父の背中は、広間へ近づくほどに大きく見えた。
肩の幅が広いとか、そういう物理の話じゃない。
ここでは、男の“格”がそのまま影の面積になる。そんな空気がある。
蘭太は父の半歩後ろ。
俺はさらに半歩遅れた。
この順番に異論はない。俺は術式無しだ。ここで前へ出る理由がない。
障子を抜けた瞬間、視界が開けた。
体育館みたいな広さの大広間。
畳の匂いと、香の匂いと、料理の湯気。
長机が幾筋も並び、座布団が数百。
すでに座っている男たちの黒い頭が、海みたいに揺れている。
女はいない。
本当に一人もいない。
そこがまず、禪院家らしいと思わせた。
俺と蘭太は、端の座布団へ座った。
蘭太の肩が固い。呼吸が浅い。
俺も似たようなものだが、顔に出すほどじゃない。冷淡に、無表情に、ただ前を見ている。
目の前の卓には、料理が並んでいた。
煮物の照り、焼き魚の香ばしさ、吸い物の湯気。
肉、海鮮、山菜。
食べる前から豪勢さは分かるが、喉が乾いて唾が飲み込みにくい。
広間はざわざわと騒がしい。
数百の男が同時に話すと、音が一枚の布みたいになる。言葉の中身は拾えないのに、圧だけが増えていく。
やがて最後の人間が入ってきて、障子を閉めた。
乾いた音が、妙に大きく響く。
それから数分後。
襖が開いた。
一人の男が入ってくる。
その瞬間、広間の騒ぎがぴたりと止んだ。
空気が一度、凍る。
湯気だけが遅れて動く。
男は呪力を立ち昇らせていた。
おそらくわざとだろう。力を見せつけている。
見えないはずの圧が、肌の表面を薄く撫でる。
肩のあたりがちりちりする。呼吸が勝手に浅くなる。
歩幅は広く、堂々とした歩き方。
広間の最前まで進み、振り返る。
俺はその顔を知っている。
記憶より若い。白髪より黒髪の方が多い。
それでも威圧感だけは、原作通りだ。笑っていても、目が笑わない。
威厳と力を感じさせる声で男が言った。
「俺が禪院家二十六代目当主、禪院直毘人だ」
内心で、舌が乾いた。
(……本物だ)
あまりに長く共にいたからか、まだ子供の姿だからか、蘭太の時は思わなかった。
テレビの向こうの存在が、今は目の前にいる。
現実味がなさすぎて、嘘に見えた。
§
直毘人の挨拶は、思っていたよりずっと短かった。
先代当主である兄が死んだこと。
だから自分が次の当主になったこと。
自分の代で禪院家をさらに繁栄させてみせるという抱負。
そこまでは形式的なものだ。
次が本題みたいな口調で、直毘人は笑った。
「五条家は、神童一人に頼り切っている。腑抜けたものだ」
言い方が軽い。
軽いのに、鋭い。
直毘人がその言葉を吐いた瞬間、広間に野次と拍手が舞った。
「そうや! 五条なんぞ!」
「一人に頼る家のどこが御三家だ!」
「今代こそ五条を叩きのめしてやろうぞ!」
笑い声。酒の匂い。
拍手の音が畳を揺らす。
蘭太がわずかに肩をすくめた。
俺は表情を動かさない。
内心では、「その一人に頼り切った家に勝ててないのも御三家としてどうなのよ」と突っ込みたくなったが、そんなのは墓まで持っていく。
直毘人は野次も拍手も、余裕の笑顔で受けた。
最後に、声を張る。
「皆忘れるなよ、我ら禪院家こそが、呪術界で最も尊き一族なのだ」
また拍手。
酒瓶が鳴る。
誰かが「新当主万歳」と叫ぶ。
(……気持ち悪い)
内心でだけ言う。
ここにいる男たちは、直毘人の言葉を疑いもしない顔をしている。
挨拶が終わると、空気が一気にほどけた。
今度は食事だ。
蘭太は我慢の限界だったらしく、すぐに箸を取った。
口に運ぶ動きが早い。
緊張してるくせに、腹は正直だ。こういうところは年相応だな。
俺も箸を取る。
食うしかない。空腹は集中力を削る。
料理は美味かった。
美味いのが余計に腹立つ。
こんな場で食う料理なんて味が薄まるものなのに、それでも分かるくらい丁寧な味だ。出汁が深い。焼き魚の皮がぱりっとして、身が柔らかく崩れる。肉は脂まで甘い。
蘭太が小さく目を丸くして、俺にだけ聞こえる声で言った。
「兄さん、これ……すごく美味しいです…!」
「黙って食え」
冷淡に返す。
内心では「マジで分かる、美味すぎてビビるよな」と同意していた。
そうこうしているうちに、父が立ち上がった。
蘭太も慌てて箸を置き、同じように立つ。
どうやら上座にいる直毘人へ挨拶に行くらしい。
直毘人は大きな酒瓶を持って大笑いしていた。周りにも男が集まって、宴会の中心となってそこだけ温度を上げている。
他の家も順番に向かっている。
父も当然のように列に混じる。
蘭太が振り返って、俺に小さく手を振った。
俺も手を上げて返した。
俺は置いてけぼり。まあ当然だ。
