事なのに、ねむはハッと顔を上げると大慌てで駆け寄ってくる。
「お姉さん!」
手元の本が消し、ねむがわたしを抱きしめた。気づかれないように乱暴に目元を拭う。傷の痛みで生理的に涙が出てきただけなんだけれど、ねむの前で少しでも泣いているところを見せたくなくて。
「お姉さん、怪我は」
「……平気。治療は得意だから」
華奢な手が肩に回される。それをやんわり押し退けながら、裂けた脇腹を閉じていく。瞬間的に多くの魔力を放出するのは苦手だけど、こうしてゆっくり使っていく分には、そんなにソウルジェムに負担がかからない。
というか、わたしのことなんてどうでもいい。ねむこそ死人の顔色をしている。息も絶え絶えといった様子で、魔法少女になったのなんて嘘みたい。いまだに体を病んでいるように見えた。
青い頬に触れると、ひどく冷たい。すべり落ちる汗を指で拭い、張りついた髪を耳にかけてやる。いつか悪夢に魘されて飛び起きたわたしに、姉ちゃんがそうしてくれたように。
「……体を壊してるの? それとも……」
魂を。
「気にしないで。ゆめお姉さんが思い煩うことなんて、一つもないから」
「……そんなのねむが決めることじゃないよ」
「そうだね。でも、あなたも全てを知れば、僕と同じ結論に辿り着く。僕のこれは当然の代償だ」
「どういう……」
ねむの体が離れる。彼女の白い指が頭の横でくるり。回転すると、亜麻色の髪がいくつかの毛束に分かれ、意志を持ったかのように編み込まれていった。
二つくくりの三つ編みを耳の上で結い上げた姿は入院時代のものと似ている。だというのにその面差しはずっと大人びていて、わたしは息を呑んだ。死期を悟った人間の顔だ。
問い詰めようとしたわたしの言葉の先は、乱暴に打ち鳴らされる足音が掻き消した。
「ちょっと! どういうことか説明して、ねむ!」
わたしが孵化させた魔女はかなり弱い個体だった。あの空き地にいた魔女を難なく討伐してみせたらしい二人が遅れを取るはずがない。駆けてきた灯花と、その後ろを歩く女性にこっそり安堵の息を吐く。
穢れを限界まで溜めたグリーフシードは、他の魔法少女と揉めたとき逃げられるように一つ常備している。とはいえ相手を殺したいわけじゃないから、足止め用のグリーフシードには弱い魔女を選んでいた。
……けしかけたのはわたしだけど、怪我がなくてよかった。
「……そうですね。こうなれば、ワタシも色々と聞いておきたいです。彼女は知り合いなんですか?」
ねむは無言で、腕をわたしの背に回す。細く柔らかな髪が頬に当たったかと思えば、ねむの目が押しつけられた肩口が、かすかに湿る。背中に触れる手が震えていて、布越しに肌に触れる吐息は熱い、気がした。
「僕は罪を犯している」
弱みを見せたのは一瞬のことで、彼女はわたしがまばたきする間に平然と灯花のほうを振り返り、角帽を被り直していた。わたしからはねむの背しか見えないけれど、灯花と女性の顔が怪訝そうなものから変わらないのを見て、うまく表情を取り繕ったんだろう。……一方で、アリナという少女は目元を弓なりに歪ませている。
「あんな弱い魔女にドッペルまで使うなんてありえない……! その人、ねむの家族か何かなの? でも、入院してたときからの関係じゃないよね? わたくし見たことないもん」
赤みがかった茶色の目が、つっけんどんにわたしとねむを交互に見る。
灯花と会えたこと自体は本当に嬉しかったけれど、ういの存在が消え、魔法少女の解放という得体の知れない計画が立ち上がっている現状、記憶の無い灯花に下手な言葉はかけられない。小さなキュゥべえを守りたいのもあったが、情報不足の立場で今の灯花に相対したくなかったから逃げ出したのだ。なのに追いつかれてしまった。
とりあえず、黙るのはよくない。何か言わなければと口を開こうとして、ねむの手がわたしを遮るように持ち上がった。
「……灯花と入れ替わりになったからね」
「入れ替わり?」
「あの大部屋には、灯花が来る前に僕と同い年の少女が一人いたんだよ。病状が悪化し、部屋を移ったけれど……昏睡状態にまで陥ったのに、少し前に、奇跡が起きた。突如として少女は目覚め、体からは病が消え去ったんだ」
「……契約したってこと? まぁ、確かにキュゥべえなら昏睡状態だろうが植物状態だろうが、脳さえ死んでいなければテレパシーを介して語りかけることは可能だと思うけど」
「契約したのはその子の姉。彼女には姉が二人いてね。末の妹が快癒するように祈ったのは、長女のほう。下の姉……ゆめお姉さんが何を願ったのか、僕は知らないけれど」
溜息が落ちる。
「灯花。君は本当に、ゆめお姉さんに何も感じるものはない? 既視感は覚えない?」
「だーかーらー、わたくしはこの人のことなんて知らない──」
「いいや、君は知っているはずだよ。少なくともこの魔力を」
「……魔力? それなら待って。それなら………………確かに、何かへんって……思って……はじめて会ったはず……」
灯花が視線を落とし、それから、ぱっと跳ね上げた。
「くまさんのキーホルダー!」
「正解」
一瞬なんのことかと思ったけれど、すぐに理解した。そういえばキュゥべえと契約を交わしてしばらくした頃に、テディベアのキーホルダーを妹たちに作って渡したことがある。まさか、キーホルダーがまだ残っているの?
