環姉妹の真ん中っ子   作:匿名

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一蓮托生

 

 エンブリオ・イブがいる聖堂は地下にあるらしく。

 窓から降る青白い月光と、壁から伸びる黒ぐろとした影を右の頬に交互に浴びながら、わたしはねむに手を引かれて長い廊下を進んでいた。

 聖堂に充満しているという穢れで体調を崩さないように、わたしは解除していた変身を再び行った。おかしな気分になる。こうして手を繋いで歩くとき、いつもねむはパジャマを着ていて、わたしは制服か私服だった。魔法少女の衣装をまとい、使い魔を引き連れ、魔法の空間を歩くことになるなんて思ってもみなかったし、想像したくもなかった。姉ちゃんが魔法少女になったときでさえ、わたしは最悪の現実に世界を呪ったのだから。

 道中、ねむはマギウスの翼の暗部について、具体的な内容をぽつぽつと吐露していった。一般人をウワサに閉じ込めて感情エネルギーを回収していること。羽根たちにウワサを守らせ、グリーフシードを献上させていること。そして、育てている魔女がエンブリオ・イブだけでないこと。捕まえてきた魔女を、地下にある飼育槽で共食いさせたり、穢れを食わせたりしながら、イブの餌として育てているのだと言う。

 想像以上になりふり構わず、ねむは解放を遂げようとしている。あれだけ反対していた灯花の案を採用すると決めたときの覚悟はどれほどのものだろう。

 次いで彼女は、この洋館の物語を教えてくれた。

 

 ホテルフェントホープのウワサ。

 立ち直れないほどの絶望を経験した人を探し、幽霊船のように北養区の森の中をさ迷っているホテル。

 この幽霊ホテルに迷い込み、宿泊する者は、ここで最後の希望と出会うと言われている。

 

「このウワサはエンブリオ・イブを匿い、マギウスの翼に加わった魔法少女たちを受け入れる基地として創ったんだ。市外から来た魔法少女は交通費のこともあって、フェントホープを仮の家とする者も多い。あとは……家庭や学校に居場所のない魔法少女もそうだね。

 便利だけど、無闇やたらに魔法少女の行方不明者をつくってしまうウワサでもある。キュゥべえはいなくなった彼女らの足取りを追うだろうし、彼が他の魔法少女を焚きつけて神浜に火種を持ち込まないとも限らない。だから、滞在者の存在を外界から隠す、“宿泊者名簿”がフェントホープの機能の一つにあるんだ」

 

 ねむが片手に、光の鎖が巻かれた革装丁の本を生み出す。手帳ほどの大きさで、鎖は表紙に貼りついた錠に繋がっていた。錠からカチャリと音がする。鎖がシャボン玉のように弾け、誰の手伝いもなく本が開き、ページがめくられていく。

 

「この宿帳に名前を書かれた者は、マギウスの翼関係者以外から存在を忘れられる。ういのように、写真から姿が消えたり、使っていた家具が消えたりはしないけれど、行方不明になっても家族や友人から気づかれない。そして、名前をページから取り消せば世界はその人を思い出す。いなくなっていた間の記録の、適当な辻褄合わせをしてね」

 

 本の動きが止まった。

 そのページには名前が二つ綴られていた。

 『柊ねむ』と『環ゆめ』。

 

「ただ、魔法少女相手には効きが悪い。顔見知りの魔法少女に姿を見られると、その人には全てを思い出されてしまう。いろはお姉さんはゆめお姉さんがいなくなったことに気づいていないけれど、万が一いろはお姉さんが神浜に来て、あなたと顔を合わせてしまえば……彼女は、全てを思い出すだろう」

「いつの間に、わたしの名前書いてたの……ううん。いつ、書こうと決めたの?」

「……最初からだよ。ういが導いてくれたのかな。あなたは灯花と再会してしまったし、僕はうっかり『お姉さん』と呼んでしまった。僕とゆめお姉さんの繋がりや、灯花を癒やしていた魔法少女が誰か発覚した以上、あなたをマギウスの翼から逃がすことはできない。それに……いや、なんでも。

 あなたの名前はウワサの創造主である僕が管理している。この宿帳はみふゆと白羽根にも託しているけれど、彼女たちが名前の記入と削除ができるのは、自身と黒羽根のみ。ああ、みふゆは白羽根もだったかな。そんな彼女でさえ、僕たちの名前は見つけることすらできないようにしてある」

 

 繋いだ手に圧力がかかる。

 

「……わかった? いろはお姉さんに連絡しても無駄ということが。今のいろはお姉さんの認識では、あなたの呼びかけは無音のものになる。直接姿を見せるまではね」

「…………姉ちゃん。わたしのこと、ほったらかしにしてたわけじゃないんだ」

 

 スマホになんの連絡も届いてないのがショックだったから、理由がわかってちょっとホッとする。

 

「僕が言うのもなんだけど、最初に気にするの、そこなの?」

「だってあの人、すぐわたしのこと置いていくんだよ」

「どこかに行くのはゆめお姉さんじゃなかったっけ。いつも困ってたよ、いろはお姉さん。『ゆめは手を繋いでおかなきゃ、すぐにいなくなっちゃうの』って。……あのとき、ゆめお姉さんと手を繋ぐのが流行ったよね。覚えてる?」

「……」

「むふふ……っ。そんなにむくれないで。ういも灯花も、妹がいないから、お姉さんぶりたかっただけなんだよ」

「笑わないでよ。ねむだって便乗してたくせに。というか、はぁ……あの二人、わたしのこと絶対に“お姉ちゃん”って呼んでくれないよね。ういなんて妹だよ? 姉ちゃんとわたしで何が違うの」

「……もしかして、気にしていた?」

 

 笑うこともやめたねむの目から、気まずさと恥ずかしさで顔を逸らす。

 

「気にしてない。なんでかなって、思っただけ」

 

 くっ、とねむが喉を鳴らした。繋がれた手にさっきとは違う意味で力が入り、ふるふると揺れる。

 

「ういはね、『ゆめちゃんってお姉ちゃんじゃなくて、友だちみたい』って言ってたよ」

「……? …………?」

「落ち着いて、彼女なりの甘えだったから。いろはお姉さんに見せない、ちょっと悪い子の一面がゆめお姉さんになら出せたんだ。あなたはういにとって、身内と友人の狭間にいたから、きっと全力で感情表現できたんだよ」

「だ、だったら、いいけど。じゃあ、灯花はなんで……?」

「本当は僕が言及するのは良くないんだろうけど、こんなことになってしまったし……彼女のブレーキ役として、日頃から苦労させられているからね。少しくらいは教えてあげる。灯花のあれは彼女なりの自戒だ」

「自戒?」

「言えるのはここまで」

 

 ねむは懐かしそうな笑みを浮かべ、本を閉じる。淡い光とともに、宿帳は消え去った。

 

「フェントホープの話に戻ろうか」

 

 入り組んだ通路に、わたしたちの歩く音が響く。いつまでも追いかけてくる使い魔が、時々気まぐれに足を止めては、「ミャッメー」と鳴いて開いた距離を詰めようと足音を鳴らす。

 広々としたホテル内はあまり人の気配を感じられない。すれ違ったのだって、黒いローブを頭から被った魔法少女──黒羽根の子の一人くらいだ。月が昇る時間帯にフェントホープにいるのは、先ほどねむが言った通り、マギウスの翼の中でも事情のある少女だけなのだろう。その殆ども、今は寝支度を調えているはずだ。

 他のマギウスも帰宅している。二人きりで聖堂に行くには、これ以上ないほどのタイミングだった。

 

「このホテルにはいくつかのウワサを組み込んでいてね。一つは『女王グマのウワサ』。建物と完全に同化している防衛用のウワサで、ホテルが少しでも傷つけられたら、働きグマや兵隊グマを派遣し、攻撃を行った者を無力化する」

 

 自分のかかとを見た。白い靴のかかとには、螺旋する針が伸びている。

 

「どうしよう。このヒール、一応武器にもなるんだけど」

「大丈夫だよ。ホテルフェントホープ自体、そんなに軟じゃない。魔力攻撃ならともかく、武器になりうるとはいえただ歩いているだけのゆめお姉さんに反応するほど、女王グマは狭量ではないから」

