朝の空気は、冷たいくせに澄んでいた。
肺の奥まで入ってくる感覚がある。鼻腔を抜ける木と土の匂い、昨夜の雨が残した湿り気。庭の砂利はまだ少し暗く、苔の緑だけがやけに鮮やかだった。
俺は広い日本庭園の真ん中に立って、木刀を握る。
握りの木肌が掌に馴染んで、余計な力が抜けていく。
一歩、踏み込む。
肩甲骨が動く。腰が回る。
木刀が空を切る音が、静けさに細い線を引く。
振って、戻して、呼吸。
振って、戻して、呼吸。
同じ動作を繰り返すだけなのに、毎回、微妙に違う。
角度が一度ずれれば、刃筋に相当する線が狂う。
肘の高さが指一本違うだけで、力の抜け方が変わる。
俺はその“ズレ”を拾い上げて、潰す。
うまくいったときは、体のどこにも引っ掛かりがない。
逆に悪いときは、音が濁る。庭の空気が木刀にからまる。
──今のは、悪い。
内心で舌打ちして、足の位置を数センチ直す。
呼吸を整えて、もう一度。
汗がこめかみを伝い、木刀を振るたびに飛び散る。
たとえ冬の朝でも、1000回近くも振れば体は熱を持つ。
庭の冷気と体温の差が、皮膚の上で薄い膜みたいに揺らぐ。
数を数えるのは途中でやめた。
代わりに、脈のリズムで刻む。
自分の中の規則性に合わせて振る方が、余計なことを考えずに済む。
そして、最後の一振り。
木刀を止めた瞬間、庭の音が戻ってきた。
遠くで水が落ちる音。
風で木の葉が擦れる音。
屋敷のどこかで、障子が静かに動く気配。
俺は息を吐いて、肩の力を抜く。
汗が背中に張りついて、少しだけ寒さが戻ってくる。
俺はタオルを取ろうと振り返った。
そこに、小さな少年が立っていた。
まだ幼さの残る顔つき。
けれど姿勢がいい。足の置き方も、視線の上げ方も、育ちの良さを隠せない。
白いタオルを両手で丁寧に差し出して、少年は裏のない笑顔を浮かべた。
「朝から精が出ますね! 兄さん!」
声が明るい。
庭の冷気まで少し温めるような響きだった。
俺はタオルを受け取って、汗を拭う。
首筋を拭くと、布が熱を吸ってぬるくなる。
木刀とタオルを左手にまとめ、右手を伸ばした。
少年の頭を撫でる。
髪は柔らかいが、きちんと整えられている。触れるとほのかに香の匂いがした。
「いつも助かる、蘭太」
「いえ! 弟として当然のことですから! むしろ兄さんの鍛錬のお邪魔にならないように、気をつけています!」
こいつは、本当に礼儀正しい。
内心で思う。いや、礼儀正しいっていうか、真っ直ぐすぎる。まぶしいくらいだ。
俺たちは並んで屋敷へ向かった。
縁側に上がると、木の冷たさが足裏から伝わる。庭の景色がガラス越しに柔らかくなっていく。
──俺がこの世界に転生してから、十年が経っていた。
§
転生した当初のことは今でも鮮明すぎて、逆に思い出したくない。
生まれた家は、禪院家の分家筋だった。
宗家に連なる血ではなく、力はない。発言権もない。
家の者がこのことを口に出すとき、必ず声が少し小さくなるのが印象的だった。
「五代前の当主の兄弟筋」だとか、そんな言い方をされた。
誇りたいのか、卑屈になりたいのか、よく分からない言葉だ。
まぁ要するに、なんのコネもない“遠い血”ってことだ。
一応、父親は術式持ちらしい。
俺を初めて抱き上げた、顔に傷のある強面の男。
あの傷は伊達じゃなくて、実際に呪いと戦ってつけたものらしい。
ただ、相伝の術式ではない。