あれは魔力で編んだものだから、役目を終えるか、わたしが死ねば消える。最後に魔力の補充をしたのがいつだったか正確には思い出せないけれど、少なくともういを忘れたことに気がついた三週間前よりもっと前だと思う。わたしたちの関係消滅も相まって、とっくに消えてもおかしくない。
灯花がサイドテールの編み込みを指でなぞりながら、表情に納得の色を浮かべる。
「じゃあ、ねむが仲良くしてた魔法少女ってこの人のこと?」
「そう。……まさかこんなかたちで再会するとは思っていなかったけれど」
ねむが語っているのは、彼女とわたしが知り合いなのを正当化するためのカバーストーリーだろう。ねむと灯花の距離感でお互いの友人関係を、それも退院前からある交友関係を見逃すほうが難しい。灯花があの病室にベッドを置く前に知り合ったというのはうまい理由づけだと思った。わたしじゃ全然思い浮かばなかった。……でも。
強い不安感に襲われるのは会話の着地点が見えないからか。ねむと知り合った経緯は理解を得られるとして、わたしが小さなキュゥべえを庇い立てしたことを突っ込まれると、どこまで説明したらいいかわからない。こうなってくると、アリナという人に対し、キュゥべえの中身を言及したのは大きな間違いだった。
あれ、そういえば、首の裏に重みや熱を感じない。うなじに触れ、次にフードの中身をまさぐる。小さなキュゥべえがいない。
「……話はまとまりましたか?」
差し込まれる女性の声に耳を傾けながら、わたしはマントの内側や袖の下を覗き、周辺に視線を巡らせた。いない、小さなキュゥべえがいなくなっている。
「ああ。ごめんね、みふゆ。随分待たせてしまって」
「構いませんよ。あとでワタシにも詳細を聞かせてもらえれば、とは思いますけど……」
「もちろん。……どの道、お姉さんが神浜に来てしまったのなら仕方がない。僕がお姉さんに用意できる選択肢は二つしかなく、どちらを選ばれようが、結末は変わらない。みふゆ、君の考えは杞憂だと言っておくよ」
「ねむ……?」
女性の言葉に、ねむは答えなかった。わたしはねむの言い方と態度に不穏なものを覚え、一旦キュゥべえを捜すのをやめて前に向き直る。
ねむが灯花と女性から顔を逸らし……つまらなさそうにこちらを観察していたアリナのほうを向いた。
「アリナ。君の望むウワサをつくってあげる。それで、今回の件は手打ちにしてほしい」
「…………オーケー。その条件ならアリナも文句は無いワケ。でもねむ、珍しいヨネ? いつもカルムなアナタがそんなにアングリーなんて。まるでオヒメサマを守るナイトみたい……」
アリナが目を細め、唇を吊り上げた。まっかな舌が、ずるりと上唇を這う。咄嗟にねむの前に出た。上気した頬はひどく扇情的で、同性の自分でもどきりとするほどの色香が漂っていたのに、見ていると異様な寒気がした。
「……そういうのが一番萎えるんですケド」
ねむを舐めるように見ていた目が熱を無くす。表情が冷め、顔がそっぽを向いた。
「お姉さん」
「……ごめん。出過ぎた真似をした」
ねむにはねむの交友関係がある。彼女を昔から知っているとはいえ、納得の上で結んでいる関係にわたしが口を出す権利は無い。
それはそれとして、アリナという人がねむや灯花と関わりがあるのが、わたしは嫌だった。先ほどわたしは彼女とねむたちが似ていると評したけれど、それは違う気がする。ねむと灯花が時おり人心の動きに対して疎いような素振りを見せるのは、病院育ち故の心の幼さと生まれついての知能の高さが、身内ではない人間を写真のように見せていたからだ。目の前の人物が同じ人間という種族なのは理解できる、だが徹底的に話が合わない。自分の話す内容についていけない人間ばかりの世界で、理解者の足りない世界で、彼女たちは知識だけが友人だった。他は全てNPCのようなものだった。ういという、人間のいる世界へ連れ出してくれる友人に心開くまで、二人はずっとそんな目をしていたのだ。
ねむと灯花の酷薄にも感じられる冷徹さは幼さが理由の大半を占めていた。だけど、アリナは違う。彼女の人格がどういうふうに形成されたかは知らないけれど、彼女はブレーキをかけるべき場面で自覚的にアクセルを踏む人間だ。誰のせいにもせず、みずからの意志で、そうする。尋常ではない人。
振り返り、わたしはねむと見つめ合った。ねむの目はでしゃばりで迷惑な知人に対する感情は込められていなくて、ほっとする。
「ねむは……」
どこまで覚えているの、と質問を絞り出す。妹のことはほぼ間違いなく覚えていると思う。確認に走ったのは彼女の口から直接ういの名前を聞きたかったのと、妹の行方を知っている可能性にかけて気が逸った。何が起きているのか少しでもいいから知りたかった。それでいて知るのが怖くもあった。
亜麻色の睫毛が伏せられる。揺れる宝石の瞳。やがて何かしらの覚悟を固めたのか、ねむが白く薄い目蓋を上げた。
「ゆめお姉さんが神浜に来た理由はわかっている。妹さんを捜しに来たんでしょう?」
「そう……だけど」
心臓の音がうるさい。ねむの言い方に、凄まじく嫌な予感がした。知らなければ、という勇気より、知りたくないという恐怖が勝りかける。
日陰の中だと、ねむの持つ色彩の儚さが余計に際立って見えた。光に透けると琥珀色に見える髪や、病的なほど白い肌が、薄闇にぼんやりと浮かび上がる。細い立ち姿は亡霊のようなのに、その目だけが色鮮やかで網膜に焼きつく。
ねむは言った。
「妹さん……環ういは、僕の目の前で魔女になった。もう、この世界にはいない」
僕は罪を犯していると。
「ごめんなさい、お姉さん。僕があなたに報いる方法は、最早これしか残されていないんだ」
違和感がある。ねむの罪は、過去形ではなかった。終わった話じゃなかった。
