わたしの名前は、本城刹那。
由来は、たぶん誰にも負けないくらい変です。
「10月18日生まれだから、刹那。1/10¹⁸の“極少数”。ね、綺麗でしょ?」
そう言うと、大抵の人は一拍置いてから笑う。
愛想笑いとか、気遣いの笑いとか、そういうの。
でも、春川教授だけは違った。
病室の丸椅子に座ったまま、白衣の袖口も乱さずに、目だけをわたしに向けて――
すぐに、答えを当てた。
「……小数の単位だな」
「えっ。わかるの?」
「10¹⁸分の1。漢字文化圏の極少数。“刹那”。……数学者の命名らしい」
「さすが教授!天才すぎ!」
わたしがそう言うと、教授はほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、というより、誤差を許容した顔。
その“ほんの少し”が、なぜだか嬉しかった。
だって、この病院では――
わたしは「わたし」じゃなくなることがあるから。
わたしの病気は、ひどく不公平だ。
本人の努力とか、根性とか、気合いとか、そういうものが、ぜんぶ無力。
普通に話していて、普通に笑っていて、普通に「今日の夕飯なにかな」って考えている。
それなのに次の瞬間、世界がひっくり返る。
わたしの喉から出てくる声が、わたしの声じゃなくなる。
目の奥に“わたしじゃない何か”が居座って、体を勝手に動かす。
暴言。暴力。破壊。
止まらない。収まらない。終わらない。
「悪魔みたいだ」
誰かがそう呟いたのを、わたしは聞いたことがある。
否定はできなかった。
ただ、その悪魔は――
いちばん最初に、わたしの“日常”を食べた。
それから少しずつ、少しずつ、
わたしの“刹那”を伸ばしていった。
普通でいられる時間が減って、
悪魔の時間が増えていく。
それでも、病院の人たちはわたしを嫌いにならなかった。
調理スタッフさんは、こっそりプリンを一個増やしてくれた。
清掃のおばちゃんは、わたしが泣きそうな顔をしてると、床を磨きながら鼻歌を大きくした。
看護師さんたちは、「刹那ちゃん、また怒られたね」って笑ってくれた。
院長先生は、わたしと一緒に散歩をした。
わたしは知ってる。
たぶんこれは、優しさの形が変わっただけだ。
普通なら、誰かを怖がって距離を取る。
でもこの病院の人たちは、距離を取らなかった。
だからこそ、わたしは――
「明るい子」でいようと思った。
暗くしてたら、申し訳なくて、やってられない。
春川教授は、わたしのことを“患者”として見ていた。
最初は、たぶんそう。
あの目は、観察の目だ。研究者の目だ。
怖いくらい冷たくて、怖いくらい正確で、怖いくらい優しい。
でも、ある日。
わたしは教授の手元の資料を見てしまった。
脳波。CT断面。血液検査。投薬記録。副作用のメモ。
何百枚、何千枚。紙の束は、わたしの身体の輪郭を作っていた。
でも――紙の束の中に、わたしはいなかった。
「……教授、これ、全部わたし?」
わたしがそう言うと、教授は目を逸らさずに答えた。
「君の“脳”だ。君そのものではない」
その返事が、なぜだか怖かった。
でも、次の言葉で、もっと怖くなった。
「……だから作る」
「え?」
「君を“壊している何か”を、数式のように定義して、
再現して、切り分けて、解体する。
そうすれば、治せる」
それは、希望の言葉のはずだった。
だけど、わたしは思ってしまった。
――この人、ほんとに、全部壊してでも治しそう。
――そしてその顔で、ぜんぶ正しいと言い切りそう。
怖い。
でも、同じくらい、頼もしい。
その矛盾に、わたしは笑ってしまった。
「教授。もしわたし、実験動物みたいになっても、嫌いにならない?」
教授は一秒だけ黙った。
そして、淡々と答えた。
