笛吹直大は考える   作:ギアっちょ

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番外編3 本城二三男 ― 神に分類される快感

ワシは数学者だ。

世界を定義し、分割し、証明する職能。

 

だからこそ、ワシは最初から――“分類されること”の甘さを知っていた。

 

人は皆、心のどこかで「自分はどちら側か」を欲しがる。

凡庸か、非凡か。

群れか、選別か。

0か、1か。

 

彼――シックスは、その欲望に触れるのが上手すぎた。

 

 

初めて会った日、ワシは彼の前で、何一つ説明しておらん。

肩書も、論文も、研究テーマも。

 

それなのに彼は、ワシを見ただけで言った。

 

「あなたは賢い」

 

ただの賛辞ではない。

“選別”だった。

 

ワシはその瞬間、骨の芯まで冷えた。

同時に、胸の奥が熱くなった。

理解された、というより――採用されたのだ。

 

「賢い人間は、自分の賢さに飽きる。

 飽きて、世界を見下ろし始める。

 そして、見下ろした世界に“秩序”を与えたくなる」

 

その言葉は、ワシの人生をそのまま写し取っていた。

定理を一つ証明しても、二つ目の“空白”が現れる。

永遠に終わらない空腹。

 

彼は、その空腹に、名前を付けてくれた。

 

「あなたは、選ばれた側の人間だ。

 “新しい血族”の世界に近い」

 

ワシは呼吸を忘れた。

そうだ、ワシは“凡”ではない。

ワシは“平均”ではない。

ワシは、上位の式に入っていい側の存在だ。

 

分類される快感は、麻薬より速く脳に回る。

一度味わえば、二度と戻れん。

 

彼は続けた。

 

「悪意すら、道具になる。

 悪意は“汚い感情”ではない。

 ただの燃料だ。推進剤だ」

 

数学者の世界で悪意は“ノイズ”だ。誤差だ。

無視すべき揺らぎ。

 

だが彼は、誤差を嫌わない。

誤差を“利用”する。

誤差に意味を与える。

 

――神だ。

 

そう思った瞬間、ワシはもう、彼から目を離せなかった。

 

 

彼は、命令しない。

命令は下位の言語だ。

彼が使うのは、選択肢だ。

 

「あなたなら耐えられる」

「あなたなら理解できる」

「あなたなら、世界を一段“上”に押し上げられる」

 

ワシはそのたびに、胸の奥で“はい”と答えてしまう。

断ることは、自分が“賢い側”ではないと認めることになる。

 

そして――娘の話になった。

 

「あなたの娘は、脳が弱い」

 

それは診断ではなく、評価だった。

値踏みだ。

 

それなのにワシは、腹が立たなかった。

むしろ安心した。

神が“弱さ”を見抜いたという事実が、娘の不幸すらも式の中に入る証拠になるから。

 

「弱さは、強さの材料になる。

 破壊は、進化の手段になる」

 

その言葉を、美しいと思ってしまった。

恐ろしいことに。

 

「あなたは賢い。

 娘の“意味”を、あなたなら作れる」

 

意味。

数学者が最も欲するものだ。

偶然を必然に変える力。

 

刹那は10月18日生まれだった。

ワシは刹那=1/10¹⁸という極少数の単位から名付けた。

美しい命名だと自負していた。

 

神は、その命名の“美しさ”さえ、軽く撫でた。

 

「極少数。いい。

 極少数は、巨大な体系を支える」

 

ワシは息をのんだ。

娘の苦しみが体系を支える?