それに、こういう……やけに感情を乗せて彼女が台詞を吐くときは、決まって人を誤解させようとするときだ。普段よりほんの少しだけ芝居がかって聞こえるのは。何度か騙されたから知っている。ねむだってわたしが違和感を覚えることを知っているはずだ。こんなことを思うのは、わたしが彼女の言葉を認めたくないだけなのだろうか。
ただ。このときは、思考した時点で負けだった。
ねむが一歩あとずさる。その手に本が開かれていると認めたときには、全てが遅かった。
ねむの魔力が、防壁となってわたしをつつんでいた。
「ねむっ!」
壁を叩く。無数の札が貼られた透明な障壁は、びくりともしないどころか僅かな振動すら伝わらない。わたしは右手に魔力を集中させ、糸で武器を編み込んでいく。この障壁を突き崩せるほどの魔力を武器に乗せようとして、ねむの結界の上から新たな箱に覆われたことに気がついた。
「……っ!」
アリナの結界だ。示し合わせたように行動が早い。頭の中にさっきの二人の掛け合いがよぎる。
──「アリナ。君の望むウワサをつくってあげる。それで、今回の件は手打ちにしてほしい」
──「…………オーケー。その条件ならアリナも文句は無いワケ」
返答に間が空いたとは思ったのだ。その間、アリナは視線をねむに固定し、嫌そうな顔をするどころか無表情だった。二人とも自分の考えていることを赤裸々にするタイプではないと見ているけれど、それにしたって悩む素振りがなさすぎた。わたしが読み取れないだけかとも考えたけれど、もしかしてあれは、二人がテレパシーで何らかの相談をしていたのでは。
だが、思い当たっても、聞く時間が残されていない。アリナの結界、ねむの障壁がともに収縮し、世界が遠ざかっていく。代わりに闇が押し寄せる。
「待って、まだ話が終わってない!」
追いかけて叫ぶけど、ねむは静かにわたしを見つめるだけだった。その唇が謝罪の言葉を紡ぐ。声の無い、一方的なごめんなさいが本当はどういった意味を持つのか、わたしはまだ聞いていない。
外が小さくなっていき、やがて結界内部は完全な闇につつまれた。魔法がかかっていたのだろうか、思考回路もその瞬間に、不自然に鈍くなった。
頭が重くなり、目蓋が落ちていく。結界を壊さなければならないのにそんなことも考えられず、体が夢の海に沈んでいくことに、ひたすら絶望した。
◆ ◆ ◆
最初に死んだのは姉ちゃんだった。
雨が降りしきる中お見舞いに行って、信号無視した車に轢かれて死んだ。姉ちゃんの体は人気のない道に打ち捨てられていたらしい。そこを通れば、いつも使う道より早く駅に着けるというのは姉ちゃんがわたしに内緒で教えてくれたことだった。
──「ここは人が少なくて危険だから、通るときは一緒に通ろうね」
もっと早く通報されていたら助かったかもしれない、即死じゃなかったって母さんがずっと泣いてた。
わたしはそれを聞いたとき、あまりにも馬鹿げた考えだけど、時間を巻き戻さなきゃと思って、じっと時計を見つめていた。念じていれば進み続ける秒針が巻き戻る気がしたのだ。時間が不可逆というのをそのときは全く信じられなくて、わたしは自分の部屋に戻ってからは、ずっと部屋中の時計の秒針を左向きに回していた。逆巻くのに飽きてからは神様に祈った。その瞬間だけはわたしは世界の誰よりも敬虔な信徒だった。時間を戻してほしい。そうしたら今日は絶対にわたしもお見舞いに行く。いつもの道を通ろうって、ういたちにお土産でも買っていこうって言う。学校にだって行く。お手伝いももっとちゃんとする。頼み事されてもウザがったりしない。お願いだから時間を巻き戻してほしい。もし姉ちゃんと違う道を通れたら命だっていらない。
でも神様はいなかった。
白い妖精も来なかった。時間はまっすぐに進んだ。
わたしの頭の中はずっと雨が降っている。これは夢だ。だってわたしは姉ちゃんが死んだところなんて見てない。サアサアと音を立てて雨粒が姉ちゃんの体を打つ。血の気の失った肌。枯れた唇。青黒い隈。見開かれた目は濁っている。ぶちまけられた血液がアスファルトに染みていく。
乾き切った笑いが体が痙攣させた。
あー、記憶が混ざってるな、これ。
姉ちゃんが死んだのは放課後だからお弁当箱を三人分も持ってるはずがないのだ。割れたプラスチックの箱からご飯が泥まみれになってこぼれ落ちている。そこの潰れた卵焼きはわたしが作ったんだよ。お見舞いに行く勇気がまだ持てないから、せめてこれぐらいはやりたかったの。
即死じゃなかった。姉ちゃんはこんなところで、苦しみながら一人ぼっちで死んだ。
わたしは学校にも行かず、お見舞いにも行かず、部屋でぬくぬくと姉の帰りを待っていた。
わたしが妹たちから姉を奪った。なぜならこれは防げた事故だった。わたしの怠慢で姉の命は永遠に失われた。
「姉ちゃん」
「お姉ちゃん」
「いろはお姉ちゃん」
早く帰ってきてよ。わたしずっと待ってるよ。すっごく泣いちゃってるよ。こんなにも泣いてたら死んじゃうよ。
わたしが呼んだら絶対に応えてくれるのに。わたしが泣いてたら、すぐに駆けつけてくれるのに、二度とあの人は帰ってこなかった。
◆ ◆ ◆
「────ン!」
「──ミャン!」
「ヒュメミャン!」
目を覚ましたら魔女の使い魔がゼロ距離で顔を覗き込んでいて、わたしは声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。
「な、何何何何……」
「ヒュメミャンホニミャミョー」
「ホヒャミョー」
「ミョー」
「ヒュメミャン! ヒュメミャン!」
「何何何何何……」
体に乗り上がってくる使い魔を突き飛ばすように払いのけ、ソウルジェムを輝かせようとして自分が既に変身していることに気づく。わらわらとまとわりつく使い魔を乱暴に追い払いながら、もがくように柔らかなベッドの上を膝行った。
