禪院宗家の渡り廊下には、異様な光景が広がっていた。
当主の息子──禪院直哉がうつ伏せの状態で床に頬をつけ、右腕を背中側へ引っ張られ、肩を極められている。
その上に分家の子供──俺が、伸し掛かっている状況。
完全に制圧した状態で、俺は内心で歓喜の声を上げていた。
(うおおおお……!! 出来た、出来ちゃったよ【落花の情】ッ!!)
勝ったというより、奇跡が起きた、という喜びが大きい。
【秘伝 落花の情】
御三家に伝わる、領域対策の迎撃技。纏った呪力で相手の接触を捉え、触れた瞬間に弾くというもの。
扇はこれを居合に組み込み、俺を木刀で刻んだ。
あれほどの連撃と精度は無理でも"一発だけ"なら、再現できた。
(一回見ただけで出来るとか、俺天才かもしれん……!)
元から呪力操作には自信があったが、ここまで出来るのはさすがに自分でも驚く。
胸の奥が熱い。誇らしい、というより、危険な橋を渡り切った直後の高揚。指先が熱を持ちながら震えている。
俺が内心で自画自賛していると、直哉が藻掻いた。
「ふざけんなや!! なんで、なんで術式持ちの俺がこんなカスに……!!」
屈辱で顔が歪んでいる。頬が床に押し付けられているせいで、唇の端が歪に引きつる。充血した目だけが俺を刺す。
完璧に極まっている。どれだけ足掻こうと抜けられないだろう。投射呪法も、ここまで拘束された状態だと使えないらしい。何度か動こうとしてフリーズするのを繰り返していた。
俺は喉の奥で息を整え、なるべく穏やかな声を作った。
「直哉様、もうやめましょう。これ以上はお互いに危険です」
言葉の端に、どこか哀れみが漏れた気がした。
「黙れや!! カスのくせにいちいち見下しおって……!! お前は絶対に殺したる!!」
呪詛の言葉が、歯の隙間から漏れる。
怒りの熱で呪力の粒が立っているのが分かる。拘束されていても、憎しみは湧く。湧いた分だけ呪力は濁る。
(どうすりゃいいんだよ……誰か呼ぶか……? いや…)
脳内に最悪の絵が浮かぶ。
この状態を誰かに見られる。分家のガキが当主の息子を床に押さえつけている絵面。端から見たら完全に俺が悪者だ。
確実に俺の首が飛ぶ(物理的に)。家も潰される(物理的に)。
(なんとかして、このことは黙ってもらわないと…)
説得しないといけない。
でも、目の前の存在は説得に応じるような奴じゃない。
「──だいたいその『怪我させないように』っていう気遣いが腹立つねん!! 舐めんのも大概にせぇや!!」
(……気づいてたのか)
俺が直哉の右腕を"壊さないように"裏拳の角度を調整してたのも、"傷をつけないように"フリーズ時に打撃を与えずに関節技に移行したことも。
直哉は気づき、舐めるなと言っている。
だが、これはそういう問題ではないのだ。
(当たり前だろ……分家からしたら当主の息子なんて親より"上"なんだよ)
分家にとって宗家は親である。その宗家の跡取り候補ともなれば、それはもはや"神"に近い。
たとえ神から襲われようと、傷をつけてはならないのだ。
──だが、その神を守ろうとしたことが、却って火に油を注いでる。
直哉の怒りが、言葉の形をとって何度もこっちに飛んでくる。
(甚爾来てくれえええ! お前なら直哉も言うこと聞くから!)
