私はベアトリクス 作:Beatrix
ミツゴシ商会本店、その最奥に位置する「知の宝庫」。
表向きは商会の重要書類を保管するアーカイブだが、その実態はシャドウガーデンが集めた世界中の機密情報が集積される、組織の頭脳とも呼ぶべき場所である。
深夜、静寂に包まれたその部屋で、羊皮紙に走る羽ペンの音だけが響いていた。
「……ここまでの記述は、裏付けが取れていますね」
七陰第二席、ベータは手元の資料を整理し、小さく息を吐いた。
彼女が執筆しているのは、主であるシャドウの英雄譚『シャドウ様戦記』の最新章であり、同時にディアボロス教団の起源に迫る歴史書でもある。
「――相変わらず、熱心だね」
不意に、背後から声が降ってきた。
扉が開く音も、気配の変化もなかった。
ベータの背筋が一瞬凍りつくが、彼女はすぐに平静を装い、ゆっくりと振り返った。
「……こんばんは、ベアトリクス様。私の結界を挨拶なしで通り抜けるのは、できれば控えていただきたいのですが」
そこには、書架の影に寄りかかり、勝手に高級な干しイチジクの瓶を開けているエルフの女性――武神ベアトリクスの姿があった。
「ごめんよ。小腹が空いてね。……それに、君が面白そうな顔をしていたから」
ベアトリクスは悪びれもせず、イチジクを口に放り込む。
黄金の粒子を薄く纏ったその姿は、この場の誰よりも異質で、圧倒的な「格」を持っていた。
「……それで、今日は何の用でしょうか。シャドウ様なら、今は不在ですよ」
ベータは羽ペンを置き、居住まいを正した。
この人物は味方であり、シャドウの「遊び相手」ではあるが、同時に決して気を許してはならない深淵の住人だ。
「知っているよ。あの子がいないからこそ、話せることもある」
ベアトリクスは瓶をサイドテーブルに置き、ベータの対面にあるソファに腰を下ろした。
その瞳が、ふと真剣な光を帯びる。
「君は調べているようだね。教団の起源、そして魔神ディアボロスの正体を」
「……ええ。我々の敵を知ることは、シャドウ様の覇道を支えるために不可欠ですから」
ベータは警戒しつつ答える。
ベアトリクスは、ベータが書きかけの原稿――『魔神の細胞と英雄の血脈』と題された章――を一瞥し、口元を緩めた。
「過去の話をしようか」
彼女の声は、夜の静寂よりも深く、重く響いた。
「過去、ですか」
「ああ。君たちが断片的に拾い集めている歴史の、その失われたミッシングリンクさ」
ベアトリクスは足を組み、天井のランプを見上げた。
その目は、この部屋の天井ではなく、遥か遠い時空の彼方を見ているようだった。
「2000年前、あれはまだ私が■■■■という名の魔人でもない、ただのエルフだった時のこと」
ベータの心臓が跳ねた。
■■■■。
彼女が口にしたその名は、言葉として聞き取ることはできたが、脳が認識を拒絶するような、古い言語の響きを持っていた。
そして何より、「ただのエルフだった時」という言葉が、彼女が今はもう「エルフではない何か」であることを示唆していた。
ベータは無言で新しい羊皮紙を取り出し、羽ペンを握った。
これは、記録しなければならない。
「当時の世界は、今よりもずっと荒々しく、そして単純だった。……力こそが全て。魔力を持つ者は殺し合い、奪い合い、その血肉を糧としていた時代だ」
ベアトリクスは淡々と語り始めた。
「私は強さを求めた。誰よりも強く、誰にも負けない絶対的な力を。……それは生存本能だったのか、あるいは種としての欠陥だったのかは分からないけれどね」
彼女は自らの手を見つめた。
白く、滑らかな肌。
だが、その内側には、常人なら触れただけで発狂するほどの高密度な魔力が渦巻いている。
「私が魔人へ至ったのは、究極的には自己改造と鍛錬の末だが……原初はこうだ」
ベアトリクスはベータを真っ直ぐに見据えた。
「喰らったんだよ、まだ名もなかった神の右腕の肉を」
「――ッ!?」
ベータの手が止まった。
羽ペンの先からインクが滴り、羊皮紙に黒い染みを作る。
「神の……右腕……?」
「そう。空から落ちてきたんだ。……あるいは、誰かが落としたのかもしれない。それは黄金に輝き、同時にこの世の全てを呪うような瘴気を放っていた」
ベアトリクスの語り口は、まるで昨日の夕食の話でもするかのように軽い。だが、その内容は神話の冒涜そのものだ。
「その神こそが、後のディアボロスの原型」
ベータは息を呑んだ。
魔神ディアボロス。教団が崇め、世界を裏から支配する力の源泉。
その「原型」が存在した?
