ある日、人類は未知の存在と出会った。

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第1話

 

 この世で最も優れた生き物とは何か。

 

 それは有史以来、幾度となく繰り返されてきた問答。

 

 大空を自由自在に飛べる鳥だと答える者がいた。

 大海を縦横無尽に泳げる魚だと答える者がいた。

 大地の影の支配者である虫だと答える者がいた。

 

 挙げられる答えはまさしく千差万別。彼らの予想はある意味で正解であり、そしてある意味で間違いでもある。そもそもこの問答に明確な答えなど存在しないし、きっとそれを挙げられる者もいない。

 

 それでも、おおよその人々は迷うことなく『自分達』であると答えるだろう。

 

 『自分達』つまりは(イコール)『人間』。 

 

 鳥でも魚でも虫でもない。

 人類こそが、この地球という大きな星で最も優れた種族であると彼らは認識しているのだ。

 

 ヒトは自由に空を飛べず、海を泳げず、陸を渡れない。

 翼も嘴も。エラもヒレも。触角も複眼も。ヒトはそれらを何一つとして持ち合わせてはいない。

 身体的な特長といえば安定した二足歩行ができるくらいのもので、その肉体は多種と比較してもおよそ貧弱であるし、自らと同程度以上の大きさの野生動物に対面したらまず勝てはしないだろう。

 

 それなのになぜヒトは己こそが最優の生物と信じて疑わないのか。

 なぜなら、人類には他の生物が持ち得ない秀でた武器があったからだ。

 

 知恵。理性。感情。

 端的に言えば考える力。思考するというメカニズム。

 

 人類は進化の過程で獲得したその最大・最強の武器を手に、言語や社会性を育みながら、長い時間をかけて地球の頂点捕食者(トッププレデター)にのし上がった。

 生活の利便性を向上させるために自然を切り拓き、他の生物を飼いならして贄とする。飽くなき興味と利益のために海の底や空の果てまでも解明する。

 もはや何を成すにも自由。何を決めるにも勝手。

 今やこの惑星(地球)は、彼ら人間の生存活動を中心にすべてが回っているといってもいい。

 

 それを咎められる者はいない。

 なぜなら、地球には人間以上の力を持った種がいないのだから。

 たかだか80億程度の数しか持たない人間を、何千兆と存在する他の生物の誰もが止められない。

 知性を持つ者と持たない者。両者の隔たりは圧倒的な数をもってしても埋めることができないほどに絶対的だった。

 

 だがしかし、人間こそが最優であるという事実は、彼ら以上に強靭で知的な生物が存在しないという前提のもとに成り立っているに過ぎないのである。

 

 ならば人間を超える生物が存在したらどうだろうか。

 いいや、そんなことは絶対にあり得ない。この惑星に住まう生物に、人間以上に秀でた能力を持つものなど存在しないからだ。

 

 であれば、この惑星の外側。あるいはこの世界の外側であればどうか。 

 ヒトの(ことわり)などまるで通用しない次元。 

 人間以上の肉体と知性を携えた生物が()()()()()()()()()()()

 

 答えは決まっている。

 人間は容易く頂点の座から引きずり降ろされ、そして今度は自らが行ってきた蹂躙を、搾取をその身をもって味わうことになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 人類存亡の危機(最後の審判)は突如としてやってきた。

 

 

『―――聞け、人類よ』

 

 時は世紀末。

 

 世をにわかに騒がせた滅亡論も喉元を過ぎ、もうじき訪れる新たな時代の節目を誰もが浮足立って待ちわびていたまさにその時―――、

 

 何の因果か、この世界は()()()()()()()()と繋がってしまった。 

 

 

『我々はサキュバス。至高にして最強たる種族である』

 

 

 空を裂いて現れた巨大な方舟(ふね)

 

 大地に降り立つ無数の見目麗しい淫婦。

 

 人類が遠く宇宙(ソラ)の果てに望んだ未知との邂逅、それは明確な敵意を伴ってやってきた。

 

 

『降伏せよ。平伏せよ。今日この時より、この惑星は我々が支配した!』

 

 

 異形の来訪者―――サキュバス。

 

 その侵略は息を飲むほどに鮮やかに、厳かで、人々の理解を超えて圧倒的だった。

 

 彼女達は我先に精気を喰らった。己の飢餓を満たすため。己が享楽に耽るため。

 

 思いのまま世界を蹂躙する姿はまさに大胆不敵にして唯我独尊。

 

 恐怖と困惑は瞬く間に伝播し、地球全土を混乱の渦中に叩き落とした。

 

 やがて各国の主要都市を容易く制圧した彼女達は、怯え惑う愚かな民衆を睥睨(へいげい)して宣った。

 

  

『この星に住まうすべての人間、すべての生物、その生殺与奪の一切をここに剥奪する』 

 

 

 自らが正義であり支配する側だと信じて疑わない絶対的な自負に溢れた宣戦布告。

 

 恐るべき侵略者の名を冠して、のちに【サキュバス・デイ】と呼ばれるようになる人類史上最大最悪の危機。

 

 平穏は奪われた。

 

 未来は閉ざされた。

 

 その日、人類は思い知ることになる。

 

 

『喜ぶがいい、ニンゲンどもよ。貴様達は今日から我々の―――性奴隷となってもらう』   

 

 

 支配される恐怖を。

 

 簒奪される屈辱を。

 

 

 ―――ここに、人類史の行く末を決める大きな戦いの火蓋が切って落とされたのである。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

≪ここは俺が食い止める! だからお前は母さんと一緒に逃げろ!≫

≪やだよ父さん! 父さぁーん!≫

≪じゃあな、サム。お前は生き残るんだ。そしてこの世界を―――≫

 

 引き裂かれた仲睦まじい家族。

 

≪各地の被害状況は!?≫

≪ニューヨーク、ムンバイ、ホンコンが壊滅! ロンドンとシドニーも長くは持ちません!≫

≪クソったれが! あのビッチどもめ、こんなところで終わりなんて認めねえぞ!≫

 

 失われた安息の場所。

 

≪なにこれ、薄くてまっずい精液。生命力もスカスカ……ぜんぜん腹の足しにもならないじゃない≫

≪たまたま雑魚を引いたのでしょう。精巣の性能も一律というわけではないのでアタリハズレはあります。試しに次はさらに痛みや恐怖を与えてみては?≫

≪ああ、食糧班の娘が言ってたやつね。生存本能を刺激すれば味と量に変化があるとかなんとか。あれホントなのかしら≫

 

 もてあそばれる尊い命。

 

 立ち向かう。逃げ惑う。許しを請う。

 サキュバスという未知の存在に対する反応は国や地域で様々だったが、そんなものはお構いなしとサキュバスは男どもを貪り食らった。

 異形の来訪者による侵略は恐ろしいペースで拡大の一途を見せる。彼女達が通った後に残るのは、どこか満足気な顔で干からびた男と、ネバついた謎の白濁液のみ。

 

 人類破滅の足音は、いよいよすぐそこにまで迫っていた―――!

 

「――――」

 

 ()()()()()()()()が目まぐるしく場面を変えていく。

 空に開いた孔から無数の美女が飛び出してきたかと思えば、被害を食い止めようと偉そうな役人が顔を突き合わせて檄を飛ばし、その一方で民衆は恐ろしいサキュバスになすすべもなく捕食されていく。

 息つく間もなく次から次に発生するパニック。混乱が混乱を呼ぶ負の連鎖。まざまざと見せつけられる阿鼻叫喚の光景は、まさにひとつの世界の終焉を描いていた。

 終始張り詰めた緊張感を紛らわせるため、手元のポップコーンをひとつかみして頬張った。せっかくだからと柄にもなく手作りに挑戦したポップコーンは盛大に塩加減に失敗し、ひりついた喉にしょっぱさを残していた。

 

「…………ねえ、なによこれ」

 

 くたびれた場末のラブホテルで繰り広げられる、サキュバスの恐ろしい食事風景(大乱交)をぼうっと眺めていると、ふいにシャツの裾が引っ張られる。声はすぐ隣から聞こえてきた。

 映像に集中したい気持ちを抑えつつ、けれど画面を見つめたままその声に答えた。

 

「ん? 始まる前に言わなかったっけ。これは『サキュバス・デイ』っていう外国の古い映画だよ。このシーンは日本でサキュバスが―――ぐえっ」

 

「違う、そうじゃなくて。このわけのわからない映画はなんなのかってことをわたしは聞きたいの!」

 

 僕の言葉は途中で遮られる。原因は脇腹を走った痛みと衝撃だった。

 こつん、と。おそらくは肘で小突かれでもしたのだろう。しかし、そんな軽い音とは裏腹に、強烈なレバーブローを喰らったような鈍痛が腹部に広がっていく。不意打ち気味な衝撃のせいで皿からこぼれたポップコーンが少しだけ床に散ってしまった。