俺が内心で泣き言を言っていたその時──渡り廊下の端、本館側から声が響いた。
「おい、何をしている」
甚爾の声ではない。
低く、太く、力強い。
声そのものに重さがある。空気の温度が下がる感覚。
足音が近づいてくる。
ドス、ドス、と床板を叩く。質量が大きい。歩くだけで廊下がギシギシと鳴る。
俺は顔を上げて、凍りついた。
日本人離れした体格。
着物の上からでも分かる、鎧みたいな筋肉。長い髪と無精髭からはどこか不衛生で、荒い生活の気配が漂ってくる。
そして額には大きな傷跡。古い傷だ。十字に刻まれてその存在を主張している。
(……マジかよ)
その姿を、俺は知っていた。
──禪院甚壱。
禪院宗家にして、"炳"の一員。
天与の暴君──甚爾の兄。
信朗の上司として、躯倶留隊を統括する存在。
──つまり俺の上司の上司が、俺が当主の息子を押さえつけている所を見ていた。
(終わった……ガチで隕石降らせてくる人来ちゃった…)
§
(音を出しすぎた…そりゃそうだ、屋敷内でこんなことしてたら誰かにバレるに決まってる。その"誰か"が甚壱だったんだ)
「もう一度聞く、何をしている」
甚壱は、俺たちの数メートル手前で止まった。
声がさらに低くなる。敵意が見える。いや、敵意というより──
上手く呼吸が出来ない、心臓が暴れている。
この状況を説明できるか? 無理だ。
「直哉が先に襲ってきました」なんて言ったところで、禪院家の秩序は味方しない。
禪院家の秩序は何時だって宗家の味方だ。
その時、直哉が声を張り上げた。
「その声は甚壱くんやんな!? コイツなんとかしてくれや!!」
直哉が叫んだ瞬間──俺の身体が吹き飛んだ。
「────ッ!?」
何が起きたか分からない。
視界が横に流れ、床を何度も跳ねる。身体が床板にバウンドして、最後に壁へ叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。胃が裏返る。
足に力が入らない。腕が痺れる。息が浅く、痛みが遅れて全身に広がる。
(今……なんだ……!? 一瞬で……殴られた……?)
壁にもたれかかる姿勢のまま、俺は甚壱を見る。
直哉の一撃とは重さが違う。
一撃で、しかも胴体で受けたのに、足に力が入らない。
「直哉、無事か……」
甚壱は直哉を立たせ、こちらを警戒するように構えた。
目が鋭い。俺を反逆者として認識している目。
「助かったわ甚壱くん。……でも、アイツは俺にやらしてくれや」
直哉は極められていた肩を確かめながら、こちらに鋭い目突きを向ける。
さっきまでの"舐め"はない。
その瞳に嗜虐の色はなく、殺意一色に染まっている。
「待て……。そもそもお前たちは一体何をして──」
甚壱が言いかけた、その言葉が別の声に切られた。
「稽古だろ」
甚壱とは別の低い声。
それは甚壱が来た方向とは逆──西の離れ側から響いた。
その声がした瞬間、直哉の身体がピシリと固まった。
俺も息が止まる。
音もなく、俺の前を横切る影。
人が歩く気配じゃない。
飢えた獣が血を這うような、恐ろしい気配。
次の瞬間、そいつは甚壱の前に立っていた。
「──よお、クソ兄貴」
笑って言う声。
その声は軽いのに、空気を全部支配する。
「甚爾……!!」
禪院甚壱と禪院甚爾。
禪院家の誇りである炳の一員と、禪院家の恥である天与の暴君。
実の兄弟が、渡り廊下の中央で向かい合った。
§
渡り廊下は、俺と直哉が殴り合っていた時とは別格の圧力に塗り替わった。
甚爾の圧は呪力由来じゃない。もっと根源的な"暴力"の圧。
甚壱の圧は呪力由来で、それが甚爾の圧に呑み込まれまいと抵抗している。二つの圧がぶつかって、空気が軋む。
「稽古とは、どういうことだ……!」
