『華麗なる一族』に生まれた僕、パリピな太陽神に心を撃ち抜かれる。 作:えれくとろにくす
なぜ……忘れていたんだろうか。
・
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指が、鍵盤の上で踊るように跳ねている。
ショパンのワルツ第一番、変ホ長調……『華麗なる大円舞曲』。
これまで何度弾いたかもわからない、体に染み付いているはずの曲。
これは、コンサートでもなければ、コンクールでも、なんならレッスンですらない。
ただ、パーマーひとりに向けた、ちょっとしたものだったはず。
でも、なぜだか僕の心臓はうるさいくらい高鳴って、鍵盤をたたく指が止まらない。
それは、完璧なリズムも、正確無比なタッチもどこかに放り出してしまったような……そんな演奏だった。
それでも僕は、体の中を駆け巡る熱に身を任せ、次の一音、更にその次の音、夢中で音を紡いでいく。
華やかな三拍子が、ホールを満たしていく。
そんな旋律の中で…
じわり…と僕の頭の奥から。
……いつかの光景がにじみ出す。
・
・
・
それは、懐かしい記憶。
セーラー服を着た女の子が黒と白の大きな箱の前に座り、その指を躍らせていた。
今より幾分低い視界で、物陰から隠れながらも、僕は『それ』をなぜか熱心に見つめていた。
『華麗であれ、至上であれ、常に最たる輝きを』
この時の僕には一族の玉条の元、数え切れない程の習い事が与えられていた。
剣道、弓道、柔道、華道、茶道、それから舞踊……
だが、そのどれもが、人並みにすらできなかった。
竹刀を振れば、あらぬ方向に投げ飛ばし。
花を生ければ、直ぐに枯らし。
舞えば、足がもつれた。
僕には…何もなかった。
じきに物心がつくであろう妹に、誇れるものが何一つなかった。
そんな僕の目の前でセーラー服の女の子が奏でる華やかな三拍子。
高らかに弾む、煌びやかで、楽し気な音。
……でも、今から思えば、その演奏はそこまで上手なものではなかったのかもしれない。
テンポは時々揺れていたし、音だって、とてもじゃないが正確無比とは言えなかった。
でも、当時の僕はその演奏から一音たりとも目が離せなかった。
「……」
どれくらい、そうしていたのかはわからない。
でも、突然、『それ』に向かっていた彼女が僕を横目で見つけた。
指がピタリと止まる。
音の余韻だけが、広いホールに残った。
そして彼女は、抑揚の少ない声で、口を開いた。
「あの…ぼっちゃん?また習い事をサボっておられるのですか?」
それに対して、自分が何と答えたのかは覚えていない。
でも確かあの時の僕は、ほっぺたを膨らませながら不貞腐れ、見え透いた嘘をついたと思う。
「ぼっちゃん、嘘はいけません、先ほどから舞踊の先生がお探ししておられましたよ」
「……」
都合が悪くなった僕はきっと下を向いたんだろう。
「ぼっちゃん……下を向いている暇はございませんよ?貴方は、私の家系が代々お仕えする『華麗なる一族』の一員なのです。その責任と誇りを持って……」
淡々と、彼女の説教が続く。
僕はほっぺたを膨らませたまま、それを右から左へ聞き流していた。
「世界でもご活躍されているお母様を見習って……」
いつもと同じ内容の説教に飽きてきた僕は、視線をゆっくりと上げる。
「……」
そして、ゆっくりと僕の視線は…
無意識に、白と黒の大きな箱へと引き寄せられていた。
まるで、それが僕を呼んでいるかのように、その時は感じた。
「……?」
彼女は、そんな僕の視線に気が付いたようだった。
説教の言葉が、ふつりと途切れる。
そして、少しだけ呆れたように……けれど、どこか優しく微笑んで、僕に言った。
「よろしければ……一度弾いてみますか?ぼっちゃん?」
確か、僕はその言葉に、恐る恐る首を縦に振ったんだと思う。
