ドクターと過ごす時間は、あたたかかった。
作戦の相談でも、短い報告でも、ただ名前を呼ばれるだけでも。
不思議と、胸の奥に張りついていた緊張がほどけていく。
最初は、私が支えているつもりだった。
記憶を失ったドクターに、この世界を説明して、ロドスを紹介して、選択肢を示して。
間違えないように、迷わないように。
あの頃の私は、必死だった。
幼くて、未熟で、それでも前に立たなければならなかった。
ドクターは、隣にいた。
何も思い出せないはずの人が、私たちの選択を整理し、戦場を読み、結果を導いていった。
その背中を見て、私は何度も救われた。
気づけば、立場は曖昧になっていた。
支えていたはずなのに、
守っていたはずなのに。
いつの間にか、私の方が──
ロドスのみんなが──
ドクターを必要としていた。
それでも、怖くはなかった。
ドクターがいる。
話せば、返してくれる。
黙っていても、理解してくれる。
だから、ドクターと話す時間が好きだった。
それが信頼なのか、親愛なのか、あるいはもっと別のものなのか。
考えようとすると、胸の奥が少しだけ熱くなって、息が詰まる。
だから、考えないことにしていた。
名前をつけなくても、この時間はここにある。
そう思っていた。
最近、その時間が少し減っていた。
作戦が重なっているのだろうか。
考えることが増えたのだろうか。
私は、深く気にしなかった。
また戻る。
いつか、前みたいに。
“いつか”は、ちゃんと来るものだと、疑いもしなかった。
「アーミヤ」
呼ばれて顔を上げる。
ドクターが、そこにいた。
その瞬間、胸の奥がゆるむ。
ああ、よかった。
今日は話せる。
「はい、ドクター」
声は自然に出た。
笑顔になりそうなのを、少しだけ意識して抑える。
ドクターは、何かを手にしていた。
茶封筒。
ロドスでは、よく見るものだ。
事務手続きにも、報告書にも使われる、ごく普通の封筒。
それなのに。
胸の奥で、嫌な音がした。
ドクターは、その封筒を私に差し出す。
いつもと同じ動作。
いつもと同じ距離。
違うのは──封筒の中央だった。
黒い文字。
はっきりと、逃げ場のない二文字。
──辞表。
一瞬、頭が理解を拒んだ。
違う。
これは、ドクターのじゃない。
誰か別の人のだ。
たまたま、ドクターが持ってきただけ。
そうでなければ、おかしい。
だって──。
ドクターは、ここにいる。
私たちと、ロドスをここまで導いてきた。
いなくなる理由なんて、ない。
私は封筒から目を逸らし、ドクターを見る。
いつもと変わらない表情。
いつもと変わらない、静かな視線。
否定してくれない。
笑ってもくれない。
その沈黙が、現実だった。
ああ。
これは、ドクターのだ。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる。
音もなく、確実に。
“いつか”は、来ない。
取り戻せると思っていた時間は、もう存在しない。
私が信じていた未来は、この封筒一つで終わってしまった。
茶封筒は、軽い。
驚くほど、軽い。
それなのに、
私の世界は、一気に沈んでいった。
封筒は、まだ私の手の中にあった。
たったそれだけの事実が、どうしようもなく重い。
握っているだけなのに、指先が痺れていく。
放り出したい。
床に落として、見なかったことにしたい。
──違う。
そんなこと、できるわけがない。
私はアーミヤで、
ロドスのCEOだ。
肩書きは、普段はただの言葉みたいに感じることがある。
ケルシーが交渉をまとめてくれて、私は決断を求められたときにだけ前に立てばよかった。
みんなが支えてくれているから、私は“CEO”でいられた。
でも今は違う。
この茶封筒は、私の手元に来てしまった。
逃げ道なんて、最初から用意されていない。
受け取らなければならない。
受け取って、確認して、判断しなければならない。
それが、CEOの仕事だ。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が拒絶している。
受け取りたくない。
これを受け取った瞬間、何かが確定してしまう気がした。
“辞表”という言葉が、ただの文字じゃなくなる。
現実になる。
私はまだ、現実にしたくなかった。
今すぐ逃げ出したい。
この廊下の角を曲がって、部屋に閉じこもって、誰にも会わずに息を整えて──
そうすれば、少しは、まともに考えられるかもしれない。
でも、逃げられない。
目の前にいるのはドクターだ。
私が、ロドスが、頼ってしまった人だ。
その人が、私に辞表を渡している。
ここで逃げたら、私は──。
唇が震えそうになるのを、奥歯で噛み止めた。
呼吸が浅い。
肺がうまく膨らまない。
封筒の文字が、視界の中心で滲む。
辞表。
その二文字を、私は見ないふりができない。
……しなければならない。
私は、封筒を胸の前で持ち直した。
落とさないように。
握りつぶさないように。
指が痛い。
でも、その痛みがなければ、今にも崩れてしまいそうだった。
「ドクター」
呼びかけた声が、思ったよりも小さかった。
それでも、声になっただけで精一杯だった。
私は、聞かなければならない。
CEOとして。
でも本当は、聞きたくない。
答えが返ってきたら、終わってしまう。
そんな気がしてならなかった。
それでも私は、言葉を選んだ。
選ぶしかなかった。
「……理由を、聞いてもいいですか」
自分でも驚くほど丁寧な言い方だった。
まるで会議の席で、報告を求めるみたいに。
違う。
こんなのは違う。
本当は、こんな言葉じゃない。
本当は──。
どうして?