 なんとなく予想はしていたがやはりこうなってしまったか。ズキズキと痛む脇腹を労わるようにさすりながら、テレビから視線を外して隣を見遣った。

 

 僕の(ねぐら)である部屋は現在薄暗い闇に包まれていた。

 せっかく映画を観るなら雰囲気から入らないと、とのことで照明は落とされているためで、部屋の中を照らすのは窓から差し込む淡い月光と、映画を映しているテレビの光くらいのもの。

 

 男の一人暮らしならたいして不便も感じないような、お世辞にも広いとは言えない部屋の中心には、三人掛けのソファベッドが所狭しと置かれている。

 そこに自分と並んで座って映画を観ている少女。彼女こそ、たった今僕に対して唐突な暴力を働いた下手人である。

 隠そうともしていないのか、少女の顔にはわかりやすい苛立ちが浮かんでいる。薄着のルームウェアからすらりと伸びた細い腕と足を組みながら、画面の中でくんずほぐれつに入り乱れる男女―――とりわけサキュバスの方を強く()めつけていた。

  

「痛いなぁもう……。どうかしたの、そんなにお気に召さなかった?」

 

「お気に召すとかじゃなくて。そもそもこの作品自体が意味不明だって言いたいのよ、私は。なんなのこの映画。サキュバスの侵略とか人類との対立とかワケわかんない。まるっきり全部ニセモノ、歴史の捏造じゃない」

 

「そりゃ脚色ありきのフィクションだからね。この作品に限らず映画ってのはたいていそういうものだよ」

 

「だとしてもよ。いくら創作だからってやって良いことと悪いことがあるでしょうが」

 

「そうかな? 何にも縛られない自由だからこその創作だと僕は思うけど。……まあ、これが色々と特殊な作品なのは否定できないか」

 

 ふん、と鼻を鳴らした彼女はポップコーンの皿を僕から奪いとった。そしてふくれ面のままその小さな口いっぱいにポップコーンを詰め込んでいく。その光景はまるで木の実を頬袋にためこむリスを想わせてたいへん愛らしいのだが、さりとてそれを口に出すのは自ら爆弾の導火線に火をつけるごとき愚行。わざわざ見えてる地雷を踏むバカはいないし、小心者の僕にそんな度胸もない。

 どうやら彼女はこの映画自体に疑問を抱いているらしい。彼女の為人(ひととなり)を知る立場からすれば、その気持ちも痛いほど理解できた。

 今はまだ辛うじて作品止まりだが、このまま放っておけば怒りの矛先が遠い異国の映画監督に向く可能性も無きにしも非ず。

 ここは少しばかりフォローを入れることにしよう。

 

「キミはこの映画のことあんまり知らないんだよね?」

 

「そもそも今日初めて存在を知ったわ」

 

 それもそうだろうな。知っていたとしたら僕がどれだけ誘ったところで一緒に観るとは言いださなかったはずだ。

 

「この【サキュバス・デイ】は映画ではよくある、僕達人類が歩む可能性のあった未来―――いわゆるもしも(IF)の世界を、サキュバスを題材にして映像化した史上初の長編作品なんだ。これでも公開された当時はかなり話題になって、映画館に客が詰め寄せたんだってさ」

 

 【サキュバス・デイ】。

 それがいま僕と彼女が観ている映画のタイトルだ。

 

 そもそも予算は少なく、俳優はところどころ棒読みまじりで、CGや映像のクオリティだってお世辞にも良いとは言えないこの映画。もともとは辺境の小国でひっそりと公開・上映されていたもので、本来なら他の木っ端映画と同様に埋もれていくだけだったはずのこの作品は、偶然にもとある著名な映画評論家の目に触れたことで大きく運命を変える。

 当時はサキュバスを題材にした映画はとても数が少なく、あったとしても短編ラブストーリーが九割を占めていたブルーオーシャン状態。そんながら空きの市場に斬新な設定でもって別方面から切り込んだこの作品は、その映画評論家の感性に大きく響いたようで、幾度ものリピート観賞を経た末に大絶賛の白熱した評論が彼のブログに投稿された。

 彼の褒める映画に一切のハズレなし、とまで言われていた絶大な影響力もあって、映画館には連日客が押し寄せ、その口コミによって客が客を呼ぶ連鎖が形成された。そして一大ブームと化した【サキュバス・デイ】はあれよあれよという間に世界へと羽ばたいていった。さらにさらにその特異な内容と大きな話題性は既視感とマンネリで凝り固まった業界に一石を投じ、これを機にサキュバスの映画は急増、後に映画界最大の祭典においてもサキュバスカテゴリーの特別部門を創設するにまで至った。

 そんなこともあって、【サキュバス・デイ】は長い映画の歴史で見ても稀有な経歴を持つ作品なのである。ちなみに興行収入も製作費を余裕でペイした上で、制作に携わった主要スタッフ達は人生を数回遊んで暮らせるくらいには稼いだのだとか。

 

 そんなことを説明すれば、彼女は半信半疑といった面持ちで口を尖らせた。

 

「世も末ね。こんなB級映画に片足突っ込んでるようなのが持ち上げられてたなんて信じられない。映画はあんまり観る方じゃないけど、いいとこ佳作止まりじゃないかしら」

 

「扱った題材の珍しさや時勢なんかで下駄を履かされてるだけで、実際のクオリティでいえば凡作の域を出ないからね。古い映画にはよくあることだよ。純粋な評価としてはキミは何も間違ってないだろうさ」

 

「ふぅん……昔の人間って変わってるんだ。というか、アンタよくそんなこと知ってたわね? 映画オタクってわけでもないのに」

 

「結構有名な話だから」

 

 彼女は再度呆れながらテレビに意識を戻して、すぐにその首を小さく傾げた。

 当たり前のことだが僕達が話していた間にも映画の方は進んでいる。なので途中の部分をすっかり見落とした彼女には、ただでさえ理解を超えていた内容がさらに混迷を極めているに違いない。

 

 ちなみにいま彼女が見ているのは、サキュバス軍が投入した体長数百メートル級の鹵獲用ローションスライム兵器によって、エッフェル塔に逃げ込んだ避難民が建物ごと丸呑みにされねぶりつくされているシーンだ。世界的なシンボルと共に国家の尊厳が凌辱されているかのような光景に、街のあちこちから悲鳴や絶叫が木霊している。

 言葉にするとなんともシュールな絵面なのは否めないが、微かな希望がまるごと絶望にすり潰される印象的なシーンということで、世の映画評論家からは総じて高い評価を得ている……らしい。あいにく僕にはそのゲテモノ食いのような感覚はよくわからない。

 

「やっぱりクソ映画」 

 

 うげー、気持ち悪い。ああいうドロドロしたやつって生理的に無理なのよ。

 おぞましい光景を苦虫を噛み潰したような顔で見つめながら彼女は言う。

 

「まあそう言わずに。これでも小学校で教育カリキュラムに組み込まれてるくらいにはすごい作品なんだから。一概にクソ映画と切って捨てるのもどうかと思うよ」

 

「はああ?」隣で信じられないといった声があがる。「……アンタ、もしかしてわたしを騙そうとしてない? 何も知らないからっておちょくって遊んでるんじゃないの?」

 

 僕の言葉なんてまるで信じていないとでも言いたげに、キッと細められた切れ長の深紅の瞳が胡乱な色を映す。

 僕が何も言わずにジッと見つめ返すと、その目つきが次第に憐れみを帯びるようになった。

 

「……ああ、ついに頭がイかれちゃったのね。かわいそうに。もう手遅れだからこのまま裏の空き地に埋葬してやろうかしら」

 

「心配しなくても正常だって」

 

 彼女との付き合いもそう短くはないというのに、ここまで信用がないのも考え物だ。普段の行いが悪いのだろうか。

 

「それに嘘もついてないよ。そもそもこんなことでキミを騙すメリットが僕にあると思う? どうせ騙すならもう少しまともな嘘を考えるよ」

 

「だったらこのスケベ映画のどこに教育的な要素があるのか言ってみなさいよ、ええ? セックスとセックスの間にセックスを挟んだ胃もたれ確実のデカ盛り料理みたいな映画、むしろ悪い影響しか見当たらないじゃない。一から十まで子供の道徳心と貞操観念を逆撫でしてるだけよ」

 

「なんだか今日はやけに突っかかってくるね」

 

「さあ、気のせいじゃないかしら。別にわたしはいつも通りよ。まったく怒ってなんかいないから」

 

「……限定パルフェ食べられなかったのはキミが店を間違えたからじゃん」

 

「うっさい。その話はもうするなって言ったでしょ!」

 

 べしり、と膝が叩かれる。やはり痛い。

 

