十六夜の器  -銀と緑が混ざる時-   作:幻想郷まったり書庫

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第一部:鋼の揺り籠と『不完全な双星』 第四話:加速する境界、静止する世界

夜の空気が、雨を含んだ獣の毛皮のように重たく、生臭い湿気を孕んでいた。

アスファルトの熱と泥、そして都市の排気ガスが混ざり合った不快な粘度が、肺の奥まで入り込んで神経の端々を無遠慮に逆撫でする。

 

「……生体反応、ランクB。事前の想定よりも高い魔力密度だわ」

 

網膜に直接リンクした暗視ゴーグルのHUDを確認する。バイタルは正常。大腿部ホルダーの銀製ナイフの装填数、捕縛用ワイヤーの張力、そして神経系を補助するインプラントの稼働状況。すべてグリーン。完璧な構成。

それでも、グリップに添えた指先の微かな震えだけが制御できない。

武者震いなんていう美しいものではないわ。任務を失敗すれば「劣化品」として即座に物理的処分を下される。その絶対的な恐怖が、生存本能のコードとして脊髄の奥底に刻み込まれているからよ。

 

「Σ、配置について。貴女の広域視界ロックが作戦の要になるわ」

 

振り返るが、相棒の初動は極めて鈍かった。

彼女は廃ビルの屋上の縁に立ち、無数のネオンが滲む眼下のスラムを見下ろしているだけ。その双眸に、任務を遂行しようとする熱量は欠片も存在しない。

 

「……ねぇ、ρ」

「何? もう作戦開始のタイムラインよ」

「吸血鬼ってさ、元はただの人間なんだよ」

 

Σのノイズ混じりの声は、アスファルトを叩く雨音よりもひどく静かで、空虚だった。

「高位の真祖によって、強制的に本能と肉体を書き換えられただけの被害者。協会はそれを『資源』と呼んで狩り立てるけれど……それって、僕たちと何が違うの?」

「全く違うわ」

 

私は0.1秒で即答した。わずかでも思考の余白を作れば、自分自身の存在意義という脆い基盤が崩壊してしまう。

「彼らは理性を失い、人を食う。私たちはシステムとして人を守る。そのための暴力よ」

「守る、ね。……狩り集めた彼らの脳髄や魔力経路を、金持ちの延命治療や兵器の駆動源として高値で売り捌くことが『守る』って定義なら、そうかもね」

「黙って。——行くわよ」

 

私はそれ以上の非論理的な対話を強制終了させ、躊躇いなく夜の底へと身を投げた。

倫理の議論など、生存競争においては全く無意味よ。私たちが明日も呼吸を続けるためには、協会に差し出す「成果」という明確な収益が絶対に不可欠なのだから。それがたとえ、誰かの人間としての尊厳を踏みにじる残酷な搾取だとしても。

 

現場は、都市の排熱と欲望が吹き溜まるスラムの最深部、息の詰まるような路地裏だった。

腐敗した生ゴミの臭気に、雨で希釈された微かな血の匂いが混ざり、不快なマーカーとして空間に漂っている。ターゲットの熱源反応は、突き当たりのゴミ集積所の陰でうずくまっていた。

 

「——確保(ロック)する」

 

私は意識のトリガーを引き、自身の知覚時間を極限まで『加速』させた。

相対的に、世界が泥水のように異常な粘度を持ち始める。雨粒の落下が遅延し、周囲の環境音が低く間延びした不気味なノイズへと変質していく。

その高密度の空間を、私は一本の銀色の弾丸となって駆け抜ける。

標的の四肢を瞬時に物理的拘束し、中枢神経を麻痺させて無力化する。訓練で幾万回と繰り返した、最も再現性の高い完璧な制圧手順。

だが、泥水を蹴り上げて着地した瞬間。私の視覚野が捉えた存在によって、その完璧な論理的思考は音もなくフリーズした。

 

「……う、あ……?」

 