「待ってください、ベアトリクス様。ディアボロスは、教団が作り出した生体兵器だったのでは……?」
「教団が作ったのは『魔神ディアボロス』というシステムだよ。……彼らは、偶然手に入れた神の細胞――私が食べたのと同じもの――を使い、人間の子供に移植し、培養し、兵器として再構築した。それがアウロラであり、歴代のディアボロス・チルドレンだ」
ベアトリクスは冷笑した。
「彼らは模倣したんだよ。……神の肉を食らい、生き延び、力を手にした『最初の成功例』をね」
「最初の……成功例……」
ベータは戦慄した。
目の前にいるこの女性。
彼女こそが、全ての始まりであり、教団が数百、数千年の時をかけて再現しようとしている「完成形」なのだと。
「美味かったよ」
ベアトリクスは恍惚とした表情で、記憶の中の味を反芻した。
「焼けるように熱く、腐った泥のような味がしたけれど……同時に、力が奔流となって体中を駆け巡った。細胞の一つ一つが死滅し、再生し、書き換えられていく感覚。……それは、ただのエルフが『種』の限界を超える瞬間だった」
彼女は自分の右腕をさすった。
「多くの者は、その肉片に触れただけで融解するか、理性を失って異形の怪物と化した。……いわゆる『悪魔憑き』の末路だね」
「ですが、貴女様は……」
「耐えた。……いや、ねじ伏せた」
ベアトリクスの瞳孔が、爬虫類のように縦に裂けた気がした。
「肉が私の精神を侵食しようとするのを、魔力操作で抑え込み、逆に私の支配下に置いた。……暴走する細胞を意思の力で縫い合わせ、自分の形へと作り変えた」
それが、彼女の言う「自己改造」の意味。
薬や施術に頼った教団の実験体とは違う。
自らの意志と、狂気的なまでの執念で、神の呪いを己の力へと昇華させたのだ。
「結果、私はエルフの枠組みを外れ、寿命という概念からも解放された。……代わりに、常に魔力を喰らい続けなければ存在を維持できない『魔人』になったわけだが」
ベアトリクスは肩をすくめた。
代償はあった。
だが、彼女はその代償すらも楽しんでいるように見えた。
ベータは震える手で、その証言を書き留めた。
これは、歴史をひっくり返す事実だ。
教団の教義の根幹に関わる秘密。
「……なぜ、私にその話を?」
ベータは問いかけた。
これは本来、墓場まで持っていくべき秘密のはずだ。
「君が、シャドウの物語を書いているからさ」
ベアトリクスは、ベータの手元の原稿を指差した。
「あの子……シャドウは、私に似ている」
「シャドウ様が、貴女様に……?」
「いいや、語弊があるね。……あの子は、神の肉なんて食べていない。アーティファクトによる改造も受けていない。ただひたすらに、己の肉体と魔力のみで、あの領域に達しようとしている」
ベアトリクスの目に、純粋な敬意と、少しの嫉妬が混じった。
「私は『外付けの力』を取り込んで魔人になった。教団は『薬』で魔人を作ろうとしている。……だが、シドは違う。彼は、人間という脆弱な器のまま、中身を極限まで練り上げることで、神や魔人を凌駕しようとしているんだ」
「はい……! まさにその通りです!」
ベータの声が弾んだ。
シャドウへの称賛は、彼女にとって最高の喜びだ。
「だからこそ、対比として書き残しておきなよ、記録係(ベータ)」
ベアトリクスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。
窓の外には、王都の夜景が広がっている。
