灰色の脚は止まらない ――遅れた脚、前に出る心―― 作:ノーばでぃ
今日の空の色は鈍い色をしていた。
きっと周りのウマ娘たちには、いつもよりも素晴らしく青々とした空が見えているはずなのに、自分だけ違った。晴れているはずの空が、色鮮やかな筈の景色がくすんだ灰色に見えていた。
ゲートの前で、踏みしめる砂を睨んだ。沢山の勝利と栄光、それ以上に積み重ねられた敗北と悔しさを宿しているそれに、身体が怖気ている。恐怖と緊張を払うように、大きく息を吐いてから、遠くで自分を見つめるトレーナーと親友を見つめた。
2人とも、勝敗とは別の部分を心配していた。
「………………」
何も言わなかった。言葉にするほどの考えも、感情も、それまで何度も何度も擦り切れるほどに受け止めてきたから。何も不満はない、それが当然だから。
走る事が好きだった。それだけは疑いようの無い真実だった。
身体を前に投げ出し、風を裂き、地面が後ろへ流れていく感覚。誰かに教えられたわけでもなく、理由を説明できるわけでもない。ただ走る事が好きだった。好きだけども……同時に辛かった。
違和感は、いつも突然ではない。
むしろ、あまりに日常的で、普段は無視できてしまう程度のものだ。右膝の奥が鈍く痛みが走り、熱が溜まる。違和感、違和感、歩く時に走る時、どんな時でも離れない感覚。偏頭痛のようにあり続ける苦痛が常に傍にあった。ただ、いつもは無視できるそれも、レースのように激しく運動する時は別で無視できないほどに襲い来る。
武者震いを抑えてゲートに入る。
才能がないわけではない、と思っている。
走る中で感じる「前に出る感覚」は、確かに存在していた。スタートで出遅れても、この場所で、このタイミングなら―――と世界がゆっくりになって、一瞬だけ、すべてを追い越せるような錯覚に包まれることがある。
その一瞬が、続かない。
「…………?」
名前を呼ばれて、耳を向ける。トレーナーだった。ずっと自分を導いて、心配してくれた良い人だ。隠していた脚のソレに気づかれてからは、徹底的に治療に付き合ってくれた。
「無理はするな!」
走り切れればいい。
それは、最悪勝てなくてもいい、という意味だ。
小さく頷いた。反論する理由はない。このレースでは、それが精一杯の評価だった。
観客席はガラガラだった。ビュウビュウと吹き抜けて行く風に席を明け渡している。僅かにいる観客も、バ券を片手に新聞を読んでいる様子から、自分にも誰にも期待せず、ただお金儲けの結果にしか興味がないのは明らかだった。
誰も、自分に何かを期待していない。
その事実は、痛みと同時に、奇妙な安堵をもたらしてくれる。
期待されないなら、失望させる必要もない。
「ふぅ……」
ゲートが閉まる。
心臓が、静かに高鳴る。身体が走る為の準備を整えて、スタートの瞬間を心待ちにする。思考はクリア、体調に異変はない。たったひとつ、脚が重い事を除いて。これから訪れる劇的な数分を覚悟する。何が起ころうが、ゴールまで何があっても止まらないし止まれない。
パッ!