そこにいたのは、汚泥にまみれ、ガタガタと震える十歳にも満たない人間の少年だった。

ボロボロのシャツ。その小さな唇からは、確かに未発達な吸血鬼の牙が覗いている。だが、私を見上げるその瞳は圧倒的な恐怖に濡れ、紛れもなく人間としての理性を完全に保っていた。

 

「こ、ないで……ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

子供は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

足元には首筋から血を流して絶命している野良犬の死骸があるだけで、人間の被害者はどこにも見当たらない。飢えに耐えかねて獣の血を啜っただけの、覚醒したばかりの初期個体。

——こんな、ただの泣いている子供が?

 

一瞬のノイズ。だが直後、協会の冷徹なマニュアルが私の脳髄を上書きする。『年齢・性別不問。鮮度良好な個体は、最優先の確保対象』。

 

(子供……。いや、対象の属性は関係ない。任務の完遂こそが絶対のルール。失敗は廃棄……すなわち私の死よ!)

 

胸の奥底から込み上げた致命的な躊躇いを、生存本能という暴力で強引に噛み殺す。

情けはミスの温床となり、ミスは確実な死を招く。それは「劣化品」である私が最も遠ざけなければならない、最悪の投資だわ。

私は顔の筋肉を凍らせ、手首の鋭いスナップで大腿部から拘束用の銀鎖を射出した。

 

——ガィン、と。

 

硬質で不自然な金属音が脳髄を叩き、私が射出した銀鎖が中空で唐突に静止した。

何かに物理的に衝突したわけではない。鎖が持つ運動エネルギーそのものが、空間の座標ごと完全に凍結されたのだ。

 

「……ッ、Σ!」

 

私は泥を蹴り、背後の路地口を鋭く睨みつけた。

暗がりに立つΣが片目を固く閉じ、開いたもう片方の網膜で、私の鎖を直接凝視している。自身の視界に捉えた対象の『運動』のベクトルを強制的にゼロにする、彼女特有の視覚干渉能力。

 

「邪魔をしないで! 評価係数が下がるわよ!」

「見なさいよ、ρ。あの子はまだ、誰も殺してない」

「だから何!? 吸血鬼という構造的欠陥に変わりはない! 協会に生け捕りで納品すれば、貴女の忌み嫌う『殺害』というプロセスは踏まずに済むのよ!」

「生け捕りにして、脳髄を開いて解体して、一生涯実験槽の中でモルモットとして生かされ続けるのが、あの子への救済だっていうの!?」

「それが私たち『劣化品』の、生き残るための仕事でしょう!」

 

感情を剥き出しにして叫ぶ私と、静かな絶望で見据えるΣ。

そのギリギリの論理的均衡を物理的に粉砕したのは、圧倒的な第三者の暴力だった。

 

——ドォォォォン!!

 

鼓膜を破る轟音。直後、Σの身体がまるで質量の無い紙屑のように吹き飛び、背後のコンクリート壁に深々と叩きつけられた。

 

「ガ、はッ……」

「Σ!?」

 

私の知覚の加速すら、その初動を全く捉えきれなかった。防衛のプロセスを構築する暇さえない。

深く沈んだ路地の闇の奥から、悠然と歩み出てくる一つの影。

上質な燕尾服を退廃的に着崩した、長身の男。

その存在が放つ規格外の魔力質量によって、周囲の空気が致死量の鉛のように重く澱み、私の皮膚にべったりとまとわりついてくる。

 

「……おや。私の可愛い仔に、随分と非効率で乱暴な躾をしてくれる」

 

協会のデータベースで網膜に焼き付けられるほど叩き込まれた、その顔、その骨格。

真祖還りの特Aランク指定個体。ゲイル・バージア。

目の前の子供の遺伝子を書き換え、吸血鬼へと変貌させた諸悪の根源。

 

「逃げ……て……」

 

