直哉くんは女に生まれてたらどんな感じだったんでしょう。
禪院宗家の西の離れへ続く渡り廊下。
磨かれた黒檀の床板は艶を湛え、柱は墨を流したように深く沈んだ光を返している。足の裏に伝わる冷たさが、春先の空気よりも硬い。
廊下の外には、手入れの行き届きすぎた日本庭園。
苔は均され、砂紋は乱れず、石灯籠の影が池の水面に薄く揺れていた。風が竹の葉を擦り、かすかな囁きみたいな音が落ちる。美しすぎて、息が詰まる。
そこにいるのは、俺と直哉だけ。
鼻の奥がまだ痛い。血の匂いが抜けない。口の中に金属みたいな味が残っていて、舌で舐めるたびに不快感が増した。脳が微妙にふわつく。膝蹴りの衝撃が、遅延して頭蓋の内側を叩いている。
直哉は、仰向けに倒れる俺の目の前にいた。
十歳そこらの身体のくせに、纏う呪力量は大人顔負けだ。細い刃を何本も周囲に張り巡らせているような、鋭い呪力。目が笑っているのに、瞳の奥が冷えている。口元は上がっているのに、そこに温度がない。
「とりあえず、その顔面はグチャグチャにしたるわ」
軽口みたいに言う。
言った瞬間、直哉の足が上がった。踵が俺の顔面へ落ちてくる。ただ踏むだけじゃない。踏み潰す動きだ。遠慮がない。躊躇がない。
(こいつ……本当にやる気だ)
身体が勝手に動いた。横に転がる。床板が頬の横を滑り、背中が擦れる。痛みが走る前に、直哉の踵が落ちた。
バキッ、と乾いた音。
床板が割れた。踵がめり込む。黒檀の板が裂けて、ささくれた木片が跳ねる。
「おい、避けんなや」
直哉は笑いながら、床板から踵を抜く。
抜く瞬間に木が軋む。
俺はその勢いのまま立ち上がり、距離を取る。
息が浅い。鼻が詰まっているせいで口呼吸になり、冷たい空気が喉の奥を刺した。
(ガチだ……ガチで殺す気だ……!)
お披露目式の時とは違い、今の直哉の踏みつけには、呪力が乗っていた。遊びじゃない。威嚇でもない。完全に本気の踏みつけ。
こいつは、俺を
(どうする……反撃するか?)
反撃──その言葉だけで、躊躇が生まれる。
これは正式な決闘じゃない。扇の時とは違って周囲に人もいない。そんな中で俺が直哉に傷をつけたら、どうなる?
当主の息子を、分家のガキが傷つけた。古い伝統の残る禪院家の中でそれは“禁忌”だ。
処罰は死、または死に近い何か。俺だけじゃない。家にも飛ぶ。蘭太にも飛ぶ可能性がある。
(『相手を傷つけない』、『自分も殺されない』両方やらなくっちゃあならないってのが、俺の辛いところだな………無理ゲーか?)
思考が迷路に迷い込む。逃げ道を探すほど、壁の高さだけが見えてくる。
その時、直哉の姿がブレた。
空気が裂ける感覚。
咄嗟に両腕を上げてガードしようとする。
次の瞬間、俺の顎が跳ね上がった。
視界が天井の梁へ吹き飛び、鼻血が弧を描いて渡り廊下の天井にべちゃりと付いた。天井の木目に赤が咲く。ひどく場違いな色。
(ガードが間に合わない…! 分かってはいたが、ここまで速いのか【投射呪法】ッ!)
原理は知っている。自らの視界を画角に一秒間の動きを二十四分割したイメージを作り、それを後追いする術式。
でも、知っているのと実際に喰らうのとは全く別物だ。理屈は分かっていても身体が追いつかない。
直哉はいつの間にか距離を取っていた。
殴って、離れる。
まるで獲物を弱らせる狩りの手順みたいに。
「おっそ、寝不足なん?」
声が軽い。笑いが混じる。
俺は鼻を抑え、息を吐いた。血が指の隙間から垂れる。床板に落ちて、艶の上を赤く滲ませた。
「ほーら、次はもうちょい速うするで」
言った瞬間、またブレる。
(物理的防御が無理なら……これはどうだ!)
