私はベアトリクス   作:Beatrix

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私はベアトリクス

月明かりが、冷たく石畳を照らし出していた。

世界はその女を『武神』と呼ぶ。

エルフのベアトリクス。

剣を極めし者。武の頂。

世間一般に知られる彼女の経歴は、こうだ。卓越した才能を持ったエルフの剣士であり、百余年の時を剣に捧げ、数多の戦場を渡り歩いてきた生ける伝説。

だが、それは全て偽りだ。

ベアトリクスは、街道を歩きながら、自身の纏う「武神」という仮面の手触りを確かめるように、小さく息を吐いた。

百年のエルフ?

笑わせる。そんな短い時間で、彼女が今の領域に達したと思われているのなら、それは世辞としては上等だが、真実としてはあまりに浅はかだ。

彼女の生きた時間は、そんな可愛らしい数字では収まらない。

歴史書が何度書き換わったか。国がいくつ興り、そして滅んだか。

今の彼女を形成しているのは、悠久とも呼べる時と、その果てに積み上げられた虚無と執着の地層である。

『武神ベアトリクス』という配役は、今の時代を生きやすくするための、あるいは特定の目的を遂行するための、ただの『設定』に過ぎない。

「……血の臭い」

不意に、風が変わった。

夜の静寂に紛れ、鉄錆と生臭い臓腑の臭気が運ばれてくる。

場所はミドガル王国の辺境。王都へと続く街道の裏手、手配書の常連たちが根城にするような森の奥深くである。

ベアトリクスは足を止めなかった。むしろ、その歩調は変わらぬまま、死臭の発生源へと向かう。

盗賊か、魔獣か。どちらにせよ、彼女の道行きを阻むものではない。あるいは、退屈な夜の余興にはなるかもしれなかった。

木々が開けた場所に、その光景は広がっていた。

そこにあったのは、凄惨な芸術だった。

数十人の男たちが、地面に突っ伏している。あるいは木に縫い付けられ、あるいは首から上があらぬ方向を向いて。

盗賊団だ。身なりや武装からして、それなりに名の知れた集団だったのだろう。

だが、今の彼らはただの肉塊に過ぎない。

驚くべきは、その手際だ。

争った形跡が極端に少ない。恐怖する間もなく、反撃する暇もなく、ただ一方的に命を刈り取られた痕跡。

そして、死体の山の中心に、小さな影が立っていた。

月光を背負い、夜風に黒いコート(ボロ布を継ぎ接ぎしたもののようだが、シルエットは洗練されていた)を靡かせる、子供。

年齢は十歳前後だろうか。

顔の半分を布で隠しているが、その瞳は異様な光を放っていた。

影は、手にした金貨袋をチャリと鳴らし、月に向かって何事かを呟いている。

その姿は滑稽でありながら、同時に背筋が凍るような不気味さを孕んでいた。

「……ふむ」

ベアトリクスがわずかに気配を漏らす。

否、意図的に漏らしたのだ。

その瞬間、少年の肩がピクリと跳ねた。

振り返った少年の目が、ベアトリクスを捉える。

普通の子供なら、夜道で武装したエルフに出会えば悲鳴を上げるか、すくみ上るだろう。

普通の戦士なら、彼女から立ち昇る圧倒的な『格』を感じ取り、警戒の色を見せるだろう。

だが、この少年は違った。

「――ほう」

少年の口から漏れたのは、歓喜の吐息だった。

隠しきれない興奮。獲物を見つけた猛獣のような、あるいは新しい玩具を見つけた無邪気な子供のような、純粋な殺意と好奇心。

(強そうなのが来た……!)

ベアトリクスには聞こえないはずの少年の心の声が、その表情から痛いほどに伝わってくる。

少年は金貨袋を懐にしまうと、腰に差した粗末な剣――量産品の安物だ――に手をかけた。

「我が名はスタイリッシュ盗賊スレイヤー……」

少年は低く、作ったような声で名乗った。

明らかに偽名。それも、即興で考えたような珍妙な響き。

だが、その身から溢れ出る魔力は、ベアトリクスの眉をわずかに動かさせるものだった。

「夜の帳に紛れ、悪を断つ影……。貴様もまた、我が剣の錆となりたいか?」

言葉の意味は不明瞭だが、敵意だけは明確だった。

彼はベアトリクスを、ただの通りすがりのエルフではなく、『試すべき壁』として認識したのだ。

今の彼はハイになっている。

盗賊たちを一方的に蹂躙し、全能感に浸っていたところに現れた、底知れない強者。

少年にとって、それは危険信号ではなく、ボーナスステージの合図だった。

ベアトリクスは無言で、腰の剣に手を添えた。

抜かない。ただ、鯉口に親指をかけるだけ。

それが、開始の合図だった。

「ヒャッハー!」

先ほどのクールな口上はどこへやら、少年は奇声を上げて地面を蹴った。

速い。

十歳の肉体が出せる速度ではない。

足裏に圧縮した魔力を爆発させ、瞬時にトップスピードに乗る加速。

人間という種の限界を、魔力操作という一点において凌駕している。

一瞬で間合いが潰れた。

少年の剣が、ベアトリクスの首を狙って下から上へと跳ね上がる。

鋭い。迷いがない。人を殺すことに一切の躊躇がない軌道。

だが。

「軽い」

ベアトリクスは鞘に収まったままの剣を、わずかに傾けただけだった。

カォン、と硬質な音が響く。

少年の剣は、ベアトリクスの鞘の先端によって軌道を逸らされていた。

「ッ!?」

少年の目が驚愕に見開かれる。

必殺のタイミングだったはずだ。死角からの、速度と奇襲を兼ね備えた一撃。

それを、あくびが出るほど緩慢な動作で――しかし結果としては神速で――いなされた。

少年は止まらない。

弾かれた勢いを利用し、空中で回転。遠心力を乗せた二撃目を叩き込む。

今度は魔力を剣身に流し込み、切れ味を増強させている。

鉄すらバターのように断つ刃。

ベアトリクスは一歩、左足を引いた。

それだけで、刃は彼女の鼻先数ミリを空振りする。

風圧が金髪を揺らすが、それだけだ。

(なんだコイツ……!?)

少年の思考が加速する。

彼はシド・カゲノー。前世の記憶を持ち、幼少期から狂気的なまでの修行を積み重ねてきた、陰の実力者志望。

この世界に来てから、同年代はもちろん、大人の剣士であっても彼に触れられた者はいなかった。

盗賊たちは止まって見えた。

魔獣ですらスローモーションだった。

なのに、このエルフは。

「そこ」

ベアトリクスの声は、耳元で囁かれたようだった。

気づけば、彼女は少年の懐に入り込んでいた。

いつ動いた?

視認できなかった。予備動作が全くない。

まるで最初からそこにいたかのように、彼女は少年の密着距離に存在していた。

ドッ、と腹部に衝撃が走る。

鞘の尻で軽く突かれただけだ。

だが、その衝撃は少年の内臓を揺らし、呼吸を一瞬で停止させた。

「が、はっ……!」

少年が吹き飛ぶ。

地面を二転三転し、受け身をとってどうにか立ち上がる。

だが、膝が笑っていた。

魔力循環が乱されている。あの一撃で、体内の魔力の流れに干渉されたのだ。

(強い……! 本物だ……!)

恐怖よりも先に、シドの脳内を満たしたのは歓喜だった。

これだ。求めていたのはこれだ。

圧倒的な強者。理不尽なまでの実力差。

これを覆してこそ、あるいはこれに敗北してこそ、物語は盛り上がる。

「まだだ……まだ終わらんよ……!」

シドは口元の血を拭い、ニヤリと笑った。

その笑顔は、痛みに歪んでいるのではなく、純粋に楽しんでいる狂人のそれだった。

彼は魔力を練り上げる。

今の彼にできる最大出力。肉体が悲鳴を上げるギリギリのラインまで、魔力を圧縮する。

青白い燐光が少年の体を包み込んだ。

周囲の大気が震え、地面の小石が浮き上がる。

「我が奥義……見せてやる」

十歳の子供が発していい魔力量ではない。

一国の騎士団長クラス、あるいはそれ以上か。

未完成ゆえの荒々しさはあるが、その質は極めて高い。

ベアトリクスは、初めてその瞳に僅かな光を宿した。

(……ほう)

面白い。

ただの子供だと思っていた。少し才能のある、人殺しを覚えただけの子供だと。

だが、この魔力の練り方はどうだ。

誰に教わったものでもないだろう。独学で、狂気的なまでの反復と探求の果てに掴んだ、彼だけの理。

この『武神』の目をごまかすことはできない。

その魔力には、執念が宿っていた。

何者かになりたいという、世界を敵に回しても構わないという、傲慢で純粋な渇望。

「――受けろ!」

少年が突っ込んでくる。

先ほどとは段違いの速度。直線的だが、それゆえに回避困難な砲弾のような突撃。

剣先に全ての魔力を集中させた、一点突破の刺突。

ベアトリクスは、抜刀しなかった。

その必要を認めなかったからではない。

抜刀して斬り伏せてしまえば、この稀有な原石を壊してしまうと判断したからだ。

彼女は右手を前にかざした。

素手だ。

魔力を纏わせているわけでもない、ただの掌。

ズドン!!

衝撃音が森に木霊した。

少年の剣は、ベアトリクスの掌に受け止められていた。

否、正確には『掌の寸前にある不可視の壁』に阻まれていた。

膨大な魔力の奔流がベアトリクスに襲いかかるが、彼女の周囲で霧散していく。

まるで、巨岩に波が砕けるように。

「な……ッ!?」

シドの表情が凍りつく。

渾身の一撃。今の自分が出せる全て。

それが、剣を抜かせることすらできず、片手であしらわれた。

ベアトリクスは、掌を軽く握り込んだ。

それだけで、シドの剣――安物の量産剣――は粉々に砕け散った。

同時に放たれた衝撃波が、シドの体を枯れ葉のように吹き飛ばす。

背後の大木に激突し、シドは地面に崩れ落ちた。

意識が飛びかける。

視界が霞む。

体中が痛い。魔力切れの脱力感が襲う。

(負け、た……?)

完全なる敗北。

言い訳のしようもない、圧倒的な差。

スタイリッシュに勝つどころか、手も足も出なかった。

足音が近づいてくる。

コツ、コツ、と冷静なリズム。

シドは霞む目で、見下ろしてくるエルフを見上げた。

殺されるか?

いや、それなら最初の攻撃で死んでいた。

ベアトリクスは、倒れ伏す少年を見下ろしていた。

その表情は、やはり無表情に近い。

だが、その奥底にある感情は、憐憫でも侮蔑でもない。

彼女は知っている。

強さとは、ただの力の総量ではない。

それは意志の強さであり、狂気の深さであることを。

この少年は、まだ幼い。肉体も未熟だ。

だが、その魂の在り方は、既に『此方側』に足を踏み入れている。

百年を生きた(という設定の)エルフとしてではなく、遥かな時を生きた化け物として、彼女は少年の本質を見た。

この少年は、いずれ世界を揺るがす。

あるいは、世界を影から支配するような、そんな存在になるかもしれない。

ベアトリクスは、わずかに口角を上げた。

本当に、数百年、数千年生きても、この世界は退屈しない。

彼女は、意識を失いかけている少年に向かって、短く、しかし確信を込めて告げた。

「君、見込みあるね」

その言葉は、シド・カゲノーの耳にどう響いただろうか。

屈辱か。称賛か。あるいは、新たな目標への道標か。

ベアトリクスはそれ以上何も言わず、踵を返した。

王都へ向かう。

武神祭への招待があったか、あるいは姪を探すフリをするためか。

彼女の目的は定かではない。

ただ、今夜の散歩は、悪くないものだった。

背後で、少年が地面を拳で叩く音が聞こえた気がした。

悔しさに塗れたその音は、しかし決して折れていない音だった。

(強くなれ、名も知らぬ少年よ)

心の中で呟き、偽りの武神は闇夜へと消えていった。

それが、将来世界を裏から操る『陰の実力者』と、最強の『武神』との、最初にして最悪の邂逅だった。

 

季節が巡り、森の空気が少しだけ肌寒さを増していた。

カゲノー領の広大な森林地帯。人里離れた獣道は、枯れ葉の絨毯で覆われている。

武神ベアトリクスは、再びその森を歩いていた。

彼女の足取りに迷いはない。表向きは「方向音痴のエルフがまた迷い込んだ」という体裁をとっているが、その実、彼女の意識は明確にある一点へと向いていた。

数週間前、この場所で出会った奇妙な子供。

金貨を弄び、盗賊の死体の山で高笑いしていた、あの黒衣の少年。

(……生きてるかな)

ふと、そんな感想が漏れる。

あの時、ベアトリクスは手加減をした。だが、それはあくまで「即死させない」という程度の手加減だ。

子供の未発達な魔力回路に、武神の重圧をぶつけたのだ。廃人になっていてもおかしくはないし、恐怖で剣を握れなくなっていても不思議ではない。

だが、ベアトリクスの直感が告げている。

彼は折れていない。

それどころか、もっと鋭利になって待っているはずだと。

カサリ、と落ち葉が鳴った。

風ではない。小動物でもない。

極限まで殺された気配。だが、ベアトリクスの感知領域に触れるギリギリのところで、あえて「居る」ことを主張するような、歪な隠密。

ベアトリクスは足を止める。

視線の先、古木の枝の上に、その影はあった。

逆光。

木漏れ日を背負い、腕を組んで佇む小さなシルエット。

ボロ布のコートが風にはためく。前回よりも少しだけ、その布の巻き方が様になっている気がした。

「……待っていたぞ」

少年――スタイリッシュ盗賊スレイヤー(自称)は、低く押し殺した声で言った。

それはまるで、宿命のライバルとの再会を演出するかのような、陶酔に満ちた響きだった。

「また会ったね」

ベアトリクスは短く返す。

彼女の反応が薄いことに、少年は少しだけ不満げな気配を見せたが、すぐに気を取り直して不敵な笑みを浮かべた(布で顔は見えないが、目が笑っていた)。

「あの夜の屈辱……忘れはしない。我が剣は、貴様を超えるために研ぎ澄まされた」

シュタッ、と音を立てて少年が枝から飛び降りる。

着地音がない。

膝のクッションと魔力操作で、衝撃を完全に殺している。

「来るか?」

「逝くのは……貴様だ」

開戦の合図などない。

少年が消えた。

数週間前とは違う。

初動の爆発力に頼った直進ではない。

ジグザグに、不規則に、残像を残しながら接近する歩法。

視覚を撹乱し、的を絞らせないための動き。

(……ほう)

ベアトリクスは内心で感嘆する。

誰に教わった? いや、この辺境にこれを教えられる剣士などいない。

自分で考えたのか。

あの敗北から、たった数週間で。

どうすれば「見切られないか」、どうすれば「届くか」を、血の滲むような思考実験の果てに編み出した動きだ。

ヒュン!

死角からの斬撃。

少年の安物の剣が、蛇のようにしなりながらベアトリクスの脇腹を狙う。

軌道が読みにくい。手首の返しが独特だ。

ベアトリクスは半歩下がる。

剣先が衣服を掠める。

そこへ、間髪入れずに追撃が来る。

袈裟斬り、逆袈裟、突き。

連撃の回転が速い。

キン、キン、キィン!

静かな森に、剣戟の音が響き渡る。

ベアトリクスは剣を抜いていない。

鞘のみで、少年の猛攻をすべて捌いている。

だが、前回とは「捌き方」が違った。

前回はあくびが出るほど遅く見えた。

今回は――少しだけ、目を開いて見るに値する。

(重心が安定している)

ベアトリクスは観察する。

以前の彼は、速さに体が振り回されていた。

だが今は、臍下丹田に魔力の塊を据え、どんな体勢からでも次の動作へ移行できる「タメ」を作っている。

少年が地面を蹴り、頭上へ躍る。

落下エネルギーを利用した兜割り。

単純な力技ではない。空中で魔力を噴射し、加速を加えている。

「ハァッ!!」

気合一閃。

ベアトリクスは鞘を頭上に掲げる。

ガギィィィン!!

