医務室の空気が、一瞬で別物に変わった。
さっきまで漂っていた、直哉が作り出した重い空気。それが一瞬で払われ、代わりにさらなる重圧が空間を満たす。
直哉の背後に立つ男。
呪力の気配は、ない。
それなのに、いるだけで途轍もない圧が生まれる。
喉が絞られるような感覚。肺が縮む。
視界の端が薄く暗くなっていく。
「扇の顎を砕いたガキってのは、お前か?」
その声は低い。
荒くもない。丁寧でもない。
ただ、刃物みたいに無駄がなく、鋭い。
俺、芳樹、武彦、直哉。
四人とも、反射で黙った。
真後ろに立たれている直哉に至っては、目線まで下がり地面を向いている。
魂を握られている──そんな表現が頭に浮かぶ。
比喩じゃない。
自分たちの命の根元が握られている、と身体が理解してしまう。
何も言えない。
言葉を選ぶ余裕がない。
というより、選ぶ以前に、喉が開かない。
甚爾は、少しだけ眉を寄せた。
「おい、答えろよ」
──"苛立ち"。
その三文字が思い浮かぶだけで、全身の血が冷える。
答えられるわけがない。
目の前にいるのは、その気になれば瞬きの間に俺たちを殺せる存在だ。
機嫌を損ねたら終わり。
俺たちにとって「会話」じゃない。
これは、生か死かの儀式だ。
(──なら、俺が…)
俺は思った。
俺が言うしかない。
俺しか出来ない。
ここにいるのは
直哉だって、芳樹だって、武彦だって、まだ子供だ。
俺だけが、前世を持っている。
この中で一人だけ、俺だけが頭の中に
それに、扇のアゴを砕いた当人は俺だ。
なら、俺が前に出るべきだ。
震える手を握りしめ、息を吸った。
「俺……です」
ハッキリと出したはずの声は、思ったより小さかった。
蚊の泣くような声。自分でも情けなくなる。
だが甚爾は聞き逃さなかった。
天与呪縛で聴覚も強化されているのだろう。
彼は俺をじっと見つめた。
「あ……? お前……どっかで見たな」
その言葉に、背筋がぞわりとした。
覚えられている。
恐怖が増すと同時に、胸の奥が変なふうに熱くなる。
──優越感。
こんな時に? と思う。
でも確かに、俺は感じてしまった。
俺が自分の感情に戸惑っていると、甚爾が顎をしゃくった。
「……まぁいい。おいガキ、お前どう思った?」
「どう、とは……?」
口が勝手に動いた。
聞き返した瞬間、しまったと思う。
察しが悪いと思われたら不味い。
甚爾の目つきが、ほんの少し鋭くなる。
それに比例して、空気の重さも増した。
「だから──扇のアゴを砕いた時、
俺への圧が増す。
あまりの緊張に耳鳴りがする。
手の震えが、止まらない。
──答えろ
──今すぐにだ
──でも、何を?
思考が混濁する。
どう思ったか?
嬉しかった? 怖かった? 安心した?
どれも嘘になる気がした。
嘘をついたら、バレる。
焦りが脳内をぐちゃぐちゃにかき回す。
視界の端に部屋の時計が映る。
時間が伸びる。呼吸が浅くなる。
俺は、ヤケクソになった。
「ハァ……もうい──」
甚爾が溜息を吐き、会話を切り上げる気配を見せた。
その瞬間、俺は口を被せた。
「──気持ちよかったです」
言ってしまった。
咄嗟に出た言葉が、あまりにも生々しくて、自分で驚く。
でも、嘘じゃない。
甚爾が目を丸くする。
「あ……?」
本気で驚いた声。
その"間"に、全員が息を止めたのが分かった。
これは賭けだ。
偽らないと決めた瞬間、腹が据わる。怖さが消えるわけじゃない。ただ、怖さを抱えたまま言える。
俺は続けた。
「あの人を思いっきり殴った時……本当に──
自分の心音がうるさい。
耳の奥でドクドクと鳴る。
俺は祈るように甚爾の反応を待った。
その時。
甚爾の口元が、少しだけ歪んだ。
「フッ……ククク……!」
笑いを噛み殺す音。
それに釣られて、ずっと目線を落としていた直哉が、恐る恐る顔を上げる。
次の瞬間。
「ブハッ!! ハハハハハハッ!!」
甚爾の笑いが爆発した。
腹の底からの笑い。
医務室の空気が、一瞬だけ軽くなる。
恐怖が消えたわけじゃない。
でも、「殺されるかも」という緊張が、少し緩む。
俺は内心で、拳を握った。
(──よしッ)
思った通りだ。
(──禪院甚爾は、禪院家を否定したがっている…!)