壁際でΣが血反吐を吐きながら呻くが、運動機能は完全に破壊されている。

私は反射的に大腿部から予備のナイフを抜いたが、グリップを握る指先は氷のように冷え切っていた。

勝てない。

私の生存本能が、最大音量の警鐘を脳内に鳴らし続けている。この男とは、出力の次元も、戦闘の構成力も根本的に違いすぎる。

 

「邪魔だな」

 

ゲイルが、路傍の石を退けるような酷薄さで指を弾いた。

空気を自在に圧縮・操作する彼の異能。それが視認できるほどの高密度な衝撃波の塊となって、私の眉間へと殺到する。

極限まで圧縮された空気の断層。まともに直撃すれば、私の頭蓋など完熟した果実のように弾け飛ぶ。

回避行動のプロセスを——いや、間に合わない。

 

ギュィィィィン!!

 

耳をつんざくような、硬質なガラスが軋む極大の高周波。

だが、予期していた頭蓋の破砕という物理的結末は、私には届かなかった。

目の前の空間に、半透明の『鏡』のような高密度の魔力障壁が唐突に展開され、ゲイルの放った致死の圧縮衝撃波を、完璧な入射角で上空へと『反射』して弾き飛ばしていたのだ。

 

「……え?」

 

極限まで加速した知覚の中で起きた完全な計算外の事象に、私は間抜けな音を漏らすことしかできない。

限界まで見開いた私の網膜に焼き付いたのは、さっきまで汚泥の中で泣きじゃくっていた吸血鬼の少年が、小さな両手を広げ、私の盾となっている姿だった。

自身の放った致死の暴力に反射され、右腕を丸ごと吹き飛ばされたゲイルが、驚愕に顔を歪めて子供を見下ろしている。

 

「だめ……!」

 

この子供の持つ固有能力。圧縮された真祖の空気弾すらも弾き返す、極めて稀少で兵器としての収益性が異常に高い異能、『反射』。

受けた運動エネルギーを倍加してベクトルを反転させる絶大な力だが、覚醒したばかりの脆弱な肉体には、その出力の反動はあまりにも過剰すぎた。能力の起点となっている小さな両手からは、限界を超えた毛細血管が弾け飛び、凄惨な血の飛沫が噴き出している。

 

ピキ、パキパキパキ……。

 

空間に固定された不可視の鏡に、致命的な亀裂が走る。

それと完全に同期するように、子供の未発達な皮膚が裂け、さらにどす黒い血が間欠泉のように噴き出した。

 

「……な、んで……」

 

私の声帯が、論理的な制御を失って震えていた。

私はお前を狩ろうとした。協会のリソースとして鎖で繋ぎ、一生涯続く地獄の実験槽へ送ろうとしたのよ。

なのに、なぜ身を挺するの。

 

「——ふん。飼い主の手を噛む出来損ないか」

 

ゲイルが極めて酷薄に、つまらなそうに鼻を鳴らす。

真祖の異常な自己修復能力によって一瞬で再生を終えた右腕から、禍々しい魔力の鉤爪が形成され、圧倒的な質量と暴力でひび割れた鏡を完全に砕き散らした。

能力の結界を破られた子供は、糸が切れたマリオネットのように汚泥の中へ崩れ落ち、ピクリとも動かなくなる。私はそれを見下ろすことしかできない、システムに従属するだけの無能な部品なのか。

 

「親に逆らう欠陥品は不要だ。惜しいが、ここで廃棄するとしよう」

 

男が、無慈悲な処刑の爪を振り上げる。

子供の細い首を刎ね落とすための、絶対的な死の軌道。

 

その瞬間、私の思考回路が異常な熱を帯びて白熱した。

逃げるなら、今しかない。この子供が肉の盾として機能している数秒の間に、壁際のΣを回収して戦線から離脱すれば、生存の確率は論理的に最も高くなる。協会のハンターとして、生存を最優先する生物として、それが唯一の正解であり、完璧な構成だ。

 

——でも。

 

自分自身の延命という利益のために、身を挺して私を庇ったこの子供すら「消費期限の切れた道具」として処理するの?

