重い瞼を持ち上げる。
視界に映ったのは、煤けたコンクリートの天井と、裸電球の頼りない明かりだ。フィラメントがジジ、ジジと羽虫が焦げるような音を立てて明滅し、薄暗い部屋に不安定な影を落としている。
ここは、病院ではない。ましてや、温かなベッドの上でもない。
吸血鬼を借るための吸血鬼ハンター協会。通称VHA。
裸足の裏に伝わる石造りの床の冷たさが、唯一の現実で意識を覚醒させる。
ここは教会の地下深くに設けられた、対吸血鬼用兵器の開発局の一室。
蒸気とオイル、そして古い血の匂いが染み付いた、鋼鉄の揺り籠。
機械的な動きで着込み、制服の襟を正した。
黒を基調とした、修道服を軍用にアレンジしたような機能的な衣装。スカートの裾には、隠しナイフを仕込むためのスリットが入っている。
着替えを済ませ、廊下に出る。
壁にはガス灯が等間隔に並び、煤けたガラスの中で青白い炎が揺れている。
すれ違うのは、武装した衛兵や、書類を抱えた事務員たち。彼らは私を見ると、一様に目を逸らすか、あるいは商品を見るような値踏みする視線を向けてくる。
「——ρ。第3修練場へ急げ。実働テストを行う」
スピーカーから、ざらついたノイズ混じりの指令が響く。
私は無言で頷き、歩き出した。
反論は許されない。思考も必要ない。
私は「道具」として造られた。吸血鬼という害獣を狩り、その能力を回収するための、使い捨ての道具として。
修練場は、高い天井を持つドーム状の空間だった。
床には無数の傷跡が走り、所々に赤黒い染みがこびりついている。
中央には、鎖で繋がれた「それ」がいた。
「グルルゥ……ッ!!」
獣のような唸り声。
人間だったものの成れの果て。下級の吸血鬼(グール)だ。
理性は崩壊し、ただ血肉を求める本能だけで動く怪物。だが、その身体能力は常人を遥かに凌駕する。
その背中には、協会製の拘束具が埋め込まれ、蒸気を噴き出していた。
彼もまた、テスト用の備品に過ぎない。
「開始!」
合図と共に、鎖が外された。
怪物が床を蹴る。
速い…!
爆発的な加速で、私の懐へと飛び込んでくる。汚れた爪が、私の喉元を狙って閃いた。
(——展開)
私は呼吸を止め、意識のトリガーを引く。
心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰するような熱が全身を駆け巡る。
世界が、重くなる。
怪物の動きが、水中映像のように鈍化する。
飛び散る唾液の飛沫。振り上げられた爪の軌道。剥き出しになった筋肉の収縮。すべてが手に取るように見える。
私の主観時間だけが加速し、周囲の時間を置き去りにする。
私は身体を低く沈め、怪物の脇をすり抜けた。
手にした銀のナイフを逆手に持ち、すれ違いざまに腱を狙う。
——ザンッ。
肉を断つ感触。
だが、金繊繊維が硬く、浅い一撃。
本来なら、完全に「停止」した無防備な相手の急所を、一撃で貫くはずだった。
けれど相手は動いている。
鈍化しているとはいえ、殺意を持って私を追尾してくるのだ。
怪物が空中で体勢を崩しながらも、裏拳を繰り出してきた。
想定外の動き。
「……ッ!」
回避が間に合わない。
私はとっさにナイフを盾にした。
ドゴォォォン!!