スタートゲートが開かれた。
出遅れはしなかった。だが、前に出るほどの切れもない。いつも通りの中団で、バ群の中で視線を忙しなく動かし全体の情報を得る。逃げウマが比較的なスローペースで進む中で、接触という禁忌に気をつけながら、カーブに入って、脚を溜めつつ最後の直線に向けて壮絶な位置の奪い合いの中で、最も抜け出し易く、差し易い位置に陣取る事に成功する。
カーブを抜け出し、直線に入る。
まだ、まだだ。仕掛けるにはまだ早い。先行、差し、追い込みのウマ娘たちが互いに牽制しあい、誰が仕掛けるか目を光らせる。一切の邪念を消し、限界まで集中して、その時が訪れる。
先頭を行く逃げウマの勢いが沈む瞬間、灰色の世界に色が戻った。ゴールまで続く一本道が見えた。絶対勝てる、絶対に行ける―――溢れ出る本能に従って、衝動に身を任せた。
最初に仕掛けたのは私だった。
後続のウマ娘たちが背後に着くのを拒否するように、貯めた脚を一気に解放して急加速する。同じ事を考えていた差しや追い込みのウマ娘たちにとっても、その加速には不意を突かれたようで、堪らずに自らも溜めた脚を解放するも一手遅かった。僅かだが決定的な距離が作られた。
全力で走る。全力で空気を取り込み息を吐く。進む、進む。先行集団を超え、逃げウマを追い越して一気に先頭まで駆け上がる。影をも踏ませやしない圧倒的な走り。ゴールまであと少し、あと数秒で1着で勝つことができる。できる筈なのに
「ッ」
身体は前へ行こうとしている。
だが、脚がそれを拒んだ。ガラスの靴は、耐えられずにヒビが入った。思考を乱し、無視できない程度の痛みが右脚に生まれて、無意識に力を緩めた。まるで急にブレーキを掛けられたような失速に歯噛みする。その隙を逃される筈もなく、自分よりも遅れて最高速度に達したウマ娘たちが近づいてくる。
――走れるはずなのに。
その感覚が、何度も胸を締めつける。速さを、勝ち方を知っているからこそ、悔しくて苦して堪らない。勝ちたいという心は間違いなく本物だから……必死に走れ走れと脚に命令しても言うことを聞いてくれない。きっと、あと言葉が忘れられないからだ。
『無理はするな』
トレーナーからの言葉がストッパーになった。限界を超えていけば、きっと勝てる。でもそれは、誰も望んでいない結果を招く事を知っていた。
諦めた。心の中にあった熱が抜け落ちていくのと同時に、自分を追い越して行ったのは、自分の次の番号のウマ娘だった。
「ぁぁ……」
直線。 一瞬だけ、灰色だった世界が開けて、勝つための道が用意された感覚が確かにあった。自分が仕掛けたタイミングも、それに至るまでの布石も完璧だった。自分の中にある勝利に誰よりも貪欲な精神が、勝つための道を作ってくれたのに、それを無碍にしたのは強いライバルや不運じゃない。自分だ。
「……」
結果は、掲示板の外。
落胆の声すら、上がらない。そこには自分と重ね合わせて心の底から応援したくなるようなスターは居なかった。
ただ、レースが終わった。
戻る途中、空を見上げた。
相変わらず、空はくすんだ灰色だった。
――それでも。
それでも、次も走るのだろう、と自分でも分かっている。
止まる理由が、どこにもないから。
痛みに震える灰色の脚は、今日も止まらなかった。
――――――――
「どう?」
「かわいいー!!カサマツの制服がこんなに似合ってるなんて、アルバムに残さないとね。」
ボロボロなアパートの一室で、芦毛のウマ娘が真新しい制服を披露していた。それはカサマツトレセン学園の制服で、芦毛の少女にはとても似合っていてまるでアイドルだ。……若干スカートの丈が短い事に不安を覚えつつ、カメラを構える母親は愛娘の晴れ姿を逃す事なく1枚1枚丁寧に写真を撮る。
母娘にとって、今日は特別な日。なんたって今日は入学式なのである。ここは岐阜県、ウマ娘が岐阜に生まれたとなれば、自ずと進学するのは笠松トレーニングセンター学園、略して笠松トレセンだ。夢と希望を胸にいっぱい詰め込んで、少女たちは過酷な競走世界に踏み込むのである。
「そろそろ時間だね。準備は大丈夫なの?」
「うん。今日は入学式と説明だけだから、準備は大丈夫!」むふー