行かないで。
私が何かした?
私が足りなかった?
私たちじゃだめだった?
喉の奥に、言葉にならない声が詰まっている。
それを吐き出したら、私はたぶん泣いてしまう。
泣いたら、終わってしまう。
ドクターの前で泣いたら、私はもう、立っていられない気がした。
だから私は、CEOの言葉を使う。
それが、私に残された唯一の鎧だった。
理由を聞けば、もしかしたら。
ほんの少しでも、もしかしたら。
気の迷いだったと言ってくれるかもしれない。
手違いだったと笑ってくれるかもしれない。
疲れていただけだと、言ってくれるかもしれない。
淡い期待が胸に浮かんで、すぐに痛みに変わる。
そんな都合のいいこと、あるはずがないのに。
私は、ドクターの顔を見上げた。
お願いだから、否定して。
お願いだから、撤回して。
お願いだから──ここにいて。
言えない願いだけが、胸の中で増えていく。
ドクターは、相変わらず静かだった。
その沈黙が、私の期待を少しずつ削っていく。
それでも私は、目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
逃げたいのに、逃げられない。
子どもでいたいのに、子どもでいられない。
封筒の二文字が、私の肩にのしかかる。
──私は、受け取らなければならない。
それを、否定できない。
沈黙が、長すぎた。
私は、その静けさに耐えきれなくなりそうで、先に息を吸った。
何か言わなければ。
何でもいいから、今は──。
「それは……」
言葉を探す。
必死に、必死に。
理由を聞いたはずなのに、
本当は、理由なんて聞きたくなかった。
聞いてしまえば、きっと否定できなくなる。
だから私は、質問をずらす。
「急、ですよね。ドクター。最近、少し忙しそうでしたし……疲れているだけかもしれません」
自分でも分かる。
あまりにも苦しい言い訳だ。
それでも、言わずにはいられなかった。
ドクターは、ゆっくりと首を横に振った。
「もう、決めたことだ」
それだけだった。
声音は低く、淡々としている。
迷いも、揺れも、見えない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……取り消す、つもりは」
問いかける形をとったのに、声は震えていた。
「ない」
即答だった。
逃げ道が、閉ざされる音がした。
私は、思わず一歩踏み出していた。
距離が、少しだけ近くなる。
「でも、ドクターは……」
何を言えばいい。
何を言えば、ここに留められる。
「ドクターは、ロドスに必要です。みんな、あなたの判断に救われてきました。作戦の成功率だって……」
数字を並べれば、正しさは作れる。
CEOとしてなら、そうするべきだ。
でも、ドクターはその言葉を遮った。
「だからこそだ」
低い声が、はっきりと響く。
私は、言葉を失う。
ドクターは視線を逸らさず、続けた。
「私は、鉱石病を治すためにロドスに来た」
淡々とした口調。
まるで、事実を読み上げるみたいに。
「だが今の私には、その手立てがない。記憶を失って、研究も、理論も、何一つ持っていない」
胸が、じわりと痛む。
「それでもロドスは、私を前線に置いた。正確な指揮ができるからだ」
否定できない。
それは、事実だった。
ドクターの指揮があったから、生き残れた命がある。
勝てなかったはずの戦いを、覆してきた。
「私がいるかいないかで、勝敗が決まる」
その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
「でもな、アーミヤ」
初めて、名前を呼ばれる。
胸が、わずかに跳ねる。
「その指揮の中で、私は何をしていた?」
問いかけられて、私は答えられなかった。
「人を配置して、切り捨てて、進めて……」