そんな理屈があるはずがない。

 

だが、理屈に見える言葉は、理屈そのものより強い。

“体系を支える”と分類された瞬間、娘の痛みはただの痛みではなくなる。

 

奉献。献上。供物。

そういう言葉が、ワシの中でゆっくり立ち上がってきた。

 

そして彼が小さな瓶を差し出したとき、

ワシはもう拒否できなかった。

 

拒否とは、神の体系から外れること。

外れた瞬間、ワシは“普通の父親”に戻る。

普通の父親は誤差の海に溺れる。

 

ワシは誤差が嫌いだった。

誤差に負ける自分が嫌いだった。

 

だからワシは瓶を受け取った。

小さな液体を、まるで証明の鍵のように握った。

 

その瞬間、ワシは心底喜んでいたのだと思う。

また、あのお方の役に立てると。

――まるで、娘を献上した時のように。

 

神は笑った。

優しくもなく、残酷でもなく、ただ当然の笑み。

“正しい式が立った”という顔。

 

 

そして――ここから先が、ワシの“落下”だ。

 

廊下を歩くたび、靴音が自分の頭蓋の内側を叩く。

コツ、コツ、コツ。

数字が並ぶときの規則正しさに似ている――だから落ち着くはずだった。

 

だが落ち着かない。

今日だけは。

 

ポケットの中で小瓶が指に当たる。

ガラスの冷たさが、まるで“結論”みたいに確かだった。

 

——父親は、娘を救う。

当たり前のはずのそれを、彼は“言葉”で研磨してみせた。

曇ったレンズを磨き、世界を一枚の図に落とし込むみたいに。

 

「あなたは、悪くない」

 

慰めではない。

分類だった。

 

良い父親/悪い父親。

救う者/見捨てる者。

強い者/弱い者。

“選ぶ者”/“選ばれる者”。

 

ワシはいつからだろう。

刹那の病を、刹那という人間そのものではなく、変数として扱うようになったのは。

 

娘の笑い声。

次の瞬間の豹変。

看護師の悲鳴。

抑え込まれる細い腕。

 

“彼女”がいた。確かにそこに。

 

なのに頭は勝手に式を立てる。

発作頻度、投薬量、副作用、予後。

人の声が数字に変換される。

それはワシの才能であり、呪いだった。

 

そしてシックスは、その呪いを“美しく”肯定した。

 

「あなたは見えている。

 他人が感情で見落とすものを、あなたは把握できる。

 ——それは強者の視野だ」

 

強者。

その単語が脳内で心地よく鳴った。

 

“弱い父親”ではない。

“感情で取り乱すだけの人間”ではない。

“救える側”に立てる。

 

その快感に、ワシは縋った。

縋ってしまった。

 

(これは実験ではない)

(治療だ)

(救命だ)

 

何度も繰り返すうち、言葉の表面が磨かれて鏡になる。

鏡の中でワシは、善人の顔をしていた。

 

病室の前で立ち止まる。

ガラス越しに刹那が見える。今日は発作がない。

雑誌をめくりながら鼻歌をうたっている。

 

その横顔を見た瞬間、胸の奥が締まった。

——人間だ。

——娘だ。

——“刹那”だ。

 

だからワシは急いで視線を外した。

 

見てしまうと戻れなくなる。

式が崩れる。

分類が崩れる。

“正しさ”が崩れる。

 

それが恐怖だった。

だからワシは、あえて冷たくなった。

冷たくなれば手が震えない。

 

(これは彼女のためだ)

(彼女が苦しむ時間を切り詰めるためだ)

(選ぶのは父親の責任だ)

 

——違う。

どこかで、もう一人のワシが囁いた。

 

(それはワシのためだ)

(ワシが“救えない父親”になるのが怖いだけだ)

(ワシのプライドのためだ)

 

その声を、ワシは踏み潰した。

踏み潰せた。

 

なぜなら、彼の言葉がその上に綺麗なラベルを貼るから。

 

「痛みは、進化の代償だ」

「苦しみは、選別の過程だ」

「あなたは、選ぶ側にいる」

 

……選ぶ側。

ワシは、選ぶ側に立ちたかった。

 

医師として。

父として。

“無力ではない者”として。

 

そうして気づかないうちに、ワシは落ちた。

 

刹那を、刹那ではなく“手段”として見る場所へ。

娘の人生を、ワシの結論のための“材料”として計上する場所へ。

 

