冬の中庭は、息を吸うだけで肺が痛かった。
冷たい空気が喉を通って胸に落ちるたび、体の芯が縮む。
足元の土は踏み固められていて、霜が薄く光っている。
宗家の屋敷の中は香と料理の匂いで満ちていたのに、ここだけは別世界みたいに乾いていた。
その“乾き”の中心に、白い軍服の男が立っている。
前髪が尖ったリーゼントみたいに固められ、顎がしゃくれて見えるほど顔の角度が偉そうだ。
容姿は原作で見たより若い。けど、服装と、あの髪型で分かった。
躯倶留隊の隊長だ。
信朗は中庭に並ぶ俺たちを眺め、よく通る声で言い放った。
「これから躯倶留隊の入隊試験を始める!」
その内容を理解した瞬間、俺の中でピースがハマった。
(──ああ…、父さんが俺を連れてきた理由、“これ”だな)
喉の奥が乾く。
妙な納得が胸の底に沈んで、怒りも湧かなかった。
おかしいとは思っていた。
禪院宗家での新当主お披露目式なんて重要な行事に、ハズレの俺が呼ばれるわけがない。
家の見栄えのため?
蘭太の精神安定のため?
そんな綺麗な理由を、どこかで期待していたのが馬鹿みたいだ。
正解は、
術式を持たない出来そこないの処理。
我が家の不要物を、使える形に変えて捨てたのだ。
その捨てた先こそ──躯倶留隊。
禪院家の術式を持たない男子が、所属を義務付けられる現代の姥捨山。
躯倶留隊は禪院家に属する戦闘集団で、選りすぐりの術師集団である炳の下部組織である。
つまり、端的に言えば雑兵。
矢面に立たされ、炳という大駒の露払いのために死ぬ"歩"。
俺には前世の原作知識があった。
自分に術式がないと分かった時点で、ある程度覚悟は出来ていた。
だから動揺は少ない。
(……少ないだけで、ゼロじゃないけどな)
内心で呟く。
覚悟してても、実際に喉元に刃を当てられたら、冷たさは同じだ。
問題は俺の周りだった。
「急になんだよ!」
「聞いてねぇぞ!」
「帰らせてくれ、家族が待ってるんだ!」
子供たちの声が中庭に跳ね回る。
怒り、恐怖、困惑。
全部が混ざって、空気が熱を持ち始める。
俺も内心では全面的に同意だった。
急すぎる。説明不足で、あまりにも強引だ。
ただ、禪院家はそういう家だ。
──どうせ、もう話は通ってるんだろ。
そう考えた瞬間、信朗が答え合わせをしてくれた。
「お前らの父親からは、既に許諾を得てる」
信朗は無表情ながら、どこか笑っているみたいな声だった。
「これからお前らが家に帰れるのは、正月と──死んだ時だけだ」
中庭の空気が止まった。
喚いていた子どもたちが、一斉に言葉を失う。
口を開いたまま固まるやつ。
目だけ動かして周りを見るやつ。
膝が緩んで座り込みそうになるやつ。
俺は逆に、変なところで感心してしまった。
(……正月は帰れるのか)
思ったより良心的だな。
いや、良心の基準が壊れてる。自分で自分にツッコミを入れる。
子供たちの絶句の中、最年長っぽい男が一人、信朗に向かって声を荒げた。
体が出来上がっている。肩幅もある。腕も太い。
俺たちの中では明らかに一番
「ふざけんな! 俺は帰るぞ!」
そのまま踵を返して走り出した。
逃げる。
生物としては正しい。
理不尽を前にしたら、動物はまず逃げる。
けど──禪院家は、逃げ道なんて用意しない。
男が走り出した瞬間、上から何かが降ってきた。
影。
速い。
地面に足がつく前に、男に飛びかかる。
次の瞬間、男は地面に組み伏せられていた。
首筋を押さえられ、肩が畳まれ、呻き声が漏れる。
押さえつけているのは、白い道着に黒い小袴の躯倶留隊の隊士。髪を短く刈った、同じ風貌の男たちの一人だ。
そして、そこからだった。
中庭に繋がる通路の全てから、同じ服装、同じ髪型の隊士たちが出てくる。
左右、前後、隙がない。
まるで最初から配置されていたみたいに、無言で立ち、俺たちを囲む。
逃げても無駄だと、言葉じゃなく配置で教えてくる。
この家系はいつもそうだ。
説明じゃなく、現実をぶつけてくる。
俺は息を吐いて、覚悟を決めた。
(……詰みだ)
息を吐いて、外面は凍らせたまま前を見る。
詰みなら詰みなりに、最善手を探すしかない。
§
俺たちが諦めて覚悟を決めた時。着替えが始まった。
女中が何人か出てきて、俺たちは半ば強制的に着物を脱がされ、躯倶留隊の隊服へと着替えさせられる。
白い道着のような上着。
黒い小袴。
帯がきつい。布が硬い。
まだ子どもの体なのに、驚くほどぴったり合う。
(過去に俺くらいの年で、もう隊士やってたやつがいるってことか…)
内心で嫌になる。
十歳の子どもを、ここに放り込む家。
宗家だけじゃない。分家も同じ。いや、分家の方がむしろ積極的に差し出しそうだ。我が家のように向上心あふれる家庭なら、出来そこないの息子を捨てることなんて大して心苦しくもないだろう。
全員が着替え終わったころ、信朗が言った。
「入隊試験の内容は、隊士との一騎打ちだ」
