『華麗なる一族』に生まれた僕、パリピな太陽神に心を撃ち抜かれる。 作:えれくとろにくす
これは、昔の話。
会食の余興で、私が課題曲を弾いていた時のこと。
演奏を終えて、ぱらぱらとした拍手の中、ふと視線を感じた。
広間の隅。
一人の男の子が、じっとこちらを見ていた。
正確には、私を…ではない。
私の指と、鍵盤を。
爛々と目を輝かせて、瞬きも忘れたように、見つめていた。
(…み、見られてる…?)
当時、私は男の子と話すのがあまり得意ではなかった。
…今もだけど。
耳の先まで熱くなって、そそくさとピアノの前から逃げ出した。
……それが、他家の一つ年上の男の子。
『紅』との出会いだった。
彼が本格的にピアノを始めたと聞いたのは、それからすぐのこと。
同じ子供の部のコンクールで、名前をよく見かけるようになった。
「……ど、どうも」
「あ、うん。どうも」
顔を合わせても、交わす言葉はそれだけ。
仲良くなんて、全然なれなかった。
……でも。
(……はやい)
舞台袖から聴く彼の演奏に、私はいつも、そう思っていた。
トレーニングの合間の習い事としてピアノを弾く私と違って、彼はずっと長く、鍵盤の前にいるんだろう。
音を聴けば、それくらいは分かった。
……そして、ある時を境に。
彼の演奏は…
一音の狂いもない打鍵。
譜面がそのまま音になって零れ落ちてくるような、完璧なトレース。
(……すごい)
周りは「才能だ」と言ったけれど、私は知っている。
才能ももちろんあるだろうけど、あれは、積み上げた人の音だ。
だから私は…表面上は挨拶を交わす程度しか仲良くなれないけど。
(…紅…今日の演奏もすごい…)
密かに心の中で、ずっと応援してた。
(頑張って……紅…!)
高等部になった今でも、こっそり彼のコンクールを見に行ったりもする。
(…やった…また紅が賞取った…!)
紅の演奏が周囲から評価されてるのは素直に嬉しい。
(…え?パーマーと紅が縁談?…じゃあ紅は私のお兄ちゃんみたいな存在に?)
でも、私はその誰よりも昔から紅の演奏を知っている。
(……悪くないかも)
だから、きっと、彼の完璧な演奏を誰よりも聴いて…
誰よりも理解しているのは…
「……あれ?」
私だったと思う。
・
・
・
「……僕の一族の男子は、18歳で特定の相手がいない場合…基本的に勝手に縁談が組まれて、その相手と生涯を共にするんだ」
「へぇ~…」
……目の前でニコニコしながら腕を組む彼女…ダイタクヘリオスに向けて、僕はポツポツと事情を話していく。
「同等以上の家柄の縁談相手…格式高い良家同士の繋がりをより強固にする、ちょっと古臭いけど、政略結婚みたいな…感じ?」
「…で、その相手がパマちんってワケ?メジロ家のごれーじょうだもんね?」
「うん、まあ…そういうことになります」
笑っているはずなのに何故か感じる『圧』のせいで思わず敬語が出てしまう僕。
「……んで、今度パマちんと、こーぴょんが顔合わせ」
「……はい」
「そんでめでたくケッコン的な?」
「……まぁ、可能性としては」
「へぇ~~~……」
ヘリオスは、そう言って、腕を組んだまま、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
その仕草は妙に落ち着いていた。
普段なら、せわしなく両手をぶんぶん振ったり、テーブルに身を乗り出したり、意味の分からない擬音を混ぜながら喋っているはずなのに。
今は、ただ。ニコニコと僕を見ている。
「パマちんとはどーゆー関係なん?そいや…昨日も一緒にウチのレース見に来てた」
「……その、パーマーとは昔から顔見知りで、家同士の付き合いの場で何度か会ったことがあるっていうだけで」