「ではこちらへ」
彼女はスッと椅子から立ち上がると、僕の小さな手を引いて、ピアノの前へと連れて行ってくれた。
「ほら、ここです。ここの鍵盤を、押してみてください」
僕を膝の上に乗せながら、彼女の白い指が示したのは、鍵盤のちょうど真ん中にある一つの音。
それが『ド』の音だなんてことは、当時の僕は知らない。
それでも、僕は言われるがままに、その場所へ精一杯手を伸ばす。
そして……
指先がひんやりとした白鍵に触れた。
「……」
実は、この時。僕は怖かった。
『これ』も他の習い事と同様、僕には向いていないんじゃないかって、そんな後ろ向きなことを考えていた。
でも、そんな不安など微塵も感じさせないくらい、自然な流れで…
僕の指先は…
まるで、そこに吸い込まれるように……
鍵盤が、指の下でことりと沈む。
ポーンッ
それは…僕が鳴らした、最初の一音。
一気に、その瞳に映る全ての物が鮮やかに色付いた。
透き通るような感覚が、僕の指先から生まれて、大きな黒い胴の中で震えて、ホールの高い天井へと昇っていく。
床から、壁から、空気の全部から、その残響が僕を包み込む。
「……」
指先に残るのは、確かな感触。
そして、いつまでも耳の奥に残り続ける、その残響。
音が消えゆく中、僕はその場から動けなかった。
心臓はドクドクと脈打ち、全身へ血を送り出す。
でも、それよりも速く。
頭で考えるよりも先に。
言葉になるよりも先に。
体の全部が……骨の髄から、指の先まで、僕を構成する全てが…
目の前の『それ』に向けて…
「これだ……!!!!」
と叫んだような気がした。
目の前で悠然たる立ち姿で佇む、黒と白のとっても大きな……『それ』。
『
初めて、僕を『何者か』にしてくれた。
初めて、心から『好き』になった。
初めて、僕の世界に『色』をくれた。
初めて、僕を温かく『照らして』くれた。
それが……
(……僕の…誇れる…もの)
僕の大好きな……『ピアノ』との、初めての出会いだった。
・
・
・
最後の和音が、広大なホールに響く。
「……はぁ……はぁ」
荒い自分の息遣いと共に…
窓から差し込む陽光に反射して輝く一粒の雫が頬を伝う。
そして、ポツリと音を立てて、白い鍵盤へと落ちた。
(……あ、あれ?汗かな?)
慌てて、それを右手で拭った僕は、ゆっくりと顔を上げて……
「こ、紅~!!!!」
その瞬間、僕の視界が真っ暗になった。
そして、ふんわりとした良い香りが僕を包み込む。
「ぐえっ!?」
正面から受け止めきれないほどの勢いと、首元に回された両腕。
突然の衝撃に、ピアノの椅子に座っていた僕の上体が大きく後ろへ仰け反った。
「パ、パーマー……!?」
視界を覆っていたのは、先程まで少し離れた場所で演奏を聴いていたはずのパーマーだった。
彼女は僕の問いかけなんて全く耳に入っていない様子で、僕の首に両腕を回したまま、興奮気味に声を上げる。
「すごかった!!なんかすごくすごかったよ、紅!!」
「すごくすごい…?…え、あ、まぁ、ありがとう……?」
「いや、ホントにさ!今までの紅の演奏と全然違って音がこう……バーッて広がって!それで、いつものなんか綺麗なだけの演奏じゃなくて……!」
「……き、綺麗なだけ?」
何となく棘があったような気もするが、今は黙っておこう。
「上手く言えないけど……楽しそうだった!」
パーマーは僕の肩へ顔を埋めたまま、言葉を続ける。
「久しぶりに紅が、ちゃんとピアノの前にいてくれたっていうか……音の一つ一つが、全部紅の音だったっていうか……!」
それは、少しだけ震えた声。
「……うん!さっきのは……すごく紅らしかった!」
「……」
その一言が、胸の奥へと静かに落ちた。
……
『…こーぴょんらしくなかった』
あの日、ヘリオスには届かなかったもの。
