十六夜の器  -銀と緑が混ざる時-   作:幻想郷まったり書庫

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【読者への案内】 本作は東方Projectの二次創作ですが、独自解釈(まったり書庫流)に基づいた十六夜咲夜の「前日譚」を重厚なダークファンタジーとして描きます。

協会、人造キメラ、そして名前を失った少女「ρ(ロー)」。 なぜ彼女は吸血鬼を狩り、なぜ紅魔館のメイドとなったのか。 銀のナイフと、まだ見ぬ「緑」の色彩が混ざり合うまでの物語、幕開けです。


プロローグ 錆びついた揺り籠

 意識の最初の層にあったのは、匂いだ。

 鼻腔を突き刺す鋭利な消毒液の刺激と、古びた鉄が酸化していく乾いた香り。それが、私がこの世界で最初に認識した「空気」だった。

 

 まぶたを持ち上げる。

 重い。まるで泥の中に沈んでいたかのような倦怠感が、四肢の末端まで行き渡っている。視界に入ってきたのは、無機質な白い天井と、明滅を繰り返す蛍光灯の頼りない光だけ。

 チカ、チカ、と。

 その不規則なリズムだけが、ここが時間の流れる場所であることを教えていた。

 

「……個体識別コード、確認」

 

 頭上から降ってきたのは、温度のない男の声だった。

 私は身を起こそうとしたが、身体が拘束具に縛られていることに気づく。革のベルトが各関節と手首、足首に強く食い込み、痛みと熱が感触を伝えてくる。

 私が横たわっているこの台座——銀色の寝台そのものが、まるで氷のように強く締め付ける熱を奪っていくのだ。

 

「意識レベル、覚醒状態へ移行。バイタル安定」

「ならテストだ。すぐに始めろ」

 

 別の声が重なる。彼らの声には、生まれたばかりの赤子を迎えるような慈愛も、あるいは未知の生命に対する畏敬もない。あるのはただ、機械の動作確認を行う整備士のような、乾いた実務的な響きだけだった。

 

 私は、自分が何者かを知らない。

 名前も、過去も、ここに来るまでの記憶も、すべてが白い霧の向こう側にあった。けれど、不思議と不安はなかった。

 代わりにあったのは、奇妙なほどの「納得」だ。

 ああ、私はこうして縛られているのが正しいのだという、諦念にも似た秩序への理解。

 自分の身体を見下ろす。白い薄手の拘束衣。その下にある肉体は、まだ少女の柔らかさを残しているが、私にはそれが自分のものであるという実感が希薄だった。

 これは器だ。

 誰かがそう囁いた気がした。

 私の脳髄の奥底に刻まれた初期命令が、静かに告げている。この肉体は私という魂を収めるための家ではなく、何か別の、もっと強大な「機能」を培養するための試験管に過ぎないのだと。

 

「始めよう。——深度接続」

 

 男がスイッチを入れる音がした瞬間、世界が裏返った。

 

 ——痛い。

 

 喉の奥が、焼ける。

 熱した鉄柱を無理やり食道に押し込まれたような、暴力的な熱量。それが心臓から全身の血管へと逆流し、私の神経を食い破るように駆け巡る。

 体が逃れようと暴れる。締め付けられる。更なる痛みが走る。

 悲鳴を上げようとしたが、声にならなかった。口を開けた瞬間、そこから溢れ出したのは空気ではなく、歪んだ時間そのものだったからだ。

 

 視界が、歪む。

 明滅していた蛍光灯の光が、飴細工のように伸びていく。

 部屋の隅を舞っていた埃の一つ一つが、見えない粘液に捕らわれたように減速する。

 男たちの声が、低く、低く、重低音のノイズへと変わっていく。

 

 心臓の鼓動が、一分間に数回というレベルまで引き延ばされる。

 私はその限りなく停止に近い世界の中で、ただ一人、思考だけを加速させていた。

 これが、私の「機能」なのか。

 時間を引き延ばし、自分だけがその理の外側に立つ感覚。

 だが、何かが違う。

 喉の奥の痛みが訴えている。これは完成形ではない。私が求められているのは、こんな「緩やかな停滞」ではないはずだ。

 もっと鋭く。

 もっと冷たく。

 世界を完全に凍結させるような、絶対的な「停止」。

 それを目指せと、身体に埋め込まれた誰かの細胞が叫んでいる。

 

「……くっ、ぅ……!」

 

 私は歯を食いしばり、視界の端にある水銀時計を見つめた。

 止まれ。

 止まってくれ。

 私がこの痛みに耐えている意味を、証明してくれ。

 

 けれど、滴り落ちる水銀の雫は、空中でピタリと止まることはなかった。

 ゆっくりと、どこまでもゆっくりと、けれど確実に重力に従って落ちていく。

 完全な静止ではない。

 ただの、鈍化。

 

 プツン、と唐突に接続が切れた。

 世界が元の速度を取り戻し、先ほどのノイズが男の舌打ちへと変わる。

 

「……チッ。やはり駄目か」

 

 落胆を含んだその声は、鋭利な刃物のように私の鼓膜を裂いた。

 

「数値は期待値の六割。干渉深度が浅すぎる。これでは『停止』には程遠い」

「適合率は悪くないはずですがね。やはり、器の強度が足りませんか」

「あるいは精神面か。……おい、記録しろ」

 

 白衣の男が、私を見下ろす。そこには人間を見る瞳はなかった。不良在庫の部品を検品するような、冷え切った眼差し。

 彼は手元のバインダーに何かを書き殴りながら、私に向かって——いいえ、私の製造番号に向かって宣告した。

 

「検体番号十七。コードネーム、ρ(ロー)」

 

 ロー。

 その響きが、空っぽだった私の心に、じゅっと焼き印を押す音のように響いた。

 十七番目の文字。

 そして、Low——低い、劣った、ロー。

 