重い音が響き、ベアトリクスの足元の地面がわずかに陥没した。

子供の膂力ではない。魔力強化された一撃は、オークの棍棒すら凌駕する重さだ。

だが、ベアトリクスは揺らがない。

まるで巨木のように、その場に根を張って動じない。

鍔迫り合いの形になる。

至近距離。

少年の瞳が、ベアトリクスの瞳を射抜く。

そこにあるのは、絶望ではない。

「まだ届かないのか」という焦燥と、「だからこそ面白い」という狂気。

「……くッ!」

少年が自ら剣を引き、バックステップで距離を取る。

賢明だ。力比べでは勝てないと即座に判断し、仕切り直しを選んだ。

呼吸が荒い。

魔力の消耗も激しいはずだ。

だが、彼は剣を下げない。

構えを変える。

剣先をふらふらと遊ばせ、脱力した状態からの一撃必殺を狙う構え。

ベアトリクスは、静かに口を開いた。

「前回より太刀筋を変えてる」

その言葉に、少年の肩がピクリと反応する。

「それに、重心の移動も改善してる」

褒め言葉だ。

百年生きた(ことになっている)エルフの剣聖からの、純粋な評価。

普通の剣士なら、涙を流して喜ぶところだろう。

だが、ベアトリクスはそこで言葉を切らず、冷徹な事実を突きつける。

「――けれども、浅い」

少年の動きが止まった。

仮面の下の表情が凍りついたのがわかる。

「浅い……だと……?」

「うん。綺麗すぎる」

ベアトリクスは鞘の先端を少年に向けた。

「君の剣は、理想を追いすぎている。頭の中で描いた『最強の動き』をなぞっているだけだ。そこには、相手の『呼吸』がない。私の『殺気』に対する反応がない」

独りよがりなのだ。

スタイリッシュであること。美しく勝つこと。

そのイメージが先行しすぎて、目の前の「敵」との対話が欠落している。

実戦経験の不足、と言ってしまえばそれまでだが、彼の才能が突出しているがゆえに、型にはまるのも早すぎた。

「泥臭さが足りない。……殺し合いは、もっと汚いものだよ」

ベアトリクスの纏う空気が変わった。

温度が下がる。

森の鳥たちが一斉に飛び立つ。

ただ立っているだけなのに、そこから放たれるプレッシャーが、物理的な質量を持って少年に襲いかかる。

これが、武神。

戦場を渡り歩き、数多の命を奪ってきた者の「深淵」。

シド・カゲノーは、肌が粟立つのを感じた。

怖い。

生物としての本能が、逃げろと警鐘を鳴らす。

だが、それ以上に――美しいと思った。

圧倒的な暴力の具現。

自分が目指すべき「陰の実力者」の、武の側面における完成形の一つ。

(浅い、か……)

シドは剣を握りしめた。

図星だった。

前世の知識、空手、ボクシング、剣道、ありとあらゆる格闘技をミックスし、この世界の魔力運用理論と合体させた「最強流派」。

それは完璧な理論のはずだった。

だが、このエルフは一目で見抜いた。

それが「理論」止まりであることを。

「……ふ、ふふふ」

シドの口から笑いが漏れる。

悔しい。死ぬほど悔しい。

けれど、最高だ。

壁は高ければ高いほどいい。

「なるほど……参考になる意見だ、通りすがりのエルフよ」

シドは強がって見せた。

足が震えているのを、魔力で無理やり抑え込む。

「だが、我が深淵はこんなものではない。……次は、その喉元を喰いちぎる」

負け惜しみではない。

本気の宣言。

彼は今、この瞬間にまた一つ学習した。

「綺麗に勝つ」のではなく、「泥を啜ってでも勝つ、その結果がスタイリッシュになる」のだと。

ベアトリクスは、そんな少年の変化を感じ取った。

やはり、この子は面白い。

育てば、間違いなく自分を楽しませてくれる存在になる。

あるいは、自分を殺してくれる存在に。

今日はもういいだろう。

これ以上やれば、本当に殺してしまいかねないし、彼にも「噛み砕く」時間が必要だ。

ベアトリクスは踵を返した。

背中を見せる。

それは最大の隙だが、今のシドには、その背中が鋼鉄の城壁のように見えて、斬りかかることができなかった。

「……どこへ行く」

シドが問う。

ベアトリクスは振り返らず、片手をひらりと振った。

「また5日後来るよ、楽しみにしている」

まるで友人と遊ぶ約束でもするかのような軽さ。

だが、シドにとっては、それは「5日で死ぬ気で強くなれ」という、死刑宣告にも似た課題(ミッション)だった。

ベアトリクスの姿が木立の向こうに消える。

その気配が完全に消滅するまで、シドはその場を動けなかった。

「5日後……」

シドは自分の手を見る。

掌には、剣の柄の跡がくっきりと残るほど、強く握りしめていた。

「上等だ……」

カゲノー領の森に、少年の高笑いが響く。

それは空元気だったかもしれない。

だが、その日からの5日間、森からは絶え間なく爆発音と、木々が薙ぎ倒される音が響き続けることになる。

ベアトリクスは、遠くでその音を聞きながら、口元に微かな笑みを浮かべていた。

ハンバーガーという珍しい食べ物を探しながら、彼女は5日後の「再戦」に思いを馳せる。

退屈だった永い生に、久々に色が差したような気分だった。

 

約束の五日後。

太陽が真上を過ぎ、森の影が少しずつ伸び始めた頃、武神ベアトリクスは再びその場所に立っていた。

そこはもはや、ただの森の開拓地ではなかった。

嵐が通り過ぎたかのように木々は薙ぎ倒され、地面は抉れ、無数の焦げ跡が点在している。

この五日間、一人の少年がここで何をしていたか。

この惨状が雄弁に語っていた。

「……来たか」

切り株に腰掛けていた少年が、ゆらりと立ち上がる。

ボロ布のコートは更に汚れ、泥と草の汁に塗れている。

だが、その瞳だけはギラギラと燃え盛っていた。

まるで飢えた狼だ。

「待たせたな。……今日の私は、五日前とは違う」

シド・カゲノーは低く唸るように告げると、足元の泥を強く踏みしめた。

言葉はいらない。

ベアトリクスが顎を少し引いた、それが合図だった。

風を切り、少年が疾走する。

速い。五日前よりも確実に、筋肉の収縮速度と魔力伝導率が上がっている。

だが、それ以上に変化していたのは「気配」だった。

シドは真正面から突っ込むと見せかけ、直前で魔力を爆発させてブレーキをかけ、泥を蹴り上げた。

目くらまし。

視界を奪う泥の散弾。

武神相手に、泥を投げる。

プライドの高い剣士なら侮辱と受け取るだろう行動。

だが、ベアトリクスは眉一つ動かさない。

飛来する泥を首の皮一枚の動きで避け、その背後に隠れていた本命の刃を見据える。

シドの剣が、下段からベアトリクスの膝を狙う。

避けられたなら、次は逆の斬り上げ。

それも防がれると見るや、シドは躊躇なく自分の体ごとベアトリクスに体当たりを敢行した。

剣技ではない。喧嘩殺法。

体勢を崩し、髪を掴んででも引きずり倒そうとする、なりふり構わぬ泥仕合への誘い。

ベアトリクスは、シドのタックルを半身で受け流し、その襟首を掴んで投げ飛ばした。

空中で回転し、猫のように着地するシド。

間髪入れずに再突撃。

今度は木を蹴り、立体的に攻める。

木の枝を切り落とし、それを投擲しながら、その影に紛れて接近する。

使えるものは全て使う。

地形も、泥も、自分の服すらも囮にして。

数合、数十合。

金属音と打撃音が森に木霊する。

シドの頬に切り傷が増え、息が荒くなる。

だが、その剣は止まらない。

美しさなど捨てた。スタイリッシュであることの定義を、「勝つこと」そのものに書き換えたかのような、執念の連撃。

やがて、シドの剣がベアトリクスの頬を掠めた。

わずかに数本の金髪が宙を舞う。

ベアトリクスは、一度大きく距離を取った。

シドも追撃せず、荒い呼吸を整える。

「いいね」

ベアトリクスは、切り落とされた自分の髪を一瞥し、静かに言った。

「勝ちを拾いに行く貪欲な剣だ。それこそが剣士の本質だよ」

形に囚われていない。

五日前の彼は、どこか教科書的だった。誰かに見せるための演武のようだった。

だが今は、目の前の「武神」という巨大な壁を乗り越えるためだけに、爪を研ぎ、牙を剥いている。

生き汚いまでの勝利への渇望。

それこそが、戦場を生き抜くために最も必要な資質だ。

シドは口元の血を拭い、ニヤリと笑う。

褒められた。あの強者に、自分の在り方が認められた。

内心でガッツポーズを取りつつ、彼はクールに言い放つ。

「勝利こそが全て……。過程など、結果の前には無意味な装飾に過ぎない」

それっぽいセリフを吐くシド。

しかし、ベアトリクスの瞳は、まだ何かを見透かすように細められていた。

彼女はゆっくりと歩み寄る。

殺気はない。だが、逃れられない圧迫感がある。

「でも、躊躇ってる」

シドの眉がピクリと跳ねた。

「……何?」

「君の剣、最後の最後で止まっている。……いや、逸らしているね」

ベアトリクスは、自分の首筋を指差した。

先ほどの攻防。

シドには、ベアトリクスの喉笛を食い破るチャンスが一瞬だけあった。

泥を目くらましにし、体勢を崩させたあの一瞬。

確実に急所を狙えたはずだ。

だが、シドの剣は無意識に、致命傷を避ける軌道を描いた。頬を掠めるに留まったのは、シドの実力不足ではなく、無意識のブレーキの結果だ。

「大方、君は盗賊などと違って、私を本気で殺しに行っていいんじゃないかって思ってるんじゃないかな」

図星だった。

シド・カゲノーの中には、確固たる自分ルールがある。

彼は「陰の実力者」であり、無差別殺人鬼ではない。

盗賊や悪徳領主ならば、躊躇なく始末する。それは「悪を断つ影」というロールプレイに合致するからだ。

だが、ベアトリクスは違う。

ただ通りすがっただけのエルフ。しかも、自分が喧嘩を売った相手。

圧倒的な強者であり、倒すべき壁ではあるが、「殺すべき敵」というカテゴリに入れていいのか、シドの心の奥底で迷いが生じていた。

トレーニングの相手を殺してしまっては、物語として後味が悪いのではないか。

そんなメタ的な、しかし彼にとっては極めて重要な葛藤。

「通りすがりのエルフに闇討ちしたのは君からだし」

ベアトリクスは淡々と事実を突きつける。

「君は私を襲った。金か、力試しかは知らないけれど、理不尽な暴力を振るったのは君の方だ」

「……ぐっ」

正論すぎて反論できない。

シドは言葉に詰まる。

確かに、いきなり「ヒャッハー!」と襲いかかったのは自分だ。

100%自分が悪い。

「私は被害者で、君は加害者だ。……なのに、なぜ被害者の命を気遣う?」

ベアトリクスが剣を構えた。

その瞬間、空気が変わった。

今までとは違う。

「指導」の空気ではない。「殺し合い」の空気が満ちる。

肌がチリチリと焼けるような、本物の殺気。

森の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚。

「命狙う気じゃなきゃ、いつまでも届かないよ」

ベアトリクスの言葉が、重くシドにのしかかる。

精神論ではない。

物理的な事実として、手加減を含んだ剣など、武神の領域にはカスリもしないのだ。

全力を出し切る、というのは、殺す気で振るうということと同義だ。

その一線を超えない限り、シドの剣は永遠に「ごっこ遊び」の域を出ない。

シドは冷や汗が背中を伝うのを感じた。

(……マジかよ)

このエルフは本気だ。

こっちが殺す気でいかないと、殺される。

あるいは、見限られる。

「見込みがある」と言われた。その期待を裏切れば、もう二度と相手にされないかもしれない。

それは、「陰の実力者」を目指す者として、最大の損失だ。

(……いいだろう)

シドは腹を括った。

善悪の彼岸など知ったことか。

今、目の前に「超えるべき壁」がある。

それを超えるために必要ならば、悪にでも修羅にでもなってやる。

それが、物語を面白くするということだ。

シドの瞳から、迷いが消えた。

代わりに宿ったのは、漆黒の闇。

底のない、純粋な殺意。

魔力が膨れ上がる。

大気が震え、シドの足元の地面がひび割れる。

制御リミッターを外した。

肉体が壊れても構わない。

目の前の「神」を殺す。ただそれだけを思考の全てとする。

「……行くぞ」

シドの声色が、冷徹なものに変わった。

「来な」

ベアトリクスが微笑んだ気がした。

刹那、衝突。

轟音が響き、衝撃波が周囲の大木をへし折る。

シドの剣は、もはや小細工なしの剛剣と化していた。

首を、心臓を、眼球を。

人体急所のみを正確無比に、最大火力で狙い続ける。

防がれる。

弾かれる。

だが、止まらない。

弾かれた反動を利用し、さらに加速する。

骨がきしむ音がする。筋肉が断裂する音がする。

それでもシドは笑っていた。

(届く……! さっきよりも、深く!)

ベアトリクスもまた、手加減のレベルを一段階上げていた。

殺す気で来る子供に対し、敬意を表して「死ぬかもしれない恐怖」を与える。

剣の腹でシドの脇腹を殴打する。

肋骨が数本いく感触。

「がはッ……!」

血を吐きながら、シドは止まらない。

痛みすらも燃料に変え、剣を振るう。

意識が飛びそうだ。

視界が赤い。

けれど、楽しい。

「もう一回」

弾き飛ばされ、地面に転がりながら、ベアトリクスは無慈悲に告げる。

休憩などない。

立ち上がるまでの時間すら惜しいと言わんばかりに。

シドはよろめきながら立ち上がる。

魔力が枯渇しかけている。

だが、体内から新たな魔力を無理やり絞り出す。

限界を超え、その先にある領域へ。

「おおおおおおッ!!」

咆哮と共に突撃。

シドの剣が紫電を帯びる。

彼が独自に編み出した魔力循環、その原型が形を成していく。

激突。

シドの剣が砕け散る。

だが、その破片を手で掴み、ベアトリクスの喉元へと突き出す。

ベアトリクスはそれを、紙一重でかわす。

首筋に、一筋の赤い線が走った。

血だ。

武神が、血を流した。

ドカッ!

ベアトリクスの蹴りがシドの腹に入り、少年はボールのように吹き飛んだ。

背中の木に激突し、ずり落ちる。

もう、指一本動かせない。

「……はぁ、はぁ……」

シドは霞む目で、空を見上げた。

木々の隙間から見える空は、いつの間にか茜色に染まっていた。

負けた。

完敗だ。

だが、あのエルフの首に傷をつけた。

足音が近づいてくる。

ベアトリクスが、倒れ伏すシドを見下ろしていた。

その首筋の傷に手を当て、指についた血を見る。

「……やるね」

短い称賛。

それだけで、全身の痛みが報われる気がした。

「でも」

ベアトリクスは、懐から何かを取り出し、放り投げた。

それは水筒だった。

ポトリとシドの胸の上に落ちる。

「まだまだ」

厳しい言葉。

だが、その声には明らかな熱がこもっていた。

未完成。未熟。

だからこそ、この先がある。

百年を生きた彼女ですら見たことのない、未知の強さへと至る可能性。

「今日はここまで。……死なない程度に休みな」

ベアトリクスはそう言い残し、夕闇の中へと歩き出した。

その背中は、五日前よりも少しだけ、シドにとって「近く」感じられたかもしれない。

あるいは、より絶望的に「遠く」感じられたか。

シドは震える手で水筒を掴み、中身を一気に煽った。

冷たい水が、火照った体に染み渡る。

「……くく、くハハハ……」

乾いた笑いが漏れる。

痛い。苦しい。死にそうだ。

けれど。

「最高だ……」

これが「陰の実力者」への道。

修羅の道を行くということ。

あの武神ですら、自分の物語の踏み台(・・)に過ぎないのだという、傲慢で強烈な野心が、ボロボロの体を内側から修復していくようだった。

ベアトリクスの「まだまだ」という言葉が、耳に残っている。

それは否定ではない。

「まだ先へ行ける」という、残酷で愛のある招待状だった。

シド・カゲノーは目を閉じる。

次こそは。

次こそは、あの余裕ぶった顔を驚愕に染めてやる。

そしていつか、「陰から世界を支配する者」として、彼女の前に立つのだ。

森の闇が深まる中、少年の野望だけが、星のように鋭く輝いていた。

 

 

再び、約束の日が訪れた。

カゲノー領の森、もはや『広場』と呼ぶべき更地。

砕けた岩、抉れた大地、そして無惨にへし折られた巨木の残骸。

この数週間で、ここは地図から森としての機能を抹消されつつあった。

シド・カゲノーは、その惨状の中心に立っていた。

ボロ布のコートを風に靡かせ、目を閉じ、イメージトレーニングに没頭している。

前回の戦い。あの敗北。

喉元に一撃を入れた感触。

そして、その後に味わった圧倒的な『壁』の高さ。

(……来る)

風の音が止んだ。

鳥たちのさえずりが消え、森全体が畏怖するように息を潜める。

その静寂こそが、彼女の訪れの合図だった。

武神ベアトリクス。

エルフの剣聖。

彼女は音もなく、森の暗がりから姿を現した。

手にはいつもの剣。表情にはいつもの倦怠と、僅かな期待。

「調子はどうだい」

挨拶代わりの一言。

シドは目を開き、口元を歪めた。

「最高だ……。貴様の首を落とす夢を見るほどにな」

「それは光栄だね」

ベアトリクスは肩をすくめる。

子供の殺害予告など、彼女にとっては朝の挨拶程度の軽さだ。

だが、その目は笑っていない。

シドの纏う魔力の質が、前回とは比べ物にならないほど練り上げられていることを見抜いていたからだ。

「行くぞ……!」

シドが地面を蹴る。

爆発的な加速。

だが、それは直線的な特攻ではない。

残像を残すほどの高速移動でベアトリクスの周囲を旋回し、死角を探る。

魔力で強化された脚力は、音速の領域に片足を突っ込んでいる。

(速い。そして、濃い)

ベアトリクスは動かない。

ただ眼球だけでシドの動きを追う。

シドの魔力は、荒々しい奔流から、鋭利な刃物のような密度へと変化していた。

『殺す気で来い』という前回の助言を、彼は忠実に、そして過剰なまでに実践している。

ドォン!!

背後からの奇襲。

シドの剣が、ベアトリクスの背中を捉える――寸前、彼女は半歩右へずれるだけで回避する。

だが、シドは止まらない。

空振りした勢いを殺さず、回転。

遠心力と魔力噴射を加えた二撃目が、横薙ぎに襲いかかる。

ベアトリクスは鞘で受け止める。

ガギィン!

