医務室の扉は、必要以上に静かに開いた。
音を立てないのは、礼儀というより癖だ。ドクターはいつもそうだった。
「……失礼する」
それだけ言って、あなたは入ってくる。
その声が、普段より少し低い。迷いを隠すための音色だと、ケルシーは知っている。
彼女は書類から視線を上げなかった。
上げれば、揺らぐからだ。
「君が来ることは予想できた」
淡々と、しかし冷たくはない。
ケルシーはいつも通りの“正しい声”を使った。
「……もう知っていたのか」
「知ったのは今さっきだ。誤解しないでほしい。私は予知能力者ではない」
ケルシーはペンを置く。
紙に残ったインクの線は、まるで彼女の心臓の拍動を記録した心電図のように乱れている。
「君がここへ来た理由は、挨拶か、引き継ぎか。あるいは──“許可”を得るためか」
「どれでもない。報告だ」
ドクターの返答は短い。
いつもなら、ケルシーはその短さに安堵しただろう。
しかし今は違う。短い言葉は、決意の硬さを示す。
ケルシーは椅子から立ち上がり、医務室の窓際へ歩く。
外は、曇っている。テラの空はいつだって気分屋だが、今日の色はやけに現実的だ。
「報告、ね」
その言い方に、わずかな皮肉が混じった。
気づいて、ケルシーは眉をひそめる。自分が嫌になる。
「君がロドスを去るという選択を、“報告”という形式で済ませることが、どれほど合理的で、同時にどれほど残酷か……君は理解しているはずだ」
「理解している。だから来た」
「……そう」
ケルシーは振り返る。
あなたの表情は、いつも通りマスク越しでよく見えない。
だが、目の奥が違う。かつてのドクターよりも、ずっと静かで、ずっと遠い。
「君が今、ここを離れることによって失われるものを列挙しようか」
「必要ない」
「必要だ。君が必要と感じなくても、こちらには必要だ」
“こちら”。
その言葉に、自分の逃げを見た気がした。
ケルシーは淡々と話し始める。
まるで講義だ。まるで討論だ。まるで、裁判だ。
「君の指揮能力は、現在のロドスにおいて代替が利かない。これは感情論ではなく、単純な事実の積み上げだ。
そして、事実というものは往々にして残酷だ。君がどれほど“自分は特別ではない”と考えていようと、周囲はそう見ない。周囲がそう見ない以上、君は“特別である”という前提で運用される。
つまり君は、自分の意志とは無関係に、君という存在の重さを背負わされ続けることになる」
あなたは何も言わない。
聞いている。だが、揺れてはいない。
ケルシーは言葉を重ねる。
論理を積み上げる。石を積む。壁を作る。
あなたを閉じ込めるために。──違う。守るために。
「アーミヤは成長した。確かに、彼女は君の背中を追ってきた。だが追いついたわけではない。
彼女が背負っているのは“指揮官”の責務ではなく、“象徴”としての重さだ。象徴は折れる。折れれば、折れた破片は周囲を傷つける。
君がいなくなった瞬間、ロドスは彼女に“君の代役”を求める。彼女がそれを拒否できると思うか?
拒否できない。彼女は優しすぎる。だから自分を削る。削って、削って、それでも足りないと感じた時に──彼女は自分を責め始める」
あなたは沈黙したまま、ただ聞いている。
「そして鉱石病。君がこの船にいることは、医学的に見て直接的な治療手段の確立には繋がらない。君の記憶が欠落している以上、かつての技術体系は再現不能だ。
だが、だからこそ君が“ここにいる”ことそのものが意味を持つ。君は希望ではない。だが、希望の振りをするには十分な存在だ。
人は合理性では生きられない。生きられないからこそ、象徴を必要とする。君が望むかどうかは関係ない。必要とされるという現象は、望まなくても発生する」
「私は象徴じゃない」
「違う。君がそう思うかどうかではない。君がどう見られているかだ。
君の自己認識は君の内側にある。しかし他者の期待は君の外側から君を形作る。外側の圧力は、内側の意思よりも強い場合がある。
そしてロドスは、君をそういう形で扱ってきた。扱ってしまった。……私も含めてな」
言い切った瞬間、ケルシーの胸に鈍い痛みが走った。
まただ。
また、こういう言い方をしてしまった。
あなたの意思を尊重しているふりをしながら、
“周りがどう思うか”を盾にして、君の自由を奪おうとしている。
ケルシーは唇を噛む。
噛む力が強すぎて、血の味がした。
「……ケルシー」
あなたが彼女の名を呼ぶ。
その音が、優しすぎた。
「もう決めた」
その一言で、医務室の空気が落ちた。
落下する。音もなく、底へ。
ケルシーは目を伏せる。
ここから先は、言うべきではない。
言えば、彼女は彼女でなくなる。
それでも口が動く。
「君が去ることで生じる損失は、戦術的・心理的・組織的に計り知れない。
そして君が想定している“去った後のロドス”は、おそらく君が望むほど健全ではない。ロドスは君を中心に回っているわけではないが、君がいなくなることで生じる歪みは確実に存在する。
