目を覚ましたとき、最初に感じたのは痛みではなかった。
何も感じない、という感覚だった。
体が重い。
手首に触れる紐のざらつきも、少し遅れてようやく皮膚に伝わる。
誰かの声がした気がするが、それが自分に向けられたものなのかどうかすらわからなかった。
けっきょく、なにもかわらない。
その理解だけが静かに胸へ沈んでいく。
三人の男がいる。
粗雑な笑い声。
近づく足音。
腕を掴まれ、引きずられる。
痛みはあって、でもどこか他人事のように遠かった。
抵抗しようとは思わなかった。
思えなかった。
もう、そのやり方を忘れてしまっていたから。
「……ぁ…」
声にならない音が喉に落ちた。
彼らの手が荒く肌に触れても、表情ひとつ動かない。
怖いのか、痛いのか、嫌なのか——全部、どこかに沈んでしまってわからない。
代わりに浮かんでくるのは、静かな部屋の橙色の光。
男の帰りを待っていた、あの場所。
毎日そこに座っていた。
扉が開く音がしたら振り向いて、
息をするように、彼の姿を探していた。
“あたたかい”と口にした日、
心臓のあたりが少しだけ痛んだのを覚えている。
けれどそれは、今みたいな痛みではなかった。
どうして、あんな気持ちを覚えてしまったんだろう。
胸の奥がしめつけられる。
覚えなければよかった。
知ってしまえば、もう戻れなくなる。
過去の世界に逆戻りするのがこんなにも苦しいなんて知らなかった。
けれど、戻っていく。
少しずつ、確実に。
「……どうせ、来ない」
自分でも驚くほど小さな声が、唇から漏れた。
誰もこの言葉に興味がない。
来ないよ。
探してくれないよ。
ここで待っていればまた会えるなんて考えても……無駄。
昔から知っていたはずなのに。
でも、男と過ごした日々が頭に浮かぶたび、
その“当たり前”が崩れていくのがわかった。
帰ってきた彼が自分を見つけてくれた。
掴んでくれた手の温度。
名前のない感情。
声にならない安心。
それだけが、今の彼女を繋ぎとめていた。
「……かえり、たい……」
その言葉は、誰にも届かないほど小さかった。
けれどその“声”を、空気を揺らしたわずかな瞬間を男たちは見逃さなかった。
「今……なんつった?」
一番近くにいた男がゆっくり振り向く。
リオーモは顔を上げられない。
ただ、呼吸がひとつ震えた。
その反応が、彼らには十分すぎる刺激だった。
「帰りたい、だぁ?」
「ああ? どこに? 誰のとこに?」
足音が近づく。
乾いた床を踏む音が、妙に長く尾を引いて耳に刺さった。
リオーモは縮こまって動けなかった。
身体を守る姿勢すら取れずにいる。
「なに勝手なこと考えてんだ?」
髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
白んだ視界の中で、男の顔がひどく歪んで見えた。
「逃げ出す気なんて、欠片でもあると思うとよ」
鈍い音とともに頬が揺れた。
殴られたのだと理解するまでに、一瞬かかった。
「ムカつくんだよ、ほんと」
次の瞬間、横腹に蹴りが落ちる。
呼吸が千切れ、声が漏れ、床に倒れ込む。
ひとりが蹴りあげれば、
もうひとりが腕を掴んで逆方向に引きずり、
最後のひとりが無意味に背中を踏みつけた。
「帰りたい? 帰りたいってよ!」
「どこに帰んだよ、言ってみろよ!」
「言えねぇなら黙ってろ!」
彼らの声が、遠くで反響しているように聞こえる。
痛い。
でも、それ以上に——悔しい。
何に? だれに?
自分でもわからなかった。
ただ、心の奥で小さく灯った“かえりたい”が、
踏みにじられて消えかけていくその瞬間だけは、
はっきりと胸が痛んだ。
彼女は理解する。
また戻っていくのだ、と。
あの温かさは、幻のように遠ざかっていく。
諦めることだけが、生き延びる術だった頃へ。
世界は再び、希望を閉じていく。
◆
暗い路地の奥に踏み込んだ瞬間——
湿った空気が肌にまとわりついた。
何かが、そこにいる。
胸の奥を指で押されたような感覚に背を押され、男は歩幅を速めた。
そして耳に届いた、鈍い衝撃音。
殴る音。蹴る音。
息を押し殺した苦しい悲鳴。
すべてが“最悪”の形をしていた。
男は駆け出した。
そして、視界が開けた。
薄闇の中心で、三人の男が円を作るように立っている。
その足元に、細い身体が折り畳まれるように倒れていた。
瞬間、呼吸が止まった。
理解したくない現実が、無理やり瞼の裏へ流し込まれる。
「……おい」
自分の声が震えていることに気づく余裕はなかった。
声が、自然に低くなった。
いや、低くなったのではない。
押し殺した結果、こうならざるを得なかった。
三人のうち一人が面倒そうに振り返る。
「何だよ、あ? 邪魔すんなって――」
その言葉が最後まで届く前に、男の何かが切れた。
理性が、ちぎれる音が、確かに自分の内側で聞こえた。
「何してんだ……てめえら」
言葉ではない。
吠えた。
怒鳴りつけた。
喉の奥から勝手に噴き上がる叫びのような声だった。
三人が「は?」と眉をひそめる。
その瞬間、男はすでに歩き出していた。
一歩ごとに、怒りが骨を軋ませる。
足裏が大地を踏むたび、腹の底に溜め込んでいた黒いものがどろりと溢れる。
視界が狭まり、耳鳴りがして、何に触れても壊してしまいそうだった。
「離れろ」
地を震わせる一喝だった。
自分の声なのに、まるで他人の怒号のように響いた。
三人組の空気が、そこで初めて変わる。
苛立ちが、警戒に。
警戒が、明確な敵意に。
視線が彼女から男へ、じわりと移っていく。
「なんだよ……こいつ、キレてんのか?」
「ちょっと使ってただけだろ、別に――」
「離れろっつったんだよ!!!」
怒鳴り声が森を砕くように響いた。
喉が裂けそうだったが、それでも足りなかった。
自分でも制御できない。
止められない。
彼らが彼女の近くにいるというだけで、拳が震える。
男の視線が彼女へと落ちる。
うずくまる、細い肩。
土に滲んだ涙の跡。
虚ろな目の奥で、彼の存在を確かめるように微かに揺れた光。
胸の痛みが、怒りと混ざり合う。
ふくれ上がる。
裂ける。
息が荒い。
呼吸の仕方すらわからない。
もう、抑えられない。
拳が震える。
歯が鳴る。
視界が赤く染まっていく。
「てめぇら……」
次の瞬間——
三人組の前で、男の足が一歩、地を叩いた。
その音だけで、路地が揺れたように感じた。
三人の肩がびくりと跳ねる。
その反応でさえ、もう彼の怒りを煽るだけだった。
「離れろ……?」
ひと呼吸。
「……いいや」
一拍。
「そこを動くんじゃねぇぞ」
路地の空気が凍りつく。
男の影が、三人へ向かって——伸びていく。