重い衝撃。

前回なら、これでシドは弾き飛ばされていた。

だが、今の彼は耐えた。

地面に足をめり込ませ、強引に押し込んでくる。

「おおおおらぁッ!!」

気合と共に魔力が炸裂する。

青紫の光が迸り、周囲の空間を歪ませる。

力任せではない。接点に魔力を集中させ、ベアトリクスの防御を内側から崩そうとする高度な魔力操作。

(……ほう)

ベアトリクスは僅かに眉を上げた。

ただの子供の剣ではない。

これは、魔物と戦うための剣でもない。

対人。それも、自分より格上の強者を狩るために特化した、一点突破の牙。

ベアトリクスは鞘を僅かに傾け、力を逃がす。

シドがつんのめる。

その隙に、がら空きの胴へ蹴りを入れようとするが――シドはすでにそこにいなかった。

力を逃がされることを予測し、自ら地面に倒れ込むようにして軌道を変えていたのだ。

地面スレスレからの斬り上げ。

下顎を狙う凶悪な一撃。

ベアトリクスはバックステップで回避。

しかし、シドの剣先から放たれた魔力の刃――『飛ぶ斬撃』の原型とも言える衝撃波が、彼女の前髪を揺らす。

「……ッ、チッ!」

シドが舌打ちをする。

届かない。

あと数ミリ。その数ミリが、永遠のように遠い。

攻防は続く。

シドの手数は増え続け、森は破壊の嵐に包まれる。

彼は持てる手札の全てを切っていた。

フェイント、多重詠唱による魔力強化、環境利用、目潰し、金的。

ありとあらゆる「勝ち筋」を模索し、実行する。

ベアトリクスは、それを全て捌いていた。

涼しい顔で。

汗一つかかず。

まるで散歩の途中で飛んできた羽虫を払うかのように。

だが、彼女の内面では、評価が更新され続けていた。

(慣れてきたね、私の『リズム』に)

シドは天才だ。

戦いの中で学習し、最適化している。

ベアトリクスの呼吸、筋肉の動き、視線の癖。

それらを読み取り、数合先を予測し始めている。

このまま「剣術と身体能力だけ」で相手をするのは、不可能ではない。

だが、それでは彼の成長にとって毒になるかもしれない。

「武神といえど、身体能力の延長線上にいる存在」だと誤認させてしまう。

それは、彼のような怪物を生み出す過程において、致命的な慢心を生む。

「……ふぅ」

不意に、ベアトリクスが足を止めた。

シドの剣が、彼女の喉元数センチでピタリと止まる。

いや、止められたのではない。

ベアトリクスから放たれた『何か』に、シドの本能が急ブレーキをかけたのだ。

「……何だ?」

シドが警戒し、距離を取る。

ベアトリクスの雰囲気が変わっていた。

今までのような、どこか眠そうな、やる気のない雰囲気ではない。

かといって、殺気立ったわけでもない。

ただ、空気が重くなった。

世界そのものの彩度が落ちたような、圧倒的な質量の顕現。

ベアトリクスは、ゆっくりと自分の剣を見つめ、それからシドを見た。

「君は強いね。同年代どころか、今の騎士団長クラスでも君には敵わないだろう」

「……世辞はいい」

「世辞じゃない。事実だ。……だからこそ、勘違いさせてはいけないと思った」

ベアトリクスは、スゥ、と息を吸い込んだ。

それだけで、周囲のマナが彼女を中心に渦を巻く。

シドの肌が粟立つ。

魔力感知能力の高い彼だからこそ、理解できてしまった。

目の前の存在が、今までとは次元の違う『何か』をしようとしていることに。

「少し本気を見せてあげる」

ベアトリクスの言葉は、静かだった。

だが、その声は森全体に響き渡るような、腹の底に響く重低音を孕んでいた。

「……本気、だと?」

シドの声が震える。

恐怖ではない。歓喜だ。

(来た……! ついに第二形態……! イベント発生だ!)

シドの脳内では、壮大なBGMが鳴り響いている。

強キャラが力を解放する瞬間。これこそが、陰の実力者ムーブの醍醐味の一つ。

ベアトリクスは淡々と続ける。

「今までは魔力を込めてない素の膂力と剣術。けどここからは魔力を解禁する」

その宣言と共に。

世界が、軋んだ。

ドォォォォォォォォォン……!

爆発音ではない。

それは、大気が悲鳴を上げる音だった。

ベアトリクスの体から、黄金色のオーラが立ち昇る。

シドの青紫の魔力とは違う。

荒々しさなど微塵もない。

静謐で、濃密で、そして絶対的な支配力を秘めた、神の如き魔力。

木々が揺れるどころか、圧迫されてミシミシと音を立てる。

地面の小石が浮き上がり、粉々に砕け散る。

ただ魔力を解放しただけ。

それだけで、周囲の物理法則が書き換えられたかのような錯覚を覚える。

「な……ッ!?」

シドは目を見開いた。

(魔力を使っていなかった……!? あのデタラメな強さで!?)

驚愕。そして納得。

通りで、魔力の感知ができなかったわけだ。使っていなかったのだから。

素の身体能力だけで、魔力強化した自分をあしらっていた。

その事実に、シドは絶望するどころか、顔を歪めて笑った。

「ハハ……ハハハハッ! 最高だ! 化け物め!」

「よく言うよ、化け物の卵が」

ベアトリクスが剣を構える。

今までと同じ構え。

だが、その剣身には、黄金の魔力が収束していた。

光り輝いているわけではない。むしろ、光を飲み込むように重く沈んでいる。

極限まで圧縮された魔力。

「来るよ」

警告は短く。

次の瞬間、ベアトリクスの姿が消えた。

速い、ではない。

『移動』という過程が省略されたかのような、認識外の接近。

「――ッ!?」

シドは反応すらできなかった。

本能だけで剣を盾にする。

カァァァァァン!!!

鐘楼を至近距離で叩いたような轟音。

シドの体が、砲弾のように吹き飛んだ。

防御したはずの剣越しに、衝撃が全身を貫通する。

「ぐ、がぁああああッ!!」

数百メートル。

森の木々を十数本なぎ倒し、岩盤に激突してようやく止まる。

全身の骨が悲鳴を上げている。

剣を持っていた腕の感覚がない。

(なんだ、今のは……!?)

重い。

ただの斬撃が、城壁をぶつけられたような質量を持っていた。

これが、魔力を乗せた武神の一撃。

「立てるかい?」

砂煙の向こうから、ベアトリクスの声がする。

彼女は歩いていない。

浮遊するように、瓦礫の上を滑るように近づいてくる。

その周囲には、黄金の魔力が陽炎のように揺らめいている。

シドは血を吐き捨て、ふらつきながら立ち上がった。

折れた肋骨を、魔力操作で無理やり固定する。

「……っへ、痛えな……。だが、いい。すごくいい……!」

シドは笑う。

これだ。これこそが求めていた『頂』。

魔力というあやふやな力を、物理的な破壊力へと100%変換する技術。

無駄がない。ロスがない。

「我が魔力……解放するッ!」

シドもまた、リミッターを完全に解除する。

自身の肉体が崩壊する危険性を無視し、全魔力を放出。

青白い光の柱が天を衝く。

質で負けるなら、量で押し潰す。

子供ゆえの膨大な魔力貯蔵量、それだけが今の彼の唯一の武器。

「アイ・アム……」

彼が前世の記憶と、今世の探求の果てに編み出しつつある奥義。

その原型。

全てを吹き飛ばす魔力爆発。

ベアトリクスは足を止めた。

(……自爆する気か?)

いや、違う。

魔力を制御し、一点に――いや、広範囲に放とうとしている。

粗削りだが、その威力は戦略級魔法に匹敵しかけている。

「面白い」

ベアトリクスは剣を正眼に構えた。

逃げない。防がない。

斬り伏せる。

シドの魔力が臨界点に達する。

周囲の空間が紫色に染まる。

「――アトミック(仮)ッ!!!」

放たれたのは、全てを消滅させる破壊の奔流。

森の一角を消し飛ばすほどのエネルギー塊が、ベアトリクスへと殺到する。

対するベアトリクスは、静かに剣を一閃させた。

技名などない。

ただ、魔力を刃に乗せ、空間ごと断ち切るイメージで振るう。

それだけの動作。

ズバァァァァァン!!

世界が割れた。

シドの放った紫色の奔流が、真っ二つに裂かれた。

まるで海を割るモーゼのように。

黄金の斬撃が、破壊のエネルギーを左右へと弾き飛ばし、その中心を突き抜ける。

「な――」

シドの目の前に、黄金の光が迫る。

自分の最強の攻撃が、正面から斬り裂かれた。

その事実に驚愕する暇もなく。

ベアトリクスの剣の峰が、シドの腹部に深々と突き刺さった。

ドスッ。

重く、鈍い音。

衝撃は背中へと抜け、背後の岩山を粉砕した。

シドの意識がホワイトアウトする。

魔力が霧散し、体が崩れ落ちる。

「が……、ぁ……」

地面に這いつくばるシド。

指一本動かせない。

完全なる敗北。

言い訳の余地もない、圧倒的な格の差。

ベアトリクスは、魔力を収めた。

黄金のオーラが消え、いつもの静かなエルフに戻る。

彼女は膝をつき、倒れているシドの顔を覗き込んだ。

「……生きてるね」

頑丈だ。

魔力を乗せた峰打ち。普通なら内臓破裂で即死だが、彼は直前に魔力防御を腹部に集中させていた。

攻撃を斬り裂かれた瞬間に、防御へとリソースを回す判断速度。

やはり、この子は異常だ。

「……ま、け……た……」

シドがかすれた声で呟く。

悔しさが滲んでいる。

だが、その目には涙はない。あるのは、燃え残った執念の火種。

「魔力というのはね、ただ放出すればいいものじゃない」

ベアトリクスは諭すように言った。

これは師としての言葉ではない。

先達として、あまりにも有望な後進への、ちょっとしたヒントだ。

「君の魔力は大きすぎる。だから雑になる。……一滴の水で岩を穿つように、魔力を研ぎ澄ませなさい。そうすれば、世界はもっと『切れる』ようになる」

シドは虚ろな目で、その言葉を反芻する。

一滴の水。研ぎ澄ます。

圧縮。収束。

(……なるほど。そういうことか)

意識が遠のく中で、シドは新たな理(セオリー)を掴みかけていた。

『アイ・アム・アトミック』の完成形に必要なピース。

それを、この武神は身をもって教えてくれたのだ。

「……ありが、と……」

シドは最後にそう呟き、気絶した。

その顔は、満足げに微笑んでいた。

ベアトリクスは立ち上がる。

周囲を見渡す。

森の地形が変わってしまった。

これはまた、どこかへ移動したほうがいいかもしれない。

「やれやれ……無茶な子だ」

彼女はシドの懐から落ちていた金貨袋を拾い、彼の横に丁寧に置いた。

そして、彼が目覚めた時に食べるための(そして自分が食べかけの)ハンバーガーの包み紙を、重石代わりに置く。

「強くなりな。……次会う時は、私に剣を抜かせた、その先を見せておくれ」

ベアトリクスは風のように去っていった。

後に残されたのは、破壊された森と、新たな目標を得て眠る少年。

そして、ハンバーガーの匂い。

これが、陰の実力者シド・カゲノーが、初めて「世界」の広さを知った日。

そして、武神ベアトリクスが、百年ぶりに「明日」を楽しみに思った日だった。

雨が降っていた。

カゲノー領の森、その深奥。

かつて木々が生い茂っていた場所は、今や泥濘(ぬかるみ)の荒野と化している。

冷たい雨が、容赦なく大地を打ち、血と汗の匂いを洗い流していく。

武神ベアトリクスは、雨に打たれながら佇んでいた。

水滴が金色の髪を伝い、整った顎先から滴り落ちる。

彼女は濡れることを厭わない。むしろ、この冷たさが、永すぎる生の中で麻痺しかけた感覚を呼び覚ましてくれるようで、心地よくすらあった。

(来る……)

気配は、雨音に紛れていた。

だが、彼女の皮膚感覚――二千年という歳月で研磨された超感覚――は、空間の微細な歪みを捉えていた。

泥を踏む音はしない。

雨を弾く音もしない。

ただ、世界の一部が「闇」に侵食されるような圧迫感。

「……待っていたぞ」

声は、闇の中から響いた。

黒いボロ布を纏った少年、シド・カゲノー。

雨に濡れたコートが重く張り付いているはずだが、彼の立ち姿には一点の乱れもない。

その瞳は、以前のような狂気的な熱量を含みつつも、どこか冷徹な光を宿していた。

深淵。

底の知れない井戸を覗き込んだような、静謐な恐怖。

「また腕を上げたね」

ベアトリクスは、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。

「前の君は、燃え盛る炎だった。触れれば火傷するような、制御の効かないエネルギーの塊。……でも今の君は、氷だ」

「我(われ)は影……」

シドが低く呟く。

 

彼の中で設定された『陰の実力者』としてのロールプレイが、より深化した証拠だ。

 

「闇に潜み、闇を狩る者。……武神よ、貴様の光は強すぎる。故に、影もまた濃くなる」

芝居がかった台詞。

だが、それに伴う魔力の密度は、冗談で済まされるレベルを超えていた。

彼が前回の戦いで学んだ「圧縮」。

それを、この短期間で我が物としている。

体外へ放出していた無駄な魔力を全て内側へ封じ込め、血管の一本一本、細胞の一つ一つに循環させている。

今の彼は、歩く爆弾だ。

「……始めようか」

ベアトリクスが動いた。

予備動作なしの刺突。

雨粒を貫き、音速を超えて迫る刃。

キィィィン!!

シドの剣が、それを弾く。

真っ向からの迎撃ではない。

剣の側面を擦らせ、軌道を逸らす「受け流し」。

最小限の力で、最大の威力を無効化する技術。

「ほう」

ベアトリクスは感心しつつ、追撃の手を緩めない。

弾かれた勢いを回転運動に変え、蹴りを放つ。

シドはそれを腕でガードし、同時に魔力を爆発させてカウンターの突きを放つ。

泥が跳ね、衝撃波が雨を吹き飛ばす。

二つの影が交錯し、離れ、また衝突する。

数週間前、彼はベアトリクスに遊ばれていた。

五日前、彼はベアトリクスに挑み、玉砕した。

そして今日。

彼は、ベアトリクスの剣劇に「ついてきて」いる。

(視えているね)

ベアトリクスの剣速は、人間の動体視力を遥かに超えている。

だが、シドは眼球で追っているのではない。

魔力の流れ、筋肉の収縮、重心の移動。

それらを超高速で演算し、未来位置を予測している。

天才、という言葉では陳腐すぎる。

これは、執念の産物だ。

「最強になりたい」という、ただ一点のみに魂を燃やした結果、生物としてのスペックを強制的に進化させたのだ。

「甘いッ!」

シドの叫びと共に、彼の剣が紫電を帯びる。

魔力の圧縮率が跳ね上がる。

ベアトリクスの防御をこじ開けようとする、重く鋭い一撃。

ベアトリクスは、それを正面から受け止めた。

ガガガガッ!

火花が散る。

鍔迫り合い。

力の均衡。

いや、僅かにシドが押し込んでいるか。

魔力放出量において、成長期の子供である彼の潜在能力は、エルフの枠組みを超えている。

至近距離。

二人の顔が近づく。

シドの瞳が、ベアトリクスの瞳を射抜く。

「……奇妙だとは思わんか」

シドが、鍔迫り合いの最中に口を開いた。

その声は、冷静だった。

戦いの高揚感の中にあって、彼の思考の一部は冷徹に観察を続けていたのだ。

「何がだい」

ベアトリクスは微笑みながら力を込める。

「貴様の剣だ」

シドは、ギリギリと音を立てながら続けた。

「世間は貴様を武神と呼ぶ。百年の時を生きたエルフの英雄だと。……だが、計算が合わない」

「計算?」

「ああ。……百年の研鑽で、この領域には至れない」

シドの言葉に、ベアトリクスの瞳が僅かに揺れた。

シドは確信していた。

彼自身、前世の記憶と今世の修行、合わせて数十年分の「戦いの記憶」を持っている。

そして、狂気的なまでの反復練習と、現代知識による効率化。

それでようやく、この世界の上位陣を圧倒できる力を手に入れた。

だが、ベアトリクスは違う。

彼女の剣には、重みがありすぎる。

技術的な完成度だけではない。

「無駄なものを削ぎ落とした回数」が違うのだ。

一億回振っても、この透明な太刀筋にはならない。

十億、百億、あるいはそれ以上。

途方もない数の屍を積み上げ、途方もない数の敗北と勝利を繰り返し、歴史の彼方から歩いてこなければ、纏えない空気がある。

「貴様の剣の『年輪』は、百年やそこらの浅いものではない。……千年、いや、それ以上か」

シドは言い放つと、魔力を解放して距離を取った。

雨の中に着地し、油断なく構える。

「貴様は何者だ? ただのエルフではない。……その強さ、その深淵。歴史の影に埋もれた『何か』か?」

シドの問いかけは、鋭利な刃物のようにベアトリクスの核心を突いた。

世界中の誰もが、彼女を「才能あるエルフ」としてしか見ていない。

長寿のエルフといえど、数百年生きれば長老扱いだ。

だから彼女は、適当なところで経歴を偽装し、名前を変え、あるいは「武神」という称号の後ろに隠れて生きてきた。

誰も気づかなかった。

あるいは、気づけるほどの領域に達した者がいなかった。

だが、この少年は気づいた。

剣を交えただけで。

肌で感じる「格」の違和感を、正確に言語化した。

ベアトリクスは、ふっと力を抜いた。

構えを解いたわけではない。

だが、纏っていた「武神ベアトリクス」としての仮面を、少しだけ外した。

その瞬間に漂った気配は、荒々しい戦神のものではなく、悠久の時を見守る古木のような、静かで、しかし圧倒的な「古」の気配だった。

「……鋭いね」

ベアトリクスは、雨空を見上げた。

「たかだか100年程度のエルフで至れる技術ではないと言いたげだね」

シドは無言で肯定する。

「でも正解だ」

彼女は視線をシドに戻した。

その瞳は、深海のように暗く、そしてどこまでも澄んでいる。

「君の前にいるのは、2000年生きた剣士だ」

その告白は、雨音にかき消されることなく、シドの耳に届いた。

2000年。

国家が興り、滅び、歴史が神話に変わるほどの歳月。

それを、ただひたすらに剣と共に生きてきた。

シド・カゲノーの反応は、恐怖ではなかった。

驚愕ですらなかった。

彼の肩が、震えた。

そして、口元が三日月のように裂けた。

(キタコレ……ッ!!)

シドの内心は、爆発的な歓喜に満ちていた。

これだ。これこそが求めていた設定だ。

「実は伝説の英雄が生きていた」?

