夜はまだ深く、空の色は黒とも藍ともつかないまま滲んでいた。
路地を抜けた先の道は静まり返っていて、遠くで犬が一度吠えたきり、他に音はなかった。
二人は並んで歩いていた。
どちらも相手を置いて行こうとはしなかった。
男の足取りは重く、わずかに引きずるようだった。
身体のあちこちが痛んでいるのは分かっていたが、それを確かめる気になれない。
殴った感触が、まだ拳に残っている。
骨に当たった鈍い反発。
呼吸のたびに胸の奥から浮かび上がってくる。
しばらく沈黙が続いたあと、リオーモが口を開いた。
「ねぇ」
呼びかけは小さかったが、はっきりしていた。
男は顔を上げ、短く応じる。
「どうした」
リオーモは歩みを止めず、
ただ夜道を見つめたまま言葉を続ける。
「さっきのこと……」
「あなたが見たもの」
男の胸がわずかに軋んだ。
否定も肯定もせず、続きを待つ。
「あれはまだ、軽い方」
その言葉は淡々としていた。
感情を乗せない、
「殴られるのも、蹴られるのも」
「怒鳴られるのも、意味のないことを強いられるのも」
「全部、当たり前のこと」
男の歩みが一瞬遅れた。
だが、リオーモは気に留めない。
「痛いかどうかは、大事じゃない」
「ただ相手の気が済むまでそこに居るだけ」
「相手の気分が良くなるように笑えばいい」
風が吹き、彼女の髪が揺れた。
夜の冷気が、その細い身体を撫でていく。
「相手の行動を考えるより」
「どうすれば終わるかを考えてた」
「終われば、また次まで待てばいいだけだから」
男は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。
「でも、さっき」
リオーモの声が、ほんの少し揺れた。
「あなたが殴ってるのを見たとき」
「すごく、怖かった」
互いの距離が詰まり歩みが止まる。
距離は数歩分。
振り返れば、すぐに目が合う距離だ。
「殴られてる人が、じゃない」
「あなたが、壊れていくのが」
暗闇を照らす月明りの元で、リオーモはゆっくり振り返る。
その目は、赤く腫れていた。
「あなたが、あの人たちと同じ場所に行くのが」
「どうしても、嫌だった」
言葉が、まっすぐに投げられる。
遠回しじゃない、心からの願い。
「私が止めなかったら」
「あなたは、戻ってこられなくなると思った」
男は息を吸い、吐いた。
肺の奥が焼けるように痛む。
「……すまなかった」
その言葉は、長い沈黙の末にようやく絞り出したものだった。
「怖がらせるつもりはなかった」
「だが……」
続く言葉が見つからない。
言い訳をする資格はないと、はっきり分かっていた。
リオーモは首を振る。
「謝らなくていい」
「守ろうとしてくれたの、分かってる」
一拍置き、続ける。
「でもだからこそ、止めたかった」
夜道の向こう、家のある方角がかすかに明るみ始めていた。
まだ朝とは呼べない。
けれど、夜が終わりに向かっている兆しだった。
リオーモは再び前を向き、歩き出す。
「私はもう大丈夫」
「あなたがいっぱい教えてくれたから、大丈夫」
足音が重なり、またずれて、また重なる。
それでも二人は同じ道を進んでいた。
帰る場所があるという事実が、
ようやく、現実として胸に落ちてくる。
長い道のりを越え、家に辿り着いた。
玄関の扉を閉める音が、やけに大きく二人を包む。
中は冷え切っていた。
誰もいない時間が長かった家特有の、空気の重さ。
それでも、ここは間違いなく
男は靴を脱ごうとして、そこで身体が揺れた。
足に力が入らない。
床が傾いたように感じ、思わず壁に手を付き赤い線を描く。
「……座って」
揺れる視線の先から、はっきりとした声が届いた。
「そのまま動いたら、転んじゃう」
男は小さく息を吐き、言われるまま床に腰を下ろした。
背中を壁に預けると、張りつめていたものが一気に緩み、身体のあちこちが悲鳴を上げ始める。
痛みが、遅れて押し寄せてきた。
拳。
肘。
脇腹。
頬の内側が裂け、血の味が口に広がる。
指は腫れ上がり、まともに曲がらない。