「…なんでもっと早く教えてくれなかったん?」
「いや…最近まで僕も、そのヘリオスの友達がパーマーだって気づいてなかったんだ。僕の中では、ギャル友達のパマちんさんと、昔知っていたメジロパーマーがあまりにも繋がっていなかったというか……」
「へぇ~…ふーん」
「……はい」
さっきから相槌が薄い。
普段なら大袈裟かっていうくらい大きな相槌なのに……
「……」
「……」
…こんな無言の間も、ヘリオスとの間じゃ絶対発生しなかった。
沈黙に耐えられなかった僕はゆっくりと話を切り出す。
「…あ、あのそれで、縁談の話なんだけど」
「どーぞ?こーぴょん」
これはちゃんと説明しないと、きっと伝わらない。
僕はいたって真剣な表情で口を開く。
「最初の縁談はさ、ちゃんと断ったんだよ」
「さいしょ?」
「うん。前にも一度、家から縁談の話が来ていたんだけど、その時は断った……あの時はヘリオスと出会ったばかりの時で、自分の気持ちが、よく分からなかったから」
「……」
「でも、その後……まぁ、ちょっと、色々あってさ」
「あ…」
ヘリオスの表情が、ほんの少しだけ揺れる。
多分、彼女も分かったんだろう。
『…こーぴょんらしくなかった』
あの…コンクールの日の話だ。
「……あの時、正直に言うと、ヘリオスと、もう会わない方がいいのかもしれないって思った」
「……」
「僕とヘリオスは住む世界が違う、価値観とかも…なんか僕が勝手に舞い上がっていただけなんじゃないかって。だから……その時、新しい縁談の話が来た時に…」
僕は、紅茶のカップにかけた自分の指先を見つめる。
「前向きに考えるって…伝えたんだ」
「……」
「でも、その後にヘリオスの走りを見て、やっぱり…ヘリオスに会いたくなって、会いに行って、今日もこうして出かけて……その」
僕は一度、深く息を吸った。
「…断るのを、普通に忘れてた」
「……」
「……」
…また、沈黙。
店内のざわめきが、やけに遠く聞こえる。
ヘリオスは、なぜかキョトンとした表情で僕を見ていた。
「…ねぇ、こーぴょん」
「はい」
「ウチさ、いっこ思ったことあんだけど…言ってい?」
「なんでもどうぞ…」
僕の返事を聞いたヘリオスは、今度は呆れ顔で言った。
「意外とアホなん?こーぴょんって」
「……ぐふっ」
彼女の純粋な一言が胸に深々と刺さった。
「だってマジでヤバくね?ダイジなことじゃん!縁談って、ケッコンの話っしょ?そんなLANEの通知あとで見よ~的なノリで忘れるやつじゃなくね!?」
ほんとにその通りだ。
ヘリオスに説教される日が来るとは思っていなかった。
「こーぴょん、ピアノはバチバチで何でもできんのに、そーゆーとこマジぽんこつなん?」
「…否定はできません」
「しっかりして!これマジだかんね!」
「…ごめんなさい」
年下のウマ娘に喫茶店で詰められる僕。
なんて情けない姿だろうか。
(…こんな姿…死んでもルビーには見せられない)
「か、介入させてください凛子…!あんなお兄様のお姿…見ていられません…!」
「お待ちくださいルビー様…!もう少し!もう少し様子を見ましょう!」
後ろの席から愛しの妹の声が聞こえた気がするが気のせいだろう。
きっとヘリオスに説教されているショックでおかしくなってきてるんだ。
「…で」
「……?」
そんな時、ヘリオスが再び口を開く。
「結局、どーすんの??こーぴょんはさ??」
ヘリオスの声は静かだった。
さっきまでの怒りを含んだ声色ではなく、いつもの明るい声でもなかった。
彼女はただまっすぐに僕に問いかけていた。
「どうするって……」
僕は言い淀んだ。
どうするったって…何をだろうか?
縁談?パーマーとの顔合わせ?家の決めた流れを?
それとも……
目の前の、ヘリオスとのこと?