父と蘭太の背中が、人の波に飲まれていく。
俺は一人になった。
料理の皿を見つめながら、内心でため息をつく。
(よし、ここからが地獄だな)
子ども一人で、この男だらけの場に座ってるだけで、視線が刺さる。置いていかれているということは、つまり"そういうこと"だ。
面白半分で何か言われてもおかしくない。
そう思った瞬間だった。
隣から声がした。
「よう、お前も一人か?」
俺はゆっくり振り向いた。
同年代くらいの少年が座っていた。
着物はきちんとしているが、宗家の人間みたいな“作り物の威圧感”はない。目がまっすぐで、妙に気さくだ。
「やっと同い年くらいのやつ見つけたわ。嬉しいぜ!」
……急だな。
内心で思う。こっちは胃が縮んでるのに、こいつは陽気すぎる。
「なぁお前、名前は?」
「…源之助」
俺は名だけを返した。
冷淡に、必要最低限。
少年は笑って頷く。
「源之助か、よろしくな! 俺は
「…芳樹」
俺が呼び返すと、芳樹は満足そうに笑った。
呼び名を確認するだけで嬉しそうなのが、少し羨ましい。俺はこういう場で、そういう感情を出せない。
芳樹は俺の視線の先──父と蘭太が消えていった方向をちらりと見た。
「さっきまでいたの、弟か?」
「……ああ」
首肯する。
芳樹は少しだけ目を細めた。羨ましそうな顔だ。
「いいなぁ。俺、弟欲しかったわ」
「いないのか」
「いない。妹はいるけど、あんまり話さねぇんだよな」
言いながら、芳樹は箸で煮物をつつく。
妹、という単語を出すときだけ、声が微妙に軽くなる。
たぶん本音を飲み込んでる。ここは男だけの場だ。女の話題は、扱いを間違えると変な空気になる。
俺はそれ以上突っ込まない。
代わりに、話題をずらす。
「呪力は?」
芳樹の目がすっと鋭くなる。
子ども同士の会話が、一気に“禪院の子どもらしい”方向へ切り替わった。
「毎日練ってるぜ。効率が悪いってよく師匠に言われる」
「練り方が雑なんだろ」
「そう、それ! やっぱ分かる?」
芳樹は嬉しそうに身を乗り出した。
俺は表情を崩さず、淡々と言う。
「呼吸と一緒にやれ。力で押し込むと、波が立つ」
内心では「これ十歳の会話じゃねぇよ」と少し笑った。
前世がなかったら、俺もこんな言葉を自然に吐けてない。
「なるほどなぁ、呼吸と一緒かぁ…」
芳樹は真剣な顔で頷き、今度は俺の腕を見た。
「体、鍛えてるだろ。腕の筋肉が違う」
「毎日振ってる」
「何を?」
「木刀」
「木刀かぁ…。俺もやろうかな、でもあれ手痛くならない?」
そんな風に、話は弾んでいった。
呪力の練り方。体の使い方。鍛錬の癖。
子どもとは思えない話題なのに、ここではそれが普通だ。
普通だからこそ、息がしやすい。
芳樹と話しているうちに、胸の奥の冷えが少しだけ溶けた。
孤独が薄まる。
それだけでありがたかった。
……が。
そんな空気は、別の声で簡単に割られた。
「なぁ、何の話しとるん?」
関西弁。
軽い調子。
だが、軽さの底に傲慢さが見える。
俺と芳樹が同時に振り向いた。
そこにいたのは、俺たちと同じくらいの少年だった。
顔立ちはかなり整っている。
着物が、俺たちとは明らかに違う。布の艶、縫い目の精密さ、帯の格。
“上”だと一目で分かる。
少年は笑っている。
笑っているのに、目が値踏みしている。
俺の背中に冷たい汗が流れた。
(……最悪のタイミングで来やがった)
内心で吐き捨てる。
でも顔は変えない。冷淡に、無表情に、相手を見る。
俺は知っていた。
この顔も、この声も。
禪院直哉。
直毘人の息子。
後の"炳"筆頭。
原作にも深く関わっていく、禪院家の象徴みたいな男。
その幼少期が、今、目の前で首を傾げている。
「君、分家の子ぉ? 見たことない顔やな」
直哉は言う。
柔らかい口調のまま、刃物みたいに。
芳樹が咄嗟に姿勢を正した。
俺は冷淡に、短く答える。
「……そうです」
直哉は俺の顔をじっと見た。
目が、笑っていない。
「へぇ。名前、なんて言うん」
来る。
ここで名前を言うだけで、何かが始まる。
内心で分かってる。禪院家の“序列ゲーム”が、今この瞬間から動き出す。
俺は息を吸って、淡々と名乗った。
「禪院源之助です」
直哉はその名を、口の中で転がすみたいに繰り返した。
「げんのすけ君か……ふぅん」
そして、笑った。
優しそうに見える笑顔。
でも、俺の背筋はさらに冷えた。
……やっぱり、夢じゃない。
内心で、改めて確信する。
原作の“直哉”が、ここにいる。
しかも、俺に興味を持った顔をしている。
俺は内心の焦りを顔に出さないようにして、直哉の目を見返した。
この直哉はまだ甚爾くんと出会ってません。