直哉の視線が、俺の皮膚を剥ぐみたいに刺さっていた。
さっきまでの廊下の冷たさとは別種の寒気が、背中をつたっていく。
殺しに来る。
比喩じゃなく。
この家の人間が持つ“殺意”は軽い。生活の延長みたいに発生する。今の直哉の目は、まさにそれだった。
俺は内心、激焦りしていた。
原作の直哉は、禪院甚爾や五条悟に並び立つのが目標だった。
そして今の出来事は、その方針を決定づける重要なワンシーンのはずだった。
──なのに。
そこに俺という異物が混じってしまった。
さらにあろうことか、直哉を差し置いて甚爾と“会話”までしてしまった。
直哉からしたら屈辱もいいところだろう。術式も持たないカスが、あっち側の存在に話しかけられて、自分は軽くあしらわれたのだ。
(……なんで俺なんだよ)
内心で思考が回る。
甚爾が俺に声をかけた理由。
直哉を無視してまで、俺に問いかけた理由。
答えは出ない。
分かるのは、俺が直哉の自尊心に大穴を開けたということだけ。
直哉が一歩近づく。
呪力と怒気が立ち昇るのが分かった。
香みたいに薄く漂うんじゃない。熱い湯気みたいに空間を濁らせる。
直哉は精一杯低い声を作って言った。
「何しにきたんやカスゥ…!!」
声の端が震えている。
怒りが強すぎて、抑えきれてない。
俺の喉が勝手に乾いた。
ここで言い訳したら終わる。
少しでも無礼なら終わる。
何より、直哉の“格”をあと一ミリでも傷つけたら、確実に終わる。
俺は即座に平伏した。
床に額をつけ、手のひらを前へ。
扇子を両手で差し出す。
「こちらは、直哉様のものではないでしょうか」
声は冷たく整えた。
震えを殺して、淡々と。
内側では心臓が暴れているのに、外側だけは平然と振る舞う。
汗が床に落ちた。
見えないが分かる。額の横を伝って、床に吸われていく感触がある。
直哉の足音が近づいてきた。
尊大で、遠慮がない。
木の床を踏むたびに、音が重くなる。
俺は目を閉じた。
閉じたまま、呼吸だけを数える。
生きろ。とにかく生きろ。
内心でその単語を繰り返す。
次の瞬間──。
頭が、床にめり込んだ。
直哉の足が、俺の頭を踏みつけたのだ。
ぐぐぐ、と床に押しつけられる。
ミシミシと骨が鳴る。
痛みが遅れて広がってきて、視界が一瞬白くなった。
「カスごときが俺に何か差し出すなんて千年早いねんダボがッ…!!」
低い声が、すぐ上から落ちてくる。
怒気が熱として降り注ぐ。
直哉は踏んだまま、さらに体重をかけてきた。
踏み方が雑じゃない。
念入りだ。痛みを計算している。
俺は歯を食いしばる。
呻き声は出さない。
出したらもっと踏まれる。そういう確信がある。
扇子が、俺の手から奪われた。
手のひらが空になる。
次の音で、その扇子が折れたのが分かった。
バキ、と木が割れる乾いた音。
骨組みが折れ、装飾が砕ける音。
直哉は高そうな扇子を躊躇なくへし折った。
そして。
折れた扇子の残骸が、俺の頭に叩きつけられた。
痛みが頭皮に散る。
ささくれた破片が当たった感触。
血が出ているかどうかは分からない。でも痛い。
直哉は最後にもう一度、頭を強く踏んでから足をどけた。
そのままドスドスと足音を立てて、去っていく。
俺は動けなかった。
額を畳につけたまま、呼吸だけを続ける。
(……完全に終わった。……俺、死んだかもな)
内心で、真っ黒な絶望が広がる。
お家取り潰しだ。
父が知ったら、俺はもちろん、蘭太も巻き込まれる。
最悪、母も。
木っ端の分家なんて、宗家の気分ひとつで潰せる。
俺は床の木の匂いを吸いながら、しばらく動けずにいた。
§
立ち上がると、視界が揺れた。
頭がじんじんとして、目の奥が詰まったみたいにぼやける。
俺は扇子の残骸を片してから、廊下を戻った。
足取りがふらつくのを、頬を叩いて誤魔化す。
背筋は伸ばす。顔はいつもの無表情に。
この屋敷で“弱ってる”のを見せたら、それだけで餌になる。
大広間が近づくにつれ、料理の匂いが濃くなった。
人の声が戻ってくる。
その音が、妙に遠く感じた。
広間に戻ると、すでに父と蘭太は席に戻っていた。
芳樹の姿は見当たらない。
元の家の場所に戻ったのか、あるいは──いや、考えるな。余計な想像は今の俺には毒だ。
俺は座布団に座った。
動作は静かに。心の中を悟られないように。
