路地の空気が凍り付いていた。
男は三人組を見据えたまま、ゆっくりと、しかし確実に歩みを進めていた。
その歩幅は妙に一定で、まるで体の奥底に沈んだ何かが勝手に足を動かしているかのようだった。
呼吸は荒く、胸は焦げるように熱い。
怒りというより、別の何か——もっと濁った、理屈の外にある衝動が膨れ上がっている。
三人組の一人が、不安を隠すように吐き捨てた。
「……なんだよ、気持ち悪ぃ顔して近づいてきやがって」
男は返さない。
ただ歩くたびに靴底が石畳を叩くその音が、路地にやけに大きく響いた。
三人組は気圧されて一歩引く。
だが、男がさらに近づいた瞬間——
「調子乗んなよッ!」
最も気の荒い男が掴みかかろうと前に出た。
それが合図だった。
男の拳が、弾かれたように前へ飛ぶ。
狙いは正確だった。
その男の頬に、鈍い音を残して拳がめり込む。
だが。
「——ッの野郎!」
殴られた男は、怒りよりも先に反射で動いていた。
拳が返る。
そして別の二人も同時に距離を詰めてくる。
気づけば三人に囲まれていた。
一人の肩を掴んだ瞬間、脇腹へ膝が突き刺さる。
その衝撃で身体がくの字に折れ、その隙に後頭部へ拳が落ちた。
視界が一瞬白く弾ける。
呼吸ができない。
地面が揺れる。
男はふらつき、壁に背中を叩きつけられた。
「威勢のいいのは最初だけかよ!」
「なに守る気になってんだよ、ヒーロー気取っちゃってさぁ」
殴られるたび、皮膚の下で熱が破裂した。
蹴りの一発ごとに、肺が縮み、意識が遠のきそうになる。
——痛い。
——痛いはずなのに。
胸の奥の何かが、それを押しつぶすように膨らんでいく。
三人の嘲笑も、踏みつける足音も、遠くなる。
代わりに耳鳴りの奥から、低い響きがゆっくり這い上がってくる。
「……っ、ふ……」
笑ったのか、自分でもわからない。
ただ、喉が勝手に震えた。
最初に気づいたのは、殴っていた三人の方だった。
「なぁ、今、笑ったか?」
次の瞬間、男の身体が弾けたように動いた。
立ち上がったというより、「飛びかかった」と言った方が近い。
狙いはただ一人——最初に殴りかかった男。
その胸ぐらを掴み、壁に叩きつける。
骨がぶつかる湿った音が響く。
「っぐ……!」
抵抗しようとした腕を男は押さえつけた。
指に力が入りすぎ、相手の肌が赤く変色していく。
殴る。
殴る。
殴る。
拳の痛みなどどうでもよかった。
相手の顔が歪んでいくのを、ただ確かめるように腕を振った。
「や、やめ……っ!」
「おい、離せ! 死ぬ、死ぬって!」
残りの二人が背後から男に殴りかかる。
横腹に蹴り、後頭部に拳。
何度も何度も。
それでも男は——振り返らなかった。
男たちの抑止をすべて無視して、
ただ一点、掴んだ男だけを殴り続ける。
「……っ!? こいつ、効いてねぇ……!」
焦りがこぼれた。
血の跳ねる音。
骨の鈍く折れる音。
拳を振るたび、誰よりも男自身の呼吸だけが静かだった。
二人は一歩後ずさった。
理解したのだ。
この男はもう「喧嘩」をしているのではない。
止まらない。
このままなら、本当に殺す。
「……あ、あれ……もう、無理だろ……」
「離れろ……やべぇって……あいつ、目……」
彼の眼は、三人組ではなく、その一人だけを射抜いていた。
まるで他の二人が視界に入っていないかのように。
本能的な恐怖が、二人の足を動かした。
「……逃げろ!」
叫んだのはどちらだったか。
二人は背を向け、路地の奥へと駆け出した。
振り返ることさえできなかった。
その背中を、男の荒い呼吸だけが追いかけていた。