「嫌いになる理由がない」
……ずるい。
そんな言い方、ずるい。
“好きだ”って言わないくせに、
“嫌いじゃない”で、わたしの心の逃げ道を塞ぐ。
それでいて、
わたしが少しだけ笑うと、
ほんの少しだけ――教授も“誤差”みたいに笑う。
いつからだろう。
わたしが教授の顔を見るだけで、安心するようになったのは。
時間は、減っていった。
普通の時間が減って、悪魔の時間が増える。
発作が起きていない間、わたしは病院を歩き回った。
歩いて、歩いて、歩いて、
誰かに「刹那ちゃん」って呼んでもらわないと、
自分が消えてしまいそうだったから。
教授の研究室の前を通るときだけは、歩幅が小さくなった。
中から聞こえるペンの音、紙をめくる音、キーボードの音。
あの音が続いている間は、世界がまだ壊れ切っていない気がした。
でも、その音も、いつか止まる。
わたしは、それを知っていた。
“悪魔”がいなくなる方法は、たぶん一つしかない。
だから、最後のお願いを、言うことにした。
――怖いけど。
――恥ずかしいけど。
――わたしらしくないけど。
それでも、言わなきゃいけない気がした。
ある日の夕方。
廊下の窓がオレンジ色に染まる時間。
教授はいつも通り、病室に来た。
「今日はどうだ」
「今日はね、たぶん、まだ“わたし”」
「曖昧だな」
「うん。最近、わたしの“刹那”が短くなってるから」
教授は、わたしの顔を見た。
その視線はいつもと同じで、冷たくて、正確で、優しい。
でも、その奥に、何か焦りの影があった。
わたしは、その影が怖かった。
“天才”が焦るって、
つまり、天才でもどうにもならないってことだから。
だから、わたしは笑った。
笑って、笑って、
いちばん簡単な話題を選んだ。
「ねえ教授。刹那って、10¹⁸分の1の単位なんだよ」
「知っている」
「うん。じゃあさ――」
わたしは息を吸った。
「わたしがいなくなっても、今のわたしを忘れないで」
教授のまばたきが止まった。
「……どういう意味だ」
「そのまんま」
わたしは、笑うのをやめた。
怖いのを誤魔化すのをやめた。
「この一瞬の“刹那”を、忘れないで。
わたしが“わたし”だった時間を、忘れないで」
言った瞬間、涙が出そうになった。
でも泣いたら負けだと思った。
何に負けるのかは知らないけど、負けたくなかった。
教授は、しばらく黙った。
そして、いつも通り淡々と――
でも、どこか壊れそうな声で言った。
「……忘れない」
たったそれだけだった。
“愛してる”でも、“大事だ”でもなかった。
でも、その二つより、重かった。
わたしは、やっと笑えた。
「……うん。さすが教授。天才すぎ」
その夜、わたしは悪魔になった。
暴れた。叫んだ。物を壊した。
誰かを傷つけそうになった。
わたしは、遠くからそれを見ていた。
自分の体が、知らない誰かのものみたいに動くのを。
怖かった。
でも、その怖さの中で、ひとつだけ、安心した。
教授に、お願いを言えた。
教授が、忘れないと言った。
それだけでいい。
それだけで、わたしの“刹那”は、ちゃんと残る。
わたしが消えても、
あの人の中に、10¹⁸分の1みたいに小さくても、
誤差みたいに微細でも、
わたしが居られるなら。
――ねえ、教授。
人間って、
0と1じゃないよね。
白と黒じゃないよね。
好きと嫌いの間に、
たくさんの色がある。
だから、もし――
もし奇跡があるなら、
その色のどこかで、また会おう。
わたしは、
その時もきっと、こう言う。
「わたし、10/18生まれだから刹那なんですけど、教授は意味わかりますか?」
そして教授は、少しだけ口元を緩めて、
当たり前みたいに答えるんだ。
「……小数の単位だな」
「さすが教授!天才すぎ!」