完璧に弾ききったはずなのに、そこには無かったもの。
でも、今は。
「……そっか」
僕の口元から、自然と笑みが零れた。
先ほどまで頭の中に広がっていた、ぼんやりとした記憶。
セーラー服姿の凛子さん。
初めて触れた冷たい白鍵。
自分の指先から生まれた、あの最初の一音。
誇れる兄でいるため、一族の期待に応えるために、いつの間にか忘れていた……大事な記憶。
『久しぶりに聴かせてよ!紅の演奏をさ!』
僕の首元ではしゃぐ、昔馴染みがそう言ってくれたから…大切な気持ちを思い出せた。
「……ありがとう、パーマー」
「……え?」
首元から、パーマーの小さな声が聞こえる。
そのまま、僕は首元に回されたパーマーの腕をそっと解くと、まだ興奮気味に何かを喋り続けている彼女の両肩に手を置いた。
そして、ゆっくりと体を離し、まっすぐに視線を合わせる。
「……」
「……」
そこで初めて、僕たちは現在の姿勢を正確に認識した。
抱きついてきた勢いのまま、パーマーは僕の膝の上に乗っている。
正面から向かい合い、両腕を僕の首へ回したまま。
僕の手は彼女の両肩。
お互いの息遣いまで聞こえそうな距離に、パーマーの顔があった。
「……っ」
パーマーの頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
耳の先をペタリと折りながら、揺れる瞳で僕を見つめていた。
「こ、紅……?どうしたの?」
「パーマー」
「な、なに……?」
僕は迷わず、口を開いた。
「次のコンクールで優勝したら、僕はこの縁談を断るよ」
「……」
広いホールに、唐突な静寂が訪れた。
パーマーの瞳が、ほんの少しだけ見開かれる。
その眉が一瞬、驚いたように持ち上がり……
「……はぁ~」
すぐに、何かを理解したように下がった。
「そーゆーことね……」
パーマーは僕の顔を見つめながら、力なく笑った。
「色々納得したよ……ほんと」
「……ごめん」
「お母様から、条件を出されたんでしょ?『コンクールで優勝しないと縁談断れない』みたいな…だから縁談を断れなかった」
「…うん、よくそこまで分かったね」
僕が頷くと、パーマーは呆れたように長い息を吐いた。
「はぁぁ……」
それから、僕の膝に乗ったまま、少しだけ目を細める。
「優勝できたら私を捨てて、ヘリオスんとこ行くんだ?」
「……」
「でも、優勝できなかったら、私と縁談するんだ」
彼女はわざとらしく口を尖らせて、僕の胸を指先でつんと突いた。
「そんで、私によしよししてもらって慰めてもらうんでしょ?」
「いやそこまでは言ってないよ?」
彼女の声音は冗談めいていた。
けれど、彼女の瞳の奥には、ほんの少しだけ寂しげな色が混じっている。
「……チャラくて悪い男だね~、紅は」
「まぁ……言い訳はしないよ。事実だから」
「開き直った!?」
「ただ、一つ訂正させてほしい」
「……え、何?」
僕は至って真剣な表情で答えた。
「僕はチャラい男じゃないよ?まだ恋愛経験がないから。パーマーも知ってるでしょ?」
「……」
「……?」
なぜか、またしても深い沈黙が訪れた。
パーマーは何も言わず、僕の顔をじっと見つめている。
やがて……
「はぁぁぁぁ……」
先ほどよりも、さらに深いため息をついた。
「もー……そういうとこだよ、ほんとに……」
「え?どういうところ?」
「そういうところは、そういうところ」
「……説明になってないけど」
「なってんの」
よく分からない。
チャラい男とは、豊富な恋愛経験を利用して女性を弄ぶような人間のことではないのだろうか。
だとすれば、これまでピアノが恋人であった僕には当てはまらないはずだ。
「……」
「……」
パーマーは、それ以上何も言わなかった。
ただ、僕の膝の上に乗ったまま、じっと僕を見つめている。
(……なんだ?)
