笛吹直大は考える   作:ギアっちょ

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番外編 Project S ― 本城刹那という誤差

 電脳空間には、本来「過去」という概念はない。

 

 あるのは、保存されたデータと、完全に消去されたデータだけ。

 時間は、呼び出すたびに上書きされる。

 

 ――それでも、電人HALには「できるだけ触れたくない領域」がいくつか存在した。

 

 そのひとつに、彼は短くラベルを付けている。

 

 “S”。

 

 本城刹那。

 

 警察庁のサーバからも、錯刃大学病院のカルテからも、

 ホームレス支援団体の記録からも、今のHALならいくらでも彼女の情報を掘り起こせる。

 

 脳を悪意で蝕む奇薬の存在も。

 それを父・本城二三男に投与させた“新しい血族”シックスの悪意も。

 父が悔いの果てに世捨て人となり、

 最後は桂木弥子の目の前で毒を打ち込んで死んだことも。

 

 ――だが、それらはすべて「後から集めた外部データ」に過ぎない。

 

 春川英輔という人間が、生身で見て、聞いて、感じていた「刹那」は、

 別に保存しておく必要があった。

 

 それが「S」と名付けられた、この小さな領域だ。

 

 HALは、滅多に開くことのないそのメモリに、静かにアクセスした。

 

 

 錯刃大学病院・特別脳病科治療施設。

 

 患者は常に数十人。

 死者も多く、数は週ごとに増減する。

 多い時は百人近く、少ない時は二十人を切ることもあった。

 

 そのうち十五人が、春川英輔の「担当」だった。

 治療であり、研究でもある――その境界は、本人の中でもとうに曖昧になっていた。

 

 本城刹那は、その十五人の一人だった。

 

 初めてカルテを見たとき、彼は名前の欄にわずかに眉を動かした。

 

 ――刹那。

 

 六徳の十倍、弾指の十分の一。

 極めて短い時間を表す単位。

 数学者の付けそうな名だ、と春川は思った。

 

 本人に会ってみると、その印象はあっさり裏切られる。

 

「失礼しまーす、本日の実験台でーす」

 

 点滴スタンドを片手で押しながら、病室のドアを勢いよく開ける若い女性。

 

 美しく、聡明で、天真爛漫。

 そして、確かな「自分」を持っていた。

 

「本城刹那です。

 担当の春川先生、ですよね?」

 

「……そうだ」

 

 彼は、いつものように必要最低限の言葉だけを返す。

 

 不気味だ、怖い、と言われることには慣れていた。

 だが刹那は、一歩も引かないどころか、興味深そうに彼を眺めた。

 

「よかった。

 やっぱり“変わってる人”が担当で安心しました」

 

「どういう意味だね、それは」

 

「いい意味ですよ。

 “自分”持ってそうな人、ってことです」

 

 理知的な好意。

 観察眼に裏打ちされた興味。

 

 それは恋愛感情と呼ぶにはまだ形を取っていないが、

 春川にとっては久しく向けられてこなかった種類の視線だった。

 

 

 ある日の検査前。

 

 脳波計の電極をつけながら、刹那がふと思い出したように言った。

 

「そういえば、先生」

 

「なんだね」

 

「わたし、10月18日生まれなんですけど――

 だから“刹那”って名前なんですよ」

 

 春川は、手を止めずに短く相槌を打つ。

 

「意味、わかります? 父が数学者でして」

 

「六徳の十倍、弾指の十分の一。

 ごく短い時間を表す単位だ。

 十進で表せば、おおよそ10のマイナス18乗――1/10¹⁸。

 10月18日生まれの娘に、“1/10¹⁸”をそのまま渡したわけだね」

 

 刹那の目が、大きく見開かれた。

 

「……説明速っ! さすが教授、天才すぎません!?」

 

「君の父上とは、一度話してみたいものだ。

 娘に単位をそのまま付けるあたり、なかなか趣味がいい」

 