「よ、よかった……知らないうちにひどいことしてたのかと」

 

 ほっと胸を撫でおろす。変に傷をつけてねむの負担になるのも嫌だし、ウワサは彼女の創作物だ。ホテルフェントホープも女王グマも、あの病院で、みんなで考えたものではないけれど、ねむの子どもとも言える存在をぞんざいに扱いたくなかった。

 

「次に、『フラワースピーカーのウワサ』。受信と発信の機能を持つこのウワサは、市外から魔女や魔法少女を誘導する役割を主に担っている。

 基本的に魔法少女に対しては、テレパシー能力の応用で微弱な魔力を飛ばし、“神浜市へ来れば救われる”という夢を見せるようにしている。お姉さんは、それらしい夢を見たことはある?」

「ないけど……神浜に魔女や魔法少女が集まってるって、キュゥべえが。宿帳の効果かな? 魔法少女が消えたとは言わなかった。でも、もしかしたら今後、彼に言われて魔法少女が神浜市の異変を調査しに来るかも。わたしもそれとなく頼まれたの。何が起きてるか、探ってほしいって」

「やっぱり。キュゥべえのことだから、誰がいなくなったかはわからなくても、魔法の痕跡くらいは見つけているだろう。そう、神浜外ではそんなふうになってるんだ……」

「ただ、神浜から帰ってきた魔法少女も、マギウスの翼のことは喋ってないみたい」

「魔法少女解放という言葉の意味を理解できる子は、キュゥべえに対して絶対に口を割らないだろうからね。とはいえ……油断は禁物だ。僕たちはやっていることの関係上、神浜からは出られない。外の状況を教えてくれたのは助かったよ。宿帳を作ったのは正解だった。キュゥべえの動向は今後も警戒するとしよう」

「……うん。そうして。きっと彼、ろくなことしないし」

 

 特に、魔法少女を絶望させることに関しては素晴らしい手腕を発揮する。辛酸をなめさせられた記憶も多い。キュゥべえの手にかかれば、自動浄化システム以上の最低最悪なものにういは成ってしまうだろう。

 

「最後は、『万年桜のウワサ』──」

「!」

「……創作家としては少し妬けるね。いや、気にしないで。こちらの話だから。

 最後とは言ったけれど、あなたも知る通り、これは僕が一番はじめに具現したウワサだ。……でも、意図して生み出したわけじゃない。あのときは、人々から感情エネルギーを収奪するウワサを創ろうとしていたのだから」

「……うん」

「灯花には笑われたものだよ。苛立ちで頭がどうにかなりそうだったけれど……まぁ、失敗した手前、文句を言うわけにはいかないよね。しかも、物語の具現という、何でもありな魔法を得た代償かな。伝えた記憶で体感してもらったと思うけど、ウワサの創造には命を削ってしまう。万年桜に使ったリソースを考えると、このウワサをただ眠らせておくのは惜しかった。

 そこで、僕は考えた。──いろはお姉さんの考えたウワサは、僕たち五人の再会の物語。体が魔女化したといっても、ういは生きているから、ウワサの内容はまだ成り立つ。……万年桜は、自分の物語の登場人物を生かさなければならない。

 この子は、エンブリオ・イブはもちろん、僕と灯花の護衛に使える。僕は感情エネルギーを吸い取るウワサを後回しにして、フェントホープの原型になった『幽霊屋敷のウワサ』を創り出し、万年桜と繋げたんだ。

 ……ホテルフェントホープは、万年桜のウワサ結界に存在している。窓の外を見た? あの平原の先には桜の枯れ木と……椅子が五脚、並んでいるよ」

 

 反射的に月明かりのほうへ顔を向けた。

 

「……、……あとで、見に行く?」

 

 左手が引っ張られる。ねむが振り返ってはじめて、わたしは自分が足を止めていることに気がついた。

 

「………………うん、行きたいな。ごめんね、止まっちゃって」

「別にかまわないけれど……お姉さんは、桜が好きなの?」

「……そんな感じに見えてた?」

「というよりも、万年桜のウワサには、以前からひどく執着していたようだから」

 

 歩き出しながら、わたしは溜息をついた。

 

「姉ちゃんの夢、だったから……」

「桜自体は?」

「桜自体……どうだろう。ちょっと複雑な感情があるかも」

「そう」さして意外そうでもなくねむは相槌を打つ。「僕は好きだよ」

 

 柔らかな声で言った。

 

「あなたの色だもの」

 

 虚を突かれ、彼女を見た。

 ねむとわたしは、あまり身長に差がない。彼女の顔はすぐ横にあった。窶れが見える青白い肌がピンク色に染まっていく。わたしに見られたのに気づくと、ねむはくすぐったそうに目を細めて、前を見た。鮮やかな瞳が潤んで、熱っぽかった。

 繋いだ手が汗ばんでいる。ねむの上昇した体温につられるようにわたしの胸も熱くなり、同時に泣きたくなった。照れ隠ししようとする顔が年相応なのが、今は少しつらかった。

 

「ありがとう」

 

 ねむの歩調が早くなる。耳輪が赤い。

 

「わたしはね、菫の花が好きだよ。見るたびに、ねむのことを思い出せるから」

「……そう」

「ねむは暖色系のものをよく使うし、ソウルジェムの色も蜂蜜みたいに綺麗だけど……わたしにとってあなたは透き通った紫色って印象が強いんだ。

 菫が咲いていると元気づけられる。菫には、『小さな幸せ』って花言葉があるんだけど、そこも、ねむみたいでしょ? だって、一緒にいると、心があたたかくなるもの」

「……僕はあなたに幸せなんてあげられていないよ。むしろ取り上げて……」

「過ぎるくらい貰った。……今だって、そう。ずっと救われてる」

 

 わたしがまだ春を好きでいられるのだって、菫の花が咲いてくれるおかげだ。【記憶】のわたしが持ち直したのも。そうでなければとっくに狂って、あの人の声すら振り切って目に映る人を手当たり次第に殺していた気がする。

 

「……」

「わたしのこと、桜を好きな理由にしてくれてありがとう」

「……もう」

「ふふ。合歓の木の花と、おんなじほっぺの色してる。わたしとお揃いだね」

 

 ゆめお姉さん、とねむが拗ねた音で言うのが聞こえた。わたしは笑った。笑い声を立てることで、浮き出てきた不安を掻き消そうとした。

 聖堂に佇むのがあの蚕蛾ではなく、環ういという少女であればいいのに。突拍子もないハッピーエンドだけど、そんな物語なら、ねむも傑作だって言って屈託なく笑ってくれると思った。

 突き当たりにある階段を下りていく。壁にかけられたランプが地面を照らし、わたしたちの体からコールタールのような影を垂らす。踊り場に嵌め込まれた窓、そのへりには灯花が好みそうなテディベアが飾られていた。

 

「凄く複雑な構造だけど、迷子にならないの?」

「フェントホープを創ったのは僕だよ? お姉さん。創造主が、世界の構造を把握していないわけがない」

「頭の中にマップがあるんだ」

「物語の舞台を整える人間として当然のこと」

「いい意味で当然じゃないよ、それ。他の人たちは迷わないの?」

「……最初期にクレームが来た。幽霊屋敷はホテルフェントホープよりも小さな館だったのに情けない限りだよ、まったく。灯花とアリナはひと目で地図を頭に入れたから、みふゆや羽根たちも大丈夫だと思ったのだけれど」

「ねむたちが凄いんだよ。幽霊屋敷のウワサがどんなのだったかわからないけれど、やっぱり、広くて複雑な構造のお家を初見で把握するのは大丈夫じゃないよね。わたしには無理だ」

「似たようなことをみふゆに言われたよ。その後、改装・増築を適宜行っていたら、灯花たちにも怒られてしまった。いちいち覚えるこちらの身にもなれと。

 仕方がないから、内部構造を把握しているマギウスで、羽根たちがマップと現在地を確認できるようにした。ゆめお姉さん、この階段を下りたら、ペンダントにテレパシーを繋いでみて」

 

 右手に首からかけたペンダントを乗せる。十字架に似た金色の飾りに向け、意識を繋ぐ。

 

「わっ」

「見えた?」

「うん。こんな機能があったんだね」

 

