仕立てのいい着物は、着るだけで背筋が伸びる。
布の重みが肩に乗るたび、俺の体は「今から別の場所へ行く」と理解していく。普段の稽古着とは違う。動きやすさよりも、体裁と格式が優先されている。袖を通した瞬間から、息の仕方まで意識させられる感じがした。
父は黒に近い濃色の着物で、帯の締め方も迷いがない。
蘭太は明るい色味を選ばれていて、顔の幼さが逆に映える。家を継ぐ存在として“見せる”衣装だと一目で分かる。
そして俺は、その二人から少し距離をあけて歩いていた。
わざわざ離れてるわけじゃない。
自然と、そうなる。
家の中での立ち位置が、そのまま足運びに出る。
廊下を進むにつれて、玄関のほうから人の気配が濃くなってきた。
声、衣擦れ、足音。
屋敷が、どこかざわめいている。いつもの朝とは違う、妙に張り詰めた活気がある。
角を曲がった瞬間、視界が開けた。
広い玄関。
そこに、家中の女中や男衆が勢ぞろいしていた。
まるで式典だ。
並び方が整っていて、誰が中心で誰が脇か、配置だけで分かる。
視線が集中しているのは父と蘭太で、俺のほうへは──時々、確認するような目が向くだけだった。
俺はオマケ。
言葉にしない合意が、空気の粒子みたいに漂っている。
「いってらっしゃいませ、源一郎様」
「蘭太様、きっと良い御縁がございますように」
「大事な集まりですから、どうかお忘れ物なきよう」
「粗相のないよう、お気をつけて……」
声が次々と飛んでくる。
父は短く答えるだけで歩みを止めない。
蘭太はその横で、一人ひとりに丁寧に頭を下げて答えていく。
「はい、ありがとうございます!」
「お気遣い、痛み入ります」
「皆さんもお留守番、よろしくお願いします」
まるで小さな外交官だ。
ほんとに8歳かよ、とツッコミが出そうになる。
もし蘭太にも前世の記憶があったとしても、俺は驚かないだろう。
俺には「粗相はするな」という言葉だけが、たまに刺さる。
俺は会釈で返す。言葉を返したところで、空気は良くならない。むしろ余計な音になる。
それにしても、見送りが過剰だ。
宗家の新当主お披露目。行事としては大きいのは分かるが、ここまで気合いを入れるものなのか。
……いや、もしかして思ったより重要なのか。
今さらながら胃のあたりが重くなる。
この世界の禪院家って、行事の裏に政治がくっついてくるタイプだろ。
そんな場に、本当に俺が行っていいのか?
いや、俺が行くのは父の判断だ。
判断の理由は、だいたい想像がつく。
“男子を連れていくことで、家の見栄えを保つ”。それか、“蘭太の付き添い役”。俺の役割はその程度だ。
敷居を跨いで庭に出る。
冬の空気が、玄関の熱を一瞬で剥ぎ取った。
庭の石は乾いていて、朝の光が角を立てている。
木の枝先が揺れるたび、葉の影が地面に落ちる。
そこに、母が立っていた。
雅な着物。
髪はきっちり結われていて、顔には化粧が薄く整えられている。
姿だけ見れば、立派な“奥方”だ。
けれど、目の奥には影がある。自分の居場所を必死に守る人間のそれだ。
母は父に深く頭を下げた。
「どうか……お気をつけて」
「ああ…」
父は軽く頷く。
それだけで会話は終わる。夫婦のはずなのに、距離がある。形式だけが残っている。
次に母は膝を曲げて、蘭太と視線を合わせた。
蘭太の背に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。母の袖が揺れ、香の匂いが一瞬だけ強くなる。
「蘭太……寒くない? 無理はしないで。向こうで何かあったら、すぐにお父さんに頼るのよ?」
「大丈夫です! 母さん、いってきます!」
蘭太は元気よく返す。
母の顔が、少しだけ緩んだ。愛おしいものを見る表情。
そして──俺の番になるはずのところで、母は何もしなかった。