俺は呪力を顔面に集中させた。
扇戦での黒閃の後、呪力操作の精度は格段に上がっている。殴られる直前に、そこへ呪力を移す。間に合えば衝撃を殺せる。
だが、攻撃が来たのは顔面ではなかった。
「──ゴッ!?」
腹に拳が突き刺さり、思わず声が出る。
空気が肺から抜ける。胃が跳ねる。身体がくの字に折れ、視界が一瞬白くなる。呪力を顔面に集中させたせいで、腹の呪力が薄すぎた。呪力は無限じゃない。配分を間違えたら、防御に穴が出来る。
「なぁ、お前バカなん? 顔ばっか殴るわけないやん」
直哉が可笑しいものを見るように笑う。
俺の呼吸の乱れを楽しむみたいに、肩が小さく揺れていた。
完全に実力を把握されている。
見て、試して、確信して、遊ぶ。
その手順が透けて見えるほど、直哉は余裕だった。
だが、その余裕の中に、妙な癖がある。
(こいつ……
直哉は投射呪法で殴るたび、必ず距離を取る。
最初は反撃を避けるためだと思った。でも俺は一切反撃できてない。なら必要ないはずだ。
なのに毎回離れる。何度も何度も、巻き戻したように。
(まだ術式を扱いきれてない……のか?)
投射呪法は複雑だ。
二十四分の一秒で二十四分割した動作を作り、決められた通りに動く。ただそれだけでなく、物理法則や軌道を無視した動きは作れないという限界もある。
こんな術式、十歳そこらの子供が完璧に扱える方がおかしい。
察するに現状、直哉が出来るのは──離れた距離から突進して一発当てて離脱。
それだけ。
(なら……やりようはある)
活路が、細い糸のようだが見えた。
俺は息を鋭く吐き、腰を落とした。
両手を広げる。
肩を落とし、肘を柔らかくし、重心を低くする。
──不知火型。
原作で覚醒真希が直哉を相手にした姿勢。受けて掴み、潰すための形。
(おそらく直哉は俺に対抗意識がある……なら、きっと正面から潰しに来る筈だ)
俺が逃げれば追う。
俺が守れば崩す。
俺が挑めば、正面から叩き潰して
ガードは捨てる。幸い、一撃はそこまで重くない。
あえて攻撃を受けて、掴みかかる。
これなら傷つけずに制圧できる。少なくとも理屈の上では。
(問題は……ガードを捨てたとしても反応できるか。これは賭けだが…、やるしかない)
俺は腹を括る。
同時に、直哉が鼻で笑った。
「ほーん、真っ向勝負っちゅーわけかい」
興味なさそうに呟きながら、軽くステップを踏む。
低く跳んだ足が床板に触れた瞬間、直哉の姿がブレた。
──見える。
ほんの一瞬だが、こちらへ突進する直哉の軌道が見えた。
ガードの意識を捨てた分、視界が広がった。余計なことに囚われない。狙うのは“掴む”ことだけ。
(いける……! あとは攻撃を耐えて掴んで──)
だが、次の瞬間。
俺の身体が、動かなくなった。
目の前に、直哉の姿。
俺の胸に、直哉の手が触れている。
(これは、術式効果の押し付──)
思考の途中で、顔面が殴り飛ばされた。
衝撃。
世界が横に回る。床板が頬を擦り、背中が跳ね、庭の景色が逆さに流れる。そのまま数メートル転がり、仰向けで止まった。息が肺から漏れる。視界の端が暗い。
「おーい、今死んだらアカンでー。甚爾くんの前で俺に土下座してから死んでやー」
どこか抜けたような声が響く。
その軽さが、逆に頭を冷やした。
(バカか俺は……投射呪法は自分以外にも適用できることを忘れるなんて)
自分を殴りたくなる。