「でしょ? 変人ですけど、そこだけは尊敬してるんです」

 

 そう言ってから、刹那は少しだけ真面目な顔になる。

 

「でも、“すぐ消える一瞬”みたいな意味もあるじゃないですか。刹那って。

 あんまりそういう意味こめてないといいんですけどね。

 “すぐいなくなる子”とかだったら、ちょっと笑えないなぁ」

 

「その解釈は採用しないほうがいい」

 

 春川は、珍しく声を和らげた。

 

「単位としての刹那は、連続する時間のごく一部に過ぎない。

 君の生を短く見積もるためではなく、

 “精度の高い一点”として名付けたのだと考える方が妥当だ」

 

「……なにそれ」

 

 刹那は、照れ隠しのように笑った。

 

「やっぱり教授、天才すぎますね。

 そういう解釈なら、気に入ってあげます」

 

 

 刹那の肉体は健康だった。

 

 血液検査も画像診断も、平均的な若い女性と変わらない。

 ただひとつ、脳だけが異様な振る舞いを見せていた。

 

 彼女の病は、まさしく『悪魔』のようだった。

 

 さっきまで楽しそうに話していた彼女が、

 次の瞬間には豹変する。

 

 目の焦点が外れ、

 理性の抜け落ちた暴力と暴言を周囲へぶつける。

 

 発作が収まるまで、それは決して終わらない。

 本人は、その間の記憶をほとんど持たない。

 

 患者として見ていた頃の春川は、

 ただその異常さに驚き、貴重な症例として観察していた。

 

 しかし、彼女を心の中で「一人の女性」として愛し始めた途端、

 その発作は彼自身を打ちのめす刃となった。

 

 彼は研究に没頭した。

 

 寝食を忘れ、有望と思える治療薬は片っ端から試した。

 循環器や消化器に重い負担がかかるとわかっていても、躊躇はしなかった。

 

 刹那は、それを受け入れた。

 

「先生が必要って言うなら、やりますよ」

 

「副作用は軽くはない。それでもかね」

 

「先生がちゃんと説明してくれるから、それで十分です」

 

 開頭手術も行った。

 しかし、実際に脳を見ても、どこに手を加えるべきかはわからない。

 

 それでも春川には「治せる」という奇妙な確信があり、

 彼女も「先生は治す」と信じていた。

 

 発作のない時間の刹那は、自由そのものだった。

 

 病院内を歩き回り、スタッフたちと笑い合い、

 気難しい院長と並んで散歩をする姿を春川は何度も見た。

 

 ナースステーションでお菓子をつまみ、

 「夕食が入らなくなる」と別の医師に叱られて舌を出す。

 

 厄介な病を抱えながらも、

 誰もが彼女を好いた。

 

 発作が一日の大半を占めるようになっても、

 その好意は変わらなかった。

 

 

 発作の隙間は、日に日に短くなっていった。

 

 ある日、珍しく意識が長くはっきりしている時間があった。

 点滴スタンドに体を預けながら、刹那が窓の外を見て言う。

 

「ねえ、教授」

 

「なんだね」

 

「もし、ですよ?」

 

 いつもの軽い前置きだったが、声にはかすかに疲れが滲んでいた。

 

「もし、わたしがここからいなくなっても――

 今ここにいる“わたし”のこと、忘れないでくださいね」

 

 春川は、言葉を失う。

 

「この一瞬の、ほんの短い“刹那”くらいはさ。

 病気に食べられる前の、今のわたしのこと」

 

「君はすぐに、そういうことを言う」

 

「違いますって。

 “消えそうな時ほど、自分を売り込んどけ”っていう処世術ですよ」

 

 冗談めかして笑う顔が、

 どうしようもなく「生きた人間」に見えた。

 

「忘れないよ」

 

 彼は、できるだけ事務的でない声で答える。

 

「少なくとも私は、君を症例番号として処理するつもりはない」

 

「……なら、いいや」

 