俺のほうを見ない。
視線はずっと、前を歩く父と蘭太だけを追っている。
まるで、俺が存在しないかのように。
(……無理もない、か)
俺に術式がないと分かった瞬間から、母の扱いは地獄だった。
禪院家では、女というだけで人間扱いされない。
分家だろうと空気は同じ。宗家ほど露骨じゃないだけで、根は同じ色をしている。
その中で、家長との間に“非才”の子を産んだ。
母は罪人みたいに扱われた。
視線が刺さる。言葉が刃になる。物理的にも害される。
人と同じ食事は与えられない。家の外に出る許しが出ない。女中相手にも話しかけてはならない。
俺は、必死に努力した。
稽古を積んだ。呪力の練り方を覚えた。体術を磨いた。
母の扱いが少しでも良くなるならと、自分を虐め続けた。
だが、母を救ったのは俺じゃなかった。
蘭太だ。
皮肉なことに、自分が産んだ子に人生をめちゃくちゃにされ、自分が産んだ子に救われたのだ。
蘭太に強力な術式があると分かった瞬間、母の扱いは変わった。
手のひら返しなんてものじゃない。
昨日まで"アレ"呼ばわりされていたのが、次の日には"奥方様"になっていた。
以来、母は蘭太だけを“我が子”として扱うようになった。
そして俺は、存在ごと無視されるようになった。
俺は本当に、前世があってよかったと思う。
もし俺がこの世界だけで作られた人格だったら、たぶん壊れてた。
母に愛されたい、認められたい、その執着が骨に絡みついて、ひどく歪んでいっただろう。
でも今の俺は、もう割り切っている。
母の気持ちも分かる。
自らを家畜へ貶めた息子なんて愛せない。俺を抱きしめる心の余裕なんてない。
だから俺は何も言わず、母に向かって頭を下げた。
たとえ子と思われていなくても、俺にとっては母なのだ。
頭を下げたまま、内心で小さく呟く。
(……いってらっしゃい、くらいは言ってほしかったけどな)
§
車は、いかにもな高級車だった。
黒いボディに、窓は深いスモーク。
ドアの閉まる音が鈍く重い。密閉されると外の匂いが消えて、革と香の混ざった車内の匂いに支配される。
運転手が前を向いたまま、短く会釈する。
父は助手席に座り、俺と蘭太は後部座席に座る。
車が走り出すと、屋敷の庭が窓の外に流れていった。
砂利、松、石灯籠。
その景色が遠ざかるほど、俺の胸の奥の警戒心が濃くなる。
隣の蘭太を見る。
いつも落ち着いているのに、今日は珍しく手が震えていた。膝の上で握りしめた指先が、小刻みに揺れている。
……緊張してるのか。
当たり前だ。8歳の子どもが宗家の重要な行事に行くのだ。
しかも「才能あり」の側として、期待と視線を浴びる。
俺は何も言わずに、蘭太の手を軽く握った。
指が細い。骨がまだ柔らかい感じがする。
その温度が、俺より少しだけ高かった。
「大丈夫だ」
声を落とす。父に聞こえない程度の小ささ。
蘭太が驚いたように俺を見る。すぐに、同じくらい小さな声で返してきた。
「……ありがとうございます、兄さん」
蘭太は握り返してくる。
震えが、少しだけ収まった。
父は前を向いたまま、何も言わない。
聞こえていないのか、聞こえていて無視しているのか。
どっちでもいい。俺は蘭太のほうが大事だ。
車は山道へ入った。
カーブを曲がるたび、窓の外の景色が切り替わる。杉林、斜面、遠くの集落。
青色の空に薄い雲がかかっていて、日差しは柔らかい。
一時間ほど経ったころ、空気が変わった。
遠くに、大きな日本家屋が見えた。
山間にある屋敷。
その規模が、まずおかしい。
屋敷というより、集落だ。
塀の切れ目が分からない。どこまでが敷地で、どこからが山なのか曖昧になる。
木々の間に屋根が連なり、道が入り組み、門がいくつも見える。
そして、その周囲に高級車が無数に集まっていた。