「……」
答えが、すぐに出てこなかった。
頭の中で、いくつもの言葉が絡まる。
一族、お母様、パーマー、ルビー、凛子さん、ピアノ、そしてヘリオス。
僕にとっては全部大事で、どれも無視できるものではなくて……
だから、何から言えばいいのか分からなくなる。
「……えっと」
僕がようやく口を開きかけた、その時だった。
「ウチは、ヤダ…」
「……え?」
顔を上げる。
ヘリオスは、少しだけ視線を逸らしていた。
組んでいた腕はそのまま。
けれど、その指先が、ぎゅっと自分の袖を握っている。
「パマちんはさ、ウチのズッ友だよ」
「……」
「マジ大事。ちょーラビュだし。パマちんがいてくんなかったら、ぶちアガれない」
「…うん」
「だからさ、パマちんのことは、めっちゃスキ」
「……でも」
そこで、ヘリオスは一度唇を噛んだ。
いつもの彼女なら、言葉なんて勢いでポンポン飛び出してくる。
けれど今は、一つひとつ、自分の中から探しているようだった。
「こーぴょんの隣にパマちんがいてさ…」
テーブルの上で彼女はいじいじと指をこまねく。
「こーぴょんがパマちんのこと見て、パマちんもこーぴょんのこと見て……そんで、二人がそういう感じになるの想像したら」
縋り付くような視線が僕に注がれる。
「胸んとこ、ぎゅってなるんよ」
「ヘリオス……」
「なんか、ヤだ」
「……」
「ウチ、ヤだよ」
その言葉は、とても幼くて。
「……えっと、僕は……」
僕も、何かを言わなければと思った。
何か、彼女を安心させる言葉を。
『僕はパーマーと結婚するつもりはない』
そう言えばいいのだろうか。
いや、でも、パーマーは大切な友人で、僕を助けてくれた人で、ヘリオスの親友でもあって。
その言い方だと、まるでパーマーを否定するみたいにならないだろうか。
そんなことを考えながら言葉を選びかけた、その瞬間。
「あ、でもでも!」
ヘリオスが、すかさず人差し指を立てた。
「パマちんとケッコンしないなんて言ったら、いくらこーぴょんでも怒るかんね!」
「えっ」
「パマちんは最高だから!ズッ友だから!パマちんとケッコンできんのにしないとか、そんな見る目ない発言したら、ウチ、マジでぷんぷん丸だから!」
「えぇ?」
僕は固まる。
今、僕はまさにその方向の言葉を選びかけていた。
危なかった。
地雷だったらしい。
「じゃ、じゃあ……えー、パーマーとけっこ……」
「パマちんとケッコンとか言ってったら、もっと激おこぷんぷん丸なんだが!?」
「えぇ…」
思わず、ため息をつきそうになったところを僕はぐっと堪えた。
「なんかヤダってさっき言ったじゃん!」
「いや、言ってたけど!言ってたけど今、パーマーと結婚しないって言ったら怒るって……」
「それはそれ!」
「どれ!?」
「パマちんは最高だから、選ばれないのはムカつく!」
「うん」
「でも、こーぴょんがパマちん選ぶのもヤ!」
「うん?」
「つまり……なんかもうゼンブヤダ!」
ヘリオスはそう言って、頬を膨らませながらプイとそっぽを向いた。
「……」
そんな彼女を前に、僕は一度、ゆっくりと目を閉じる。
そして、肺の奥まで深く息を吸い込んだ。
(……正直、もう何言っていいかわからない…でも…)
ヘリオスが教えてくれたんだ、逃げ方を
……誰よりも速く、自分が一番楽しいと思った方向へ。
「……ヘリオス」
「…なに?こーぴょん」
そっぽを向いたまま、彼女の返事はそっけない。
拗ねるように膨らんだ頬も、そのまま。
それでも僕は、その横顔をまっすぐに見つめて、口を開いた。
「パーマーはさ…素敵な人だと思う。昔から知っているし……今の彼女も、明るくて、優しくて、自分の足でちゃんと前に進もうとしていて…僕にはもったいないくらいだ」
