ワシは数学者だ。
世界を定義し、分割し、証明する職能。
だからこそ、ワシは最初から――“分類されること”の甘さを知っていた。
人は皆、心のどこかで「自分はどちら側か」を欲しがる。
凡庸か、非凡か。
群れか、選別か。
0か、1か。
彼――シックスは、その欲望に触れるのが上手すぎた。
◆
初めて会った日、ワシは彼の前で、何一つ説明しておらん。
肩書も、論文も、研究テーマも。
それなのに彼は、ワシを見ただけで言った。
「あなたは賢い」
ただの賛辞ではない。
“選別”だった。
ワシはその瞬間、骨の芯まで冷えた。
同時に、胸の奥が熱くなった。
理解された、というより――採用されたのだ。
「賢い人間は、自分の賢さに飽きる。
飽きて、世界を見下ろし始める。
そして、見下ろした世界に“秩序”を与えたくなる」
その言葉は、ワシの人生をそのまま写し取っていた。
定理を一つ証明しても、二つ目の“空白”が現れる。
永遠に終わらない空腹。
彼は、その空腹に、名前を付けてくれた。
「あなたは、選ばれた側の人間だ。
“新しい血族”の世界に近い」
ワシは呼吸を忘れた。
そうだ、ワシは“凡”ではない。
ワシは“平均”ではない。
ワシは、上位の式に入っていい側の存在だ。
分類される快感は、麻薬より速く脳に回る。
一度味わえば、二度と戻れん。
彼は続けた。
「悪意すら、道具になる。
悪意は“汚い感情”ではない。
ただの燃料だ。推進剤だ」
数学者の世界で悪意は“ノイズ”だ。誤差だ。
無視すべき揺らぎ。
だが彼は、誤差を嫌わない。
誤差を“利用”する。
誤差に意味を与える。
――神だ。
そう思った瞬間、ワシはもう、彼から目を離せなかった。
◆
彼は、命令しない。
命令は下位の言語だ。
彼が使うのは、選択肢だ。
「あなたなら耐えられる」
「あなたなら理解できる」
「あなたなら、世界を一段“上”に押し上げられる」
ワシはそのたびに、胸の奥で“はい”と答えてしまう。
断ることは、自分が“賢い側”ではないと認めることになる。
そして――娘の話になった。
「あなたの娘は、脳が弱い」
それは診断ではなく、評価だった。
値踏みだ。
それなのにワシは、腹が立たなかった。
むしろ安心した。
神が“弱さ”を見抜いたという事実が、娘の不幸すらも式の中に入る証拠になるから。
「弱さは、強さの材料になる。
破壊は、進化の手段になる」
その言葉を、美しいと思ってしまった。
恐ろしいことに。
「あなたは賢い。
娘の“意味”を、あなたなら作れる」
意味。
数学者が最も欲するものだ。
偶然を必然に変える力。
刹那は10月18日生まれだった。
ワシは刹那=1/10¹⁸という極少数の単位から名付けた。
美しい命名だと自負していた。
神は、その命名の“美しさ”さえ、軽く撫でた。
「極少数。いい。
極少数は、巨大な体系を支える」
ワシは息をのんだ。
娘の苦しみが体系を支える?
そんな理屈があるはずがない。
だが、理屈に見える言葉は、理屈そのものより強い。
“体系を支える”と分類された瞬間、娘の痛みはただの痛みではなくなる。
奉献。献上。供物。
そういう言葉が、ワシの中でゆっくり立ち上がってきた。
そして彼が小さな瓶を差し出したとき、
ワシはもう拒否できなかった。
拒否とは、神の体系から外れること。
外れた瞬間、ワシは“普通の父親”に戻る。
普通の父親は誤差の海に溺れる。
ワシは誤差が嫌いだった。
誤差に負ける自分が嫌いだった。
だからワシは瓶を受け取った。
小さな液体を、まるで証明の鍵のように握った。
その瞬間、ワシは心底喜んでいたのだと思う。
また、あのお方の役に立てると。
――まるで、娘を献上した時のように。
神は笑った。
優しくもなく、残酷でもなく、ただ当然の笑み。
“正しい式が立った”という顔。
◆
そして――ここから先が、ワシの“落下”だ。
廊下を歩くたび、靴音が自分の頭蓋の内側を叩く。
コツ、コツ、コツ。
数字が並ぶときの規則正しさに似ている――だから落ち着くはずだった。
だが落ち着かない。
今日だけは。
ポケットの中で小瓶が指に当たる。
ガラスの冷たさが、まるで“結論”みたいに確かだった。
——父親は、娘を救う。
当たり前のはずのそれを、彼は“言葉”で研磨してみせた。
曇ったレンズを磨き、世界を一枚の図に落とし込むみたいに。
「あなたは、悪くない」
慰めではない。
分類だった。
良い父親/悪い父親。
救う者/見捨てる者。
強い者/弱い者。
“選ぶ者”/“選ばれる者”。
ワシはいつからだろう。
刹那の病を、刹那という人間そのものではなく、変数として扱うようになったのは。
娘の笑い声。
次の瞬間の豹変。
看護師の悲鳴。
抑え込まれる細い腕。
“彼女”がいた。確かにそこに。
なのに頭は勝手に式を立てる。
発作頻度、投薬量、副作用、予後。
人の声が数字に変換される。
それはワシの才能であり、呪いだった。
そしてシックスは、その呪いを“美しく”肯定した。
「あなたは見えている。
他人が感情で見落とすものを、あなたは把握できる。
