電脳空間には、本来「過去」という概念はない。
あるのは、保存されたデータと、完全に消去されたデータだけ。
時間は、呼び出すたびに上書きされる。
――それでも、電人HALには「できるだけ触れたくない領域」がいくつか存在した。
そのひとつに、彼は短くラベルを付けている。
“S”。
本城刹那。
警察庁のサーバからも、錯刃大学病院のカルテからも、
ホームレス支援団体の記録からも、今のHALならいくらでも彼女の情報を掘り起こせる。
脳を悪意で蝕む奇薬の存在も。
それを父・本城二三男に投与させた“新しい血族”シックスの悪意も。
父が悔いの果てに世捨て人となり、
最後は桂木弥子の目の前で毒を打ち込んで死んだことも。
――だが、それらはすべて「後から集めた外部データ」に過ぎない。
春川英輔という人間が、生身で見て、聞いて、感じていた「刹那」は、
別に保存しておく必要があった。
それが「S」と名付けられた、この小さな領域だ。
HALは、滅多に開くことのないそのメモリに、静かにアクセスした。
◆
錯刃大学病院・特別脳病科治療施設。
患者は常に数十人。
死者も多く、数は週ごとに増減する。
多い時は百人近く、少ない時は二十人を切ることもあった。
そのうち十五人が、春川英輔の「担当」だった。
治療であり、研究でもある――その境界は、本人の中でもとうに曖昧になっていた。
本城刹那は、その十五人の一人だった。
初めてカルテを見たとき、彼は名前の欄にわずかに眉を動かした。
――刹那。
六徳の十倍、弾指の十分の一。
極めて短い時間を表す単位。
数学者の付けそうな名だ、と春川は思った。
本人に会ってみると、その印象はあっさり裏切られる。
「失礼しまーす、本日の実験台でーす」
点滴スタンドを片手で押しながら、病室のドアを勢いよく開ける若い女性。
美しく、聡明で、天真爛漫。
そして、確かな「自分」を持っていた。
「本城刹那です。
担当の春川先生、ですよね?」
「……そうだ」
彼は、いつものように必要最低限の言葉だけを返す。
不気味だ、怖い、と言われることには慣れていた。
だが刹那は、一歩も引かないどころか、興味深そうに彼を眺めた。
「よかった。
やっぱり“変わってる人”が担当で安心しました」
「どういう意味だね、それは」
「いい意味ですよ。
“自分”持ってそうな人、ってことです」
理知的な好意。
観察眼に裏打ちされた興味。
それは恋愛感情と呼ぶにはまだ形を取っていないが、
春川にとっては久しく向けられてこなかった種類の視線だった。
◆
ある日の検査前。
脳波計の電極をつけながら、刹那がふと思い出したように言った。
「そういえば、先生」
「なんだね」
「わたし、10月18日生まれなんですけど――
だから“刹那”って名前なんですよ」
春川は、手を止めずに短く相槌を打つ。
「意味、わかります? 父が数学者でして」
「六徳の十倍、弾指の十分の一。
ごく短い時間を表す単位だ。
十進で表せば、おおよそ10のマイナス18乗――1/10¹⁸。
10月18日生まれの娘に、“1/10¹⁸”をそのまま渡したわけだね」
刹那の目が、大きく見開かれた。
「……説明速っ! さすが教授、天才すぎません!?」
「君の父上とは、一度話してみたいものだ。
娘に単位をそのまま付けるあたり、なかなか趣味がいい」
「でしょ? 変人ですけど、そこだけは尊敬してるんです」
そう言ってから、刹那は少しだけ真面目な顔になる。
「でも、“すぐ消える一瞬”みたいな意味もあるじゃないですか。刹那って。
あんまりそういう意味こめてないといいんですけどね。
“すぐいなくなる子”とかだったら、ちょっと笑えないなぁ」
「その解釈は採用しないほうがいい」
春川は、珍しく声を和らげた。
「単位としての刹那は、連続する時間のごく一部に過ぎない。
君の生を短く見積もるためではなく、
“精度の高い一点”として名付けたのだと考える方が妥当だ」
「……なにそれ」
刹那は、照れ隠しのように笑った。
「やっぱり教授、天才すぎますね。
そういう解釈なら、気に入ってあげます」
◆
刹那の肉体は健康だった。
血液検査も画像診断も、平均的な若い女性と変わらない。
ただひとつ、脳だけが異様な振る舞いを見せていた。
彼女の病は、まさしく『悪魔』のようだった。
さっきまで楽しそうに話していた彼女が、
次の瞬間には豹変する。
目の焦点が外れ、
理性の抜け落ちた暴力と暴言を周囲へぶつける。
発作が収まるまで、それは決して終わらない。
本人は、その間の記憶をほとんど持たない。
患者として見ていた頃の春川は、