「なら良かった。そうだ!今朝に汚してた学校のジャージは明日にでも届けに行くからね。」
「うぅ、ありがとうお母さん。」
「制服は汚さないようにね。ふふ、ハツラツ……おっきくなったね。怪我はしないように。頑張ってね」
「うん、見ててお母さん。頑張るから」
行ってきます、ドアを開き朗らかな笑顔を向けてから自信いっぱいにそう言って少女は歩き出していった。制服に包まれた愛娘の後ろ姿を、母親は祝福しつつ最後まで見送ってから、昔を懐かしんだ。
長く苦しい日々だった。自分のせいで娘には多大な苦労を強いてしまった。歩けるようになるまで何年掛かっただろう、走れるようになるまで何年掛かっただろう。毎日毎日苦悩が絶えなかった。
それこそ、一時期は笠松トレセンではなく一般校に行かせる方がいいとまで考えていた程なのだ。そんな娘が、今ではしっかり地に足をつけて歩いている。これ以上に嬉しいことは無い。
(頑張ってね、ハツラツ)
母親が半ば涙ぐみながら、娘の栄達を願っている時、当の本人が考えていることと云えば―――
(学園の給食………どれだけ美味しいんだろうか。食べ放題なら嬉しいな)
今日のお昼ご飯の事で、舌なめずりをしているのであった。健啖家な少女にとって、食事とは生き甲斐そのもの。何よりも重要な事は、美味しいご飯と沢山のお米があるかないかである。その点で、母親から『沢山美味しいご飯が食べれるよ』と伝えられた少女には、トレセンはただの定食屋の様に見えていることだろう。楽しみが待っているとなれば、早足で学校に向かうのは無理もない。
いつの間にか学校に着き、ピカピカの踵が潰れていない新品の上履きを履いて教室へ向かう。そして指定された通りに1番前の自席に座った少女は、必死に溢れ出る食欲を隠す事に精を出す。その間に、クラスメイトであるウマ娘たちが続々とやってくる。鹿毛に黒毛に芦毛と、様々なバリュエーションに目が引かれる。
その中には、当然同じ小学校を卒業した者もいるはずで……
彼女は獲物を見つけたような、好奇な視線を向けて近づいてくる。
「ふーん、トレセンに入学できたんだ。泥うさぎ、あーしは絶対に無理だと思ってた。」
「む、ノルン?」
「疑問符付けんなし。で、なんで泥うさぎがここにいるのかって聞いているんだけど」
ノルンエース、保育園から小学校まで同じクラスでずっと一緒だった幼なじみ。目立つ赤っぽい髪色に、着崩した制服に田舎には中々いない「ギャル」っぽい見た目の少女。オシャレで綺麗な幼なじみ、芋っぽくてオシャレには興味の無い(可愛いものは例外)な芦毛の少女とは真反対の存在。一見すると仲の良さそうな2人だが、一方的に親友と思われているだけで、ノルンエースにとっては目の敵、腐れ縁である。というか若干嫌い。
「私がいる理由?それは走りたかったからだが」
全くもって意味不明な発言に、キョトンとした顔になる。ノルンは知っているのだ。腐れ縁とはいえ幼なじみで、一緒に登下校もした、遊んだ事も一応ある。だから知っているのだ、その言葉は大言壮語も甚だしいと。
「走…るぅ?。泥うさぎ、あんたが走れる訳ないっしょ。木偶の坊の癖して、また無様に転びたいのぉ?くくっ」
「走れるようになったぞ?」
「は?チッ……これだから、あーもういいや、じゃあね糞うさぎ。」
「ああ、また後で!」
悪口を悪口と思わないポジティブシンキング。少女にとって、今の会話は久しぶりに話せて楽しかった!程度の物であったが、隣に座っているウマ娘には、そうは思えなかったようである。
「えっと、大丈夫?虐められてる?」
「虐められているのか!?」
「え゛!?私じゃなくて貴女がね!」
「なんだ私か、ただ話していたんだ。それで……君は一体?」
「ああっ、名前を言うの忘れちゃった。私の名前はベルノライト、よ、よろしくね」
「ベルノライト……ベルノライト……ベルノ。うん、これからよろしく、ベルノ。私の名前はオグリキャップだ。オグリと呼んでくれ」
▼△▼△▼△
給食の時間。ここ笠松トレセン学園では、小学校のように給食を教室で食べない。広々とした食堂で、クラスの垣根を超えて和気あいあいと友人や先輩、或いは同じチームの同僚と一緒に自由に喋って食事を取ることが出来るのだ。