床に足を下ろす。やたら広い部屋に、わたしは寝かされていた。寝台の他に家具があれば、貴族のお屋敷のように感じたかもしれない。大きなアーチ型の窓といい、劇場の緞帳のようなカーテンといい……考えながら、わたしは窓辺に向かった。
「どこ、ここ」
「ハニョビョー」
意識を失う前の記憶は、ねむにしてやられたところで途切れている。つまり、神浜市にいたはずなのだ。
窓の外には平原が広がっていた。町が近ければ遠目にでも見えるはずのビル群や、起伏した地形の日本ではたいてい背景に映るはずの山々がどこにもない。
星で満たされた空には欠けた月が輝き、青白い光が、黒く翳った草の海を照らしている。地面までの距離を見るに、部屋の位置は相当高い。それでも魔法少女の身体能力なら窓からの脱出は可能だろう。
現実空間と地続きではなさそう。使い魔のことを考えると魔女空間が思いつくが、あの特有の穢れを帯びた力はソウルジェムに感じない。むしろこれは魔法少女の……ねむの、魔力だ。
血の気が引く音を聞いた。こんな。こんな魔力の使い方をして、平気なものか。ねむの因果の量は流石の天才性というべきか、わたしなんて足元にも及ばないほど膨大だ。それでも、こんな大きな洋館を造り、広大な空間を維持するなんて、負担がかからないわけがない。加えて、他に“何か”しているのは確定だ。ねむはアリナに、君の望む『ウワサ』をつくると言った。
そうだ、なんでそこをスルーしてしまったんだ。わたしは『ウワサ』というものをとてもよく知っている。入院時代に妹たち三人は、神浜市の地図を広げて噂話を創っていた。自分たちが死んでも、この噂話が残れば、自分たちを思い出してくれる人もいるだろうと。『ウワサ』は彼女たちの遺言だった。【記憶】のわたしに唯一残された、みんなとの繋がりだった。
奥歯を噛みしめる。自分の魔法が扱える埒外のものまで手を伸ばせば、ソウルジェムには相応の負担がかかる。命を、削ってしまう。自分こそがその類いの固有魔法の使い手だから、限界を超えて魔法を行使する危険性を身を持って知っていた。
最悪だ。なんで、どうしてこんなことに。ねむを失いたくない。ねむもういも。姉ちゃんも灯花も。もう充分に苦痛は味わったじゃないの。彼女たちが何をしたの? ただ生きたいって、生きてほしいって願っただけじゃんか。キュゥべえに祈ったことが悪かったの? それが罪なら教えてよ。キュゥべえに頼らずみんなが生きていける方法を教えてよ。
ぼたぼたと涙がおとがいを落ちていく。頬を濡らす熱があまりにも憎かった。
「役立たず、役立たず。この、役立たず……!」
ぐしぐしと涙を拭う。一番救いたいものが、救えていない。わたしはいつだってそう。
嗚咽しながら、夜空を睨んだ。毎夜、強制的にインストールされる【記憶】により、わたしの中にはあるはずのない経験が蓄積されていた。無限に湧く自己嫌悪と無力感を宥める思考の癖もその一つだった。絶え間なく絶望の波濤に襲われ、もう無理だと溺れそうになっても、わたしの頭はどこか隅っこで冷静な思考を働せている。憎たらしくもあるそこが、まだ魔女になるのは早いとわたしを此岸に縫い止める。
冷静に、冷静になれ。頭を動かせ。
「……れい、せいに」
ういが取り戻せなかった外を駆け回る足を。ねむが手放さざるをえなかった物語の続きを書く手を。灯花が見つけられなかった星を見つける目を、わたしはまだ持っている。だから挫けるわけにはいかない。こんなところで折れてたまるか。
姉ちゃんが夢見た未来への道を敷く魔法を、わたしは持っている。
状況を、整理しよう。
──「この神浜では魔女にはならない。わたくしたちマギウスがつくった自動浄化システムによって、魔女化っていう魔法少女にとって最悪の結末を覆せるの」
灯花と、恐らくねむはどういった方法かはわからないけれど、神浜限定で魔女化を回避するシステムを構築した。
──「自動浄化システムを世界に広げて、一緒に魔法少女を解放しよう?」
二人の目的はこれだろう。
魔女化をなくせば、グリーフシードはこれ以上生まれず、やがて魔法少女によって魔女は駆逐される。もう戦わなくていい、ソウルジェムの濁りも気にしなくていいというのは、まさしく運命からの解放だ。
新たな理を構築したのに等しい所業だ。願いと固有魔法無しでは成立しない。だからたぶん、ねむと灯花は魔法少女となる前から、ソウルジェムの秘密を知り尽くしていた。
普通なら、奇跡と対価だとしても短命が約束される魔法少女契約を交わそうなどと思わないだろう。よっぽどの事情がない限り。
病気を治すため? ねむたちは重篤な病に犯され、余命あと僅かといった具合だった。魔法少女となれば、姉ちゃんの祈りにより健康になったういと同じように……いや、それ以上に頑強な体を手に入れられる。もしも彼女たちの病が進行する一方だったとすれば、契約を踏み切る理由になる。
でも、それはありえない。なぜなら、二人の弱った体を、姉ちゃんとわたしが協力して魔法で治していたからだ。
ねむが話題に持ち出したテディベアのキーホルダーも治療の一環だ。あれには治癒魔法とちょっとした防御魔法を込めていた。既に快癒したういのキーホルダーには魔女に襲われても大丈夫なように防御に特化させた。持っているだけである程度は身の安全が保証される代物だった。
だから、健康な体を求めての契約はありえない。そんなことをさせるはずがない。キュゥべえからソウルジェムの秘密を吐かせたのなら、余計に魔法少女になるメリットなんて──……
「……あ」
──もし。もしも、彼女たちが願いを魔女化の回避のために使ったんだとしたら、それは、誰のため?