「『力を貪り、魔人となった過去の遺物(わたし)』と、『力を極め、魔人すら超える未来の象徴(シャドウ)』。……その二つが交錯する時代に立ち会えたことを、私は幸運に思っているんだ」
ベアトリクスの横顔は、二千年の時を生きた老婆のようであり、同時に新しい玩具を見つけた無邪気な少女のようでもあった。
「……承知いたしました」
ベータは深く頭を下げた。
彼女の作家としての魂が、歓喜に震えていた。
これ以上の題材はない。
シャドウ様の偉大さを証明するための、これ以上ない比較対象(アンチテーゼ)。
「それと、もう一つ」
ベアトリクスは振り返り、悪戯っぽく笑った。
「私が食べた『神の右腕』だけどね。……味は最悪だったと言っただろう?」
「は、はい」
「だから、今度シドに会ったら伝えておいておくれ。『美味しい店を知っているなら、不老不死の肉よりハンバーガーの方がマシだ』ってね」
「……ふふっ。必ず、お伝えしておきます」
ベータもまた、柔らかく微笑み返した。
この恐るべき魔人が、主であるシャドウの前ではただの「食いしん坊な友人」として振る舞う理由が、少しだけ分かった気がした。
彼女は、二千年の孤独と呪いの中で、ようやく対等に話せる相手、あるいは自分を「人」として扱ってくれる相手を見つけたのかもしれない。
「じゃあ、行くよ。……長話をしてすまなかったね」
ベアトリクスは窓を開けた。
夜風が吹き込み、彼女の金色の髪を揺らす。
「あ、ベアトリクス様。……その神の肉、まだ残っているのでしょうか?」
ベータがふと思い立って尋ねた。
もし残っているなら、それは世界を揺るがす危険物だ。
ベアトリクスは窓枠に足をかけ、夜空を見上げた。
「さあね。……残りは教団が回収したか、あるいは腐って大地に溶けたか。……ただ、一つだけ言えるのは」
彼女は背中越しに言った。
「ディアボロス教団が必死に集めている『雫』や『肉片』。……あれは、私にとっては食べ残しのカスみたいなものだよ」
そう言い残し、武神ベアトリクスは夜の闇へと消えた。
圧倒的な気配が去り、部屋には再び静寂が戻る。
ベータはしばらく窓を見つめていたが、やがて椅子に座り直し、新しいインクをペンにつけた。
『――かつて、一人のエルフがいた。彼女は禁断の果実ならぬ、神の肉を食らい、人の理を捨てた。それは罪であり、同時に力への純粋な渇望の結果であった……』
筆が走る。
歴史の闇に葬られた真実が、シャドウガーデンの知の宝庫に刻まれていく。
『だが、現代に降り立った影の王は、その呪いすらも遊び道具のように扱い、より高みへと昇る。魔人が過去から来た災厄ならば、シャドウ様は未来を切り拓く漆黒の刃である――』
ベータは書き上げた一節に満足げに頷き、そして小さく呟いた。
「……シャドウ様。貴方様の歩む道は、やはり神話そのものです」
机の上の干しイチジクの瓶は空になっていたが、その代わりに得た情報の重みは、計り知れない価値を持っていた。
夜は更けていく。
偉大なる主と、その影に寄り添う者たち、そして古代の魔人の物語は、まだ終わらない。
ミツゴシ商会本店の最奥、「知の宝庫」。
深夜のアーカイブに、古き時代の重たい空気が沈殿していく。
武神ベアトリクスは、ソファに深く身体を沈め、天井のランプの灯りをぼんやりと見つめていた。
その瞳には、二千年という途方もない歳月の重みと、それ故の虚無が宿っている。
「2000年生きた。色々な生き方をした。悪行に手を染めたこともあるし、善行に精を出した時もある。人間の法など私にとっては指針にはならなかったからね」