「歴史の裏側を知る不老の存在」?

最高じゃないか。

そんな存在と、今、人知れず森の奥で剣を交えている。

このシチュエーションだけで、丼飯が三杯いける。

彼は、その溢れ出る興奮を『陰の実力者』としての威厳ある態度(ロールプレイ)に変換する。

「クク……、フハハハハ……ッ!」

シドは顔を覆い、低い笑い声を漏らした。

それは演技半分、本音半分。

「なるほど……。道理で、我の刃が届かぬわけだ」

シドは手を広げ、雨を掴むような仕草をした。

その態度は、相手への敬意と、それ以上の傲慢さに満ちている。

「悠久の時を旅する古き神……。それが、今の世に『武神』として現界しているとはな。……面白い」

彼はスッと姿勢を正し、剣を正眼に構えた。

その構えには、先ほどまでの「勝ちたい」という焦りはない。

あるのは、偉大なる先達への挑戦権を得た者の、粛々とした覚悟。

「我はシャドウ。……光なき世界を統べる者」

彼は自ら名乗った。

スレイヤーなどという即興の偽名ではない。

彼が心血を注いで作り上げつつある、真の『陰の実力者』としての名を。

「2000年の深淵、この身で味わわせてもらおう」

ベアトリクスは、目を見開いた。

彼は引かなかった。

2000年という途方もない数字を聞いても、彼は絶望するどころか、より一層目を輝かせ、挑んでくる。

普通なら、心が折れる数字だ。

努力で埋められる差ではないと悟るはずだ。

だが、彼はその「差」すらも、楽しむべきコンテンツとして飲み込んだ。

「……いい子だ」

ベアトリクスは心から笑った。

この数百年間で、一番楽しい夜かもしれない。

彼女もまた、構えを変える。

今まで見せていた、現代風のエルフ剣術の構えではない。

もっと古臭い、しかし実戦的で、洗練の極みにある「原初の剣」の構え。

「なら、敬意を表して。……老骨の思い出話に付き合ってもらおうか」

ドォォォォォォォン……!

二人の魔力が衝突し、雨雲を吹き飛ばした。

森に光が満ちる。

一つは、黄金に輝く悠久の魔力。

一つは、紫に輝く深淵の魔力。

「行くぞ、古き者よッ!」

「来な、若き影よッ!」

衝突。

それはもはや、剣術の試合ではなかった。

災害だ。

ベアトリクスの一撃は、地形を変える。

ただ剣を振るうだけで真空波が生まれ、直線上の全てを切り裂く。

魔力など乗せていないかのように見えて、その実、空間そのものを味方につけたかのような理不尽な破壊力。

対するシドは、その嵐の中で舞っていた。

受け止めれば死ぬ。

ならば、受け止めなければいい。

水のように形を変え、風のように衝撃を流す。

2000年の重みを、十数年の才覚と狂気でいなし続ける。

「我は、全てを視る……!」

シドが叫ぶ。

極限集中状態(ゾーン)。

ベアトリクスの剣の軌道が、光の線となって視える。

その線の上をなぞるように、死神の鎌が首元へと迫る。

ベアトリクスは、それを最小限の動きで回避しながら、シドの成長に舌を巻いていた。

(教えたことを、もう昇華している)

魔力の制御。圧縮。

それらを組み込み、彼女の剣術すらも吸収しようとしている。

この子は、戦いの中で進化する怪物だ。

あと数年もしないうちに、本当に届くかもしれない。

あるいは、2000年の経験すらも追い抜いていくかもしれない。

(なんて、楽しみな未来なんだろう)

ベアトリクスは、剣に渾身の魔力を込めた。

手加減はもう、失礼だ。

殺す気で振るう。

それが、彼に対する最大の教育であり、愛だ。

「――■■」

ベアトリクスが古代語の魔法を紡ぐ。

剣先から放たれたのは、重力の奔流。

上空から巨大な圧力がシドを襲う。

「ぐ、ウオオオオオオッ!!」

シドは紫色の魔力を全方位に展開し、重力波に抵抗する。

膝が地面にめり込む。

骨がきしむ。

だが、彼は倒れない。

「我は……屈さぬ……ッ!」

歯を食いしばり、血を流しながら、シドは重力の中で剣を振り上げた。

理不尽な神の御業に対し、人の身で抗う意志の光。

「アイ・アム……!」

彼の奥義が発動しかける。

だが、その前にベアトリクスの剣が、シドの剣を弾き飛ばした。

重力で動きが鈍った一瞬の隙。

その隙を見逃すほど、2000年の剣士は甘くない。

シドの体が吹き飛ぶ。

泥水の中を転がり、大木に激突して止まる。

空を見上げる余裕すらない。

完全な、ガス欠。

雨が、再び降り始めていた。

静寂が戻る。

ベアトリクスは、倒れ伏すシドの元へと歩み寄った。

肩で息をしている。

彼女自身、ここまで息を切らせたのは何百年ぶりだろうか。

衣服のあちこちが破れ、白い肌が覗いている。

かすり傷も数箇所。

「……見事だよ」

彼女は倒れているシドに声をかけた。

シドは返事をしない。

気絶しているようだ。

だが、その手はまだ何かを掴もうとするように、虚空へ伸ばされていた。

ベアトリクスは、その汚れた手を取り、そっと腹の上に置いた。

そして、自分のマントを脱ぎ、彼にかけてやる。

「2000年生きて、君みたいな馬鹿に会ったのは片手で数えるほどだ」

彼女は優しく呟いた。

その表情は、慈愛に満ちていた。

孤独な頂に立つ者同士にしか分からない、共感。

「また遊ぼう。……シャドウ」

ベアトリクスは、その名を口の中で転がした。

悪くない響きだ。

いつかその名が、世界を震撼させる日が来ることを予感しながら。

彼女は雨の中へと消えていった。

もはや、ただの通りすがりのエルフではない。

一人の少年の、「最大の壁」であり「秘密の共有者」として。

雨上がりの朝。

目を覚ましたシド・カゲノーは、体にかかった上質な布のマントと、全身の激痛、そして何よりも「2000年の師匠」を得たという事実に、痛む体を抱えて高笑いしたという。

「ククク……全ては計画通り……。世界の裏側は、我の手の中にある……!」

もちろん、計画などなかったのだが、結果オーライである。

こうして、陰の実力者と武神の、奇妙で過激な交流は続いていくのだった。

 

 

月が雲に隠れ、星の光さえ届かない漆黒の夜。

カゲノー領の森の最奥部、もはや原形を留めていないその場所は、異界の如き静寂に包まれていた。

シド・カゲノーは、闇に溶けるようにして立っていた。

全身を漆黒のスライムスーツ(まだ開発途上の試作品だが)で覆い、その上からボロ布のコートを羽織る。

その姿は、この世界の住人ではない「影」そのもの。

対するベアトリクスは、変わらぬ姿でそこにいた。

だが、その在り方は明らかに異なっていた。

以前までの、どこか超然とした剣士の雰囲気ではない。

もっと根源的で、おぞましく、それでいて神々しいまでの「異物感」が漂っている。

「……問おう」

シドの声が、重く響く。

彼は「シャドウ」としてのロールプレイに完全に没入していた。

目の前の存在が、ただの長寿のエルフなどではないと確信したからこそ、彼もまた人であることをやめた「超越者」として振る舞う。

「貴様は先刻、二千年と言った。……だが、エルフという種族の寿命は、いかに長くとも数百年。歴史の表舞台から姿を消した貴様が、なぜ今もこうして『形』を保っている?」

それは純粋な疑問だった。

設定厨としてのシドが、この激レアな「隠しキャラ」の背景設定(バックボーン)を知りたがっているのだ。

ベアトリクスは、自らの手を見つめた。

白く、滑らかな肌。

若々しい、二十代に見える外見。

だが、彼女はその手を握りしめ、自嘲気味に笑った。

「勘違いされていることが多いけれどね」

彼女の声は、夜風よりも冷たかった。

「エルフはせいぜい生きて300年程度だよ。魔力を練り、肉体の老化を遅らせたとしても、500年生きれば歴史に残る長寿だ」

彼女は視線をシドに戻す。

その瞳の奥で、黄金色の光が揺らめいた。

それは生命の輝きではない。

炉の中で燃える炎のような、純粋なエネルギーの光。

「肉体には限界がある。細胞の分裂回数、魂の器としての耐久度。……百年も剣を振るえば、関節は摩耗し、神経は焼き切れるのが生物の理(ことわり)だ」

ベアトリクスが一歩、足を踏み出す。

その足元の草花が、一瞬で枯れ果て、灰になって崩れ落ちた。

彼女から漏れ出る魔力が、周囲の生命力を吸い上げているかのように。

あるいは、あまりに高濃度な魔素に耐えきれず、世界そのものが壊死しているのか。

「私はね、とっくの昔に死んでいるんだよ。……生物としてはね」

衝撃的な告白。

だが、シドは眉一つ動かさない。

内心では(アンデッド系!? それとも精神体!? うわあああ、厨二心が疼くううう!)と絶叫しているが、表面上は冷徹な「陰の実力者」を崩さない。

「ほう……。ならば、今そこに在る貴様は何だ?」

「魔力だ」

ベアトリクスは答えた。

「二千年の時を経て、私の肉体はすべて魔力に置き換わった。骨も、血も、肉も。……この姿は、私の『自己認識(イメージ)』が魔力を固めて作り出した、ただの殻に過ぎない」

彼女は自分の胸に手を当てた。

心臓の鼓動はある。だが、それは血液を循環させるためのものではなく、魔力炉がパルスを発している振動に過ぎない。

「私はもうエルフじゃないよ。生物という領域から既に離れて久しい」

彼女の輪郭が、不意に揺らいだ。

まるでテレビのノイズのように、一瞬だけ彼女の姿が霧散し、また再構築される。

物理的な干渉を受け付けない、幽鬼のような存在。

しかし、ひとたび剣を振るえば山をも砕く、物理最強の存在。

「人は私を武神と崇める。エルフの英雄だと讃える。……滑稽な話さ」

ベアトリクスは、虚空から剣を取り出した。

いや、取り出したのではない。

彼女の指先から黄金の粒子が噴出し、それが剣の形を成したのだ。

装備すらも、彼女自身の一部。

「私はただ、強さを求めて剣を振り続け、気づけば死ぬことすら忘れてしまった化物だ」

彼女はシドを見据え、その口元に凶悪な笑みを浮かべた。

それは、初めて見せる彼女の「素顔」だったかもしれない。

理性的な武神ではない。

力を貪る捕食者の顔。

「『魔人』とでも呼んでくれ」

魔人。

その言葉が、シド・カゲノーの脳髄を貫いた。

(魔人……ッ! 武神の正体は、古の時代から生き続ける魔人ベアトリクス……!)

シドの中で、パズルのピースがカチリとハマる音がした。

最高だ。

ただのエルフの達人では物足りないと思っていた。

だが、相手が「魔人」ならば話は別だ。

人外には人外を。

魔人には、影の叡智を。

シドは肩を震わせ、空を仰いだ。

「クク……クハハハハハ……ッ!」

高笑いが夜の森に木霊する。

それは狂気じみた笑いだが、どこか楽しげでもあった。

「面白い……。実に面白いぞ、魔人ベアトリクス」

シドはゆっくりと剣を構えた。

スライムソードが漆黒の刀身を伸ばす。

「我は、世界の真実を探求する者。……光の皮を被った嘘偽りの平和など興味はない。我が見据えるのは、その裏側に潜む闇と深淵」

彼はベアトリクス――魔人を指し示す。

「貴様のような存在こそが、我の求めていた『世界の裏側』だ」

「……受け入れてくれるのかい? この異形の姿を」

「愚問だな」

シドの瞳が、青紫の魔光を放つ。

「我もまた、人であることを捨てた身。……貴様が魔人ならば、我は影に潜む魔(あくま)。……どちらがより深い闇か、試してみようではないか」

ベアトリクスは、嬉しそうに目を細めた。

二千年の孤独。

誰にも理解されず、誰にも正体を明かせず、ただ「武神」という偶像を演じ続けてきた日々。

それを、この名の知れぬ少年――シャドウは、笑い飛ばして肯定した。

「人外同士、殺し合おうぜ」と。

これ以上の救済があるだろうか。

「行くよ、シャドウ」

「来い、魔人」

今、人知れず、神話級の戦いが幕を開ける。

初撃は、音すらなかった。

ベアトリクスの姿が消失した瞬間、シドの首が飛んでいる――はずだった。

ガギィン!!

虚空で火花が散る。

シドは剣を振っていない。

背中から伸ばした「スライムの触手」が、硬質化して刃となり、死角からの斬撃を防いでいた。

「ほう、身体構造まで変えているのか」

「我の肉体は変幻自在……。固定された形など、弱点にしかならぬ」

シドのコートの下で、スライムスーツが蠢く。

筋肉の収縮を補助し、時には盾となり、時には第三の手となる。

対するベアトリクスは、魔力そのものと化した肉体を霧散させ、物理攻撃を透過しながら接近する。

「物理無効か……! ならばッ!」

シドは剣に魔力を過剰充填する。

ただの斬撃ではない。

魔力を高周波で振動させ、空間そのものを削り取る一撃。

魔力体であろうと、その「構成魔力」を断てばダメージは通る。

「ハァッ!!」

シドの一閃が、ベアトリクスの胴体を薙ぎ払う。

黄金の粒子が飛び散る。

手応えあり。

だが、ベアトリクスは笑っていた。

斬られた断面から、即座に魔力が収束し、肉体が再生する。

再生というよりは、液体の水が元に戻るような自然現象。

「効かないねぇ。私の核(コア)を砕かない限り、この体は何度でも蘇る」

「核か……。ゲームのボスらしくて嫌いではない」

シドは距離を取り、思考を加速させる。

(物理無効、無限再生、超高速移動、高火力。……ラスボススペックすぎるだろ)

普通なら詰んでいる。

だが、シドは諦めない。

むしろ、攻略法を考えるこの瞬間が至福。

「ならば、全てを消し飛ばすまで」

シドが魔力を練り上げる。

周囲の空間が紫色に歪む。

だが、ベアトリクスは待ってくれない。

「させないよ」

彼女が手を掲げる。

上空に、無数の黄金の剣が出現する。

『千本桜』のような、あるいは『ゲート・オブ・バビロン』のような、圧倒的物量の弾幕。

「雨のように降り注げ――『神罰』」

ドガガガガガガガッ!!

光の剣の豪雨。

一本一本が、戦車を貫くほどの威力を秘めている。

シドは剣を風車のように回転させ、防御するが、数が多すぎる。

「チッ……!」

数本の光剣が、シドの四肢を貫く。

肩を、太腿を、脇腹を。

鮮血が舞う。

だが、シドは倒れない。

貫かれた傷口を、スライムと魔力で強引に塞ぎ、痛覚信号を遮断する。

「我は止まらぬ……!」

血塗れになりながら、シドは突っ込む。

弾幕の雨の中を、光の剣を足場にして跳躍し、ベアトリクスの懐へと肉薄する。

「いい目だ」

ベアトリクスは感嘆する。

体が穴だらけになっても、その闘志は微塵も衰えていない。

むしろ、死に近づくほどに魔力が研ぎ澄まされていく。

「だが、届かない」

ベアトリクスは、自身を中心とした半径5メートルに、絶対切断領域を展開する。

近づくもの全てを原子レベルで分解する、魔力の嵐。

魔人としての彼女が纏う、攻防一体の鎧。

シドがその領域に踏み込んだ瞬間、スライムスーツが蒸発し始める。

皮膚が焼け、肉が裂ける。

それでも。

シドは一歩を踏み出した。

「届かぬなら……届く場所まで世界を変えるまで」

彼は、自身の魔力を体内で暴走させた。

制御された暴走。

核融合のような超高エネルギー反応を、自身の体内という閉鎖空間で引き起こす。

「我は核(コア)となる……」

彼の体が青白く発光する。

ベアトリクスの分解領域すらも中和し、押し返すほどの魔力密度。

「な……ッ!?」

ベアトリクスが初めて焦りの色を見せた。

この少年は、自分の命を燃料にして、彼女の「不死性」を上回る火力を出そうとしている。

「アイ・アム……」

シドが剣を振り上げる。

その剣先には、彼が全存在を賭けた破滅の光が宿る。

「魔人よ、貴様が永遠を生きるなら、我はその永遠ごと焼き尽くす一瞬となろう」

詠唱は完了した。

だが、シドはそれを放たなかった。

いや、放つ寸前で、その膨大なエネルギーを剣先の一点に凝縮させたまま、ベアトリクスの「核」を見極めようとした。

(どこだ……。心臓か? 脳か? いや、魔力の流れが最も濃い場所……)

視えた。

丹田の奥底。

黄金の光が渦巻く、小さな特異点。

「そこかァァァァッ!!」

シドの突きが放たれる。

ベアトリクスの防御壁を貫通し、再生する肉体をこじ開け、その深奥にある「核」へと迫る。

ベアトリクスは、回避行動を取らなかった。

取れなかったのではない。

その美しい刃の輝きに、一瞬だけ魅入ってしまったのだ。

二千年の倦怠を切り裂く、鮮烈な「死」の予感。

ピキッ。

乾いた音が響いた。

シドの剣先が、ベアトリクスの核に触れた音。

だが、砕くには至らなかった。

寸前で、ベアトリクスの膨大な魔力が自動防衛反応を起こし、シドを弾き飛ばしたからだ。

ドォォォォォォォン!!