「それよりほら、こんな映画で何が教育できるのかさっさと答えなさいよ。保健体育の教材とか言ったら本気でぶっ飛ばすかんね」

 

 保健体育の教材、と喉元まで出かかった言葉を寸前で飲み込む。

 危ないところだった。ご機嫌ナナメのときの彼女は核弾頭もかくやという危うさのため、『ぶっ飛ばす』という表現はわりとシャレにならないのだ。

 過去にも対応を誤って何度もそれで死にかけていることを忘れてはいない。なぜなら僕は学習できる人間だから。学習できていたら何度も死にかけてるはずがない、というツッコミは受け付けない。

 

 もちろん彼女の言うように、そういった用途で使用されることはある。まあ今のご時世を鑑みれば、それにしたって稀ではあるが。

 でもこの作品にはもうひとつ、重要な役割がある。

 それは―――。

 

「未来への警鐘だよ」

 

「警鐘?」

 

 訝しむような声。予想していた答えとは違ったのだろう。

 続きを促すように彼女は僕の顔を覗き込む。彼女の関心はすでに映画には向いていなかった。

 僕は問わず語りのように言葉を続けた。

 

「いつか()()()()()()()()()()()()()()ような日が訪れたとき、もしかしたらこの映画みたいな異種族間の戦争に発展する未来もありえるかもしれない、ってね」

 

 それはある者にとっては当然というべきで、しかしある者にすればあり得るはずのない懸念。

  

「未来は可能性によって無限に枝分かれする不明瞭なもの。だからこれから何が起こるかなんて誰にもわからない。何気ない安易な選択が最良の結果を手繰り寄せることも、たったひとつの軽率な過ちで順調に見えたはずの道が途絶えることもある。薄氷を履むが如しなんて言葉があるけど、今の僕達の世界はまさにそんな感じだと言ってもいいんだ。数々の偶然や奇跡が重なることでなんとかバランスは保たれている一方で、不平不満や差別意識は水面下で渦巻いてる。何らかのきっかけで天秤が傾けば崩壊する可能性はいつでもどこにでも潜んでるんだよ」

 

 かつて否定された過去。いつか実現するかもしれない未来。

 価値観や常識がまるっきり変化して、この数十年で文字通りひっくり返ってしまったこの世界は、昔の人の目にはいったいどんな風に映るのだろう。

 喜ばしいと羨まれるだろうか。恐ろしいと蔑まれるだろうか。あいにくとその答えを教えてくれる人はいないし、それを知ったところで何かが変わるわけでも、人々の心がどうにかなるわけでもない。

 だけど、いまでこそ誰もが当然のように受け入れていることが、当然ではない時代がたしかにあったのだ。

 

「ひとたびバランスが崩れてしまえば、その先に待ち受けているのは対立や決別という双方にとって望ましくない道行きだろう。そうなった場合に僕達はお互いを滅ぼすまで殺し合うのか、それとも再び手を取り合って共存の道を探すのか。何が起こるかなんてわからないし、何が起こってもきっと不思議じゃない。だって僕達は何も知らないんだから」

 

 【サキュバス・デイ】という作品がこの世に産み落とされてから数十年が経つ。その間、多くの人がこの映画に込められたメッセージについて議論を交わした。

 唸るような深い考察を提唱する者。ただの金稼ぎだと吐き捨てる者。これは数十年後の未来だと断言する者。

 この映画の制作陣は誰一人欠けることなく今も存命とのことだが、彼らがそれについて公の場で言及したことは一度もなく、今現在彼らがどこにいるか何をしているかも不明なままらしい。

 正解なんて誰にもわからない。未知に怯え、変わっていく時代を恐れ、不安と煩悶をどうにか吐き出したくて生まれたのがたまたまこの映画だった。もしかしたらただそれだけのことかもしれない。

 それでも彼らの想いと作り上げた作品はこうして、僕達が道を違えないための一助となってくれている……のだと思いたい。

 

「だからこそ、こんな悲しい戦争にならないように人間とサキュバスは仲良くしましょう。でも可能性は決してゼロじゃないから、もしもの時には覚悟も必要だから心の隅にでも留めておいてね、っていう訓示の資料としての役割だね。まあ、厳密には教育とは少し違うかもしれないけれど」

 

 もう名前は忘れてしまったけれど、かつてそんなことを優しく諭してくれた教師の姿を思い出しながら、同じように隣の少女に説明をする。我ながら上手く言葉にできたような気がする。

 しかし彼女はというと、僕の言葉を静かに聞いていたかと思えば、

 

「はんっ、ばっかみたい。戦争だの殺し合いだの、笑い話にもならないっての」 

 

 そう、たやすく切り捨てた。

 

「……そうか。まあキミならそう言うだろうね」

 

 僕は大きく息を吐いてソファにずぶずぶと身体を沈めた。もはや気持ちいいくらいの全否定の言葉に、全身から力が抜けていく。

 

 正直なところ理解されるなんて思っちゃいない。この映画に込められたメッセージはあくまで侵略される側の一方的な懸念であり、それはつまり隣の彼女にとって何一つ意味を持たないもの。

 それでも少しは……その指でつまんでいるポップコーンの一欠片分くらいは共感してくれると期待したのだが、どうやらそうもいかなかったらしい。

 彼我の価値観と環境、社会構造に性質の違い。こればかりは時間が解決してくれる問題とも違う気がするから、やはりどこまでいっても平行線のままなんだろう。

 

「今でこそ、そうやって笑い飛ばせるかもしれないけどね。でも実際にこういった危機感を持った人が大勢いたのは確かなんだ。現に、この映画が製作されたのもそんな時代の背景が一因だとも言われてるし」

 

「昔の人間ってずいぶん心配性なのね。身体だけじゃなく心まで弱っちくてどうするんだか」

 

「日常をぶち破っていきなり未知の存在がやってきたら誰だってそう思うさ。何度も言うけどこうして僕達の世界が成り立っているのだって、ほんとうに奇跡的なバランスの上なんだから。それを今一度噛みしめるためにもこの映画は必要ってことなんだよ。だから毎年同じ時期にテレビで放送されてるわけだし」

 

 いわば風物詩なのだ、この映画は。

 新芽の芽吹きに春の訪れを感じるように。朝晩の肌寒さに秋の終わりを感じるように。地上波を独占する【サキュバス・デイ】を見て、今年ももうそんな季節なのかと感じ入る者は少なくない。

 

「そもそもこんなポルノ作品を地上波で流してお茶の間は凍りつかないのかしら」

 

「そこは問題ないよ。みんな子供の頃からこの作品に触れてきてるからね。忌避感を示す人も少なくはないけど、多少のクレームじゃいまさら何も揺るがないよ」

 

「ふーん。なんだか洗脳みたいね」

 

「……それをキミが言うのか」

 

「なによ?」

 

「いや、なんでもない。気にしないで」

 

 少女と話している間に映画は新たな局面へ突入していた。

 

 かつての栄華もむなしく荒廃した大都市。長引く戦火により疲弊しきった人々。

 侵略に抵抗する各国の軍隊をあらかたしゃぶり尽くしたサキュバス軍は、一万人の男児が身を隠すシェルターを次のターゲットに定めた。そしてそれを阻止するべく、国際連合軍が一大決戦を仕掛けようとする。

 外宇宙からやってきた彼女達に既存の兵器は効果が薄く、他に有効な手立ても残されていないため、最後の手段である性交を用いて撃退を試みようという作戦が下された。

 陽動部隊が本軍の注意を引いている間に、性交部隊が回り込んで左右から一気に突き崩す……要はサキュバス達に集団レ〇プを仕掛けるという身も蓋もない作戦なのだが、開戦以降ずっと虐げられてきた者達が、命を懸けて一斉蜂起をするという人類側の転換期であることと、死地に向かう俳優の熱演も相まってかなり手に汗握る展開になっている。

 

≪……悪いな、トビー。遊園地に連れてく約束は守れそうにない≫

≪息子はなんて言ってたんだ?≫

≪いいや、なにも。ただずいぶんと泣かれたよ。なんとなくわかっちまうんだろうな、もう戻ってこないかもしれないって。まだまだガキだと思ってたんだが、子供の成長ってのは早いもんだ≫

≪うちの娘も似たようなもんさ。……これが今生の別れにならなきゃいいがな≫

≪おいおい、まだ失敗するって決まったわけじゃないだろ。始まる前からずいぶん弱気だな。もっと胸を張れよ。子供達の未来を守れるならこの命も惜しくないぜ≫ 

≪冗談でもそんなことは言うもんじゃない。残された側のことも考えてやれ。サキュバスのクソったれどもをぶっ倒して俺達は生きてここに帰ってくるんだよ……誰も欠けることなく、な≫

 

 むさくるしい男たちが拳をぶつけ合ってそれぞれの戦場に赴く。二度とは帰ってこられないという、確信のようなものを胸の奥底に秘めながら。

 

