少女との不思議な出会いから数日が過ぎた。
外の風はまだ冷たく、木々の葉は乾いた音を立てて散っていた。
冬の手前、秋の終わりの空気。
肌に触れるその冷たさは、人の温もりを確実に蝕んでいく。
暖炉の前。
少女はいつものように座っている。
そこは彼女が一番気に入っている場所だった。
火は静かに燃え、ゆらゆらと揺れる光が壁に影を作る。
彼が朝、外へ出る前に薪をくべていったのだ。
少女はただ、そこにある温かさを見つめていた。
手当も食事も終わり、男が町へ働きに出ていったあと。
少女は何もせず、穏やかな火の揺らめきを見ていた。
傷はほとんど塞がり、包帯の下から新しい肌がのぞく。
常に痛むような怪我は塞がり、動くことで響く程度のものへ変わっていた。
けれど彼女は、それを惜しいとは思わなかった。
男がくれる“新しい傷”があるからだ。
それはすぐに消えてしまうけれど、確かに彼の手の形を残していく。
一瞬だけ訪れる微かな痛みは、心の奥で静かに残り続ける。
だから彼女は待つ。
またそれを感じられる時を。
彼の仕草を思い出しながら、少女は自分の頬に手を当ててみる。
指先でつまむ。
けれど、何も感じない。
痛みは生まれず、ただ皮膚が動くだけ。
少女は痛みを与えるという行為が、心の温かさの理由だと信じていた。
けれど、自分でそれを試しても、同じものにはならなかった。
そこにあるのはただの感触で、心の中には何も灯らない。
「……ちがう」
その言葉は小さく、炉の音に溶けていった。
どうして同じことをしても、同じにならないのか。
その違いを、まだ彼女は知らなかった。
太陽が真上に浮かぶ頃、少女は隣に置かれたパンに目を移す。
それは男がお昼ご飯として置いていったものだ。
お腹がすくという言葉を知らない彼女に、男は町の鐘が鳴ったら食べていいとだけ伝えていた。
そして今、昼を報せる音が静かな空気を震わせる。
狂いのない、規則的な間隔で鳴る鐘の音を聞き、彼女はそれを“命令”として受け取る。
小さな手でパンを取り、ゆっくりと口に運ぶ。
味も美味しいも分からない。
けれど、彼が渡してくれたものはすべて食べられる物だった。
日が傾き、空が青から紺へと変わっていく。
暖炉の火が静かに弱まり、部屋の明かりが薄れていく。
暖められた空気は彼女の周りから少しずつ離れ、やがて肌を撫でて冷たくなる。
「さむい」
不意にこぼれた言葉。
その理由もまた、彼女は知らなかった。
扉が軋む音がして、男が帰ってきた。
暗闇の中、男は小さく息をつき、慎重に室内を探る。
手探りで暖炉の前まで進み、火を灯した。
橙の光が部屋を満たすと、その端に少女が座っていた。
いつもの場所。
その姿を確かめて、男の胸に安堵が広がる。
帰るたびに彼女がそこにいることに安心する度、心の奥で小さな恐れが芽生える。
“もし次に帰ったとき、そこにいなかったら”と考えてしまう自分が少しだけ怖い。
炎が揺れ、橙の光が少女の頬を照らす。
「……あたたかい」
不意に漏れたであろうその言葉に男は短く息を止め、そして微笑んだ。
言葉にはしなかったが、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
晩の食事を終え、男は少女の前に座った。
しばらくの沈黙。
焚き木のはぜる音だけが、二人の間を埋めていた。
「お前の名前を、聞いてもいいか?」
いままで聞けなかった問いを少女へ送る。
少女は首を傾げた。
意味を測るように、ゆっくりと目を瞬かせる。
「ない」
問いへの返答は、男が予想していた答えだった。
だからこそ、彼はこの時まで言わなかった。
「そうか。じゃあ、俺がお前に名前をつけてもいいか?」
少女はまたゆっくりと瞬きをした。
拒むでもなく、受け入れるでもなく。
ただ、そこに居る。
「リオーモ。 これがお前の新しい名前だ。」
少女は静かにその音を真似る。
「リオーモ……」
初めての響き。
それが自分のものだということを、まだ彼女は理解していない。
けれど、その音がどこか柔らかく響いたことだけはわかった。
男はその様子を見つめながら、小さく息をついた。
そして、穏やかな声で言った。
「名前の意味は、まだ分からなくていい。いつか分かる日が来るだろうから」
言い終えると、彼は微笑み、手を伸ばした。
彼女の頬を両手で包み、軽くつまむ。
挟まれるような小さな痛み。
それはまるで、子を撫でてあやす仕草のようだった。
リオーモは目を細め、痛みを感じながらもそれを受け入れた。
男の手が離れたあと、リオーモは彼をじっと見つめる。
そして、彼の頬に小さな手を伸ばす。
指先が触れ、ゆっくりと力を込める。
力の弱い彼女の手では痛みを与えることは出来なかったが、手の温もりは届く。
「……いたい?」
彼女の声は不安ではなく、確認のように静かだった。
男はその目線に合わせ、微笑みながら小さく返す。
「……ああ、いたいよ」
痛みが他者から与えられるコミュニケーションなのであれば、
それを真似ることが彼女にとっての優しさで、
受け取ることが男にとっての赦しだった。
二人の行動は、他人から見たら不思議だろう。
けれど二人は、痛みの奥にある“本当の愛”を確かに感じていた。
夜は更け、静寂がより一層強くなる頃、リオーモは暖炉の前でゆっくりと瞳を閉じた。
この場所に気を許し、休んでも大丈夫だと思えた。
暖炉の炎の揺らめきの中で、彼女の意識は静かに沈んでいく。
それは、彼女に初めて訪れた休息の時間。