彼女は独り言のように、しかし確かな意志を持って語り出した。
対面に座るベータは、羽ペンを走らせる手を止めず、一言一句を漏らさぬよう集中している。
これは、正史には決して記されない、世界の裏側の真実。
「生物としての種を超越するとね、倫理観というものが希薄になるんだ。……蟻の巣を観察する子供が、そこに水を流し込むのを『悪』とは呼ばないだろう? 当時の私にとって、人間社会はそういう実験場に過ぎなかった」
ベアトリクスは自嘲気味に笑った。
彼女が手にしていたワイングラス(ベータが秘蔵していた高級ヴィンテージ)が、赤く揺れる。
「その昔、1700年くらい前かな。私は自己鍛錬に飽きて名声を求めた。……ただひたすらに剣を振り、魔獣を狩る日々に倦んでしまったのさ。もっと華やかで、ドロドロとした、人の欲望の渦に身を投じたくなった」
彼女はグラスを傾け、香りを楽しむように目を細めた。
「その時に名乗った名前は『ベリンダ』だ。……そうさ、歴史書に残る『傾国の毒婦』」
ガタリ。
ベータが思わず椅子を鳴らして立ち上がった。
その美しい瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。
「ベリンダ……! まさか、あの大国『古代オリアナ帝国』を、たった一代で崩壊させたという……!?」
ベータの脳内で、膨大な歴史知識が検索される。
歴史の教科書にも載っている、悪名高き美女。
時の皇帝をたぶらかし、忠臣を粛清させ、贅沢の限りを尽くして国庫を空にし、最後は内乱を招いて帝国を滅ぼしたとされる、史上最悪の悪女。
「ふふ、よく知っているね。……まあ、歴史書なんて勝者の都合で書き換えられるものだが、大筋は合っているよ」
ベアトリクスは悪びれもせず肯定した。
「私がやったんだ」
「……信じられません。武神様といえば、武の頂点。力による支配こそが本質かと……。それが、搦め手の極みである『毒婦』とは」
ベータは困惑していた。
彼女の知るベアトリクスは、ハンバーガーを愛し、剣を愛する、どこか子供っぽい(しかし最強の)魔人だ。
陰湿な政治工作や、色仕掛けによる崩壊工作を行う姿が想像できない。
「だから言っただろう? 『暇だった』んだよ」
ベアトリクスは足を組み替えた。
「剣を使えば、国なんて一日で滅ぼせる。……でも、それじゃあ味気ない。私は『言葉』と『美貌』だけで、巨大なシステムがどこまで脆く崩れ去るのかを試したかった」
彼女は語り始めた。
1700年前の夜話を。
「当時の私は、魔力で外見を変えていた。……今のこの姿ではなく、もっと艶やかで、魔性のフェロモンを撒き散らすような女になろうと決めたんだ」
彼女が指先を振ると、黄金の粒子が舞い、一瞬だけ彼女の顔つきが変わった気がした。
ベータが息を呑むほどの、妖艶な笑み。
「私は踊り子として王宮に入り込んだ。……皇帝は簡単だったよ。チョロいもんだ。少し思わせぶりな視線を送って、肌を晒せば、翌日には寝室に呼ばれていた」
「……ハニートラップ、ですか」
「原始的だが、最強の武器さ。……私は皇帝の耳元で囁き続けた。『あの将軍は謀反を企てています』『あの宰相は税を横領しています』とね。根拠なんてない。ただ、不安を煽るだけでいい」
ベアトリクスはクスクスと笑った。
その笑い声には、当時の愉悦が蘇っているようだった。
「人はね、信じたい嘘を信じるんだ。……皇帝は私を溺愛し、私の言葉を神託のように崇めた。有能な将軍たちが次々と処刑され、国境の守りが薄くなっていく様は、積み木崩しを見ているようで爽快だったよ」