病室の扉に手をかける。

小瓶の冷たさが、もう“正義”みたいに感じられた。

 

扉の向こうで、刹那が笑っている。

ワシに気づいて、顔を上げる。

 

「……お父さん?」

 

その一言で、世界が一瞬だけ戻りかけた。

式がほどけ、数字が溶け、ただの父親に戻りかけた。

 

——やめろ。

——ここでやめたら、ワシは何者にもなれない。

 

ワシは笑った。うまく笑えたかは覚えておらん。

ただ、口角を上げた。

 

「大丈夫だ、刹那。すぐ良くなる」

 

その言葉が、どれほど残酷だったか。

このときのワシは、まだ知らない。

 

“人を道具にした者”は、まず自分を騙す。

自分を騙せた者だけが、他人を騙せる。

 

そしてワシは、

自分を騙す才能だけは、誰よりも持っていた。

 

 

結果は、予想どおり“美しく”はならなかった。

 

娘は壊れていった。

発作は悪魔になり、病院は戦場になり、

彼女の“刹那”は短くなるばかりだった。

 

ワシは知っていた。

これはワシの手で起きている。

ワシの手で、娘の人生を削っている。

 

――それでも。

 

あのお方の顔が脳裏に浮かぶたび、ワシは思ってしまう。

「きっとこれは必要だ」

「きっとこれは、上位の目的に繋がる」

「きっとこれは、ワシが賢い側である証明だ」

 

疑いは下位の人間が持つ。

ワシは賢い。

ワシは選ばれた。

 

そう言い聞かせるたび、罪悪感が“誤差”になっていく。

誤差は切り捨てられる。

切り捨てれば式は整う。

 

――ワシは、自分の娘を誤差にした。

 

この気づきが遅すぎた。

遅すぎて、もう戻せなかった。

 

 

ワシは失踪した。

肩書も研究室も捨てた。いや、捨てたのではない。

体系から“落とされた”のだ。

 

段ボールの家を作った。四階建て。

紙は軽い。軽いから積める。積めるから建つ。

建つから住める。

 

だがワシの中身は、住めない。

ワシの中身は、ずっとあのお方のところに置いてきた。

 

夜、街灯がつく。

0と1に分かれる光。

その二値の安心感が、心を刺す。

 

刹那。

極少数。

ワシが名付けたはずの、最小の時間。

 

その時間を、ワシは神に差し出した。

 

 

ある日、少女が現れた。

いや、少女ではない。腹の底を覗き込む目をした――

“探偵の影”を纏う者。

 

ワシは彼女を見るなり確信した。

この子は、神を数式ではなく現実として知っている。

 

ワシは笑った。笑うしかなかった。

そして震えた。

 

ワシが欲しかったのは赦しではない。

本当は――確認だ。

 

「……刹那は、幸せだったと。

 そう言ってくれませんか」

 

彼女は答えない。

沈黙がワシの式を崩す。

 

沈黙は分類できない。

分類できないものは、あのお方の言葉でも支配できない。

 

その瞬間、ワシは初めて――神を恨んだ。

 

いや、違う。

神を恨んでいる自分を、恨んだ。

 

ワシは最後まで、神に魅入られている。

魅入られたまま、娘を失った。

 

「悪いのは……全部……ワシの弱さだ」

 

その結論に逃げ込む。

神は悪くない。

悪いのはワシ。

ワシが弱かった。

選ばれた側でいる快感に負けた。

 

そう言えば、神は守れる。

守れれば、ワシはまだ信者でいられる。

信者でいれば世界は二値化される。

二値化されれば、ワシは狂わずに済む。

 

――狂っているのに。

 

ワシは、娘の名を心の中で一度だけ呼んだ。

 

刹那。

1/10¹⁸。極少数。

ワシが奪った、最小の時間。

 

そしてワシは、

その時間にすら届かないまま、

静かに視界を閉じた。

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