蘭太がすぐに寄ってくる。
目が心配そうだ。
血がつながっているからか、こういう時は妙に鋭い。
「兄さん、どこに行ってたんですか?」
俺は短く答えた。
「便所だ」
嘘の精度は低い。
でも、これ以上の説明はできない。
「新当主の息子に落とし物を届けに行ったらバチギレされて頭踏みつけられてました」なんて言えるわけがない。
蘭太は少し眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
聞かない優しさが心に染みる。
俺は内心、気が気じゃなかった。
直哉が誰かに言いふらしたら終わる。
直哉が父に直接言ったら終わる。
直哉が直毘人に耳打ちでもしたら──即死だ。
頼む。
どうか、直毘人には伝わっていませんように。
その祈りが空を切るように、直毘人が立ち上がった。
この会の締めの挨拶。
何を言っているのか、ほとんど頭に入ってこない。
耳には届いているはずなのに、意味が脳まで来ない。
俺の意識はずっと、直哉の足音と、床の冷たさと、頭皮の痛みに張り付いていた。
やがて広間の端の障子が開かれ、男たちがぞくぞくと出ていく。
ざわめきが移動する。
畳が揺れる。空気が少し軽くなる。
俺たちも出ようと立ち上がった。
その時。
父が、俺に言い放った。
「お前は残れ」
(──あ、これ完全に伝わってますわ)
内心で、死を覚悟した。
さよなら蘭太。
いや、早すぎる。まだ八歳だぞお前。俺が死んだら誰が守るんだよ。
内心はぐちゃぐちゃなのに、外面は無表情のまま。もはや癖だ。
「……分かりました」
短く返事をする。
余計な感情を乗せない。乗せたところで命乞いにしかならない。
蘭太が父の袖を掴んだ。
よく分かっていない顔で、それでも不安を隠せてない。
「父さん……兄さんは……」
「ついてこい、蘭太」
父はそれだけ言って、蘭太の手を引いた。
蘭太が振り返る。
俺を見る。目が揺れている。
俺は軽く手を振った。
別れの挨拶みたいに見えるが、まさしくそういう意味だ。
「じゃあな、蘭太」
蘭太も分からないなりに手を振り返した。
唇が動く。たぶん「兄さん」と言っている。声は聞こえない。
父に引かれて、蘭太は広間を出ていった。
障子が閉まる音が、とても重く感じた。
§
残された俺は、ゆっくり周りを見回した。
(……俺だけじゃない)
その事実に、密かに胸を撫で下ろした。
直哉への不敬罪で即処刑、ってわけじゃなさそうだ。
処刑があり得ると思えてしまう時点で世界観が終わってるが、今は無事を喜ぶしかない。
広間に残っているのは十人ほど。
全員、所在なさげに立っている。
共通点は、年齢だろう。
全員が十歳から十五歳ほどの子供。
中には芳樹の姿もあった。
芳樹は俺と目が合うと、軽く手を振ってきた。
俺は手を振り返しながら、喉の奥で息を吐いた。
(……なんだこれ。何かさせるのか?)
疑問が渦巻いているところへ、女中が一人入ってきた。
足音が小さい。立ち姿が硬い。
宗家の女中は、感情を消すのが仕事みたいな顔をしている。
「残られた皆様は、こちらへ付いてきてください」
淡々とした声だった。
だが逆らうわけにもいかない。
俺たちは無言で一列になり、女中の後を付いていった。
廊下を歩く。
何度も曲がる。
来る時も思ったが、この家はものすごく広い。
迷子になったら出られる自信はない。
やがて、外気が肌に触れる。
どうやら中庭へ出たようだ。
これまた広い。
中庭というより、訓練場に近い雰囲気だ。
地面は踏み固められていて、端には木刀や槍みたいなものが立てかけられている。
風が通り、白い息が薄く漂った。
そこに、数十名の男たちが立っていた。
全員が同じ装い。
白い道着のような服。
黒い小袴。
背筋が揃い、目線が前を向き、立ち方が軍隊みたいに均一。
俺の背中に、嫌な汗が浮く。
(……この服装、見たことあるぞ。まさか……)
内心で、記憶が嫌な方向へ繋がっていく。
男たちの中から、一人だけ違う格好の男が出てきた。
白い軍服で、ボタンはすべて留められている。
髪型は、前髪が尖ったリーゼントみたいに固められている。
顔つきが厳しく、口元だけが軽く歪んでいる。
その男が、よく通る声で言った。
「これから躯倶留隊の入隊試験を始める!」
ようやくタイトル回収できた。