左腕のギプスが外れるのと同時に、呼び出しがかかった。
指定されたのは、統括指令室。
地下施設の中でも最上層、すなわち「選別する側」の人間がいる場所だ。
エレベーターが重苦しい音を立てて上昇していく。階数表示のランプが切り替わるたび、気圧の変化で耳の奥がパチリと鳴った。
——廃棄か、再利用か。
その二択しかないことは理解していた。
先日の単独任務での失態。生存はしたが、負傷によるコスト増と、タイムロスの大きさ。
協会(VHA)は慈善事業団体ではない。投資に見合わない不良在庫は、速やかに処分されるのがこの場所の理(ことわり)だ。
扉が開く。
指令室は、意外なほど静かだった。
壁一面のモニターには、各都市の監視映像が映し出され、数人のオペレーターが音もなくキーを叩いている。
中央の席に、背を向けた男がいた。
この支部の責任者、グレイソン監査官。
「——ρ。傷の具合はどうだ」
椅子が回転し、爬虫類を思わせる冷たい瞳が私を射抜く。
「完治しました。即時任務可能です」
私は背筋を伸ばし、機械のように答える。
少しでも弱みを見せれば、その瞬間に「解体室行き」のハンコが押される気がしたからだ。
グレイソンは手元のファイルを指先で弾いた。
「結構。肉体的な回復速度は認める。だが、評価は変わらん。お前の能力『時間希釈』は強力だが、決定力に欠ける。はやり単独での捕獲任務には不向きだ」
心臓が冷える。
やはり、終わりなのか。
「しかし、お前の『速度』には利用価値がある。そこで、だ」
彼はモニターの一つを指差した。
そこに映し出されていたのは、地下最下層——「特別保管区画」と呼ばれるエリアの映像だった。
鉄格子の向こう、薄暗い部屋の隅に、人影がある。
体育座りで膝を抱え、ぼんやりと虚空を見つめている少女。14歳ぐらいだろうか。
「個体名『Σ(シグマ)』。こいつとツーマンセルを組め」
Σ。
その名は聞いたことがある。
私と同じ「ギリシャ文字付き」の実験体。
だが、噂の内容は芳しくない。
『やる気がない』『命令違反の常習犯』『なぜか処分されない特異点』。
「彼女は……優秀なのですか?」
「優秀? ハッ、こいつが? とんでもない。あいつは協会の面汚しだ。吸血鬼を狩ることをいやがり、あまつさえ逃した過去もある。だが、能力の相性だけは非常に有用だ」
グレイソンは口元を歪めた。
「まぁ劣化品同士、せいぜい補い合え。一週間後の実戦テストで成果が出なければ、二人まとめて処分とする」
——選択肢は、ない。
「……了解しました」
私は踵を返し、再びエレベーターへと向かった。
下降する箱の中で、私は拳を握りしめる。
誰かと組む?
私が?
自分の命さえ管理できない私が、他人の命まで背負うというのか。
しかも相手は、あの「掃き溜め」のような噂のある男。
胃のあたりに、鉛を飲み込んだような重さが居座った。
◆◆◆
最下層は、空気の味が違った。
湿気とカビ、そして古い血の匂いが濃厚に漂っている。
ここは「これから使われる道具」置き場ではなく、「使い道に困った危険物」の保管庫だ。
看守にIDを見せ、鉄の扉を開けてもらう。
重厚な金属音と共に、その部屋は口を開けた。
「——また監査かよ。飽きないねぇ」
部屋の奥から、気だるげな声が降ってきた。
ベッドの上。
そこに——Σはいた。
年齢は映像で見るよりは上に見えるが、私より一回り小さい。
ボサボサの黒髪に、色素の薄い瞳。体全体は栄養が足りてないのか線が細く小さい。
手元で何かを弄んでいるのが目に映る。
よく見ると、それは知恵の輪のようだった。針金でできた安っぽい玩具。
私には支給されてない…欲しくはないが、何故かそこにも劣等感を感じてしまう自分に、嫌悪する。
「監査じゃない。……今日からあなたのパートナーになる、ρです」
感情を出してはならない。
私は努めて冷静に、事務的に告げた。
Σは手元の玩具から目を離さず、鼻で笑った。
「パートナー? またそのパターンか。前の奴は三日で死んだよ。僕の足を引っ張ってな」
「私は死ぬ気はない。あなたの足も引っ張らないわ」
「そう? 足手纏いには変わらないと思うけどね」
ようやく、彼がこちらを見た。
その瞳には、侮蔑でも敵意でもない、もっと質の悪い感情——「無関心」が浮かんでいた。
「ふーん、優等生ちゃんか。その制服の着こなし、吐き気がするほど『協会(あっち)側』だね」
彼はベッドから降りると、気怠げに伸びをした。
制服のシャツは着崩され、ボタンも掛け違えている。
規律の欠片もない。
「言っておくが、僕は『狩り』なんざ協力しないぞ。上が勝手に決めたことだ。ここで寝てるから、君一人で頑張ってきな」
「……廃棄処分になると言われても?」
「またその話。別に、どうせいつかは死ぬんだ。他人の都合で殺したり殺されたりするより、マシだろ」
その言葉に、押さえていた感情が膨らむ。
マシ?