黒、白、紺。
ガラスが鈍く光り、タイヤが砂利を踏む音が連鎖する。
俺たちの車も、その流れに紛れ込んでいく。
屋敷の入口へ続く渋滞。
まるで祭りの会場に向かうみたいだが、空気は祭りとは逆で冷たい。
笑い声は少ない。代わりに、低い声の会話と、抑えた気配が濃い。
俺は窓の外を見ながら、内心で思う。
(……さすが禪院家、規模が狂ってるな)
§
車から降りると、空気が一段冷えた。
山の匂いが鼻を刺す。杉の樹脂っぽい匂いと、土の湿り気。
足元の砂利が、着物の裾の下で鳴った。
玄関へ続く道は、すでに異様だった。
人、人、人。
全員が和装。着物、羽織、着流し。
家ごとに纏まって進んでいく様子は、大名行列を思わせる。
中には駕籠を担ぐ者もいる。
棒付きの箱を担いで運ぶ者もいる。
箱の角に家紋が入っていて、まるで貢物を見せびらかすみたいに歩いている。
(……見せつけ合いか)
内心で冷めた声が出る。
力の誇示。序列の確認。誰が上で誰が下かを、言葉じゃなく物量で殴りあっている。
俺たちは三人だけ。
貢物もない。
父は堂々としているが、周囲の視線は露骨だった。
馬鹿にしたような目。
好奇の目。
値踏みする目。
被害妄想じゃない。
視線の質が、明らかに違う。
蘭太はそれでも姿勢を崩さない。
俺の隣で、呼吸を整えている。さっき握った手はもう震えていなかった。
……やっぱ強いな、こいつ。
行列の流れに沿って進み、ついに玄関へ辿り着く。
玄関前には、荷物を受け取る役割らしい女たちが並んでいた。
手際よく箱を運び、駕籠を誘導し、客の動線を整えている。
俺たちは大した荷物がないから、素通りするだけだ。
その瞬間ですら、視線が背中に刺さる。
でも蘭太は足を止めて、女たちにきちんと頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」
女の一人が驚いたように目を見開き、すぐに深く頭を下げ返した。
こういうところだ。こいつの“育ちの良さ”っていうか、人の心をほどく感じ。
敷居を跨ぐ。
その瞬間、世界が切り替わった。
玄関だけで、我が家の居間より広い。
広いだけじゃない。
床板の艶、柱の太さ、天井の高さ。
どこを見ても「金」と「時間」が積み重なっている。
飾りじゃなく、建物そのものが権威を誇っている。
通路に入ると、ところどころに壺が置かれていた。
壺の釉薬が、光を吸って深い色を作っている。
どう見ても高い。
(……壊したら、俺、ここで殺されるかもしれん)
内心で笑えない冗談が浮かぶ。
それくらい空気が重い。
父の背中について行く。
父は迷いなく歩く。何度か来ているのか、ここに慣れているようだ。
俺と蘭太は、ガチガチだ。
車の中での落ち着きはどこへ行った。宗家の空気が、それだけ強い。
廊下を曲がるたび、別の家の人間が合流し、また別の通路へ消えていく。
挨拶の声が短く交わされる。
笑顔はあるが、目が笑っていない。
礼の角度で序列を測るような厭らしさがある。
俺は呼吸を浅くしないように気をつけた。
胸を張る。視線を泳がせない。歩幅を乱さない。
粗相をしない、ただそれだけを意識する。
なのに、心の奥がざわつく。
ここに来ると、俺は思い出してしまう。
禪院家が、原作でどうなるか。
真希が、何をするか。
そして、蘭太がどんな最期を迎えるか。
俺は父の背中を見ながら、内心でひとつ息を吐いた。
落ち着け。まだだ。
まずは、この“場”を乗り切れ。
そして情報を拾え。今がどの時期で、誰が当主で、何が動いてるのか。
宗家の廊下は、やけに長い。
俺たちの足音が磨かれた床に吸い込まれていく。
その静けさが、逆に怖かった。
じっくり書きすぎてテンポ悪いー!ホントは今回で当主まで行きたかった。