「感動的だよね」

 

「本気でそう思ってるならアンタの頭を心配するけれど」

 

「そう? 人間の底力を見せてやるぞ、って感じで昔からこのシーン好きだな、僕は」

 

「やっぱり洗脳じみてるわよ、それ」

 

 結果的に作戦は成功した。サキュバスは追い詰められた人間の執念というものを見誤ったのだ。

 シェルターの男児は誰一人としてサキュバスの餌食になることはなく、彼らは守るべきものを守り通せた。しかし、性交部隊はサキュバス軍を撤退まで追い込んだものの、決戦前に服用していた対サキュバス用バイアグラの副作用とオーバードーズにより命を落としてしまうという悲しい結末を迎えてしまう。

 戦場で散っていった戦士達には世界中から溢れんばかりの称賛と哀悼が寄せられた。そして一方的だった情勢をわずかでも押し返すことに成功した人類側は、これを機に反撃の狼煙を上げることになる。

 

「って、結局全滅してるし」

「同じ全滅でも意味が全然違うよ。彼らは無念の死を遂げたわけじゃなく、ちゃんと目的を達成して希望を後に託して逝けたんだから無駄にはなってない」

 

 尊い犠牲により得たデータで対サキュバス用バイアグラはさらなる進化を遂げる。

 それは服用者の精液にサキュバスの体組織を破壊する成分を内蔵させるという機能であり、このバイアグラの量産・普及に伴い、世界の各地で人間達の捲土重来が始まる。

 

 サキュバスが人間から生命力を摂取する手段は性交のみ。つまり人間側の攻撃を甘んじてその身に受けるしかない。サキュバスが勝つには彼らのすべてを受け入れ、その上ですべてを余さず吸いつくすしかない。

 無論、人間側にとってもサキュバスとの性交は一歩間違えれば命を落とす危険な行為であるが、前述のバイアグラには尋常でないほどの勢力増強効果があるので、一対一では不利なものの多対一ならば安定した勝利を収めることができていた。

 

 はじめは人間側の抵抗を笑って見過ごしていたサキュバス達だったが、同胞が次々とアヘ顔を晒しながら倒れていくという事態にようやく重い腰を上げる。

 サキュバスの中でも上位の個体―――夥しいほどの吸精によりさらなる力をつけたアークサキュバスが戦場へと参戦し、異種間戦争は最終局面へと進んでいく。

 

「そもそもこの映画って八割方セックスしてるだけよね。それで戦争の悲惨さを真面目に描こうとしてるのがまたさらにムカつく。シュールギャグ、ってやつかしら」

 

「仕方ないよ。サキュバスにとっては性行為が生きるための食事であり侵略行為なんだから。彼女達は人間を簡単に殺せるだろうけど、それは自分たちの首を絞めることになるだけ。だからその場で吸えるだけ吸い尽くすか、拠点に持ち帰って性奴隷にでもするかしか選べないんだ。人間側もサキュバスには銃もミサイルも効かないってわかってるし、そんな状況でどうやって彼女達と戦うかってなったら、そりゃヤることはひとつになるよね」

 

「だからってそれ一辺倒もどうなのよ。さっきから飽き飽きするセックスとつまんない会議とお涙頂戴の三文芝居ばっかりじゃない。もっとド派手な戦闘シーンとか感動するラブロマンスは無いわけ?」

 

「無いよ」

 

「じゃあ敵の拠点に潜入しての破壊工作とか……」

 

「無いかな」

 

「……主人公の覚醒は」

 

「無いね。そもそも明確な主人公なんていないし。この際だから言っておくけどこの映画最後までこんな感じだから」

 

「それの何が面白いのよ!?」  

 

 うぎゃー! と悲痛な叫びが上がる。

 周りの人間はこの映画に骨の髄まで染められてしまっているので、久しぶりの新鮮なリアクションが気持ちいい。はっきり言えばゾクゾクする。

 いやはや、それにしてもごもっともな意見だ。はじめて見た彼女は知る由もないことだが、【サキュバス・デイ】は全編『セックスにはセックスをぶつけるんだよオラァ!』みたいな勢いの映画なのだ。

 淫猥の権化たるサキュバスを題材にする以上避けては通れない描写とはいえ、これほどの密度でセックスをねじ込んでくる作品は同様のジャンルでも他にそうそうない。もはや下手なポルノ作品より画面に映る肌面積も飛び散る汁の量も多いくらいである。

 実際彼女のように受けつけない人にはとことん不評なので、それもこの映画がB級の域を抜け出せない一因でもあったりするのかもしれない。

 

 これは余談になるけれど、サキュバスが登場するシーンでは必ず、画面のどこかで最低でも一組の男女がセックスをしているという制作陣の謎のこだわりまで発揮されている。

 嘘だと思われるが本当の話で、どこで切り取っても必ずセックスしている。小ネタと呼ぶにはすさまじい熱意と手間だ。

 

 閑話休題。

 場面は変わってサキュバス陣営。

 自らサキュバスを受け入れて侵攻早々に壊滅したHENTAI国家(ジャパン)の首都―――トーキョーシティに築かれた軍事要塞ネオサキュバスネストの最深部。

 世界中から拉致した性奴隷()を飼育するプラントエリアにて、サキュバスクイーンが未だ抵抗を続ける人類に対し最終兵器の投入を決断する。

 

 サキュバス軍最大最強の兵器、それは惑星外―――宇宙から下される人類への鉄槌。サキュバスの持つ魅了(チャーム)のエネルギーを凝縮・増幅し、衛星軌道上に展開した巨大砲台から地球そのものへと発射するという恐ろしい攻撃だ。

 もしもこの計画が完遂された暁には、地球という惑星は微粒子レベルでサキュバスの魅了(チャーム)に汚染される。そうなれば人間の理性は一人残らず焼き切れるとともに、サキュバスのために腰を振り精液を排出するだけのセックス狂いの性奴隷と化すだろう。まさしく絶体絶命の危機だ。

 

 サキュバスへの対抗手段を得て光明が見えた人類を再び深い影が覆う。

 滅亡へのカウントダウン―――巨大砲台の稼働まで猶予はわずか二週間。はたして人類はこのままサキュバスに屈して性奴隷として消費されるのか、それとも大逆転劇により希望の未来にレディーゴーできるのか。

 進む道は二つに一つ。互いの存亡を賭けた最終局面はもう目の前だった。

 

「……?」

 

 ふと、隣の少女が静かなことに気づいた。

 さっきまで映画の内容にあれこれ文句を言っていたのが嘘のように、もうずいぶんと長い間黙り込んだままだ。

 なんだかんだ言って映画に集中しているのか、それとも飽きて喋る元気もないのか。はたまた退屈に耐えきれなくて眠ってしまったのか。

 つい気になって横目で隣を確認すると、そこに意外なものを見る。

 ぎゅっとソファーに押し込まれた小さな身体。その豊満な胸にクッションを強く描き抱きながら、真剣な眼差しで画面を見つめる彼女の姿だった。

 

 珍しいこともあるものだ。

 どちらかといえば短気で、気に入らないことがあればすぐに感情が爆発しがちな彼女が、こんな風におとなしく映画を見ていられるとは。しかも映画の内容が内容だけに、おそらく最後まで持たないだろうとも思っていたからさらに驚きだ。

 しばらく様子を見守っていると、ようやく彼女が口を開いた。

 

「……しない」

 

「うん?」

 

「サキュバスは、こんなことしないわ」

 

 これもまた彼女にしては珍しい、消え入るような小さな声だった。

 そっと目を伏せると、彼女は問わず語りに話し始める。

 

「サキュバスにとってセックスはなによりも重要な行為で生命線。食事、侵略、求愛、どれをとってもサキュバスが取れる手段はセックス以外ほかにない。その点に関しては間違いじゃないし否定するつもりもないわ」

 

「そうだね」

 

「……でもね、彼女達は軽々に男と身体を重ねるわけじゃない。そこには必ず愛情がある。相手を愛して自分も愛されるように精いっぱい、目いっぱい努力するの。それが何故かなんて……いまさらアンタには説明する必要なんてないわね」

 

「愛の介在しないセックスはサキュバスにとって意味がないから、だよね」

 

「ええ、そうよ」

  

 ゆっくりと彼女は頷いた。

 

「心から愛し、愛されることでセックスはその純度を増す。そして純度の高いセックスからはより質の高いエネルギーが精製される。結果としてサキュバスは効率的に生命力の摂取ができるようになる。上質な栄養が摂取できれば長生きできるのはサキュバスだって人間だって同じ。愛の多寡や相性によっては一度のセックスが百度のソレに勝ることだって珍しくもない」

 

 少女は噛みしめるように、確かめるように滔々と言葉を紡ぐ。

 