「あ、え……?」
優しい子たちだ。キュゥべえと会ったのならわたしたちが魔法少女なのは知られたはずだ。彼がその事実を使わないわけがない。
ういの存在が消える前に全てが起こったのだとしたら──いや、その契約のときに何かが起きてういの存在が消えたのだとしたら……彼女たちがキュゥべえに魂を差し出したのは、わたしの想定が甘かったせいだ。
冷や汗が全身を撫でる。体が恐怖で震え、呼吸が浅くなる。頭が痛い。
考えろ考えろ考えろ。
落ち着いて、冷静に。
ねむは、ねむが、何かを知っている。その何かを聞くまでは、全てわたしの想像でしかない。
鼓動が頭を揺らす。船の上にいるみたいに、地面が波打っている気がする。わたしは必死に深呼吸をした。人間なのに陸で溺れているようで、はたから見ればひどく滑稽だっただろう。
窓に手をつき、体を支える。ずるずると膝から力が抜け、腰が冷たい床についた。
──「環ういは、魔女になった」
──「僕の目の前で魔女になった。この世界にはいない」
──「環ういは魔女に」「もうこの世界には」
──「ういはいない」「魔女になった」「僕の目の前で」「この世界にはいない」「この世界にはいない」「この世界には」
──「この町のどこかには、桜の枯れ木があって──」
「ヒュメミャン?」
右腕を振り上げ、近寄ってきた使い魔をほとんど殴りつけるように手の甲で払った。
「ミ゛ッ」
「……触んないで」
てんてんと、扉のほうに転がっていったそいつを睨みつける。
それは鳥のような見てくれをしている。丸く白い顔に舷窓を貼り付け、ツバメの羽みたいな燕尾服を着ている。顔の模様や首元の飾りにバリエーションはあるけれど、かたちは共通しているので、同じ魔女を主に戴いているのだろう。
眠っているわたしに……こうやって完全に隙を晒していたわたしに攻撃してこなかったのは気になるけれど、所詮は使い魔だ。穢れから生まれた存在なんて、基本的に魔法少女にも一般人にも害悪でしかない。彼女らは存在するだけで精神に悪影響を与える。
気が立っていたのもあり、わたしはよろめきながらも腰を上げ、右手に魔力の糸を伸ばした。
「ヒュメミャン……」
仲間が魔法少女から攻撃を受けたというのに、部屋にいるそいつらは反撃しようともせず、遠巻きにわたしを見るばかり。蹴り飛ばされた個体はよたよたと起き上がって、なおもわたしに近づいてくる。その姿がうんと幼かった頃の妹と重なって舌を打つ。元となった魔法少女の姿を考えたくなくて、わざと苛立ちを燃え上がらせようとした。
今度こそ、深呼吸を成功させる。脳に酸素が巡る。体が反射的に戦闘状態に移ったせいか、思考を濁らせていた負の感情が遠のく。
わたしはまだねむの言葉を信じたくない。ういが魔女になっていないと信じたい。魔女になっていないのなら、まだ救える。
そうだ、落ち着け。ねむだって本当に命を削っているとは限らない。仮にそうだとしても手はある。
破裂しそうだった心臓が、冷静な音を取り戻していく。わたしは目の前の使い魔を見据え、アリナの放つ光弾にそうしたように、糸を振るってその体を切断しようとした。
前触れもなく、扉が開いた。振り抜こうとした腕を慌てて止める。
「……あら。目が覚めたんですね」
灯花と一緒にいた人だ。肩の上でふんわりと切り揃えられた雪色の髪を持つ、目鼻立ちの整った女性。変身はしていない。
魔法少女衣装に身をつつんで今にも右手を振り抜こうとしているわたしに彼女は目を瞠ったけれど、すぐさま友好的な笑みを浮かべた。物腰柔らかな態度で終止する一方で、立ち姿に隙は見えない。
「えっと……すみません、この子たちは無害なので、一旦武器を下ろしてもらっても……」
「……使い魔ですよ。魔法少女なら穢れが及ぼす影響を……」
「もちろん知っています。ただ、マギウスの翼にとって、この使い魔は必要なんです。魔法少女の解放のために」
お願いします、と女性は眉を下げた。
“魔法少女の解放”という言葉に心がまたささくれ立つが、目蓋を下ろし、呼吸に集中することでなんとか呑み下した。これは、八つ当たりだ。
……彼女の言う通り、確かにこいつらは眠っているわたしをいくらでも攻撃できたのに、集まってくるだけでなんの手出しもしなかった。わたしが攻撃しても、だ。穢れによる精神汚染以外は本当に無害なのかもしれない。
それに、わたしはまだ何も知らない。ここで敵対行動を取ってしまったら、『マギウスの翼』について知っているだろう女性から、欲しい情報を聞き損なうかもしれない。
目を開く。女性は穏やかな……内面をさりげなく隠すモナリザの笑みを唇に刷いている。
ゆっくりと腕を下ろし、だけど変身は解かない。警戒を維持していることは見ればわかるだろうに、女性は相好を崩した。
「ありがとうございます」
「……いえ。別に、信じたわけでもないので」
「だとしても、ですよ。灯花のことも、アリナのことも、ワタシは止められませんでした。あなたを想っているねむだって、強引な手段を取ったことには変わりません。……責められてもおかしくない立場ですのに、冷静に対応してくれたこと、感謝します」
……それは、違うと思った。
「なんとかしてくれようとしたこと、わかってます」
言ってから、上から目線すぎるかもしれないと気づく。けれど吐いた唾は飲めない。女性が目を丸くして、翳らせていた顔を上げる。
「魔法少女の真実を伏せようとしてくれてたし、あのとき、キュゥべえとわたしを見逃してくれようとしたのは、あなただけでした。ちゃんと、伝わってます。最初に、神浜の外からやってきたわたしを、ただ疑って排除するんじゃなくて……話を、聞こうとしてくれました」
続けるうちに自分でも何を言いたいのかわからなくなってくる。