投射呪法は素早く動く術式であって、直接的な攻撃方法はない──そんな思考にハマって、“押し付け”の存在を忘れていた。
投射呪法は触れた相手にも術式効果を押し付けられる。
だから俺は動けなかった。二十四分の一秒で動きを作れず、硬直させられた。そこを殴られた。
(自己嫌悪してる場合じゃない)
鼻が折れているのが分かる。血がドロドロ流れ、喉に落ち、咳が出そうになる。
俺は血を飲み込み、幽鬼みたいにふらふらと立ち上がった。
視界が揺れる。膝が笑う。
それでも立つ。立たないと殺される。
「お、よしよし生きとったな」
直哉は本気で安心した顔をした。
予定が狂わないことにホッとしている。
俺が死んだら困る──それは決して優しさじゃない。甚爾の前で殺す予定だからだ。
そこに拘る。目的がある。気持ち悪いほど。
(…直哉相手に無傷で制圧するのはほぼ不可能だ)
拘束する以前に触れられない。
触れた瞬間にフリーズさせられて終わる。
防御は間に合わない。呪力防御も運任せ。
逃げても追いつかれるだろう。
詰みだ。かなり綺麗に詰んでいる。
(今の俺の手札じゃ、どうすることもできない…)
脳内で過去の記憶が流れる。生存本能が何か使える情報はないかと探す。
そして、見つけた。
(何をするにも、こちら側のスピードが圧倒的に足りない…。
俺は再び腰を落とす。
だが今度は両手を広げない。
むしろ逆に右拳を左手で包み込むようにし、両手を腰だめに構える。
そして、目を閉じた。
呼吸を整える。
呪力を静める。
そして広げる。
薄く、均一に、肌の外側に膜を張るように。
「なんやそれ、ふざけとんの?」
直哉の声が遠い。
俺は答えない。
ただ待つ。
「答えろやカス」
声音に苛立ちが混じる。
足音が一歩、近づく。
庭の風が竹を揺らし、砂の匂いが薄く流れ込む。
俺の耳の奥で、自分の鼓動が鳴る。
鼻腔から流れてきた血の味が濃い。
「…もうええわ、いっぺん死ね」
──直哉の呪力が高速で迫る。
空気が切り裂かれる気配。
殴り飛ばされる前兆。
直哉の動きが、俺の広げた呪力に触れた瞬間──
瞬時に身体が動いた。
まるで誰かに操られるかのように。
左手に包まれていた右拳が閃く。
それはまさしく、抜刀術の動き。
腰から回転し、肩が連動し、裏拳が走る。
狙いは──直哉の伸びてくる右腕。
バチン、と乾いた音。
裏拳が直哉の右腕に衝突し、弾いた。
直哉に触れられる直前に、その手を逸らした。
その瞬間、直哉の身体が固まる。
フリーズ。
──投射呪法は、効果中に体勢が崩れると硬直する。
原作の知識だ。
今の一撃で、直哉の作った動きが崩れた。
だから止まった。
俺は迷わない。
静止する直哉の足を払って引き倒す。床板に背中を叩きつける音が響く。
すぐに伸し掛かり、うつ伏せにして肩を固める。
関節を可動域ギリギリまで伸ばし、体重を乗せる。逃げられない位置。
関節技は、蘭太相手に何度か練習したことがあるのだ。
「な、何や今の!! 何をした!?」
直哉が狼狽して叫ぶ。
その声が初めて“子供”の色を帯びていた。
驚愕と屈辱が混ざり、声が震えている。
俺は直哉の背中を押さえたまま、淡々と言った。
「……秘密です」
──【秘伝 落花の情】
この日、禪院家における秘伝習得の史上最年少記録が破られた。
落花の情って投射呪法キラーだと思うんですよね。原作で扇がやたら直毘人相手に強気だったのはこれのせいかも…。
次は日曜日の19時くらいに投稿します。