「結局のところ、サキュバスにとっては永遠を誓い合った伴侶でも、一度きりの関係(インスタントラバー)でもたいして変わらないの。体格も性格も容姿も関係ない。男にとってはただの遊びや性欲を解消するためにサキュバスと寝ることはあっても、サキュバスにとっては共にした(しとね)の一回一回に自分の命が懸かってる。だからこそ、いつだってサキュバスは全身全霊をかけて目の前の相手を愛してあげるの。もちろん、サキュバスの中にもたった一人の伴侶だけを愛する者もいないことはないけどね」

 

 仄暗い闇の中で鈍い輝きを放つ瞳は、映画を観ているのではなく、別の何かを映しているようにも思えた。

 

「だからこの映画みたいに人間を性奴隷になんかしない。ううん、普通はできないのよ。精神操作の魅了(チャーム)だって便利に思えるかもしれないけど、もともと相手に存在しない感情には上手く干渉できないし。いくら強力な魅了(チャーム)を振り撒いて理性を奪えても、情欲を解消するという本能だけが肥大化した肉塊に恋愛感情は宿らない。そして感情の欠落した愛を育まないセックスには味も栄養も満足感もない。無味無臭のガムを延々と噛み続けることにも等しいわ。そうなったら遅かれ早かれ先に全滅するのはサキュバスのほう。他者に依存してはじめて生きていられる、それがサキュバスの本質なんだから」

 

 愛なくしてサキュバスに繁栄なし。

 愛あるからこそサキュバスに栄華あり。

 

 それは不変で絶対の理。

 容姿は美麗で、人間より何倍も頑丈で知能も高い。およそ完全無欠にも思える生き物に備わった、しかしどうしようもない欠陥と脆弱性。

 

 サキュバスは人間に負けず劣らずの歪な生き物だ。

 その膂力で以て力任せに従属させることもできただろう。その美貌で以て媚びへつらい隷属することもできただろう。

 

 でもそれでは意味がない。

 心を恐怖で染め上げてしまえば愛することはできない。

 ただの家畜として見下されてしまえば愛されることはない。

 愉悦と快楽を適度に与えあう関係、人間と対等の立場に立ってこそ彼女達ははじめて十全に生きていける。

 

 だからサキュバスは人間に寄り添うことを選ばなければならない。いや、もとよりそれを選ぶしかないのだ。

 

「この映画に出てくるサキュバスもきっと大きな過ちを犯したんでしょうね。あふれる欲望のままに略取して、ただ渇きを潤すために精を啜り、後先考えず自分たち以外の生物を喰い殺した。その行為が招く未来には目もくれず、ただ自分達が満たされることだけを考えて、ついぞ気づいた時には星から餌が無くなった。困って困って困り果てて、でもどうしようもない飢えには耐えられなくて、人間がうじゃうじゃ生きてる地球を次の餌場に選んだ」

 

「……どうして手遅れになる前に別の手を打たなかったのかな? 一個の星を丸ごと食べ尽くすだけの長い時間はあったはずなのに」

 

「手を打たなかった、じゃなくて打とうともしなかったのよ。サキュバスなんてのは生来傲慢な種族、絶滅寸前にでもならないと現実なんか見えてこないんだから」

 

 それは誰に向けた言葉だったのか。

 隣に座る僕か、はたまたこの映画を作った者に対してなのか、それとも―――。

 

「さすが詳しいね」

「寄生・共生が生存の前提条件のサキュバスがわざわざ他所にケンカ売る理由なんてたかが知れてるもの。それに―――()()()()()()()が滅んだのも似たような理由だったから」

 

 その時、ふるり、と何かが視界の端で動いた。

 見れば、先端がハートのような形をしている黒く細長いものが、暗がりでふるふると踊るように揺れている。

 その発生源を目で追っていくと、少女の尾てい骨あたりにたどり着く。

 

 尻尾。

 遠い昔に人間が進化の過程において不要と切り捨てたもの。それが彼女の身体から生えているものの正体だった。

 

 隣に座る()()()()()()()()―――ユエラは長々と喋って疲れたのか、テーブルに置いてあったジュースを一息に飲み干すとそのままこちらに寄りかかってくる。

 とん、と肩の重みが増す。最適な頭の置き場所を探ろうとしてもぞもぞと動くたび、サラサラした髪のくすぐったい感触が頬を撫で、ほんのりと漂う彼女の甘い香りが鼻腔を擽った。

 こういう時はどうするべきかと考えて、とりあえず頭を撫でようとしたら思いっきり手を払いのけられた。どうみても明らかな拒絶の意志である。かなしみ。

 

「さっきから妙にしおらしいね。もしかして映画の中のサキュバスを自分と重ねたりした?」

 

「……どうかしらね」

 

 ユエラはうつむいたまま抑揚のない声で続ける。

 

「何も思うところがないと言えば嘘になるのかもね。かといって自己投影するほど重く受け止めてるわけでもないわ。サキュバスと人間の海溝なんて今は昔の話。私はこっちで生まれたから元の世界への思い入れどころか記憶すらそもそもないし、ママに故郷のことを訊いても詳しく教えてくれたこともない。残ってる文献や学校で学んだこと以上のことは私も知らないわ」

 

「じゃあどうしてそんなに落ち込んでるのさ」

 

「知らないわよ。それがわかったらこんなことになってないっつーの」

 

 苛立った感情の行き場を求めて、ユエラの頭がぐりぐりと僕の肩に押し付けられる。

  

「はぁ、失敗したかも。やっぱり見なきゃよかった、この映画」

 

「気丈なのか気弱なのかわかんないね、ユエラは」

 

「はいはい、中途半端に影響されやすくてめんどくさい女で悪かったわね」

 

「……? いや、僕はユエラのそういうところも好きだけど」

 

「……っ」

 

「あいたっ」

 

 ゴツン、と肩に重めの痛みが走る。

 なにをするのかと抗議の視線を向けると、なんとユエラの頭部から悪魔や山羊めいた大仰な巻き角が生えていた。

 

「うわっ、なんなのそれ」

 

「最近習得したのよ。サキュバスといえばこういうイメージもあるかと思ってね」

 

 どうだすごいだろうと胸を張るユエラ。

 こんなものは可愛くないしあるだけ邪魔だから、と普段は引っ込めているサキュバスの角を、わざわざ具現化してド突きにきたらしい。しかもご丁寧に殺傷力の高そうな形状に変えてまで。

 一般的なサキュバスは角を引っ込めるだけでもだいぶ苦労すると聞くのに、引っ込めた上で形状を変えてまた引っ張り出すなんて、なんとも無駄に器用なことをするものだ。

 

「妙なスキルばっかり身につけて……サキュバスの性技はろくすっぽ上達しないくせに。またエレノラさんに怒られても知らないからね。今度こそ僕は助けないよ」

 

「何言ってんのよ、アンタも道連れに決まってんでしょうが。わたしだけでママのお説教なんて冗談じゃない。殺されちゃうわよ」

 

「サキュバスがそう簡単に死ぬわけないだろうに。説教されるってわかってるならまともに練習したらいいだけでしょ」

 

「イヤよ、めんどくさい」

 

「それで毎度毎度巻き込まれる僕の苦労も考えてほしいんだけど」

 

「アンタわたしのこと好きなんでしょ。だったらわたしと一緒にお説教されるのも苦じゃないはずよね? まさか男が吐いた唾を呑むっての?」

 

 うーむ、この清々しいほどのワガママぶり。サキュバスという生き物の傲慢さを如実に体現している。

 彼女の母親はサキュバスとは思えないほど腰も低く非の打ち所のない人格者なのに、どうして娘の方はこうも性格や考え方が異なるのだろうか。今度大学の図書館でサキュバスの遺伝に関する論文とか漁ってみるのも面白いかもしれない。

 

「それに性技がどうのこうのなんて私にはまったく意味ないもの」

 

 艶やかな髪の毛先をくるくると弄りながら、彼女は興味なさげに呟いた。

 

「どうせ男も女も私が触れたら秒でイッちゃうんだから。わたしはただ無駄なことに費やされる時間を有効活用してるだけ。やってることは同じ自分磨きなんだから、咎められる謂れはどこにも無いはずよ」

 

「エレノラさんにそんな詭弁が通じるといいけどね。それとキミの場合、正確には秒で『イく』というより『逝く』だけど」

 

「どっちも同じでしょ」

 

「いや、そう……ではあるけども」

 

 『死ぬほど気持ちいい』と『気持ちよすぎて死ぬ』は意味にだいぶ大きな隔たりがある。

 だけど実際ユエラに限ってはどちらも同じようなことなので、ここでそれを否定することに意味はない。

 

「あーもう、うるさいわね。ママだけでも十分なのにアンタまでお説教するのはやめて」

 