リオーモは黙って洗面所へ向かい、しばらくして戻ってきた。
小さな洗面器。
布。
古い包帯。
消毒液の匂いが、かすかに漂う。
「ありがとう、あとは自分で」
男が言い切る前に、リオーモは首を振った。
「私がやる」
言い切りだった。
彼女は男の前に膝をつき、洗面器を置く。
「動かないで」
「痛くても、ちゃんと見せて」
男は一瞬ためらったが、何も言わずに頷いた。
血と埃で汚れ、指の関節は赤く腫れている。
彼女は布を水に浸し、ゆっくりと拭った。
「……っ」
男の喉から、抑えきれない声が漏れる。
それを聞いても、リオーモは手を止めなかった。
「痛い?」
問いは静かだった。
確認するような、確かめるような声。
男は正直に答えた。
「……痛い」
リオーモは小さく頷く。
「そう」
「ちゃんと、痛いね」
それだけ言って、消毒液を含ませた布を当てた。
男の身体が強張る。
刺激が走り、息が詰まる。
「……っ、く……!」
歯を食いしばる音が、部屋に響いた。
「大丈夫」
「この痛みは、残るものじゃない」
その言葉に、男は息を吐いた。
ゆっくりと、何度も。
リオーモは手当てを続ける。
一つひとつ、確認するように。
雑ではないためらいもない。
次は脇腹だった。
服をめくると、紫色に腫れた痣が広がっている。
ところどころ皮膚が裂け、血が滲んでいた。
リオーモの手が一瞬止まる。
彼女の反応を見て、男が再び言う。
「自分でやる」
「駄目」
リオーモは即座に否定した。
「あなたがやったら、加減しない」
布が当てられ、圧迫される。
鈍い痛みが走り、男の視界が一瞬揺れる。
「……リオーモ」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「ありがとう」
先程と同じ、短い5文字。
だが、そこに込めたものは軽くない。
一通りの手当てが終わる頃には、二人とも疲れ切っていた。
リオーモは最後に男の頬を見上げる。
「口の中、切れてる」
「水、含んで」
男は言われるままに水を口に含み、吐き出した。
赤く染まった水が流れ落ちる。
リオーモはそれを見て、目を逸らさなかった。
「……まだ、生きてるね」
独り言のように、そう言った。
男は壁に頭を預け、目を閉じる。
「お前もだ」
その言葉に、リオーモは何も返さなかった。
ただ、布を絞り、洗面器を片付け静かに立ち上がる。
暴力は終わった。
だがその痕跡は、はっきりとここにあった。
外の気配はなく、風の音も聞こえない。
時間だけが、ゆっくりと進んでいる。
部屋には、確かな疲労と、確かな現実だけが残っていた。
手当てを終えた二人は部屋へ移動し、
男は完全に消えてしまった暖炉に再び火を灯す。
部屋に広がる橙色の光を前にして、薪が弾ける音だけが耳を叩く。
沈黙が苦しいものではないと知ったのは、いつからだったか。
「聞きたいことがあるの」
そんな静寂へ言葉を発したのはリオーモだった。
男は目を開け、彼女を見る。
「あなたの名前、教えてほしい」
その言葉は、まっすぐだった。
回り道も、探るような言い方もない。
男は一瞬、言葉を失った。
それほど意外な問いではないはずなのに、胸の奥が詰まる。
「今さらだと思う?」
男が何かを言う前に、リオーモは続ける。
「今だから」
「全部終わった今だから、聴きたい」
男は小さく息を吐いた。
視線を落とし、床の木目を見る。
「......自分の名前を気にしたことは、ほとんどなかったな」
リオーモはただ彼の言葉を待つ。
「それに」
男は少し言葉を探す。
「この名前を話したところで、あまり良い気にはならない者の方が多い」
リオーモはゆっくりと視線を上げ、男を見る。
その目には、責める色はない。
「名前がなくても、あなたはいた」
「助けてくれた」
「一緒にいた」
一つずつ、確かめるように言葉を置く。
「でも」
彼女は続けた。
「これからも一緒にいるなら、知りたい」
男の喉が鳴る。
「呼ぶためじゃない」
「あなたが、ここにいる理由として」
その言葉は、男の胸に深く落ちた。