 頭に浮かんだのは、ホテルフェントホープの3Dマップだ。内部は簡略化され、部屋はただの立方体だけれど、ロビーなど場所の名前が書いてあったり、現在地を示す赤い光があったりするおかげでどこにいるかわかりやすい。

 今いるのは、フェントホープ一階、東の端にある廊下だ。知らない間に随分と下りていたらしかった。

 ペンダントの接続を切り、飾りから手を放す。胸の下でぷらんと揺れた金色を見て、ねむが再び歩き出す。

 

「実はペンダントも、『フラワースピーカーのウワサ』の一部なんだよ。マップデータへのアクセスはもちろん、テレパシーの補強もしてくれる。ペンダントを持つ者同士なら、神浜市内どこでも念話を繋げることができるし、マギウスやマギウスの翼幹部から連絡事項を伝達することもできる。

 あとは……万年桜のウワサ結界の入り口は常にバラバラでね。そのペンダントはグリーフシードを嗅ぎつけるソウルジェムのように、ウワサ結界の入り口を探り当て、魔力で隠蔽された扉を暴いて開く鍵でもある。

 これだけの機能があるから、裏切りには少々手厳しく設定してある。叛心行為を感知した瞬間、ペンダントは黒ずみ、あらゆる機能をロックした上で、僕と女王グマのウワサまでペンダント所有者の魔力と情報を報告する。フェントホープ内部の情報を多少なりとも持っている相手は逃したくない。今のところ裏切り者は出ていないけれど……捕らえた離反者たちは解放が終わるまで、ここに幽閉されることになるだろう」

「それだけ強力なウワサを創って、ねむは大丈夫なの……?」

 

 ねむが先ほど言った通り、わたしは彼女の記憶の中で実際に命を削ってウワサを生み落とす痛みを体験した。その痛みは、わたしの魔法の副作用とは種類の違う恐怖があった。

 わたしの命の削り方は、例えるならソウルジェムを内部からやすりがけされているような痛みだ。

 ねむのそれは、体の末端から支配が外れていくような薄ら寒さと苦しみがある。

 

「ウワサを生み落とす瞬間は、正直負荷がかかる。だけど一度具現してしまえば、あとは物語の通り独立して動いてくれるから……維持している分にはそこまで魔力の消費はない。特に、フェントホープのウワサや、フラワースピーカーのウワサは、灯花とアリナと共同制作したのもあって、魔力は二人が賄ってくれた。感じるのは僕の魔力だけだろうけれど、それは灯花が、自分とアリナの魔力を僕が扱えるように変換してくれたからなんだよ」

「そっか、固有魔法……」

「便利なものだよね。まぁ、適材適所だ。羨ましく思うときもあるけど、僕にはやっぱり『具現』の魔法が向いている」

 

 灯花ではなく、自分が命を削る役割でよかったと言っているように聞こえて。

 

「……ねむの創った作品は、ずっと素敵だからね」

 

 そうだねとは言えなかった。

 

「地下聖堂には自動浄化システムの要たるエンブリオ・イブを安置してある。聖堂はマギウスの手引きがないと出入りできないし、こちらも万年桜のウワサ結界のように、入り口は常に変わる。……さて、お姉さん」

 

 そこは、行き止まりになっていた。

 忽然と現れた壁には、巨大な絵画がかけられている。緩やかな傾斜の階段を踊り場から見下ろす風景を描いたもので、ぐっと開いた両隣の壁にはガラスのウォールランプが等間隔に配置されている。地面に広がるほのかな光溜まりが、階段に敷かれた絨毯の赤い色を浮かび上がらせた。

 ウォールランプは足元をしっかり照らしているにも関わらず、階段の先は黒い霧が立ち込めて見えなかった。ランプの明かりさえ掻き消すほどの闇が湧き出しているのだ。

 

「マップでは、廊下が続いてるけど……ひょっとして、これが入り口?」

「うん。覚悟はしておいてね。この先は穢れが多い」

 

 鉄球に繋がる鎖を指に引っかけ、ねむが額縁を乗り越えた。

 

「あっ」

 

 なんの抵抗もなく少女が油絵の中に呑み込まれていく。絵の中にねむの姿は無い。

 廊下側に残されている繋いだ手が、大丈夫だと言うように揺れたら、同じ分だけ絵画が波打った。

 緊張で喉を鳴らしながら、そうっと指先でキャンバスをつつく。小石を落とした水面のように絵が波紋する。ゼリーのような感触がする。思い切って指を入れると、薄い膜を破いたようなほのかな衝撃のあとに、廊下に流れるものとは違う質感の空気に触れた。

 思い切って足を突っ込む。

 片足が床を探り当てたのを感じ、わたしは一息に絵の中に入った。水に潜ったような、水から上がったような、不思議な感覚だった。窓辺からの月光をまばたきとともに失い、まっくらな、描かれていた通りの光景が目の前に現れる。広々とした踊り場で、わたしは長く続く階段を見下ろしていた。

 それだけじゃない。わたしの胸を突いたのは、体の芯まで凍てつく冷気だった。殴られたように平衡感覚を失い、二歩三歩あとずさる。

 

「お姉さん……!」

「っ大、丈夫」

 

 呼吸をするのがとても億劫になる。神浜の魔女は結界を前にするだけで逃げ出したいと思ったけれど、その比じゃない。

 

「ヒュメミャン!」

「ビョーニミャミョゥ?」

「ホベーミャーン!」

 

 今まで静かについてきていた使い魔が騒ぎ出し、わらわらと足元によりつく。ねむが、こら、と言いながら優しく手で追い払うのを、ノイズがかった視界で見ていた。

 ──莫大な穢れの量に溺れそうだった。おぞましい負の感情に刺激されて、強引に【記憶】がめくられようとする。

 

「……お姉さん」

「……平気。行こう、ういが待ってるんだから……」

「本当に、平気?」

 

 冷静に感じ取ってみれば、救済の魔女とは穢れの性質も規模も違う。エンブリオ・イブはあの魔女の域に達していない。少なくとも穢れの一端を掴んでいる時点では、そう。

 

「大丈夫。手、繋いでてくれてるから」

 

 心配そうに眉を顰めていたねむは、一つ息を吐いてから綺麗に感情を覆い隠した。

 階段を下りる。

 騒ぎ立てていた使い魔が、わたしを追い越し、先を行く。時おり振り返っては、わたしたちを待つように立ち止まる。

 鎖の音や、鉄球が転がる音が聞こえないなとねむの足元に目を向けたら、そこには一匹残った使い魔が一生懸命、鉄球を歩調に合わせて運んでいた。わたしは歩みを緩めた。

 壁にかけられたランプが時折揺らぐ。黒い霧に覆われ、底などないように見えた階段も終わりが近づいてくる。前方に二つ、明かりが見えた。両開きの鉄扉の脇に、番人のように燭台が掲げられていた。

 かたく結びついた手が、より一層強く握られる。

 こん、と音がした。使い魔が足枷の鉄球を手放したのだ。

 

「……開くよ」

 

 手を握り返す。

 扉が軋む。光が縦に一線刻まれ、穢れが噴出する。心臓がこれ以上ないくらい騒ぐ。

 胸に風穴を空けるような冷たい穢れとは裏腹に、地下聖堂の空気はあたたかく、春の野原を撫でるような風が吹き抜けてきた。押し開かれた先には、白い大理石の床がずっと伸びている。

 全盛の花による若く青い匂いが鼻先をかすめる。聖堂というより植物園の風貌だ。堂内を縁取るように左右には花壇が広がり、色とりどりの花たちが咲き誇っている。奥には優雅なガゼボが見えた。そして、その後ろには──蚕蛾。

 ヒールの針が大理石と搗ち合い、甲高い音が静寂を切り裂いた。わたしはねむの手を握ったまま駆け出していた。

 

「ヒュメミャン!」

 

 魔女がうずくまっている。

 眼球の中で白い記憶が弾ける。謝り続けた死に際の妹がフラッシュバックした。

 穢れのことなんか思考から吹き飛ぶ。息をせき切って、広い聖堂内を走った。焦りによるものか、イブまでの道がまるで夢の中のように走りにくく感じる。

 

「スロートゥーカム」

 

 少女の声がした。立ち止まる。ガゼボの内部に人影がある。

 

