朝。
まだ外は薄暗く、空気が湿っている。
男は椅子の上でうたた寝していたことに気づき、はっと目を覚ます。
暖炉の火はとうに消えており、室内には灰の匂いが漂っている。
少女は、昨日と同じ姿勢のまま、暖炉の前にいた。
体を丸めもせず、眠っていたのかどうかもわからない。
包帯に滲んだ血は乾き、ところどころ赤黒く固まっている。
「生きてるか?」
「うん」
問い掛けには答えるものの、彼女が動く気配はない。
糸が引かれるまで踊らない人形の様に。
男はため息をつき、台所へ向かう。
冷えた空気の中で鍋を温め、簡単な食事を作る。
やけどしないように少し冷ましてから皿に盛りつけ、
少女の前に置くと、彼女は静かにそれを見つめた。
「食べられるか?」
差し出された皿を、少女は両手で受け取った。
黙って口に運び、淡々と咀嚼する。
味の感想を待っていた男が、ふと思い出したように尋ねる。
「……美味しいか?」
少女は止まった。
スプーンを口の途中で止めたまま、男を見た。
「なに、それ」
「え?」
「“おいしい”って、なに」
これくらいは知っていて当然だと、無意識に説明を省いてしまった彼は答えに詰まる。
どう説明すればいいのか分からない。
ただ、「良いもの」と言っても、彼女には通じない気がした。
「うまく言えないが、好きな味のことだ」
「すき……」
少女は呟き、少し考えるように視線を落とした。
「たべられる。だから、すき」
それが彼女の精一杯の返答だった。
男は笑うこともできず、ただ「そうか」と頷いた。
その後、特に会話が続くこともなく食事を終え、食器を片付けた後、彼は少女の包帯を替える準備をした。
「またいたいの、する?」
「ああ、張り付いてるから少し沁みるかもしれない」
濡らした布で丁寧に包帯の端を湿らせ、固まった血が皮膚から剝がれるのを待つ。
時間をかけてゆっくりと外していくと、乾いた包帯の裏に細かい皮膚の跡が張りついていた。
血のにじんだ線が何本も重なっている。
「なあ、どうして俺が何をしても、怖がらないんだ?」
少女は言葉どころか、身振り手振りもしなかった。
沈黙。
この対応が答えだと言わんばかりに、彼女は何もしない。
もう一度、少し優しく問い直す。
「……言葉にできないなら、首を振るか、頷くだけでもいい」
少女は一度だけ、小さく首を傾げ、考え込むような間を置いたあと、
“わからない”という仕草のようにゆっくりと首を振った。
「そうか……無理に答えなくていい」
包帯の交換を終えると、少女はまた暖炉の前に立った。
火はすでに消えている。
灰が残る炉の中へ視線を落とし、しばらく見つめた後、
彼女はぽつりと言った。
「……あつくない」
その声は、失われた何かを探すようだった。
男は言葉に詰まった。
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「痛くないと……だめなのか?」
少女は頷き、そしてゆっくりと炉の中に手を伸ばそうとした。
燃え尽きた木の灰が舞い、皮膚に触れる前に男が腕を掴む。
「やめろ。もう燃えてない」
「でも、すこしあたたかい」
男は黙って少女を引き寄せる。
昨日の行動でも感じたが、別に保護されることを嫌っているわけではないはず。
せめて身体への負担が少ない方法で満足してくれるといいのだが、残念ながら試したものは全て反応が薄かった。
「これじゃ……ちがう」
そう彼女が呟いたとき、男はふと自分の記憶をたどった。
幼い頃、母に頬をつねられたこと。
悪戯をして、叱られ、でもそこには確かな愛情があった。
「こういうのは、どうだ」
彼は少女の頬をそっとつねった。
思ったよりも強く。
柔らかな頬に沈み込んでいく爪をみて、心が痛んだ。
反面、これまでよりも強い痛みに少女の口が緩む。
ほんの少し、表情が柔らかくなった気がした。
「いたい……」
その言葉を聞き、男は力を抜いた。
けれど少女は、頬に残る痛みを確かめるように、男の手を両手で包み、
自分の頬に導いた。
「もっと」
男が少しためらうと、彼女は再び彼の指を頬に押し当てた。
痛みをねだるように、けれどその表情に暖かさはなかった。
彼女にとって“痛み”は、まだ他者から与えられるもの。
それでも今は、その痛みを“選んで受け取っている”ように見えた。
「これ、いい。……これ、すき」
彼女は離れた手を名残惜しそうに見つめ、
頬に残る熱を小さく撫でる。
男性はその様子を見つめながら、ゆっくりと息をつき距離を置く。
灰の匂いの中で、彼はようやく悟る。
この少女を理解するということは、
“痛みを否定する”ことではなく、
“痛みを別のかたちに変えていく”ことなのだと。
そしてその夜、
少女は再び暖炉の前に座った。
けれど、もう火を求めなかった。
頬に残る微かな跡を指でなぞりながら、ただ、そこに座っていた。