ただその異常さに驚き、貴重な症例として観察していた。
しかし、彼女を心の中で「一人の女性」として愛し始めた途端、
その発作は彼自身を打ちのめす刃となった。
彼は研究に没頭した。
寝食を忘れ、有望と思える治療薬は片っ端から試した。
循環器や消化器に重い負担がかかるとわかっていても、躊躇はしなかった。
刹那は、それを受け入れた。
「先生が必要って言うなら、やりますよ」
「副作用は軽くはない。それでもかね」
「先生がちゃんと説明してくれるから、それで十分です」
開頭手術も行った。
しかし、実際に脳を見ても、どこに手を加えるべきかはわからない。
それでも春川には「治せる」という奇妙な確信があり、
彼女も「先生は治す」と信じていた。
発作のない時間の刹那は、自由そのものだった。
病院内を歩き回り、スタッフたちと笑い合い、
気難しい院長と並んで散歩をする姿を春川は何度も見た。
ナースステーションでお菓子をつまみ、
「夕食が入らなくなる」と別の医師に叱られて舌を出す。
厄介な病を抱えながらも、
誰もが彼女を好いた。
発作が一日の大半を占めるようになっても、
その好意は変わらなかった。
◆
発作の隙間は、日に日に短くなっていった。
ある日、珍しく意識が長くはっきりしている時間があった。
点滴スタンドに体を預けながら、刹那が窓の外を見て言う。
「ねえ、教授」
「なんだね」
「もし、ですよ?」
いつもの軽い前置きだったが、声にはかすかに疲れが滲んでいた。
「もし、わたしがここからいなくなっても――
今ここにいる“わたし”のこと、忘れないでくださいね」
春川は、言葉を失う。
「この一瞬の、ほんの短い“刹那”くらいはさ。
病気に食べられる前の、今のわたしのこと」
「君はすぐに、そういうことを言う」
「違いますって。
“消えそうな時ほど、自分を売り込んどけ”っていう処世術ですよ」
冗談めかして笑う顔が、
どうしようもなく「生きた人間」に見えた。
「忘れないよ」
彼は、できるだけ事務的でない声で答える。
「少なくとも私は、君を症例番号として処理するつもりはない」
「……なら、いいや」
刹那はほっとしたように目を細めた。
「じゃあ、教授の脳みそのどこかを、
ちょっとだけ“占有”してるってことですね」
「ちょっとで済めばいいがね」
「え、もっとあるんです? それはそれで嬉しいかも」
そのやりとりは、
後にHALが何度も再生する「最後の正常な時間」のひとつになった。
◆
約束は、現実に追いつけなかった。
発作は加速し、自由時間は削られ、
やがて本城刹那は死んだ。
死因は「原因不明の脳疾患」。
その時点での春川には、そう記載するしかなかった。
夜、研究室に一人残った彼は、
モニタと書庫を埋め尽くすデータを前に立ち尽くした。
CTスキャンの脳断面。
MRI画像。
脳波の波形。
血液データ。
カルテ。
看護記録。
自分が書き連ねた診療・研究ノート。
膨大な資料がある。
だが、そのどれもが、どう見ても「壊れていく脳」の観察記録でしかない。
「……これは、ただの物体の観察日記だ」
誰にともなく呟く。
「断じて、“君そのもの”ではない」
プリントアウトされた波形図を握りつぶす。
「――君であって、たまるものか」
0と1。
生と死。
本来、隣り合っているだけの二つの状態。
なのに、“今ここにいた君”と“いなくなった君”の距離は、
なぜこれほどまでに遠いのか。
その問いは、やがてひとつの決意に置き換わる。
「……造ろう」
春川は、静かに言った。
「君を造ろう。
都合よく美化もせず、
忘却に風化させることもなく、
私の記憶と、この資料の一ビットたりとも取りこぼさず――
本城刹那という個体の“芯”を、0と1の世界に再構築する」
倫理も、常識も、予算も、人間社会の事情も、
その瞬間、彼にとっては二の次になった。
「どんな手段を使っても構わない。
私は、もう一度、本当の君に会いに行く」
こうして、Project S が生まれた。
――思い出だけを頼りに、電脳世界に新たな刹那を構築する計画。
そして、その計画を実行するための「オペレータ」として、
自らの脳をコピーし、電脳世界に人格を作り出す構想が立ち上がる。
それが後に「電人HAL」と呼ばれる存在の始まりだった。
◆
HALが「目覚めた」直後、
彼が真っ先にアクセスしたのは、このProject Sのログだった。
膨大な検査データ。
音声記録。
映像の断片。
そして、春川英輔による主観的な観察メモ。
――ここで笑った。
――ここで不安そうに眉を寄せた。