「待ちくたびれたんだヨネ……。てっきりねむがパースウェイジョンをグレートサクセスさせたのかと思ったワケ」

「にゃあ……」

「それで……オーバーコンフィデントガール? アハッ、捜してたシスターが魔女化したのを知っても、ここに来ようと思ったマインドは認めてアゲル。エモーショナルな再会おめでとう! 感想、聞かせてくれるヨネ?」

「アリナ……灯花……なんで……? お姉さんのことは僕がなんとかするから、今日は帰ってほしいって伝えたよね? 君たちも了承したと記憶しているけど」

「エンブリオ・イブはアリナが育ててる、アリナの作品なワケ。アリナのアートワークによって一人のマジックガールが絶望する素敵なエンターテイメント、見逃すなんてありえないんですケド」

 

 言葉を失ったねむに対し、ガーデンチェアに足を組んで腰かけ、魔法少女姿でカメラをいじくっていたグレイさんがほくそ笑む。彼女のテーブルの前にはスケッチブックや鉛筆が散乱していた。

 その対面でパソコンや学術書を広げているのは、同じく変身している灯花だった。彼女らしからぬ機敏さに欠ける動作でパソコンを閉じながら、据わりが悪そうにわたしたちをちらちら見てくる。

 

「イブがわたしの妹だって知ってるの……?」

「……ごめん、お姉さん。誤魔化しきれなくて、僕が吐いた」

 

(ういが灯花の親友だったこと、僕とも特別親しかったことは言っていない。申し訳ないけど、話を合わせてほしい)

 

 頭に響いた声が補足する。

 

(さっき、わたしをマギウスの翼から逃がすことはできないって言ったとき言い淀んたのは、このこと?)

(……うん。アリナが小さなキュゥべえの中にいる魔法少女のことを持ち出してね。二人とも悪知恵が働くたちだから、下手に誤魔化して興味を引くより、話しておいたほうがいいと判断した)

(……ごめん。尻拭いさせたね)

 

 気にしないで、と言われた。

 

(こちらこそごめんね。僕としても、余裕のないゆめお姉さんと、この二人を会わせたくなかったんだ。だから帰れと言ったのに……さて、残ると決めたのはどちらが先かな。僕たちが聖堂に来るはずだと予想したのは)

 

 ねむの声には、強い苛立ちが滲んでいた。

 わたしがエンブリオ・イブの元となった少女の姉だと知っても、二人は武器を取り出すこともなく余裕綽々に着席している。わたしなど片手間に無力化できるという自信の他に、わたしがイブに手を出さない確信があるみたいだった。灯花はちょっと様子がおかしく見えるけれど。

 ういのことを覚えていたねむという存在が、どれだけ安心感を齎してくれていたのかを思い知らされる。

 エンブリオ・イブを見上げた。現時点で、この穢れの量。これからさらにイブは成長していく。

 ねむの記憶で見たイブは、あの大きさで本当に生まれたての赤ちゃんだったのだ。たった一ヶ月で、ガゼボを優に超えるほど、蚕蛾は大きくなっていた。

 

「で、灯花はいつまでそうしてるワケ?」

 

 「にゃ……!」と、甘やかな声が跳ねた。

 灯花といえば、テーブルの下からこっそり顔を覗かせていた。視線が合うと、再会したときあれだけ冷徹だった目が人見知りの子どものように泳ぐ。視線が合うと、頭がモグラみたいに引っ込んだ。

 ガゼボ内に、細くかすれた深呼吸の音が数度した。しばらくして、突然灯花が飛び出して、わたしの前に立ちはだかった。

 幼さの抜けていない大きな目が、恐れ知らずな革命家の光を乗せてきらめく。

 

「はじめまして、環ゆめ。それともさっきぶりって言ったほうがいいかにゃ? わたくしは里見灯花。知ってるかもだけど、ねむの腐れ縁で、マギウスの一人だよ。こっちが……」

「アリナ・グレイ」

 

 灯花が顔を向けると、渋々といった感じでグレイさんが名乗る。

 

「わたくしたちマギウスは、魔法少女を魔女化の運命から解放するために活動してるの。ドッペルシステムのこととか、活動内容についてはみふゆとねむから聞いてるよね?」

「……神浜で魔女にならないのは、マギウスがつくった自動浄化システムがあるから、だよね? 活動内容は、魔女を育てる。ウワサを守る」

「うんうん、ちゃーんと頭に入ってるね。それで、答えは出た?」

 

 中学生にもなっていないなりの少女なのに、言葉の節々からねむと同様、年不相応のキレの良さが現れている。本当にはじめましてならたじろぐほどの、ミステリアスな迫力が彼女の小さな体から放たれていた。

 けれど、大人ですら膝を突く聡明さを秘めていても、里見灯花は十を超えて二年も経っていないような少女だった。並外れた頭脳明晰さと胆力では殺しきれない私情が、まばたきの多さや、指先の震えから溢れている。灯花はなんだかわたしに気後れしている感じがあった。

 心配から来る問いかけを飲み下す。ここでそれを指摘できるほど、今の彼女との距離は近くない。

 選んだのは沈黙だ。……ううん、何も選べなくて、沈黙するしかなかった。

 結局、聖堂に着くまでの時間で、わたしはういを助け出す方法を思いつかなかった。

 この穢れを引き受けるには『カナメマドカ』の因果が必須だ。でも、わたしは彼女が見滝原にいること以外の情報を持たない。ワルプルギスの夜が到来する日に、最強の魔法少女が現れることしか知らないのだ。

 わたしが彼女の因果を得るには、最低でも半年待たなければならない。そうして、膨大な魔力を持ってういの半魔女化という結末を引き受けたとしても、今度はわたしが魔女化する。魔法少女の因果を取り上げるとき、わたしはソウルジェムに対象の魔法少女が抱えた穢れを吸収しなければならない。固有魔法を使いつつ、穢れの回収を行っていては、さすがに魂が限界を迎える。ただでさえ命を酷使しているのだから。

 

「エンブリオ・イブのことなら無駄だよ。ねむからも聞かなかった?」

 

 黙したのを拒絶の意で捉えたのかもしれない。灯花が冷たい声で静寂を切り払った。

 

「イブは人間の体に戻らないし、キュゥべえの中にいる環ういも再起不能。助かる余地なんてどこにもない。そんなことより、もっとずっと、いいお話があるよ?」

 

 隣でねむが何か言おうとしてやめた、そんな息の仕方をする。思うところはありそうだけれど、灯花がわたしを言い負かし、屈服させることに賭けたのだ。

 たたみかける灯花には、やっぱりふだん見かけることのない焦燥が出ていて、それが喋りを早めている。

 

「環ゆめはトロッコ問題って知ってる? 有名な話だから名前くらいは聞いたことあるよね?」

「……暴走したトロッコの進路を切り替えるか、何もしないかってやつ? トロッコがまっすぐ進めば、五人が死ぬ。進路を切り替えたら、切り替えた先にいる一人が死ぬ。五人のために一人を犠牲にすべきか……みたいな問題だっけ」

「そーそー、合ってるよ。でね、これは、トロッコ問題と同じ話なんだよ。違うのは、直線上にいるのが五人じゃなくて、環ゆめのお姉さまや仲良しさんのねむはもちろん、他の魔法少女も含めた全人類。切り替えた先にいるのが、あなたの妹の死体ってだけ。

 うん、悲しいね。でも大丈夫。妹は死んだけど、他の大事なものは生きてるし、あなたの人生も魔女化に悩まされることなく続いていくよ。魔法少女もグリーフシードを取り合わなくて済むし、普通の人たちも魔女に怯えなくていい。あなたの手遅れな妹一人を犠牲にすれば、みーんな幸せになれるんだよ! トータルで見ればマイナスどころかプラスだよねー?」

「……」

「イブを孵化させればいいことだらけ。あなたはお姉さまとねむが守れる。ねむもあなたと自分の夢を守れる。わたくしは救いたかった魔法少女が救えるし、宇宙を知るという夢が叶えられる!