先に口を開いたのは甚壱だった。
額から汗を滲ませているのに、声はぶれない。甚爾の圧に呑まれず踏みとどまっている。流石と言うべきだろう。
甚爾はだるそうに鼻で笑った。
「稽古っつったら稽古だろ。そこの二人は示し合わせて戦ってたんだよ」
──もちろんそんな事実はない。
俺は甚爾の元へ行く途中に直哉に待ち伏せされ、殴られ、鼻を折られ、最後に肩を極めて制圧した。
これのどこが稽古だと言うのだ。
甚爾は口から出任せを言っている。顔色ひとつ変えないで。
甚壱の顔が険しくなる。
「ふざけるな……! 直哉がそんなことを──」
「そ、そうや!!」
今度は直哉の高い声が割り込んだ。
直哉は震えている。拳を握りしめ、必死に言葉を繋ぐ。
「甚爾くんの言う通りや! 俺も稽古がしたくてな、そこの源之助に相手になってもらってたんや!!」
バレバレの嘘だ。
ここは道場じゃない。渡り廊下だ。
床板は割れて、血は落ちて、俺の鼻は折れてる。稽古の痕跡じゃなくて事件の痕跡だ。
でも直哉は必死になって続ける。
「だ、だから甚爾くん! 俺、全然本気やなかったで!? 分かるやろ!? な!?」
声が上ずっている。
汗が額から流れ、頬に筋を作っている。
直哉がこんなに必死になる相手が、甚爾なのだ。
甚爾は適当に頷いた。
「おー、分かる分かる。だからそろそろ帰れ」
それだけ。
あまりにも雑な返答。
なのに直哉は、それで救われたみたいに顔が明るくなる。
だが甚壱は納得するわけがない。
「甚爾……そんな言い分が通用すると思っているのか……!」
甚壱の呪力が立ち上がる。空気が熱を持つ。
対抗するように、甚爾の圧がさらに強まる。熱を、重さで押し潰すように。
甚爾が面白がるように言った。
「あ"? お前も稽古するか? また顔の傷増やしてやろうか?」
その瞬間、甚壱の表情が一瞬だけ歪んだ。
過去を刺された顔。
怒りと、恐れと、屈辱が混ざった顔。
甚壱は滝のような汗を流しながら、歯を食いしばった。
「……このことは、当主に報告させてもらうぞ……!」
負け惜しみのような言葉。
それが限界だったのだろう。
甚爾は肩をすくめた。
「うるせぇ、尻尾巻いてとっとと行け」
甚壱の目が一瞬こちらに向く。
俺を見る目は、まだ冷たい。
弁明しようにも、甚爾の圧が近すぎて動けない。
「……行くぞ、直哉」
甚壱が短く言って、本館側へ向かって歩き出した。
「あ、ちょっと待ってや甚壱くん!」
直哉が慌てて追いかける。途中で振り返り、必死に叫ぶ。
「と、甚爾くん! 今度は俺の本気見せたるからなぁ!!」
叫びながら、甚壱の背中へ吸い込まれていった。
足音が遠ざかる。廊下の空気が、ようやく息を許し始める。
急に静かになった渡り廊下。
竹の葉の擦れる音が戻ってくる。池の水面が揺れる音が聞こえる。
さっきまでの地獄が嘘みたいに、庭が美しい。
俺は壁に手をついて、なんとか立ち上がる。
腹の奥がまだ痛い。肋が軋む。
それでも立つ。
甚爾の背中を見る。
汗も息切れもない。さっきまで修羅場だったのに、散歩の途中みたいな背中。
そして甚爾が振り返り、ニヤリと笑った。
「よし、じゃあ俺の部屋まで案内してやる」
(え、中止じゃないの?)
俺の中で、場面が切り替わらない。
直哉に半殺しにされかけて、甚壱に殴り飛ばされて、甚爾が嘘をついて助けて──そのまま予定通り?
甚爾は俺の戸惑いなど知らないみたいに、あくび混じりに歩き出す。
俺は血の匂いと痛みを抱えたまま、その背中を追うしかなかった。
ちゃんと話を聞こうとしてくれる時点で甚壱さんはめちゃくちゃ優しいです。これが扇だったら無条件で斬られてました。
次は月曜日の7時くらいに投稿します。