怒っているようには見えない。
少しだけ潤んだ瞳で、僕の顔の一つ一つを記憶に刻みつけるように見つめている。
僕は何と反応すればいいのか分からず、きょとんとしたまま首を傾げた。
「……パーマー?」
「……ほんと、私はさ紅の…」
パーマーの表情が、ふっと柔らかくなる。
どこか諦めたような。
それでいて、大切なものを見るような、慈しむような、優しい微笑み。
「そういうとこが……ほんとに……」
「……?」
彼女の唇が、ゆっくりと動く。
「す……「あ」
僕があることに気が付き、声を上げた瞬間、パーマーの言葉が止まった。
「な、何さ……今ケッコー大事なこと言おうとしてたよ?」
僕はパーマーの肩から片手を離すと、そのまま彼女の背後を指差した。
「いや……後ろ」
「後ろ?」
僕の指先に釣られるように、パーマーがゆっくりと振り返る。
広大なホールの入り口。
僅かに開いた、重厚な扉の隙間。
そこに……
「……」
一人のウマ娘が立っていた。
両手で顔を覆い隠しながらも。
開いた指の隙間から、確かに大きな瞳を覗かせて。
僕たちの様子をじっと見つめていた。
「え?……ドッ…ドーベル!?」
「……あっ」
驚いた様子のパーマーの声に、彼女の肩がビクッと跳ねる。
「……」
「……」
「……」
そして、再び、静寂。
ドーベルの視線が僕の顔へ向く。
次に、僕の膝の上へ。
そして最後に、その膝の上で僕と向かい合っているパーマーへ。
「……あ」
パーマーの口から、小さな声が漏れた。
そこでようやく、自分が今どんな姿勢をしているのかを改めて理解したらしい。
「……ッ!?」
パーマーの顔が一瞬でさらに真っ赤に染まった。
「こっ…これは違うからドーベル!!」
パーマーは跳ねるように僕の膝から飛び退いた。
「わわっ……!」
急に重心が動いたせいで、僕は危うくピアノの椅子から転げ落ちそうになる。
その間にも、パーマーはドレスの裾を慌てて直しながら、扉の方へと駆け寄っていく。
「ド、ドーベル?これにはちゃんと訳があって、別に私と紅が、そういうことしてたわけじゃなくてね?ね?わかるでしょ何となく?ドーベル?」
必死に言い訳を続けるパーマー。
そんな彼女に対し、ドーベルは両手で顔を隠したまま、指の隙間から僕たちを見つめ……
「な、何も見てないから…私…」
「いや、絶対見てはいたよね?」
「……抱き着くとことか、見つめ合うとことか……少女漫画みたい…とか思ってないから」
「全部見てんじゃん!!」
パーマーの悲鳴にも似たツッコミが、静かなメジロ家のホールいっぱいに響き渡った。
(……少女漫画か)
そして、僕はとある執事の顔を思い出していた。
・
・
・
僕とドーベル…さんは、多分そこまで仲良くはない。
初めて会ったのは、僕がピアノに興味を持ち始めた頃。
会食の余興でドーベルさんがピアノを弾いていて、自分より年下なのに、なんて素敵な音を奏でるんだろうと夢中になってその指先を見ていた。
だが、ドーベルさんはそんな僕と目が合った途端、そっぽを向いてどこかへ行ってしまった。
それ以降も、何回かコンクールなどで一緒になったが、本当に挨拶を交わす程度だった。
なんなら挨拶した後は、すぐに彼女はどこかへ去って行っていたと思う。
というか、挨拶の時、目を合わせてくれたことが無かったような気もする。
(……そこまで仲良くないどころか…嫌われてたのか…僕?)
「……だから!さっきのは、紅が演奏を終えた途端に私が勝手に抱きついちゃって、その勢いで膝の上に乗っちゃっただけ!別にやましいことは何もないから!」
「……分かった。もう分かったから、そんなに必死に説明しなくていいよパーマー」
僕がそんなことを考えている間にも、パーマーによる必死の弁明は続いていた。
パーマーの説明を聞き終えたドーベルさんは、先ほどまでより幾分か落ち着きを取り戻した様子で、ゆっくりとホールの中へ足を踏み入れた。
「……」
だが、その視線は落ち着いていなかった。
ちらり…
一瞬だけ僕の方を見て。
目が合いそうになると、すぐに床へと逸らす。
数秒後。
また、ちらり。
今度は目が合った。
僕はそんな彼女に軽く会釈をしてみる。
「……!」
すると、彼女はすぐさま視線を僕からずらし、グランドピアノへ顔を向けた。
(……やっぱり、嫌われてるな…そんなあからさまに視線反らさなくても…)
疑念が確信へと変わり、心の中で涙を流す僕。
しかし……
(……いや、待て)
僕は改めて、ドーベルさんとの関係について考える。
もし、今後パーマーとの縁談がそのまま進んでしまった場合……
ドーベルさんは、僕の妹みたいな存在になるのか。
(ん…妹?)
