十六夜の器  -銀と緑が混ざる時-   作:幻想郷まったり書庫

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第一部:鋼の揺り籠と『不完全な双星』 第一章:ρとしての一日

 重い瞼を持ち上げる。

 視界に映ったのは、煤けたコンクリートの天井と、裸電球の頼りない明かりだ。フィラメントがジジ、ジジと羽虫が焦げるような音を立てて明滅し、薄暗い部屋に不安定な影を落としている。

 ここは、病院ではない。ましてや、温かなベッドの上でもない。

 吸血鬼を借るための吸血鬼ハンター協会。通称VHA。

 

 

 裸足の裏に伝わる石造りの床の冷たさが、唯一の現実で意識を覚醒させる。

 ここは教会の地下深くに設けられた、対吸血鬼用兵器の開発局の一室。

 蒸気とオイル、そして古い血の匂いが染み付いた、鋼鉄の揺り籠。

 

【挿絵表示】

 

 機械的な動きで着込み、制服の襟を正した。

 黒を基調とした、修道服を軍用にアレンジしたような機能的な衣装。スカートの裾には、隠しナイフを仕込むためのスリットが入っている。

 着替えを済ませ、廊下に出る。

 壁にはガス灯が等間隔に並び、煤けたガラスの中で青白い炎が揺れている。

 すれ違うのは、武装した衛兵や、書類を抱えた事務員たち。彼らは私を見ると、一様に目を逸らすか、あるいは商品を見るような値踏みする視線を向けてくる。

 

「——ρ。第3修練場へ急げ。実働テストを行う」

 

 スピーカーから、ざらついたノイズ混じりの指令が響く。

 私は無言で頷き、歩き出した。

 反論は許されない。思考も必要ない。

 私は「道具」として造られた。吸血鬼という害獣を狩り、その能力を回収するための、使い捨ての道具として。

 

 修練場は、高い天井を持つドーム状の空間だった。

 床には無数の傷跡が走り、所々に赤黒い染みがこびりついている。

 中央には、鎖で繋がれた「それ」がいた。

 

「グルルゥ……ッ!!」

 

 獣のような唸り声。

 人間だったものの成れの果て。下級の吸血鬼(グール)だ。

 理性は崩壊し、ただ血肉を求める本能だけで動く怪物。だが、その身体能力は常人を遥かに凌駕する。

 その背中には、協会製の拘束具が埋め込まれ、蒸気を噴き出していた。

 彼もまた、テスト用の備品に過ぎない。

 

「開始!」

 

 合図と共に、鎖が外された。

 怪物が床を蹴る。

 速い…!

 爆発的な加速で、私の懐へと飛び込んでくる。汚れた爪が、私の喉元を狙って閃いた。

 

(——展開)

 

 私は呼吸を止め、意識のトリガーを引く。

 心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰するような熱が全身を駆け巡る。

 

 世界が、重くなる。

 

 怪物の動きが、水中映像のように鈍化する。

 飛び散る唾液の飛沫。振り上げられた爪の軌道。剥き出しになった筋肉の収縮。すべてが手に取るように見える。

 私の主観時間だけが加速し、周囲の時間を置き去りにする。

 

 私は身体を低く沈め、怪物の脇をすり抜けた。

 手にした銀のナイフを逆手に持ち、すれ違いざまに腱を狙う。

 

 ——ザンッ。

 

 肉を断つ感触。

 だが、金繊繊維が硬く、浅い一撃。

 本来なら、完全に「停止」した無防備な相手の急所を、一撃で貫くはずだった。

 けれど相手は動いている。

 鈍化しているとはいえ、殺意を持って私を追尾してくるのだ。

 

 怪物が空中で体勢を崩しながらも、裏拳を繰り出してきた。

 想定外の動き。

 

「……ッ!」

 

 回避が間に合わない。

 私はとっさにナイフを盾にした。

 

 ドゴォォォン!!

 

 重戦車に衝突されたような衝撃と砕けるナイフの響く音がドームに響く。

 身体が吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられて肺の中の空気が強制的に吐き出さた。

 視界がチカチカと明滅し、視界が波紋のようにグネグネと粘つく。

 

「がっ、は……」

 

 咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。

 能力の維持が途切れる。

 世界の速度が元に戻り、怪物の咆哮が通常のピッチで鼓膜を叩く。

 

「立ち上がれ、ρ! まだ動けるだろ!」

 

 見物席からの罵声が飛びそうな意識の中脳に響く。

 私は痛みを怒りでねじ伏せ、再び立ち上がった。

 ふざけるな。

 こんなところで、ただの餌として終わるわけにはいかない。

 私は「劣化品」かもしれない。けれど、壊れて動かなくなるまで、止まるつもりはない。

 