その歪みは、目に見える形で表面化するまで時間がかかる。だからこそ厄介だ。崩壊はいつも、静かに始まる。
君がいなくなった後、誰が最初に壊れると思う? 前線か? 医療か? それとも──アーミヤか。
君はその可能性を、“見ないふり”ができるほど鈍感ではないはずだ」
「それでも行く」
言葉が、刃物のように短い。
切断されたのは、論理ではなく、期待だった。
ケルシーは息を止める。
肺が苦しい。心臓がうるさい。
こんな身体反応は久しく忘れていた。
「……なぜだ」
問いが、漏れた。
いつものように整えられた質問ではない。
答えを誘導するための質問でもない。
ただの、弱い問いだ。
あなたは少しだけ視線を逸らす。
その仕草が、答えより雄弁だった。
「ここにいると、私は──」
言葉が途切れる。
続きが、出ない。
それはあなたが誠実だからだ。
誠実だから、嘘を言えない。誤魔化せない。
「……私は、私のままでいられない」
ケルシーの喉が震えた。
あなたが何を言いたいのか、理解できてしまった。
ロドスにいる限り、ドクターはドクターであることを求められる。
記憶がなくても、期待される。
役割が押し付けられる。
指揮官として、象徴として、必要とされる。
必要とされることが、あなたを縛る。
ケルシーは、笑いそうになった。
自嘲だ。
自分が作った鎖で、あなたが苦しんでいる。
「……そうか」
声が、少し掠れた。
「君は、自分を取り戻したいのだな。
そしてそれは、私が否定できる類の欲求ではない。否定してしまえば、それは“君の存在を肯定している”という私の立場そのものが破綻する。
だが同時に──君のその欲求は、ロドスにとっては痛みになる。
いや、正確に言えば、“ロドスにいる者たちの誰かにとっての痛み”になる。
そして君は、君の優しさゆえに、その痛みを直視できないからこそ、去るのだろう」
あなたは頷く。
ケルシーは机に手をつく。
指先が震えている。
「……私は」
ケルシーは言葉を選ぼうとした。
いつものように、慎重に、正確に、冷静に。
だが選ぶほどに、どの言葉も嘘になる。
「私は、君がここに留まるべきだと考える。
それは命令ではない。強制でもない。ましてや、君の意志を否定するものではない。
ただ──君がいなくなった後に発生する損害が、あまりにも大きすぎる。
そして私は、その損害を“受け入れられる”ほど、世界に対して寛容ではない。
君の選択を尊重する、と言えば聞こえはいい。だが尊重とは、結局のところ、責任の放棄と紙一重だ。
私はそれをしたくない。君にも、してほしくない」
「それは分かってる」
「分かっているのなら、なぜ──」
「分かってるから、行く」
その返答が、優しすぎた。
あなたは彼女を傷つけないようにしている。
その気遣いが、ケルシーを壊す。
ケルシーは目を閉じた。
理屈。理屈。理屈。
いつも通りだ。
……違う。
本当は、ただ一つだけだった。
“行かないでくれ”
それだけでいい。
それだけ言えばいい。
なのに、言えない。言うのが怖い。
怖いから、論理に逃げる。
賢いから、逃げ道を無限に作れる。
賢いから、言い訳を完璧にできる。
賢いから、自分の卑怯さに気づいてしまう。
ケルシーは、息を吸った。
深く。肺の奥が痛むほどに。
そして吐き出す。ゆっくりと。
声を整えようとした。
いつも通りに。
“医療部門総責任者”として。
“ロドス”として。
「……君は、私のことを信頼しているのだろう」
「してる」
即答だった。
その即答が、胸を抉る。
信頼されているのに。
自分は、その信頼を“利用”しようとしている。
「なら、私の言葉を聞け」
ケルシーの声が、わずかに硬くなる。
硬くしたいわけじゃない。
崩れないために、そうするしかない。
「君が去ることは、君自身を救うかもしれない。だが同時に、君が背負ってきたものを他者に押し付けるということでもある。
君が逃げるのではないと言うのなら、君は──君の優しさを盾にして、君自身を守ろうとしているだけだ。
私はそれを、責めたいわけではない。責めたいわけではないが……君がそれを選ぶことで、君以外の誰かが傷つく。
君はそれを知っているはずだ。知っているから、なおさら黙って去ろうとしている。
……それは、あまりにも君らしい。
そして、あまりにも──私にとって都合が悪い」
「ケルシー」
あなたが遮った。
その声は、怒っていない。
ただ、終わりを告げている。
「ごめん」
たった三文字。
それだけで、ケルシーの論理は崩れた。
謝罪は、理屈の外側から刺さる。
防げない。
言葉の刃ではなく、温度で人を壊す。
ケルシーは唇を開いた。
何かを言おうとして──声が出ない。
喉が詰まる。
呼吸が乱れる。
心臓が、馬鹿みたいにうるさい。
……泣く?