シドの体は光の彼方へと吹き飛ばされ、森を数キロにわたって更地にした後、巨大なクレーターを作って沈黙した。

静寂が戻る。

ベアトリクスは、呆然と立ち尽くしていた。

腹部に開いた風穴。

そこから覗く、わずかにヒビの入った「核」。

「……ハハ」

彼女は乾いた笑いを漏らした。

あと一歩。

あとコンマ一秒、彼の魔力が持続していれば。

あるいは、あと数年、彼が成長していれば。

私は、死んでいたかもしれない。

「痛いな……」

二千年ぶりに感じる、死の恐怖と痛み。

だが、それは不快ではなかった。

むしろ、自分がまだ「生きて」いたことを実感させる、甘美な痛みだった。

彼女は傷を修復しながら、クレーターの方へと歩き出した。

魔力を使い果たし、炭のようになった少年が倒れている。

普通なら死んでいる。

だが、彼女にはわかる。

彼の魂の灯火は、まだ消えていない。

むしろ、死の淵を覗いたことで、より強く燃え上がろうとしている。

「魔人殺し(スレイヤー)……いや、シャドウか」

ベアトリクスは、意識のないシドの頭を撫でた。

「君は正真正銘の怪物だ。……私の待ち望んだ、最愛の敵だ」

彼女は懐から、最高級のポーション(おそらくどこかの遺跡から掘り出してきた国宝級のもの)を取り出し、惜しげもなくシドに振りかけた。

さらに、自身の黄金の魔力を分け与え、崩壊しかけた彼の肉体を繋ぎ止める。

「生きなさい。そして、次こそは私を殺しておくれ」

それは呪いのような、祈りのような言葉だった。

夜明けが近い。

東の空が白み始めている。

ベアトリクスは立ち上がり、朝日を背にして歩き出した。

その足取りは軽い。

「魔人」としての孤独な生に、明確な「目的」が生まれたからだ。

彼を育てる。

そしていつか、最高の舞台で、彼の手によって幕を引く。

それが、二千年の時を生きた魔人が見つけた、新たな「遊び」であり「夢」だった。

数時間後。

目を覚ましたシドは、完治した体と、なぜか増えている魔力総量に首を傾げつつも、

「ククク……魔人との死闘、そして復活……。力が馴染む……これが『覚醒イベント』か……!」

と、勝手な解釈をして満足気に帰路につくのであった。

彼の背中には、目に見えない「魔人の加護」が刻まれていることも知らずに。

こうして、陰の実力者と魔人の関係は、師弟を超え、宿敵を超え、奇妙な共犯関係へと進化していった。

 

 

雨上がりの森は、湿った土と鉄錆の匂いが混じり合っていた。

前回、魔人ベアトリクスとシド・カゲノーが更地にしたこの場所は、数日の時を経てなお、破壊の爪痕を生々しく残している。

夜闇の中、シドは立っていた。

全身から立ち昇る青紫の魔力は、以前よりも遥かに静かで、しかし濃密だ。

前回の「魔人」との戦いで掴んだ感覚。

魔力を放出するのではなく、循環させ、圧縮し、一点に留める技術。

彼は今、それを実戦で試したくてうずうずしていた。

(来た……)

空間が揺らぐ。

黄金の粒子が集い、一人の女性の形を成す。

武神であり、魔人であるベアトリクス。

彼女はいつものように、音もなくそこに現れた。

「待っていたぞ、古き者よ……」

シドは芝居がかった動作で剣を抜き、月光にかざす。

「今宵こそ、貴様の『核』を砕き、その永遠に終止符を打とう」

彼は本気だった。

殺す気でやる。それが彼女への礼儀であり、何より最高に盛り上がる展開だからだ。

シドが地面を蹴ろうと重心を沈めた、その時だった。

「待った」

ベアトリクスが、制止の手を掲げた。

その声には、いつもの倦怠感とは違う、微かな緊張が含まれていた。

シドはピタリと動きを止める。

不意打ちを警戒しつつ、彼女の様子を観察する。

彼女は剣を抜いていない。

それどころか、その腕には「何か」が抱えられていた。

ボロ布に包まれた、赤黒い肉塊のようなもの。

「……何の真似だ?」

シドが剣先を下げることなく問う。

「今日やりあったら、可哀想な命が吹き飛ぶ」

ベアトリクスは、抱えているボロ布を少しだけ開いた。

そこから漂ってきたのは、強烈な腐臭。

そして、禍々しいまでの魔力の暴走反応。

シドは眉をひそめた。

(なんだあれ……腐った肉? いや、生きているのか?)

ボロ布の中にあるのは、原形を留めぬほどに肉が膨張し、黒ずんだ「人」だった。

辛うじて顔のパーツらしきものは見えるが、目は虚ろで、呼吸も浅い。

全身から黒い霧のような瘴気が漏れ出している。

「悪魔憑き……」

シドは、この世界の一般常識としての知識を口にした。

魔力が体に馴染まず暴走し、肉体が変異する呪い。

教会によれば、悪魔の呪いとして処理され、見つかれば処刑される運命にある者たち。

「世間ではそう呼ばれているね」

ベアトリクスは、その肉塊を優しく地面に降ろした。

まるで壊れ物を扱うように。

「でも、これは呪いなんかじゃない。……魔力の過剰な蓄積による、肉体の変異だ。先祖返りと言ってもいい」

彼女はシドを見上げた。

その黄金の瞳は、試すような光を宿している。

「エルフの英雄の血。その血が濃く出た子供に現れる症状さ。……私と同じようにね」

「ほう……」

シドは興味深そうに頷いた。

(なるほど、設定がつながった。魔人である彼女も、かつてはこうだったということか? 英雄の血脈、呪われた運命……厨二心が疼く!)

「教会はこの子たちを殺す。エルフの里も、これを忌み子として捨てる。……けれど」

ベアトリクスはシドを指差した。

「これは『治せる』よ」

「治せる、だと?」

「ああ。暴走している魔力の回路を整え、過剰なエネルギーを循環させてやればいい。……理論上はね」

ベアトリクスは立ち上がり、シドに場所を譲るように一歩下がった。

「私は魔力が強すぎて、この子の細い回路を焼き切ってしまう。……今の私は、破壊に特化しすぎた」

彼女は寂しげに笑った。

二千年を生きた魔人。その力は強大すぎるが故に、繊細な修復作業には向かない。

指先で触れただけで、この消えかけの命を消滅させてしまう。

「でも、君ならできる」

ベアトリクスは確信を込めて言った。

「君の魔力操作は異常だ。前回の戦いで見せた、あの緻密な圧縮技術。そして、スライムという不定形の物質を自在に操り、肉体と一体化させる発想。……君ならば、この子の崩れた肉体を再構築できるはずだ」

シドは、地面で荒い息を吐く肉塊を見下ろした。

正直、グロテスクだ。

臭いもきつい。

だが、ベアトリクスの言葉は、彼にとって無視できない「挑戦状」だった。

『治せる』という事実。

それはつまり、彼が目指す「万能の陰の実力者」としてのスキルツリーに、新たな項目が加わることを意味する。

それに、もし本当に治せるなら、それは魔法技術の革命だ。

(……実験台としては悪くない)

シドのマッドサイエンティストな部分が顔を出す。

彼はあくまで「魔力の実験」として、これを受け入れた。

「やってみて、シャドウ」

ベアトリクスの声に、シドは無言で頷いた。

彼は肉塊の前に跪き、その黒ずんだ胸元に手をかざした。

「……いいだろう。我の魔力、深淵の如く繊細に、この肉体を侵食する」

集中する。

シドの指先から、極細の魔力の糸が伸びる。

それはスライムよりも細く、神経よりも鋭敏な、青紫の光。

肉塊の中に侵入させる。

(うわ、中はもっと酷いな……)

魔力回路がズタズタだ。

血管も神経も、暴走した魔力によって癒着し、ねじ切れ、カオスな状態になっている。

これを治す?

パズルなんてレベルじゃない。

一度バラバラになった砂の城を、一粒ずつの位置を特定して組み直すような作業だ。

だが。

(……面白い)

シドの口元が歪む。

難しいほど燃える。

彼は自分の魔力を送り込み、暴走する魔力の流れを一つ一つ捕捉していく。

強引にねじ伏せるのではない。

流れに逆らわず、誘導し、正しい位置へと戻していく。

ベアトリクスは、その光景を息を呑んで見守っていた。

視える。

彼女の「魔人の眼」には、シドが行っている神業がはっきりと視えていた。

何という精度。

何という集中力。

ナノメートル単位の魔力操作を、億という数で同時に行っている。

それはもはや、魔法というよりは「奇跡」の領域。

「……すごいね」

思わず漏れた感嘆。

二千年を生きた彼女ですら、ここまでの制御力は持っていない。

彼は、破壊だけでなく、再生においても頂点に立とうとしている。

時間が経過する。

シドの額に汗が滲む。

だが、彼の手は止まらない。

黒い瘴気が少しずつ晴れていく。

赤黒く腫れ上がった肉が剥がれ落ち、その下から、白く透き通るような肌が現れ始める。

(回路がつながった。余剰魔力を圧縮し、安定化させる……!)

シドが最後の仕上げに入る。

暴走していた膨大な魔力を、少女の体内に新たな循環系として定着させる。

それは、彼が自分自身の体で行った改造と同じ原理。

カッ!!

青紫の光が弾けた。

腐臭が消え、代わりに甘い花の香りのような魔力の残滓が漂う。

光が収まった後。

そこに横たわっていたのは、肉塊ではなかった。

月光を浴びて輝くような金髪。

陶磁器のように白い肌。

そして、長い耳を持つ、絶世の美少女エルフ。

まだ幼さが残るが、その顔立ちは将来の傾国の美女を約束されていた。

「……成功、か」

シドはふぅ、と息を吐き、立ち上がった。

達成感がある。

かなり難易度の高いパズルをクリアした気分だ。

それに、結果として現れたのが、グロテスクな肉塊ではなく美しいエルフだったことは、視覚的にも報酬と言える。

「見事だ……」

ベアトリクスが歩み寄る。

彼女は少女の頬に触れた。

温かい。

脈も正常。

魔力の暴走は完全に沈静化し、むしろ以前よりも強大な魔力を内包したまま安定している。

「悪魔憑きを治すなんて、歴史上、誰も成し遂げられなかった偉業だよ」

「フッ……我にとっては、ただの指の運動に過ぎん」

シドは格好をつけて背を向ける。

内心では(やったぜ! これで回復魔法のスキルレベルも上がったな!)とガッツポーズをしているが。

その時、少女の瞼が震えた。

ゆっくりと、その目が開かれる。

深い青色の瞳。

まだ焦点は合っていないが、彼女は自分の体を見下ろし、そして目の前に立つシドの背中を見た。

「……あ、なた……は……」

掠れた声。

シドは振り返らない。

ただ、背中で語る。

「……目覚めたか」

少女は震える手で、自分の顔に触れた。

崩れていない。痛くない。

死の淵を彷徨っていた絶望から、引きずり上げられた感覚。

「貴方が……私を……?」

シドは答えず、ベアトリクスの方を見た。

この子をどうするつもりだ、という視線。

元々ベアトリクスが連れてきたのだ。彼女が引き取るのが筋だろう。

ベアトリクスは、少女の顔をじっと見つめていた。

そして、ふと思い出したように、ポンと手を打った。

「………あ、私の探してるという名目の子だ」

「は?」

シドが素っ頓狂な声を出しそうになるのを堪える。

(名目? 今、名目って言った?)

ベアトリクスは、ニヤリと笑った。

「私の姪っ子だよ。……まあ、正確には妹の孫の孫の……くらい離れてるけどね。一応、血縁だ」

「……ほう」

「国を出て行方不明になっていたから、一族の長老たちに頼まれて探していたんだ。『武神ベアトリクスが探せば見つかるだろう』ってね」

彼女は肩をすくめる。

つまり、彼女はこの子の正体を知っていて、ここまで運んできたのだ。

「なら、連れて帰るのか?」

シドが問う。

治したのだから、家族の元へ帰るのがハッピーエンドだ。

だが、ベアトリクスは首を横に振った。

「いいや」

彼女は冷徹に、しかしどこか慈愛を含んだ目で少女を見た。

少女はまだ混乱し、シドのコートの裾を掴んで怯えている。

「この子は一度捨てられた。エルフの社会は閉鎖的だ。一度『穢れた』とみなされた者は、例え治ったとしても居場所はない。……それに」

ベアトリクスは、シドを見据えた。

「今のこの子には、エルフの里は狭すぎる」

シドによって再構築された魔力回路。

それは、英雄の血を引く彼女の潜在能力を極限まで引き出している。

このまま里に帰れば、その強大すぎる力は再び恐怖の対象となるか、あるいは政治の道具として利用されるだけだ。

「この子には、新しい『世界』が必要だ。……強くて、優しくて、そして狂っている、君のような指導者がね」

ベアトリクスは、育児放棄宣言とも取れる言葉を、堂々と言い放った。

いや、違う。

これは譲渡だ。

彼女が二千年かけて見つけた「最高の素材(シド)」に、自分の血を引く「最高の原石(姪)」を託そうとしているのだ。

「君に預けるよ、シャドウ」

「……我に、荷物を背負えと?」

「荷物じゃない。翼になるよ、きっと」

ベアトリクスは少女の頭を撫でた。

「行きなさい。その黒い背中についていけば、退屈だけはしないはずだ」

少女はベアトリクスを見上げ、それからシドを見た。

その瞳に、迷いはなかった。

絶望の淵で、唯一自分を救い出してくれた青紫の光。

その光の主に仕えることに、何の疑問があるだろうか。

少女はふらつく足で立ち上がり、シドの前に跪いた。

忠誠の誓い。

誰に教わったわけでもない、魂の本能的な行動。

シドは少し困惑した。

(え、マジで? 俺が飼うの? ……まあ、悪くないか。陰の実力者には、有能な配下がつきものだし)

彼は前向きに解釈した。

この美少女エルフが部下になれば、「組織」ごっこが捗る。

「……名は?」

シドが問う。

少女は首を振る。

「捨てられました……。私に、名前はありません」

「そうか」

シドは少し考え、そしてベアトリクスを見た。

お前が名付けろよ、という視線。

だが、ベアトリクスは楽しそうに笑って、

「君が好きに名付けるといいよ」

と丸投げした。

責任逃れではない。

名前を与えることは、支配することであり、新たな生を与えることだ。

それは「主」となるシドの役目だと、彼女は弁えている。

シドは夜空を見上げた。

(最初の一人。始まりの部下。……なら、あれしかないか)

「……アルファ」

ギリシャ文字の最初の一文字。

単純だが、響きはいい。

厨二的にも及第点だ。

「アルファ……。それが、貴様の名だ」

少女――アルファは、その名を口の中で繰り返した。

そして、感極まったように涙を流し、深く頭を垂れた。

「はい……! 我が命、我が全てを、シャドウ様に捧げます……!」

重い。

思ったより反応が重い。

だが、シドは満足だった。

これで「シャドウガーデン(仮)」の結成だ。

ベアトリクスは、その光景を満足げに眺めていた。

これでいい。

彼女の姪は、エルフの因習から解き放たれ、最強の魔人の弟子として、新たな道を歩み始める。

「じゃあ、私は行くよ」

ベアトリクスは背を向けた。

用は済んだと言わんばかりのあっさりとした態度。

「……どこへ?」

「ハンバーガーを食べに。……王都の店が閉まる前に行かないと」

彼女はひらひらと手を振る。

二千年の魔人の行動原理とは思えない俗っぽさ。

だが、去り際に彼女は立ち止まり、振り返った。

「これからも定期的に顔を出すよ」

その言葉は、シドに向けられたものであり、アルファに向けられたものでもあった。

「私の弟子がどう育つか、そして私の姪がどう化けるか。……楽しみにしているからね」

言い残し、彼女は風のように消えた。

残されたのは、ボロ布を纏った少年と、裸にシドのコートをかけられた美少女エルフ。

「……さて」

シドはポリポリと頭をかいた。

「とりあえず、服と飯だな」

「はい、シャドウ様」

アルファは目を輝かせてついてくる。

その瞳には、シドへの絶対的な崇拝と、彼と共に歩む未来への希望が満ち溢れていた。

こうして、歴史の裏側で暗躍する組織「シャドウガーデン」は産声を上げた。

その創設の場に、伝説の武神であり魔人であるベアトリクスが立ち会い、彼女の姪が最初の構成員となったことは、世界の誰も知らない真実である。

シド・カゲノーは、まだ知らない。

このアルファが後に、彼の手を離れて組織を巨大化させ、世界経済すら牛耳る存在になることを。

そして、定期的に遊びに来るベアトリクスが、組織の「影の顧問(特別コーチ)」として、七陰たちをシゴき倒すことになる未来を。

それはまた、別の物語である。

 

霧深い森の奥深く。

かつてはただの更地だったその場所は、今や一つの「組織」の拠点としての機能を持ち始めていた。

古代の遺跡を再利用した石造りの広間。

そこに、張り詰めた空気が満ちている。

玉座――に見立てた瓦礫の山――に足を組んで座る、漆黒のコートの少年、シャドウ。

その足元に跪く、個性豊かな少女たち。

金髪のエルフ、アルファ。

銀髪のショートボブ、ベータ。

青みがかった髪の知性派、ガンマ。

獣人の少女、デルタ。

そして、最近加わったばかりの、高飛車なツインテールのエルフ、イプシロン。

計五名。

『七陰』の席はまだ埋まっていないが、その戦力密度は既に一国の騎士団を凌駕している。

そこへ、招かれざる――否、特別に招かれた客人が、音もなく現れた。

「……随分増えたね」

空間から染み出すように現れたのは、黄金の粒子を纏う魔人、ベアトリクス。

彼女の出現に、獣人のデルタがビクリと耳を震わせ、喉を鳴らして威嚇体勢を取る。

だが、襲いかかりはしない。

本能が告げているのだ。この「匂い」のしない女は、絶対に勝てない捕食者であると。

「ようこそ、古き盟友よ」

シャドウが重々しく頷く。

内心では(おっ、無料の特別コーチ来た! ラッキー、これで今日の指導は任せて僕はサボれる)などと考えているが、表面上はあくまで深淵の支配者である。

ベアトリクスは、新入りの顔ぶれを見渡した。

どの子も、かつては「悪魔憑き」として捨てられ、腐り果てていた者たちだ。

それが今や、洗練された魔力を纏い、それぞれの才覚を開花させている。

「アルファ、ベータ、ガンマ……までは知っていたけれど」

彼女の視線が、犬のように床を這うデルタと、胸を張ってポーズを決めているイプシロンに向けられる。

「獣人の子に、魔力操作の得意な子か。……いい素材を集めたものだ」

「シャドウ様のお力ですわ!」

イプシロンが得意げに胸(スライムで盛っている)を反らす。

ベアトリクスはその不自然な胸の膨らみを一瞬凝視したが、大人の対応で見なかったことにした。

(……なるほど、スライムで体型補正まで。シャドウの技術応用力には恐れ入るね)

