地面が揺れている。
でも実際には自分の視界がかすみ、焦点を結ばなくなっていただけだった。
路地の空気はどこか焦げつくように重く、
石畳には複数の影が震えながら重なっていた。
その中央で
彼が、
もはや動かないものを。
拳を振るたび、赤いものが散り、
その跳ねた光が私の頬にも落ちた。
音が遅れて聞こえる。
骨の歪む低い響きが、
遠い雷鳴のように耳の奥でくぐもっていく。
あなたは【
このままでは、彼が取り返しのつかない場所へ行ってしまう。
そんなのは、嫌だ。
「……っ」
声にならない声を押し出す。
足を動かそうとするが、膝が笑う。
立ち上がろうとした瞬間、地面がぐらりと傾き視界が下がっていく。
呼吸をするだけで胸が痛い。
痛みは鋭く、熱を帯び、重く沈む。
それでも。
あの人が壊れていくのを、黙って見ているなんてできない。
石畳に手をつき、少しずつ前へ進んだ。
殴り続ける男の背中が見えた。
その肩は震え、呼吸は荒れ、拳からは血が滴っていた。
目の前の彼は、もはや“誰かを裁こうとしている”のではない。
“壊さずにはいられない衝動”に呑まれていた。
私が彼と出会った日、どこまでも優しかった姿。
ぎこちない手つきでも、壊さないように触れてくれたあの夜。
そのすべてが——
目の前の暴力に塗りつぶされる気がした。
「……や……だ……」
涙か血か分からない水滴が頬を伝う。
前へ、ただ、前へ。
石を掴み、爪の間を切りながら進む。
彼の荒い呼吸が聞こえてくる。
殴られている相手の、苦しそうなうめきが聞こえる。
お願い、気付いて。
そう思っても、男の拳は止まらない。
ついに、リオーモは男の足元までたどり着いた。
床に膝をつき、震える手を伸ばす。
その手が、男の背中に触れた。
小さな、しかし確かな力だった。
拳が空中で凍りつく。
男の呼吸が乱れたまま、音を消す。
ゆっくりと男が振り返る。
リオーモの姿が、そこにあった。
血に染められ、泥にまみれ、息も絶え絶え。
触れれば壊れてしまうほど弱々しく......それなのに。
誰よりも強い意思を宿した目で、男のことを見つめていた。
「……もう、いいよ」
掠れた声だった。
今にも消えそうだった。
それでも、
その声は男の胸に深く突き刺さった。
「……いたいのはね……とってもくるしいんだよ……」
呼吸がひゅうひゅうと漏れる。
それでも言葉を紡ぐ。
「もう……いたくしなくていい、くるしむのは、わたしだけでいいから……」
男の顔から怒りが抜けていく。
代わりに、深い後悔と戸惑いが入り込んだ。
男はゆっくりと背後を見下ろす。
地面に倒れているものは、もはや抵抗することもできない。
腕も脚も震えず、ただ息だけが細く続いている。
もし彼女が止めなければ、本当に殺していた。
リオーモは倒れている相手に寄り添い、
その胸の上に手を置いた。
「まだ、まに合うよ?」
自身の袖で赤く染まった顔を拭き取り、男へ告げる。
男は一瞬だけ目を閉じた。
彼女をここまで苦しめてきたものを手当てする必要があるのかと、自身に問い掛ける。
だが、リオーモの言葉が胸の奥で響く。
「お願い……」
その一言が、決定的だった。
男は膝をつき、息を整え、
震える手で応急処置を始めた。
緩やかに流れ続けている血を圧迫して止め、
破れた上着で固定し、呼吸を確保する。
処置を終えると、男はぐったりと地面に座り込んだ。
その横で、リオーモが小さく息を継ぐ。
しばらくして、ようやく男は立ち上がろうとする。
足取りは重く、ほとんど倒れそうだ。
不意に、その袖が引かれた。
「行こう......?」
男は数秒動けずにいた。
この小さな存在が、自分を止め、引き戻し、導いてくれた。
目を伏せ、短く息を吐く。
「……あぁ」
二人はゆっくり歩き出す。
リオーモは小さく前を歩き、
男はその小さな背を見てついていく。
足跡は不揃いで、よろけていた。
それでも確かに、同じ方向へ向かっていた。
壊れたものを置いて、
壊れかけた自分たちを抱えて。
忘れてはならない場所を、
静かに、確かに後にした。