「……罪悪感は、なかったのですか?」
「なかったね。……むしろ、彼らの愚かさに呆れていたくらいだ。私が与えたのはきっかけに過ぎない。国を滅ぼしたのは、彼ら自身の疑心暗鬼と欲望さ」
ベアトリクスはワインを飲み干した。
「3年だ。……あの巨大な帝国が、内部から腐り落ち、民衆の暴動によって宮殿が炎に包まれるまで、たったの3年。私は燃え落ちる玉座の間で、最後のワインを飲みながら思ったよ。『なんだ、剣を振るうより簡単じゃないか』ってね」
ベータは戦慄した。
武力を使わず、言葉だけで大国を滅ぼす。
それは、シャドウガーデンが目指す「陰の支配」の一つの到達点でもある。
だが、ベアトリクスはそれを「遊び」で行った。
何の思想もなく、何の目的もなく、ただの暇つぶしとして。
「……恐ろしいお方です」
「褒め言葉として受け取っておくよ。……でもね、その時に学んだんだ」
ベアトリクスは空のグラスを弄びながら、遠い目をした。
「権力も、名声も、愛憎も。……全ては一時的な熱病のようなものだと。国が滅びれば、私の名前は悪役として歴史に刻まれるが、私自身には何も残らない」
「虚無、ですか」
「ああ。毒婦ベリンダは、炎の中で死んだことにして姿を消した。……後に残ったのは、焼け野原と、またしても退屈な永遠の命だけ」
彼女はため息をついた。
「だから私は、また剣に戻ったんだ。……人の感情を弄ぶより、肉体をぶつけ合う方が、まだ『生』の実感があったからね」
ベアトリクスはベータを見た。
その目は、値踏みするようでもあり、慈しむようでもあった。
「君たちがやっていることも、見方を変えれば『国崩し』だ。……ミツゴシ商会による経済支配、陰での政治介入。やっていることはベリンダと変わらないかもしれないよ?」
痛いところを突かれた。
だが、ベータは毅然として顔を上げた。
「違います。……我々には『大義』があります。シャドウ様という絶対的な主のために、世界をあるべき姿へ導く……そのための破壊と再生です」
「大義、か。……ふふ、あの子(シド)にそんな高尚なものがあるかは怪しいけれど」
ベアトリクスは肩をすくめた。
彼女には分かっている。シドが求めているのは大義ではなく「ロマン」だということを。
だが、それを指摘するのは野暮というものだ。
「まあ、いいさ。……君たちのやり方は、ベリンダよりもずっと洗練されているし、何より楽しそうだ。それが一番重要だよ」
ベアトリクスは立ち上がり、書架の方へと歩いた。
彼女の指先が、古い歴史書の背表紙をなぞる。
「ベリンダの話はこれくらいにしよう。……胸糞悪い話だっただろう?」
「いえ、大変興味深いお話でした。『毒婦ベリンダ』の正体が、まさか貴女様だったとは……。この事実は、シャドウ様戦記の『前日譚・神話編』における重要な伏線として記録させていただきます」
ベータは既に、このエピソードをどう美化して物語に組み込むかを構成し始めていた。
『武神はかつて人の世の儚さを知るために悪女となり、その業を背負って再び剣の道へ……』
完璧だ。
「まだ夜は長い。……次は、もう少しマシな話をしようか」
ベアトリクスは新しい本――数百年前の聖女伝――を手に取り、戻ってきた。
「話の種はいくらでもある、夜を続けようか」
彼女は再びソファに座り、ベータに空になったグラスを差し出した。
おかわりを寄越せという合図だ。
ベータは苦笑しながら、最高級のワインボトルを手に取った。