あまりにも簡潔。
声に温度がない。
流れ作業のように口を動かす。
「安心しろ。勝っても負けても入隊はできる。だが──負けたら痛い目にあうぞ」
その言葉と同時に、一人の隊士が中庭の端に置いてあった木刀の束を持ってきて、俺たちの前へバラまいた。
木が地面に落ちる音。
乾いていて、やけに軽い音。
(……木刀か)
当たり前だが、本物の刀なんて渡されない。
だが木刀とはいえ、痛い目を見るには十分だ。
俺が木刀を拾うか迷っていると、横から声がした。
「源之助ぇ……」
芳樹だ。
顔色が悪い。声が震えている。
広間で喋っていた時とは雰囲気がまるで別人だ。
「どうしよう……俺、実戦なんてほとんどしたことねぇよ……」
さもありなん。子供が全力の実戦なんてする方がおかしい。
芳樹は唾を飲んで、俺を見た。
「なぁ、実戦のコツとか知らねぇか……?」
俺は端的に答えた。
「知らない」
事実だ。
家では蘭太以外、誰も俺に手を貸さなかった。
まだ八歳の蘭太を打ちのめす訳にもいかないのだ。実戦経験なんて積めるわけがない。
せいぜい木刀の素振りと、庭での体捌きの練習。それくらいだ。
芳樹の顔が絶望で歪む。
「マジかよぉ……! もうおしまいだぁ……」
俺も内心では同じ気持ちだった。
ただ、それを顔に出すほど子どもじゃない。
いや、子どもだけど。前世の分だけ感情の隠し方を知っている。
その時。
俺たちの中から一人、地面から木刀を取って前に出る存在がいた。
さっき逃げようとした、身体が大きい男だ。
息が荒い。
肩が上下し、目が血走っている。
緊張と恐怖と怒りが、そのまま見た目に出ていた。
男は信朗に向けて木刀を構えた。
信朗はだるそうに眉を動かす。
「やるのは俺じゃねぇよ」
そして追い打ちみたいに言う。
「あと名前を言え。記録する」
男は一瞬、言葉に詰まり、それでも絞り出した。
「……
信朗が顎を動かす。
それが合図だった。
隊士の集団から一人の男が出てくる。
ソイツは木刀を拾い上げ、正眼に構える。
構えにブレがない。
肩の力が抜けている。
重心が低い。
動きに無駄がない。
(……やり手だ)
俺は内心で結論づける。
あの武彦とやらが
だが相手は違う。本物の訓練を積んでいる。
本物の訓練を積んだやつの前では、多少身体が大きいくらいでは何のアドバンテージにもならない。
二人が向かい合う。
空気が張り詰める。
中庭の冷気が、さらに冷たくなる。
信朗が短く言った。
「始め」
「──オルアァッ!!」
その瞬間、武彦が裂帛の気合とともに大上段に木刀を振り被った。
速い。
呪力操作は雑だが、素の身体能力が高い。
勢いがある。力もある。
だが──。
隊士は半歩下がった。
それだけで武彦の振り下ろしは空を切る。
武彦の重心が前に流れる。
次の瞬間、隊士の木刀が横薙ぎに走った。
武彦の横っ面を叩く。
乾いた音が響いた。
脳が揺れたのだろう。武彦の膝が崩れ、体が畳まれるように落ちた。
俺は思わず息を呑んだ。
(強い…!)
原作では、躯倶留隊は真希に蹂躙される雑魚集団として描かれていた。
だが、現実の躯倶留隊は過酷な訓練を受けた戦闘員だ。
弱いわけがない。弱いなら、そもそも隊になっていない。
信朗が言った。
「勝負ありだ」
その言葉で終わるはずだった。
普通なら。常識なら。
だが隊士は止まらなかった。
倒れて戦闘不能の武彦に、木刀を振り下ろす。
一度じゃない。
何度も何度も。
木が肉を叩く音。
骨に当たる鈍い音。
武彦の呻き声が、庭の空気を裂く。
やがて武彦は蹲って亀になり、頭を守ろうとする。
それでも木刀は落ちてくる。容赦なく。
俺の指先が冷たくなっていく。
芳樹が隣で震えているのが分かる。
誰かが泣き始めた。声を殺して。
三十回ほど振り下ろされたころ、ようやく信朗が手を上げた。
「止め」
隊士は、ぴたりと動きを止めた。
機械みたいに。
木刀を捨て、集団の中へ戻っていく。
武彦は丸まったまま動けない。息が途切れ途切れだ。
信朗は、こちらを見回して言った。
「言っただろ。負けたら痛い目にあうって」
なんでもないことのように続ける。
「まぁ大丈夫だ、万が一死んでも供養はしてやる」
中庭に、緊張と恐怖が伝播する。
空気が固まる。
誰も何も言えない。
抗議する気力すら、潰される。
芳樹が涙声で呟いた。
「やべぇよ……やべぇよぉ……」
(マジでやべぇじゃん…)
内心で震える。
まともじゃないとは思っていたが、ここまでとは。
(……さすが禪院家)
内心で現実逃避が始まる。
強豪野球部もびっくりだな。
いや、野球部ならまだ救急車を呼ぶ。ここは呼ばないだろう。
ここは
俺は遠い目をしながら、拳を握った。
掌が汗でぬめる。
汗は冷たく、掌に張りついている。
そしてようやく、理解した。
(そういうことかよ…)
この入隊試験は“選抜”じゃない。
"儀式"だ。
俺たちは、
さす禪(さすが禪院家)