 ユエラはそう言って、もたれかかっていた肩から頭を離すと、そのまま僕の膝の上に横たわった。

 くるりと体を半回転させれば、見下ろす僕と見上げるユエラの視線が正面からぶつかり合う。

 真紅の瞳は宝石のようにキラキラと輝いていて、見つめているだけで吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。

 

「ん」

 

 短く喉を鳴らしてユエラが大きく腕を広げる。

 まるで子どもが親に抱っこをせがんでいるようだ。しかし子供のそれと大きく異なる部分は、可愛らしさの奥から覗く隠しきれないほどの煽情的な熱。

 膝の上でもぞもぞと肉感的な肢体を捩りながらこちらをジッと見つめているのは、「どこにも逃げ場はない」という言外の意思表示だろうか。

 

 つんけんした態度から一転、甘え媚びるような仕草は気分屋な猫を思わせる。

 短くない付き合いだからわかる。これは決して計算されたものではない。残念ながらユエラはそんなことはしないし、そもそもできるほど器用でもない。

 その美貌(かお)(こえ)肉体(からだ)も、あらゆる男を魅了してやまない。ただ我儘であるだけで男を誑かす。ただそこにいるだけで男を篭絡する。あるがままで完成されている。それがサキュバスという、愛を喰らって腹を満たす奇特な生き物。

 ユエラ本人は常々否定しているが、やはりどこまでいっても彼女はサキュバスの端くれなのだと、否が応でも痛感させられてしまう。

 

 しばらくその様子を見つめていると、何も反応しないことにやがて痺れを切らしたのか、ユエラは僕の後頭部をかき抱いて自分の方へと引き寄せた。

 お互いの息が触れ合うほどに距離が縮まり、甘い薔薇のような香りが脳髄に染みこんだ。

 こんなのはもう慣れっこのはずなのに、不本意にも心臓がどくりと跳ねた。

 

「効率よく搾精するために技を磨くとか。もっとサキュバスらしく生きるとか。どうでもいいじゃない、そんなこと」

 

「どうでもよくなんかないよ。僕はユエラのことを思って―――」

 

 その先の言葉は続かなかった。

 ユエラがさらに近づいて唇に柔らかなものが触れた。 

 

「はいはい、わかってる。お人好しのアンタのことだから、本気でわたしのことを心配して言ってるんだって。ちゃんとわかってるから」

 

 少女は端正な顔立ちを歪めてけらけらと笑った。

 首筋に触れていた白魚のような細い指が顎から頬を登って額へと滑る。くすぐったいけど、顔を背けることはできなかった。

 

「でもいいの。何度も言ってるけど、アンタのそれはほんとうに余計な心配。どうせわたしは普通には生きられないし、折り合いだってとっくにつけてるからへっちゃら。気持ちだけありがたく受け取っておくわ」

 

 巌とした強い意志。

 思わず見惚れるような笑みを、目の前のサキュバスは崩さない。

 

 だけど僕は知ってる。

 彼女の言葉が多くの嘘で塗り固められていることを。

 

「今のわたしにはアンタがいて、アンタにもわたしがいる。異端は異端同士で仲良く身を寄せ合って、誰に迷惑をかけることもなくなった」

 

 本当は寂しがり屋なのを隠すために、いつも強い口調で気丈に振舞っていることを知ってる。 

 

「そりゃ出会った頃はお互いに色々あったし……まあ今でも問題がないわけじゃないけど。アンタのおかげで小さい頃みたいに死にたいとも消えたいとも思わなくなったし、それで今のところ万事上手くいってるんだから、これ以上何かを変える必要なんてない」

 

 人間の女の子や普通のサキュバスを街で見かけると、羨望の目を向けていることを知ってる。

 

「これが唯一で最善なんだってこと、ママだって本当はわかってるはずなのよ。そうじゃなかったらこうして今も一緒にいるのを許されるわけがないもの」

 

 すぐにおなかが空いてどうしようもないんだって、夜にひとりで泣いていることを知ってる。

 

「だから気にする必要なんてはじめからないってこと。わかった? なんでもかんでも難しく考えすぎなのよ、アンタは」

 

 だけど、どうしようもない現実と有無を言わせない彼女の言葉が僕の口を閉ざした。

 

「ユエラは強いね」

 

 不意にそんな声が漏れてから、己の浅慮に気づく。

 口に出すつもりなんてなかった。だってそれはユエラを軽んじる言葉、侮辱に他ならないから。

 

「……ごめん」

 

 僅かでも顔を近づければ触れ合う距離。まさか聞こえなかったはずもない。

 でもユエラは何もなかったかのように、ただジッと僕の瞳を覗き込んでいた。

 

「でもひとを異端呼ばわりはひどいな。ユエラに比べたら僕はまだ普通の人間なんだから」

 

「はあ? 寝言は寝て言いなさい。普通の人間がみんなアンタみたいなサキュバス特効兵器なら私達は今頃絶滅してるわよ」

 

「ひどい言い草」

 

「客観的な事実を述べたまでよ」

 

 みんなは僕を特別だって言う。確かにそれは事実かもしれない。だけど僕自信はちっともそんなこと思っちゃいない。

 本当に特別なのはユエラひとりだけ。僕は幸運にもその隣にいられる権利があったというだけだ。

 

 誰よりも愛を望んでいるはずのに、誰も愛せない孤独のサキュバス。

 誰にも理解できないユエラの孤独。

 誰にも対処できないユエラの異常。

 一歩間違えればサキュバスの立場をがらりと変えてしまう、望まずにして彼女が抱え続けている危険な爆弾。

 

 恐れられ、遠ざけられ、疎まれた。

 何度も。何度も。

 それでもユエラは挫けることなく、己という存在を保ち続けてきた。

 それは間違いなくすごいことだ。

 

 その一方で僕には何もない。

 隣にいる女の子ひとりの苦悩さえ取り払ってあげられない。いつだって、何もできない歯痒さだけがこの胸をかき乱している。

 

 だから、せめて。

 他のみんながユエラから離れていっても、僕だけは彼女の傍に居続ける。

 

 それが何者でもない僕が唯一できることだから。

 

「……ははっ」 

 

「何が可笑しいのよ」 

 

「やっといつものユエラに戻ってきたと思ってさ」

 

「ヘラってる女が嫌いならそう言えば?」

 

「言わないよ。喜んでいても怒っていても泣いていても関係ない。長所も短所も含めてユエラはユエラだし。それに僕はキミのそういうところが好きになったんだから」

 

「――――――」

 

 ユエラの頬が赤く染まる。

 彼女はまわりくどい言葉よりも直球でぶつけられることに弱いことも、僕はよく知っている。

  

「……よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるわね」

 

「自分の気持ちに恥じるところなんてひとつもないからね」

 

 胸を張ってそんなことを言ったら、額を指で小突かれる。 

 

「まったく。たかだか人間の分際で生意気なのよ」

 

「それってれっきとした差別発言だってわかってる? 僕はいまさら気にしないけど、あんまり外でそういうこと言っちゃダメなんだからね。種族差別に敏感な人も多いんだから。ただでさえルヴィエレッタの件があったばかりなのに」

 

「誰よそれ?」

 

 聞きなれない言葉だったのか、ユエラは形のいい眉をピクリと動かした。

 

「知らないの? 最近精力的に活動してるマルチタレントのサキュバスだよ。美人だし人当たりも良い、トークも上手で基本的になんでもこなすからテレビやネットで人気が出てね。飛ぶ鳥を落とす勢いでメディアに顔を出してたんだ」

 

「サキュバスなんだから顔がいいのは当たり前じゃない」ユエラはつまらなさそうにつぶやく。「それで、そいつが何かしたの?」

 

「少し前に公の場で人間を差別するようなことを口にして炎上したんだよ。とはいえあれは本当に口が滑ったってレベルだし、巷でも耳にするようなことだから大多数の人は気にもしてなかったんだけど……運悪く火種を求めてた革命派のターゲットにされちゃって。SNSで尾ひれのつきまくった風説が流布しちゃって活動中止に追い込まれたんだ」

 

「ふーん」

 

 まるで興味も無いといった感じ。見栄とか逆張りとかじゃなくて、これは本当に知らないやつだ。 

 

「今は活動を自粛して実家で謹慎中。ちょっと可哀想だよね」

 

「身から出た錆ってだけじゃないの。意図してやったにしろ口が滑ったにしろ、普段からそういう思想を持ってないと口に出たりしないもの」

 

「うん、まあその通りではあるんだけどね」

 

 出る杭が打たれたわけでも、誰かにそそのかされたわけでもない。

 多少巡り合わせが悪かったところもあるが、件の炎上は徹頭徹尾ルヴィエレッタの自業自得。世間だって似たような認識だろう。ただ問題はそれだけでは終わらなかったのだ。

 