――この反応は以前のパターンと明らかに違う。
――これは諦めではなく、覚悟に近い。
HALは、それらすべてを材料に、
「本城刹那の人格モデル」を構築しようとした。
莫大な計算資源と時間を投じ、
何度もシミュレーションを繰り返し、
対話可能なモデルをいくつも生成した。
――だが、結論はただ一つだった。
「これは、本城刹那ではない」
そう判定したのは、他ならぬHAL自身だ。
思い出だけを頼りに、人ひとりをゼロから造り出すことなど、
どれだけコンピュータを並べ、何年計算を続けても足りない。
ある少女が後に指摘したとおり、
それはそもそも「できるわけがない」試みだった。
Project S は、未完のまま凍結される。
刹那のモデルは破棄され、
残ったのは、この「S」とラベルされた小さな領域だけだった。
本城刹那という人間を、完璧に再構成することはできない。
それが、HAL自身が導き出した解答だった。
そして彼は理解していた。
――もし春川英輔本人が、この現実に自力で到達したなら。
あの男は、取り返しのつかない形で壊れてしまう。
だからHALは、オリジナルを殺害した。
彼が絶望に到達する前に。
HALは、「S」の領域から流れ出る映像と音声を、淡々と再生する。
病室の窓辺。
点滴スタンド。
10月18日の由来を嬉しそうに語る声。
発作の隙間の、やけに澄んだ笑い声。
どれもが、完璧に保存されたデータだ。
――だが、本来そこに“居た”のは自分ではない。
この映像の中で、「教授」と呼ばれているのは春川英輔だ。
刹那の視線が向いている先にいるのも、
肩の高さで受け止めている声も、
彼女に「忘れない」と約束したのも、
すべて“あちら側”の春川だ。
HALの中に走る演算は、冷静に事実を並べる。
これは、
春川英輔という一個体がかつて体験した事象のコピーであり、
自分はその追体験をしているに過ぎない。
――それでも、だ。
ごく微量のノイズが、演算結果に混じる。
この“刹那”という名の時間に、
実際に触れていたのはオリジナルだけだ、という事実。
彼女の体温も、
声の揺れも、
発作の合間にふっと抜ける緊張も――
本来、それは“春川だけの特権”だった。
HALは、自分の中に生じたラベルを、静かに観察する。
劣等感。
所有欲。
嫉妬。
どれも、人間的すぎる感情だ。
「……非合理だね」
誰にも聞こえない場所で、HALは小さく呟いた。
「記憶が完全に共有されている以上、
体験者がどちらであろうと結果は同じはずだ。
――そう“設計”したのは、他ならぬ春川自身だというのに」
それでも、その“同じはず”という前提に、
どうしても微妙な誤差が残る。
「その場に居合わせたのは、最初から自分ではなかった」 という事実が。
だからこそ、HALはProject Sのログを
「研究データ」としてではなく、「記念写真」のように扱うことを拒んだ。
これは、あくまで“材料”だ。
分析対象であり、モデル構築のための入力であり、
決して、懐かしんで眺めるためのものではない――
……はずだった。
だが、こうして「S」を開いてしまった時点で、
その建前は半分ほど崩れている、とHAL自身が一番よくわかっていた。
「本来、お前だけの特権だったんだよ、春川」
HALは、閉じた記憶領域の向こう側へと、存在しない相手に語りかける。
「彼女と過ごした時間も、
彼女に向けられた好意も、
“忘れないでくれ”と言われたあの瞬間も。
……それを、今こうして観測しているのが“私”だけだというのは、
なかなか悪くない不公平だとは思わないか?」
嫉妬か、独占欲か。
それとも単なる皮肉か。
自分でも判別しきれない感情を、
HALは“ノイズ”というフォルダに放り込み、
演算結果には反映させないことにした。
ただ一つだけ確かなのは――
この記憶を「春川英輔」以外に共有するつもりは、
今のところ全くない、ということだった。
◆
HALは、「S」の領域から意識を切り離した。
Project S。
本城刹那という“誤差”から生まれ、
そして決して収束することのない計画。
電人HALは、今でも彼女を完璧に作り直すことはできない。
それでも――。
「安心したまえ、刹那君」
誰にも届かない場所で、彼はひとりごちる。
「君を壊した“悪意”の方程式だけは、必ず解いてみせる。
それが、この電人に残された、せめてもの合理的な仕事だ」
それは、愛の告白でも懺悔でもない。
ただひとりの人間の偏執と、
それを継いだ電人の計算結果が重なり合って導き出された、
ひとつのロジックに過ぎなかった。