夜の空気は冷えていた。
胸の奥で何かがざわついて、落ち着く気配がない。
「……どこ行ったんだ、リオーモ」
声に出しても返事なんて返ってこない。
それでも、言わずにいられなかった。
街路の灯りを片端から確かめて歩く。
広場、路地、名前も知らない裏道。
今日だけで何周したかわからない。
足は重いのに、心だけが前へ前へと急かしてくる。
——嫌な予感しかしない。
理由なんてなくてもわかる。
胸の真ん中を、冷たい刃でなぞられているみたいな感覚。
最初に見た彼女は、地面の影みたいに静かだった。
ボロボロで、どこからどう見ても普通じゃなかった。
気付いた時にはもう、俺は声を掛けていた。
いや、掛けるしかなかったと言った方がいいかもしれない。
「なぁ、大丈夫か?」
近づいて声をかけたところで返事なんてなかった。
怯えているのか、疲れているのか。
その両方か、それとも、もっとどうしようもない理由があるのか。
正直、関わるべきじゃないと思った。
面倒事に巻き込まれるとか。
そういうのは避けるのが一番だって知っている。
だけど。
離れようとしても、足が動かなかった。
なんでかって言われても説明なんてできない。
ただ、見捨てるという選択肢は最初からなかった。
俺は……こういうのに弱い。
「家は?」
「わかんない」
「誰か、探してるのか」
「ううん」
仕方ない、とため息をついたのは覚えている。
本当は、手当てが済んだらそれで終わるつもりだった。
不思議な出会いとして見なかったふりをするつもりだった。
でもそれができなかったのは——
彼女の瞳が、俺を見ていたからだ。
助けを求めるでも、すがるでもなく。
ただ、
そこにいた。
感情の読めない、ひどく静かな目で。
俺はその目を無視できなかった。
男は足を止める。
現在の夜の街の真ん中で、短く息を何度も吐く。
「見つけるからな、絶対に」
そう言い捨てると、彼は再び走り出す。
走りながら、どうして彼女を放っておけなかったのかを、否応なく思い出す。
——「痛みしか知らなかった頃」。
リオーモと過ごす日々は、とても不思議だった。
声を掛けても強く言わない限り反応しなかったし、
食事を口に運ぶ時も、ただ淡々と「決められた行為」を繰り返しているだけだった。
味も、好みも、余裕も分からない。
スプーンを止めて、目だけで俺を探るような仕草。
これを口に入れても苦しくない?
そんな風に問いかけるような視線だった。
あいつはただ、生きるので精一杯だった。
それだけの状態で、俺の前にいた。
——「選び始めた頃」。
やがて、ほんの少しずつ、
リオーモは「選ぶ」という行為を覚えていった。
暖炉の前に座る位置を自分で決めたり。
帰ってきた俺の足音に反応して、そっと顔を出したり。
言葉はまだ少ない。
それでも、「そこにいたい」という意思が確かに見えた。
俺は帰るたび、
同じ場所にいる彼女を確認して、安堵するようになった。
その習慣が、むしろ怖いくらいだった。
橙の光を受けて、彼女が伸ばした指先。
その小さな動きひとつひとつに、「前へ進む」ことを見た。
——「自分から動き出した頃」。
ある夕方、家の奥の小さな部屋で、
リオーモが布団にくるまって眠っていたことがあった。
安心しきった呼吸。
その姿は最初の頃からは想像もできなかった。
起きた彼女は布団を手で確かめながら、
自分の判断で、はっきりと言った。
「ここ、使っていい?」
頼るでも怯えるでもない。
「自分の場所として選んだ」というその意志。
あいつはもう、
与えられるだけの存在じゃなかった。
前へ進み始めていた。
俺もまた、
その進む姿に追いつきたくて、
いつの間にか彼女の日常に寄り添っていた。
あの日々は、もう戻らないのかもしれない。
その考えが胸を冷たく締めつけた瞬間、男は呼吸をひとつ荒く吐いた。
足を止めてしまえば、思考が闇に飲まれそうだった。
だから歩いた。探した。ひたすら前へ。
夜は深く、街路の灯りはまばらだ。
人の気配はほとんどなく、
店の軒先も、裏道も、どこも静まり返っている。
当てなんてない。
それでも探さずにはいられなかった。
どこでもいい。見つけなきゃ。
石畳を叩く靴音だけが、焦りを静かに積み上げていく。
息は荒く、寒さで指先も痺れ始めている。
それでも、
あの小さな身体がもっと冷たい場所に置き去りにされているかもしれないと思うと、
足を止められなかった。
広場を抜け、物陰を確かめ、
人のいない狭い路地へ踏み込む。
胸のざわつきは増す一方だった。
根拠なんてどこにもない。
ただの不安だと言われればそれまでだ。
だが、無視できなかった。
彼女を助けないと。
その言葉だけが、頭の奥でしつこく鳴り続ける。
「……リオーモ」
名を呼んでも返事は返らない。
わかっていたが、呼ばずにはいられなかった。
呼ばなければ、自分の心が折れてしまいそうだった。
息を整えるためにまた立ち止まる。
その一瞬でさえ胸が痛んだ。
男は顔を上げた。
灯りも届かぬ細い路地が、真っ暗な奥へと伸びている。
その先に何があるわけでもないが
ただ……
胸の奥が、不意に強く疼いた。
恐らく勘違いだ。
ただの不安の暴走。
それでも、歩くべき道を示された気がしてならなかった。
男は闇へ足を踏み出す。
石畳がわずかに湿っている。
冷えた空気が、ほんの僅かだが「別の可能性」を含んでいた。
進んだ瞬間、靴の先が何かをかすめる。
小さな抵抗。
男は思わず足を止め、視線を落とした。
そこには細い布切れが落ちていた。
地面に貼り付くように沈み、暗がりに溶け込んでいる。
この数日で、何度も見てきた色。
「……リオーモ?」
拾い上げた布は冷たく、端がほつれていた。
強く引っ張られた跡。
別人のものだと言い切ることもできた。
思い込みだと否定することもできた。
だが、これまで捜し続けた彼にそんなことは出来なかった。
背筋に、冷たいものがゆっくりと這い上がる。
その時
路地の奥。
濃い闇の向こうから、微かな音がした。
石を踏む、小さな足音。
遠ざかるのか、近づくのかもわからないほど弱い。
確実に、誰かがいる。
男は息を呑んだまま顔を上げた。
胸が跳ねた。
「ッ……!!」
気付けば走り出していた。
布切れを握りしめ、闇の奥へ。
理由はいらない。
その音が、痕跡が、呼ぶ気配が——彼女のものだと信じるには十分だった。
そして、その闇の先で何が待っているのかなど、
考える余裕などなかった。