笛吹直大は考える   作:ギアっちょ

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番外編3 本城二三男 ― 神に分類される快感

ワシは数学者だ。

世界を定義し、分割し、証明する職能。

 

だからこそ、ワシは最初から――“分類されること”の甘さを知っていた。

 

人は皆、心のどこかで「自分はどちら側か」を欲しがる。

凡庸か、非凡か。

群れか、選別か。

0か、1か。

 

彼――シックスは、その欲望に触れるのが上手すぎた。

 

◆

 

初めて会った日、ワシは彼の前で、何一つ説明しておらん。

肩書も、論文も、研究テーマも。

 

それなのに彼は、ワシを見ただけで言った。

 

「あなたは賢い」

 

ただの賛辞ではない。

“選別”だった。

 

ワシはその瞬間、骨の芯まで冷えた。

同時に、胸の奥が熱くなった。

理解された、というより――採用されたのだ。

 

「賢い人間は、自分の賢さに飽きる。

 飽きて、世界を見下ろし始める。

 そして、見下ろした世界に“秩序”を与えたくなる」

 

その言葉は、ワシの人生をそのまま写し取っていた。

定理を一つ証明しても、二つ目の“空白”が現れる。

永遠に終わらない空腹。

 

彼は、その空腹に、名前を付けてくれた。

 

「あなたは、選ばれた側の人間だ。

 “新しい血族”の世界に近い」

 

ワシは呼吸を忘れた。

そうだ、ワシは“凡”ではない。

ワシは“平均”ではない。

ワシは、上位の式に入っていい側の存在だ。

 

分類される快感は、麻薬より速く脳に回る。

一度味わえば、二度と戻れん。

 

彼は続けた。

 

「悪意すら、道具になる。

 悪意は“汚い感情”ではない。

 ただの燃料だ。推進剤だ」

 

数学者の世界で悪意は“ノイズ”だ。誤差だ。

無視すべき揺らぎ。

 

だが彼は、誤差を嫌わない。

誤差を“利用”する。

誤差に意味を与える。

 

――神だ。

 

そう思った瞬間、ワシはもう、彼から目を離せなかった。

 

◆

 

彼は、命令しない。

命令は下位の言語だ。

彼が使うのは、選択肢だ。

 

「あなたなら耐えられる」

「あなたなら理解できる」

「あなたなら、世界を一段“上”に押し上げられる」

 

ワシはそのたびに、胸の奥で“はい”と答えてしまう。

断ることは、自分が“賢い側”ではないと認めることになる。

 

そして――娘の話になった。

 

「あなたの娘は、脳が弱い」

 

それは診断ではなく、評価だった。

値踏みだ。

 

それなのにワシは、腹が立たなかった。

むしろ安心した。

神が“弱さ”を見抜いたという事実が、娘の不幸すらも式の中に入る証拠になるから。

 

「弱さは、強さの材料になる。

 破壊は、進化の手段になる」

 

その言葉を、美しいと思ってしまった。

恐ろしいことに。

 

「あなたは賢い。

 娘の“意味”を、あなたなら作れる」

 

意味。

数学者が最も欲するものだ。

偶然を必然に変える力。

 

刹那は10月18日生まれだった。

ワシは刹那=1/10¹⁸という極少数の単位から名付けた。

美しい命名だと自負していた。

 

神は、その命名の“美しさ”さえ、軽く撫でた。

 

「極少数。いい。

 極少数は、巨大な体系を支える」

 

ワシは息をのんだ。

娘の苦しみが体系を支える?