 再び意識を収集し、時間を歪める。

 今度は防御など考えない。

 寿命を削る覚悟で、魔力を限界まで酷使させる。

 

 視界が灰色に染まる。

 襲いかかる怪物の懐へ、自分から飛び込んだ。

 爪が肩を裂く。熱い。痛い。

 舞う自分の鮮血がゆっくりと目の端に映る。

 けれど、その痛みすらも情報として処理し、私は怪物の心臓を見据える。

 

 銀閃。

 

 突き立てたナイフが、硬い肉を貫き、鼓動を止める感触が掌に伝わった。

 同時に吹き出るどす黒い液体が、私の顔に降りかかる。

 怪物が断末魔を上げ、崩れ落ちた。

 

 ——終了。

 

 私は肩で息をしながら、血濡れのナイフを抜き取った。

 制服の肩口が裂け、そこから鮮血が滴り落ちて怪物の血と混ざり床を汚していた。

 

「タイム、四十二秒。……遅いな」

「被弾一箇所。このレベルには無傷での制圧が条件だったはずだが…」

「まあ、囮(デコイ)くらいには使えるか」

 

 頭上から降ってくる評価は、どこまでも冷ややかだった。

 私は何も答えず、ただ崩れ落ちた怪物を見下ろした。

 動かなくなった肉の塊。

 彼もまた、誰かに捕まり、改造され、こうして使い潰されたのだ。

 私と彼の違いは何だ?

 首輪がついているか、いないか。

 それだけの違いでしかない。

 

 退出後は治療室へ向かわされる。

 そこでの処置は、事務的なものだ。

 傷口に再生促進の軟膏を塗り、包帯を巻くだけ。

 看護婦は私と目を合わせようともせず、次の患者のカルテを用意している。

 

「今日はもう戻っていいわよ。明日は早朝から講義だから」

 

 放り出されるように廊下へ出る。

 私は自分の部屋——独房と呼ぶ方が相応しい、四畳半ほどの個室へと戻った。

 鉄の扉が重い音を立てて閉まる。

 

【挿絵表示】

 

 狭い部屋には、硬いベッドと小さな机があるだけの、私と一緒の空っぽの部屋。

 窓はなく、時間なんてわからない。

 私はベッドに腰を下ろし、膝を抱えた。

 傷口がずきずきと脈打つ。痛みが自分を生きていると感じさせてくれるようで、孤独だった。

 壁の向こうには何百人もの人間がいるはずなのに、世界に私一人しかいないような気がした。

 

 ふと、机の上に置かれた本に目が留まる。

 吸血鬼に対するマニュアル。

 読む必要がないほどに脳に叩き込まれた知識の固まり。

 

『吸血鬼は資源だ。生かして、奪い、利用する』

 

 その中の協会の教義が頭をよぎる。

 私は本を手に取り、その中身をぺらぺらと捲る。

 知っている情報がコマ送りのように再度流れる。

 私たちは、吸血鬼から奪った力をこの身に宿している。

 私の銀髪も、青い目も、常人離れした身体能力も、すべては「混ざりもの」である証拠なのだと感じる。

 純粋な人間でもなく、かといって怪物でもない。

 境界線上の迷子。

 

「……ρ(ロー)」

 

 自分の名を小さく呟いてみる。

 誰が呼んだわけでもない、記号としての名前。

 鏡の中の自分と目が合う。

 そこに映っている少女は、泣いてはいなかった。

 ただ、諦めと、微かな渇望が入り混じった瞳で、こちらを見つめ返している。

 誰だこれは…自分の過去がわからない。私が私でないような、でも私と認識している姿がそこにある。

 

 完璧になりたい。

 誰にも脅かされず、誰にも利用されない、完全な存在に。

 その思いだけが今日の戦闘を勝利に導けた気がする。

 この胸に空いた冷たい風穴も、いつかは埋まるのだろうか。

 

 カチ、カチ、カチ。

 壁の時計が、無情なリズムで時を刻んでいる。

 私の時間はまだ、誰かの手によって管理されたままだ。

 この鋼鉄の揺り籠の中で、私はいつか来る「終わり」を待つだけの部品なのだろうか。

 

 ——いいえ。

 

 私は拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む痛み。

 私は生きている。

 今はまだ「劣化品」と呼ばれていても、この心臓は確かに私の意志で動いている。

 

 いつか、必ず。

 この冷たい壁の向こう側へ。

 私の足で、歩いていくのだ。

 

 時計の針が、深夜の零時を回る。

 地下施設に朝は来ない。

 けれど、私の物語は、この暗い箱庭の底から、静かに始まろうとしていた。

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