しかも、宗家にとっては価値が薄い術式だったらしく、父親は"炳"になることはできなかった。
だから我が家の扱いも良くない。宗家の人間が分家を見るときの目線って、ああいう感じなんだな、と子どもながらに理解した。
そんな家で、生まれた最初の男子。
それが俺だ。
しかも母親は、先代当主の孫娘のうちの一人。
──期待されない方がおかしいだろう。
俺は首がすわる前から持て囃されていた。
俺が泣けば「元気だ」と喜ばれた。
寝返りを打てば「将来有望だ」と騒がれた。
誰かが「相伝かもしれんぞ」と言えば、周りの空気が妙に甘くなる。
正直、居心地は悪かった。
前世の俺はただの一般人だ。こういう“過剰な期待”に慣れていない。
だから、最初からどこかで思っていた。
いつか、この熱は冷める。
そして冷め方は、たぶん残酷だ。
その考えは当たった。
俺には才能がなかった。
正確に言えば、術式がなかった。
呪力自体は扱える。
それどころか呪力総量も、出力も、効率も──どれも高い方だった。
体感としては、燃費が良くて馬力もあるエンジンを積んでいるのに、ギアが存在しない感じだ。
力はあるのに、それを発揮する形がない。
名門中の名門である禪院家の呪術師にとって、術式は“絶対条件”。
呪力が上手く使える? だから何だ。
肝心の術式がないなら、結局は“持ってない側”になる。
俺が5歳の時、術式がないと分かった瞬間。
空気が変わった。
今まで宝物を見るみたいだった目が、一斉に裏返る。
温度が落ちる。
柔らかかった笑顔が、目に見えて硬くなる。
言葉が短くなる。
背中に向けられる視線が増える。
あの感覚を、俺は今でも覚えている。
期待の熱に包まれていたところから、一気に冷水に沈められる落差。
(さすが禪院家って感じだ)
内心ではそう思った。少し砕けた言葉で、傷ついてないフリをして悪態をつくしかなかった。
もし前世がなかったら。
もし“これは異世界だ”と俯瞰する視点がなかったら。
俺は確実に歪んでいたと思う。
唯一、救いがあるとすれば、弟の存在だった。
禪院蘭太。
原作で、禪院真希に殺された炳のうちの一人。
その弟が、この家に生まれ、そして──俺を慕ってくれた。
蘭太は俺とは違い、才能があった。
術式を持っている。それも強力な。
家の人間がまだ幼い蘭太に向ける目は、かつて俺に向けていたものに似ている。
それが悔しいとかは、あまりない。むしろ安心する。
この家が蘭太に賭けるなら、少なくとも俺は分不相応な期待を背負わずに済む。
さらに蘭太が俺を慕ってくれているなら、俺は“完全な不要物”として処分されにくい。
(……いや、処分って何だよ。怖いな)
内心で自分にツッコミを入れながらも、禪院家なら冗談にならないのが嫌だった。
今、蘭太は俺の隣を歩いている。
縁側の廊下。
外の庭がガラス越しに流れていく。
磨かれた木床は光を反射して、俺たちの影が細く伸びる。
途中、女中とすれ違った。
女中は深く頭を下げる。
蘭太はそれに、同じ角度で丁寧に頭を下げ返した。
「おはようございます、菊さん。今日もいい日ですね」
名前で呼ぶ。
女中が驚いて、目尻を赤くする。
「ら、蘭太様……はい、はい……!」
蘭太は微笑んで、軽く会釈して通り過ぎる。
それを見て、女中が思わず涙を浮かべるのも、珍しいことではなかった。
──出来すぎだろ。
内心で思う。こいつ、人格が完成しすぎてる。まだ8歳だぞ?