生き残らなければならない。それは絶対のルール。でも、私は一体、何のために生き残りたいと思っていたの?

 

脳裏に、Σの静かな絶望の声がフラッシュバックする。

『利用するために生かすことへの拒絶』

 

気付けば、私は泥を蹴っていた。

死への恐怖も、協会からの評価も、システムとしての任務も、すべての論理的制約が脳髄から消し飛んでいた。

今の私を駆動させているのは、純粋で鋭利な、狂気じみた激情だけ。

 

「……させる、かぁぁぁッ!!」

 

自身の知覚時間を、リミッターを完全に破壊して極限まで『加速』させる。

相対速度は音速の壁を容易く突破し、これまでの安全マージンを取った出力とは比較にならない、自壊前提の異常な運動エネルギーが全身を支配する。

すでに自分の生体組織とは思えないほどの暴力的な速度で、手にした銀のナイフを真祖の肉体へと滅多打ちに叩き込んでいく。

 

白銀の閃光が軌跡を描くたび、圧倒的な強者の肉から鮮血の華が咲き乱れる。

ナイフを握る指先は返り血と自身の裂けた皮膚から流れる血でどす黒く濡れ、音速の神速に耐えきれなくなった両腕の筋繊維が、断裂の悲鳴を上げてブチブチと千切れていく。

能力の過剰出力による脳への致命的な反動で、視界の色彩が急速に奪われ、世界が白黒のノイズに沈んでいく。それでも、私の意識は眼前の真祖の肉体を微塵に切り刻むことだけに、恐ろしいほどの精度で集中していた。

 

白黒の世界の中で、苦悶と驚愕に顔を歪めるゲイルの表情が、スローモーションのように視界に焼き付く。

もう少し。あと数ミリ、あと数回の刺突で、この絶対的な絶望を殺し切れる——!

 

…チッ———

静かな、ひどく遅延した空間に、確かに響いた舌打ちのような音。

ゲイルの表情は変わらず、苦痛に歪んだまま固定されかけている。だが決定的に違うのは、その口から放たれた圧縮空気の弾丸が、間違いなく私に迫っているという事実だった。

音速を超えるそれは、視認した時点でもう目の前。避け、られない。

 

死ぬ——。

短い走馬灯が脳裏をよぎった瞬間、ピタリ、と。世界が完全に沈黙した。

頬を濡らすはずだった雨粒が、まるで精巧なガラス細工のように中空で固定されている。

空間そのものが凍りついたかのように静止し、私の眉間を打ち砕くはずだった空気の弾丸も、わずか数センチの距離で不自然な静止画へと変わっていた。

背後では、血まみれのΣが限界を超えて目を見開いている。両目からの出血、網膜が焼き切れるほどの凝視すらも、一切の動きを封じられている。

この完全に切り離された空間で、私一人だけが動ける。夢にまで見た、絶対的な『停止』の世界。

『行け、ρ!!』

静寂の底から、声なき叫びが鼓膜を打った気がした。

 

浸っている余裕なんてない。私は血と泥で滑るナイフの柄を限界まで握り込み、空中で静止した雨粒の壁を強引に引き裂くように地面を踏み込んだ。

泥の跳ね返りさえない。世界が動かないということは、空気も水も私を避けてくれないということ。纏わりつくような異常な密度を持った空間を押し退けるだけで、全身の筋肉が軋み声を上げる。

 

毎日夢にまで見た停止の世界。何をするか、どうすればいいのかなんて、幾度となくシミュレーションしてきた。

私しか動かない、私だけの世界。この異常な負荷を限界だと感じながらも、絶望的な状況からの逆転劇に、脳髄が痺れるような歓喜を覚えずにはいられなかった。

 