「それで、今日の議題は何だい?」

ベアトリクスは適当な岩に腰掛け、リンゴを齧りながら尋ねた。

アルファが一歩前に出る。

彼女は今や、組織の実質的な統括者としての貫禄を身につけていた。

「報告を。……我々の調査により、『ディアボロス教団』の動きが活発化していることが確認されました」

その言葉に、シャドウ――シド・カゲノーは、仮面の下でニヤリと笑った。

(出た出た、ディアボロス教団。アルファの設定作り込みは本当にすごいな。まさか僕が適当に言った「魔人ディアボロス」というワードから、ここまで壮大な敵組織を作り上げるとは。……まあ、ごっこ遊びには敵役が不可欠だし、乗ってやるか)

シドは鷹揚に頷く。

「愚かな者たちだ……。眠れる魔神の封印を解こうなどと」

「はい。教団は魔神の肉体の一部……『ディアボロスの雫』や『肉片』を集め、不老不死の秘薬を完成させようとしています。そして最終的には、魔神そのものの復活を」

アルファの真剣な眼差し。

シドは(へー、不老不死の薬ね。ありがちな設定だけど、動機としては分かりやすい)と感心しながら聞いていた。

だが、ベアトリクスの反応は違った。

「……魔神ディアボロスか」

彼女は齧りかけのリンゴを置き、遠い目をした。

その瞳の奥に、二千年の時を超えた記憶の残滓が揺らめく。

「彼、もしくは彼女は、私にとってきょうだいみたいなものだよ」

静まり返る広間。

アルファたちが驚愕に目を見開く。

「きょうだい……!? 武神様、それはどういう……」

「あるいは、鏡写しの鏡像と言った方が正しいかもしれないね」

ベアトリクスは淡々と語る。

それは、歴史の闇に葬られた真実。

シドだけは、(うおっ、すげえ! ベアトリクスさんまで設定に乗っかってきた! しかも「きょうだい」とかいう重要キャラ設定! さすが二千年生きる魔人(という設定)、アドリブ力が半端ない!)と、一人で盛り上がっていた。

ベアトリクスは自分の白い肌を指先でなぞった。

「魔神ディアボロス。……かつて、人為的に生み出された生体兵器。過剰な魔力を細胞に定着させ、生物としての理(ことわり)を超越した存在」

彼女の視線が、アルファたち「悪魔憑き」だった少女たちに向けられる。

「君たちが苦しんでいた『悪魔憑き』の症状。それは、ディアボロスの細胞が先祖返りとして現れたものだ。……そして、それを制御し、完全に同化させることに成功したのが、私だ」

ベアトリクスの体から、黄金のオーラが立ち昇る。

それは神々しくもあり、同時に禍々しくもある。

「私の身体の構造は、ディアボロスと同じなのだから」

衝撃的な告白。

アルファは息を呑んだ。

彼女たちが崇拝するシャドウ、そして尊敬する師匠であるベアトリクス。

その師匠が、敵対する「魔神」と同質の存在であるという事実。

「つまり……貴女もまた、教団の実験体だったのですか?」

アルファの問いに、ベアトリクスは首を横に振った。

「違うよ。教団が薬や実験で、外側から無理やり到達しようとした場所に、私は二千年の修行と自己改造で、内側から到達してしまっただけさ」

彼女は自嘲気味に笑う。

「求めたのは強さだけだった。けれど、極限まで魔力を身体に馴染ませ、肉体を捨て去った結果、行き着いた先は『魔物』と同じ構造だったというわけさ。……皮肉な話だろ?」

重い沈黙。

それは、強さを求める者の末路を示唆するようでもあった。

アルファたちは、自分たちの未来にその姿を重ね、恐怖と敬畏を抱いた。

だが、一人だけ空気が読めていない男がいた。

「クックック……」

シャドウである。

彼は震える肩を押さえ、低い笑い声を漏らした。

(かっこいい……! 「行き着いた先は魔物と同じ」! この台詞、いつか僕も使おう。いやー、ベアトリクスさん、教団の設定に合わせて自分のキャラ設定も深掘りしてくるとは。これ、完全に即興だろ? 天才か?)

シドにとって、ディアボロス教団は架空の存在だ。

したがって、ベアトリクスが語る「ディアボロスと同じ身体構造」というのも、最高にクールな「厨二設定」に過ぎない。

「面白い……。実に面白いぞ、魔人よ」

シャドウは芝居がかった動作で立ち上がり、ベアトリクスを見下ろした。

「光と闇、神と魔……。表裏一体のコインのように、力とは常に収束する。貴様が魔神の写し鏡であるならば、我はそれを砕く鉄槌となろう」

(訳:君の設定めっちゃいいから採用! でも僕は主人公だから、その設定ごと君を超えるけどね!)

ベアトリクスは、きょとんとした。

彼女の「魔人の眼」は、真実を見抜く。

心拍数、瞳孔の動き、魔力の揺らぎ。

それらを観察すれば、相手が「本気で言っている」のか、「嘘をついている」のか、ある程度は判別できる。

今のシャドウの言葉。

そこには、教団に対する危機感も、魔神に対する憎悪も、ベアトリクスへの警戒心も、一切なかった。

あるのは、「純粋な演劇を楽しむ子供心」のみ。

(……あ)

ベアトリクスは気づいてしまった。

(この子、信じてないな?)

彼女は、シャドウが「ディアボロス教団」の実在を信じていないことを、なんとなく察していた。

彼にとって、アルファたちの報告は「よくできたごっこ遊びの台本」であり、ベアトリクスの告白は「アドリブによる設定追加」だと受け取っている。

普通なら、訂正すべきだろう。

世界は危機に瀕している。教団は実在し、魔神の復活は目前だと。

だが。

ベアトリクスは、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

(くくッ……何それ。最高に笑えるんだけど)

二千年生きてきて、こんな喜劇は初めてだ。

世界を裏から牛耳る最強の組織の長が、組織の目的を「お遊び」だと思っている。

それなのに、彼の実力とカリスマ性によって、組織は完璧に機能し、実際に教団を追い詰めている。

面白い。

面白すぎる。

「……ふふ」

「武神様?」

アルファが怪訝そうに見る。

「ああ、すまない。……シャドウの覚悟に、感銘を受けてね」

ベアトリクスは嘘をついた。

ここで真実を告げるのは野暮だ。

それに、彼が「設定」だと思って行動している方が、結果的に予測不能で面白い事態を引き起こす気がした。

「そうか、君は砕くか。私という鏡像を、そして魔神そのものを」

ベアトリクスは、シャドウの「ごっこ遊び」に乗っかることにした。

「望むところだ。……私は所詮、過去の遺物。君たちが作る新しい時代に、私の居場所があるかどうか……試してみるといい」

彼女が指を鳴らすと、訓練用のゴーレム(遺跡の防衛装置を改造したもの)が起動した。

「さあ、お喋りは終わりだ。……新入りたち。君たちが魔神の眷属に遅れを取らないよう、私が直々に鍛えてあげるよ」

「ヒィッ!?」

デルタが悲鳴を上げる。

彼女は知っている。この「オババ(デルタ視点)」のしごきは、死ぬほど痛いことを。

「イプシロン、君の魔力制御は甘い。スライムで体型を誤魔化す熱意を、もっと攻撃に回しなさい」

「なっ……バレて……!? い、いえ、これは天然の……!」

「嘘をつくなら心拍数まで制御することだね」

カオスな訓練が始まる。

悲鳴と爆発音が森に木霊する。

シャドウは満足げに頷き、再び玉座に深く腰掛けた。

(うんうん、やっぱりベアトリクスさんがいると場が引き締まるな。アルファたちも嬉しそうだ。……さて、僕は彼女がしごいている間に、こっそり抜け出して王都で買い食いでもしてこようかな)

彼は「我は瞑想に入る」と適当な理由をつけて、気配を消した。

ベアトリクスは、消えるシャドウの背中を横目で見送りながら、心の中で呟いた。

(行っておいで、最強の道化師くん。……君がその勘違いのまま、いつか本当に魔神の首を取る日を、楽しみにしているよ)

面白いすれ違いは、解消されることなく。

むしろ、魔人の悪戯心によって、より強固に固定された。

シャドウガーデンと武神、そして勘違い主人公による「世界を巻き込んだ壮大なコント」は、こうして続いていくのである。

 

聖地リンドブルムの地下深く。

「聖域」と呼ばれるその場所は、白亜の光と濃密な霧に包まれていた。

重力が歪み、空間そのものが悲鳴を上げているような、不快な圧迫感。

並の騎士ならば、足を踏み入れただけで精神が崩壊しかねない魔境。

だが、そこを歩く四つの影に、躊躇いはなかった。

先頭を行くのは、黄金の粒子を薄く纏った魔人ベアトリクス。

その後ろに続くのは、漆黒のスライムスーツに身を包んだシャドウガーデンの幹部たち。

第一席・アルファ。

第二席・ベータ。

第五席・イプシロン。

主であるシャドウ(シド)は不在だ。

今日は、ベアトリクスが「面白いものを見せてあげる」と言って、彼女たちを連れ出した課外授業(フィールドワーク)だった。

「……武神様。魔力の濃度が異常です」

イプシロンが眉をひそめ、周囲の霧を手で払う仕草をする。

彼女の誇る緻密な魔力制御をもってしても、この空間の乱れを完全に中和するのは骨が折れるようだ。

「ここは世界の墓場だからね。怨念と記憶が吹き溜まっている」

ベアトリクスは足を止めず、淡々と答える。

「それに、ここには『オリジナル』が眠っている」

「オリジナル……?」

ベータが手帳を取り出し、メモを取る準備をする。

彼女たちの敵、ディアボロス教団。その信仰対象であり、力の源泉である魔神ディアボロス。

その正体に迫ることは、組織にとって悲願である。

長い回廊を抜け、彼女たちは巨大な扉の前に立った。

何重もの魔法障壁と、物理的な封印が施された扉。

教団が数百年かけて維持してきた、絶対不可侵の領域。

ベアトリクスは、その扉に手を触れた。

「開(ひら)け」

詠唱ですらない。ただの命令。

それだけで、黄金の魔力が奔流となって鍵穴に流れ込み、複雑怪奇な封印術式を内側から食い破った。

悲鳴のような金属音と共に、巨大な扉がゆっくりと開く。

中から溢れ出したのは、暴力的なまでの腐臭と、甘美な魔力の香り。

「……ッ!」

アルファたちが身構える。

広いドーム状の空間。その中心に、それはあった。

無数の鎖に繋がれ、培養液のような液体に満たされた巨大なカプセル。

その中に浮かぶ、左腕。

ただの腕ではない。どす黒く変色し、脈打ち、眼球のような腫瘍が無数に蠢く、異形の肉塊。

「あれがディアボロスさ」

ベアトリクスが、まるで道端の石を指差すように言った。

アルファはその光景に息を呑んだ。

彼女たちが戦ってきた「悪魔憑き」の元凶。

教団が崇める神。

その実体は、あまりにもおぞましく、そして悲しい姿をしていた。

「あれが……魔神……」

「教団はあれから細胞を削り取り、『雫』を作り出している。不老不死の探求のためにね」

ベアトリクスの声は冷たい。だが、その冷たさは教団に対する怒りというよりは、もっと根源的な虚無感に近い。

「或いはそう定義つけられた、哀れな哀れな生け贄」

「生け贄、ですか?」

アルファが問う。

「そう。かつて、世界を救うために力を求め、あるいは無理やり力を植え付けられ、制御できずに怪物へと堕ちた少女の成れの果てだ」

ベアトリクスはカプセルに歩み寄る。

彼女の黄金の魔力が、カプセルから漏れ出る瘴気を中和していく。

「ディアボロスという名の神なんていない。いるのは、人間の欲望とエゴによって作り出された、悲劇の被害者だけさ」

その時。

カプセルの周囲の霧が、急速に凝縮を始めた。

紫色の魔力が渦を巻き、人型を形成していく。

「――侵入者……排除……」

機械的な声。

現れたのは、豪奢なドレスを纏った女の幻影。

顔は仮面のようなもので覆われ、生気がない。

ただ、その身から放たれる魔力量は、七陰たちが警戒を最大にするに足るものだった。

「防御陣形!」

アルファの指示で、三人が即座に展開する。

ベータが後方支援、イプシロンが防御壁を展開、アルファが剣を構える。

完璧な連携。

幻影が手を振り上げる。

それだけで、空間ごと削り取るような巨大な爪撃が迫る。

イプシロンの障壁がきしむ。

「くっ……重い……ですわッ!」

「反撃します!」

ベータが魔力弾を放つが、幻影はそれを霧散させて無効化する。

強い。

腐っても魔神の記憶。その防衛機構は、現代の最高戦力すら凌駕する。

だが、ベアトリクスは動かなかった。

彼女は、戦うアルファたちの後ろで、じっとその幻影を見つめていた。

その目は、かつての友を見るような、あるいは出来の悪い芝居を見るような目だった。

「……はぁ」

ため息が一つ。

ベアトリクスが、スッと前に出た。

イプシロンの障壁をすり抜け、幻影の目の前へ。

「武神様ッ!?」

アルファが叫ぶ。

幻影の爪が、無防備なベアトリクスに振り下ろされる――寸前。

パシィ。

乾いた音が響いた。

ベアトリクスは、魔神の爪を素手で受け止めていた。

防御魔法すら使っていない。

ただの膂力と、高密度に圧縮された魔力の皮膚だけで。

「つまらない猿真似はやめなよアウロラ」

ベアトリクスは、幻影の腕を握りしめたまま、底冷えする声で言った。

「昔殺し合った仲だっていうのに、白々しい」

その言葉が落ちた瞬間。

世界が静止した。

幻影の動きが止まる。

仮面の下から漏れていた機械的な殺意が消え、代わりに人間味のある、そして底知れぬ「闇」の気配が滲み出した。

『……あら』

声色が変わる。

機械音声ではない。妖艶で、蠱惑的で、そして傲慢な魔女の声。

幻影の姿が揺らぐ。

仮面が砕け散り、その下から美しい女性の素顔が現れた。

長い黒髪、紫の瞳。

災厄の魔女、アウロラ。

『バレてしまったわね。……相変わらず、可愛げのないエルフだこと』

アウロラは、捕まれた自分の腕を強引に引き抜き、くすくすと笑った。

その笑顔は美しいが、背筋が凍るような狂気を孕んでいる。

「まだ自我を保っていたのかい。しぶといね」

「貴女こそ。……二千年も生き恥を晒しているなんて、物好きにも程があるわ」

二人の間に火花が散る。

物理的な火花ではない。

「魔人」と「魔神」。

二千年前、世界を二分して争い、あるいは共に在ったかもしれない二つの頂点。

その衝突の余波だけで、周囲の空間に亀裂が入る。

アルファたちは動けなかった。

介入できない。

次元が違う。

これは、神話の領域の会話だ。

「……紹介しようか」

ベアトリクスは殺気を収め、後ろの三人を示した。

「私の弟子たちだ。……そして、君の細胞(のろい)を克服し、力に変えた新しい世代だよ」

アウロラの視線が、アルファたちに向けられる。

その瞳が、興味深そうに細められた。

『へぇ……。私の一部を埋め込まれて、自我を保っているの? しかも、これほど美しく制御して……』

アウロラはアルファの前に滑るように移動し、その頬に触れようとした。

アルファは動けない。金縛りにあったように体が竦む。

「触るなよ。その子は私の『盟友』の大事な部下だ」

ベアトリクスが釘を刺す。

『あら、怖い怖い。……でも、いいわね。あいつら(教団)が作った失敗作とは違う。本物の輝きがある』

アウロラは満足げに頷き、再びベアトリクスに向き直った。

『で? わざわざ古傷を抉りに来たの? 私を殺しに来たわけでもなさそうだけれど』

「見学さ。彼女たちに、敵の正体を教えておこうと思ってね」

「見学……。私を見世物扱いとは、いい度胸ね」

アウロラが空間から魔剣を取り出す。

血のように赤い刀身。

『少しは老いたのかしら? 武神なんて大層な名前で呼ばれているようだけれど』

「君こそ。瓶詰めの干物になって、腕は鈍ってないかい?」

ベアトリクスもまた、黄金の剣を生成する。

『フフフ……』

「ハハ……」

二人が笑う。

その瞬間、聖域の最深部で、神話級の模擬戦が幕を開けた。

アルファたちは、その光景を目に焼き付けた。

速すぎて見えない。

ただ、紫と黄金の閃光が交錯し、その度に衝撃波が聖域を揺るがす。

技術、魔力、戦術。

全てにおいて、自分たちが目指すべき頂がそこにあった。

数合の後、二人は同時に距離を取った。

決着をつけるつもりはない。あくまで挨拶代わりの手合わせ。

『……やるじゃない。化け物じみた肉体になって』

アウロラが皮肉っぽく笑う。

「君と同じさ。……私は自ら望んでこうなった」

『……そう。変わらないわね、貴女は』

アウロラの表情が、ふと寂しげに曇った。

彼女はカプセルの中の、自身の肉塊を見上げた。

『私はここで待つわ。……いつか、本当の終わりをくれる誰かを』

「ああ。その『誰か』は、そう遠くない未来に来るよ」

ベアトリクスは確信を持って言った。

シャドウ。

彼なら、この悲しき魔女を、本当の意味で解放できるかもしれない。

「行こう、みんな」

ベアトリクスが踵を返す。

アルファたちは、ハッとして頭を下げ、アウロラに一礼してから後に続いた。

帰り道。

重苦しい沈黙の中、ベアトリクスが口を開いた。

「あれが、魔力の末路だ」

彼女は歩きながら語る。

「力を求めすぎれば、いつか自我は飲み込まれ、世界を呪う災厄になる。アウロラは被害者だが、同時に加害者でもある。……君たちも、気をつけなさい」

それは、師としての重い教えだった。

悪魔憑きという力を克服した彼女たちだからこそ、いつか暴走する危険性がある。

「ですが、私たちにはシャドウ様がいます」

アルファが力強く言った。

「シャドウ様が導いてくださる限り、私たちは道を見失いません」

ベータもイプシロンも、強く頷く。

その瞳には、主への絶対的な信頼が宿っていた。

ベアトリクスは、少し驚いたように彼女たちを見、それから柔らかく微笑んだ。

「……そうだね。あの子なら、大丈夫か」

あのお気楽な、しかし底知れない闇を持つ少年。

彼がアウロラと出会った時、一体どんな化学反応が起きるのか。

魔人ベアトリクスは、それを想像して少しだけワクワクした。

「次は、あの子も連れてこようか。……きっと、アウロラが腰を抜かすよ」

聖域を出ると、外は満天の星空だった。

彼女たちの戦いは、まだ始まったばかりである。

 

