間話戦法も品切れ。
「やめんか、愚弟が」
その声が中庭に落ちた瞬間、空気が変わった。
私の怒号と殺意で満ちていた周囲が、別の重さで押し潰される。
──まさか…。
視線を向ければ、そこに立っているのは、私が最も忌々しく思う存在。
実兄にして、禪院家二十六代目当主。
──禪院直毘人。
着物の襟元は崩れていない。
足取りも乱れていない。
まるで最初からそこにいたかのように自然だった。
私はぐらつく顎を無理やり動かし、激痛を噛み殺しながら凄んだ。
「何をしに来たァ!! 直毘人ォ!!」
声は歪んだ。
舌が上手く回らない。
吐いた息に血の味が混じる。
それでも威圧だけは、削れぬように放ったつもりだった。
だが直毘人は、まるでそれを聞いていないかのように言い放った。
「“様”をつけんか、痴れ者が」
軽口。
感情の乗っていない軽すぎる言葉。
私の怒りを、見世物のように扱う声。
その瞬間、腸が煮えくり返った。
(──貴様相手に、"様"をつけろだと!?)
当主気分も大概にしろ。
今はたまたまその椅子に座っているだけの男が。
私は憎しみの籠った視線で直毘人を睨みつける。
だが直毘人はその視線すら楽しむように口の端を上げ、私の方へと歩み寄ってきた。
距離が縮まる。
そして、直毘人は私の顔面を覗き込み──指先で、砕けた顎の辺りを軽く触れた。
ぞっとする。
痛みとは別の、侮辱の冷たさが皮膚を走った。
「異様な呪力を感じて見に来たが……扇よ、その顔はどうした?」
一見、心配しているような口調。
だが目は違う。
滑稽なものを見る目。
壊れた玩具を覗き込む目。
「お前、まさか……“隊士”相手にやられたのか……?」
わざとらしく、語尾に笑いを含ませて。
直毘人は私を愚弄した。
私は頭の中で血管が切れる音を幻聴した。
本当に切れたのではないかと思うほど、視界が赤くなる。
──分かっていて愚弄しているのか。
隊士相手などではない。
私は、あの中庭で倒れている──まだ入隊前の、十歳程度の小童に顎を砕かれたのだ。
その事実を口にしようするだけで吐き気がする。
言葉にした瞬間、禪院の宗家に生きてきた私の誇りが、さらに削れる気がした。
だが、沈黙は敗北と同義だ。
私は歪な声で叫んだ。
「そのごわっばは、私を謀っだのだッ!! 万死に値するッ!! だから邪魔をずるなッ!!」
「──小童……?」
直毘人は、なんのことかと辺りを見回す。
そして、その視線が中庭で倒れ伏す小童へと落ちる。
そこでようやく、信朗が気まずそうに口を開いた。
「あの、直毘人様……。言いにくいのですが……扇
扇“さん”。
その呼び方だけでも、私は残った歯を噛み砕きたくなった。
貴様は私に様をつけろ。
出来そこないが。
だが直毘人は、その言葉を聞いた瞬間、目を丸くした。
「……は?」
間抜けな顔。
当主の顔ではない。
普段なら笑えるその顔が、妙に腹立たしい。
私の屈辱が、あまりにも常識外だと言いたげな表情だったからだ。
「……扇、お前はそこの子供にやられたのか? 本当なのか?」
直毘人は訝しむ。
疑っている。
いや、疑うしかないのだろう。
だがその疑いが、さらに私を侮辱する。
私は叫んだ。
「そのごわっばは、私を謀っだのだッ!! そうでなければ私がこうなるはずがないッ!!」
直毘人はまだ納得しないまま、信朗へと視線を投げた。
信朗は一瞬躊躇い、それでも言葉を繋いだ。
「そこの子供――源之助は凄まじい呪力量の持ち主でして……。おそらく直毘人様が感じた呪力も、源之助のものかと……」
それを聞いた直毘人は「ほう」と短く呟いた。
興味を持った声。
嗅覚が働いたか。
次の瞬間、直毘人は一瞬で移動した。
距離など無意味だというように、源之助の傍へ。
しゃがみ込み、倒れ伏す小童に触れる。
「……確かに。感じたのはこの子供の呪力のようだな」
私は一歩踏み出した。
いや、踏み出したつもりだった。
身体が思うように動かない。
それでも、声だけは絞り出す。
「そごを退けッ!! ソイツは私がごろすッ!!」
直毘人は立ち上がり、こちらを見た。
「それはならんな」
即答。
拒絶。
そして、当主の声音。
「この子供は逸材だ。実力は当然として、この歳で
その言葉に、私は目を剥いた。
──気概だと?
違う。
私は挑まれたのではない。
私が、戦いを与えたのだ。
最初は稽古をつけてやろうと思い、父親を知ってからは
小童は何も行動していない。気概などありはしない。
(なにが気概だ、見当違いも甚だしい。やはり貴様は当主の器ではない…!)