重戦車に衝突されたような衝撃と砕けるナイフの響く音がドームに響く。
身体が吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられて肺の中の空気が強制的に吐き出さた。
視界がチカチカと明滅し、視界が波紋のようにグネグネと粘つく。
「がっ、は……」
咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。
能力の維持が途切れる。
世界の速度が元に戻り、怪物の咆哮が通常のピッチで鼓膜を叩く。
「立ち上がれ、ρ! まだ動けるだろ!」
見物席からの罵声が飛びそうな意識の中脳に響く。
私は痛みを怒りでねじ伏せ、再び立ち上がった。
ふざけるな。
こんなところで、ただの餌として終わるわけにはいかない。
私は「劣化品」かもしれない。けれど、壊れて動かなくなるまで、止まるつもりはない。
再び意識を収集し、時間を歪める。
今度は防御など考えない。
寿命を削る覚悟で、魔力を限界まで酷使させる。
視界が灰色に染まる。
襲いかかる怪物の懐へ、自分から飛び込んだ。
爪が肩を裂く。熱い。痛い。
舞う自分の鮮血がゆっくりと目の端に映る。
けれど、その痛みすらも情報として処理し、私は怪物の心臓を見据える。
銀閃。
突き立てたナイフが、硬い肉を貫き、鼓動を止める感触が掌に伝わった。
同時に吹き出るどす黒い液体が、私の顔に降りかかる。
怪物が断末魔を上げ、崩れ落ちた。
——終了。
私は肩で息をしながら、血濡れのナイフを抜き取った。
制服の肩口が裂け、そこから鮮血が滴り落ちて怪物の血と混ざり床を汚していた。
「タイム、四十二秒。……遅いな」
「被弾一箇所。このレベルには無傷での制圧が条件だったはずだが…」
「まあ、囮(デコイ)くらいには使えるか」
頭上から降ってくる評価は、どこまでも冷ややかだった。
私は何も答えず、ただ崩れ落ちた怪物を見下ろした。
動かなくなった肉の塊。
彼もまた、誰かに捕まり、改造され、こうして使い潰されたのだ。
私と彼の違いは何だ?
首輪がついているか、いないか。
それだけの違いでしかない。
退出後は治療室へ向かわされる。
そこでの処置は、事務的なものだ。
傷口に再生促進の軟膏を塗り、包帯を巻くだけ。
看護婦は私と目を合わせようともせず、次の患者のカルテを用意している。
「今日はもう戻っていいわよ。明日は早朝から講義だから」
放り出されるように廊下へ出る。
私は自分の部屋——独房と呼ぶ方が相応しい、四畳半ほどの個室へと戻った。
鉄の扉が重い音を立てて閉まる。
狭い部屋には、硬いベッドと小さな机があるだけの、私と一緒の空っぽの部屋。
窓はなく、時間なんてわからない。
私はベッドに腰を下ろし、膝を抱えた。
傷口がずきずきと脈打つ。痛みが自分を生きていると感じさせてくれるようで、孤独だった。
壁の向こうには何百人もの人間がいるはずなのに、世界に私一人しかいないような気がした。
ふと、机の上に置かれた本に目が留まる。
吸血鬼に対するマニュアル。
読む必要がないほどに脳に叩き込まれた知識の固まり。
『吸血鬼は資源だ。生かして、奪い、利用する』
その中の協会の教義が頭をよぎる。
私は本を手に取り、その中身をぺらぺらと捲る。
知っている情報がコマ送りのように再度流れる。
私たちは、吸血鬼から奪った力をこの身に宿している。
私の銀髪も、青い目も、常人離れした身体能力も、すべては「混ざりもの」である証拠なのだと感じる。
純粋な人間でもなく、かといって怪物でもない。
境界線上の迷子。
「……ρ(ロー)」
自分の名を小さく呟いてみる。
誰が呼んだわけでもない、記号としての名前。
鏡の中の自分と目が合う。
そこに映っている少女は、泣いてはいなかった。
ただ、諦めと、微かな渇望が入り混じった瞳で、こちらを見つめ返している。
誰だこれは…自分の過去がわからない。私が私でないような、でも私と認識している姿がそこにある。
完璧になりたい。
誰にも脅かされず、誰にも利用されない、完全な存在に。
その思いだけが今日の戦闘を勝利に導けた気がする。
この胸に空いた冷たい風穴も、いつかは埋まるのだろうか。
カチ、カチ、カチ。
壁の時計が、無情なリズムで時を刻んでいる。
私の時間はまだ、誰かの手によって管理されたままだ。
この鋼鉄の揺り籠の中で、私はいつか来る「終わり」を待つだけの部品なのだろうか。
——いいえ。
私は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛み。
私は生きている。
今はまだ「劣化品」と呼ばれていても、この心臓は確かに私の意志で動いている。
いつか、必ず。
この冷たい壁の向こう側へ。
私の足で、歩いていくのだ。
時計の針が、深夜の零時を回る。
地下施設に朝は来ない。
けれど、私の物語は、この暗い箱庭の底から、静かに始まろうとしていた。