私はベアトリクス   作:Beatrix

2 / 6
たぶん何処かで会った

ミドガル王国の王城、その一角にある王族専用の訓練場。

手入れの行き届いた芝生と、周囲を囲む高い石壁。普段であれば騎士たちの気合の入った声が響くその場所は、今日ばかりは奇妙な静寂に包まれていた。

「――参ります」

凛とした声が空気を震わせる。

紅蓮の髪を揺らし、ミドガル王国の第一王女、アイリス・ミドガルが剣を構えた。

その瞳には、悲痛なまでの決意と、焦燥の色が混じっている。

対する位置に立つのは、武神ベアトリクス。

彼女は訓練用の模擬剣をだらりと下げ、どこか眠たげな表情で立っていた。

「いいよ」

許可の言葉が落ちた瞬間、アイリスの姿がブレた。

王家秘伝の剣術。身体強化の魔力制御。

一般の騎士から見れば神速とも呼べる踏み込みで、彼女はベアトリクスの懐へと侵入する。

「ハァッ!!」

鋭い突き。

岩をも穿つ必殺の一撃が、ベアトリクスの喉元へと迫る。

だが、ベアトリクスは動かなかった。

いや、動いたようにすら見えなかった。

彼女はただ、首を僅かに傾けただけだ。

ヒュンッ、と風切り音だけを残し、アイリスの剣が空を裂く。

「くっ……!」

アイリスは止まらない。

外された一撃の勢いを殺さず、手首を返して横薙ぎに払う。

二撃目、三撃目。

嵐のような連撃が武神を襲う。

(……硬いね)

ベアトリクスは、その猛攻を紙一重で躱しながら、内心で欠伸を噛み殺していた。

アイリス・ミドガルの才能は本物だ。

魔力量も多く、剣筋も綺麗だ。

努力もしているだろう。王国の平和を守るという責任感が、彼女を強くしている。

だが、それだけだ。

(アルファの剣のような緻密さがない。デルタのような野生の勘もない。……そして何より、あの少年(シャドウ)のような『狂気』がない)

ベアトリクスにとって、今のアイリスの剣は「教科書通り」すぎて退屈だった。

ここ数年、彼女はシャドウガーデンの「七陰」たちや、あ規格外の少年とばかり遊んでいた。

彼らの剣には、常識をねじ伏せるデタラメさと、世界を敵に回しても構わないという傲慢な意志が宿っている。

それに比べると、アイリスの剣はあまりにも「正し」すぎる。

「そこ」

ベアトリクスは、アイリスの十三連撃目の終わり際、ほんの一瞬だけ生じた重心のズレを見逃さなかった。

手にした模擬剣を下から軽く擦り上げる。

アイリスの剣の側面に触れ、軌道を僅かに逸らす。

たったそれだけで、アイリスの体勢は崩れた。

全力を込めていた力が空回りし、彼女はたたらを踏む。

「――っ!?」

ベアトリクスの剣先が、アイリスの眉間にピタリと止まっていた。

「……参りました」

アイリスが剣を下ろし、深く息を吐く。

額には玉のような汗が滲み、悔しさに唇を噛み締めている。

「悪くないよ」

ベアトリクスは模擬剣を放り投げ、いつもの気だるげな調子で言った。

「迷いが消えれば、もっと速くなる」

「迷い……ですか」

アイリスは自らの掌を見つめた。

先の武心祭での敗北。シャドウという圧倒的な存在に見せつけられた、次元の違い。

それが彼女の心に深い影を落としていることを、この武神は見抜いているのだ。

「少し、休憩しようか。……お腹が空いた」

ベアトリクスはそう言うと、訓練場の端に用意されていたテーブルへと歩き出した。

そこには、王家御用達の最高級の茶菓子と紅茶が用意されている。

(ミツゴシの新作ケーキもある……。悪くない一日だ)

彼女は内心で小躍りしながら、席についた。

                 *

王城のテラスには、心地よい風が吹いていた。

眼下には王都ミドガルの街並みが広がっている。

復興が進む街は活気に溢れ、人々の笑顔が見える。

だが、その平和の裏側で何が蠢いているかを知る者は少ない。

アイリスは紅茶を一口含み、意を決したように口を開いた。

「ベアトリクス様。……ご相談したいことがあります」

ベアトリクスはフォークに刺したショートケーキを口に運びながら、視線だけで先を促した。

甘いクリームの味が口いっぱいに広がる。至福だ。

「……最近は、シャドウガーデンという連中が王都を騒がせてるみたいだね」

ベアトリクスは、先手を打つようにそう切り出した。

あくまで世間話のように。

実際、彼女はその「騒がせている連中」の顧問のような立ち位置にいるのだが、そんなことはおくびにも出さない。

アイリスの表情が曇る。

「……はい。彼らは王都の闇に潜み、好き勝手に暴れ回っています。騎士団としても取り締まりを強化しているのですが、尻尾を掴ませない。神出鬼没で、圧倒的な武力を持っています」

アイリスが拳を握りしめる。

彼女にとって、シャドウガーデンは王国の法と秩序を乱すテロリストだ。

その筆頭であるシャドウは、彼女のプライドを粉々に砕いた憎き敵でもある。

(ごめんね、アイリス王女。昨日の夜、君の騎士団の包囲網を突破したのは、私がガンマに抜け道を教えたからなんだ)

ベアトリクスは心の中で軽く謝罪しつつ、二口目のケーキを頬張った。

「彼らの目的は不明です。教団と争っているようにも見えますが、その過程で街を破壊し、混乱を招いている。……私は、彼らを許すわけにはいきません」

「正義感が強いね、君は」

「王族としての務めです。……ですが、力が足りない。シャドウに勝つためには、今のままでは……」

アイリスの苦悩は深い。

彼女は知らないのだ。

自分が敵視しているシャドウが、実はただの「ごっこ遊び」に興じているだけの少年であり、その組織の背後に、目の前にいる武神(魔人)が噛んでいるという事実を。

「……それで、もう一つの懸念についてですが」

アイリスは声を潜めた。

周囲に人がいないことを確認し、武神の瞳を真っ直ぐに見据える。

「ディアボロス教団……。彼らの存在について、ベアトリクス様はどうお考えですか?」

それは、ミドガル王国にとってタブーに近い話題だった。

教団の存在は、お伽噺や妄想として片付けられることが多い。

騎士団内部ですら、その実在を信じる者は少数派であり、アイリス自身も確固たる証拠を掴めずにいる。

だが、シャドウガーデンが執拗に「教団」という名を口にし、実際に異形の怪物たちが現れている以上、無視することはできない。

ベアトリクスは、ティーカップをソーサーに戻した。

カチャリ、と硬質な音が響く。

彼女の纏う空気が、少しだけ変わった。

先ほどまでの、ケーキに夢中な食いしん坊エルフの雰囲気ではない。

二千年の時を生き、歴史の裏側を見続けてきた「観測者」としての気配。

「あるよ」

短い肯定。

だが、その言葉の重みは、アイリスの背筋を凍らせるほどだった。

「ディアボロス教団はね、それは事実だ」

「……っ! やはり、実在するのですか」

アイリスが身を乗り出す。

伝説の武神からの確証。それは何よりも重い証言となる。

「私も、これでも長く生きているからね」

ベアトリクスは遠い目をした。

その瞳の奥に、黄金の粒子が揺らめく。

「私も百年生きて(という設定)、世界中を旅してきた。その中で、歴史の闇に蠢く彼らの痕跡を何度も見てきたよ。……それは間違いなく存在する」

(本当は二千年だけどね。それに教団の創設期から知ってるし、なんなら彼らの崇める魔神とは顔馴染みだし)

心の中のツッコミは封印し、彼女はあくまで「長命のエルフ」としてのロールプレイを貫く。

「彼らは古より世界に根を張り、不老不死を求めて暗躍している。王国の枢機、教会の深部、商会の裏側……。どこにでもいて、どこにもいない」

「不老不死……。そんな御伽噺のようなもののために、彼らは人々を……!」

「権力者というのは、死を何よりも恐れる生き物だからね」

ベアトリクスは冷ややかに笑った。

その笑みは、教団への軽蔑と、人の業への諦観を含んでいた。

アイリスは唇を震わせた。

予想はしていた。だが、改めて突きつけられた事実は重い。

見えない敵。国家という枠組みを超えた巨大な陰謀。

今の紅の騎士団だけで対抗できる相手なのだろうか。

「……ベアトリクス様。貴女は、彼らと戦わないのですか?」

アイリスは縋るように問うた。

もし、武神が力を貸してくれるなら。

この圧倒的な強者が味方になれば、教団も、そしてシャドウガーデンすらも制圧できるかもしれない。

ベアトリクスは、最後のケーキを口に放り込み、ゆっくりと咀嚼した。

そして、紙ナプキンで口元を拭いながら、首を横に振った。

「私はただの旅行者だよ」

「ですが……!」

「それに、この国には私なんかよりずっと厄介な連中(シャドウガーデン)がいるじゃないか。彼らが勝手に掃除してくれるさ」

「彼らは信用できません! 彼らもまた、力による支配を目論む無法者です!」

アイリスの剣幕に、ベアトリクスは苦笑した。

無法者、というのは間違っていない。

あの子たちは、主(シド)の妄言を信じて暴走しているだけだが、結果として世界経済を牛耳り、教団を壊滅させつつある。

ある意味、教団よりもタチが悪いとも言える。

「アイリス王女」

ベアトリクスは立ち上がった。

テラスの手すりに寄りかかり、アイリスを見下ろす。

「君は強い。真っ直ぐで、正しい。……けれど、世界は君が思うほど単純な形をしていないんだ」

「……どういう、意味でしょうか」

「正義と悪は、見る角度によって変わる。教団にとっての正義、シャドウガーデンにとっての正義、そして君にとっての正義。……それらは決して交わらない」

ベアトリクスは知っている。

かつて自身も「正しさ」を信じて剣を振るい、その果てに魔人という「化け物」に行き着いたことを。

そして、今のシャドウガーデンを率いるアルファたちもまた、世界に復讐し、そして世界を変革するという歪んだ、しかし純粋な正義を持っていることを。

アイリスの正義は「王国の法」だ。

それは尊いが、あまりにも脆く、そして狭い。

「力を求めなさい。……誰かのためではなく、君自身の魂を焼き尽くすほどの、理不尽なまでの力を」

ベアトリクスの瞳が、一瞬だけ黄金に輝いた気がした。

アイリスは息を呑む。

その言葉は、まるで悪魔の囁きのようであり、同時に神の啓示のようでもあった。

「借り物の力(アーティファクト)や、薬に頼るんじゃないよ。……自分の中にある器を壊し、広げ、そこに泥水を啜ってでも魔力を詰め込むんだ。そうすれば、あるいは……」

ベアトリクスは言葉を切り、ふわりと笑った。

「あの少年の背中くらいは、見えるようになるかもしれないね」

「……っ」

アイリスは何も言えなかった。

武神の言葉は、厳しく、そして残酷なまでに核心を突いていた。

自分はまだ、あの領域(シャドウ)に立つ資格すらないのだと。

「さて、ご馳走になったね。美味しいケーキだったよ」

ベアトリクスは伸びをした。

話は終わりだ。これ以上、この生真面目な王女に肩入れするのは、彼女の「観客」としてのスタンスに反する。

「あ、お待ちくださいベアトリクス様!」

「なんだい?」

「……また、手合わせをお願いできますか? 私は、諦めるつもりはありません。どのような形であれ、私はこの国を守る力を手に入れたいのです」

アイリスの瞳には、再び強い光が宿っていた。

迷いはある。不安もある。

だが、折れてはいない。

ベアトリクスは、その目をじっと見つめ、やがて満足げに頷いた。

「いいよ。……気が向いたら、また寄らせてもらう」

才能だけで言えば、アルファたちに見劣りするかもしれない。

だが、この愚直なまでの「正しさ」への執着は、あるいは別の形で花開くかもしれない。

それはそれで、見物(エンターテインメント)としては悪くない。

「次はハンバーガーを用意しておいてくれ。最近、王都に美味しい店ができたらしいからね」

「は、はい! 必ず!」

ベアトリクスは片手をひらりと振り、テラスの手すりを軽々と飛び越えた。

「えっ!?」

アイリスが慌てて駆け寄るが、そこにはもう誰もいない。

遥か下方、王城の庭園に着地した影もなく、まるで風に溶けたかのように武神の姿は消え失せていた。

残されたのは、空になったティーカップと、武神から突きつけられた重い事実。

そして、微かに残る黄金の魔力の残滓だけ。

「ディアボロス教団……。やはり、実在するのですね」

アイリスは手すりを強く握りしめた。

敵の正体は確定した。

そして、自分の無力さも再確認した。

だが、道は示された。

理不尽なまでの力。それを手に入れなければ、何も守れない。

「見ていてください、ベアトリクス様。そして……シャドウ」

アイリスの決意の言葉は、風に乗って王都の空へと消えていった。

                 *

王城を後にしたベアトリクスは、路地裏を歩きながら独りごちた。

「……ちょっと、煽りすぎたかな」

彼女はフードを目深に被り直した。

アイリス・ミドガル。

彼女がもし、教団の闇に触れ、あるいはシャドウガーデンの真実に近づいた時、その「正しさ」はどう変質するのだろうか。

「ま、壊れるならそれもまた良し。……化けるなら、もっと良しだ」

ベアトリクスは鼻をひくつかせた。

路地の向こうから、香ばしい肉とスパイスの匂いが漂ってくる。

お目当てのハンバーガーショップは近い。

「さて、シド君たちは何をしてるかな。……今日の夜あたり、またアジトに顔を出して、アルファにお土産でもねだるとしようか」

二千年の魔人は、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、雑踏の中へと消えていった。

彼女にとって、この世界はまだまだ退屈しない遊び場であり、最高のレストランなのだから。

 