光陰矢の如し。

魔人ベアトリクスにとって、数年という歳月は瞬きするほどの長さに過ぎない。

彼女が「少し昼寝をしてくる」と言い残して姿を消してから、季節は幾度か巡り、世界は大きく動いていた。

王都ミドガルの中心街。

そこには、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げた巨大商会、『ミツゴシ商会』の本店が聳え立っている。

洗練された石造りの外観、巨大なショーウィンドウ、そして常に絶えることのない客足。

それは、かつてシャドウガーデンが影の中で活動していた頃とは比べ物にならないほどの、圧倒的な「表の力」の象徴だった。

その最上階。

支配人の執務室には、最高級の調度品が並び、王都の街並みを一望できる大きな窓がある。

「――どうぞ、お茶ですわ」

ガンマが優雅な手つきでティーカップを運ぼうとし――。

何もない平らなカーペットに足を取られた。

「あッ」

体が前のめりに倒れる。

カップの中の熱い紅茶が宙を舞い、ソーサーが放物線を描く。

ミツゴシ商会の総帥としての威厳が崩壊する、いつもの光景。

だが、その液体が床を汚すことはなかった。

空間に黄金の粒子が煌めく。

飛び散った紅茶の一滴一滴が空中で静止し、まるで巻き戻し映像のようにカップの中へと戻っていく。

ソーサーはふわりと着地し、カップはその上に音もなく収まった。

「相変わらずだね、ガンマ」

執務室のソファに深々と腰掛けた女性――ベアトリクスが、宙に浮いたカップを指先で引き寄せ、一口啜った。

「申し訳ありません……! お見苦しいところを……!」

ガンマが真っ赤になって直立不動で謝罪する。

その姿は、商会の冷徹な支配人ではなく、かつて森の中で師に叱られていた少女のそれだった。

ベアトリクスは微笑んだ。

外見は数年前と変わらない。

いや、数千年前から変わっていないのだから当然だ。

ただ、その纏う空気は以前よりもさらに穏やかで、しかし底知れない深淵を感じさせるものになっていた。

「いいや、それでいい」

ベアトリクスは部屋を見渡した。

壁に掛けられた売上グラフ、机に積まれた新商品の企画書、そして世界地図に記された流通ルート。

その全てが、このドジな少女が築き上げた帝国の証明だ。

「ガンマは商才を開花させたんだね。……剣の腕はからっきしだったけれど、頭脳と経営の手腕はずば抜けていた。適材適所でいいんじゃないかな」

「勿体なきお言葉……!」

ガンマは感極まったように瞳を潤ませる。

武神であり、組織の隠れた最高顧問でもあるベアトリクスからの称賛は、彼女にとってシャドウからの言葉に次ぐ栄誉だ。

「ですが、これは全て私の力ではありません」

ガンマは居住まいを正し、崇拝の眼差しで虚空を見上げた。

「主様の『陰の叡智』を、微力ながら形にさせていただいただけに過ぎません。……チョコレート、化粧品、銀行制度、そしてこの建築様式に至るまで。全ては主様が授けてくださった知識です」

ベアトリクスは「ほう」と声を漏らした。

シャドウ――シド・カゲノー。

あの少年が、適当に(あるいは前世の知識で)語った断片的な情報を、この少女が狂気的なまでの忠誠心と天才的な頭脳で解析し、実現させ、莫大な富に変えたのだ。

(あの子……自分が言ったことが、こんな大事(おおごと)になってるって知ってるのかな?)

ベアトリクスは内心で苦笑する。

おそらく知らない。

彼は「なんかミツゴシってすごい店ができたなー、僕のパクり商品売ってるけどまあいいか」くらいにしか思っていないだろう。

そのすれ違いが、ベアトリクスには何より面白かった。

「それで、その『主様』はいま何をしているんだい?」

ベアトリクスが尋ねる。

世界経済を牛耳りつつある組織の長。

裏社会の覇者。

さぞや忙しく暗躍しているか、あるいは魔界の深淵で瞑想でもしているか。

ガンマの表情が、少しだけ曇った。

困惑ではない。

主の深淵なる思考を読み取れない、己の未熟さを恥じる顔だ。

「……主様は現在、ミドガル魔剣士学園にて、生徒として生活しておられます」

「生徒?」

「はい。それも、成績は平均、実技も平均、目立たず、騒がず……徹底して『平凡な一般生徒』を演じておられます」

ガンマは眉間に皺を寄せ、深刻そうに語り出した。

「主様が平凡な学生のフリをしている理由については……私ども七陰の間でも議論が絶えません」

彼女は熱弁を振るう。

「アルファ様は『光の中に身を置くことで、影の輪郭をより明確にするため』と仰っています。ベータは『来るべき時に備え、一般市民の視点から社会構造の脆弱性を分析しておられる』と。……ですが、私にはまだ察せられなくて」

ガンマは悔しげに拳を握りしめた。

「主様には深いお考えがあってのこと……。あえて愚かな大衆の中に身を沈め、侮られる道化を演じることで、世界を裏側から嘲笑っておられるのか。あるいは、私たちの慢心を戒めるために、無言の圧力をかけておられるのか……!」

ガンマの妄想――いや、考察は止まらない。

彼女の中のシャドウ像は、既に神の領域に達しており、彼のくしゃみ一つにすら哲学的意味を見出すレベルだ。

ベアトリクスは、紅茶を飲み干し、静かにカップを置いた。

(……いや、ただのモブプレイだね)

彼女には分かっていた。

シド・カゲノーという少年は、何よりも「形」を重んじる。

「実力を隠して平凡な日常を送る主人公(実は最強)」というシチュエーションに酔いしれているだけだ。

深い考えなどない。

あるのは、純粋で強固な「美学」のみ。

だが、それを口にするのは野暮というものだ。

この勘違いこそが、シャドウガーデンという組織の動力源なのだから。

「……ふむ。深いね」

ベアトリクスは適当に相槌を打った。

「私にも計り知れないよ。……だが、彼がそうすると決めたのなら、それが正解なんだろう」

「はいッ! まさにその通りでございます!」

ガンマは満面の笑みで肯定した。

「さて」

ベアトリクスは立ち上がった。

黄金の粒子が揺らめき、彼女の姿が希薄になる。

「久しぶりに、その『平凡な学生』の顔でも見に行こうか。……土産話も溜まっているしね」

「あ、案内を出しますわ! 馬車を……いえ、すぐに護衛を!」

「いらないよ」

ベアトリクスは悪戯っぽく笑った。

「私は通りすがりのエルフ。……彼は平凡な学生。大仰な行列なんて作ったら、彼の『遊び』を台無しにしてしまうだろ?」

「はっ……! 申し訳ありません、主様の御心を配慮せず……!」

平伏するガンマを残し、ベアトリクスは風のように窓から消えた。

王都の空へ。

懐かしい気配のする方角へ。

                 *

ミドガル魔剣士学園、学生食堂の裏手。

安くて人気の「激ウマ・フィレオフィッシュバーガー」を両手に持ち、ベンチで至福の表情を浮かべる黒髪の少年がいた。

シド・カゲノー。

見た目はどこにでもいる、背景(モブ)のような生徒。

その実態は、世界を影から操る組織の長であり、人類最強の男。

「んー、やっぱりこれだよな。高級フレンチもいいけど、ジャンクフードの暴力的な味がたまらない……」

シドは独りごちて、バーガーにかぶりつく。

平和だ。

最近、姉のクレアがうるさかったり、アレクシア王女にこき使われたりと散々だったが、こうして誰にも注目されずに飯を食う時間は、モブにとってのかけがえのない休息だ。

「おいしそうだね」

不意に、頭上から声が降ってきた。

聞き覚えのある、しかしこの場にあってはならない声。

シドは咀嚼を止めた。

(……え? まさか?)

恐る恐る顔を上げる。

そこには、木の枝に腰掛け、ヒラヒラと足を揺らすエルフの女性がいた。

フードを目深に被っているが、隠しきれない黄金のオーラ。

そして、二千年分の「圧」。

「ベ、ベアトリクスさん……?」

シドの声が裏返った。

モブとしての演技プランが崩壊の危機に瀕する。

なぜここに?

ていうか、いつ帰ってきた?

数年後に会おうって言ってたけど、魔人の数年ってこんなに早いのか?

ベアトリクスは枝から音もなく降り立った。

シドの隣に、当然のように座る。

「久しぶりだね、シャドウ。……いや、今はシド君か」

「ちょ、ちょっと! ここ学校! 僕、一般人!」

シドは小声で叫び、周囲を警戒した。

幸い、昼休みの裏庭には人はいない。

もし誰かに見られたら、「なんで冴えないカゲノー君が、伝説の武神と知り合いなの!?」というイベントが発生してしまう。

それはそれで「実は実力者」ムーブとして悪くないが、今のシドのプランでは、まだ正体バレの時期ではない。

「分かってるよ。……君は今、エキストラAを演じているんだろ?」

ベアトリクスはニヤニヤしている。

完全に面白がっている顔だ。

「分かってるなら空気読んでくださいよ……。で、どうしたんですか急に」

シドはバーガーの残りを惜しむように見つめながら問う。

「君に会いに来たんだよ。……それと」

彼女はシドの手元にある包み紙を指差した。

「それ、一口くれないか」

「えっ」

シドは固まった。

天下の武神が、貧乏学生の食いかけを強奪?

「いや、これ僕の昼飯……」

「ミツゴシの高級バーガーも食べたけど、なんか上品すぎてね。……君が食べてるそれの方が、随分と美味そうに見える」

ベアトリクスの目は本気だった。

食欲というよりは、シドと同じものを共有したいという、奇妙な執着。

シドはため息をついた。

魔人には勝てない。

物理的にも、精神的にも。

「……新品、買ってきますよ」

「いいや、それがいい」

ベアトリクスはシドの手からバーガーをひょいと取り上げ、大きな口を開けてかぶりついた。

モグモグと咀嚼し、ゴクリと飲み込む。

「……ん。悪くない」

彼女は満足げに唇を舐めた。

「ジャンクだね。油と塩と、安っぽい肉の味。……平和の味がするよ」

シドは呆気にとられた。

間接キスとかそういう次元ではない。

この二千年の怪物は、彼の日常をこうも簡単に「喰らって」しまった。

「……返してくださいよ、僕の平和」

「返さないよ。……君が私をこの世界(おもて)に引き戻したんだ」

ベアトリクスは、食べかけのバーガーをシドに返した。

そして、真剣な眼差しで彼を見つめた。

「腕は、鈍ってないね?」

唐突な問い。

だが、シドは即座に理解した。

彼女は、ただ飯を食いに来たわけではない。

シドの纏う魔力の質、筋肉の弛緩状態、そして呼吸。

それらを至近距離で確認しに来たのだ。

シドは、バーガーを包み紙に戻し、いつもの気だるげなモブの表情を消した。

一瞬だけ、シャドウの顔を見せる。

「……愚問だな。我は常に深淵に在る」

ほんの一瞬の魔力放出。

だが、それだけで周囲の空間が軋み、鳥たちが一斉に飛び去った。

ベアトリクスは、嬉しそうに目を細めた。

「合格だ。……数年経って、君はさらに『濃く』なった。人間の枠を完全に超えつつあるね」

「貴様に言われたくはない」

「ふふ。……ディアボロス教団の動きが活発だそうだね」

ベアトリクスは話題を変えた。

「ああ。ガンマたちが騒いでいるな」

「君にとっては遊びかもしれないが、世界にとっては危機だ。……そして、私にとっても、過去の清算の時が近づいている」

彼女は空を見上げた。

「アウロラの封印が解かれる時、あるいは教団が新たな怪物を生み出した時。……私は動くよ」

「好きにすればいい。……邪魔をするなら斬るだけだ」

シドの言葉に、ベアトリクスは肩をすくめた。

「怖い怖い。……ま、私は君たちの『舞台』の観客席で、ハンバーガーでも齧りながら見守らせてもらうよ。時々、乱入するかもしれないけどね」

彼女は立ち上がり、シドの頭をクシャクシャと撫でた。

子供扱い。

世界最強の男を、子供扱いできる唯一の存在。

「じゃあね、シド君。……また、奢ってくれよ」

「金ないんで勘弁してください」

シドが文句を言う前に、彼女の姿は掻き消えていた。

残されたのは、少し冷めたバーガーと、嵐が過ぎ去った後のような静寂。

「……まったく」

シドは髪を整え、残りのバーガーを口に放り込んだ。

味は変わらない。

だが、どこか懐かしい、鉄と血の味が混ざったような気がした。

「観客席、か……」

シドはニヤリと笑った。

「いいだろう。最高のエンターテインメントを見せてやる。……魔人ですら度肝を抜くような、究極の『陰の実力者』ムーブをな」

予鈴が鳴る。

シドは平凡な学生の顔に戻り、猫背で校舎へと歩き出した。

その背後で、雲の切れ間から覗いた太陽が、彼の影を長く、濃く伸ばしていた。

ミツゴシ商会の最上階から、その様子を遠見の魔法で監視していたガンマは、手帳に猛烈な勢いで書き込みを行っていた。

『本日12時35分。主様、武神ベアトリクスと接触。極秘会談を行う。安価な食事を分け合う行為……これは「清貧の誓い」か、あるいは「兵糧攻め」のメタファーか? 二人の間に交わされた高度な政治的駆け引きは、私の読唇術でも読み取れず……。やはり主様のお考えは深遠なり』

盛大な勘違いは、今日も世界を回している。

そしてベアトリクスは、次の美味しい店を探して、王都の雑踏へと消えていくのだった。

 

王都ミドガル、一等地。

ミツゴシ商会本店の最奥にある「知の宝庫」と呼ばれる部屋がある。

そこは、表向きは商会の極秘資料や帳簿が保管されたアーカイブだが、その実態は、世界中のあらゆる情報が集積されるシャドウガーデンの頭脳、第二席ベータの執務室であった。

壁一面を埋め尽くす書架。

古今東西の歴史書、魔導書、そして七陰の配下たちが世界各地から収集した諜報レポート。

紙とインクの匂いが充満する静寂の中で、羽ペンが羊皮紙を走る音だけが、小気味よいリズムを刻んでいる。

「……素晴らしい。この章の伏線回収は完璧です」

銀髪のボブカットが美しい少女、ベータは、恍惚とした表情で自らの著作を見つめていた。

彼女が執筆しているのは、組織の報告書ではない。

彼女が崇拝してやまない主、シャドウの英雄譚――『シャドウ様戦記(仮)』の最新稿である。

彼女の瞳は、現実を見ていない。

彼女の脳裏にあるのは、紫紺の闇を纏い、世界を裏から操る絶対者の姿のみ。

「この台詞回し……『月が赤い』からの『時間はあまり残されていない』への流れ……ああ、シャドウ様、貴方様はどうしてこうも詩的で、哲学的なのですか……!」

筆が乗る。止まらない。

文学少女としての才覚と、狂信的な愛が化学反応を起こし、誇張と美化がふんだんに盛り込まれた一大叙事詩が紡がれていく。

その時だった。

「――相変わらず、シャドウの物語は書いてるかい?」

唐突に、背後から声が掛かった。

扉が開く音はなかった。

気配すら感じさせなかった。

シャドウガーデン屈指の情報通であり、索敵能力にも長けたベータの背後を、完全に取っていた。

「ッ!?」

ベータは反射的に羽ペンを投げ捨て、懐の短剣に手を掛けようとして――止まった。

その声の主が誰であるか、その圧倒的な「圧」で理解したからだ。

振り返れば、そこには書架に寄りかかり、勝手に高価な菓子瓶を開けてクッキーを齧っているエルフがいた。

黄金の魔力を微かに漂わせる、生ける伝説。

「……武神ベアトリクス様」

ベータは姿勢を正し、深く頭を下げた。

敵意はない。

むしろ、そこにあるのは深い畏敬の念だ。

「侵入経路のログに残らない現れ方……流石です。私の結界またいとも容易くすり抜けられるとは」

「ここの結界は優秀だよ。イプシロンの仕業かな? 網の目が細かくて美しい。……まあ、私には隙間だらけに見えるけどね」

ベアトリクスはクッキーを飲み込み、ベータの手元にある羊皮紙の山を顎でしゃくった。

「で? 進捗はどうなんだい、作家先生」

ベータは頬を僅かに朱に染め、しかし誇らしげに原稿の束を抱きしめた。

「はい。現在は『聖域の戦い』編を推敲中です。あのアウロラという魔女との対話、そして武神様との共闘……。この場面は、シャドウ様の慈悲深さと、底知れぬ実力を描く上でのクライマックスになりますので」