 反対に、環ういを助けようとしたら悪いことだらけ……。エンブリオ・イブを壊したら、自動浄化システムも崩壊しちゃう。あなたはだーれも救えないし、あなた自身もソウルジェムを砕くか、魔女化するしかなくなっちゃう。ねむもわたくしもそう。みんなの夢は叶いません。それってすっごくすっごく、不幸だよね」

 

 灯花が右手に日傘を生成し、わたしたちに向ける。左から傘の石突が、“−80おてん”と綴った。

 魔力でできた、赤い光の文字が、ボッと膨らんだ。悲惨な点数が燃え尽きて消える。

 

「ここまで聞いて、環ゆめはマギウスの翼(わたくしの救済)を否定できる?」

 

 ふふん、と灯花が鼻を鳴らす。ねむが仕方がないと言わんばかりに溜息を漏らした。

 

(自己保身。今さら計画をやめられないのもあるだろうけど、恩人の妹を魔女化させようとしていることが響いているんだと思う。言い方は最悪だけれど、お姉さんに悪印象を持たれたくないんだよ。そのためにういを必死に否定している)

(……だから、ずっと)

 

 不安そうだったのか。腑に落ちた。

 賢い選択をしようよ、環ゆめ、と灯花は続けた。人に媚びることを知らない彼女らしからぬ猫なで声で、まるで自分よりずっと年下の子どもを宥めているふうに聞こえた。

 

「あなたにはまだ、姉妹が残ってるでしょ? 手遅れな妹より、未来のある姉を救ったほうが、ずっと有意義だよ。一つ差し出したら、助けたいもの全部助けられるなんて、すっごくお得でいいお話だよね」

 

 ねむが灯花に便乗して、わたしから答えを引き出そうと繋いだ手を揺らす。

 元より逃げるつもりはない。ねむを一人にするわけにはいかないからだ。親友を魔女にするという、ある意味殺すよりむごい所業に手を染め、ねむは一人で罪を背負っている。ういの願いを果たすためなのはもちろん、姉ちゃんとわたしを救うためにだ。

 年下の少女に妹と自分の運命を任せて手を汚させて、自分はお綺麗なまま逃げ出すほど恥知らずじゃない。

 わたしが迷っているのは、従順にマギウスに下るべきか、計画停滞の取引を持ちかけるべきかだ。

 ひたいに汗がにじむ。右手が横髪を撫でつける。指の隙間を髪の毛が通り抜けていく。

 ねむの言う通りだ。見て理解した。突きつけられた。環ういは手の施しようがない。仮に救えたとしても、人間に戻った彼女にあげられる未来を、わたしは自分の手で壊してしまう。

 灯花の言っていることは正しい。わたしにできることなど、自動浄化システムを広げることしか残されていない。

 成功するかもわからない取引を持ちかけ、知られたくない【記憶】の情報をねむと灯花に晒すより、姉ちゃんと灯花は確実に救えて、もしかすると救済の魔女の誕生を阻止できる魔法少女解放に恭順したほうが、ういも救って世界も救うなんて分の悪い賭けに出るよりずっと賢いのかもしれない。

 手遅れなものよりまだ救えるものを選ぶ。それも一つの選択だ。

 手遅れ? 半魔女なのに?

 まだ引き返せる。魔法少女であれば、わたしが救える。

 ういを()()死なせたくない。殺したくない。ねむに殺させたくない。

 右手がすべり落ちた。

 ういを救う手段を持っている。

 使えばわたしは魔女化して、世界は滅びる。滅びて……そして。

 ──あの日、神浜はどうなった?

 

 そのとき、天啓のように、ある方法が脳裏に閃いた。

 わたしは“覚えている”。頭の中にずらりと姓名が並んだ。いっそ忘れていたほうがよかった。そう善人ぶって嘆く自分の裏側で、覚えていてよかったと安堵する、卑怯で狡猾な【わたし】がいた。

 

 目を閉じる。汚れきった心を洗いたくて、ういの笑顔を想った。遠慮無しの生意気を言ってきて、ひょっとして舐められてる? と思うことさえある、笑顔の上手な妹。それでも胸に飛び込んできて、安心しきったふうに睫毛を下ろされると、どんなに腹立つことを言われても許してしまうんだ。

 救われたいと言った梓さんを思い出す。魔女になりたくないと言った彼女の疲れ切った表情を。魔女化した人間しか知り得ない絶望を語っていた。失ったという仲間はきっと、わたしにとっての姉妹や、ねむや、灯花だった。

 わたしもそうだ。魔女になんてなりたくない。理性も正気も失って、死体を咀嚼し、世界を呪い、腐り果てた姿を恥とも思わない怪物の人生を送るくらいなら、ソウルジェムを砕いたほうがまだ人としての矜持を保てる。

 あの人の言葉はマギウスに縋る魔法少女たちの叫びだ。魔法少女が持つ当たり前の感情だ。わたしだって梓さんの苦しみに、マギウスの語る魔法少女解放にいまだに心を揺さぶられる。

 それでもわたしは彼女たちよりも、世界よりも、ういのほうが大事だった。妹が生きるためならなんでもする。誤魔化しはしない。もしういを救うのに、無関係の善良な魔法少女を百人魔女化させることが必要と言われたら、わたしはやる。

 要はわたしが魔女化しても、四人が生きていける環境があればいいのだ。

 

 目蓋を押し開いた。 

 灯花と目が合う。

 頭の芯がじんと痺れていく。奇妙な快感が背筋をなぞり、激しく葛藤していた感情が丸くなっていくのを感じた。わたしの心は麻酔を打たれたように一瞬で鈍くなっていった。それと引き換えに、異常なまでに頭が冴えていく。

 

「──エンブリオ・イブが孵化するまで、どのくらいかかるの?」

 

 わたしの言葉に、灯花の顔から表情が抜け落ち、カラメル色の目にコンピューターじみた計算の色が宿る。やがて、しゅんと眉が下がった。

 

「……やっぱりそこ、気になっちゃうよね。実はね、わからないの。わたくしの予想では最短で五ヶ月、最長で二年だけど……もっと短くなるかもしれないし、もっと長くなるかもしれない」

「イブの成長状態はもちろん、マギウスの翼にどれだけの人が集まるかも関わってくるからね。……それが、どうかした?」

「マギウスの翼には入る。でも、エンブリオ・イブの孵化は半年いっぱいまで待ってほしいの」

 

 灯花がきょとんと首を傾げた。

 

「なんで?」

「『ワルプルギスの夜』が来るから」

「何、ソレ。聞いたことないんですケド?」

 

 グレイさんが興味を持った顔つきで、頬杖を外す。

 

「僕も知らない。灯花も……みたいだね。

 一応聞いておくけど、北欧や中欧で行われる祭事のことではないよね?」

「……うん。ワルプルギスの夜は、魔法少女の間で語り継がれてる伝説の魔女のことだよ。たぶん、梓さんなら知ってると思う」

 

 【記憶】を思い出しながらわたしは続けた。

 

「キュゥべえは複数の魔女の融合体って言ってた。強さゆえに結界を持たず、この魔女が通ったあとは最低でも一都市が壊滅する。一つの文明をひっくり返すことすらあった。

 ……わたしはワルプルギスの夜を倒したいの。だから、半年待ってほしい」

「そんな魔女が神浜に来るっていうの? あなたはどうやってそれを知ったの?」

「……ある魔法少女に教えてもらった。未来を知ってる魔法少女に。その人は、もう死んじゃったけど」

 

 灯花の目が一瞬、ぞくりとするほど無機質なものになった。彼女の脳味噌がめまぐるしく回り始めた合図だ。こういうときの灯花は、考えがまとまったあと、怖いことを言う。

 

「その魔法少女はなぜあなたに未来を伝えたの? あなたはなぜそれを信じたの?」

 

 声から甘さが抜けた。

 ねむの手を強く握りしめた。戸惑いが肌から伝わってくる。それでも握り返してくれて、わたしは彼女の手のぬくもりから勇気を得た。

 

「わたしに魔法少女の素質があったから。わたしが未来を信じた理由は」

 

 言葉が震えた。

 

「姉が、死にかけたから。わたしの姉は本当なら、交通事故で死んでいたの」

 