その響きに、僕の胸の奥で何かが強く刺激される。
お兄様たるもの、妹的な存在に嫌われたままでいるなんて、あってはならない…と。
僕にはルビーという世界一、いや宇宙一可愛い妹がいる。
妹との接し方ならば、それなりに心得ているつもりだ。
(……よし、仲良くなろう)
意を決した僕は椅子から立ち上がり、姿勢を正す。
そして、できる限り穏やかな笑顔を作りながら、少し離れた場所に立っている彼女へ声をかけた。
「あの、ドーベルさん」
「……!」
僕に名前を呼ばれたドーベルさんのウマ耳が、ピンと立つ。
「はは、驚かしちゃってすいません。でも、こうやってちゃんとお話しするのはかなり久しぶりですよね?お元気でしたか?」
その瞬間。
ドーベルさんの動きが、ピシリと固まった。
「ド…ドーベル…『さん』?」
「え?はい、ドーベルさん」
「…お、『お久しぶり』?」
「ええ、幼少のころのコンクール以来でしょ?」
「……あ」
僕が頷くと、彼女の眉がほんの少しだけ下がった。
しょぼん…と音が聞こえてくるくらい、ドーベルさんは顔を下げる。
僕にとっては、長い間ほとんど会話をしていない相手への、ごく一般的な挨拶。
(……え、なんでそんな寂しそうな顔してんの?)
僕がそんなことを考えていると、彼女は顔をブンブンと振って、気を取り直したような表情をすると、口を開いた。
「……そうね」
そして、ドーベルさんは、ぷいと僕から顔を背ける。
「貴方がそう言うなら……久しぶり…なんじゃない?」
「…え?…久しぶり、じゃないんですか?」
「久しぶりなんでしょ?」
「いや、そうですけど…」
なんだそのまるで久しぶりじゃないみたいな言い方…。
(うん…仲良くなれる気がしない)
声をかける前よりも、明らかに距離が広がった気がする。
僕は浮かべていた笑顔を保ったまま、そっと視線を宙へ逃がした。
ドーベルさんも、僕とは反対の方向を向いて黙り込む。
「……」
「……」
広いホールに、先ほどとは全く種類の違う静寂が流れた。
(ルビー……お兄様、ダメだったよ、やっぱり僕の妹はルビーしかいないよ)
気まずい沈黙の中、僕は脳内の愛しの妹へ話しかけていた。
その時。
「あっ、そ、そうだそうだ!」
沈黙に耐えられなくなったらしいパーマーが、パンッと両手を叩いた。
僕とドーベルさんの視線が、同時に彼女へ集まる。
「ほら!さっきの紅の演奏!ドーベルも扉のところで聴いてたよね?」
「……!」
その言葉に、ドーベルさんのウマ耳がピクリと大きく揺れた。
「すごかったでしょ?いつもの紅のピアノとは全然違っててさ!なんていうか、紅らしくて、すっごく良い演奏だったよね?」
パーマーが同意を求めるように笑いかける。
すると、ドーベルさんは一度、先ほどまで僕が座っていたグランドピアノへ視線を向けた。
「……」
そして、今度は僕の方へ視線を移す。
やっと完全に目が合ったかと思うと、ドーベルさんはゆっくりと口を開いた。
「……少し、違和感のある演奏だった」
「違和感?」
パーマーが首を傾げる。
「私には、紅らしい良い演奏だったと思うけど……」
「……違う」
ドーベルさんは小さく首を横に振った。
「少なくとも……ずっと紅の演奏を聴いてきた私からすれば、さっきの演奏は明らかに違ってた」
「……え?」
僕は思わず声を漏らした。
(……今、紅って呼んだ?)