ミドガル王国の王城でアイリス王女と「お茶会(という名の教育的指導)」を終えた武神ベアトリクスは、その足でミドガル魔剣士学園へと向かっていた。

王都の喧騒を抜け、学生たちが行き交うアカデミックな空気に触れる。

彼女のフードの下にある金色の瞳は、相変わらず眠たげであり、同時に獲物を品定めするような鋭さを秘めていた。

(アイリスの剣は綺麗だった。……綺麗すぎて、脆い)

ベアトリクスは先程の手合わせを反芻する。

天賦の才。王族としての英才教育。真っ直ぐな正義感。

それらが結晶化したアイリスの剣は、確かに強力だ。普通の相手なら、その輝きだけで目が眩み、敗北するだろう。

だが、ベアトリクスのような「人外」や、あの少年(シャドウ)のような「深淵」には届かない。

綺麗事は、泥沼の殺し合いの前では無力だからだ。

「さて……次は」

ベアトリクスは学園の敷地内に入り、鼻をひくつかせた。

彼女の目的は二つ。

一つは、この学園に潜伏して「モブ」を演じている弟子(シド)の顔を見ること。

そしてもう一つは、先程のアイリスとは対照的な「もう一つの剣」を見物することだ。

放課後の実技訓練場。

多くの生徒が帰宅し、静けさが戻りつつあるその場所から、断続的な剣戟の音が聞こえてくる。

その音は、決して華麗ではない。

リズムは重く、呼吸は荒く、泥臭い努力の音がした。

ベアトリクスは音もなくその場に近づき、柱の陰から中を覗き込んだ。

そこにいたのは、銀髪の少女。

ミドガル王国の第二王女、アレクシア・ミドガル。

彼女は一人、汗にまみれて剣を振るっていた。

目の前の空間に仮想敵を描き、何度も、何度も、同じ踏み込みを繰り返す。

その顔には、姉であるアイリスのような余裕も、気品もない。

あるのは、己の才能の無さに絶望し、それでも足掻き続ける者の、鬼気迫る形相だけだった。

「……ふむ」

ベアトリクスは小さく唸った。

(姉とは真逆だね。……雑味が多い。迷いもある。けれど)

彼女は、アレクシアの剣に宿る「粘り気」を感じ取った。

それは、天才には決して持てない、凡人だけが持つ泥の重み。

ベアトリクスは柱から離れ、無造作に訓練場へと足を踏み入れた。

「精が出るね」

突然の声。

アレクシアの肩がビクリと跳ね、鋭い視線がベアトリクスを射抜く。

「……ッ! 誰っ……!?」

即座に剣を構える反応速度。

だが、相手が誰かを確認した瞬間、アレクシアの表情が驚愕に凍りついた。

「武神……ベアトリクス様?」

先日開催された武心祭。その特別賓客であり、伝説の剣豪。

王族であるアレクシアにとって、彼女は雲の上の存在であり、同時に姉(アイリス)が目標としている頂でもある。

ベアトリクスはヒラヒラと手を振った。

「堅苦しい挨拶はいらないよ。……ちょっと通りかかっただけさ」

「通りかかった……? ここは部外者立ち入り禁止ですが」

「私はエルフだからね。迷子になりやすいんだ」

堂々たる嘘。

アレクシアは呆気に取られたが、相手が相手だけに強くは出られない。

彼女は剣を下げ、汗を拭った。

「……姉上なら、ここにはいませんよ。今は王城に──」

「アイリスにはもう会ってきたよ」

ベアトリクスの言葉に、アレクシアの目がわずかに見開かれた。

姉に会った。つまり、手合わせをしたということか。

そして今、ここにいるということは、姉では彼女を満足させられなかったのか。

アレクシアの胸中に、複雑な感情が渦巻く。

姉へのコンプレックス。武神への畏怖。そして、自分の「凡人の剣」を見られたことへの恥辱。

「……そうですか。では、私などに用はないはずです」

アレクシアは自嘲気味に笑い、背を向けようとした。

自分の剣は、武神の目に留まるような代物ではない。

それは誰より、彼女自身が一番理解している。

『凡人の剣』。誰もがそう呼び、彼女自身もそう定義して諦めかけた、醜い剣。

だが。

「君の剣、嫌いじゃないよ」

ベアトリクスの声が、アレクシアの足を止めた。

「……お戯れを。姉上の剣を見た後では、私の剣など泥遊びに見えるでしょう」

「泥遊び、結構じゃないか。私は綺麗すぎる床より、泥だらけの地面の方が歩きやすくて好きだよ」

ベアトリクスは歩み寄り、アレクシアが立てかけていた予備の木剣を手に取った。

その動作はあまりに自然で、殺気など微塵もない。

「少し、遊ぼうか」

「……は?」

「アイリスとは『型』の話をした。……君とは『実戦』の話ができそうだ」

ベアトリクスは木剣をだらりと下げた。

構えですらない。ただ棒を持っているだけのような立ち姿。

だが、アレクシアの肌が粟立った。

本能が告げている。目の前にいるのは、エルフの形をした巨大な災害だと。

「アレクシア王女。……凡人の剣の利点を教えよう」

その言葉は、アレクシアにとって予想外のものだった。

凡人の剣に、利点などあるのか。

才能の欠如を埋めるための、苦肉の策としての剣。

それが、天才たちに勝る要素など。

「……私の剣を、愚弄するつもりですか」

アレクシアの声が低くなる。

彼女にとって、この剣はコンプレックスの塊であり、同時に唯一の武器だ。

それを、才能の塊のような武神に「利点がある」などと評されるのは、皮肉にしか聞こえない。

「試してみればいい」

ベアトリクスは挑発的に笑った。

「私の言っていることが嘘か真か。……その剣で確かめてごらん」

カチリ、とアレクシアの中でスイッチが入った。

相手は伝説の武神。勝てるわけがない。

だが、そのナメた態度ごと切り刻んでやりたいという衝動が、恐怖を上書きする。

「……後悔なさいませんように」

アレクシアが構える。

ミドガル流魔剣術。その基本にして、彼女が何万回と繰り返した凡庸な構え。

「行くわよッ!!」

踏み込み。

床を蹴る音と共に、アレクシアの身体が弾丸のように射出される。

速い。

一般生徒なら反応すらできない速度。

だが、ベアトリクスにとっては、止まっているも同然だった。

(直線的だね。……でも、悪くない)

ベアトリクスは動かない。

アレクシアの剣が鼻先数センチまで迫ったところで、半歩だけ左にずれた。

ブンッ!

風切り音が耳元を掠める。

空振り。

アレクシアは即座に剣を引き、返しの一撃を放つ。

だが、それもベアトリクスの最小限の動きによって躱される。

当たらない。

紙一重で、全てが見切られている。

「くっ……! はぁぁぁッ!!」

アレクシアは吼えた。

焦りが剣を鈍らせる。

姉のような華麗な連撃を繰り出そうとして、体がついていかない。

魔力操作が乱れ、剣筋がブレる。

十合、二十合。

アレクシアの剣は一度もベアトリクスにかすりもしない。

対するベアトリクスは、一度も剣を振っていない。ただ避けているだけだ。

「……はぁ、はぁ……ッ!」

アレクシアが距離を取り、荒い息を吐く。

絶望的な実力差。

まるで大人と子供。いや、人と神ほどの差がある。

「どうしたんだい? 姉の真似事はもう終わりか?」

ベアトリクスは退屈そうに木剣を肩に担いだ。

「君はアイリスになろうとしている。……速く、強く、美しく。それが最強への道だと信じて」

「……それが、魔剣士の理想でしょう!」

「それは『持てる者』の道だ」

ベアトリクスの声が、冷徹に響く。

「膨大な魔力、強靭なバネ、天性の反射神経。……それらを持つ者が、そのリソースを全開にして相手を押し潰す。それが王道だ」

彼女は一歩、アレクシアに近づいた。

「だが、君にはそれがない」

残酷な事実。

アレクシアが一番言われたくない言葉。

「君の魔力は平均より少し上程度。身体能力も平凡。……そんな君が王道を歩めば、どうなるか分かるかい?」

ベアトリクスは、自らの木剣をスッと前に突き出した。

「『劣化版アイリス』になるだけだ。……本物には一生勝てない」

「っ……!!」

アレクシアの顔が歪む。

図星だった。

彼女はずっと、姉の背中を追いかけていた。姉のようになりたくて、姉と同じ剣を目指して、そして届かない現実に打ちのめされてきた。

「黙りなさい……ッ!!」

激情のままに、アレクシアが突っ込む。

大振りの一撃。

感情に任せた、隙だらけの剣。

ベアトリクスは、ため息をついた。

「だから、教えてあげると言っているんだ」

ベアトリクスの木剣が、閃いた。

速くはない。

力強くもない。

ただ、アレクシアの剣の軌道上に、ごく自然に「置かれた」だけ。

カツン。

軽い音がして、アレクシアの剣が弾かれた。

力で弾かれたのではない。

力の入り口、作用点を的確に突かれ、剣の勢いを殺されたのだ。

「え……?」

アレクシアがつんのめる。

その無防備な首筋に、ベアトリクスの木剣がぴたりと添えられる。

「私の剣は君たちと比べないほうが良い、次元が違うからね」

ベアトリクスは淡々と言った。

「私は魔力で空間ごと君をすり潰すこともできる。……でも今、私がやったのは、君と同じ程度の魔力、君と同じ程度の速度での剣だ」

アレクシアは目を見開いた。

今の動き。

確かに、魔力の波は感じなかった。

ただの技術。ただの理合。

「君は、天才(アイリス)を見て、空ばかり見上げている。……だから足元の石ころに躓くんだ」

ベアトリクスは木剣を引いた。

「凡人の剣の最大の武器はね、『嫌らしさ』だよ」

「……嫌らしさ?」

「そう。天才は真っ直ぐ来る。だから読みやすい。……だが凡人は、真っ直ぐ行っても勝てないことを知っている。だから泥を投げる。足を狙う。リズムを崩す」

ベアトリクスは、アレクシアの周りをゆっくりと歩きながら講釈を垂れる。

「君の剣には、その素質がある。……さっきの打ち合いの中で、君は無意識に私の視界の死角に入ろうとしていた。姉の真似をしようとする意識と、生き残ろうとする本能が喧嘩している状態だ」

アレクシアはハッとした。

かつて、あの白いコートの殺人鬼(ゼノン)と戦った時。

あるいは、あのシャドウの剣を見た時。

彼女が感じた「何か」。

それは、綺麗な剣術の教科書には載っていない、ドブ川の中で培われたような実戦の理屈。

「積み上げるんだよ、アレクシア王女」

ベアトリクスは、アレクシアの目の前で足を止めた。

「天才が1の一撃で100のダメージを与えるなら、凡人は1のダメージを100回積み重ねる。……相手が気づかないうちに、相手の選択肢を削り、足場を崩し、最後に首を獲る」

「1を、100回……」

「君の剣は軽い。……だからこそ、止まらない。姉の一撃は重いが、隙も大きい。君の剣は軽いが、隙がない」

ベアトリクスはニヤリと笑った。

「私の弟子(シャドウ)なら、こう言うだろうね。『我は原子(アトミック)にはなれぬが、水にはなれる』と」

(まあ、あの子は原子(アトミック)になっちゃったけどね)

「水……」

アレクシアの中で、何かが繋がりかけた。

シャドウのあの動き。

圧倒的でありながら、どこか掴みどころのない、自然体。

あれは、天才の才能によるゴリ押しではなく、極限まで磨き上げられた「凡人の技術」の結晶だったのではないか。

「もう一度だ」

ベアトリクスが構える。

今度は、先ほどのような棒立ちではない。

重心を低く落とし、剣先をアレクシアの喉元に向けた、実戦的な構え。

「今度は私が攻める。……魔力は君と同レベルに落とす。私の攻撃を『防ごう』とするな。『流せ』。そして、私の体勢が崩れる瞬間を探せ」

アレクシアは唾を飲み込んだ。

武神からの直接指導。

これは、千金積んでも得られない機会だ。

「……はいッ!」

アレクシアも構える。

アイリスの幻影を振り払う。

強く見せようとする虚栄心を捨てる。

今の自分にある、軽くて、安っぽくて、凡庸な剣。

それを、極限まで研ぎ澄ますイメージ。

「行くよ」

ベアトリクスが踏み込む。

速い。だが、見えないほどではない。

正面からの唐竹割り。

(受け止めたら、負ける!)