そんな理屈があるはずがない。

 

だが、理屈に見える言葉は、理屈そのものより強い。

“体系を支える”と分類された瞬間、娘の痛みはただの痛みではなくなる。

 

奉献。献上。供物。

そういう言葉が、ワシの中でゆっくり立ち上がってきた。

 

そして彼が小さな瓶を差し出したとき、

ワシはもう拒否できなかった。

 

拒否とは、神の体系から外れること。

外れた瞬間、ワシは“普通の父親”に戻る。

普通の父親は誤差の海に溺れる。

 

ワシは誤差が嫌いだった。

誤差に負ける自分が嫌いだった。

 

だからワシは瓶を受け取った。

小さな液体を、まるで証明の鍵のように握った。

 

その瞬間、ワシは心底喜んでいたのだと思う。

また、あのお方の役に立てると。

――まるで、娘を献上した時のように。

 

神は笑った。

優しくもなく、残酷でもなく、ただ当然の笑み。

“正しい式が立った”という顔。

 

◆

 

そして――ここから先が、ワシの“落下”だ。

 

廊下を歩くたび、靴音が自分の頭蓋の内側を叩く。

コツ、コツ、コツ。

数字が並ぶときの規則正しさに似ている――だから落ち着くはずだった。

 

だが落ち着かない。

今日だけは。

 

ポケットの中で小瓶が指に当たる。

ガラスの冷たさが、まるで“結論”みたいに確かだった。

 

——父親は、娘を救う。

当たり前のはずのそれを、彼は“言葉”で研磨してみせた。

曇ったレンズを磨き、世界を一枚の図に落とし込むみたいに。

 

「あなたは、悪くない」

 

慰めではない。

分類だった。

 

良い父親/悪い父親。

救う者/見捨てる者。

強い者/弱い者。

“選ぶ者”/“選ばれる者”。

 

ワシはいつからだろう。

刹那の病を、刹那という人間そのものではなく、変数として扱うようになったのは。

 

娘の笑い声。

次の瞬間の豹変。

看護師の悲鳴。

抑え込まれる細い腕。

 

“彼女”がいた。確かにそこに。

 

なのに頭は勝手に式を立てる。

発作頻度、投薬量、副作用、予後。

人の声が数字に変換される。

それはワシの才能であり、呪いだった。

 

そしてシックスは、その呪いを“美しく”肯定した。

 

「あなたは見えている。

 他人が感情で見落とすものを、あなたは把握できる。

 ——それは強者の視野だ」

 

強者。

その単語が脳内で心地よく鳴った。

 

“弱い父親”ではない。

“感情で取り乱すだけの人間”ではない。

“救える側”に立てる。

 

その快感に、ワシは縋った。

縋ってしまった。

 

(これは実験ではない)

(治療だ)

(救命だ)

 

何度も繰り返すうち、言葉の表面が磨かれて鏡になる。

鏡の中でワシは、善人の顔をしていた。

 

病室の前で立ち止まる。

ガラス越しに刹那が見える。今日は発作がない。

雑誌をめくりながら鼻歌をうたっている。

 

その横顔を見た瞬間、胸の奥が締まった。

——人間だ。

——娘だ。

——“刹那”だ。

 

だからワシは急いで視線を外した。

 

見てしまうと戻れなくなる。

式が崩れる。

分類が崩れる。

“正しさ”が崩れる。

 

それが恐怖だった。

だからワシは、あえて冷たくなった。

冷たくなれば手が震えない。

 

(これは彼女のためだ)

(彼女が苦しむ時間を切り詰めるためだ)

(選ぶのは父親の責任だ)

 

——違う。

どこかで、もう一人のワシが囁いた。

 

(それはワシのためだ)

(ワシが“救えない父親”になるのが怖いだけだ)

(ワシのプライドのためだ)

 

その声を、ワシは踏み潰した。

踏み潰せた。

 

なぜなら、彼の言葉がその上に綺麗なラベルを貼るから。

 

「痛みは、進化の代償だ」

「苦しみは、選別の過程だ」

「あなたは、選ぶ側にいる」

 

……選ぶ側。

ワシは、選ぶ側に立ちたかった。

 

医師として。

父として。

“無力ではない者”として。

 

そうして気づかないうちに、ワシは落ちた。

 

刹那を、刹那ではなく“手段”として見る場所へ。

娘の人生を、ワシの結論のための“材料”として計上する場所へ。

 