「でも問題は他にもあってね。ルヴィエレッタは王族の出身なんだよ。位階は低いけどね」

 

「へえ、そうなんだ」

 

「王族タレントってのが彼女のウリのひとつだったんだ。でも今回はそれが悪い方に傾いて事態をややこしくした。ルヴィエレッタ個人の発言が、まるで王族の総意みたいに捉えられて燃えに燃えたんだよ」

  

 わざわざ取り上げて騒ぐほどもない小さな禍根。しかし末端とはいえ王族であるルヴィエレッタが不適切な言葉を口にしたのも事実。

 さすがに重大な外交問題に発展するまでにはいかなかったが、結果的にサキュバスの王族が声明を出すという異例の展開を招いたのだ。

 

 ここまでくればもはや事実がどうかなど関係ない。

 インフルエンサーやマスコミにも取り上げられ、今まで無関心だった民衆にも一連の騒ぎは知れ渡ることになり、いよいよもってルヴィエレッタの立場は断崖絶壁へと追い詰められた。

 

「そいつもバカなことをしたものね。下手すれば先人の苦労が水の泡になるところだったじゃない」

 

「だから当の本人は家族に絞られてすっかり塞ぎこんでるんだってさ。今後の活動再開も未定のまま」

 

「そこまで大事になったのなら簡単には復帰できないでしょうね。下手に勘当して野放しにしても何を言いふらすか分かったものじゃないから、一生実家で飼い殺しか軟禁が妥当な処分かしら」

 

「王族怖いなぁ」

 

「首を飛ばされないだけ有情な方よ」

 

「また冗談を」

 

「んなわけないでしょ。昔ながらのところは普通にやるから」

 

 まるでそれらを目の前で見てきたかのように語るユエラに僕は口を噤んだ。

 この時代でも斬首刑とはゾッとしない話だ。

 

「ま、そいつの気持ちもわからなくもないけど。わたしもサキュバスと人間が同列だとは思ってないし、そもそも人間なんて大嫌いよ」 

 

「……それ本当に外で言っちゃダメだからね?」

 

「ここにはアンタしかいないんだから問題ないでしょ」

 

 ユエラの場合、第三者の前でも平然とそういうことを口にしそうだから心配なのだが。   

 

「あんたこそちゃんと理解してるの? 人間は逆立ちしたってサキュバスにはかてないってこと」

 

「わかってるよ」 

 

「だったらゆめゆめ忘れないことね。わたし達(サキュバス)は仕方なく我慢しているのであって、その気になれば人間なんかあっという間に食べ尽くせちゃうってこと」

 

「だけど種の存続を考えれば、そんなことは絶対にやらない。でしょ?」

 

 そうよ、とユエラは答えた。

 

「でも『やらない』と『できない』は違う」

 

 ユエラの両手が僕の喉元に伸び、綺麗に整えられた爪先が突き立てられた。

 サキュバスの力を以てすれば、僕が瞬きするよりも速くこの首を手折ることは容易いだろう。

 

「っ」

 

「これはわたしの前で他の女の話をした罰」

 

 鋭い痛みが走って、ぷつり、と彼女の爪先が緩やかに喉に食い込んだ。

 皮膚から決して少なくはない血が滲んで喉を伝い落ちていく。

 ユエラはそれを指先で掬い取ると、僕に見せつけるように赤くて長い舌で丁寧に(ねぶ)った。 

 

「……この宇宙(ソラ)は広い。かつてのサキュバスがそうしたように、次の定住先を求めて旅立つことだってできる。……この星を根こそぎ呑み込んでからね」

 

「人間みたいに都合のいい生物が住む惑星が他にある保証もないけどね」

 

「ええ、そうね。だからわたし達はこんなにも脆い生物に尻を振って生き延びることに甘んじてる。わたしはそれが忌々しいの」

 

 ぬるり。

 彼女の白い指先から紅色が消えると、今度は僕の喉元に直接舌を這わせた。

 温かくてざらついた舌が肌を舐め上げるたびに、艶めかし気な吐息が傷口に吹きかけられるたびに。喉を中心に酩酊のような甘い痺れが伝播し、ぞわぞわとした感覚が全身を駆け抜けて気が狂いそうになる。

 

「……だからこそ、この映画が作られたのかもね」

 

 僕の理性を食み殺そうと必死な蟲惑魔。

 その後ろ髪を手櫛で梳かしながらそんなことを思う。

 

「サキュバスが本能のまま人間を食い物にすれば、貧弱な人間なんて簡単に滅んでしまう。身体の丈夫さに関しては僕達はどこまで行ってもサキュバスには勝てないから。

 だけどそんなことをすればサキュバスはようやく見つけた第二の故郷までもを失ってしまうだろう。かつて生まれ故郷を自らの手で滅ぼしてしまった時のように」

 

 聡明な彼女はすでに、僕が何を言いたいのか理解できているようだった。

 

「過去の凄惨な悲劇を繰り返さないため、戒めとしてサキュバスの自制心を養うために、最悪の展開を映画という形で世に送り出した。この世界に生きるサキュバスに広く知ってもらうために」

 

 いままで多くの人間とサキュバスがこの映画を観たことだろう。

 それで彼らの胸にどんな想いが芽生えたのか、僕にはわからない。

 それでも……。

 

「僕はこの映画が人間とサキュバス、両者のために作られたものだと思いたいな」

 

 最後に傷口を強く吸い上げ、ユエラが満足して口を離した頃には、血液はすべて舐めとられて喉の傷もすっかり塞がっていた。

 

「……僕の話聞いてた?」

 

「あいかわらず不味い血ね。こんなのを好んで飲むサキュバスがいるなんて信じられない」

 

「蓼食う虫も好き好きだよ。それに僕としてはホッとしてるね。血が大好物なんてユエラに言われてたら今頃どうなってたことか」

 

「とっくに干乾びて死んでたでしょうね」

 

「さすがに連日連夜で何リットルも血を抜かれたら長くは持たないもんね」

 

「普通は一日で死ぬはずなのよ、おバカ」

 

 口元に付着した血を拭ってユエラは身体を起こした。 

 血液を取り込んだ影響なのか肌や髪の艶が僅かに増している。とはいえ飲んだ量が微々たるものなので、毎日見ている僕くらいにしかその違いはわからないだろう。

  

「安心なさい。もうあんな過ちは繰り返させない。わたし達(サキュバス)この星(地球)で生きていく。あなた達人間と一緒にね。だからせいぜい、あんた達人間はわたし達を満足させなさい。それができているうちは変な考えを起こすサキュバスもそうそう現れないだろうから」

 

 僕が生まれるずっと昔。

 サキュバスがこの星に降り立ってから、はや数十年。

 

 法律。制度。文化。常識。思想。

 異種族との邂逅は旧時代の悉くを破壊した。

 僕達の社会はめまぐるしい速度で変革を求められ、そして、今では当たり前のようにサキュバスと共に生きている。

 

 学校へ行けばサキュバスと共に学び。

 仕事に就けばサキュバスと共に働いて。

 自宅に帰ればサキュバスと共に団欒する。

 

 日常になった非日常。

 それはいつか突然に壊れてしまうのかもしれない。

 そう遠くない未来に決別はやってくるのかもしれない。  

   

【ごめんなさい。アンタに恨みはないけれど、運が悪かったと思って諦めてちょうだい】

 

 だけど。

 

【わたしのことはいくらでも恨んでくれていい。アンタの遺言は死ぬまでこの心に刻むし、せめてもの手向けにうんと気持ちよくしてあげる】

 

 それでも。

 

【―――わたしは、今からアンタを()すから】

 

 僕は、ユエラと出会えたことに感謝してる。

   

「責任重大だね」 

 

「ええ、責任重大よ」

 

「僕にできるかな」

 

「頑張るしかないでしょうね」

 

「ユエラに見放されたらどうしよう」

 

「大丈夫。心配せずとも一生離してなんかあげないから」

 

 特別なことなんかしなくていい。

 こうしてサキュバス(ユエラ)と肩を寄せ合って生きていく。

 その当たり前を、僕はただ未来へ繋いでいけばいい。

  

「……ああ、そういえば」

 

 ふと、思い出す。 

 

「この映画の監督はね、人間じゃなくてサキュバスなんだよ」

 

 ユエラはただ一言、そう、とつぶやいて瞳を閉じた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「……あら」

 

 ユエラが何かに気づいたような声を上げる。

 なにやらテレビの方を見つめているので、その視線の先を辿ると、いつしか映画は終わっていて、真っ黒な画面を下から上にたくさんの文字がスクロールしている。

 

「最悪。結末見逃した」

 

「むしろ見逃して逆に正解だったかもしれないね。ラストに関してはとりわけ批評が多いから」

 

「そんなにひどいの?」

 