アレクシアは半身になり、剣を斜めに擦り上げる。

カギィン!

衝撃が腕に走るが、ベアトリクスの剣はアレクシアの体の横を滑り落ちる。

(ここッ!)

ベアトリクスの体勢がわずかに前傾になった瞬間。

アレクシアは躊躇なく、その膝関節を狙って蹴りを放った。

「――ほう」

ベアトリクスが小さく感嘆する。

王女らしからぬ、下品な攻撃。

だが、実戦においては正解だ。

ベアトリクスは蹴りをバックステップで躱すが、その分、剣への意識が薄れる。

アレクシアはその隙を見逃さず、剣を突き出す。

狙うは喉ではなく、手首。

相手の武器を封じるための、堅実で地味な一撃。

「いい性格してるね」

ベアトリクスは笑いながら、手首を返してそれを弾く。

だが、その表情は先ほどよりも楽しそうだ。

そこからの攻防は、先ほどとは一変した。

アレクシアは派手な大技を使わない。

小刻みな突き、足払い、視線によるフェイント。

ベアトリクスが「凡人レベル」に制限しているとはいえ、伝説の武神相手に、アレクシアは食らいついていた。

泥臭く。

見栄え悪く。

けれど、確実に相手の嫌がることを積み重ねていく。

やがて、決定的な瞬間が訪れた。

ベアトリクスの横薙ぎに対し、アレクシアは地面に転がるようにして回避。

そのまま下段から、ベアトリクスの胴を狙って剣を跳ね上げた。

ドレスが汚れることも厭わない、捨て身の一撃。

ピタリ。

剣先が、ベアトリクスの脇腹に触れる寸前で止まった。

ベアトリクスが、指二本でアレクシアの剣を挟んで止めたのだ。

「……そこまで」

ベアトリクスが指を離す。

アレクシアは地面に座り込んだまま、荒い息を吐き続けた。

全身泥だらけ。汗で髪は張り付き、王女としての威厳など欠片もない。

だが、その瞳は死んでいなかった。

むしろ、今まで見たことのないような、確かな光を宿していた。

「……届きませんでした」

「当たり前だ。私は二千年(っと、設定設定)……百年以上生きてるんだからね」

ベアトリクスは手を差し伸べた。

「でも、最後の一撃。……アイリスなら絶対に選ばない選択肢だ」

アレクシアはその手を取り、立ち上がった。

武神の手は、意外なほど小さく、そして温かかった。

「君の剣は、凡人だ。……だが、凡人だからこそ、天才の盲点を突ける。綺麗に勝とうとするな。泥水を啜ってでも生き残り、最後に相手が倒れていれば君の勝ちだ」

「……泥水を、啜ってでも」

アレクシアは自分の木剣を握りしめた。

その感触が、今までよりも手に馴染む気がした。

嫌いだった自分の剣。

だが、それが「武器」になり得ることを、この人は教えてくれた。

「ありがとうございます、ベアトリクス様」

アレクシアは深く頭を下げた。

王族としての礼儀ではなく、一人の剣士としての感謝を込めて。

「礼には及ばないよ。……面白いものが見れたからね」

ベアトリクスはフードを被り直した。

「君がその『凡人の剣』を極めた時……あるいは、あのシャドウすらも驚かせることができるかもしれない」

「シャドウ……」

アレクシアの中で、あの黒いコートの男の姿が浮かぶ。

彼もまた、凡人のような剣を使う。

だが、その完成度は神の領域だ。

(彼もまた、この道を極めた先にある存在なのか……?)

アレクシアの中に、新たな目標が生まれた。

姉を超えるのではない。

姉とは違う道で、あの頂(シャドウ)に迫る。

「さて、私は行くよ。……この後、美味しい店を探さないといけないしね」

ベアトリクスは踵を返した。

その背中は、来た時と同じように飄々としていて、掴みどころがない。

「あの、ベアトリクス様!」

「ん?」

「もしよろしければ……学食の裏に、安くて美味しいハンバーガーがあるのですが」

アレクシアの言葉に、ベアトリクスの耳がピクリと動いた。

「……安いのかい?」

「はい。庶民……いえ、一般生徒向けですが、味は保証します」

ベアトリクスが振り返る。その目は輝いていた。

まるで餌を見つけた小動物のように。

「案内しておくれ。……凡人の剣の極意、その続きは、それを食べながら話そうか」

「……ふふっ。はい!」

アレクシアは笑った。

久しぶりに、心から笑えた気がした。

二人は並んで訓練場を出て行く。

伝説の武神と、凡人の王女。

奇妙な取り合わせだが、その足取りはどこか似通っていた。

夕暮れの校舎に、二人の影が長く伸びる。

その影の中に、黒髪の平凡な男子生徒(シド)がこっそり隠れて様子を伺っていたことに気づく者は、まだ誰もいなかった。

(ベアトリクスさん、また変なこと吹き込んでる……。アレクシアがまた強くなったら、僕のモブライフが脅かされるんだけどなぁ……まあ、ハンバーガー奢ってくれるならいっか)

シドは肩をすくめ、二人の後をついていく。

彼もまた、この奇妙な連鎖(アンサンブル)を楽しむ一人なのだから。

そしてアレクシア・ミドガルは、この日を境に変わった。

彼女の剣はより泥臭く、より狡猾に、そしてより強靭に。

 

 

秋の気配が色濃くなり始めた、ミドガル王国の森。

木々の葉が赤や黄色に色づき、冷たく澄んだ風が枝を揺らしている。

人里離れたその場所は、かつて二人が森を更地にした因縁の地であり、今では奇妙な師弟――あるいは共犯者たちの秘密の待ち合わせ場所となっていた。

「……甘いね」

切り株に腰掛けた武神ベアトリクスは、シャリ、と音を立てて真っ赤なリンゴを齧った。

その横顔は相変わらず気だるげで、伝説の英雄としての威厳など欠片もない。ただの食いしん坊なエルフの姉ちゃんだ。

「ミツゴシ商会の最高級品『黄金の果実』シリーズだ。糖度は保証する」

対面に立つ黒髪の少年、シド・カゲノー――またの名をシャドウは、漆黒のロングコートを風になびかせながら答えた。

彼は腕を組み、深遠な眼差しで森の奥を見つめている。

内心では(奮発して高いリンゴ買ってきた甲斐があったな。これで今日の修行イベントの発生条件はクリアだ)とガッツポーズをしているのだが、表面上はあくまでクールな「陰の実力者」を崩さない。

「君はマメだね。……こんな老人に餌付けをして、何を企んでいるんだい?」

ベアトリクスは口元の果汁を拭い、金色の瞳を細めた。

「企みなどない。ただ、力ある者への敬意と……ほんの少しの好奇心だ」

シドは芝居がかった仕草でベアトリクスを見た。

今日の彼女は、いつもと少し雰囲気が違っていた。

ただの倦怠感ではない。その奥に、鋭く研ぎ澄まされた刃のような気配が隠されている。

(お、来るか? 新必殺技の伝授イベントか?)

シドの期待が高まる。

ベアトリクスは食べかけのリンゴを手に乗せ、じっと見つめた後、ふと呟いた。

「ねえ、シド。君は剣の到達点(ゴール)がどこにあると思う?」

哲学的な問い。

シドは即座に脳内検索をかける。

かっこいい答え、かっこいい答え……。

「……到達点などない。あるのは、無限に続く荒野のみ」

「ふふ、君らしい答えだ。……でもね、私は二千年生きて、一つの壁にぶつかったんだ」

ベアトリクスは立ち上がった。

彼女が動くと、周囲の空気がピリリと張り詰める。

森の鳥たちが鳴き止み、風さえも息を潜めた。

「肉体を極め、魔力を極め、技を極めた。……物理的な斬撃で切れないものはなくなった。山も、海も、空さえもね」

彼女は腰の剣に手をかけた。

まだ抜かない。だが、その柄に触れる指先からは、黄金の粒子が立ち昇り始めていた。

「けれど、世界には『形のないもの』がある。運命、時間、因果……そういった概念的な枷(かせ)だ」

シドの鼓動が早くなる。

来た。これだ。

強キャラが語る、さらに上のステージの話。

物理攻撃無効の敵にも通用するような、チートスキルの話だ。

ベアトリクスは静かに告げた。

「剣を極めれば概念の切断に到れるよ」

「……概念の、切断」

シドはそのワードを口の中で転がした。

甘美な響きだ。

『概念を切る』。なんて厨二心をくすぐるフレーズだろうか。

ただ岩を切るのではない。「硬さ」という概念を切るから防御無視、みたいな理屈だろうか。あるいは「距離」を切るから瞬間移動、みたいな。

(やばい、超カッコいい。それ絶対覚えたい)

シドの瞳が、少年のような輝き(もちろん、設定上は「深淵の光」)を帯びる。

ベアトリクスは、手に持っていた食べかけのリンゴを、無造作に放り投げた。

赤い果実が放物線を描き、シドの目の前を通過する。

「見ているといい、シド。私は今から未来を斬る」

「未来を……?」

「そう。このリンゴが地面に勢いよく落ちてぐしゃっと潰れる、その因果を断ち斬る」

リンゴが最高点に達し、重力に従って落下を始める。

地面には固い岩が露出している。

この高さから落ちれば、間違いなく果肉は砕け、無惨な姿になるだろう。

それは物理法則によって確定した未来。

ベアトリクスが、剣を抜いた。

音はなかった。

閃光もなかった。

ただ、世界が一瞬だけ「ズレた」ような錯覚。

シドの魔力感知能力(センサー)が、異様な現象を捉えた。

ベアトリクスの剣から放たれたのは、斬撃ではない。

魔力でもない。

もっと根源的な、「事象への干渉」とでも呼ぶべき意志の刃。

彼女はリンゴを斬らなかった。

リンゴと地面の間にある空間を斬ったのでもない。

彼女が斬ったのは、「リンゴが衝突して壊れる」という確定した結末への道筋(ライン)。

ヒュン。

剣が鞘に納まる音が、遅れて響いた。

リンゴが地面に到達する。

ドチャッ、という潰れる音はしなかった。

トン。

まるで羽毛布団の上に落ちたかのように。

あるいは、最初からそこに置かれていたかのように。

リンゴは岩の上に着地し、コロンと一度だけ転がって静止した。

傷一つない。

果汁の一滴も飛び散っていない。

物理的な落下エネルギーが、完全に消失していた。

「……ほう」

シドは感嘆の息を漏らした。

(すげえ……! なんだ今の? 重力魔法? 風魔法でクッション作った? いや、魔力の反応はなかったぞ。純粋な剣技だけで、運動エネルギーを相殺したのか……?)

シドの解析(という名の妄想)が加速する。

落下する物体に対し、下から絶妙なタイミングと角度で「斬撃による上向きの風圧」あるいは「微細な衝撃波」を当て、落下速度をゼロにした……?

いや、それだとリンゴ自体が斬れるか、衝撃で痛むはずだ。

ベアトリクスは、何もなかったかのようにリンゴを拾い上げ、また一口齧った。

「これが『因果の切断』さ。……衝突するという未来を切り離し、無傷で着地するという未来だけを選び取った」

彼女はニヤリと笑った。

「どうだい? 君なら、この理屈がわかるだろう?」

わかるわけがない。

シドは内心で首を傾げたが、ここで「わかんないっす、マジックですか?」と言うのはシャドウのキャラではない。

彼はフッと笑い、髪をかき上げた。

「……なるほど。事象の改変……いや、確定した運命への介入か。悪くない余興だ」

知ったかぶりスキル発動。

だが、ベアトリクスは満足げに頷いた。

「流石だね。……やはり君には『視えて』いる」

(視えてないけどね! でも、原理はどうあれ、結果を再現できればそれは「技」として成立する!)