 【記憶】の傷をえぐり出す痛みと、嘘をつくときの罪悪感が、言葉の端っこを少し湿らせた。

 は、と、ねむが息を詰まらせる音が鼓膜に触れる。

 わたしが【記憶】を信じたのは三年前から繰り返される悪夢の刷り込みによるもので、姉ちゃんの件とはあまり関係がない。だけど、【記憶】を使って姉ちゃんが死なないように、未来を変えようと立ち回ったのは本当だ。

 

「ワルプルギスの夜が顕現し、神浜は壊滅状態になる。その人はもう願いを使ってしまって、未来を変えられなかった。だから高い素質を持つわたしに、姉の命と引き換えにして願わせた。『ワルプルギスの夜を倒す力がほしい』って」

「それで、未来は変わったの?」

「姉は生きてる。でも……ワルプルギスの夜は、わからない。……『勝つことができる』とは言われた。それだけ」

「『勝つことができる』ね。ふぅん……」

「待って、灯花。君はゆめお姉さんの言うことを信じるのかい?」

「嘘の可能性はとーぜん考えてるよー? 環ゆめが騙されてる可能性もね。でも、奇跡を起こせる魔法少女を前に、そんなのありえないってすぐ切り捨てちゃうのは、頭の悪い子がすることだよ。ねむが一番わかってると思うけど?」

「それは……」

 

 小説家だからこそあらゆる可能性を捨て去らない少女が、ぐっと口籠る。

 

「まず、本当にワルプルギスの夜が半年後、神浜に来ると仮定して……環ゆめはワルプルギスの夜を倒したいんでしょ?」

「……うん」

「それならかんたんかんたん! エンブリオ・イブにワルプルギスの夜を食べさせちゃえばいいんだよー。そうしたら、最悪の魔女は倒せて、解放への道もぐんと近づく。まさにイッセキニチョウだよね」

「……ワルプルギスの夜は複数の魔女の融合体で、向こうも魔女を食うすべは心得ている。生まれて数ヶ月のイブが、歴史上誰も勝てたことのない魔女に太刀打ちできるとは到底思えない」

「うんうん、その可能性も充分にあるね。そんなときは、あなたの出番だよ! 環ゆめが本当に『ワルプルギスの夜を倒す力がほしい』って願ったなら、魔力量がわたくしたちより少ないことからして、たぶん魔力自体がワルプルギスの夜に対する毒になってるんじゃないかな。それか固有魔法を使うかすれば、ワルプルギスの夜を弱らせることができるはずだよ」

「弱らせたワルプルギスの夜を、イブに……ってこと?」

「うん。あるいは完全体のイブなら勝てるかもしれないけど、地上の何割かは確実に吹き飛ぶだろうし、完全に孵化しちゃったイブはねむやアリナの魔法で匿えないからね。劣勢になっても逃せない。魔女になったエンブリオ・イブを倒されたらそれこそ解放は今よりもっと難しくなるわけで、環ゆめが半年待ってほしいっていうのはわたくしとしても納得できるお願い。

 ただこれは、あなたの持つ未来の情報が本物だった場合の話」

 

 不意に灯花が顔を、というより目を覗き込んでくる。

 

「半年以内にエネルギーが溜まって、なおかつワルプルギスの夜が来なかったら、余った時間で本当なら救えた魔法少女は救えないよね。それについては、どうお考えかにゃ?」

「……」

「それだけじゃないよ。もしあなたの願いがワルプルギスの夜を前にはじめて覚醒するものだった場合、あなたの魔力はわたくしたちを遥かに凌ぐかもしれない。その魔力を使って、環ういを救出しようなんてされたら……すっごく困るんだよね。はたまたイブを殺そうなんてされたら」

「……」

「だって環ゆめ。あなた、まだ妹のことを諦めてないでしょ?」

 

 息を呑む。灯花がおかしそうに笑いながら、だけど注意深くこちらの一挙手一投足を観察しているのがわかる。

 

「びっくりするぐらいわかりやすいよね。こういうときはね、あなたの隣にいる嘘つきさんみたいに、憎たらしいくらい普通にしなくちゃ」

「……ゆめお姉さんに妄評を吹き込まないでくれるかな。僕が不必要な嘘をついたことはないし、だいたい、偽りが生業となる小説家の僕よりも、都合が悪くなったら平然と嘘を振りまく君のほうが悪質だろう? 入院時代の君の醜態を今ここで並べてあげてもいいんだよ」

「ふーん? ずいぶん強気に出てるけど、わたくしだってねむのあーんなことやこーんなこと、大脳皮質にちゃんとファイリングしてあるんだからね。ねむのだいすきなお姉さまの前で全部喋っちゃってもいいの?」

「シャラップ。関係ない話をするならとっととゴーホームしてヨネ。……で、環ゆめ。どうなの?」

 

(……ねむ)

 

 テレパシーを繋いだ。

 

(今からわたしの言うことを、見逃して)

 

「……そうだよ。ワルプルギスの夜が来ることは本当だけど、はっきり言って時間稼ぎもある。わたしは妹の命を諦めてない。

 取引がしたいの。半年の間で、わたしはういを救い出し、かつ、自動浄化システムを完成させる方法を探し出してみせる。解放にもちゃんと協力する。でも、見つかった方法で、もしもういが救えるって判断したら、実行させてほしい。無理だったらワルプルギスの夜が来る正確な日時と場所を教える。そのときは、わたしを使って倒すなり、イブに食わせるなり、好きにして」

「できなかったら? アリナたちの説得に失敗して、ワルプルギスの夜も来なかったら、アナタはどうやってエクスピアシオンするワケ?」

「わたしが魔女になる。そのときの相転移エネルギーを解放に充てればいい」

 

 声がみっともなくかすれた。正直恐ろしくて吐きそうだった。だって、嘘じゃない。本気だからだ。道を踏み外すなら報いは受けなければならない。

 

「ここで育てた魔女を食らわせるよりも、並の魔法少女を魔女化させるよりも、わたしが魔女化したときのエネルギーのほうが大きい。世界を変える天才には及ばなくても、そこそこの因果を束ねてる自信はあるよ」

 

 ──グレイさんの表情がみるみる不愉快そうに歪み、入れ替わるように無機質だった灯花の顔に、凪いだ微笑みが浮かんだ。

 

「生まれた魔女はどうするの? あなたクラスの魔法少女が魔女化したら、わたくしたちはともかく、普通の魔法少女はやられちゃうと思うけど」

「魔女にそれぞれ習性があるのって知ってる?」

「負の感情を煽り、人間を結界におびき寄せて食べる……ことを言ってるんじゃなさそうだね」

「うん。普段の魔女退治にはあまり使わないし、キュゥべえがいなくちゃわからないことだけど……魔法少女の感情を養分に生まれる魔女は、個々の習性……性質というものがある。

 たとえば、“団欒”。たとえば、“自戒”。魔女はこういった自分の性質に則って行動する。使い魔相手に家族ごっこしたり、異常に気にしいだったり。だからこそ、生前時にソウルジェムに暗示や幻惑の魔力を注ぎ込んで、魂まるごと捻じ曲げたら……」

「都合のいい、わたくしたちの言うことを聞く魔女がつくれるってこと?」

「……と思う。魔法少女を守る魔女にするのでも、魔法少女を養うグリーフシードを育てるのでも用途はあるんじゃないかな。信用が置けなかったら魔女ごとエンブリオ・イブに食べさせてよ」

「あなたは本当にそれでいいの?」

 

 灯花の目が星のようにまたたく。

 

「意地を張らないで素直になったら、わたくし、あなたとあなたの家族まできちんと助けてあげるって約束するよ? だって環ゆめはねむが大切にしてるし、わたくしの体を治してくれたんだもん。天才で、お金もいっぱいあって、可愛くてゆーのーなわたくしが、特別に扱ってあげる。環ういのことはわたくしだって悪いとは思ってるし……」

「……いいよ、そういうのは」

「どうして? 死にたくないんでしょ?」

「死なない。ワルプルギスの夜は来るし、わたしはそれを倒してみせる。ういだって助け出すし、魔法少女の解放だって成し遂げてみせるから」

 

 呆れたような、引いたような。それでいて親しいものを見るような変な顔をしたあと、灯花はうつむいた。溜息が落ちた。

 

「…………どうして、わたくしのことを怒らないの? 許さないって、思わないの」

 