これまで僕に向けて使っていた「貴方」ではなく、ごく自然に。
まるで、昔からそう呼び慣れていたかのように、僕の名前を呼び捨てにした。
しかも……
(……ずっと僕の演奏を聴いてきた?)
初耳だった。
僕の記憶にあるドーベルさんは、コンクールで顔を合わせても、僕の演奏が始まる頃にはどこかへ消えていたはずなのだが……
「あの、ドーベルさん、なんで…「違和感って、どういうところ?」
僕が尋ねるよりも早く、パーマーがさらに質問を重ねた。
ドーベルさんは僕の些細な反応など目に入っていない様子で、グランドピアノを真っ直ぐに見つめている。
「紅の演奏はあんなものじゃなかった」
「……あんなもの?」
パーマーの眉がピクリと動いた。
言葉の響きだけを聞けば、馬鹿にされたようにも受け取れる。
けれど、ドーベルさんの横顔は至って真剣だった。
「私の好きな紅の演奏は……もっと正確で、綺麗で、完成されてた」
「え、好き?」
え、何この子?何なの急に?お兄様の情緒おかしくなるよ?
「鍵盤へ指を落とす位置も、音を切るタイミングも、ペダルを踏み替える瞬間も……全部、最初から計算されているみたいに正確」
おろおろしている僕に構わず、彼女は語りだす。
「速い曲でも、指の動きに一切の迷いがない。難しいパッセージがどれだけ続いても、音が潰れたり、濁ったりしない。一音一音が独立しているのに、全部が一つの旋律として繋がって聞こえる」
「……あの」
それでも、ドーベルさんの言葉は止まらない。
「それに、ただ正確なだけじゃない。作曲者が何を表現したかったのか、どこで息をして、どこで音を解放するのか……譜面に書かれていない部分まで、全部理解した上で弾いてる」
「……へぇ~」
隣でパーマーが感心したように声を漏らす。
「同じ曲を弾いている人は、今まで何人も見てきた。でも、紅ほど原曲を壊さずに、自分のものとして完成させられる人はほとんどいなかった」
「……」
もう黙って、ドーベルさんの言葉を最後まで聞くことにした。
「初めて子供の部で演奏を聴いた時から、ずっとそうだった。コンクールに出るたびに音が変わって、どんどん上手くなって……それでも、紅の音だってことだけは、最初の数小節を聴けばすぐに分かった」
「……」
すごく褒めてくれた。
それも、僕自身が気づいていないような細かなところまで。
(……あれ?この人、本当に僕のこと嫌いなのか?)
先ほどまで抱いていた疑問が、音を立てて崩れていく。
ドーベルさんは未だにグランドピアノを見つめながら、静かに言葉を続けていた。
「紅の演奏は……どんなに激しい曲でも、聴いていて怖くならないの」
「……怖くならない?」
「うん。どれだけ音が複雑に重なっても、どれだけ速くなっても……絶対に最後まで連れていってくれるって、信じられる」
その声は、先ほどよりも少しだけ柔らかい。
「全部の音が、あるべき場所にある。余計な音も、足りない音もなくて……それが、本当に綺麗で」
ドーベルさんの赤紫色の瞳が、もう一度僕へ向けられる。
「だから私は……紅の演奏が、ずっと好きだった」
「……」
「……」
静かなホールに、彼女の声だけが残る。
ドーベルさんは、じっと僕を見つめたまま……
「……あ」
そこでようやく、自分が何を口走ったのかに気づいたらしい。
彼女のウマ耳が、ピンと真上へ跳ねる。
次の瞬間には、頬から耳の先までが一気に赤く染まり、弾かれたように僕から顔を背けた。
「こ、これは違うから!!」
「え?」
「演奏!演奏の話だから!紅自身が好きとかどうとか、そういう意味じゃ…ないから!!」
「いや、知ってるけど…」
「……」
「……」
またしても、気まずい沈黙。
でも、なんかここまで自分の演奏を褒めてくれるなんて、流石にうれしい。
というかいつの間に、どこから僕の演奏を見てたんだろうか?