シドの対抗心に火がついた。

この師匠(魔人)は、とんでもない宿題を出してくれた。

「因果を切る」なんていう抽象的なことは、シドにはできない(と思っている)。

だが、「落ちてくるリンゴを無傷で着地させる」という現象を、剣一本で再現することは可能かもしれない。

シドはポケットから、予備のリンゴを取り出した。

いつも通りの安売り品だが、実験台には十分だ。

「……やってみせよう。我が剣に斬れぬものなし」

「おや、いきなり挑戦かい? いいね、その貪欲さ」

ベアトリクスはリンゴを齧りながら、観客席(切り株)に戻った。

彼女の目は、期待に満ちている。

二千年の時をかけて彼女が辿り着いた境地。

それを、この十数年の少年がどう解釈し、どう再現するのか。

シドはリンゴを放り投げた。

(要は、衝撃を殺せばいいんだろ?)

シドの思考はシンプルだ。

「因果」とか「未来」とか、難しいことは分からない。

だが、物理現象として「衝撃ゼロ」を作り出す方法なら、彼の魔力操作技術でいくらでも思いつく。

リンゴが落ちてくる。

シドは漆黒のスライムソードを形成した。

(インパクトの瞬間、リンゴの表面と地面の接点に、極薄の魔力膜を展開。同時に、リンゴ内部の運動エネルギーを、剣先から放つ逆位相の魔力波で相殺……!)

それは「概念」などという高尚なものではない。

狂気的なまでの計算と、変態的な魔力制御による、ただの「超絶技巧」だ。

だが、外から見れば結果は同じになる。

シドが剣を振るう。

その太刀筋は、ベアトリクスのそれとは違い、紫電を纏った鋭利なものだった。

「――断(た)つ」

剣先が、リンゴと地面の隙間を走り抜ける。

その一瞬、シドは数千の魔力操作を行った。

リンゴの細胞一つ一つにかかるGを分散させ、地面からの反作用を吸収し、空気抵抗すらも制御下に置く。

トン。

リンゴは、ベアトリクスの時と同じように、無傷で地面に立った。

「……できた」

シドは内心でガッツポーズをした。

(よし! 見た目は完璧だろ! 原理はたぶん違うけど、ビジュアル的には「因果を斬った」って言張れるレベル!)

彼はクールに剣を収め、ベアトリクスを振り返った。

「……造作もない」

しかし、ベアトリクスの反応は、シドの予想を超えていた。

彼女は食べかけのリンゴを取り落とした。

その口がぽかんと開いている。

金色の瞳が、驚愕に見開かれている。

「……嘘だろ」

ベアトリクスが呻いた。

(えっ、失敗? やっぱバレた? 「それは因果切断じゃなくて、ただの超すごいクッションだよ」ってツッコまれる?)

シドが冷や汗をかきそうになった時、ベアトリクスが駆け寄ってきた。

彼女は地面のリンゴを拾い上げ、穴が開くほど観察し、それからシドの肩をガシッと掴んだ。

「君……今の、どうやったんだい?」

「どう、とは……。斬っただけだ」

「斬っただけ? ……信じられない。君は因果の糸を斬ったんじゃない。……物理法則そのものを『騙した』ね?」

「……?」

ベアトリクスの興奮は収まらない。

彼女の「因果の切断」は、自身の存在を世界に押し付けることで理を歪める、一種の神の御業だ。

だが、シドがやったのは違う。

彼は世界のルールの中にいながら、計算と技術だけで物理法則の穴を突き、結果として奇跡と同等の現象を引き起こした。

それは、魔術というよりは、魔法のような手品(マジック)。

あるいは、神への冒涜的なごまかし。

「すごいよ、シド。君のアプローチは私の想像を超えている」

ベアトリクスは心底楽しそうに笑った。

「私は『運命を変える』ことでリンゴを守った。でも君は『運命をねじ伏せる』ことでリンゴを守った。……結果は同じでも、過程の狂い方が違う」

「……褒め言葉として受け取っておこう」

よく分からないが、評価されたらしい。

シドはホッとして、いつもの調子を取り戻した。

「未来など、所詮は確定していない揺らぎに過ぎない。……我が剣の前では、時間さえもひれ伏す」

適当な決め台詞。

だが、ベアトリクスはそれを真剣に受け止めた。

「そうだね。……なら、次はもう少し難易度を上げようか」

ベアトリクスが、新たなリンゴを取り出した。

いや、リンゴではない。

彼女が懐から取り出したのは、拳大の石ころだった。

「これを君に投げる。……君は、この石が『君に当たる』という未来を斬ってみせなよ」

「ほう……。防御や回避ではなく、因果の抹消か」

「そう。私の投擲は、百発百中の因果を帯びている。それをどう処理するか、見ものだね」

ベアトリクスが構える。

その瞬間、シドの肌が粟立った。

遊びの空気ではない。

彼女から放たれるプレッシャーは、本物の殺気を含んでいる。

(あ、これマジなやつだ。当たったら死ぬやつだ)

シドは瞬時に「陰の実力者」モードのギアを上げた。

ベアトリクスの投擲。それは大砲の弾よりも速く、そして誘導ミサイルのように追尾してくるだろう。

それを「斬る」。

つまり、物理的に弾くのではなく、「当たるはずだった攻撃が、当たらなかったことになる」現象を引き起こせと。

「行くよ」

ベアトリクスの腕が霞んだ。

豪速球。

空気を切り裂く音が遅れて聞こえるほどの超音速の投石。

それは直線的にシドの眉間を狙っているが、同時に「絶対に命中する」という強烈な意志(魔力による因果固定)が込められている。

シドは剣を抜いた。

(普通に弾くのは芸がない。……なら)

シドは、迫りくる石の「軌道」ではなく、その「存在感」を斬った。

彼の剣が、石の手前の空間を撫でる。

その瞬間、シドは自身の魔力を周囲に散布し、空間の屈折率と魔力密度を局所的に歪めた。

一種の蜃気楼。

あるいは、認識阻害。

石はシドの顔面を捉えた――はずだった。

だが、石はシドの頭をすり抜けた。

いや、すり抜けたように見えた。

実際には、シドがほんの数ミリだけ首を傾けて回避したのだが、同時に放った「認識をズラす斬撃(魔力干渉)」によって、ベアトリクス(と世界)には「石が直撃コースを通ったのに、なぜか当たらなかった」ように錯覚させたのだ。

背後の大木に、ドォン!! という衝撃音が響く。

大木の中腹に大穴が空き、木っ端微塵に砕け散る。

シドは涼しい顔で立っていた。

「……外れたな」

ベアトリクスは目を丸くした。

「……今、当たったはずだ」

「当たっていない。……貴様の投げた石は、確かに我の眉間を通過した。だが、そこには『我』はいなかった」

「存在の……希釈?」

ベアトリクスはブツブツと呟きながら、シドに歩み寄った。

ペタペタとシドの顔や体を触る。

「実体はある。……なのに、あの一瞬だけ、君は世界から消えていた。……なるほど、自分の『被弾する因果』の方を斬ったのか」

(いや、ただの超高速スウェイと認識阻害の合わせ技だけどね)

シドは黙ってニヒルに笑う。

誤解が深まるほど、彼の「実力者ランク」は上がっていく。

「面白い。……じゃあ、これはどうだい?」

ベアトリクスは楽しそうだ。

彼女は剣を抜き、シドに向けた。

「私がこれから放つ斬撃。……これを『なかったこと』にしてくれ」

「……望むところだ」

森の中で、常識外れの特訓が始まった。

「斬られた事実を斬る」「攻撃の発生そのものを斬る」「ダメージという概念を斬る」。

傍から見れば、二人が超高速で動き回りながら、何も起きていない空間を斬り結んでいるだけの奇妙な光景。

だが、その内実は、物理法則と魔力理論の限界に挑む、神々の遊びに等しい高度な攻防だった。

数時間後。

森はボロボロになっていたが、二人の体には傷一つなかった。

「……ふぅ。いい汗かいた」

ベアトリクスは満足げに剣を収めた。

シドもまた、乱れた呼吸を整えながらコートを直す。

「悪くない時間だった。……貴様の『概念斬り』、少しは参考になったぞ」

「君のは私のとは別物だけどね。……でも、ある意味で私よりタチが悪いよ」

ベアトリクスはまた新しいリンゴを取り出し(四次元ポケットでもあるのだろうか)、シドに放り投げた。

「あげるよ。合格祝いだ」

シドはそれを受け取り、磨いてから一口齧った。

甘酸っぱい味が広がる。

「未来を斬る、か。……だが、確定した未来などつまらない」

シドは空を見上げた。

夕暮れの空が、紫と茜色に染まっている。

「我は、誰も見たことのない結末(エンディング)を創る。……そのために、邪魔な因果は全て斬り捨てるまでだ」

「……そうだね」

ベアトリクスは優しく微笑んだ。

彼女には視えていた。

この少年が、いずれ本当に世界の因果そのものをねじ伏せ、神話さえも書き換えていく未来が。

「期待しているよ、シド。……君が世界を斬るその日をね」

「フッ……精々、特等席で震えて待つがいい」

シドは背を向け、漆黒の闇の中へと歩き出した。

その背中は、以前よりも少しだけ大きく、そして濃い影を落としているように見えた。

ベアトリクスは彼が見えなくなるまで見送り、それから足元の「無傷のリンゴ」を拾い上げた。

シドが最初に斬ったリンゴだ。

彼女はそれを眺め、くすりと笑った。

「……物理演算の書き換え。魔力による局所的物理法則の改変。……やっぱり、デタラメな子だ」

彼女は気づいていた。

シドが「因果」などという曖昧な魔法を使ったのではなく、もっと泥臭く、もっと緻密で、もっと狂気的な技術で「奇跡」を偽造したことに。

「でも、偽物が本物を超えることもある。……概念すら騙し通せば、それは真実になる」

ベアトリクスはそのリンゴを空に掲げた。

「君の嘘が、世界をどう騙すのか。……楽しみで仕方ないよ」

彼女はリンゴを齧り、その場から姿を消した。

風だけが、破壊された森を吹き抜けていく。

翌日。

ミドガル魔剣士学園の食堂にて。

シド・カゲノーは、友人のヒョロとジャガ相手に、熱心に語っていた。

「いやだからさ、昨日のリンゴ、マジですごかったんだって! こう、落ちてくるのに全然潰れないの! あれ絶対、中に衝撃吸収ゲルが入ってるか、重力操作のアーティファクトだよ!」

「はいはい、シド君の妄想乙」

「また変な夢見たんすか? それより今日の昼の定食、パンが増量っすよ!」

「ちぇっ、信じてないなー。……でも、あれカッコよかったなぁ。『因果を斬る』かぁ……今度、姉さんに怒られた時に使ってみようかな。『姉さんが僕を殴る因果を斬る!』とか言って」

「それ絶対、余計に殴られるやつっすよ」

「即死コースだな」

シドは平和な日常の中で、昨日の出来事を「厨二病的な思い出」として消費していた。

彼が本当に「物理法則を騙す」という神業を習得し、無自覚に強さの次元を一つ上げてしまったことになど、気づく由もなく。

ただ、王城の地下深くに潜む何者かが、運命の糸が断ち切られる予兆に怯え、震えたことだけが、確かな事実として残された。

これが、陰の実力者と武神による、ある秋の日の「概念的な」修行の一幕である。

 

深い森の奥。

普段ならば鳥のさえずりが聞こえるはずのその場所は、異様な静寂と、湿り気を帯びた生温かい空気に包まれていた。

「……趣味が悪いな」

漆黒のロングコートを纏ったシド・カゲノー――シャドウは、目の前の「それ」を見上げて眉をひそめた(もちろん、仮面の下で)。

そこにあるのは、一本の巨木だ。

だが、ただの木ではない。

幹は白骨のように白く、葉はドス黒い赤色をしている。そして何より、樹皮の隙間から時折、ドクン、ドクンという心臓の鼓動のような音が響いているのだ。

「ここにあるのは無限の命を産むアーティファクトを使用された木だ。植林した」

その木の根元で、武神ベアトリクスはコンビニ(ミツゴシ商会系列)のおにぎりを頬張りながら言った。

相変わらずのマイペースぶりだが、彼女の放つ魔力は周囲の空間を歪ませている。

「植林した、か……。相変わらず酔狂なことだ」

シャドウはクールに返すが、内心ではドン引きしていた。

(え、何これマジで気持ち悪いんだけど。アーティファクトを使用したって何? 肥料みたいに撒いたの? ベアトリクスさん、園芸のセンスがアバンギャルドすぎない?)

「教団の拠点を潰した時に拾ってね。……処理に困る代物だったから、この森の生命力と同化させてみたんだ」

ベアトリクスはおにぎりの最後の一口を飲み込み、立ち上がった。

「面白いものが見れるよ、シド。……例えば、普通に斬ると」

彼女は腰の剣を抜き、無造作に振るった。

魔力を込めていない、ただの素振り。

だが、その剣速は音速を超え、巨木の太い枝を一本、瞬時に切断した。

ボトッ。

切り落とされた枝が地面に落ちる。

その直後だった。

『ギ……ギギギ……ッ!』

木が悲鳴を上げた。

いや、軋む音なのだが、それは生物の断末魔のように聞こえた。

そして、切断面からブシュッ! と赤い樹液が噴き出したかと思うと――。

ニョキッ、ブボボボボッ!!