しばらくして、男は静かに口を開く。
「……スワントだ」
その名が、空気に落ちる。
「スワント」
彼女は一度だけ、繰り返した。
噛みしめるように。
「意味は」
男は少し迷い、それから答える。
「救世主」
「そういう意味だ」
リオーモは驚いた様子を見せなかった。
ただ、短く息を吸う。
「合ってる」
「あなたは、私を救った」
間を置くことなく放たれた思いを他所に、男は首を振る。
「お前自身が、変わっただけだ」
「それでも、始まりはあなた」
リオーモは視線を逸らさずに言う。
スワントは何も返すことが出来なかった。
「今さらかもしれない」
リオーモは続ける。
「でも、だいじ」
「これで、ちゃんと同じとこに立てる」
名前が交わされたことで、二人の間にあった曖昧な線が消える。
近づきすぎず、遠すぎず。
それでも、確かに並んでいる。
家の奥へ続く廊下は薄く冷えていた。
夜が完全に明けきる前の、色のない静けさが満ちている。
そんな廊下を二人は並んで歩いていた。
足音が、板張りの床に静かに重なる。
リオーモは一歩先を歩きながら、時折、足取りを確かめるように床を踏んだ。
廊下の途中、男が声をかける。
「無理はするな」
振り返らずに、リオーモは答える。
「してない」
「歩ける」
家の奥、見慣れた扉の前で、彼女は立ち止まる。
小さな部屋。
以前は、ただの空間だった場所。
扉を開けると、部屋の空気が流れ出す。
布団の匂い、木の壁の冷たさ、ほんのわずかな暖気。
すべてが、知っているものだった。
リオーモは中へ入り、振り返って言う。
「一緒に来る?」
男は一瞬だけ躊躇した。
それから、首を横に振る。
「ここまででいい」
「おやすみ」
リオーモは少し考え、それ以上は言わなかった。
代わりに、小さく頷く。
「分かった」
扉を閉める直前、彼女は一度だけ男を見る。
「おやすみ」
それだけを言って、扉を閉めた。
室内は静かだった。
外の気配が完全に遮断される。
リオーモは布団の上に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
肩の力が抜ける。
身体が、自分のものに戻ってくる感覚。
傷はまだ疼く。
だが、その痛みは、ここに戻ってきた証でもあった。
彼女は布団に横になり、天井を見る。
何もない天井。
だが、空虚でもない。
「ここに、居る」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
この部屋は、逃げ込むための場所ではない。
閉じ込められる場所でもない。
受け入れてくれる場所だ。
リオーモは布団を胸元まで引き寄せ、身体を丸める。
胸の奥に、温かいものが広がる。
暖炉の前で感じた、あの感覚。
恐れのない温もり。
彼女は目を閉じる。
唇が、ほんのわずかに緩む。
それは、誰にも見せない表情だった。
見せる必要がないからこそ、生まれた安堵。
これから先も、ここに戻ってくる。
彼と共に生きる日常へ。
そう思うことが、自然だった。
男は居間に戻り、暖炉の前に腰を下ろした。
先程灯したばかりの火は、大きく揺らめきながら彼を照らす。
薪の端が静かに崩れ、かすかな音を立てた。
男は顔を上げ、廊下の奥を見る。
あの小さな部屋の扉は、今は閉じられている。
そこに彼女がいる。
それが、分かる。
もし次に帰ったとき、そこにいなかったら。
その想像が、胸を締めつけることはある。
だが、それは恐怖ではない。
失いたくないと願うことを、自覚しただけだ。
男は立ち上がり、薪を一つ足す。
火が、ゆっくりと息を吹き返す。
その熱は、誰かを縛るためのものではない。
凍えた夜を越えた者が、帰ってくる場所の証だ。
彼女を苦しめ続けた悪夢は終わった。
完全に消えたわけではないが。
でも確かに、夜を越えた。
ここには家がある。
戻る場所がある。
選び取った日常がある。
夜明けは、すでに始まっている。
光はゆっくりと暗闇を照らし、
世界を包み込んでいく。
新しい一日は、もうそこまで来ていた。