手持ちの銀製ナイフを逆手に構え、ゲイルの四肢の関節、そして魔力の経路へと直接突き立てる。

だが、刃が肉に触れた瞬間、普段とは全く違う異質な抵抗が腕を弾き返した。

時間が止まった肉体は、衝撃を逃がすことすらしない。まるで硬質なゴムか、凍りついた丸太に刃を叩き込んでいるような錯覚。

刺さらない。いや、無理やり押し込むしかない。

私は歯を食いしばり、手首の骨が軋むのも構わずに全体重を乗せてナイフをねじ込んだ。

血は噴き出さない。ただ、刃が肉を押し広げた空間にだけ、赤黒い液体が泥のようにこびりつく。

一度突き立てた刃を引き抜くのにも、筋肉の収縮すら止まった肉体が万力のようにナイフを締め付け、莫大な腕力を要求してくる。

それでも、私は止まらない。泥臭く、無様に、ひたすらに。

刹那の間に百を超える刺突。関節の隙間を抉り、魔力の脈動を物理的に断ち切る。ナイフの刃が欠け、私の指の皮が破れて血が滲もうとも、この静止した時間が続く限り、ただひたすらに破壊の楔を打ち込み続けた。

世界の時間が、堰を切ったように泥水を吐き出した。

 

空中で静止していた雨粒が一斉に重力を取り戻し、アスファルトを乱暴に叩きつける。それと同時だった。ねじ込まれたまま静止していた百を超える銀の刃が、強引に押し広げられた肉の反発と筋肉の収縮をいっぺんに解放される。圧縮されていた物理法則が暴走し、ゲイルの四肢からどす黒い血の飛沫が爆発的に噴き上がった。

「ガ、アアアアアアッ!?」

声帯すら切り刻まれた真祖の絶叫が、雨音を切り裂いて路地裏に木霊し、巨体が糸の切れた人形のように泥だらけの地面へと崩れ落ちる。

 

勝った。この絶望的な状況下での奇跡的な連携。本来なら協会の歴史に刻まれ、多大な報酬を約束されるべき戦果。

だが、私の視線はその肉塊には向いていない。

視線の先、血溜まりに倒れた子供の指先が、微かに痙攣するように動いた。

生きている。急所は外れている。まだ、間に合う。

 

今すぐインカムのスイッチを押し、回収班の座標誘導を行えば、この子供は極めて貴重なサンプルとして特製の拘束具と共に協会本部へ送られる。『反射』という特異能力。それは兵器としての収益性が異常なまでに高い。

確実に脳を物理的に開かれ、神経に直接魔力管を繋がれ、自我を奪われたまま一生を『生きた盾』として消費される未来の構成が、明確に透けて見えた。

 

私は泥にまみれた膝を突き、子供の傍らに寄り添った。

生気のない瞳が薄く開き、私を捉える。そこに恐怖や怯えの色はない。ただ、恐ろしいほどの静寂と安堵だけが浮かんでいた。

 

「……こっちを見ないで」

 

私は酷使して痙攣する指先で、インカムの電源を物理的にへし折るように切断した。

ノイズすら消えた絶対の静寂の中、子供の耳元で祈るように、いや、呪いをかけるように囁く。

 

「逃げなさい」

 

虚ろだった子供の目が大きく見開かれる。

「遠くへ。二度と人間に見つからない、協会の目も届かない場所へ。……行け!」

 

細く冷たい背中を、乱暴に突き放すように押した。

子供は痛みに軋む足を引きずり、何度もよろめきながら、深い路地裏の闇の向こうへと走っていく。途中で一度だけ振り返ろうとする気配がしたが、私は冷たい雨を正面から浴びるように、あえて背を向けたまま動かなかった。

 

泥濘む路地裏に、残酷なほど規則的な雨音だけが戻ってくる。

 

「……ρ」

 

背後から、血を吐き出すような荒い息継ぎと共にΣの声が響いた。

私を責めるような刺々しい口調ではない。死線を越え、どこか重たい憑き物が落ちたような、不思議なほど穏やかな響きだった。

 