「……うわ」

シドは思わず声を漏らしそうになった。

切断面から、肉腫のようなコブが膨れ上がり、そこから瞬く間に新しい枝が「発射」されたのだ。

それは再生というよりは、増殖に近い。

切り落とされた枝よりもさらに太く、禍々しい枝が、数秒で元通り、いやそれ以上に成長していた。

「この通り、無限に再生する」

ベアトリクスは淡々と事実を述べた。

「生命力が暴走している状態だね。物理的な損傷を与えれば与えるほど、過剰防衛反応で巨大化していく。……燃やしても、凍らせても、細胞の一つでも残っていればそこから世界を覆い尽くすまで増える」

(ハイドラかよ……いや、植物版の魔人ブウか? どっちにしろ生理的に無理だわこれ)

シドは一歩引いた。

こういうグロテスクな敵は、美学(スタイリッシュさ)に反する。

陰の実力者としては、もっとこう、クールな敵と戦いたいものだ。

「厄介だろう?」

「……ああ。美しくない」

「ふふ、そうだね。……だから、終わらせるには『理(ことわり)』を変える必要がある」

ベアトリクスの雰囲気が変わった。

先ほどまでの、おにぎりを食べていた近所のお姉さん感は消滅した。

代わりに現れたのは、二千年の時を魔人として生きた、深淵の捕食者。

彼女は剣を構えた。

だが、その構えは奇妙だった。

切っ先を木に向けていない。

もっと遠く――世界の果て、あるいは空間の裂け目を見ているような、焦点の合わない構え。

「見てなよ、シド。……これは君でも、まだ少し早いかもしれない」

挑発。

いや、純粋な事実の提示。

シドの目がスッと細められる。

(僕にできない? 魔力操作なら誰にも負けない自信があるけど……)

「では――世界そのものを断ち斬るよ」

ベアトリクスが踏み込んだ。

速くはない。

力強くもない。

だが、シドの魔力感知(センサー)が、警報を鳴らした。

彼女の剣に集束しているのは、魔力ではない。

「存在強度」とでも呼ぶべき、彼女自身の魂の質量。

彼女は木を斬ろうとしていなかった。

木が存在している「座標」そのものを、世界というキャンバスから切り離そうとしていた。

「――『世界斬(ワールド・ブレイク)』」

一閃。

音はしなかった。

風も起きなかった。

衝撃波もなかった。

ただ、目の前の景色が「ズレた」。

シドは見た。

巨木が立っていた空間に、黒い線が走るのを。

それはマジックで引いた線ではない。

空間の断裂。世界の裂け目。

その線が、巨木を通り抜けた。

『――――?』

木は悲鳴さえ上げられなかった。

再生しようと魔力が脈動した瞬間、その魔力の行き場が「消失」したからだ。

再生するためには、空間が必要だ。

存在するためには、世界が必要だ。

だが、ベアトリクスの剣は、その「場所」を切り取ってしまった。

ズザザザザ……ッ。

巨木が、砂のように崩れ落ちていく。

再生などしない。

切断面が存在しないのだ。

そこにあるのは「無」の断面。

無限の生命力を誇るアーティファクトの力は、行き場を失って虚空へと霧散し、ただの魔素へと還元されていく。

数秒後。

そこには、何もなかった。

地面ごと抉り取られたような、球状のクレーターだけが残されていた。

切り口は鏡のように滑らかで、土の粒子一つ一つまでが綺麗に切断されていた。

「……ふぅ」

ベアトリクスは剣を納め、肩を回した。

「疲れるね、やっぱり。……世界に喧嘩を売るような技だから」

彼女は振り返り、シドにニカっと笑いかけた。

「どうだい? 私の『世界斬』は」

シドは呆然としていた。

(マジかよ……)

彼は内心で冷や汗をかいていた。

今の技の原理を、彼は瞬時に解析しようとした。

だが、完全には理解できなかった。

空間切断? 次元斬?

いや、似ているが違う。

あれは魔法技術ではない。

二千年という気が遠くなるほどの時間を生き、世界というシステムに「私はここにいる」と刻み込んできた彼女だからこそできる、世界への「命令権(コマンド)」の行使だ。

『ここは切れている』と彼女が定義したから、世界がそれに従って切れた。

ただそれだけの、理不尽な暴力。

「……見事だ」

シドは素直に称賛した。

そして同時に、猛烈な対抗心が湧き上がった。

(悔しい……! 今の、超カッコいいじゃん! 「世界そのものを断ち斬る」ってフレーズも最高だし、何よりあのヴィジュアル! 無音でズレて消滅! やりたい! 今すぐやりたい!)

シドはスッと前に出た。

彼の中の「陰の実力者」魂が燃え上がる。

見た技はコピーする。それが彼の流儀だ。

たとえ相手が二千年の魔人だろうと、関係ない。

「……我にも見えたぞ。世界の綻びが」

ハッタリをかます。

そして、漆黒の魔力を剣に集中させる。

(原理は分からんが、要は空間ごとぶっ飛ばせばいいんだろ? 僕の魔力圧縮と制御なら、擬似的な空間破砕くらいはできるはず……!)

シドの魔力が青紫に輝く。

その密度は、先ほどのベアトリクスに匹敵、あるいは凌駕している。

「我もまた、世界を断つ刃とならん――」

シドが剣を振り上げた。

狙うは、隣に残っていたもう一本の巨木(普通の杉の木)。

「はぁっ!!」

一閃。

シドの剣から放たれたのは、極限まで圧縮された魔力の刃。

それは空間を振動させ、大気を焼き焦がし、原子レベルで物質を分解する破壊の光。

ドオオオオオオオオオオン!!!!

轟音と共に、森の一角が消し飛んだ。

巨木どころか、その後ろにあった岩山まで貫通し、雲を割った。

圧倒的な破壊力。

地形が変わるレベルの攻撃。

「……どうだ」

シドは残心をといて、ドヤ顔で振り返った。

杉の木は跡形もない。消滅した。

だが、ベアトリクスは苦笑していた。

「凄い威力だね。……でも、違うよシド」

彼女は、シドが消し飛ばした地面を指差した。

そこには、焼け焦げた土と、破壊の痕跡が生々しく残っている。

そして、吹き飛んだ杉の木の根元から、わずかに新しい芽が顔を出そうとしていた(普通の木の再生力だが)。

「君のは『破壊』だ。……そこにある物質を、魔力で粉々に粉砕しただけだ」

ベアトリクスは諭すように言った。

「私の剣は『断絶』だ。……あそこに、再生の余地はない」

彼女が斬った方のクレーターを見る。

そこには、草一本生えていない。

再生しようとする生命の気配すら、そこには存在できないのだ。

「無」があるだけ。

シドは自分の剣を見つめた。

(……負けた)

彼は認めざるを得なかった。

威力なら負けていない。

だが、「現象の質」において、今の自分は彼女に至っていない。

あの『世界斬』には、魔力操作のテクニックだけでは到達できない「何か」が必要なのだ。

それはおそらく、彼女が言っていた「二千年の重み」。

世界に対する干渉力。

「……ククッ、クハハハハ!」

シドは顔を覆って高笑いした。

悔しい。けれど、最高だ。

まだ上がいる。

まだ覚えるべき「カッコいい技」がある。

それは、退屈な最強キャラの日常における、最高のスパイスだ。

「なるほど……。これが『魔人』の深淵か。……悪くない」

シドはベアトリクスに向き直り、不敵に笑った。

「今はまだ、我が刃は世界を『壊す』に留まる。……だが、いずれその理(ことわり)さえも飲み込んでみせよう」

「うん、君ならできるよ」

ベアトリクスは嬉しそうに頷いた。

「君は成長が早すぎるからね。……私の二千年なんて、あと数年で追い抜かれそうだ」

彼女は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。

本気でそう思っている。

そして、そうなることを望んでいる。

「でも、今日は私の勝ちだね」

ベアトリクスは悪戯っぽく舌を出した。

「悔しかったら、何か奢っておくれよ。喉が渇いた」

「……金欠なんだが」

「ミツゴシの会長とお友達なんだろ? ツケにしときなよ」

「……はぁ」

シドはため息をついて、剣を収めた。

世界を斬る魔人も、普段はただのタカリ屋だ。

二人は並んで森を歩き出す。

破壊された森の跡地。

片方は「力による破壊」。

もう片方は「理による切断」。

その二つの痕跡は、この世界における最強の二人が並び立った証として、長くその場所に刻まれることになるだろう。

「次は、その技……パクらせてもらうからな」

シドは小声で呟いた。

「ん? 何か言ったかい?」

「……いや。次はもっと美味いハンバーガー屋を知っていると言ったんだ」

「本当かい! やっぱりシドはいい弟子だねぇ!」

ベアトリクスの機嫌が良くなる。

シドは肩をすくめた。

世界を斬るには、まだ修行(と資金)が足りないようだ。

(見てろよ……いつか絶対、「アイ・アム・ワールドカッター」を完成させてやる……!)

新たな野望(中二病設定)を胸に、陰の実力者は魔人と共に夕暮れの街へと消えていった。

それが、彼が初めて味わった、明確な「技の敗北」であり、新たな進化への第一歩であった。

 

極寒の地、ノースランド。

人が住むことを拒絶するかのような吹雪が吹き荒れる永久凍土の荒野に、場違いな三つの影があった。

一つは、黄金の粒子を薄く纏ったエルフの女性、武神ベアトリクス。

一つは、犬耳と尻尾を激しく揺らす獣人の少女、デルタ。

そして、漆黒のロングコートに身を包んだ「陰の実力者」、シャドウ(シド・カゲノー)。

彼らは遭難しているわけではない。

いや、ある意味では遭難以上の危機的状況にあった。

「……腹が減ったね」

ベアトリクスが、雪原を見つめながら重々しく呟いた。

その腹の虫が、グウウゥと低い唸りを上げる。それはまるで、地底に眠る魔獣の咆哮のようだった。

「ボス……デルタもお腹空いた……」

デルタが雪の上にぺたりと座り込み、耳を垂れる。

彼女の野生のエネルギーも、燃料切れには勝てないらしい。

シドは腕を組み、深淵なる沈黙を守っていた。

(寒い。腹減った。帰りたい。……でも、ここで「コンビニ行ってくる」とは言えない雰囲気だ)

彼はあくまで最強の男のロールプレイ中である。空腹ごときで動揺してはならない。

だが、この極北の地には、まともな獲物がいない。

雪ウサギや冬眠中の熊程度では、この食欲魔人(ベアトリクス)と暴食獣人(デルタ)の胃袋を満たすには、焼け石に水ならぬ、吹雪にマッチ棒だ。

ベアトリクスは、スッと鼻を空に向けた。

黄金の瞳が、吹雪の向こうにある微かな「匂い」を捉える。

いや、それは匂いというよりは、魔力の残滓に近い。

「……いる」

彼女はニヤリと笑った。

その瞬間、彼女の纏う空気が、空腹の迷子から、頂点の捕食者へと切り替わった。

「デルタ、君の嗅覚に賭けよう」

「あう?」

デルタが顔を上げる。

ベアトリクスは、雪山のさらに奥、人間が決して立ち入らない「竜の顎(アギト)」と呼ばれるクレバスの方角を指差した。

「ここには『エンシェントグラブ』の肉がある!」

その言葉に、シドの眉がピクリと動いた。

(エンシェントグラブ? なんだそれ。古代の……グラブ? グローブ? カニ的な何かか?)

