石畳の道を、傷だらけの少女は歩いていた。
皮膚は切れ、血が垂れて靴や凸凹な道を赤く染めている。
だが彼女は痛みに表情を変えない。
歩くたびに、ひとつずつ音が響く――しゃり、と砂の混じる音。
街角にある古びた屋台。
閉じかけたその前で、男がゴミ袋をまとめていた。
偶然、目の端に彼女の姿が映る。
「なぁ、大丈夫か?」
少女は立ち止まらない。
声の意味を理解していないように、ただ歩く。
男が慌てて前に出ると、ようやく顔を上げた。
「……なに」
声は掠れていた。
乾いた唇が少しだけ動くだけで、表情は変わらない。
「どうしてそんなに怪我してるんだ?」
「動いて平気なものじゃないだろうこれは」
「あるける、へいき」
短い返答。
血の滲んだ膝、腕、首筋。
小石が皮膚に埋まり、汚れがこびりついている。
それでも、彼女は痛そうに見えなかった。
「家は?」
「わかんない」
「誰か、探してるのか」
「ううん」
彼女は首を横に振る。
その動作に、迷いがまるでない。
まるで“探す”という行為そのものを知らないようだった。
男はため息をつき、懐から小さな布切れを取り出した。
せめて最低限の手当てでもと彼女の手に当てようとした時、少女は少しだけ腕を引いた。
「いやか?」
「……」
「血を止めるだけだよ」
「……いたいの?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、いい」
そう言って、腕を差し出した。
男は言葉を失った。
拒まれると思ったのに、彼女の方から受け入れている。
痛みに、まるで恐れがない。
いや――痛みを待っているようにも見えた。
布で腕を押さえると、刺さっている微細なゴミが傷口を荒らす。
その感覚を愛おしそうに彼女は見つめる。
それはとても優しい笑みだった。
男はその理由を聞こうと思ったが、飲み込み、黙って布を結んだ後、
放り出された道具などを手早く屋内に仕舞い込み少女の元へ戻ってくると、荷物を背負いながら彼女の手を取る。
「……どこか、いくの?」
「うちに来ないか? 手当てだけでも」
少女は首を傾げた。
“うち”という単語の意味を探しているような間。
それから、小さく頷いた。
「いたいの、する?」
「違う。治すんだ」
「……なおす?」
それ以上、彼は何も言わなかった。
ただ、何度も通った道を歩き出す。
家までの道は長く、会話はほとんどなかった。
街灯の少ない裏通りを進む。
砂利が足の下で音を立て、血の跡を点々と残していく。
冷えた空気が頬に刺さるようだった。
男が時折下へ視線を向けると、少女は歩みを一定に保ちながら焦点の定まっていない目で先を見つめていた。
つま先の擦れる音、衣擦れ。
それが彼女の存在を示す唯一の音だった。
「寒くないのか?」
「うん」
「痛くないのか」
「いたくない」
家に着くと、男は玄関で靴を脱がせた。
磨かれた木の床に血がぽたりと落ち、ゆっくりと染みを広げる。
光沢を帯びた板の表面に、それは暗く沈んでいった。
「座ってくれ、すぐ終わる」
彼女は言われた通りに座る。
男は彼女の腕を取り、汚れを拭い始めた。
濡れた布が擦れるたび、皮膚がひりつく。
皮膚に付いた泥や血を落とし終わると、彼女の身体に刺さった破片を取り除いていく。
不意に破片を抜いた傷口から血が少し弾け、男の手が止まる。
流れ出す見慣れた赤色を見た少女は微かに笑う。
ほんの僅かに。
その笑みは痛みの反射であり、喜びではなかった。
全体の異物は消えた、今はそれによって浮かび上がる無数の傷が彼女を包んでいる。
最後に男はまだ塞がっていない傷に消毒液を沁み込ませた布を押し当てていく、
傷に布が触れる度、少女の肩が小さく跳ねた。
沁みる。
けれどその痛みは、彼女の知るどんな痛みよりも静かだ。
怒号も罵声もない。
ただ、皮膚の奥で小さな火が灯るような感覚。
「痛い?」
「うん。でも、これ……すき」
「好き?」
「こうしてもらうの、すき。ちゃんと、されてるかんじ」
男は動きを止めた。
彼女はそれを不思議そうに見つめていた。
“痛みを与えられること”がさも当たり前であるかのような反応に、思わず息をのむ。
包帯を巻くとき、少し強めに締めると、少女が小さく息を漏らす。
だがすぐに落ち着き、視線を下げる。
「終わりだ」
「おわり?」
「もう、痛くしない」
「……そう」
長い手当てを終え、道具を片手に抱えた男が部屋を指す。
「帰る場所がないなら、暫くはここに居ていい」
少女は頷き扉を開けるが、部屋の中を見渡した後、
まるで自分の居場所ではないと示すようにゆっくりと外へ歩きだした。
「気に入らなかったか?」
「……ちがう。つめたくない」
「外、寒いぞ」
「だいじょうぶ」
そう言って、少女は外へと出て行ってしまった。
男は道具を片付け、玄関から外を見渡す。
やはり身寄りがないとはいえ家に迎え入れるのは駄目だったか、と反省しかけた視線の端に、黒い影が映る。
少女が、砂利の上に腰を下ろしたまま虚空を眺めていた。
包帯に朱を滲ませ、表情一つ変えずにいる。
男は少し考え、ため息をついた。
そして彼女を抱き上げ、家の中へ戻り暖炉の前に座らせる。
「ここなら温かい。火に近いから少し熱いけどな」
「いたい?」
「まぁな、やけどはしないと思うがどうだ?」
「……うん、ここでいい」
男は包帯が燃えないように少女の距離を調整し、椅子に腰を下ろした。
少女は火の光を見つめながら、何も言わなかった。
その夜、少女は初めて「暴力ではない痛み」を知った。
けれど彼女は、それを“優しさ”と呼ぶ方法を知らなかった。
だからただ、燃えそうな距離に留まり続け、
――その熱を、いつもの痛みとして受け取っていた。