ドクターは、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「ロドスの仲間を、大切な存在を、まるでチェスの駒みたいに扱っていた」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「私は、大切な人を救いたくて、未来を切り開きたくて、ドクターになったはずだ」
声が、わずかに低くなる。
「なのに今は、鉱石病患者同士を、戦場で殺し合わせる存在になっている」
私は、首を振りたくなった。
違う、と言いたかった。
でも、否定できない。
ドクターは、静かに言った。
「それを正しいと割り切れるほど、私は壊れていない」
その一言で、私は悟ってしまった。
これは、逃避でも、衝動でもない。
長い時間をかけて、削れて、決めてしまった結論だ。
私は、言葉を探す。
必死に。
「……それなら」
声が、かすれる。
「それなら、ロドスに残ったまま、別の形で──」
ドクターは、首を横に振った。
その動きは、とても穏やかで、決定的だった。
「中途半端には、いられない」
その言葉で、すべてが終わる。
私は、もう何も言えなくなった。
CEOとしては、理解しなければならない。
一人の人間としては、受け入れられない。
その矛盾が、胸の中で悲鳴を上げる。
封筒を持つ手が、わずかに震えた。
私はまだ、辞表を受理していない。
それでも、もう──。
失った気がしてならなかった。
────
ドクターの言葉は、どれも淡々としていた。
感情を殺した声。謝罪でも、弁解でもない。ただ事実を並べているだけなのに、その一つ一つが、アーミヤの胸を確実に削っていく。
──もう決めたことです。
その一言で、すべてが終わったのだと、理解してしまった。
アーミヤは、ぎゅっと拳を握りしめる。
机の下で、誰にも見えない場所で。
爪が食い込む痛みがなければ、今にも声を上げてしまいそうだった。
引き留める理由は、まだ山ほどある。
ロドスにはあなたが必要だ。
皆があなたを頼っている。
私だって──。
けれど、それらはすべて「CEOとしての言葉」でしかない。
ドクターの苦しみを無視して、縛りつける言葉だ。
ドクターはもう、指揮官としての自分を誇れなくなっていた。
治せない病。
救えない命。
最善を尽くすほど、誰かを切り捨てているという実感。
それを知ってしまった今、アーミヤには「残ってほしい」と言う資格がなかった。
喉の奥が、ひどく熱い。
言葉を出そうとすると、震えが混じる。
それでも──。
アーミヤは、ロドスのCEOだった。
十四歳。
まだ子どもで、泣いて縋りたい気持ちを、何重にも押し殺して。
ここに座っているのは、アーミヤ個人ではない。
深く、息を吸う。
そして、ゆっくりと吐き出す。
「……わかりました」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
まるで、他人の声のようだった。
アーミヤは、茶封筒に手を伸ばす。
指先が、ほんの一瞬だけ躊躇って止まる。
──受け取ってしまえば、もう戻れない。
それでも。
封筒を、確かに掴んだ。
「CEOとして……あなたの辞表を、受理します」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
温かかった時間。
並んで作戦を立てた夜。
何気ない会話。
「お疲れさま」と声をかけ合った、あの距離。
それらすべてが、過去になった。
ドクターは、何も言わなかった。
ただ、静かに一礼する。
その仕草が、ひどく遠い。
「……今まで、本当にありがとうございました」
アーミヤは、最後までCEOでいようとした。
涙を見せなかった。
声も、震わせなかった。
けれど、ドクターが部屋を出ていく音がした、その直後。
広すぎる執務室に、取り残された現実が、一気に押し寄せてきた。
ロドス。
責任。
決断。
そして──もう、ドクターはいないという事実。
机の上に置かれた茶封筒が、やけに重く見えた。
アーミヤは、それを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
需要があれば続きを書きます。