「…えっ…もしかしてしゅきぴなん?パマちんのコト」
ヘリオスの視線が僕に刺さる。
だが、僕は堂々と答えた。
「いや、好きだけどしゅきぴではないよ」
「………あ…じゃあ、こーぴょんのしゅきぴは、まだウチだけ」
ヘリオスは何かを呟くと、急に下を向いて、顔を隠しながら僕に続きを促す。
「…続けてどぞ」
「……うん」
僕は、ゆっくりと頷いた。
…これまでの僕は、ずっとそうだった。
一族の意向に、流されてばかりで。
『華麗であれ。至上であれ。常に最たる輝きを』
その玉条を背に受けて、期待に応えることだけが、僕の存在理由だと思っていた。
…でも。
「ヘリオスに会ってから、僕は変わった」
「……」
顔を隠したまま、ヘリオスのウマ耳がピクリと動く。
「…僕にも、ちゃんと『僕』があった…それをヘリオスが、思い出させてくれた」
「……」
「だから」
僕は、一度、深く息を吸い込んだ。
…もう、迷わない。
「ちゃんと、言うよ。…僕の意思を」
そう言って、僕はテーブルの上のスマートフォンを、そっと手に取った。
「僕には……これからもずっと、一緒にいたい人がいる」
「……っ」
顔を覆っていたヘリオスの指の隙間から、潤んだ瞳が、僕をじっと捉えていた。
その視線を受け止めながら、僕は、通話履歴の一番上にある母の名を、迷いなくタップする。
…指先は、もう震えていなかった。
呼び出し音が、一回、二回。
『……はい』
冷たく澄んだ、母の声が、耳に届く。
「お母様、紅です」
『あら…貴方から折り返してくるなんて、珍しいですね』
その声音には、わずかな…けれど確かな、驚きが滲んでいた。
「はい」
僕は、ヘリオスから一瞬も目を逸らさずに。
ゆっくりと、けれど、はっきりとした声で、口を開いた。
「お母様……先程の縁談の件で、折り入ってお話が……」
・
・
・
カチャ…と。
白磁のカップがソーサーに触れる、涼やかな音が響いた。
雲ひとつない、晴れ渡った青空。
陽光を浴びて咲き誇る、鮮やかな黄色のマリーゴールド。
その花々に囲まれた、メジロ家の庭園。
僕はパラソルの落とす柔らかな影の下で、白いテーブルにつき、優雅に紅茶を傾けていた。
「……」
そして、その向かい側には。
「……」
綺麗にドレスアップしたメジロパーマーが、もじもじと、落ち着かない様子で座っている。
普段のギャルらしい派手さは少しだけ鳴りを潜め、どこか令嬢然とした淑やかな装い。
…なんだか、昔のメジロ家の会食で出会った頃の、彼女を思い出す。
(この格好で再会してたら…一発で思い出してたんだろうなぁ)
「……あ、あのさ…紅」
全く関係ないことを考えていたその時、パーマーが、ほんの少しだけ頬を赤らめながら、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……どうしたの?」
「いや…なんで…私との縁談、断らなかったのか…聞いても、いいかなって」
「……」
僕は、ティーカップを口元に運ぶフリをしながら、頭をフル回転させる。
(…断らなかったわけじゃないんだけど…も)
彼女になんと説明すべきか…
僕はそんなことを考えながら、先日のお母様との通話の記憶を呼び覚ます。
・
・
・
『そうですか』
電話越しから母の声。
その声は母にしては珍しく、僅かに驚きが混じっているように僕には聞こえた。
『初めてですね、自分から「どうしたいのか」をはっきりと私に伝えてくれたのは…嬉しく思いますよ…』
『…
母はそう言ってくれた。
なんだか久しぶりに母の口から名を呼ばれた気がした。
(…ちゃんと…伝わった…のか?)