そんな時、ドーベルさんと僕の様子をしばらく見つめたパーマーがどこか面白そうに口元を緩める。
「ふーん……ドーベルって、紅のピアノがそんなに好きだったんだ?」
「……うん…演奏に関しては…好き」
パーマーの問いに対して、ドーベルさんは顔を赤らめながらも僕に目を合わせて、そう答えた。
「……ぐっ!」
ああダメだ。
ルビー以外でまたしてもダメージを負ってしまうところだった。
…と、僕が悶絶しかけていたその時。
「……でも」
ふいに、ドーベルさんの声色が変わった。
先ほどまでの羞恥を誤魔化すような慌ただしさが消え、静かで真剣なものへと戻る。
「だからこそ、分かる」
「……?」
僕とパーマーが、同時に彼女へ視線を向けた。
ドーベルさんは赤みの残る頬のまま、それでも今度は目を逸らさず、僕を真っ直ぐに見つめている。
「さっきの演奏は、今までの紅の演奏とは違ってた」
「……」
なんとなく、いつもと違うことはわかっていた。
いつもは無理やり抑え込んでいた自分の感情に身を任せた演奏。
そりゃ、これまでの僕の演奏を聴いていた人なら違和感を持つと思う。
「楽しそうだった。それは私にも伝わったし……今までにはなかった音だったと思う」
ドーベルさんは、一度言葉を止める。
「でも私から見れば……それは…」
そして、小さく息を吸ってから。
「間違いなく、下手になってた」
はっきりと、言い切った。
「今の弾き方のままじゃ、きっとこれまでと同じ評価は受けられない」
「……」
「次のコンクール……」
ドーベルさんの瞳が、真っ直ぐに僕を捉える。
「このままじゃ…紅は優勝どころか…入賞することも難しいと思う」
「……そっか」
ドーベルさんの言葉に僕は短く答えた。
そして、ゆっくりと目の前の鍵盤へと視線を落とす。
目に入るのは、白色と黒色。
でも、それはただの白黒ではなく、触れれば何色にでも姿を変える魔法のスイッチ。
自分が好きなものを、本当に好きと自覚するのは、意外と難しい。
証拠に僕は一番最初に好きになった『
僕はそんな自分があんまり好きじゃない。
だからこそ、自分の好きなものには誠実でありたい。
ピアノ、ルビー、ヘリオス、パーマー、凛子さん、お母様…あとついでに師匠。
…少し、増えすぎてしまったのだろうか。
「……」
……とにかく、どうやら今のままじゃダメみたいだ。
もしかして、せっかく思い出した色々なことをもう一度、忘れないといけないのか?
自分の感情を押し殺して、以前の完璧な演奏に戻れば、コンクールには勝てるかもしれない。
でもそれは、ヘリオスに対して…ピアノに対して誠実であると言えるのだろうか?
かといって、今のままでは優勝できず、縁談も断れない。
(……僕は一体、どの『僕』を選べばいいんだ…??)
答えの出ないまま、僕は何となくパーマーへ視線を向ける。
「……へへ」
そこには、緩みきった頬を両手で押さえながら、楽し気に尻尾を揺らすパーマーがいた。
「……あの、パーマー?」
「んぇ!?ど、どしたん?紅?」
「なんか嬉しそうじゃない?」
「いや別に?…ただ紅が優勝できなかったらどうなるかな~…って考えてただけ」
「……あ、そう」
僕はそう返すと、次は顎に手を当てて何かを考え込んでいる様子のドーベルさんへと顔を向ける。
「……あの、ドーベルさん?」
「…え!?きゅ、急に話しかけないでよ!」
「…あ、ごめん。えっと、何考えてたのかなって…」
「別に…紅がメジロ家に入ってきたら、ピアノ聞かせてもらったり、モデルになってもらったり…色々できるな~…って思ってただけ」
「…あ、そう」
一体僕はなんのモデルをやらされるんだろうか…?
「……」
うーん…
…どうしようか。
自分は断然小野寺派でした。