ただ、この人に、自分が悪いのだとは思ってほしくなかった。暴走したのは明らかに灯花だし、危害を加えてきたのはアリナだ。灯花に関してはわたしの対応も悪かったわけだし……事の発端となった身としては、ずっとこちらを気遣ってくれていた彼女に自分を責めてほしくない。
ずきずきと顳顬を打つ頭痛に指を沿わせながら、わたしは、深く息を吐いた。
くすっと声が聞こえた。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると救われます」
女性が口元に手を当て、くすくすと肩を揺らす。その姿を見ていると、段々と体から寒気が消えていった。
泣きそうになるのをこらえ、わたしも彼女に合わせてなんとか唇の端を持ち上げる。救われたのはこちらのほうかもしれない。きちんと自分の思いを伝えられて、よかった。
女性はねむに言われ、わたしの様子を見に来たのだと言う。
「起きていたら、自分の元に案内するように言われたんです」
「ねむの、ところに」
「はい。お体は大丈夫ですか? アリナがかなり手酷くやったと聞きましたが」
「大丈夫です。治癒魔法は得意なので……」
だから平気だ。わたしは動けることを証明するように出口のほうへ足を踏み出す。ねむの話を聞く勇気は正直まだ持てないでいたけれど、いても立ってもいられなかった。
「ヒュメミャン」
「……」
「ヒュメミャン、ホメンメェ……」
「……」
そんなわたしの後ろを、使い魔が一定の距離を置きながらついてくる。眉根にぎゅっと力が入る。
「なんだか懐かれていますね……?」
「……普段からこんなんじゃないんですか?」
「ねむには割とよく近づいているところを見ますが、ここまでではありません。何か感じるものでもあるんでしょうか」
「……」
部屋を出る。閉じてすぐ扉が開き、使い魔が何匹かひょこひょこと現れる。
「案内をする前に、これを」
女性が差し出したのはグリーフシードと、金色の飾りがついたペンダントだった。
「グリーフシードはねむから預かったものです。魔力の使い過ぎと……眠るとき、いつも悪夢を見ているようだから、ソウルジェムが濁っているのではないかと懸念していました」
変身時、わたしのソウルジェムはフードの留め具の一部になっている。体を見下ろすとねむの予想通り、ソウルジェムは黒く淀んでいた。
「ありがとう、ございます……」
「お礼はどうか、本人に直接。それからペンダントですが、こちらは『マギウスの翼』の一員である証のようなものです。この館──ホテル・フェントホープ内には、ワタシたちの他にも魔法少女が集まっています。里見灯花、柊ねむ、アリナ・グレイら『マギウス』の掲げる“魔法少女の運命からの解放”という理念に賛成した魔法少女たちです。あとで説明しますが、活動内容が活動内容なので、ワタシたちは部外者にはどうしても警戒心を抱いてしまう。ないとは思いますが、はぐれてもいけませんし、フェントホープにいる間はペンダントを身につけておいてください」
「わかりました」
グリーフシードを使い、ソウルジェムから穢れを抜く。胸の内から悪感情を抜き取る行為は魂が洗われたように、えもいわれぬ快感が伴う。
だからこそ魔女の正体を知る者は、かつて自分と同じ魔法少女だったものに呪いを押しつけることに、罪悪感を持つのだろう。
わたしがペンダントを素直に首から下げたのを見届け、女性は言った。
「遅れましたが、自己紹介をしましょうか。ワタシは梓みふゆといいます。つい最近まで、神浜市西部の魔法少女をまとめる代表のようなことをしていました。今は、魔法少女解放組織──マギウスの翼として活動しています」
「西の代表……」
「ご存知ですか?」
「……噂を知っているだけです。わたしは、環ゆめといいます。宝崎から来ました。えっと……普通の魔法少女です」
「ゆめさん、ですね。素敵な名前です。……こんなことを早々にお聞きするのも心苦しいのですが……ゆめさんは、ソウルジェムの秘密についてどれくらい知っていますか?」
物憂げに梓さんはわたしを見つめた。
ここですっとぼけるには、魔法少女の真実を告げた灯花への態度があまりにも冷静すぎた。ソウルジェムの秘密はわたしの願い事にも関わってくるから、ねむに通じる梓さんに話したいことではないけれど、うまく誤魔化せる気もしない。
正直に知っていることを喋り、いつ知ったのか、とうやって知ったのかを聞かれる前に話を流すしかない。
「ソウルジェムが、魔法少女の魂そのものであること。だから、魔法少女はソウルジェムを砕けば死ぬ。ソウルジェムから100メートル離れると肉体とのリンクが切れる。代わりに魔力さえあれば、頭蓋を粉砕されても、心臓が破れても蘇生可能。けれど魔力を使い切り、ソウルジェムが完全に穢れたとき、そこから魔女が生まれる」
「……補足の必要はなさそうですね。そこまで把握しているなら、話が早い。本題に移りましょう。マギウスの翼について」
歩きながら話すことを選んだんだろう。梓さんが足を踏み出すのについて行く。
「『マギウス』というのは、ソウルジェムの自動浄化をシステムとして構築し、この神浜限定ですが魔女化の回避を実現させた里見灯花、柊ねむ、アリナ・グレイの三人のことです。ねむと灯花のことはご存知ですね? アリナは……」
「結界使いですよね。あの、緑色の髪の……」
「はい、彼女です。
先ほどゆめさんがおっしゃった通り、本来なら魔法少女が絶望すれば魔女になるしかない。ですが、神浜市ではソウルジェムが穢れ切っても魔女にはなりません。代わりに発現するのがドッペル・ウィッチ。ソウルジェムから切り離された穢れが、魔法少女の体の一部を乗っ取って現れる絶望の写し。その魔女としての力を行使することで、ドッペル消滅後、結果的にソウルジェムの浄化が果たされる」