死ぬのがマシだと?
どんなに泥水を啜っても、這いつくばっても、この「生」を繋ぎたいと思っているのに。
この子は、それを放棄している。それが自分を否定されたかのように感じてしまう。
「撤回しなさい」
「あ?」
「死ぬのがマシだなんて、撤回して! 私は生き残るためにここに来た。力ずくでも動いてもらう」
私は一歩踏み出し、彼女を睨みつけた。
Σは少し驚いたように目を瞬かせ、それから——ニヤリと笑った。
「いいね。その必死な顔。……じゃあ、試してみる?」
空気が、変わった。
彼の纏う気配が一変する。
気怠げな少年の仮面が剥がれ、底知れない冷たさが滲み出る。
「この最下層にはルールがない。模擬戦(おあそび)くらいは許されるだろ」
「……望むところよ」
私はスカートのスリットからナイフを抜いた。
狭い独房。
距離は二メートル。
私の間合いだ。脳力を使わせる間もなく、無力化できる距離。
——展開。
思考を加速させる。
世界の色が褪せ、音が遠のく。
時間鈍化。
Σがナイフを構える動作が、スローモーションで見える。
遅い。遅すぎる。そんなので私を足手纏い扱い? ふざけないで欲しい。
身体能力だけで言えば、彼は一般の兵士レベル以外だ。
私の速度には絶対についてこれない。
私は床を蹴り、一瞬で彼の懐へと潜り込み、首元にナイフを寸止めする。
それで終わりのはずだった。簡単な作業。
だが。
——カチリ。
脳内でスイッチの音ようなものが響いた気がした。
ナイフを持つ右手も、蹴り出そうとする左足も、狙い澄ました視線さえも、まるで自分のものではないかのように固まる。
時間鈍化が暴走したわけでもない、現に脳力はまだ継続している。
なのに、肉体だけが石像のように固定され、そのまま地面に縫い付けられていた。
しゃがんでΣがこちらを覗き込んでくる。
至近距離。手さえ動けば届く。だが指一つ動かない。
その瞳孔の奥に、奇妙な幾何学模様が浮かんでいるのが見えた。
「……ッ!?」
声も出ない。
呼吸さえ止められている?
これは——何!?
体の自由を奪う何か?
いくつもの疑問が浮かび消えていく。
「人がやっていい動きじゃないね。どんな脳力なの?」
Σの声が私の思考を停止させ、現実に引き戻す。
彼は動けない私を見下ろし、つまらなそうに呟く。
「でもね、速く動こうが何だろうが、僕が見ている限り誰も動けないんだ」
まさか——停止? 私が、どんなに足掻いても出来ない、渇望する脳力。
単純だが、凶悪だ。何度も停止で出来ることをイメージしていた。
相手の行動の全てを封じられる。最強の脳力。
だが、弱点もあるはずだ。
彼女の言い方から察するに視界から外れればあるいは。
私は動かない指先に、ありったけの意思を込めるがまるで動かない。
彼女は首を鳴らし、落ちていた知恵の輪を拾い上げた。
「ρ(ロー)だったか。……お前のその速さ、悪くない。僕が止めて、君が狩る。理屈の上じゃ最強だ。そりゃ教会も組ませようとするわけだ」
視線だけこちらに外さず、手だけで知恵の輪を動かしてもう一度しゃがんで顔を近づけくる。
「ねぇ、僕に協力しないかい?」
協力? パートナーではなく、なんだと…
「あー、そのままじゃ答えることもできないな。解除するけど襲いかからないでよ」
たった解除の一言で、いままでの戦闘体制が崩れて右手のナイフが地面に転がる。
動けるはずなのに、体が動き方を忘れたかのように、体にうまく力が入らない。
「ありゃ、解いたはずなんだけどなぁ。ちょっと強くかけすぎたね。君、強いから」
「……なんだ、っていうのよ。そんな、脳力」
「ま、僕の脳力なんてどうでもいいじゃん。それで、協力してくれるかな?」
協力。
いったい、なんだっていうの?