 脈絡のない質問だったが、言いたいことはなんとなく理解できた。わたしは彼女の背後にある蚕蛾を見た。

 何が起こっているのか本当に理解していない灯花にも、全てを知っていてなおういを犠牲にする選択をしたねむにも、わたしは許すとか、許さないとか、そういうのは言えない。言う権利もない。約束を果たしたら死ぬつもりでいるし、そもそも彼女らが契約するに及んだ発端だし、ねむや灯花を鼻で笑えるような残酷な手段も視野に入れた人間に何が言えるというんだろう。

 仮に、二人の心を楽にするという大義名分で何かを語れたとしても、問題が解決していない状態での慰めなんか、薄っぺらな綺麗事にしかなれない。

 もしかしたら、姉ちゃんやういなら、心に響く言葉が言えたかもしれない。わたしは姉のように意志が強くも、妹のように優しくもないから、そういうのはわからないけれど。

 当の妹が眠りにつき、この場にわたししかいない以上、二人が本当に救われるのは、ういが助け出されたそのときだけだ。

 だからわたしは灯花の質問に正しく答えることはしなかった。

 

「怒れないよ。……助けようとしてくれて、ありがとう。その気持ちは嬉しかった」

 

 視線を下げる。灯花の瞳は意外そうに、大きく見開かれている。

 

「あなたを治したのはわたしがやりたくてやったことだから、そんなに気にしないで。借りを作ったのが気持ち悪いなら……会うことがあれば、姉ちゃんを気にかけてあげてほしいな。わたしがやったのは本当にキーホルダーを編んだだけ。姉ちゃんは……あの人はわたしの魔力を工面するために、ずっと命懸けで戦い続けてくれたから」

「……その人の、お名前は?」

「いろは。環いろは。わたしの一つ上で、わたしよりもずっと、優しくて強い人」

「環いろは、ね。いーよ。覚えておいてあげる。それに」

 

 あなたの要求、呑んであげる。そう、笑って言った。

 

「半年でしょ? どーせイブがどのくらいでエネルギーを溜めるかなんてそのときになってみないとわからないし、羽根たちだって長期戦は覚悟してるだろうしねー。ワルプルギスの夜っていう資源も魅力的。本当に来るならとーぜん、日時や場所は知りたいよ。こっちも万全の体制を整えなきゃ」

「……いいの?」

「うん。まぁ、目的が目的な以上、他の羽根よりちょっと制限はつけさせてもらうけどね? ……あなたは何も払わず、自分の要求だけ押しつけてくるような魔法少女じゃなかったもん。感情論だけで否定してくるならムカついたけど、解放の必要性をちゃーんとわかってるし、他にもいろいろ面白そうなこと、知ってそうだしね」

「灯花……」

「持ってるものみんな使って欲しいものを手に入れようとするところも、わたくしは嫌いじゃないよ。で……アリナはどうする? 運がよければワルプルギスの夜、見られるかもしれないけど」

「……」

 

 グレイさんが大儀そうに立ち上がり、こちらに向けて一歩踏み出した。その分下がろうとして、やめた。ねむが見ている。

 正直彼女のことは苦手だった。視界に入れると異様に胸騒ぎがする。自分の嫌なところを見せられている気分になる。それと、妙な既視感に襲われるのだ。会ったことはないはずなのだけれど……。

 十センチ近く身長が違うせいか、近づかれると光の関係もあって影がかかる。見上げた目は姉ちゃんと同じつり目なのに、受ける印象は真逆だった。

 

「……理解できない」

 

 舌打ち一つして、グレイさんはわたしを見下ろした。

 

「ウィッチの性質。そんなの知らないんだケド、どこでゲットした情報?」

「……キュゥべえだよ。聞けば答えてくれる」

「オビディエンスな魔女の作り方は? やけにリアリティのある話し方してたヨネ」

「それは秘密」

 

 整った眉が不機嫌そうに歪んだ。

 

「また、その目──」

「目……? ……っ、何を」

「ほんっと、気に食わない……」

 

 片手で顔を引っ掴まれたと思ったら、眼球が触れ合うんじゃないかというほど近くに翡翠の目が迫った。ぞっとする間もなく乱暴に突き放される。あとずさりながら見上げると、グレイさんはこちらを睨みつけていた。憎しみに見紛う怒りが表情に刻まれている。

 

「こんなワーストなインスピレーション初めてなんですケド。……お礼にアナタの魔女、抜け殻になったボディごと隅々まで解体してやるカラ。ゴミみたいなホープにすがって、半年間せいぜい頑張れば?」

「……わたしの要求を受け入れてくれるってこと?」

「そう言ってるんですケド。ま、ワルプルギスの夜もインタレステッドだし、来ないなら来ないでその思い上がった目をぐちゃぐちゃにできるなら、アリナ的にも悪くない取引だカラ。アハッ、そのときはサイコーにアイロニックな終わりをアゲル……楽しみにしててヨネ?」

 

 怒りから一転、嫣然と笑う。感情の起伏が激しい。嫌な目だと思った。彼女もわたしに対してそう思ったからこそ、こんなふざけた物言いをするのかもしれない。

 言うだけ言って返答は求めていないのか、もはやわたしに見向きもせずに、グレイさんがきびすを返す。まっすぐな緑髪が一枚の布のようにひらめいた。「飽きた。帰る」淡々とした声が聖堂に響く。

 

「相変わらずアリナの考えてることって意味わかんないにゃあ」

「お姉さん、大丈夫? 怪我はない?」

 

 ねむが割れ物に触れる手つきで、わたしの頬に指を持ってくる。何度かさすられて、こわばっていた体が、ほっと緩む。

 

「全然平気……」

「アリナもいいって言ったことだし、ねむには聞くまでもないよね。マギウスは環ゆめの望みを受け入れたよ」

「うん。ありがとう、と……里見さん」

「無理して呼ばなくても、さっきみたいに、灯花でいーよ? そっちのほうが合ってるもん。

 …………可哀想な魔法少女を救うのは、わたくしの役目。だいじょーぶだよ、ゆめ。あなたのこともわたくしが救ってあげる」

「灯花?」

「興味深いお話が聞けてよかったよ。勇気を出して、聖堂に残った甲斐があったみたい。

 じゃあ、わたくしも帰るね。ちょっと考えをまとめたいし、アリナにも話さないといけないことができたから。ねむは残るよね?」

「そのつもりだよ。今日も、これからも」

「ならあとのことはねむに任せるよ。フェントホープでの過ごし方、ちゃんと教えてあげてね? 翼としてのお仕事もね」

「わかってる」

「ならいいけど。じゃあね、ねむ、ゆめ。また明日、改めて話し合おうね?」

 

 さっさと立ち去ったグレイさんとは真逆に、灯花は満面の笑みで手を振った。甘やかな目が片方、茶目っ気たっぷりにウィンクした。

 

「待ってよー! アリナ! どーせなら一緒に帰ろ」

「ガキのお守りはごめんなんですケド……」

「ガキじゃないもん! お口も悪ければ態度もさいあく。というか、わたくしが好き好んでアリナを呼び止めるわけないじゃない。結界を使わせてよ。いっぱいあって大変なの──」

 

 続くかけ合いはなんてことのないもので、灯花がグレイさんに話したいと言ったことや、意味深な台詞を示唆するものは出てこなかった。鬱陶しげに灯花から距離を取りながら、それでも彼女の言うことを無視するのではなく結界を開いてあげているグレイのそばで、一瞬灯花がちらりとこちらを見る。声は聞こえなかったけれど、鼻にかかったようなあの声で笑い、胡散臭い愛嬌をちらつかせた。

 荷物を片付けた二人が隣をすり抜けていく。

 二人の背が遠のき、聖堂の扉の開閉音がした。完全に扉が閉まり、数秒して、どっと背中に疲労がのしかかってきた。かたく冷たい床に膝を打ちつける。息を吐き切って、両腕を抱きしめた。まだドキドキしている。

 

「お姉さん」

 

 ねむの手がわたしの肩を強く支えた。

 

「ごめん、ちょっと気が抜けて……」

「……無理もないよ。お姉さんからすれば、怒涛の一日だったろうし……一度ソウルジェムを浄化したとはいえ、ドッペルを出さなかったのが、不思議なくらいだ。……」

「……ねむ?」

 