ネーミングセンスからして、レアモンスターの響きがする。

「エンシェント……肉!?」

デルタの瞳がカッと見開かれた。

「肉」という単語への反応速度が異常だ。

「そうだよ。二千年前、私がまだ現役バリバリの魔人だった頃に食い尽くして絶滅させたと思っていた、幻の超高級食材さ」

ベアトリクスは涎を拭った。

「見た目は凶悪な甲殻類だが、その殻の下には、濃厚な甘みを持つ白身がぎっしりと詰まっている。……特にハサミの付け根の肉は、口の中でとろけるバターのようだ」

「じゅるり……」

「……ほう」

デルタとシドの反応が重なった。

デルタは純粋な食欲。

シドは「絶滅したはずの幻の食材」という設定への食いつきだ。

(美食ハンター編、開幕か……! 悪くない)

「でも、奴らは地中深くに潜っている。私の魔力感知でも、大雑把な位置しか分からない」

ベアトリクスはデルタの頭をワシワシと撫でた。

「だから君の鼻が必要なんだ。……探せるかい? 最高に美味い肉の匂いを」

「探す! デルタ、肉のためなら何でもする!」

デルタが立ち上がり、鼻をヒクヒクと動かし始めた。

雪原の冷たい風に乗って流れてくる、微細な粒子。

普通の人族には絶対に感じ取れない、遥か地底からの誘惑。

「……くん、くんくん……」

デルタの動きが止まる。

そして、バッ! と尻尾が直立した。

「あっち! すっごくいい匂いする!」

彼女が指差したのは、断崖絶壁の下、地底へと続く巨大な亀裂の底だった。

「よし、行こうか。……ランチタイムだ」

ベアトリクスが先陣を切って飛び降りる。

躊躇などない。

その後を、デルタが「肉ーッ!」と叫びながらダイブし、シドもまた「やれやれ……」とコートをなびかせて優雅に落下していった。

                 *

地底湖。

地上とは隔絶されたその空間は、青白い発光苔に照らされ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

だが、そこに漂う空気は濃厚な死の気配に満ちている。

「くんくん……。ボス、こっち!」

デルタは四足歩行になり、猛スピードで岩場を駆け抜ける。

彼女の野生の勘が、獲物の居場所をピンポイントで捉えていた。

ベアトリクスは感心しながらその後を追う。

(やっぱり、この子の感覚は優れているね。魔力に頼らない、生物としての純粋なスペックが高い)

シャドウガーデンの幹部たちは優秀だが、こと「狩り」においてはデルタが頭一つ抜けている。

やがて、彼女たちは広大な砂地に出た。

地底湖のほとり。静寂が支配する空間。

「ここ! 足の下!」

デルタが叫んだ瞬間。

ズゴゴゴゴゴゴ……ッ!!

地面が爆発した。

砂煙を上げて現れたのは、小山ほどもある巨大な鋏(ハサミ)だった。

「出たね……!」

ベアトリクスが嬉々として声を上げる。

現れた全貌。

それは、岩盤のような甲殻に覆われた、巨大なヤドカリとカニを足して二で割ったような怪物だった。

その名も『エンシェントグラブ』。

太古の昔、地上を支配していた捕食者の一角。

『ギシャアアアアアアッ!!!』

怪物が咆哮を上げる。

その威圧感は、並の魔物なら即死するレベルだ。

だが、ここにいる三人は「並」ではなかった。

「デカい肉っ!!」

デルタにとっては、ただの巨大なハンバーグに見えているらしい。

彼女は嬉々として地面を蹴り、怪物の頭上へと跳躍した。

「狩るッ!」

黒いスライムスーツから漆黒の大剣を形成し、重力に任せて脳天へと叩きつける。

必殺の一撃。

鋼鉄さえも紙のように引き裂くデルタの剛剣。

ガギィィィンッ!!!

しかし、響いたのは不快な金属音だった。

「あうっ!?」

デルタの剣が弾かれた。

怪物の甲殻には傷一つついていない。

それどころか、衝撃でデルタの手が痺れている。

「硬い……!」

シドが冷静に分析する。

(ミスリル合金並みの硬度か。しかも表面に魔力を拡散させる粘液が塗られている。物理と魔法、両方の耐性がマックスだ)

ゲームで言えば、特定のギミックを解除しないとダメージが通らないボスキャラだ。

怪物が反撃に出る。

巨大なハサミが、空中のデルタを薙ぎ払おうと迫る。

その質量は、城壁を粉砕するに十分だ。

「デルタ、力任せじゃダメだよ」

ベアトリクスの声。

彼女はいつの間にか怪物の足元に移動していた。

ハサミの一撃を、最小限の動きで回避しながら、デルタに指示を飛ばす。

「そいつの殻は二千年かけて硬化した『歴史』そのものだ。正面から叩いてもスプーンが曲がるだけさ」

「ボス! どうすればいいの!?」

デルタが空中で身を翻し、着地する。

彼女は混乱していた。

今まで「切れないもの」などなかった。力で解決できない獲物はいなかった。

「匂いを嗅ぐんだ」

ベアトリクスは、怪物の攻撃をひらりひらりと躱しながら笑った。

その動きは舞踏のように優雅で、怪物を翻弄している。

「どんなに堅牢な鎧にも、継ぎ目はある。……関節、呼吸孔、魔力の排出口。そこからは必ず『中身』の匂いが漏れている」

「中身の……匂い……」

デルタは鼻を動かした。

怪物は暴れまわっている。砂煙が舞い、魔力の奔流が視界を遮る。

だが、デルタは目を閉じた。

視覚はいらない。

聴覚もいらない。

信じるのは、ベアトリクスが「賭けよう」と言ってくれた、自分の鼻だけ。

土の匂い。水の匂い。ボスの匂い。シャドウ様の匂い。

それらをフィルタリングして除外する。

残ったのは、怪物の放つ生臭い体臭。

その中に……。

(……甘い匂い?)

一瞬、フワリと漂った香り。

濃厚なバターのような、芳醇な肉の香り。

「そこッ!」

デルタが目を見開いた。

怪物が右のハサミを振り上げた瞬間、その脇の下にある、甲殻の僅かな隙間。

そこから、強烈な「美味しい匂い」が漏れ出している。

「見つけたァァッ!!」

デルタが消えた。

神速の踏み込み。

怪物のハサミが振り下ろされるより速く、彼女は懐へと潜り込んでいた。

「デルタ・ストライクッ!!」

漆黒の剣が、針のように鋭く変形し、その一点を貫く。

硬い甲殻の隙間。

柔らかい関節部分。

ズブシュゥゥッ!!!

『ギィヤアアアアアアッ!?』

怪物が絶叫した。

急所を貫かれ、緑色の体液が噴き出す。

「やったね」

ベアトリクスが拍手する。

だが、まだ終わっていない。

手負いの獣ほど恐ろしいものはない。

エンシェントグラブは苦痛に狂い、残った左のハサミと、口から吐き出す溶解液を乱射し始めた。

「暴れると肉が不味くなる……。締めなきゃいけないね」

ベアトリクスが剣に手をかける。

だが、それより速く、黒い影が動いた。

「……手間取っているな」

シャドウだ。

彼はいつの間にか、怪物の遥か上空に浮遊していた。

その手には、青紫の魔力が収束している。

(ここだ! 美味しいところを持っていくのが陰の実力者!)

(それに、このまま暴れさせて肉質が硬くなったら困る!)

「肉の鮮度は、処理の速さで決まる……」

シャドウが剣を振り上げる。

狙うは、デルタが穿った傷口ではない。

もっと根本的。

怪物の脳天から尾てい骨までを一刀両断にする、解体の一撃。

「アイ・アム……」

彼が呟くと、地底湖の空気が凍りついた。

ベアトリクスですら、その魔力密度に目を見張る。

(やっぱり、あの子は規格外だ)

「……クッキング」

アトミックではない。

調理(クッキング)だ。

彼は魔力を極細のワイヤーのように編み上げ、怪物の甲殻の隙間という隙間に浸透させた。

そして、内部から神経だけを瞬時に切断する。

カッ……!

青紫の閃光が走った。

爆発はない。

ただ、怪物の動きがピタリと止まった。

『…………?』

糸が切れた人形のように、巨大な体が崩れ落ちる。

ドオオオオオン……。

地響きと共に、エンシェントグラブは沈黙した。

外傷はほとんどない。

最高の状態で「活け締め」されたのだ。

「……ふっ。下ごしらえは完了だ」

シャドウが着地し、コートを翻して背を向ける。

完璧な立ち振る舞い。

「すごーい! さすがシャドウ様!」

デルタが尻尾をブンブン振って飛びつく。

ベアトリクスも、感嘆のため息をついた。

「神経締めまで完璧とはね。……君、料理人の才能もあるのかい?」

「あらゆる道に通じてこそ、真の実力者だ」

(前世で魚の締め方動画を見ておいてよかった……。カニも似たようなもんだろ)

「さあ、食事の時間だよ」

ベアトリクスが、どこからともなく巨大な鍋と調味料セットを取り出した。

(四次元ポケット的なアーティファクトか?)

                 *

数十分後。

地底湖のほとりからは、香ばしく、そして食欲をそそる極上の香りが漂っていた。

焚き火の上で、巨大なカニの足(グラブ・レッグ)が焼かれている。

殻が熱で赤く染まり、中から沸き立つ肉汁が、チリチリと音を立てている。

「焼けたよ」

ベアトリクスが、焼き上がった足を一本、剣で器用に殻を剥いて差し出した。

中から現れたのは、雪のように白く、繊維の一本一本が輝くような巨大な身。

「いただきまーす!」

デルタが両手で掴み、ガブリと齧り付く。

「んん〜ッ!! おいひぃ〜ッ!!」

デルタが悶絶した。

口いっぱいに広がる濃厚な旨味。

プリプリとした弾力がありながら、噛めば繊維がほろりと解け、甘い肉汁が溢れ出す。

「……これは」

シドも一口食べた瞬間、目を見開いた。

(美味い……! なんだこれ、カニカマの最上級品を100万倍美味くした感じだ! いや、ロブスターの濃厚さとタラバガニのボリューム感を足して、さらに和牛の脂の甘みを足したような……)

「美味いだろう?」

ベアトリクスも上品に、しかし猛烈なスピードで肉を口に運んでいる。

「この肉はね、魔力を豊富に含んでいるから、食べた瞬間に体内でエネルギーに変わるんだ。……二千年前にこれを食べ尽くしたせいで、私は魔人として完成しちゃったと言っても過言じゃない」

「そんなヤバい食材だったのか……」

シドは戦慄したが、箸(というかナイフ)は止まらない。

美味すぎる。

これは王都の高級レストランでも出せない味だ。

「デルタ、よくやったね」

ベアトリクスが、肉を頬張りながらデルタを見た。

「君の鼻がなければ、この岩盤の下に眠る奴を見つけることはできなかった。……君の勝利だ」

「えへへ……ボスに褒められた!」

デルタは口の周りをベタベタにしながら、嬉しそうに笑った。

彼女にとって、強いボス(ベアトリクス)と最強のボス(シャドウ)と一緒に、美味しい肉を腹いっぱい食べる。

これ以上の幸せはない。

「しかし、量が多すぎるな」

シドは巨大な死骸を見上げた。

三人で限界まで食べても、まだ全体の数パーセントも消費していない。

「持って帰ればいいよ。……ミツゴシの冷蔵倉庫なら入るだろう?」

「そうだな。……アルファたちにも食わせてやるか」

シドは思った。

(これを七陰のみんなに配れば、「さすがシャドウ様! 幻の食材を調達してくださるとは!」って株が上がるな。……よし、お土産にしよう)

「デルタ、運搬は任せたぞ」

「うぐっ……食べてすぐ運動は……」

「一番多く食べたのは君だろ」

ベアトリクスに突っ込まれ、デルタは渋々ながらも、巨大なカニの足を何本も束ねて背負った。

「ごちそうさまでした」

三人は満腹のお腹をさすりながら、地底湖を後にした。

極寒のノースランド。

だが、今の彼らの体は、極上の魔力肉によってポカポカと温まっていた。

「次はどうする? 南の密林に『サンダーバード』っていう、痺れるほど美味い鳥がいるんだけど」

ベアトリクスが提案する。

「行く! デルタ、鳥肉好き!」

「……やれやれ、付き合いきれないな」

シドは肩をすくめたが、その口元は微かに緩んでいた。

こういう冒険も、たまには悪くない。

何より、美味い飯が食えるなら、陰の実力者としては文句はない。

吹雪の中、三つの影は次の「美食」を求めて消えていった。

後に残されたのは、綺麗に中身を食べ尽くされたエンシェントグラブの殻と、伝説として語り継がれるであろう「謎の爆食集団」の噂だけであった。

 

 

太陽が照りつける荒野。

乾いた風が吹き抜け、背の高い草が波のように揺れる広大なサバンナ地帯。

普段ならば、旅人が足を踏み入れることを躊躇うような魔境である。獰猛な魔獣が跋扈し、弱肉強食の理が支配するこの場所を、二つの影がのんびりと歩いていた。

「ボスー、デルタ、お腹空いた」

犬耳をぺたりと垂れ下げ、不満げに声を上げたのは、シャドウガーデンの特攻隊長、デルタである。

彼女は漆黒のスライムスーツ(野性味あふれる露出多めのスタイル)に身を包んでいるが、その足取りは重い。

「さっき食べたばかりじゃないか」

その隣を歩くのは、フードを目深に被ったエルフの女性、武神ベアトリクス。

彼女は手にした地図――というよりは、美味しそうなイラストが描かれたグルメマップ――を眺めながら、呆れたように言った。

「さっきのはおやつ! デルタ、もっとガッツリしたお肉が食べたい!」

デルタが駄々をこねる。

彼女の胃袋は底なしだ。強靭な肉体を維持するためには、膨大なカロリーを必要とする。

ベアトリクスは地図を畳み、ニヤリと笑った。

その黄金の瞳が、捕食者の輝きを帯びる。

「安心しなよ、デルタ。……私たちは今、その『ガッツリしたお肉』の聖地に向かっているんだ」

「聖地……?」

デルタの耳がピクリと反応する。

ベアトリクスは前方を指差した。

地平線の彼方に、巨大な土煙が上がっているのが見える。

ドシンドシンという地響きが、ここまで伝わってくるほどの質量。

「ここには極上の霜降り肉が採れるグレートブルがいる」

「グレート……ブル……?」

デルタが涎を垂らす。

その名前だけで、強そうで、かつ美味しそうな響きだ。

「そうさ。体長十メートルを超える巨大牛だ。普段は岩をも砕く突進で全てを破壊する災害級の魔獣だが……その肉質は、あらゆる生物の中で最も脂が乗っていると言われている」