ほっと息を吐き、目の前のヘリオスに視線を移そうとした…その瞬間だった。
『……ですが』
「…?」
『それは、それです』
「…………は、はい?」
スピーカーの向こうで、カチャリ、とティーカップの音がした気がした。
『貴方には縁談を、予定通りに進めていただきます』
「…お母様?」
『紅』
僕の言葉を、鈴を張ったような、それでいて刃のように冷たい声が遮る。
『貴方が縁談を断るのは、これで二度目です。それに…貴方は一度、この縁談を了承した』
「……っ」
『いいですか、紅。自分の意見を伝えるというのは、とても大事なことです』
母の声は、淡々と続く。
『ですが……タイミングを間違えれば、それはただの
「……」
『貴方も『華麗なる一族』の一員ならば……自分の言葉に、責任を持ちなさい』
超が着くほどのド正論だった。
ぐうの音も出ないほどの、完璧な理論。
一度は「前向きに考える」と言ったのは、他の誰でもない僕自身だ。
それでも…
「でも……母さん」
思わず、僕の口から縋るような声が出てしまう。
『……』
電話の向こうで、母が黙る。
長い、長い沈黙。
目の前のヘリオスが、様子を伺うように僕の瞳を覗き込む。
そして…
『…なら、功績を示しなさい』
「……え?」
『我儘を押し通すほどの……最たる輝きを、私に見せてみなさい』
母は言った。
『貴方が今、進めているピアノのコンクール……本戦がまだ残っているのでしょう』
「…はい」
『そこで、優勝しなさい』
「……!」
『それが叶ったのならば……貴方の「我儘」を、一族の「意思」として認めます』
淡々と、母は条件を告げる。
『ただし……それまでは、縁談は通常通り進めます。顔合わせにも、誠意を持って臨みなさい』
『いいですね?……『紅』』
そうして、通話は切れた。
・
・
・
「……」
カチャ…と。
白磁のカップを再びソーサーに戻す。
そして、あの日の通話を反芻し終えて、小さく息を吐いた。
(……つまり、今の僕は)
コンクールで優勝しなければ、この縁談を断ることすらできない。
そして、その結果が出るまでは、こうして顔合わせの席に座っている。
「…私さ、言ったよね?早く断らないと私なんかと結婚することになるって」
目の前のパーマーが言葉を続ける。
「なのになんで…断らなかったの?」
彼女の言葉を聞きながら、僕は考える。
(……こんな、不誠実な気持ちのまま……この席に着いていて、いいんだろうか)
彼女は僕の恩人だ。
灰色に沈んでいた僕の手を引いて、あの日、ヘリオスの爆逃げを見せてくれた人。
そんな彼女に対して、僕は…
「……」
「……」
自問自答を繰り返しながら、ふと顔を上げる。
その瞬間、パーマーと、目が合った。
不安げに揺れる、彼女の瞳だが、その瞳の奥には…
「…もしかして、もういいの?…ヘリオスのこと」
僅かながら…『期待』の色が混ざる。
(…僕は…なんてッ…)
その瞳を見た途端、僕の口から、勝手に声が漏れていた。
「パ、パーマー!あ、あのさ、僕本当は…!」
「…いやゴメン!やっぱ言わなくていいよ!」
「……え」
僕の言葉を遮ったのは、パーマーのやけに明るい声だった。
「なんか…私にとっても、聞かない方が良さそうだし!」
そう言って、彼女は、にへへと笑う。
「……パーマー?」
「それよりさ!紅!」
ガタッと椅子から立ち上がったかと思うと、パーマーはテーブルを回り込んで、僕の手を勢いよく引いた。
「わっ…ちょ、ちょっと?」
「ピアノ!聴かせてよ!」
「……ピアノ?」
「そ!あのヘリオスのレースの日からさ!なんか紅、変わった感じするし……今の紅のピアノが聴きたい!」
矢継ぎ早にそう言われた僕は、少したじろぎながらも…
その真っ直ぐな瞳に、頷いていた。
「……ああ、わかったよ」
・
・
・
パーマーに手を引かれるがまま、メジロ家の屋敷へと通される。
長い廊下を抜けて案内されたのは、大きなグランドピアノが鎮座する、来客用のホールだった。
「……懐かしいな」
このピアノは、何度か会食の余興で弾いたことがある。
「でしょ?ほらほら、座った座った!」
促されるがまま、僕はピアノの前の椅子に腰を下ろした。
「……勝手に弾いていいのかコレ?」
「だいじょーぶ!いけるいける!弾いてよ!何でもいいからさ!」
パーマーはそう言って、ピアノが一番よく見える位置の椅子にストンと座った。
「ほら、どーぞ?」
そして、ニコニコと頬に手をついて僕の演奏を待っている。
「……なんで、言わせてくれないんだよ」
僕は独り言を零しながら、鍵盤の蓋にそっと手をかけて…
(……なら、せめてピアノだけでも…全力で…完璧な演奏をパーマーに贈る)
埃ひとつない、丁寧に手入れされた白と黒が目に入った。
「……」
ゆっくりと鍵盤に触れようとしたその時。
「ねっ!紅!」
「……!」
パーマーの声に指が止まる。
ゆっくりと、パーマーの方に視線を移す。
すると…
「久しぶりに聴かせてよ!『紅の演奏』をさ!」
彼女は笑顔でそう言った。
昔と変わらない、その、素敵な笑顔で…
…その瞬間、何故か。
あの日の、ヘリオスとの会話が頭をよぎった。
『こーぴょんって、なんでピアノ始めたん?』
『……ピアノを弾くのが、一番楽しかったんだ』
自分の言葉が、胸の奥でリフレインする。
(……そういえば、ピアノ…楽しかったのか、僕)
そう、思った瞬間だった。
「……!」
白と黒の、モノクロであったはずの鍵盤が…
僕の目には、何故か…
虹のようにカラフルに見えた。
「…ははっ」
思わず笑みが溢れた僕はすぐに、鍵盤へと指を落とした。
・
・
・
広く静かなホールに響き渡るのは、ショパンのワルツ第一番。
『華麗なる大円舞曲』。
誰もが知っているショパンの代表曲の一つ。
弾むような曲調に、どこか気品の残る、煌びやかな名曲。
紅の指が、それを軽やかに奏でていく。
(やっぱ綺麗だな…紅のピアノは…)
パーマーは目をつむりながら、その音楽に浸っていた。
華やかな旋律が、くるくると回るように、ホールを満たしていく。
…だが、その時。
軽やかだったはずの曲調が、途端に、スピードを落とした。
(……ん?)
