心の在処   作:ミィーシャル

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第七話 踏み出した一歩

昼の光がゆっくりと傾き、林の影が長く伸び始めていた。

家の中は静かで、風の通り抜ける音さえ遠い。

その静けさの中で、リオーモは落ち着かないように何度も窓へ視線を向けていた。

 

やがて、そっと息を一つ整えると、扉へ手を伸ばした。

 

家を出る理由があるわけではない。

ただ胸の奥で小さく、けれど確かに引かれるようにあの場所へ向かいたいと思ったのだ。

 

林を抜ける風は少し冷たかったが、足取りは迷わない。

枝の揺れる音、土の匂い、陽が落ちかける空の色。

その一つ一つが、初めて外へ出たあの日の感覚を静かに呼び起こしていた。

 

やがて石畳に出ると、遠くから人々のやり取りが耳に届いた。

リオーモはそちらへ歩き、角を曲がる。

 

そして――足が止まった。

 

男がいた。

 

ただ、リオーモが知る彼とは違っていた。

客の声が飛び交い、無茶な要求や急かす言葉が絶え間なく押し寄せてくる。

男はそのすべてに応じ、動き回り、重い荷を抱え、誰かに乱雑に扱われながらも淡々と作業を続けていた。

 

別人ではない。

背格好も、顔立ちも、仕草も何ひとつ変わらないのに――

見せたことのない、硬くて無理をしているような表情だけが違っていた。

それは、リオーモが触れてきた優しさの裏側にある「本当の姿」だった。

 

リオーモは一歩、前へ出る。

名前は呼べない。声が届くかも分からない。

それでも――近づきたかった。

 

その瞬間、肩を強く引かれた。

 

「……っ」

 

振り向くと、三人の男たちが立っていた。

軽い笑みを浮かべながら、濁った目でリオーモを見下ろしている。

 

「やっと見つけたぞ。」

「勝手にふらつかれると困んだよ。」

「ほら、戻るぞ。お前がいねぇと面白くねぇんだわ。」

 

掴む手は乱暴で、声は軽薄。

だがそこには、拒否を許す気配など一片もなかった。

 

リオーモは動けなかった。

抵抗という発想自体、浮かばなかった。

 

腕を強く引かれ、身体が前へよろめく。

「歩けよ」と肩を押され、向きを無理やり変えられる。

三人の笑い声は途切れないまま、彼女を当然のように連れ去っていく。

 

リオーモはもう一度だけ、男の背中を見た。

呼ぼうとした声は喉でつかえ、音にならない。

 

そのまま、群衆の影へと引き込まれていく。

まるで最初からそこにいなかったかのように、輪郭がほどけ、姿が街のざわめきに溶けていく。

伸ばされた彼女の指先は、もう男の方へ向くことすらできなかった。

 

――夕日が沈み、街が赤から群青へと色を変えるころ。

ようやく店の前から人の波が引き始めた。

 

男は肩をぐるりと回し、深い息を吐く。

 

「今日もひどかったな。」

 

文句、急かす声、押し付けの山。

呼ばれ、怒鳴られ、気づけば両手は塞がっている。

断れば角が立つし、言い返せば噂がひとり歩きする。

それを誰よりよく知っているのは、ほかでもない彼だった。

 

もっと器用に立ち回れればいいのだが――

どうにも押し付けられやすい。

苦笑が零れる。

 

「……帰るか。」

 

重い足取りで、街灯の灯る道を歩き始める。

石畳を踏むたび、今日一日の疲労がじわりと滲んだ。

 

やがて、家の扉が見える距離に着く。

灯りがついている。

その光に、ほんの少しだけ心が軽くなる。

 

「ただいま。」

 

扉を開け、中へ目を向けた――

 

静かだ。

 

「リオーモ?」

 

部屋を一つずつ確認する。

寝床。

窓際。

暖炉のあたり。

 

どこにもいない。

 

焦りではない。

けれど、喉の奥に冷たいものが落ちていく。

 

「おかしいな」

 

彼女は、自分から遠くへ行くような子ではない。

そんな確かな感覚が男にはあった。

 

それなのに――今は、気配さえ残っていない。

 

「リオーモ……どこだ」

 

つぶやいた声は、静かな家の中へ吸い込まれていった。

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