それは、原作での甚爾の今際の際の言葉。自分を否定した禪院家、ひいては呪術界を否定したくなったとの言。
その歪みを、俺の言葉が刺した。
術式のない出来そこないの子供が、宗家の人間──それも当主の弟をぶっ飛ばして、しかも「気持ちよかった」なんて言う。
そりゃ笑うだろう。
愉快極まりないだろう。
自分を踏みにじってきた価値観が、ぶん殴られた瞬間なのだ。
笑いが落ち着いた頃、甚爾は目の端の涙を指で拭い、俺を見た。
笑っているのに、目は鋭い。
「お前……面白いな……」
そして、ニヤリとする。
「気に入ったぜ……明日の昼、“西の離れ”に来い」
──は?
内心で思わず固まる。
全身がフリーズする感覚。
心臓が一回、変な跳ね方をした。
甚爾は続ける。俺の停止なんて、気にもしていない。
「まだ詳細は知らねぇんだ。本人の口から、当時の状況を聞かせてもらうぜ。事細かくな」
冗談みたいな命令。
だが、冗談じゃない。
断れる空気じゃない。
俺は頭の中で叫んだ。
(……え? 俺、禪院甚爾と一対一で話すの? 明日の昼に? え、夢?)
俺は太腿をつねる。
残念ながら現実だ。
この世界は、俺の都合なんて知らないらしい。
甚爾は医務室の出口へ向かって歩き出した。
足取りは軽い。
さっきまでの圧を、まるで散歩みたいに引きずっていく。
「この家にも、面白い奴がいたもんだ……」
そう呟きながら。
その時だった。
「な、なぁ甚爾くん!」
直哉が声を上げた。
震えている。
それでも必死に、当主の息子としての矜持を掻き集めて喋っている。
「甚爾くんは、こんな奴と仲良くせんほうがええで!!」
直哉の目が、俺を刺す。
さっきまでの恐怖と畏敬じゃない。
嫉妬と怒りと、屈辱の濁り。
「ほ、ほら! 甚爾くんは強いんやし、こんなカスより僕みたいな“アタリ”と──」
「おい」
甚爾の一言が、直哉の言葉を粉砕した。
ただの一言。
それだけなのに、医務室の温度が急激に落ちる。
直哉の顔から血の気が引くのが見えた。
「今いい気分なんだよ……邪魔すんじゃねぇ」
直哉の腰が、抜けた。
膝が折れ、床にへたり込む。
当主の息子が、稚児みたいに。
甚爾は舌打ちする。
「チッ……せっかくの気分が台無しだ……」
そして──掻き消えた。
来る時と同じ、瞬間移動みたいに。
だが本当は高速移動だろう。
気配ごと、空間ごと、抜け落ちたようにいなくなる。
医務室には、へたり込む直哉と、声も出せなかった芳樹と武彦、そして俺が残った。
§
静寂が痛い。
さっきまで俺たちの周りを縛っていた圧が消えたせいで、逆に空気の軽さに違和感を感じる。
少しづつゆっくりになっていく心臓の音が耳につく。
布団のシーツが擦れる音すら大きい。
芳樹も武彦も、顔色が悪い。
声を出せない。
直哉は床に座ったまま、呼吸を整えようとしているが、肩が小刻みに震えている。
数秒。
それが数分みたいに長い。
その沈黙を破ったのは、直哉だった。
直哉が、ゆっくり立ち上がる。
まだ足元がおぼつかない。
でも、ちゃんと自分の足で立った。
そしてこっちを向く。
その顔を見た瞬間、俺の背中に冷たい汗が浮いた。
その顔には──怒り。
怒りしかない顔。
人の顔じゃない。
鬼、それも悪鬼の類。
目は充血し、唇は震え、瞳孔が限りなく収縮している。
表情筋が怒りで引き攣って、どこか笑っているようにも見える。
直哉が口を開く。
「──明日の昼、覚悟しとけや」
それだけ。
その顔からは想像もできないほど短い言葉。
それが、逆に恐怖を煽る。
芳樹が息を呑む音がした。
武彦の喉が鳴る。
二人とも言葉が出ない。
直哉の怒りが、殺意が、こちらを呑み込もうとしている。
直哉はそれ以上何も言わず、踵を返した。
医務室の扉が、静かに開いて、閉じる。
直哉が消えた後も、空気は戻らない。
残った熱が、肌を刺す。
俺は内心で、頭を抱えた。
(俺、前世でそんな悪いことしたかな……)
明日の昼。
西の離れ。
甚爾に呼ばれた。
そして、直哉からは「覚悟しとけや」との言葉。
どっちも、普通なら一つで十分死ねるイベントだ。
それが同日に重なる。
禪院家、イベント過密すぎるだろ。
最悪のモテ期が来てしまった。
芳樹が、ようやく震える声で言った。
「……げ、源之助……」
俺は芳樹を見る。
武彦も、包帯の隙間から汗を滲ませながら俺を見ている。
二人の目に映っているのは、不安だった。
今度こそ俺が殺されるのではないかという不安。
俺はそれを理解して、静かに息を吐いた。
冷淡な声を作る。
いつもの仮面を被る。
「大丈夫だ」
自分に言い聞かせるみたいに。
だが、内心は全然大丈夫じゃない。
(明日、この屋敷に隕石が降ってきますように…)
俺はいつもの現実逃避を開始した。