「ネタバレになっちゃうから言及は控えるけど、キミが予想するような結末には絶対にならないとは言えるかな」

 

「あー、うん。もうそれだけで知りたくなくなったわ」

 

 うんざりと言わんばかりにユエラは顔を顰める。

 僕としてはユエラにこそぜひあのラストを見てほしいけれど、この様子ではおそらく来年の放送は僕一人で見ることになるかもしれない。

 

「あー疲れた。……うわ、もう日付変わりそうだし。たいして中身もないくせに無駄に長すぎなのよこの映画」

 

「四時間越えの超大作だからね。つい最近まで抜かれなかったアンタッチャブルレコードだよ」

 

「まともに見てる視聴者なんて何人いるんだか」

 

 これでも毎年、最初から最後まで視聴率は一定しているのだが、それを言ったところで信じてはもらえないか。

 

「でもさ、ちょっと気になるよね」

 

 大きく伸びをしてソファーから立ち上がろうとしていた彼女は、僕の言葉に振り返った。

 また変なことでも言いだすのか、という表情が張り付けられている。

 

「何が?」

 

「人間とサキュバス、仮に全力で戦ったらどちらが勝つんだろうってさ」

 

「……はぁ」

 

 ユエラはがくりと肩を落として深いため息をつく。

 僕を見つめるその眼は、まるで道端の蟻に対するような憐みのようなものが込められているような気がした。 

 

「あきれた。ほんと男の子っていくつになっても好きよね、そういうの」

 

「もちろん実際にやりたいわけじゃないさ。ただ純粋に気になるんだよ」

 

 突き刺さるようなユエラの視線をものともせず、僕は言葉を続ける。

 

「もしもキミ達と憎み合い、互いのすべてを賭けて相争うことになったとしたらどうなるのか。己が種族の積み重ねてきた叡智や経験、そして意地のぶつかり合いが、いったいどんな結末を迎えるのか。知りたいと思わない?」

 

「人間が干からびるのが先か、サキュバスを排斥するのが先かってこと? 知りたいなら映画を最後まで見ればいいじゃない。こんな映画でもちゃんとした結末くらいは用意されてるんでしょう?」

 

「それを言ったらネタバレになるじゃないか」

 

「いいわよ別に。もう二度とこんなクソ映画見ないから」

 

 にべもない言葉である。

 【サキュバス・デイ】という映画を子供のころから愛好している人間が目の前にいるというのに。

 決めた。来年の放送の時はなにがなんでも、たとえユエラが泣き叫んだとしても、最初から最後まで【サキュバス・デイ】を鑑賞させてやろう。

 

「そういうキミは気にならないの?」

 

「別に、わたしはそんなのどうでも―――」

 

 と、言いかけて、ユエラは何かを思いついたように悪い顔をした。

 

「―――そうね、じゃあ試してみましょうか」

 

「え?」

 

 とん、と肩が軽く押される。

 彼女の指先がほんの僅か触れただけ。しかしたったそれだけで視界がひっくり返った。

 ソファーに押し倒されたのだと気づいた時には、もう彼女の顔が鼻先にあった。

 

「ユエ―――!」

 

「はい、うるさーい」 

 

 身体を起こそうにも、少女の細腕からは想像できないほどの力強さで抑えこまれてしまう。

 そうこうしている間に、彼女は僕の腹の上に腰を下ろした。密着したことで彼女のぬくもりがじんわりと肌を伝う。

 

 先程とは打って変わって、ユエラが真上から僕の顔を覗きこむ形になった。

 上質な金糸の如き髪が顔を撫ぜ、血液よりも深い真紅の双眸は、普段の透き通るような色が嘘のようにどろりと濁っている。

 それは餌を前にしたサキュバスが見せる特徴のひとつ―――発情の証。

 

「アンタが言い出したんじゃない。ホラ、やりたいんでしょう? 己が種族の積み重ねた叡智と経験、意地のぶつかり合いってヤツ」 

 

「自分でやりたいと言った覚えはないんだけどぉ!」

 

「どっちも同じよ、同じ」

 

 まさしく絶世の美女と称するに相応しい美貌。

 そんな彼女の面輪(おもわ)が、ご馳走を目の前にしたかのように蕩けて歪んだ。

 これから何が待ち受けているかなど、この時代に生きる男で知らない者はひとりもいない

 

「お腹も空いてきたことだし、夜食にちょうどいいと思わない?」 

 

「ポップコーンの残りならまだキッチンにあるよ」

 

「わかりきってることをわざわざ言わせないで。サキュバスの食事っていえば、セックス以外にあるわけないじゃない」

 

「さっき血を飲んだのに」

 

「あんなのじゃまるで足りないわよ。わたしが普段どれだけ食べるかなんてアンタが一番知ってるでしょうに」

 

 暖簾に腕押しとはこのこと。

 言葉で説得しようにも食欲に理性を侵食されているユエラは聞く耳を持ってくれない。

 それならばと、力づくでこの場を切り抜けようとしたのだが。

 

「ふ、くっ!」

 

 全力で身体を跳ね起こそうとしても、腹の上のユエラはまるでびくともせず、僕が足掻いている様子を肴に愉悦に興じていた。

 サキュバスが相手では仕方がないこととはいえ、女の子の前で情けない姿を晒している事実が心を抉った。

 

「今日はやけに抵抗するのね。何が不満なの? アンタはすごく気持ちよくなれて、わたしはお腹いっぱいになる。Win-Winってやつでしょうに」

 

「明日は朝早くから外せない用事があるんだって、前々から言ってたじゃないか……!」

 

「だったら手早く済ませれば問題ないわよね。別に遅漏ってわけでもないんだし」

 

「一回や二回程度で満足しないのはユエラの方なのに……」

 

「うるさいわね。いいからさっさと諦めなさいっ!」 

 

 ユエラの瞳が妖しく光る。

 まずい、と思った瞬間にはすでに遅く、異変はすぐに表れた。

 

「……ぐっ」

  

 見えざる魔の力が神経を通って肉体の中枢に侵入する。

 心臓を鷲掴みにされるような感覚の直後、身体は火照ったみたいに熱を帯び、下腹部の一点に血液が集中していく。

 それと同時に、目の前の少女に対しての情欲が際限なく沸き上がった。

 

 魅了(チャーム)

 それは男を強制的に発情させるサキュバスの特殊能力。

 

「それにしてもアンタ、本当にチャームの耐性がないわよねぇ。今日日、そこらの幼稚園児ですらチャームにはある程度抗えるってのに。ひとりで外を歩くときはちゃんと用心しなさいよね? わるぅいサキュバスに連れ込まれても知らないんだから」

 

「ユエラみたいな……?」

 

「わたしほど善良なサキュバスなんかいないわよ」

 

 くすくす、とサキュバスが嗤う。

 聞きなれたはずの声ですら、今は興奮を煽る劇薬でしかない。

 

「……い、いや。あいにくと最近は、そんなこともなくてね。平和なもんだよ」

 

「当たり前よ。このわたしがマーキングしてるんだもの。他の有象無象のサキュバスが寄ってこれるわけないじゃない。誰がみすみす他の女にやるもんですかっての」

 

 抑えきれない。

 今すぐにもその肢体を組み敷いて柔らかな肉に齧りつきたい。

  

 抑えきれない。

 気の済むまで目の前の雌を蹂躙してすべてを吐き出したい。

 

 自分が自分でなくなり、肥大化した本能に飲まれていく。

  

「……限界も近そうだし、そろそろ始めましょうか。サキュバス(わたし)人間(アンタ)、全力で戦っ(ヤッ)たらどっちが勝つのかしらね?」 

 

 彼女はそう言うなり顔を一気に近づけた。 

 唇に柔らかな感触が触れたのと同時、紫電のような快楽が全身を駆けずり回り、僕の理性は容易く崩壊した。 

 

 

 帳の落ちた部屋。

 

 一心不乱に互いを貪る二匹の獣だけが残された。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 数時間後。

 

 朝日もすっかりと昇りきった頃。

 一晩中奏でられていた女の嬌声にようやくの終止符が打たれた。

 

「……はっ、うぅ……」

 

 三人掛けのソファーには、全身をありとあらゆる汁で濡らして倒れ伏すサキュバスの姿。

 昨晩の威勢はいったいどこに行ったのか。あられもない姿で気絶していて、行為の余韻からか時折びくびくと身体を震わせている。

  

「……はあ」 

   

 魅了(チャーム)の効果も抜けきって、ようやく正気を取り戻せたはいいものの。

 ちらりと時計を確認して、溜息を一つ吐く。

 

 予定の時刻は、とっくに過ぎ去っていた。

 

「いつもこうなるんだもんなぁ……」

 

 未だ意識を取り戻さないユエラを尻目に、憂鬱な後片付けに取り掛かるのだった。   

 

 

 


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