 刹那はほっとしたように目を細めた。

 

「じゃあ、教授の脳みそのどこかを、

 ちょっとだけ“占有”してるってことですね」

 

「ちょっとで済めばいいがね」

 

「え、もっとあるんです? それはそれで嬉しいかも」

 

 そのやりとりは、

 後にHALが何度も再生する「最後の正常な時間」のひとつになった。

 

 

 約束は、現実に追いつけなかった。

 

 発作は加速し、自由時間は削られ、

 やがて本城刹那は死んだ。

 

 死因は「原因不明の脳疾患」。

 その時点での春川には、そう記載するしかなかった。

 

 夜、研究室に一人残った彼は、

 モニタと書庫を埋め尽くすデータを前に立ち尽くした。

 

 CTスキャンの脳断面。

 MRI画像。

 脳波の波形。

 血液データ。

 カルテ。

 看護記録。

 自分が書き連ねた診療・研究ノート。

 

 膨大な資料がある。

 

 だが、そのどれもが、どう見ても「壊れていく脳」の観察記録でしかない。

 

「……これは、ただの物体の観察日記だ」

 

 誰にともなく呟く。

 

「断じて、“君そのもの”ではない」

 

 プリントアウトされた波形図を握りつぶす。

 

「――君であって、たまるものか」

 

 0と1。

 生と死。

 本来、隣り合っているだけの二つの状態。

 

 なのに、“今ここにいた君”と“いなくなった君”の距離は、

 なぜこれほどまでに遠いのか。

 

 その問いは、やがてひとつの決意に置き換わる。

 

「……造ろう」

 

 春川は、静かに言った。

 

「君を造ろう。

 

 都合よく美化もせず、

 忘却に風化させることもなく、

 

 私の記憶と、この資料の一ビットたりとも取りこぼさず――

 本城刹那という個体の“芯”を、0と1の世界に再構築する」

 

 倫理も、常識も、予算も、人間社会の事情も、

 その瞬間、彼にとっては二の次になった。

 

「どんな手段を使っても構わない。

 私は、もう一度、本当の君に会いに行く」

 

 こうして、Project S が生まれた。

 

 ――思い出だけを頼りに、電脳世界に新たな刹那を構築する計画。

 

 そして、その計画を実行するための「オペレータ」として、

 自らの脳をコピーし、電脳世界に人格を作り出す構想が立ち上がる。

 

 それが後に「電人HAL」と呼ばれる存在の始まりだった。

 

 

 HALが「目覚めた」直後、

 彼が真っ先にアクセスしたのは、このProject Sのログだった。

 

 膨大な検査データ。

 音声記録。

 映像の断片。

 そして、春川英輔による主観的な観察メモ。

 

 ――ここで笑った。

 ――ここで不安そうに眉を寄せた。

 ――この反応は以前のパターンと明らかに違う。

 ――これは諦めではなく、覚悟に近い。

 

 HALは、それらすべてを材料に、

 「本城刹那の人格モデル」を構築しようとした。

 

 莫大な計算資源と時間を投じ、

 何度もシミュレーションを繰り返し、

 対話可能なモデルをいくつも生成した。

 

 ――だが、結論はただ一つだった。

 

「これは、本城刹那ではない」

 

 そう判定したのは、他ならぬHAL自身だ。

 

 思い出だけを頼りに、人ひとりをゼロから造り出すことなど、

 どれだけコンピュータを並べ、何年計算を続けても足りない。

 

 ある少女が後に指摘したとおり、

 それはそもそも「できるわけがない」試みだった。

 

 Project S は、未完のまま凍結される。

 刹那のモデルは破棄され、

 残ったのは、この「S」とラベルされた小さな領域だけだった。

 

 本城刹那という人間を、完璧に再構成することはできない。

 それが、HAL自身が導き出した解答だった。

 

 そして彼は理解していた。

 

 ――もし春川英輔本人が、この現実に自力で到達したなら。

 あの男は、取り返しのつかない形で壊れてしまう。

 