「ドッペル・ウィッチ……」
灯花とグレイさんが言っていた『ドッペル』はこれのことか。
「実際に発動している現場を見るか、自分が使うかしないと信じられないとは思いますが……」
「いえ、大丈夫です。確かに使ってみないことにはなんとも言えませんが……とりあえず、神浜ではマギウスの三人によって魔女化は阻止されている、ということですね?」
「はい。そして、この自動浄化システムの要となっているのが、エンブリオ・イブ。灯花とねむが創り出した人工魔女──正確には“半魔女”です」
「半魔女?」
「灯花いわく、穢れなどの感情エネルギーを収集した結果、魔女としての形を取りつつあり、その過程の状態を半魔女と呼んでいるとのことでしたが……すみません、ワタシもまだきちんと理解できているわけじゃないんです。
エンブリオ・イブは感情エネルギーを回収し、宇宙に送り届ける習性があります。現時点ではイブが暴走しないよう、エネルギーの回収範囲をアリナが結界を張ることにより神浜内にとどめています。
これに、グリーフシードや感情エネルギーを食わせ、魔女となるまで成長させるのが、マギウスの翼の役割であり、目的です。イブが魔女化した際には莫大な相転移エネルギーが発生し、そのエネルギーを使って自動浄化システムを世界中に広げる。魔法少女が魔女にならなくなれば、必然的に魔女は消え、魔法少女は戦いの運命から解放される……らしいです」
「──……自動浄化システムを司るイブを魔女化させることで、神浜だけでなく世界にシステムを広げる。エネルギーを回収して宇宙に届ける、というのは、キュゥべえがやってること、ですよね? 確か」
「はい。キュゥべえの目的であり、魔法少女が生まれる原因である宇宙の熱的死への対処も行うことで、彼らからの干渉を避ける意味合いがあります。ただ、現状ドッペル解放で得られるエネルギーは、魔女化した際の相転移エネルギーを下回っているんです。この場合、効率の悪さを嫌ったキュゥべえに余計な手出しをされかねないため、イブの揺り籠である被膜にはキュゥべえを機能停止にする能力が付与されています」
「……あのツバメのような使い魔は、ひょっとしてイブの?」
「そうです。魔力を集める習性があります」
だから、手を出すなと言ったのか。マギウスの翼の魔法少女が部外者を警戒するというのも腑に落ちる。使い魔を見逃し、魔女を育てているなんて、何も知らない同業者からすると正気の沙汰ではない。
「つまり……凄く簡単に言うと、ねむたちがつくった、自動浄化システムは要となる半魔女がいる。これを完全に魔女にすることで、システムは世界に広がる。でもキュゥべえは自動浄化システムを邪魔に思うかもしれないから、計画が成就するまでは、神浜市全体を覆うグレイさんの結界がイブを保護しつつ、キュゥべえを排除している……?」
「はい、その解釈で大丈夫です」
「神浜に魔法少女や魔女が集まっていると聞きましたけど、それは」
「両者ともマギウスが呼び寄せています。魔女はイブの餌にするために。魔法少女のほうは、ねむの魔法を使って」
「……ねむ」
こぼれ落ちた横髪を耳にかける。ソウルジェムが浄化されたせいか、先ほどより思考が冴え、動揺を抑えつけられるようになった。それでも思わずにはいられない。
あなたは何を祈ったの? なんのために祈ったの?
姉ちゃんですら忘れ去ったういを覚えているのはなぜ?
彼女は、本当にわたしの願い事を知らないのだろうか。
梓さんの足が止まった。長い廊下の途中、どの部屋の扉も前にしていないことからここが目的地でないことは明白だったけれど、わたしはここで梓さんが立ち止まるのを随分前から知っていた気がする。
梓さんが振り返る。一つ一つの仕草がたおやかで落ち着きがある。町中ですれ違えば視線がつられてしまいそうな美貌の女性だけど、彼女の美しさの大元はきっと、洗練された振る舞いからくる気品なんだろうと、ぼんやり思った。
「マギウスの手足となり、魔女を育て、感情エネルギーを集めるのがワタシたち翼の役割です」
「……」
「今していることが、魔法少女の使命に反していることも、これまで魔法少女として守ってきた全てを裏切る行為だということも、ワタシはわかっています。それでも」
それでも、ワタシは死にたくないと、梓さんは言う。
「魔女になんてなりたくない。……普通の女性として生きていきたいんです」
「……」
「もちろん、魔法少女になっていいことはたくさんありました。願い事が叶ったこと。大切な親友と会えたこと。仲間とのあたたかな思い出。それら全て、なにものにも代えがたい、ワタシの宝物です。
……だけど、疲れてしまったんです。見捨ててしまった魔法少女がいる。救えなかった人間がいる。亡くした仲間がいる。……
暗がりに混じるような、儚げな白い顔に、ほのかな笑みが浮かぶ。
それは、思わず戦慄するほどに凄絶な微笑だった。彼女のいう“七年”という戦いの重みがそこにあった。
「マギウスがいなければ、ワタシは今頃魔女になっていました。希望だったはずの願いを後悔し、ずっと一緒にいたいと祈った大切な友人を妬み、恨みながら。ドッペルを発動したとき、自分の胸の中から噴き出すおぞましいほどの黒い感情を直視して、心の底から恐怖した。大好きな人を、心の支えにした思い出を……自分は、あんなにも呪えるのだと」
梓さんの言葉はわたしの胸を打った。
濁り続けるソウルジェムを見下ろした【記憶】がある。魔女を倒せば倒すほど、あんな醜く露悪的な怪物になりたくないと強く思わされる。
彼女の言う通り、恐ろしいのは、今とは全く違う自分になって、大切なものをそうと自覚せず、ぐちゃぐちゃに蹂躙してしまうことだ。