「……捕獲対象を取り逃がしたわ」

私は極めて論理的で、冷淡な声色を構築する。

「真祖との戦闘の余波による空間の歪みで、ターゲットを完全に見失った。……あんな危険な能力、回収班の手には余る制御不能な代物だった」

「そうだね」

 

私の言葉に、Σが雨音に紛れるほど小さく笑った気配がした。

 

「……見失ったんじゃ、仕方ないよね」

 

私たちは泥だらけの肩を並べ、未だ痙攣を続ける真祖の肉塊を見下ろした。

冷たい雨が、私たちの罪拠である泥と血を、どこまでも平等に洗い流していく。

 

◆◆◆

 

協会の報告室を満たすのは、ひどく無機質で冷たい蛍光灯の光と、鼻を突く消毒液の臭いだった。先ほどの死闘で裂けた筋繊維を無理やり縫い合わせたばかりの私たちの身体からは、まだ微かに血と泥の匂いが立ち上っているというのに。

分厚いマホガニーの机に、叩きつけられた報告書の乾いた音が響く。

 

「真祖の討伐、その戦果自体は評価に値する。だが、あの検体を逃したとはどういうことだ!?」

 

上官の男の怒声が、鼓膜を物理的に叩く。

「『反射』の異能を持つ個体だぞ! あれの軍事的価値がどれほどのものか理解しているのか! お前たちは、莫大な利益を生むはずの特級資源をドブに捨てたんだ!」

 

資源。

その無機質な単語が鼓膜を震わせた瞬間、私の胸の奥で、何かが極めて冷たく、そして硬く結実した。

以前の私なら、この絶対的な権力者からの叱責に、存在意義を揺るがされて恐怖で縮み上がっていたはずだった。けれど今は違う。彼の喚き声は、論理性を欠いたただの薄汚いノイズとして、私の意識の表面を虚しく滑り落ちていく。

 

「……申し訳ありません」

 

私は感情の抜け落ちた、完璧な無表情を構成して深く頭を下げた。

「真祖の断末魔に伴う空間の歪曲と、自身の生存本能による極限状態の余波で、ターゲットを視界に留めるリソースが完全に枯渇していました。全ては私の能力不足による結果です」

 

「ええ。僕たちの致命的な不手際です」

両目を分厚いガーゼで覆われた隣で、Σも抑揚のない淡々とした音声で同意を重ねた。

 

忌々しげな舌打ちと共に、上官は苛立たしげに顎を振って退出を命じた。

廊下へと歩み出ると、背後で分厚い防音扉が重々しく閉ざされる。それはまるで、彼ら自身を狂った論理の檻に閉じ込める鍵の音のように響いた。

 

私は、まだ感覚の鈍い自分の手のひらを見つめ直した。

限界を超えてナイフをねじ込んだ関節の激痛の奥に、あの細く冷たい子供の背中を突き飛ばした感触だけが、鮮明な熱を伴って残っている。

それは、協会から常に「劣化品」という評価軸を押し付けられてきた私が、生まれて初めて自らの明確な意志と論理で選び取った、確かな手触りだった。

 

「……やっぱむかつくね、あの豚」

監視カメラの死角に入った瞬間、Σがぶっきらぼうに吐き捨てた。

「これで僕らは、晴れて正真正銘の『劣悪品』に降格ってわけだ」

「……そうね。でも、そんな底辺の私でも、お腹だけは空くみたい」

 

私はここで初めて、Σの顔を正面からまともに見た気がした。

痛々しい包帯で顔の半分を覆われたその横顔には、もう私を出し抜こうとするような「劣等生」の焦りはなかった。そこにあったのは、致命的な秘密を共有する共犯者の、静かな連帯の表情。

 

私たちの重たく引きずるような足音が、冷たく長い廊下にコツコツと反響する。

そのいびつで不揃いなリズムだけが、収益性ばかりを求めるこの狂った世界の中で、唯一信じられる確かな構成要素のように感じられた。

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