「では次は……そうですね、貴女様が『善行』に精を出した時のお話を伺いたいものです」
「善行か。……あれはあれで、大変だったよ」
ベアトリクスはワインが注がれる音を聞きながら、記憶の糸を手繰り寄せた。
「500年前、疫病が蔓延した大陸でのことだ。……私は『白き聖女エリス』として、奇跡の治療を行いながら旅をした」
「聖女エリス……! それもまた、伝説の……!」
「私が持っていたのは、神の加護なんかじゃない。……ベリンダの時代に培った毒と薬の知識、そして魔人としての魔力操作による強制的な細胞修復術さ」
ベアトリクスはニヤリと笑った。
「人々は私を崇めたよ。『神の使い』『救世主』とね。……私はただ、人体の構造を知りたくて、壊れかけた人間を修理して回っただけなんだけど」
「……修理、ですか」
「そう。私にとって、病気の治療はパズルみたいなものだった。……魔力でウイルスを焼き殺し、壊死した臓器を再生させる。感謝されるのは悪くなかったが、崇拝されるのはこそばゆかったね」
彼女はワインを一口飲んだ。
「でも、善行もまた虚しいものだった。……私が救った命が、数年後に戦争を起こして死んだり、あるいは私利私欲に走ったりするのを見てね。……『救う』という行為に、恒久的な意味などないのだと悟ったよ」
ベアトリクスの言葉は、冷徹なリアリズムに満ちていた。
彼女は二千年の中で、人の善悪のサイクルを何度も見てきたのだ。
国が栄え、滅び、人が生まれ、死ぬ。
その無限の繰り返し。
「だからこそ、私は今、シドを見ているのが楽しいんだ」
ベアトリクスの声が、少しだけ弾んだ。
「あの子は、善とか悪とか、そんなちっぽけな枠組みの外にいる。……彼はただ『自分がやりたいこと』を貫き通している。そのエゴの純粋さが、私のような老いた化物には眩しいのさ」
ベアトリクスは、ベータの手元にある書きかけの原稿を見つめた。
そこには、シャドウの偉業が(過剰な装飾と共に)綴られている。
「君が書いているその物語。……それが完結する時、世界はどうなっているんだろうね」
「シャドウ様が望む、新世界になっているはずです」
ベータは迷いなく答えた。
「そうか。……なら、私も長生きしてみるものだね」
ベアトリクスはグラスを掲げた。
「シャドウガーデンの描く未来に、乾杯」
「……乾杯」
チン、と澄んだ音が響く。
アーカイブの夜は更けていく。
魔人と、記録者。
二人の会話は、歴史の表舞台には決して出ることのない、しかし世界の真実を浮き彫りにする重要なセッションだった。
「さて、次は……私が海賊王として七つの海を荒らし回った時の話をしようか」
「海賊王!? ……それもまた、興味深いですわ!」
「あれは楽しかったよ。……なんせ、法も秩序もない。あるのは自由と、奪い合いだけだったからね」
ベアトリクスは語り続ける。
無限の時間を生きた彼女の記憶は、尽きることがない。
そしてベータは書き続ける。
その全ての記憶を、主の覇道を彩るための知識として蓄積するために。
夜明けまで、まだ時間はある。
知の宝庫には、今宵も二人の静かな熱気が渦巻いていた。
ミツゴシ商会本店、知の宝庫。
深夜の静寂は深く、二人の怪物――魔人と七陰――の対話は、夜の帳よりも濃密な歴史の深淵へと潜っていく。
海賊王としての冒険譚、その豪快で血生臭いエピソードを書き終えたベータは、高揚した頬を手のひらで冷やしながら、新しいインク壺の封を開けた。
彼女の筆は止まらない。
