昼の光がゆっくりと傾き、林の影が長く伸び始めていた。
家の中は静かで、風の通り抜ける音さえ遠い。
その静けさの中で、リオーモは落ち着かないように何度も窓へ視線を向けていた。
やがて、そっと息を一つ整えると、扉へ手を伸ばした。
家を出る理由があるわけではない。
ただ胸の奥で小さく、けれど確かに引かれるようにあの場所へ向かいたいと思ったのだ。
林を抜ける風は少し冷たかったが、足取りは迷わない。
枝の揺れる音、土の匂い、陽が落ちかける空の色。
その一つ一つが、初めて外へ出たあの日の感覚を静かに呼び起こしていた。
やがて石畳に出ると、遠くから人々のやり取りが耳に届いた。
リオーモはそちらへ歩き、角を曲がる。
そして――足が止まった。
男がいた。
ただ、リオーモが知る彼とは違っていた。
客の声が飛び交い、無茶な要求や急かす言葉が絶え間なく押し寄せてくる。
男はそのすべてに応じ、動き回り、重い荷を抱え、誰かに乱雑に扱われながらも淡々と作業を続けていた。
別人ではない。
背格好も、顔立ちも、仕草も何ひとつ変わらないのに――
見せたことのない、硬くて無理をしているような表情だけが違っていた。
それは、リオーモが触れてきた優しさの裏側にある「本当の姿」だった。
リオーモは一歩、前へ出る。
名前は呼べない。声が届くかも分からない。
それでも――近づきたかった。
その瞬間、肩を強く引かれた。
「……っ」
振り向くと、三人の男たちが立っていた。
軽い笑みを浮かべながら、濁った目でリオーモを見下ろしている。
「やっと見つけたぞ。」
「勝手にふらつかれると困んだよ。」
「ほら、戻るぞ。お前がいねぇと面白くねぇんだわ。」
掴む手は乱暴で、声は軽薄。
だがそこには、拒否を許す気配など一片もなかった。
リオーモは動けなかった。
抵抗という発想自体、浮かばなかった。
腕を強く引かれ、身体が前へよろめく。
「歩けよ」と肩を押され、向きを無理やり変えられる。
三人の笑い声は途切れないまま、彼女を当然のように連れ去っていく。
リオーモはもう一度だけ、男の背中を見た。
呼ぼうとした声は喉でつかえ、音にならない。
そのまま、群衆の影へと引き込まれていく。
まるで最初からそこにいなかったかのように、輪郭がほどけ、姿が街のざわめきに溶けていく。
伸ばされた彼女の指先は、もう男の方へ向くことすらできなかった。
――夕日が沈み、街が赤から群青へと色を変えるころ。
ようやく店の前から人の波が引き始めた。
男は肩をぐるりと回し、深い息を吐く。
「今日もひどかったな。」
文句、急かす声、押し付けの山。
呼ばれ、怒鳴られ、気づけば両手は塞がっている。
断れば角が立つし、言い返せば噂がひとり歩きする。
それを誰よりよく知っているのは、ほかでもない彼だった。
もっと器用に立ち回れればいいのだが――
どうにも押し付けられやすい。
苦笑が零れる。
「……帰るか。」
重い足取りで、街灯の灯る道を歩き始める。
石畳を踏むたび、今日一日の疲労がじわりと滲んだ。
やがて、家の扉が見える距離に着く。
灯りがついている。
その光に、ほんの少しだけ心が軽くなる。
「ただいま。」
扉を開け、中へ目を向けた――
静かだ。
「リオーモ?」
部屋を一つずつ確認する。
寝床。
窓際。
暖炉のあたり。
どこにもいない。
焦りではない。
けれど、喉の奥に冷たいものが落ちていく。
「おかしいな」
彼女は、自分から遠くへ行くような子ではない。
そんな確かな感覚が男にはあった。
それなのに――今は、気配さえ残っていない。
「リオーモ……どこだ」
つぶやいた声は、静かな家の中へ吸い込まれていった。