ベアトリクスは、デルタの顔を覗き込んだ。

悪魔的な誘惑の笑みを浮かべて。

「デルタ、食べたいよね? とてもとても脂の乗ったお肉」

「た、食べたい……!」

デルタの尻尾が、千切れんばかりに左右に振られる。

本能が告げている。

その肉は美味い。絶対に美味い。

「口に入れた瞬間、体温で脂が溶け出して、甘い肉汁が洪水のように溢れ出すんだ。……噛む必要すらない。飲める肉だよ」

「飲める肉ッ!!」

パワーワードに、デルタの理性が吹き飛んだ。

「狩る! デルタ、今すぐ狩る!」

「よし、行こうか。……ふたりだけの食い倒れツアー、メインディッシュの時間だ」

ベアトリクスとデルタ。

世界最強クラスの食いしん坊二人が、大地を蹴った。

その背中は、どんな魔王討伐隊よりも殺気に満ち溢れていた。

                 *

土煙の中、現れたのは「牛」という概念を逸脱した怪物だった。

全身が黒鉄のような筋肉の鎧で覆われ、二本の角は槍のように鋭く天を突いている。

鼻息一つで岩を吹き飛ばす、荒野の王者グレートブル。

『ブモオオオオオオオオッ!!!』

群れのリーダーであるキング・ブルが咆哮を上げた。

縄張りに侵入してきたちっぽけな二つの影を威嚇し、排除しようと殺気立つ。

だが、彼(牛)は知らなかった。

自分たちが「敵」として見られているのではなく、「食材」として値踏みされていることに。

「デカい! 強そう! 美味そう!」

デルタが四つん這いになり、野生の笑みを浮かべる。

彼女の周りに、漆黒の魔力が渦巻く。

「ボス、あれ全部食べていい?」

「全部は無理だよ。……一番脂の乗っていそうな、あのリーダーだけにしよう。他のは硬そうだ」

ベアトリクスは冷静に品定めをする。

彼女の魔眼には、牛の筋肉繊維の一本一本、脂肪の含有率までが透けて見えている。

「あいつの肩ロースからサーロインにかけての部位……。あそこが至高だ」

「わかった! デルタ、あいつをやる!」

デルタが飛び出した。

速い。

黒い弾丸となって、キング・ブルの懐へと肉薄する。

『ブオッ!?』

キング・ブルが反応し、前足を踏み下ろす。

その一撃は戦車すらプレスする威力だが、デルタはそれを紙一重で回避し、黒い大剣を形成して斬りかかる。

「お肉ぅぅぅッ!!」

ドガァァァン!!

デルタの剣が、牛の肩口に突き刺さる――はずだった。

だが、剣は牛の分厚い皮膚と筋肉に阻まれ、浅く切り裂くに留まった。

「硬いっ!」

デルタが空中で身を翻し、着地する。

キング・ブルの筋肉は、ただ硬いだけではない。

魔力を帯びた筋肉が衝撃を分散させる、「天然の魔力装甲」となっているのだ。

『グオオオオッ!!』

キング・ブルが怒り狂い、角を振り回して突進してくる。

質量による暴力。

デルタはそれを力任せに受け止めようとするが――。

「ストップ」

ベアトリクスの声が響いた。

瞬間、キング・ブルの動きがピタリと止まった。

いや、止まらされた。

見えない巨大な手で押さえつけられたかのように、四肢が地面にめり込む。

「ボ、ボス?」

「デルタ、力任せに殴っちゃダメだと言っただろう?」

ベアトリクスが、牛の突進軌道の真横に立っていた。

彼女は人差し指一本を立てているだけだが、そこから放たれる重圧(プレッシャー)が、巨大な魔獣を縫い留めている。

「殴ったり、無駄に傷つけたりすると、肉に血が回ってしまう。……それに、ストレスを感じさせると肉が硬くなるんだ」

ベアトリクスは、まるで料理教室の先生のように諭した。

「美味しく食べるためには、『苦しませずに』『一撃で』『綺麗に』仕留めなきゃいけない」

「む、難しい……」

デルタは本能で戦うタイプだ。

繊細な手加減や、芸術的な殺し方は苦手分野である。

「手伝ってあげるよ。……私がこいつの動きを封じる。君は、ここの一点を狙うんだ」

ベアトリクスが指差したのは、キング・ブルの首の付け根。

脊椎と延髄が繋がる、生命の中枢。

「ここを断てば、脳が死を認識する前に活動が停止する。……最高の鮮度が保たれるよ」

「わかった! そこを斬ればいいんだね!」

デルタが再び構える。

今度は力任せではない。

狩人としての集中力を高め、魔力を剣先の一点に圧縮する。

シャドウの剣を模倣した、貫通力特化の形態。

「……んッ!」

デルタが消えた。

ベアトリクスが拘束を解いた瞬間。

キング・ブルが動こうとするその刹那の隙間に、黒い刃が吸い込まれた。

ズプッ。

音は小さかった。

だが、その一撃は確実に急所を断ち切っていた。

『…………?』

キング・ブルは、自分が死んだことすら気づかず、ゆっくりと膝を折った。

ドスーン……と巨大な体が地に伏す。

安らかな顔だ。ストレスフリーな屠殺。

「上出来だ」

ベアトリクスが拍手する。

「やったー! お肉ゲットー!」

デルタが牛の上に乗って勝どきを上げる。

「さあ、解体だ。……鮮度が命だよ」

ベアトリクスが袖をまくった。

ここからは、二千年の経験を持つ魔人の「クッキング・タイム」である。

                 *

サバンナの一角。

そこに、異様な光景が広がっていた。

ベアトリクスが取り出したのは、一枚の巨大な鉄板(オリハルコン製)。

それを魔力で熱し、即席のステーキハウスを作り上げていた。

「じゅわあああああ…………」

分厚くカットされたキング・ブルの霜降り肉が、熱せられた鉄板の上で踊る。

脂が溶け出し、香ばしい煙が立ち上る。

その匂いだけで、白米が三杯はいけそうな破壊力だ。

「じゅるり……まだ? ボス、まだ?」

デルタが鉄板の前に張り付き、涎を垂らして待機している。

尻尾がメトロノームのように左右に揺れている。

「もう少しだ。……表面をカリッと焼き上げて、中に旨味を閉じ込める。レアが一番美味い」

ベアトリクスは、どこからともなく取り出した岩塩と、謎のスパイス(古代文明の秘伝らしい)を振る。

「よし、いいよ」

許可が出た瞬間、デルタの手が伸びた。

ナイフもフォークも使わない。

焼きたての1キロステーキを、手づかみでガブリといく。

「あふっ! あつっ! ……んんん〜ッ!!!」

デルタが目を見開き、天を仰いだ。

「あまーい! とろけるぅ〜!!」

デルタの言う通りだった。

キング・ブルの肉は、口に入れた瞬間に繊維がほどけ、濃厚な脂の甘みが爆発する。

噛む必要がない。

舌の上で肉が溶けていく感覚。

「うん、これだ」

ベアトリクスも上品に(しかし猛スピードで)ナイフを使い、肉を口に運ぶ。

「極上の魔力を蓄えた脂身。……口の中に広がる草原の香りと、力強い生命の味。二千年ぶりに食べたけど、やっぱり美味いね」

彼女は目を細め、至福の表情を浮かべる。

武神としての威厳も、魔人としての恐怖も、今はステーキの前にひれ伏している。

「シャドウ様にも食べさせたかったなー」

デルタが口の周りを脂だらけにしながら言う。

「あの方は忙しいからね。……それに、これは私たちの秘密の女子会(?)だよ」

「そっか! 秘密! デルタ、秘密守るの得意!」

「うーん、どうかな……」

デルタの知能指数を考えると、明日にはシャドウに自慢していそうだが、まあそれも愛嬌だ。

次々と肉が焼かれていく。

デルタの食欲は留まるところを知らない。

5キロ、10キロ、20キロ……。

普通の人なら致死量の脂を摂取しているはずだが、獣人の代謝と魔力変換効率は常軌を逸している。

「ボスはどうしていっぱい食べるのに太らないの?」

デルタがふと疑問を口にする。

ベアトリクスのお腹はぺたんこままだ。

「魔力で燃焼しているからさ。……私の体は常に高出力の炉が回っているようなものだ。燃料を入れないと、世界そのものを喰らっちゃうからね」

「世界を喰らう……? ボス、すごい!」

デルタは細かい理屈は分からないが、「ボスは燃費が悪い」ということだけ理解した。

「デルタも強くなったら、もっといっぱい食べられる?」

「そうだね。強さとは、より多くの命を奪い、より多くのエネルギーを己に取り込むことだ」

ベアトリクスはステーキを飲み込みながら、哲学的なことを言った。

「たくさん食べて、たくさん動いて、たくさん寝る。……それが最強への近道さ」

「わかった! デルタ、もっと食べる!」

デルタは新たな肉の塊に喰らいつく。

単純明快。

だが、その単純さこそが、デルタを「七陰」の中でも特異な強者たらしめている要因だと、ベアトリクスは評価していた。

迷いがない。本能に従順。

それは「魔人」の在り方に近い。

やがて、巨大だったキング・ブルの肉の山が、綺麗になくなった。

骨までしゃぶり尽くし、スープにして完飲した。

「ぷはー! お腹いっぱい!」

デルタが芝生の上に大の字になって転がる。

幸せそうだ。

そのお腹はポンポコリンに膨らんでいるが、数時間もすれば魔力に変換されて元通りになるだろう。

「ごちそうさま。……さて、少し休んだら次に行こうか」

ベアトリクスが鉄板を片付けながら言った。

「え? 次?」

デルタが寝転がったまま顔を上げる。

「当たり前だろう? これは『食い倒れツアー』だ。一軒で終わるわけがない」

ベアトリクスは再びグルメマップを広げた。

その瞳は、まだ満たされていない。

「この近くの火山地帯に、『マグマ・スパイシー・チキン』という、激辛だが病みつきになる鳥がいるらしい」

「激辛……! チキン……!」

「食べた直後に、極寒の泉で冷やした『氷結フルーツ』をデザートにする。……どうだい?」

デルタがガバッと起き上がった。

膨らんでいたお腹が、急速に引っ込んでいく(魔力変換完了)。

「行く! デルタ、チキンもフルーツも食べる!」

「いい返事だ」

ベアトリクスは立ち上がり、デルタに手を差し伸べた。

「さあ、行こうか。……世界の美味いものは、まだまだ私たちを待っている」

「うん! ボスについてもいく!」

二人は再び歩き出した。

荒野の果てへ。

最強の魔人と、最凶の獣人。

彼女たちが通り過ぎた後には、魔獣たちの悲鳴と、「ごちそうさま」の声だけが残される。

シャドウガーデンの活動資金(食費)が跳ね上がる原因が、この二人の秘密のツアーにあることを、管理者のガンマが知って頭を抱えるのは、また後の話である。

今はただ、満たされた胃袋と、次なる美食への期待だけが、二人の背中を押していた。

 

 

雲海を突き抜けるほどの標高を誇る、霊峰『天楼山』。

その頂は万年雪に覆われ、下界の人間たちからは神々が住まう聖域として崇められている場所である。

清浄な空気が張り詰め、一歩足を踏み入れるだけで心が洗われるような神聖な静寂。

そんな聖域に、全く空気を読まない三つの影があった。

「……寒い。けど、いい運動になったね」

先頭を行くのは、黄金の粒子を纏ったエルフ、武神ベアトリクス。

彼女は絶壁のような岩場を、まるで近所のコンビニに行くような気軽さで登っていた。

「ボスー、デルタもうお腹ペコペコ……。さっきのチキン、もう消化した」

その後ろを、四つん這いで岩壁を駆け上がる獣人、デルタ。

彼女の胃袋はブラックホールだ。数時間前に食べた激辛チキンなど、とうの昔にエネルギーへ変換されている。

そして最後尾を、漆黒のロングコートを優雅になびかせながら(実際は極寒の暴風に煽られているが、魔力で形を整えている)、音もなく浮遊するように登るシャドウことシド・カゲノー。

(雰囲気は最高だな……。神の座す山、そこに挑む者たち。……目的がバーベキューじゃなければ、もっと最高なんだが)

シドは内心で苦笑しつつも、このシチュエーションを楽しんでいた。

頂上の平らな岩場にたどり着いた時、ベアトリクスは足を止めた。

彼女は満足げに周囲を見渡し、それからニヤリと笑った。

「さて、前の二つは鳥と牛だったね。少し脂が重かったかもしれない」

彼女は懐から、またしても例のグルメマップを取り出した。

そこには、この霊峰の頂上に、禍々しくも美味しそうなマークが記されている。

「味変だ。ラム肉を楽しもう」

「ラム……? 羊?」

デルタが首を傾げる。

羊といえば、牧草地でメエメエ鳴いている可愛らしい動物だ。

あんなフワフワした生き物が、この極限環境にいるのだろうか。

「ただの羊じゃないよ」

ベアトリクスは、頂上のさらに奥、雲の中に聳え立つ祭壇のような岩座を指差した。

「神獣と呼ばれるグレイトゴートさ。とんでもない罰当たりだがロマンは止められない」

「神獣……! 罰当たり……!」

シドの琴線に触れた。

(いい響きだ……。『神を食らう』。それは背徳的であり、究極の悪役(ヴィラン)ムーブの一つ!)