目の前にいる生ける伝説が語る言葉は、この世界の裏側を解き明かす鍵そのものだからだ。
「海賊も楽しかったが……やはり、『武』への渇望は消せなかった」
ベアトリクスは、空になったワインボトルを愛おしそうに撫でながら、次の記憶の扉を開いた。
「西の海を制した後、私は東へと渡った。……独自の剣術体系と、精神性を重んじる神秘の地へ」
「東国……! 鎖国された島国ですね。彼らの剣術は独特で、魔法とは異なる『気』の概念を持つとか」
ベータが身を乗り出す。東国の情報は極めて少なく、シャドウガーデンの諜報網でも全貌を掴みきれていない未開の地だ。
「そう。そこで私は、またしても名前を変え、姿を変えた」
ベアトリクスは、ふと虚空を見つめ、手刀で空気を薙いだ。
その動きは、先ほどまでのエルフ剣術とも、海賊の荒々しい剣とも違う。
鋭く、静かで、研ぎ澄まされた刃のような気配。
「東国において謎の剣客、『スメラギ』としてただひたすら燕を斬るためだけに鍛錬した日々もあった」
「燕……ですか?」
「ああ。空を飛ぶ鳥の燕だ。……彼らは速い。そして急旋回する。その軌道を読み、物理的な剣速のみで斬り落とす。……魔法も、魔力強化も使わずにね」
ベアトリクスは目を細めた。
桜舞い散る古寺の庭で、ただ一人、刀を振るい続けた日々の記憶。
「滑稽だろう? 世界を滅ぼせる力を持つ魔人が、たかだか小鳥一匹を斬るために、十年、二十年と歳月を費やすんだ」
「いえ……! それは武の極致、『無』の境地への探求……!」
ベータは戦慄した。
魔力という万能の力を持ちながら、あえてそれを封じ、純粋な技術(テクニック)のみを追い求める狂気。
それは、主であるシャドウが時折見せる「あえて制限をかけて戦う」という美学に通じるものがある。
「来る日も来る日も、刀を振った。……ある日、燕が止まって見えた。そして、私の刀が燕の回避機動よりも速く、その空間を両断した」
『秘剣・燕返し』。
後に東国の伝説として語り継がれることになる魔剣の誕生秘話。
「斬れた瞬間、私は満足して刀を置いた。……スメラギという剣客は、そこで消えたのさ」
ベアトリクスは淡々と語るが、その背景にある圧倒的な時間の浪費と、執念の深さにベータは目眩を覚えた。
暇つぶしと言うには、あまりにも重すぎる。
「……すごいです。一振りの剣に一生を捧げる求道者の姿……。シャドウ様戦記の『東方編』における重要な精神的支柱になります」
ベータが猛烈な勢いで筆を走らせていると、ベアトリクスはふと、表情を曇らせた。
それは、今まで見せたことのない、どこか複雑で、苦味を含んだ表情だった。
「……求道者、か。確かにスメラギはそうだったかもしれない」
彼女は新しいワイン――ベータが慌てて用意した二本目――をグラスに注ぎ、その赤い液体を見つめた。
「だがね、ベータ。……私が演じたのは、悪党や剣客だけじゃないんだ」
声のトーンが落ちる。
部屋の空気が、ピリリと変わった。
これまでの「武勇伝」とは違う、もっと根源的で、危険な領域の話が始まる予感。
「究めて高潔であろうとした時もあった。……これが一番の衝撃かもね」
ベアトリクスは、ベータの目を真っ直ぐに見据えた。
その黄金の瞳に宿る光は、慈愛に満ちていながら、どこか空虚で、底知れない狂気を感じさせた。
「私はオルム正教の開祖の聖人リィンなんだから」
カツン。
ベータの手から羽ペンが滑り落ち、床に乾いた音を立てた。
インクが床に飛び散るが、彼女はそれを拭こうともしなかった。
思考が停止した。
今、この魔人は何と言った?