「期待外れだ。廃棄には惜しいが、前線の主力にはなれん」

 

 男たちは興味を失ったように背を向け、部屋を出て行こうとする。

 残された私は、拘束具が解かれた手で、自分の手首を押さえた。

 痛く熱い。

 まだ、あのアスファルトを溶かしたような熱が残っている。

 咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。血だ。噛み締めた唇から流れた血と、能力を行使した反動による内出血の味。

 

 私はよろめきながら、冷たい床に裸足を下ろした。

 ひやりとした石の感触が、足の裏から吸い上がってくる。その冷たさだけが、今の私に許された唯一の現実だった。

 壁に埋め込まれた鏡に、自分の姿が映る。

 銀色の髪。色素の薄い肌。そして、どこか虚ろな青い瞳。

 整っている、とは思う。

 けれど、それは美術品のような美しさではなく、工業製品としての均整だった。

 

 『吸血鬼側は男が多く、女は生け捕りを優先する』

 

 ふと、知識として脳裏に浮かんだ言葉がある。

 この身体が女性型として設計された理由。それは、敵である吸血鬼の油断を誘うためであり、同時に、この身体が「何かを宿す」ための構造を持っているからだ。

 子宮という、生命を育むための臓器。

 だが、私達にとってそれは、赤子を育てるための揺り籠ではない。

 奪い取った能力——彼らが『脳力』と呼ぶ、吸血鬼の脳髄から抽出した異能の種を植え付け、定着させるための培養炉。

 私は、器なのだ。

 それなのに、中身をこぼしてしまう欠陥品。

 完全な時間を宿すことができず、ただ緩やかに垂れ流すだけの、ひび割れた瓶。

 

「……ρ(ロー)」

 

 自分の唇で、その名を呟いてみる。

 嫌な響きだった。

 喉の奥に、ざらついた砂が詰まったような不快感。

 けれど、今の私にはそれしかない。その屈辱的な記号だけが、私がここで呼吸することを許される唯一の理由なのだ。

 

 部屋を出て、長い廊下を歩く。

 どこまでも続く無機質な通路。換気扇が低い唸りを上げ、どこからか漂ってくる薬品の臭いが鼻をつく。

 だが、その奥に混じって、別の匂いがした。

 獣のような、あるいはもっと古風な、腐りかけの薔薇のような香り。

 

【挿絵表示】

 

 廊下の横にある強化ガラスの向こう側。

 私はそこで、足を止めた。

 巨大な円筒形の水槽が並んでいる。緑色の保存液で満たされたその中に、それはいた。

 人ではない。だが、人の形をした何か。

 背中から生えた蝙蝠のような翼は引きちぎられ、断面から伸びた無数のチューブが、壁の機械へと繋がっている。

 吸血鬼だ。私の中の知識がそう記す。

 まだ、生きている。

 いや、「生かされている」と言うべきか。

 目を閉じたその顔は苦悶に歪み、口元からは断続的に気泡が漏れている。

 

 『吸血鬼の脳力は、生体からしか抽出できない』

 『死ねば灰になる。だから、殺してはならない』

 『最後の一滴まで、その理を搾り取れ』

 

 協会の教義が、頭の中で木霊する。

 私はガラスに手を触れた。冷たい。

 その向こうにいる怪物は、人類の敵だと教えられた。人を喰らい、夜を支配する恐怖の体現者だと。

 だが、今ガラスのこちら側に立っている私と、あちら側で管に繋がれている彼ら。

 その間に、どれほどの違いがあるというのだろう。

 私もまた、身体の中に異物を埋め込まれ、性能を測定され、期待値を出せなければ廃棄される部品の一つ。

 もし、私がこれ以上「劣化」したら。

 あるいは、任務で使い物にならなくなったら。

 私もまた、あの水槽の中へ放り込まれ、別の誰かのための部品として解体されるのだろうか?

 

 ぞわり、と背筋を悪寒が駆け抜けた。

 恐怖。

 それは死への恐怖ではない。

 自分が「自分」として完結できず、誰かのための資源として消費されることへの、生理的な嫌悪だった。

 秩序が欲しい。

 私が私であるための、確固たる輪郭が欲しい。

 誰かに利用されるだけの器ではなく、この足で立ち、この意思で世界を止めるための力が。

 

 ——ガチャン、と重い扉が開く音が、廊下の向こうから響いた。

 私は弾かれたように視線を水槽から外し、音のした方へ向いた。

 生存本能が、弱さを隠せと命じている。

 背筋を伸ばし、表情を消す。人形のように。あるいは、精巧に作られた銀のナイフのように。

 

 私の名前は、ρ。

 吸血鬼ハンター協会の、期待外れの十七番目。

 今はまだ、それだけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 私は裸足のまま、冷たい廊下を歩き出す。

 ペタ、ペタ、と吸い付くような足音だけが、静寂な通路に反響していた。

 その先に待つのが、さらなる地獄なのか、あるいは運命を変える出会いなのか。今の私には知る由もない。

 ただ、喉の奥に残る焦げ付くような痛みだけが、私が生きていることの確かな証だった。

 

 私の時間は、まだ動き出したばかりだ。

 緩やかに、重苦しく。

 まだ誰も、この時計の針を止めることはできない。




ご一読ありがとうございます。 プロローグでは、咲夜(ρ)の誕生と、彼女が置かれた「器」としての過酷な現状を描きました。

次回、第1部「鋼の揺り籠と不完全な双星」の第一話を書かせていただきます。
劣等品として孤独なハントを繰り返す彼女の前に、もう一人の欠陥品が現れます。

少しでも「先が気になる」と思っていただけたら、お気に入り登録や評価をいただけると執筆の励みになります。
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