病室の扉に手をかける。

小瓶の冷たさが、もう“正義”みたいに感じられた。

 

扉の向こうで、刹那が笑っている。

ワシに気づいて、顔を上げる。

 

「……お父さん?」

 

その一言で、世界が一瞬だけ戻りかけた。

式がほどけ、数字が溶け、ただの父親に戻りかけた。

 

——やめろ。

——ここでやめたら、ワシは何者にもなれない。

 

ワシは笑った。うまく笑えたかは覚えておらん。

ただ、口角を上げた。

 

「大丈夫だ、刹那。すぐ良くなる」

 

その言葉が、どれほど残酷だったか。

このときのワシは、まだ知らない。

 

“人を道具にした者”は、まず自分を騙す。

自分を騙せた者だけが、他人を騙せる。

 

そしてワシは、

自分を騙す才能だけは、誰よりも持っていた。

 

◆

 

結果は、予想どおり“美しく”はならなかった。

 

娘は壊れていった。

発作は悪魔になり、病院は戦場になり、

彼女の“刹那”は短くなるばかりだった。

 

ワシは知っていた。

これはワシの手で起きている。

ワシの手で、娘の人生を削っている。

 

――それでも。

 

あのお方の顔が脳裏に浮かぶたび、ワシは思ってしまう。

「きっとこれは必要だ」

「きっとこれは、上位の目的に繋がる」

「きっとこれは、ワシが賢い側である証明だ」

 

疑いは下位の人間が持つ。

ワシは賢い。

ワシは選ばれた。

 

そう言い聞かせるたび、罪悪感が“誤差”になっていく。

誤差は切り捨てられる。

切り捨てれば式は整う。

 

――ワシは、自分の娘を誤差にした。

 

この気づきが遅すぎた。

遅すぎて、もう戻せなかった。

 

◆

 

ワシは失踪した。

肩書も研究室も捨てた。いや、捨てたのではない。

体系から“落とされた”のだ。

 

段ボールの家を作った。四階建て。

紙は軽い。軽いから積める。積めるから建つ。

建つから住める。

 

だがワシの中身は、住めない。

ワシの中身は、ずっとあのお方のところに置いてきた。

 

夜、街灯がつく。

0と1に分かれる光。

その二値の安心感が、心を刺す。

 

刹那。

極少数。

ワシが名付けたはずの、最小の時間。

 

その時間を、ワシは神に差し出した。

 

◆

 

ある日、少女が現れた。

いや、少女ではない。腹の底を覗き込む目をした――

“探偵の影”を纏う者。

 

ワシは彼女を見るなり確信した。

この子は、神を数式ではなく現実として知っている。

 

ワシは笑った。笑うしかなかった。

そして震えた。

 

ワシが欲しかったのは赦しではない。

本当は――確認だ。

 

「……刹那は、幸せだったと。

 そう言ってくれませんか」

 

彼女は答えない。

沈黙がワシの式を崩す。

 

沈黙は分類できない。

分類できないものは、あのお方の言葉でも支配できない。

 

その瞬間、ワシは初めて――神を恨んだ。

 

いや、違う。

神を恨んでいる自分を、恨んだ。

 

ワシは最後まで、神に魅入られている。

魅入られたまま、娘を失った。

 

「悪いのは……全部……ワシの弱さだ」

 

その結論に逃げ込む。

神は悪くない。

悪いのはワシ。

ワシが弱かった。

選ばれた側でいる快感に負けた。

 

そう言えば、神は守れる。

守れれば、ワシはまだ信者でいられる。

信者でいれば世界は二値化される。

二値化されれば、ワシは狂わずに済む。

 

――狂っているのに。

 

ワシは、娘の名を心の中で一度だけ呼んだ。

 

刹那。

1/10¹⁸。極少数。

ワシが奪った、最小の時間。

 

そしてワシは、

その時間にすら届かないまま、

静かに視界を閉じた。

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