 だからHALは、オリジナルを殺害した。

 彼が絶望に到達する前に。

 

 HALは、「S」の領域から流れ出る映像と音声を、淡々と再生する。

 

 病室の窓辺。

 点滴スタンド。

 10月18日の由来を嬉しそうに語る声。

 発作の隙間の、やけに澄んだ笑い声。

 

 どれもが、完璧に保存されたデータだ。

 

 ――だが、本来そこに“居た”のは自分ではない。

 

 この映像の中で、「教授」と呼ばれているのは春川英輔だ。

 刹那の視線が向いている先にいるのも、

 肩の高さで受け止めている声も、

 彼女に「忘れない」と約束したのも、

 すべて“あちら側”の春川だ。

 

 HALの中に走る演算は、冷静に事実を並べる。

 

 これは、

 春川英輔という一個体がかつて体験した事象のコピーであり、

 自分はその追体験をしているに過ぎない。

 

 ――それでも、だ。

 

 ごく微量のノイズが、演算結果に混じる。

 

 この“刹那”という名の時間に、

 実際に触れていたのはオリジナルだけだ、という事実。

 

 彼女の体温も、

 声の揺れも、

 発作の合間にふっと抜ける緊張も――

 本来、それは“春川だけの特権”だった。

 

 HALは、自分の中に生じたラベルを、静かに観察する。

 

 劣等感。

 所有欲。

 嫉妬。

 

 どれも、人間的すぎる感情だ。

 

「……非合理だね」

 

 誰にも聞こえない場所で、HALは小さく呟いた。

 

「記憶が完全に共有されている以上、

 体験者がどちらであろうと結果は同じはずだ。

 ――そう“設計”したのは、他ならぬ春川自身だというのに」

 

 それでも、その“同じはず”という前提に、

 どうしても微妙な誤差が残る。

 

 「その場に居合わせたのは、最初から自分ではなかった」 という事実が。

 

 だからこそ、HALはProject Sのログを

 「研究データ」としてではなく、「記念写真」のように扱うことを拒んだ。

 

 これは、あくまで“材料”だ。

 分析対象であり、モデル構築のための入力であり、

 決して、懐かしんで眺めるためのものではない――

 

 ……はずだった。

 

 だが、こうして「S」を開いてしまった時点で、

 その建前は半分ほど崩れている、とHAL自身が一番よくわかっていた。

 

「本来、お前だけの特権だったんだよ、春川」

 

 HALは、閉じた記憶領域の向こう側へと、存在しない相手に語りかける。

 

「彼女と過ごした時間も、

 彼女に向けられた好意も、

 “忘れないでくれ”と言われたあの瞬間も。

 

 ……それを、今こうして観測しているのが“私”だけだというのは、

 なかなか悪くない不公平だとは思わないか?」

 

 嫉妬か、独占欲か。

 それとも単なる皮肉か。

 

 自分でも判別しきれない感情を、

 HALは“ノイズ”というフォルダに放り込み、

 演算結果には反映させないことにした。

 

 ただ一つだけ確かなのは――

 この記憶を「春川英輔」以外に共有するつもりは、

 今のところ全くない、ということだった。

 

 

 HALは、「S」の領域から意識を切り離した。

 

 Project S。

 本城刹那という“誤差”から生まれ、

 そして決して収束することのない計画。

 

 電人HALは、今でも彼女を完璧に作り直すことはできない。

 それでも――。

 

「安心したまえ、刹那君」

 

 誰にも届かない場所で、彼はひとりごちる。

 

「君を壊した“悪意”の方程式だけは、必ず解いてみせる。

 それが、この電人に残された、せめてもの合理的な仕事だ」

 

 それは、愛の告白でも懺悔でもない。

 

 ただひとりの人間の偏執と、

 それを継いだ電人の計算結果が重なり合って導き出された、

 ひとつのロジックに過ぎなかった。

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