「共闘、ねぇ……」

ベアトリクスは苦笑した。

あの日、聖域で起こったのは、ベアトリクスとアウロラのじゃれ合い(という名の天変地異)を見学していただけに近い。

だが、ベータのフィルターを通すと、そこには深遠なドラマが生まれるらしい。

「読ませてもらうよ」

ベアトリクスが手を伸ばす。

ベータは一瞬躊躇したが、拒否することはできない。

彼女にとって、ベアトリクスは「作中の登場人物」であり、しかも最重要キーキャラクターの一人なのだから。

「……お手柔らかにお願いします」

ベアトリクスは原稿を受け取り、パラパラとページを繰った。

彼女の読書速度は速い。

二千年の経験が、情報を瞬時に処理する。

『――黄金の光と紫紺の闇が交錯する。それは神話の再現であり、あるいは神話の終焉でもあった。武神ベアトリクス、古(いにしえ)より世界を見守る守護者。対するはシャドウ、世界を影より変革する反逆者。二つの力は反発し、しかし根源においては共鳴していた……』

「……くくっ」

ベアトリクスは吹き出した。

「美化が過ぎるよ、ベータ。守護者だなんて、私はそんな立派なものじゃない」

「いいえ、事実です」

ベータは真剣な眼差しで反論した。

普段の穏やかな彼女とは違う、創作者としての、そして記録者としての譲れない熱がそこにはあった。

「貴女様がご自身をどう評価されようと、貴女様が刻んでこられた二千年の歴史は事実。……そして、その歴史の頂点に立つ貴女様が、シャドウ様を認め、対等の存在として接している。この事実こそが重要なのです」

ベータは立ち上がり、熱弁を振るい始めた。

彼女の中の「シャドウ神話体系」において、ベアトリクスの立ち位置は極めて重要だった。

「シャドウ様の人生において、武神あるいは魔人ベアトリクスの存在は欠かせないもの……」

ベータは、壁に貼られた相関図――シャドウを中心とした複雑な人間関係の図――を指し示した。

そこには、アルファたち七陰、アレクシア王女、ローズ生徒会長、そして最上位に位置する「ベアトリクス」の名前があった。

「シャドウ様は孤独な頂(いただき)におられます。その力、その知略、その視座……全てにおいて、今の時代に彼の方を理解できる者は皆無に等しい。私たち七陰ですら、彼の方の足元に縋り付くのが精一杯です」

ベータの声が少し震える。

それは、主の偉大さへの感動と、自分たちの無力さへの嘆き。

「ですが、貴女様は違います」

ベータはベアトリクスを見つめた。

「二千年の時を超え、生物の理を外れ、神域に達した貴女様だけが、唯一、シャドウ様と同じ『高さ』の空気を吸っておられる。……貴女様という比較対象(ものさし)が存在することで初めて、シャドウ様の偉業は『伝説』として客観的な輪郭を持つのです」

もしベアトリクスがいなければ、シャドウの強さは「なんかすごい強い人」で終わってしまうかもしれない。

だが、「あの武神が認めた」「あの魔人と渡り合った」という事実は、シャドウの強さを歴史的な文脈で定義づける。

ベータにとって、ベアトリクスは「最強の証人」なのだ。

ベアトリクスは、ぽりぽりと頬を掻いた。

熱烈なファンの演説を聞かされたアイドルのような、むず痒い気分だ。

「買いかぶりすぎだよ。……私はただ、面白いから彼に絡んでいるだけさ。彼も、私を便利なスパーリングパートナーくらいにしか思っていないだろうしね」

「それこそが!」

ベータが食い気味に声を上げた。

「それこそが、凡人には理解できない『強者同士の会話』なのです! 言葉など不要。剣を交え、ハンバーガーを分かち合うだけで通じ合う魂の共鳴……! ああ、なんて尊い……!」

ベータはうっとりと両手を組んだ。

「先日、王都の学園でシャドウ様と接触されたそうですね」

「……耳が早いね。ガンマからかい?」

「はい。報告書には『安価なジャンクフードを半分こした』とありました。……これの解釈について、私は三日三晩悩み、一つの結論に達しました」

「……聞こうか。ただ腹が減ってただけなんだけど」

ベアトリクスのツッコミを無視し、ベータは語る。

「あれは『聖餐』の儀式です」

「はい?」

「ジャンクフード……それは現代社会の象徴であり、大量消費される俗世の欲望の塊。それを、古き神である貴女様と、新き神であるシャドウ様が食らう。……これは、古い時代を飲み込み、新しい時代を血肉に変えるという、無言の宣言に他なりません!」

ベータの目は完全にイッていた。

妄想が暴走機関車のように加速している。

「そして、貴女様がそれを『美味い』と言った。それは、シャドウ様が作ろうとしているこの新しい世界を、貴女様が肯定したというメタファー……! ああ、この場面だけで原稿用紙五十枚は書けます!」

ベアトリクスは呆気にとられ、そして爆笑した。

「あはははは! すごいね、君は! 詐欺師になれるよ、いや、宗教家かな?」

ベアトリクスは腹を抱えて笑った。

シドもシドなら、その部下も部下だ。

どいつもこいつも、些細な日常を壮大な叙事詩に変換するフィルターを持っている。

この組織が強いわけだ。彼らの世界には、退屈という文字が存在しないのだから。

「……正解にしておこうか」

ベアトリクスは涙を拭いながら言った。

「その解釈、気に入ったよ。シド君……いや、シャドウも喜ぶだろう」

(絶対喜ぶね。「うおお、なんか深えことになってる!」って)

「本当ですか!」

ベアトリクスの公認を得て、ベータは喜色満面だ。

「ありがとうございます! これで次巻のハイライトが決まりました!」

ベータは直ちにメモを取り始めた。

その勤勉な姿を見て、ベアトリクスは少しだけ意地悪な、しかし素敵なプレゼントを思いついた。

「ねえ、ベータ。……君の知らない、シャドウの『始まりの物語』を教えてあげようか」

ベータの手が止まった。

ゆっくりと顔を上げる。その瞳孔が開いている。

「……始まりの、物語……?」

「そう。君たち七陰が出会う前。彼がまだ十歳だった頃の話さ」

ゴクリ、とベータが喉を鳴らす音が聞こえた。

それは、彼女たちにとっての聖典『創世記』以前の、失われた歴史(ロスト・ヒストリー)。

喉から手が出るほど欲しい、至高の情報。

「お、教えていただけますか……!? その、対価は!? ミツゴシの全財産でも、私の命でも……!」

「いらないよ。……クッキーが美味しかったから、そのお礼さ」

ベアトリクスはニヤリと笑い、語り始めた。

「あれは月明かりの夜だった。……盗賊の死体の山の上に立つ、小さな影。彼は自らを『スタイリッシュ盗賊スレイヤー』と名乗っていたよ」

「す、スタイリッシュ……盗賊スレイヤー……!?」

ベータが震える声で復唱する。

そのネーミングセンスに一瞬戸惑ったようだが、すぐに脳内変換が完了したようだ。

「……なるほど。幼少期特有の、まだ洗練されきっていない荒々しい感性……! 己の美学(スタイル)を模索する若き日の苦悩が、その名に集約されているのですね!?」

「うん、まあ、そういうことにしておこう」

ベアトリクスは続ける。

「彼は私に挑みかかってきた。……当時の彼は、まだ未熟だった。魔力の制御も甘く、ただ速いだけ。私は彼を一蹴した」

「シャドウ様が……敗北を……!?」

衝撃の事実に、ベアトリクスは頷く。

「そう。完敗さ。……でもね、彼は折れなかった。地面に這いつくばりながら、私を睨みつけ、笑っていたんだ」

ベアトリクスは、あの夜のシドの目を思い出す。

「『次は勝つ』。そう言わんばかりの、飢えた獣の目。……その日から、彼は変わった。私の動きを盗み、私の思考を読み、死に物狂いで食らいついてきた」

彼女はベータの目を見て言った。

「私が育てたんじゃない。彼が、私を『餌』にして進化したんだ。……今のシャドウがあるのは、あの日の敗北があったからこそだよ」

室内が静まり返る。

ベータは涙を流していた。

悲しみではない。感動の涙だ。

「……敗北を知り、それを糧として至高の座へ……。完璧です……あまりにも完璧な英雄譚……!」

ベータは猛烈な勢いで書き殴り始めた。

『第一章・追憶の武神。……少年は夜に哭く。その涙は弱さの証ではなく、最強への渇望であった。武神ベアトリクス、彼女は少年にとって最初の壁であり、最初の師であり、そして最初の標的(ターゲット)となった――』

羽ペンの音が、機関銃のように部屋に響き渡る。

ベアトリクスはその様子を満足げに眺め、空になったクッキーの瓶を置いた。

「いい物語になりそうだね」

「はいっ! ありがとうございます、武神様! この御恩は一生忘れません!」

「期待してるよ。……完成したら、一番に読ませておくれ」

ベアトリクスは立ち上がり、背伸びをした。

「さて、そろそろ行くよ。……あんまり根を詰めすぎて、目を悪くしないようにね」

「はい! お気をつけて!」

ベータに見送られ、ベアトリクスは窓から夜の闇へと消えた。

彼女が去った後も、部屋にはインクの匂いと、微かな黄金の魔力の残滓、そして何より、熱狂的な創作の熱気が渦巻いていた。

ベータは書き続ける。

主の栄光を。

そして、その主を唯一「童(わらべ)」のように扱うことを許された、最強の魔人との絆を。

(シャドウ様……貴方様の歩まれた道は、なんと険しく、そして美しいのでしょうか)

彼女の手によって、シド・カゲノーの適当な人生は、また一つ、重厚で深遠な歴史書として編纂されていく。

そのタイトルは『シャドウ戦記外伝 ~武神との邂逅、あるいは神々の遊戯~』。

後にミツゴシ商会の出版部門から(極秘裏に)発行され、一部の熱狂的な信者のバイブルとなる一冊であった。

王都の夜空を飛びながら、ベアトリクスはくしゃみをした。

「……なんか、背中がむず痒いな」

彼女は苦笑し、眼下に見えるミツゴシの灯りを一瞥した。

あの中で、自分のことがどう書かれているのか。

「古き神」だの「聖餐」だの、くすぐったい美辞麗句で飾られているのを想像すると、彼女は二千年ぶりに顔が赤くなるのを感じた。

「ま、悪い気はしないけどね」

彼女は夜風に乗って加速する。

目指すは、シド・カゲノーのいる学園寮か、あるいはどこかの美味しい屋台か。

物語はまだ終わらない。

彼女と彼が遊び続ける限り、ページは増え続けていくのだから。

 

北の果て、極寒の雪山に閉ざされたディアボロス教団の第十三研究所。

猛吹雪が吹き荒れる外の世界とは裏腹に、施設内は異様な熱気と、けたたましい警報音に包まれていた。

「第一層防衛ライン突破! 第二層も沈黙! 速すぎます!」

「敵影は!? 数は!?」

「た、単騎です! エルフの女が一人……!」

「馬鹿な! ここには強化兵(ソルジャー)が一個大隊駐屯しているのだぞ!?」

モニターを睨みつける施設長、ネームド・チルドレンの一人である男が叫ぶ。

映し出された映像は、ノイズ混じりの絶望だった。

重武装した強化兵たちが、何か見えない巨人の手で薙ぎ払われたかのように、次々と壁に叩きつけられ、肉塊へと変わっていく。

魔法も、剣も、銃弾も、その侵入者には届かない。

その侵入者は、まるで雪山の散策でも楽しんでいるかのような足取りで、廊下を歩いていた。

金色の髪、美しい容貌、そして手にはなぜか、この地方の名産である『焼きトウモロコシ』が握られている。

「……武神、ベアトリクス」

男が呻くようにその名を呼ぶ。

教団にとっての最優先捕獲対象にして、遭遇すれば死を意味する天災。

爆発音が轟き、指令室の重厚な鉄扉が紙屑のように吹き飛んだ。

土煙と火花が舞う中、彼女は現れた。

黄金の粒子を纏い、焼きトウモロコシを齧りながら。

「……寒いね、ここは」

ベアトリクスは、部屋に充満する殺気など意に介さず、トウモロコシを飲み込んでから口を開いた。

「やぁ、古き命に執着する煮凝りみたいな溝鼠の教団くん」

彼女の瞳が、黄金に輝く。

それは生物を見下す目ではない。

掃除すべき汚物を見る目ですらない。

ただ、道端の石ころを見るような、圧倒的な無関心。

「相変わらず熱心に世界を弓引いてるみたいだね」

「貴様……! よくも我らが聖域を!」

施設長が杖を構え、魔力を練り上げる。

周囲の研究員たちも、震える手で武器を構える。

だが、ベアトリクスは動かない。

ただ、憐れむように彼らを見渡した。

「君たちが何をしているか、見なくても分かるよ」

彼女は鼻を鳴らした。

「魔神の細胞(ディアボロス・セル)。その培養と適合実験。……数百年、数千年、君たちは同じことを繰り返している。私が捨て去った『残りカス』を拾い集めて、神になろうと必死にもがいている」

「黙れ! 我らの研究は崇高なる不老不死への……!」

「不老不死?」

ベアトリクスは笑った。

その笑顔は、あまりにも美しく、そして残酷だった。

「私がそうだ。君たちの目の前にいる私が、その完成形だよ」

彼女が一歩踏み出す。

それだけで、施設長たちの膝がガクガクと震え出した。

魔力の質が違う。

彼らが扱う魔力が「水」だとするなら、彼女の魔力は「水銀」だ。

重く、濃く、そして猛毒。

「君たちにとって、私は絶対に確保したい研究サンプルにして、通りすがると必ず滅ぶ災害だろう?」

図星だった。

教団の上層部は、ベアトリクスの肉体を欲している。

彼女は「成功例」だ。

ディアボロスの因子を完全に取り込み、自我を保ったまま永遠の時を生きる存在。

彼女を解析できれば、教団の悲願は成就する。

だからこそ、彼らは彼女を追い、そして彼女が現れるたびに拠点を壊滅させられてきた。

「サンプル……そうだ! 貴様さえ手に入れば!」

施設長が狂乱したように叫び、懐から赤いカプセルを取り出して飲み込んだ。

魔力暴走。

肉体が膨れ上がり、異形の怪物へと変貌していく。

同時に、周囲の部下たちにもカプセルを飲ませ、強制的に怪物化させる。

「殺せ! 殺してでも奪え! 肉片の一つでも残ればいい!」

十数体の怪物が、咆哮と共にベアトリクスに襲いかかる。

鋭利な爪、溶解液、破壊光線。

狭い室内を埋め尽くす暴力の嵐。

だが。

「……食事の邪魔だよ」

ベアトリクスは、焼きトウモロコシを持ったままの右手ではなく、空いている左手を軽く振った。

パァァァンッ!!

空間が弾けた。

襲いかかってきた怪物たちが、一瞬にして「爆散」した。

斬られたのではない。

殴られたのでもない。

圧倒的な魔力の波動によって、細胞レベルで結合を解かれ、原子の霧へと還元されたのだ。

血の一滴すら残らない。

ただ、金色の光が部屋を満たし、そして消えた。

「な……、あ……」

唯一生き残った施設長(怪物化済み)が、腰を抜かして後ずさる。

理解できない。

彼らは強化されていたはずだ。

教団の最新技術の結晶だったはずだ。

それが、手首のスナップ一つで消滅した。

「君たちの研究は、前提が間違っているんだ」

ベアトリクスは、ゆっくりと歩み寄る。

「力を外から足そうとするから歪む。……器(うつわ)を広げずに水を注げば、溢れて壊れるのは道理だろう?」

彼女は怪物化した施設長の目の前に立った。

身長差は倍以上ある。

だが、施設長は自分が蟻のように小さく感じられた。

「あの子……シャドウを見てみなよ」

ベアトリクスは、ふと遠くを見る目をした。

「彼は魔神の細胞なんて使っていない。ただひたすらに、己の器を壊し、広げ、練り上げた。……その結果、私やディアボロスに匹敵する領域に、たった十数年で至ろうとしている」

彼女は施設長の巨大な顔面に手をかざした。

「本物はね、薬なんかじゃ作れないんだよ」

「ひ、ヒィィィッ! 助け……!」

「さよなら。……来世は、もっとマシな夢を見るといい」

金色の閃光。

施設長の意識は、そこで途絶えた。

                 *

数分後。

爆発炎上する第十三研究所を背に、ベアトリクスは雪道を歩いていた。

手にした焼きトウモロコシは、戦闘の余波で少し焦げてしまったが、中は温かいままだ。

「……少し焼きすぎたかな」

彼女は焦げた部分を気にせず齧り付く。

口の中に広がる甘みと香ばしさ。

「教団も懲りないねぇ。……まあ、シャドウガーデンのいい暇つぶしにはなるか」

彼女は、最近めきめきと力をつけているアルファたちのことを思い出した。

彼女たちが教団を狩る速度は上がっている。

ベアトリクスがこうして「災害」として拠点を潰して回るのも、彼女たちの露払いのようなものだ。

「さて、次の街には美味しいシチューの店があるらしい」

世界を裏から操る教団の野望も、魔神の復活も、彼女にとっては「美味しいシチュー」の前では些細なことに過ぎない。

ベアトリクスは歩く。

二千年の時を超え、今が一番「生きている」と感じながら。

その背後で、教団の野望の一つが、また灰となって雪に埋もれていった。

「……あ、シド君にお土産買うの忘れた」

ふと立ち止まる武神。

彼女の悩みは、世界平和よりも、今度の再会で弟子に何をたかられるか、ということだけだった。

 

 

 

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