抗えないほどに憎悪に満たされ、世界の全てを、自分を傷つけてきた全てを壊したくなってしまう。そうやって今までの人生を無邪気に否定していく姿は、見るのも見られるのもつらい。
「ワタシがソウルジェムが魔法少女の魂だと知ったのは三年前。魔女の攻撃から盾となり、ワタシたちを守り抜いてくれた仲間の一人がソウルジェムを砕かれました。
そして、半年前。三年前の焼き直しが最悪のかたちで行われた。……また、仲間が死にました。魔女を倒すために、魔力を使い果たして……あの子は、魔女になった。
……ゆめさんは、魔女化を知ったとき……そして、魔女化を回避できると聞いたとき、どう思いましたか?」
問いかけに、すぐには返答できなかった。
答えに詰まったわたしが何かを言うのを、梓さんはじっと待ち続けた。涙など乾き果てたかのように揺らがない灰緑色の瞳が、かたく引き結ばれた唇が悲しかった。
わたしは梓さんの“七年”に思いを馳せる。過酷な戦いの日々も、背中を預け、信頼し合った大事な仲間が自分を庇い、ソウルジェムを砕かれたり魔女化したりする苦しみもわたしは知らない。わたしと梓さんの苦しみは別のものだ。それでも魔女化を恐怖する心は共感できた。
きっと梓さんはわたしに肯定してほしいのだと思う。
ここまで過去を明かしてくれたのはたぶん、わたしがマギウスの翼の目的を拒絶しにくくするためだ。特にわたしは、マギウスの一人であるねむに近しい立ち位置であると示してしまったから。そんな人間が魔女を育てることに否定的であれば、梓さんとしては心穏やかにいられないだろう。
波風立てず場を凌ぐのなら梓さんの心に寄り添った回答が正しい。わたしはこのあとねむと会話し、ういを見つけなければならないのだから、他人に構っている暇なんてない。わかっている。
だけど、梓さんの態度に──計算があるとはいえ、まっすぐに内心を吐露してくれる誠実さに、都合のいい言葉を吐き出してしまうのはあまりにも不誠実だと思った。
「魔女化のことは、最初から知ってたんです」
──ねむには内緒にしていてください。わたしはそう、喉から絞り出した。
これでよかったのだろうか。手に力が入って、スカートの裾がぐしゃっと皺になる。
あんな過去を初対面のわたしに話すほど覚悟を持った梓さんに、嘘はつきたくなかったんだ。
「魔法少女に、なりたいわけじゃなかった。でも、絶対に叶えなきゃいけない願い事があって契約しました。
……やるべきことが全部終わったら、魔女になる前に、ソウルジェムを砕くつもりだったんです。わたしは、わたし一人で全てを終わらせるつもりだった」
「……」
「でも覚悟とかかたちだけで。試しにソウルジェムを壊すふりだけしてみるんですけど、震えちゃって。怖くて怖くて、気づいたら武器を下ろしている。死にたくなんて、ないんです」
認めたくないけれど、わたしは臆病だ。大切な人たちのためなら命だって捨てようと思っている一方で、生きていたいと、生き残りたいと心が叫んでいる。その叫びに、ときどき抵抗できなくなる。
「魔女化が回避できるって聞いたとき、信じられない気持ちが大半だったけど……もし、なんのデメリットも無しに、自動浄化システムが働いているのだとしたら、わたしはそれに縋ってしまうと思います」
「……でしたら」
わたしを見つめる梓さんの目には、不安そうな色があった。自分のやっていることがおかしなことだってどこかで思っているけれど、肯定されたい。そんな、胸が苦しくなるような葛藤が見えた。
「でも」
わたしは、静かにかぶりを振った。
「ねむに聞かなきゃいけないことがある。それまで、自動浄化システムを信じるわけにはいかない。あの子の返答次第で、わたしはマギウスの翼に協力するか決めます」
「そう、ですか」
「……ごめんなさい」
「いえ、謝らないでください。確かに、少し残念に思ったのは事実ですけど……」
梓さんが、優しい苦笑を浮かべる。
「こんなにもまっすぐに向き合ってもらえると、
「……はい」
「あなたが志を同じくしてくれることを、祈っています」
そうして、彼女は廊下の先を指差した。
「この先をまっすぐ行った突き当たりに、ねむの部屋はあります。ワタシは少し用ができたので、ここを離れますが……一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫です。……色々と、ありがとうございました」
頭を下げ、梓さんが示す方向に足を進める。わたしの後ろをカルガモの子のように使い魔が続く。
しばらく行った先で背後から足音が聞こえ、少しだけ振り返ってみる。
梓さんへ、白いローブを着た二人の少女が駆け寄っているところだった。赤みがかった長い黒髪を持つ二人で、同じ身長、同じ顔をしている。双子なのだろうか。彼女たちが同時にこちらを見そうになったので、わたしは慌てて前に向き直った。
かすかに聞こえる話し声から耳を塞ぐように歩調を早める。
梓さんの言っていた通り、突き当たりには扉があった。他の部屋の扉より少し豪華な装飾が施されているのは、『マギウス』という立場故か。
わたしの中のねむは、聡明だけど寂しがり屋な女の子で成長を止めている。あの矮躯で人を導く姿は、あまり想像できない。
装飾を指でなぞる。いくらかの感傷を振り切るように、わたしは両開きの扉をノックした。
「ねむ。……来たよ」
わたしの声に答えるように、ぎぃっと音を立てて、ひとりでに扉は開いた。
青褪めた光が、つま先を濡らした。
〈梓みふゆ〉
ねむのことを知っている不審な魔法少女を別に無策で見逃したわけではない。
あとからねむから話を聞けばいい+魔力パターンを覚えた+あの時点で環ゆめに魔力でマーキングしているめちゃくちゃ有能な人。
マーキングは部屋に環ゆめを寝かせたときに外している。