でも、今の私じゃこいつに敵わない。今は、敵対するのはダメだ。
「内容によるわ」
ようやくまともに動く手足を確認しながら、無難とも取れる答えを言うしかない。
「ま、そこはおいおいね。聞いてくれる考えだけ持ってくれるなら良いよ」
危険人物との協力、協会からの嫌われ者同士。
私が目指す生き残りに不安が膨らむが、一人ではどうしようもないと理解するしかない。
考えるのはよそう。
今はただ、この「危険な相棒」と共に、次の任務を生き延びることだけを考えなければ。
「……行くわよ、Σ。訓練の時間だわ」
「そうだね。まずはゴミにならないよう、頑張りますか」
彼女はニヤニヤしながら立ち上がり、私の後ろについた。
廊下に出ると、二つの足音が響く。
一つは規則正しく、もう一つは気まぐれに。
リズムは合わない。
けれど、一人きりの時のような、冷たい静寂はそこにはなかった。
背後に気配があることの、奇妙な期待感。
私はそれを認めまいと、わざと足を速めた。
◆
一週間後の実戦テスト。
結果は、協会の記録を塗り替えるものだった。
ターゲットは下級吸血鬼(レッサー・ヴァンパイア)の群れ5体。
廃墟と化した劇場での掃討戦、という設定の訓練場。
開幕と同時に、Σがステージの中央に立った。
「——開放」
彼が目を見開く。
ただそれだけで、襲いかかろうとしていた五体の吸血鬼が、空中で静止画のように固まった。
「今だよ、ρ!」
合図など不要。
私はすでに加速していた。
止まった相手の世界の中を、さらに引き伸ばされた時間で駆け抜ける。
静止した吸血鬼たちの間を縫うように疾走し、その四肢の腱を正確に切断していく。
抵抗も、回避もない。
ただの作業(タスク)。
初日に苦戦したとは思えないほどの圧勝。
私の鈍化とΣの物理停止。これほどまでにすごいとは…
全ての標的を無力化し、私はΣの隣に着地した。
彼が瞬きをし、能力を解除する。
ドサ、ドサ、ドサッ。
五体の吸血鬼が、同時に床に崩れ落ちた。
悲鳴を上げる暇さえ与えない。
圧倒的な制圧。
「……ふぅ。疲れるな、これ」
Σがこめかみを押さえてふらつく。
複数の動く標的を同時に視界に捉え続けるのは、相当な精神負荷がかかるらしい。
私は無意識に、彼女の方へ手を差し出していた。
倒れそうになった体を支える。
「……大丈夫?」
「ああ、目が乾くんだよ。……君こそ、鼻血出てるぞ」
「え?」
指で拭うと、確かに赤い血がついていた。
お互いに、ボロボロだ。
圧勝に見えて限界ギリギリの綱渡り。
けれど、私たちは生きている。それだけ脳力は体への負担が強い。
だが傷一つ負わず、かつてない速度で任務を完了させた。
見上げると、観覧席のガラス越しに、グレイソン監査官が立ち上がっているのが見えた。
その表情は驚きか、あるいは新しい玩具を見つけた歓喜か。
「……合格、みたいね」
「どうだか。これでまた、面倒な仕事が増えるだけだよ」
Σは皮肉っぽく笑ったが、その声には以前ほどの棘はなかった。
彼女は支えられていた私の手を、そっと離した。
「悪かったね、ρ。……君の背中、意外と頼りになったよ」
「……あなたの方こそ。盾としては優秀だったわ」
憎まれ口を叩き合う。
それが、私たちなりの契約の儀式だった。
廃劇場の天井から、埃混じりの光が差し込んでいる。
二人の影が、床に長く伸びて、やがて一つに重なった。
『不完全な双星』。
欠けた月と、光らない星。
寄り添うことでしか輝けない私たちは、こうして共犯者となった。
だが私はまだ知らない。
この出会いが、やがて訪れる悲劇への序章であることも。
そして、彼が抱える「本当の秘密」——なぜ彼が吸血鬼の利用をそこまで嫌悪するのか、その理由さえも。
物語は加速する。
止まることのない時間の中で、私たちだけが、束の間の「停止」を共有していた。