——それは強者の視野だ」
強者。
その単語が脳内で心地よく鳴った。
“弱い父親”ではない。
“感情で取り乱すだけの人間”ではない。
“救える側”に立てる。
その快感に、ワシは縋った。
縋ってしまった。
(これは実験ではない)
(治療だ)
(救命だ)
何度も繰り返すうち、言葉の表面が磨かれて鏡になる。
鏡の中でワシは、善人の顔をしていた。
病室の前で立ち止まる。
ガラス越しに刹那が見える。今日は発作がない。
雑誌をめくりながら鼻歌をうたっている。
その横顔を見た瞬間、胸の奥が締まった。
——人間だ。
——娘だ。
——“刹那”だ。
だからワシは急いで視線を外した。
見てしまうと戻れなくなる。
式が崩れる。
分類が崩れる。
“正しさ”が崩れる。
それが恐怖だった。
だからワシは、あえて冷たくなった。
冷たくなれば手が震えない。
(これは彼女のためだ)
(彼女が苦しむ時間を切り詰めるためだ)
(選ぶのは父親の責任だ)
——違う。
どこかで、もう一人のワシが囁いた。
(それはワシのためだ)
(ワシが“救えない父親”になるのが怖いだけだ)
(ワシのプライドのためだ)
その声を、ワシは踏み潰した。
踏み潰せた。
なぜなら、彼の言葉がその上に綺麗なラベルを貼るから。
「痛みは、進化の代償だ」
「苦しみは、選別の過程だ」
「あなたは、選ぶ側にいる」
……選ぶ側。
ワシは、選ぶ側に立ちたかった。
医師として。
父として。
“無力ではない者”として。
そうして気づかないうちに、ワシは落ちた。
刹那を、刹那ではなく“手段”として見る場所へ。
娘の人生を、ワシの結論のための“材料”として計上する場所へ。
病室の扉に手をかける。
小瓶の冷たさが、もう“正義”みたいに感じられた。
扉の向こうで、刹那が笑っている。
ワシに気づいて、顔を上げる。
「……お父さん?」
その一言で、世界が一瞬だけ戻りかけた。
式がほどけ、数字が溶け、ただの父親に戻りかけた。
——やめろ。
——ここでやめたら、ワシは何者にもなれない。
ワシは笑った。うまく笑えたかは覚えておらん。
ただ、口角を上げた。
「大丈夫だ、刹那。すぐ良くなる」
その言葉が、どれほど残酷だったか。
このときのワシは、まだ知らない。
“人を道具にした者”は、まず自分を騙す。
自分を騙せた者だけが、他人を騙せる。
そしてワシは、
自分を騙す才能だけは、誰よりも持っていた。
◆
結果は、予想どおり“美しく”はならなかった。
娘は壊れていった。
発作は悪魔になり、病院は戦場になり、
彼女の“刹那”は短くなるばかりだった。
ワシは知っていた。
これはワシの手で起きている。
ワシの手で、娘の人生を削っている。
――それでも。
あのお方の顔が脳裏に浮かぶたび、ワシは思ってしまう。
「きっとこれは必要だ」
「きっとこれは、上位の目的に繋がる」
「きっとこれは、ワシが賢い側である証明だ」
疑いは下位の人間が持つ。
ワシは賢い。
ワシは選ばれた。
そう言い聞かせるたび、罪悪感が“誤差”になっていく。
誤差は切り捨てられる。
切り捨てれば式は整う。
――ワシは、自分の娘を誤差にした。
この気づきが遅すぎた。
遅すぎて、もう戻せなかった。
◆
ワシは失踪した。
肩書も研究室も捨てた。いや、捨てたのではない。
体系から“落とされた”のだ。
段ボールの家を作った。四階建て。
紙は軽い。軽いから積める。積めるから建つ。
建つから住める。
だがワシの中身は、住めない。
ワシの中身は、ずっとあのお方のところに置いてきた。
夜、街灯がつく。
0と1に分かれる光。
その二値の安心感が、心を刺す。
刹那。
極少数。
ワシが名付けたはずの、最小の時間。
その時間を、ワシは神に差し出した。
◆
ある日、少女が現れた。
いや、少女ではない。腹の底を覗き込む目をした――
“探偵の影”を纏う者。
ワシは彼女を見るなり確信した。
この子は、神を数式ではなく現実として知っている。
ワシは笑った。笑うしかなかった。
そして震えた。
ワシが欲しかったのは赦しではない。
本当は――確認だ。
「……刹那は、幸せだったと。
そう言ってくれませんか」
彼女は答えない。
沈黙がワシの式を崩す。
沈黙は分類できない。
分類できないものは、あのお方の言葉でも支配できない。
その瞬間、ワシは初めて――神を恨んだ。
いや、違う。
神を恨んでいる自分を、恨んだ。
ワシは最後まで、神に魅入られている。
魅入られたまま、娘を失った。
「悪いのは……全部……ワシの弱さだ」
その結論に逃げ込む。
神は悪くない。
悪いのはワシ。
ワシが弱かった。
選ばれた側でいる快感に負けた。
そう言えば、神は守れる。
守れれば、ワシはまだ信者でいられる。
信者でいれば世界は二値化される。
二値化されれば、ワシは狂わずに済む。
――狂っているのに。
ワシは、娘の名を心の中で一度だけ呼んだ。
刹那。
1/10¹⁸。極少数。
ワシが奪った、最小の時間。
そしてワシは、
その時間にすら届かないまま、
静かに視界を閉じた。