パーマーのウマ耳が、ピクリと揺れる。
その直後…
紅の指が、目にもとまらぬ速さと力強さで鍵盤の上を踊る。
「……!?」
敢えて緩急をつけた、その弾き方。
焦らして、焦らして……一気に解き放たれた音の塊に、パーマーは驚いて息を呑む。
(…え?…あ、アレンジ?……紅が…?)
あの、譜面を一音たりとも外さない紅が?
驚いたパーマーは、ゆっくりと目を開き、ピアノを演奏する紅へと視線を移した。
そこにいたのは……
真剣な表情、でも、それでも…
その紅い瞳の奥に、確かな光を灯して…
「……ふふ」
ひどく楽し気に、ピアノを弾く紅の姿だった。
「……あはは、良い顔してんじゃん」
パーマーはそれを見て、ふっと口元を綻ばせる。
そして、音に掻き消えるほどの小さな声で、ただ一言…
「……ねぇ、おかえり、紅」
とだけ、呟いた。
・
・
・
一方その頃。
『華麗なる一族』の屋敷の一室で、受話器を耳に当てる一人の執事の姿があった。
「はい、ですから今回は……私の伝達ミスもあります」
凛子は淡々とした声で、電話の相手に告げる。
縁談の断りの意思を、母上様へ迅速に取り次げなかったこと。
それが巡り巡って、ぼっちゃんの首を絞める「条件」になってしまったこと。
「ですから、次のコンクールでは……ぼっちゃんには必ず、優勝をしていただきたいのです」
すると、受話器の向こうから、しわがれた笑い声が返ってきた。
『ふぉふぉ……心配せんでも、このままいけば紅はかなり高い確率で優勝するはずじゃよ』
「…そうでしょうか」
凛子が平坦な声で問うと、電話越しの老人……紅のピアノの師匠は、事もなげに答える。
『もちろんじゃとも。実際、中学生の頃には同じコンクールの中学の部で楽々優勝しとるじゃろう?紅のピアノは、正直わしが教えることが無いくらい、既に完成しておるんじゃ』
『……それに、な』
師匠は一度、間を置いて、続けた。
『こと『コンクール』においては……紅はめっぽう強いからのぉ』
「……というのは?」
凛子が尋ねると、師匠は、ふぉふぉ、ともう一度笑って…
『簡単じゃよ……コンクールにおいて最も評価されるのは、どれだけ原曲を…』
『…
・
・
・
メジロ家の廊下に、ピアノの音が漏れ聞こえていた。
「……?」
その音に、ふと足を止める一人のウマ娘。
(……この音、ホールから)
彼女…メジロドーベルは、その旋律におびき寄せられるように、静かに廊下を進む。
(…もしかして…!)
そして、ホールの重厚な扉に手をかけ、音を立てないように、そっと開いた。
隙間から溢れ出す、『華麗なる大円舞曲』。
自由に緩急を刻み、跳ね回るように歌う、そのピアノ。
「……」
ドーベルは、その音の主の背中をじっと見つめて…
「…あれ?」
ぽつりと、一言だけ呟いた。
「…紅のピアノ……『下手』になってる…?」
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