「今日はご飯食べたら終わりだから、この後寮に行かないとねオグリちゃん。準備手伝うよ!」
「ん、ありがとう。ベルノのも手伝おう。それにしても良い匂いだ。コロッケか」
昨日のテレビやレースの感想、部活動やら種々雑多な会話が為されるその雰囲気は、まるで高校や大学のよう。新入生たちは初めての空間に目を輝かせ、メニューの上にどデカく書いてある『全品無料』という魔法のワードに引き連れられて、コロッケとお米を大きく盛って貰うその姿には微笑ましいさを感じる。
例外を除き
「ベルノ、どうしてそんなに私を見つめているんだ?」
「いや、え、その量は……幾らなんでも……え?」
「どうしたんだ一体。さあ、、早く食べよう✨」
「う、うん……私が少食だからだよね、そうだよね?」
2人は周囲の視線に囲まれながら席に着く。どうしてそんなに視線を浴びているのか、片方は気にしていないようだが原因は明らかに盛りすぎな食事量にある。別にベルノライトが少食だからではなく、オグリキャップが盛ったコロッケにお米は、普通のウマ娘の1日分の食事量であるからだ。
まあ、当の本人からすると普通の量に過ぎないので何も気にしていない。重要なのは美味しいかどうかの1点。
(ふむ……)
「頂きます」
「え、な、なんでこんな緊張感を漂わせてるの……?」
湯気が、静かに立ちのぼっている。
皿の中央に鎮座する超大盛りのコロッケは、まるで富士山のように堂々としている。衣は濃い狐色。きめ細かいパン粉が均一にまとい、光を受けてほのかに艶めく。その表面には揚げたて特有の張りがあり、箸先で触れると、かすかに硬質な感触が伝わってくる。
ソースをかけた瞬間、空気が変わる。
黒褐色のとろみが、衣の凹凸をゆっくりと辿り、細かな隙間へと染み込んでいく。甘く、少し酸の立った香りが立ち上る。油の香ばしさと混じり合い、食欲を否応なく刺激する匂いが卓上に広がる。
箸を入れると、サクッと乾いた軽い音がして衣が崩れる。内側から現れたのは、ほくほくのジャガイモと玉葱に挽肉。完全に滑らかではなく、わずかに形を残している。その粗さが、舌に美味を直線的に届けてくれる。
一口。
最初に来るのは衣の香ばしさと濃いソースのどっしりとした衝撃。次に、じゃがいもの優しい甘みがゆっくりと広がる。塩気は控えめで、素材の甘さを邪魔しない。ソースの濃さと、芋の柔らかい甘さが舌の上で交差し、やがて溶け合う。
そこへ、白米を喰らえば……
口に運べば、もっちりとした弾力とともに、ほのかな甘みが広がる。ソースの濃厚さを受け止め、油の余韻を包み込み、美味しさを何倍にも増幅してくれる。まるでびっくり〇ンキーのハンバーグと白米のような相性の良さに涙が零れる。
「え、え?なんで泣いてるのオグリちゃん!?」
再びコロッケに戻る。
サクッ。
ほくっ。
じゅわり。
その往復は止まらない。まるで計算された循環。揚げ物の高揚と、米の安心感。飽きたならば、山盛りのキャベツの千切りを1口頂いてからの―――
味噌汁をすする。
出汁の香りが鼻腔を抜ける。柔らかな塩味が、口内を整える。油の余韻を洗い流し、次の一口を迎える準備を整える。豆腐とワカメに油揚げが美味すぎる。
気づけば皿は軽くなっていた。ソースに染まった衣の欠片が、最後の証のように残るだけ。非常に満足のいく食事であった事に、トレセンに入学して良かったと改めて思うオグリキャップ。
「ご馳走様でした」
「じゅ、10分で食べきっちゃった……オグリちゃん、美味しかった…?」
「ああ、本当に美味しかった。是非もう一度食べたいぐらいだ。」
その言葉に、厨房の方からザワッとした事は露知らず、まあ、と残念そうに言葉を発してからコップの水を1口で飲みきってから。
「ご飯はみんなで食べるから私1人で食べ尽くしたら駄目なんだ。お母さんにも止められているから、今日はここまでにする。ベルノの食べる分は残しておかないといけないからな!」
「そ、そっか、オグリちゃんは優しいね。でも今日はこれでいいかな。ご馳走様でした。よーしオグリちゃん、寮に行こっ」
「おおー!」
2人の和気あいあいとした雰囲気に対して、ノルンエースを含め3人組は悪い笑みを浮かべているのだった。