「地元じゃ山の守り神として祀られているらしいね。……崇められ、祈りを捧げられ、最高級の供物を与えられて育った羊。その肉は、俗世の汚れを知らない純白の味だとか」

ベアトリクスが唇を舐める。

彼女にとって信仰対象とは、「よく管理された高級食材」と同義語らしい。

「神様を食べるの? ボス、すごい!」

デルタに倫理観などない。

強くて美味いなら、神でも魔王でも食べる。それが獣の理。

「来るよ……」

ベアトリクスが目を細めた。

雲が割れる。

神々しい光が差し込み、天上の音楽のような風切り音が響く。

『愚かなる者たちよ……』

頭蓋に直接響くような、重厚なテレパシー。

光の中から現れたのは、体長十五メートルはあろうかという巨体。

純白の長い毛は雲のように輝き、頭部には黄金に輝く四本のねじれた角。

その瞳は慈愛と、侵入者への激しい怒りを湛えている。

霊峰の主、神獣グレイトゴート。

『我が聖域を土足で踏み荒らすのみならず、我を食らおうなどと……。その罪、万死に値する』

神獣の周囲に、バチバチと雷光が走る。

ただの魔獣ではない。

自然霊(エレメンタル)に近い、高位の存在。

だが。

「美味そう……!」

デルタの感想はそれだけだった。

彼女は神獣の威圧感など意に介さず、涎を垂らして飛び出した。

「お肉ぅぅぅッ!!」

「あ、待ちなデルタ!」

ベアトリクスの制止も聞かず、デルタは黒い弾丸となって神獣に突っ込む。

得意の超加速からの、漆黒の大剣による一撃。

『下賤な獣風情が……!』

グレイトゴートが角を光らせる。

カッ!!!

天空から極太の雷撃が降り注ぎ、デルタを直撃した。

「あぎゃっ!?」

デルタが黒焦げになって吹き飛ばされる。

ドサッと雪の上に落ち、痙攣するデルタ。

だが、次の瞬間には「うー! 痛い!」と叫んで起き上がった。頑丈すぎる。

「だから言っただろう。……神獣には『加護』がある」

ベアトリクスが呆れたように言った。

彼女は神獣を見上げ、冷静に分析する。

「あの白い毛皮と、纏っている聖なるオーラ。……あれは常時展開型の物理・魔法障壁だ。生半可な攻撃じゃ、毛の一本も傷つけられない」

『左様。我が加護は絶対。不浄なる刃など届かぬ』

グレイトゴートが勝ち誇る。

だが、シドは見ていた。

ベアトリクスの目が、「面倒くさいな」ではなく、「どう料理してやろうか」という職人の目に変わっているのを。

「シド」

ベアトリクスが呼んだ。

「あの加護、力任せに破ると肉が焦げる。雷のエネルギーが逆流して、身が硬くなるんだ」

「……なるほど。繊細な調理が必要というわけか」

「君ならできるだろう? あの聖なるヴェールだけを、肉を傷つけずに剥ぎ取ることは」

無茶振りである。

神クラスの防御結界を、中身無傷で解除しろと言っているのだ。

だが、シャドウはフッと笑った。

(要は、バリアだけを中和して消滅させればいい。……神殺しの演出としては、悪くない)

「神よ……。貴様の加護がどれほどのものか、試してみよう」

シャドウが前に出る。

漆黒のコートが膨れ上がり、周囲の聖なる空気を一瞬で塗り替える。

青紫の魔力が、神聖な光を侵食していく。

『な、何だその禍々しい気配は……!? 貴様、何者だ!』

グレイトゴートが初めて動揺を見せた。

本能が告げている。

目の前の小さい影は、神獣である自分よりも遥かに上位の「何か」であると。

「我はシャドウ。……神の威光すらも飲み込む、深淵の闇」

シャドウが右手を掲げる。

剣は抜かない。

ただ、その指先に濃密な魔力を集束させる。

「アイ・アム……」

『ひ、光よ! 聖なる雷よ! 我を守りたまえ!』

グレイトゴートが全魔力を放出し、結界を最大展開する。

何重もの魔法陣が展開され、絶対不可侵の聖域が形成される。

だが、シャドウの魔力はその理屈の外にあった。

「……アンチ・ディヴィニティ(反神性)」

放たれたのは、破壊の光ではない。

青紫の波動が、波紋のように広がっただけ。

しかし、その波動が結界に触れた瞬間。

パリン、パリン、パリン……。

ガラスが割れるような音と共に、聖なる障壁が次々と砕け散った。

破壊したのではない。

結界を構成する魔力の周波数を解析し、真逆の波長をぶつけることで「相殺」したのだ。

『な……バカな……!? 我が加護が、消え……!?』

グレイトゴートが驚愕に震える。

自慢の聖なるオーラが霧散し、ただの巨大な羊(物理)がそこに残された。

「剥き出しだね」

そこへ、音もなく忍び寄る影があった。

武神ベアトリクス。

「神の座から引きずり下ろされた気分はどうだい?」

彼女は既に、神獣の首元に剣を添えていた。

『ま、待て! 我は神獣ぞ! 山の守り神ぞ! 祟るぞ! 末代まで祟ってやるからな!』

「美味しく食べてあげるから成仏しな」

ズンッ。

神速の一撃。

苦痛を与える間もなく、延髄を断絶。

グレイトゴートは、祟る暇もなく「食材」へと変わった。

「やったー! お肉ー!」

復活したデルタが飛び跳ねる。

「見事な手際だ、シド。……君のおかげで、最高の状態で仕留められた」

ベアトリクスは満足げに巨大な羊を見上げた。

さて、ここからが本番だ。

                 *

標高三千メートル超。

酸素の薄い極寒の山頂に、香ばしい煙が立ち上っていた。

「これが……ジンギスカンという調理法か」

シドは感心して見ていた。

ベアトリクスが四次元ポケット(仮)から取り出したのは、中央が盛り上がった独特な形状の鉄鍋。

兜のようにも見えるその鍋の下では、魔法の火が赤々と燃えている。

「そうさ。羊肉(ラム)を最も美味しく食べるための、古代の英知だよ」

ベアトリクスは慣れた手つきで、鍋の頂点に脂身の塊を置いた。

熱で溶け出した脂が、鍋の溝を伝って下へと流れ落ちていく。

「まずは野菜だ。……この脂で野菜を焼く。肉の旨味を余さず吸わせるんだ」

彼女が鍋の縁に敷き詰めたのは、この山に来る途中で採取した高山植物やキノコ、そして持参した大量のモヤシと玉ねぎ。

ジュウウウウ……という音が、食欲を刺激する。

「そして、主役の登場だ」

ベアトリクスが、薄くスライスしたグレイトゴートの肉を、鍋の中央に乗せた。

神獣の肉。

それは美しい桜色をしており、焼けると同時に甘く芳醇な香りを放ち始めた。

「匂いが……違う」

シドが鼻を動かす。

羊肉特有の臭み(クセ)が全くない。

神獣として清浄な空気と魔力だけを吸って生きてきたせいか、その香りはハーブのように爽やかですらある。

「さあ、焼けたよ。……レアで行ける」

ベアトリクスが、特製のタレ(リンゴと玉ねぎをすりおろした秘伝のタレ)に肉をくぐらせ、シドの皿に置いた。

シドはそれを口に運ぶ。

「……っ!」

衝撃が走った。

柔らかい。

噛んだ瞬間、肉汁が弾けるのだが、その脂が驚くほど軽い。

まるで雪解け水のようにサラサラとしていて、それでいて濃厚な肉の旨味がガツンと来る。

「神を食らっている……」

シドは陶酔した。

(これが背徳の味……! 罰当たりな美味さ……!)

「うまーい!! ボス、これ無限に食べられる!」

デルタは既にトランス状態だ。

焼けた肉をタレにつけるのももどかしく、鍋から直接(猫舌ならぬ犬舌のはずだが気にしていない)口に放り込んでいる。

「野菜も食べるんだよ。……肉汁を吸ったこの野菜こそが、ジンギスカンの真骨頂だからね」

ベアトリクスがデルタの皿に、クタクタになったモヤシと玉ねぎを盛る。

デルタは普段、野菜を嫌うが、この野菜は別格だった。

神獣の脂を吸った野菜は、もはや肉以上の旨味爆弾と化している。

「野菜も美味しい! 甘い!」

「そうだろ、そうだろ」

ベアトリクスもビール(もちろん冷えている)を片手に、肉を頬張る。

彼女の顔は、至福そのものだ。

「グレイトゴートの肉は、体を清める効果があるらしい。……食べれば食べるほど、魔力回路の不純物が取り除かれていく感覚があるだろう?」

言われてみれば、シドは体の内側からポカポカと温かく、魔力の通りが良くなっているのを感じた。

(なるほど、ドーピング効果付きの食材か。……さすが神獣)

「罰当たりだが、このロマンは止められないねぇ」

ベアトリクスは星空を見上げた。

いつの間にか日が暮れ、満天の星が頭上に広がっている。

神の座で、神を焼き、酒を飲む。

二千年の魔人がたどり着いた、極上の遊び。

「……全くだ。神も、我らの血肉となれて本望だろう」

シドはクールに呟きつつ、箸を伸ばすスピードを上げた。

陰の実力者たるもの、フードファイトでも負けるわけにはいかない。

肉の山が消えていく。

十五メートルの巨体が、三人の胃袋へと収まっていく様は、神話の怪物が暴れるよりも恐ろしい光景だったかもしれない。

「シメはこれだ」

肉があらかた片付いた頃、ベアトリクスが取り出したのは「うどん」だった。

鍋に残った肉汁とタレ、そして野菜の旨味が凝縮されたスープに、うどんを投入する。

「煮込むんだ。……全ての旨味を、この麺に吸わせる」

数分後。

飴色に染まったうどんを啜った三人は、言葉を失った。

「…………」

言葉はいらない。

ただ、美味い。

五臓六腑に染み渡る、優しくも力強い味。

「ふぅ……。食った食った」

ベアトリクスが腹をさすった(やはり太らない)。

デルタは既に満腹で眠りこけている。幸せそうな寝顔だ。

シドもまた、心地よい満腹感に浸っていた。

「……悪くない夜だった」

シドが言うと、ベアトリクスはニッと笑った。

「だろう? ……さて、次はデザートだ」

「まだ食うのか……?」

「別腹さ。……この山の地下水脈には、『ジュエル・フィッシュ』という宝石のような魚がいるらしくてね。その卵はキャビア以上の珍味だとか」

ベアトリクスは立ち上がり、眠るデルタを米俵のように担ぎ上げた。

「行くよ、シド。……夜明けまでには、地下湖に到達する」

「……やれやれ」

シドは苦笑しながら立ち上がった。

この食い倒れツアーは、まだまだ終わらないらしい。

だが、それもいいだろう。

世界を裏から操る激務(ごっこ)の合間の、ささやかな休息(暴食)。

三つの影は、星空の下、次なる美食を求めて雪山を駆け下りていった。

翌日、麓の村人たちが、守り神であるグレイトゴートの気配が消えたことに気づき大騒ぎになるのだが、それはまた別の話である。

「神隠しか!? 神獣様が消えたぞ!」

「昨夜、山頂で不気味な青白い光と、いい匂いが……」

「まさか……神獣様は天に帰られたのか……(焼肉の匂いを漂わせながら)」

伝説は、こうしてまた一つ(美味しく)書き換えられていくのだった。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。