蘭太は俺の顔をちらっと見て、柔らかく笑った。
「兄さん、今日もお疲れではありませんか? 素振り、すごい回数ですよね」
「もう慣れた」
俺はクールに返す。
内心では「慣れたっていうか、他にやることないだけだわ」って感じだが、ボロを出さないために意識して言葉数は減らしている。
術式がない以上、俺が伸ばせるのは基礎だけ。身体と呪力の扱い。そこを磨き続けるしかない。
「でも、兄さんの素振り、見ていると落ち着きます」
「見てたのか」
「はい! ……邪魔しないように、こっそりですけど」
“こっそり”と言いながら、悪びれない。
俺は小さく息を吐いた。笑うほどじゃないが、悪い気もしない。
他愛ない話をしながら、俺たちは父親の部屋へ向かった。
§
父親の私室は、そこまで広いわけじゃない。
だが、無駄がなく、整っている。
床の間に飾られた掛け軸。
畳の縁は擦り切れていない。
香の匂いが薄く漂い、一段と空気が重く感じるのはここが“家の中心”だからだろう。
父は胡座をかいて、机に向かい、なんらかの書簡を書いていた。
筆の先が紙を撫でる音が、部屋の静けさを支配している。
俺と蘭太は、入口で揃って正座する。
父が書き終わるのを待つ。
蘭太は背筋がピンと伸びていて、呼吸まで静かだ。
俺もそれに合わせる。ここで余計な音を立てると、父の機嫌が変わる。
しばらくして、父が筆を置いた。
墨の匂いが少し濃くなる。
父がこちらに向き直る。
あの傷だらけの顔は十年経っても迫力がある。目の奥が笑っていないタイプの威圧感。
俺は慣れたつもりでも、背中が少し硬くなる。
「先月言った通りだ」
低い声。
部屋の空気が締まる。
「今日は禪院宗家で、新当主のお披露目がある」
俺の心の奥が、ひやりとした。
宗家。新当主。
単語だけで嫌な予感が立ち上がる。
父は続ける。
「うちからは俺と、蘭太と──源之助が行くことになった」
俺の今世の名。
禪院源之助。
父は当然のように言ったが、その“当然”が重い。
宗家に行く。
禪院家の中心に足を踏み入れる。
(マジで行きたくねぇ…蘭太だけでいいじゃん…)
俺の内心の訴えも虚しく、俺が行くことは既に決定してしまった。
蘭太は明るく、元気よく返事をした。
「はいっ! 承知いたしました!」
俺は落ち着いて、短く返す。
「承知いたしました」
父は立ち上がり、衣擦れの音を立てた。
背が高い。
部屋の天井が少し低く見えるほど。
「宗家の覚えが悪くなったらまずい。くれぐれも粗相のないように準備をしろ」
父の目が一瞬、俺に刺さる。
──特にお前だ、と言われている気がした。
術式無し。ハズレ。宗家で恥を晒す可能性がある存在。
そういうラベルが、見えない札みたいに俺の額に貼られている。
「一時間後に出る。遅れるなよ」
父はそれだけ言って、部屋の奥へ歩いていった。
俺と蘭太は頭を下げ、退室する。
§
縁側の通路に出ると、空気が少し軽くなった。
それでも、胸の内側に重石が残っている。
俺は歩きながら、淡々と考える。
十年経っても、夢は覚めない。
いや、十年も経ったら、もう答えは出ている。
認めざるを得ない。
これは夢じゃない。
俺はこの世界に転生したのだ。
禪院家。
呪術廻戦。
そして、原作で“死ぬ側”の人間が周りにいる。
宗家の新当主のお披露目。
タイミング次第では、禪院家が崩れる前兆かもしれない。
情報が足りない。
だが、ひとつだけ確かなのは。
禪院宗家に行けば、俺は“禪院家の現実”を嫌でも直視することになるってことだ。
蘭太が俺の隣で、小さく笑った。
「兄さん、実は僕、宗家に行けるの少し楽しみです」
(……楽しみとか言えるの、コイツ結構メンタル強いな)
内心でそう思いつつ、俺は表情を変えずに返した。
「そうか。…俺は胃が痛い」
「えっ、胃……ですか? だ、大丈夫ですか兄さん!」
蘭太が本気で心配そうに顔を覗き込む。
俺は一瞬、言い方を間違えたと気づいた。
内心で「そこまで真面目に受け取るなよ…」と思いながら、言葉を整える。
「緊張してるってことだ…」
「あ……! そういうことでしたか!」
蘭太は安心したように笑って、それから少しだけ真剣な顔になった。
「でも安心してください兄さん。宗家の方たちが何を言っても、僕は兄さんの味方です」
……やめて。
そういうの、効く。
俺は取り繕ったクールな顔のまま、視線だけ前に固定した。
内心では「お前ほんと、いい弟すぎるだろ」と軽く天を仰いだ。
「…ありがとう」
それだけ言って、歩く速度を少しだけ上げた。
涙が零れそうになるのを堪える。
この屋敷の廊下が、いつもより長く感じた。
──俺は、禪院源之助。
今世の名を、心の中で繰り返す。
もう夢だなんだと現実逃避はできない。
ここで生きるしかない。
この家で。
禪院の血の中で。
俺は宗家に向かうまでの一時間が、妙に長く感じた。
主人公こと禪院源之助のモデルはシグルイの藤木源之助です(見た目とか、口数が少ないとことか)。ただし中身は全然別物。