その瞬間、信朗がまたもや気まずそうに口を挟んだ。
「あのー、直毘人様……。非常に申し上げにくいのですが……。立ち合いを申し込んだのは、扇さんからでして……」
扇"さん"。
まただ。
思えば初めからコイツは"さん"付けで呼んでいた気がする。
直毘人は、もう一度、唖然とした表情をした。
「……は???」
そして直毘人は天を仰ぎ、しみじみと呟いた。
「──愚弟よ……。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、最後の一線だけは越えないと信じていたんだぞ俺は」
その言葉が、私の背骨をなぞった。
言葉遣いが癪に障る。
直毘人は顔をこちらに向け、続ける。
「自分から子供に戦いを挑み、そして負け、顔を崩された。
挙句の果てには気絶した子供相手に“殺す”だと?」
直毘人は顔を歪ませた。
汚らわしいものを見る目。
格下として、私を見下す目。
「お前、恥ずかしくないのか?」
その瞬間、私の中の鎖が切れた。
殺意が、骨の髄から噴き上がる。
私は木刀を潰れるほどに握りしめ、足に呪力を集中させた。
(──まずお前から殺してやる)
そう思って中庭に飛び込もうとした瞬間。
膝の力が抜けた。
身体が沈む。
床板に膝がぶつかり、鈍い痛みが走る。
指先が震え、呼吸が乱れる。
(──なん…だと…)
身体は既に限界だった。
顎の痛みだけではない。
脳が揺れていた。
呪力の流れも、どこか歪んでいる。
戦闘など到底出来ない。
私は床板に膝をついたまま、せめてもと直毘人を殺意の込めた視線で射抜く。
だが直毘人は、その視線に気づくことすらなく、信朗へと命じた。
「信朗、この子供を運んでやれ。あとついでに、そこの倒れている二人もだ」
信朗が慌てて答える。
「は、はいっ! おいお前ら早く担架持ってこい! 三人分だ!」
すぐに隊士が担架を持ってきた。
源之助と、離れた場所で転がされていた隊士と子供。
その三人が担架に乗せられ、運ばれていく。
(クソっ──!!
私が殺したい小童が、私の手の届かぬ場所へ運ばれていく。
その光景が、胸の奥に鉛を落とした。
直毘人はそれを眺めながら、ふと信朗へ問う。
「信朗、あの子供の父親は誰だ?」
信朗は緊張しつつ答えた。
「ええと……。たしか、禪院源一郎だとか……」
直毘人は驚くと同時に、納得したように言った。
「……なるほど。道理で愚弟から戦いを挑んだわけだ」
信朗が疑問を浮かべたように問う。
「……その、直毘人様。禪院源一郎というのは、一体どのような人物なのですか……?」
私は息を止めた。
やめろ。
言うな。
それだけは。
だが直毘人は、楽しげに答え始めた。
「ククク、笑うなよ? 愚弟は若い頃“禪院一の剣士”を名乗っていてなぁ……」
私は焦った。
それは私にとって、忘れ去りたい過去そのものだった。
──待て
──やめろ
直毘人は続ける。
私がまだここにいることなど、忘れているかのように。
「随分と鼻が高くなっていたんだが、その鼻を源一郎にへし折られたのよ。あの時の奴の顔は見ものであったぞ?」
直毘人はニヤニヤと笑いながら言った。
その言葉で、私のプライドは完全に踏み潰された。
身体は動かない。
拳も木刀も届かない。
呪力も回らない。
だが魂が叫ぶ。
「直毘人ォォォ!! ギザマァァァ!!」
叫びは歪み、血の泡が喉に絡む。
それでも叫んだ。
直毘人は振り返った。
まるで今気づいたかのように、目を瞬かせる。
「なんだ扇、お前まだいたのか」
そしてシッシッと手を振りながら続けた。
「お前のその顔を見ると笑いそうになって敵わん。とっとと去ね、愚弟が」
私は真剣で斬りかかりたい気分だった。
もし可能なら、今すぐにでも実行していただろう。
だが身体は動かず、手にあるのは木刀。
私は無理やり立ち上がった。
膝が笑う。
足が震える。
視界が揺れる。
それでも立った。
そして持っていた木刀を床に投げ捨てた。
乾いた音が、中庭に響く。
その音が、私の誇りが落ちた音のように聞こえた。
私は重い身体を引きずりながら、中庭を離れていく。
背中に、直毘人の笑いが刺さる。
隊士たちの視線が刺さる。
子供たちの怯えた目が刺さる。
だが、それらはもうどうでもいい。
私の心の中は、怒りと憎しみと、深い殺意でドス黒く染まっていた。
殺す。
どんな手を使ってでも殺す。
矛先は、己を嘲笑った直毘人ではない。
己に不利な証言をした信朗でもない。
私の顎を砕き、プライドも粉々にした小童。
(──禪院源之助ェ……覚えたぞォ……!!)
私は胸の奥で、憎き存在の名を噛み砕く。
その名を、いつか血で塗り潰すために。
ちなみに【落花の情】を使った上でやられたことを知ったら直毘人さんは一周回って普通にめちゃ怒ります。
次の展開どうすっぺ…。