私が?
そんなはずはない。
感染者の前で泣いたことはない。
戦場で泣いたこともない。
この船で、私はいつも冷静だった。
なのに。
視界が、滲む。
ケルシーは一歩、あなたに近づいた。
理屈の距離ではない。
交渉の距離でもない。
ただ、人としての距離だ。
「……私は」
声が震える。
震えを殺そうとした。
喉の奥に押し戻そうとした。
でも、押し戻せない。
「私は、君がここに留まるべきだと──」
言いかけて、止まる。
違う。
また逃げた。
また、肩書きに隠れた。
ケルシーは眉間に皺を寄せる。
自分が嫌になる。
こんな時でさえ、私は“正しさ”を武器にしようとしている。
違うだろう。
今言うべきは、そんなことじゃない。
「……ロドスが困るとか、そういう話ではない」
言葉が、ほどける。
堅い殻が、割れていく。
「君がいなくなると、統計が崩れる。戦術が乱れる。アーミヤが背負う負荷は増える。医療部門の負担も、前線の損耗も──」
途中で、声が詰まった。
自分で分かる。
まただ。
また私は、数字と概念の裏に逃げている。
「……違う」
吐き捨てるように呟いた。
自分に向けた言葉だ。
ケルシーは、もう一歩近づいた。
あなたの前で立ち止まる。
「私は……君がいないのが嫌だ」
静かな医務室に、その言葉だけが落ちた。
落ちて、割れた。
あなたは動かない。
驚いたように目を見開いている。
その表情が、ケルシーの胸をさらに痛くする。
今まで言わなかった。
今まで言えなかった。
だから、君はここを去る。
ケルシーは唇を震わせた。
涙が、頬を伝う。
信じられない。
止めたい。
止められない。
「……行かないでくれ」
声が、掠れた。
情けないほどに。
ケルシーは、自分の声が嫌いだった。
こんな声を出す自分が嫌いだった。
けれど──今さら格好をつけても、何の意味もない。
「お願いだ、ドクター……」
言葉が、幼くなる。
理屈が、消えていく。
残ったのは、感情だけだ。
「君が必要なんだ」
それは、医療部門の話ではない。
ロドスの損益の話でもない。
世界の正しさの話でもない。
ただ、ケルシー個人の、弱さだった。
あなたの目が揺れた。
ほんの少し。ほんの少しだけ。
だがその揺れは、肯定ではない。
決意がほどけた揺れではなく──痛みに対する反射だった。
あなたは、静かに首を振った。
「……ごめん」
二度目の謝罪。
それは、拒絶の確定だ。
ケルシーは笑いそうになった。
泣きながら。
笑えるほど、滑稽だった。
理屈を並べても届かない。
本音をぶつけても届かない。
──なら、私は何をしてきた?
ケルシーは目を伏せた。
涙が落ちて、床に染みる。
医務室の床は清潔で、だからこそ涙の跡が汚く見えた。
「……そうか」
声が、消え入りそうだった。
「君は、行くのだな」
あなたは頷いた。
ケルシーは、頷けなかった。
理解はできる。
合理的だ。正しい。
正しいからこそ、受け入れられない。
「……なら、せめて」
せめて何だ。
せめて安全に?
せめて連絡を?
せめて戻る場所を?
全部、惨めだ。
あなたは医務室の扉へ向かう。
その背中は、確かにドクターだった。
だが、もうロドスのドクターではない。
扉が閉まる直前、あなたは振り返った。
「……ケルシー。ありがとう」
ありがとう。
その言葉は、刃物ではない。
だが、刃物より深く刺さる。
扉が閉じた。
静寂が残った。
ケルシーは、その場に立ち尽くしたまま、
自分の心臓がまだ動いていることに驚いた。
──もしも。
もしも、もっと早く言っていれば。
もしも、理屈ではなく、最初から本音で。
もしも、あの時。
もしも、あの日。
賢い頭は、残酷だ。
可能性を無限に提示し、現実を無限に否定する。
ケルシーは机に額を押し当てた。
涙が止まらない。
「……愚かだな、私は」
誰にも聞かれない声で、そう呟いた。
ロドスに残されたのは、鉱石病でも、戦争でも、政治でもない。
──“いなくなった君”という空白だ。
その空白を、彼女はこれから毎日、
理屈で埋めようとして、埋められずに曇っていく
希望があれば別のキャラも書きます。