 肩からねむの手が滑り落ちる。寒がるように、あるいは距離を取るようにその右手がマントを手繰って左半身を隠した。窺った顔は眉が下がり、憂いを帯びている。

 

「どうしてあんなことを言ったの」

「……それは」

「記憶が無い相手に残酷なことをする。魔女化を防ぎたかった灯花の想いや、魔女になったとしてもお姉さんたちが弄ばれることが許せなかった心を踏みにじる行いだ。……いや、僕が甘かったね。見せた記憶をあんなふうに使うなんて思ってもみなかった。お姉さんを迂闊だなんて笑えないよ、本当に。自分を呪いたくなる」

「……ねむの記憶を知らなくても、わたしはおんなじことをしたよ」

「それはそれで大問題なんだけど」

 

 呆れ果てた目が痛かったが、甘んじて受け入れた。よく口を挟まずに聞いてくれたと思う。とんでもないことを宣った自覚はある。

 

「……灯花にロジックで勝負を挑むだなんて、愚かなことを。ういの救出は僕と灯花でも不可能だと断じた。それを覆そうとするだけでなく、自動浄化システムまでも完成させようという。無茶苦茶だよ。分別のない子どもですら不可能だと察するだろう」

「……わかってる。わたしも無謀だって思ってるから」

「ならどうして……! ワルプルギスの夜のことだってそうだ。僕は知らないし聞いてない。いろはお姉さんのことも、あなたが異様に魔女に詳しいことも! お姉さん。あなたは何を知っているの……ううん、何を隠して──」

 

 話し続ける唇を、手のひらで覆う。眼球がこぼれんばかりに瞠目して、ねむは言葉を止めた。

 

「わたしが説得したいのは灯花じゃない。ねむだよ」

「──……」

「ういを元に戻せば、自動浄化システムは最初からやり直せる。穢れを集めすぎないようにグレイさんの結界で調整すれば、少しずつゆっくり、システムを世界に広げられる。あなたを説得するのにシステムの完成は目指さなくていい。ただ、ういを助け出すことができれば……その方法を見つけ出せれば、ねむは灯花に記憶を思い出させてくれる?」

「……」

「灯花も記憶を取り戻して、ういが救える方法があれば、エンブリオ・イブを孵化させようとは思わない。ねむと同じで、あの子も友情に厚いから。

 ……ワルプルギスの夜が来るのは十月十六日。九月の月末には、ういを救う方法を、わたしはあなたに提出する。灯花に記憶を思い出させるかどうかは、そのときに判断して」

「……僕がその案を却下したら?」

「わたしは最後まで諦めない。だけど、もし、ういを取り戻せなかったら……本当に何もかも駄目になったら……」『カナメマドカ』を見つけられなかったら「魔女になって、ういと一緒に死ぬ。ねむ、あなたはわたしに灯花を迎えにいってと言ったけど、ねむがそうして。……二人で姉ちゃんのことを支えてあげて」

 

 そうは言ったけれど、ねむが頷かないことはわかっていた。案の定彼女はかぶりを振った。

 

「認められない。お姉さんが死ぬなんて。魔女になって死ぬなんて。それを看過したら今度こそ、僕たちはなんのために祈ったのかわからなくなる」

「……」

「僕も連れていって」

 

 宝石の目でわたしを見つめた。

 

「それが条件だ。全て失敗して、ままならなくなったのなら、僕もゆめお姉さんと一緒に、ういのところへ行く」

「……言うと思った」

「むふふっ……僕の命を背負ったら、お姉さん。絶対に失敗できないでしょう?」

 

 首元から、かつんと音がする。魂から淀みが抜き取られていく感覚に、つかの間ぼうっとしたあと、はっとした。

 マントに隠されていた左手に、グリーフシードが握られていた。わたしがあげたそれを、わたしに使ったのだ。ねむはしてやったりと意地悪に笑う。

 

「このグリーフシードは、心配性の誰かさんがくれたものだ。僕のものをどう使おうが、僕の自由だよね」

 

 そのまま、自分のソウルジェムにも当てて穢れを抜き取っていく。

 

「僕の質問に答えてはくれないんでしょう」

「……ごめんね」

「いいよ、もう。ゆめお姉さんが変なのは昔からだもの。いい加減慣れた。普段は従順でかわ──素直なくせに、肝心なところでは思い通りになってくれない。あなたの強情っぱりはまともに相手をするだけ無駄だ」

「変じゃないし、強情じゃない……」

「そんな人間なら、僕がこんなにも手を焼くことはなかっただろうね。お姉さんに大人しくしてくれと頼むだけ無茶な話だったんだ。これはあなたのじゃじゃ馬っぷりを見誤った僕が悪い。謝らなくていいよ」

 

 きゅっと唇を噛んだ。反論が出てこない。口撃力が高すぎる。何もそこまで言わなくても。

 

「……解放には協力してくれるんだよね?」

 

 シニカルな色が消えた声に顔を上げ、信じてほしくて、必死に頷く。

 

「だったら、今は、いいよ」

 

 ねむはひたいをわたしの肩に押しつけた。

 

「…………僕たちは一蓮托生になったんだから。これで、鬼が出ても蛇が出ても行き着く先は同じだ」

 

 ずいっと頬が寄せられる。肩から背中に腕が回る。耳朶に触れる吐息が熱く、震えていた。

 今日はずっと、ねむを泣かせている気がした。わたしだって本当は余計なことを言いたくなかった。黙っていられるならそうしていた。

 だけどここでマギウス全員に計画の停滞を認めさせておかないと、ういもねむもわたしの手では救えないところに行ってしまう。救済の魔女の因果を奪う前にイブが魔女化したら、わたしは二度と環ういを取り戻すことはできなくなる。ういと心中するつもりのねむにもだ。

 ただ半年待ってほしいと言っても、灯花やグレイさんに通るとは思えない。彼女たちが興味を持つか、脅威に感じるものが必要だった。それならもう【記憶】から情報を引きずり出すしかない。わたしがマギウスに対して持つことのできるアドバンテージは、それだけだ。

 話しすぎたかもしれない。もっと他に方法があったかもしれないという思いはずっと渦巻いている。

 取引はほとんど成立した。引き返すことはできない。

 後日詰めるところはあるだろうけれど、灯花は一度認めたら、ひっくり返すことはしない。猶予ができたことを信じて、ういを助け出す方法を探すのが今は最善だ。

 思いついた方法は、最終手段だ。できれば他の、より良い方法を見つけて、最終手段は罪悪感とともに一生胸に秘めておきたい。しかし何も見つけられず、切り札すら通じなければ、わたしはねむの言った通り、ういと同じ苦しみの中で眠ることを選ぶ。    

 

「ミャメ!」

「うわっ!?」

 

 ずいっと、わたしとねむの間にまんまるな頭が生えた。

 ツバメの使い魔が割り込んで、思い切り胸に突っ込んできたのだ。ねむの驚いた顔を最後に、視界がひっくり返る。咄嗟に背中を丸めて、頭こそ打たなかったけれど、かなりの衝撃に襲われた。

 下を見ると、使い魔がすりすりと胸元に頬を寄せていた。林檎の頬を模した顔の模様には覚えがある。その子はわたしがぶった子で、ねむの鉄球を運んでいた子でもあった。

 ういも抱きしめられるのが好きな子だった。姉ちゃんへの態度に比べて、わたしには生意気ばっかり言うのに、いつも近づいて来ては心音を確かめるようにこうして胸に耳を当てるのだ。

 ねむが噴き出すように笑った。

 やっぱり、彼女をこんなふうに笑わせられるのは、妹だけなんだと思った。

 茫然と見上げるわたしに、ねむはまつげに残る雫のかけらを指で払いながら、わたしに対してかういに対してかわからないけれど、からかうように言った。

 

「本当に君は、それが好きだね」

 





〈柊ねむ〉
 泣いてたんじゃなくて笑ってた。


〈環いろは〉
 二人分の桜餅を一人で食べ、自分では使うことのない髪飾り用の白いリボンをラッピングしたまま机の上に置いている。


〈環ゆめ〉
 迂闊。


 一応こんな髪型してるのでリボンが必要な感じ。


【挿絵表示】




 次回灯花ちゃん視点。
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