「……聖人、リィン……?」
声が震える。
オルム正教。
この世界における最大宗教であり、人々の精神的支柱。
その教えは「善行」「清貧」「魔の排斥」。
そして、その開祖である聖人リィンは、数百年前の混乱期に現れ、奇跡の力で人々を救い、教団の礎を築いたとされる伝説の人物。
現在、ディアボロス教団の隠れ蓑として利用されている節はあるが、その「起源」である聖人リィンそのものは、歴史上もっとも高潔で、もっとも慈悲深い存在として記録されているはずだ。
「まさか……。あれほど『魔』を否定し、清浄なる世界を説いた聖人が……魔人である貴女様だと言うのですか!?」
「皮肉な話だろう?」
ベアトリクスは自嘲気味に笑った。
だが、その笑顔には「聖女」としての面影が確かに残っていた。
「当時の世界は乱れていた。戦乱、飢餓、そして魔物の跳梁跋扈。……人々は救いを求めていた。絶対的な善、すがりつける偶像をね」
彼女はグラスを揺らす。
「だから、私は『作った』んだ。……リィンという、完璧な聖女を」
「作った……? 演技、ということですか? 毒婦ベリンダの時のように?」
「いいや」
ベアトリクスは首を横に振った。
「ベリンダは演技だった。心の底では人間を嘲笑いながら、破滅へと導く道化を演じていただけだ。……でも、聖人は違う。演技で聖人は務まらない。ほんの少しの嘘や欺瞞も、絶望の淵にいる民衆は見抜くからね」
彼女は自分のこめかみを指差した。
「そうだ、自己暗示の類。……私はスイッチを切らなければ常に正しい聖人リィンであり続けた。その間は数百年生きた魔人であることは忘れてたよ」
「記憶を……消したのですか?」
「封印した、と言った方が正しいかな。……『私はエルフのベアトリクスでも、魔人でもない。神の啓示を受けた人間、リィンである』と、脳の構造レベルで書き換えたんだ」
ベータは息を呑んだ。
それは、究極の役作り(メソッド・アクティング)。
いや、人格の改変だ。
「魔人としての圧倒的な魔力は、『神の奇跡』として無意識下に変換して使用した。不老の肉体は、『神の加護』として認識した。……私は本気で神を信じ、本気で人々を愛し、本気で涙を流して祈りを捧げた」
ベアトリクスは、遠い記憶の中の自分を語る。
「貧しい者にパンを分け与え、病める者の膿を口で吸い出し、戦場では盾となって矢を受けた。……その痛みも、苦しみも、全ては神の試練だと喜びすら感じていたよ」
「……狂気です」
ベータは思わず呟いた。
魔人が、魔であることを忘れ、聖人として生きる。
それは、自分自身への最大の裏切りであり、同時に究極の「暇つぶし」でもある。
「そう、狂気だ。……でも、その狂気が世界を救ったのも事実さ」
ベアトリクスは淡々と言う。
「リィンの言葉は人々の心を打ち、国境を超えて教団が形成された。争いは減り、多くの命が救われた。……私が『魔人』に戻った状態でやったどんな善行よりも、リィンとしての無垢な祈りの方が、世界を良くしたんだ」
なんという皮肉。
世界を裏から操るディアボロス教団。その宿敵であるシャドウガーデン。
だが、その教団が隠れ蓑にしている宗教を作ったのが、シャドウガーデンの協力者である魔人だったとは。
「ですが……終わりはどうなったのですか? 聖人リィンは、歴史上では『昇天』したことになっていますが」
「設定した寿命が来たんだよ」
ベアトリクスは、空になったグラスを置いた。
「人間として生きる以上、老いと死は避けられない。……私はリィンとして老い、衰え、そして多くの信徒に見守られながら、安らかに息を引き取った(ふりをした)」
彼女は目を閉じた。
「そうして設定した終わりを迎え……私は棺の中で目を覚ました。自己暗示が解け、魔人ベアトリクスとしての意識が戻った瞬間だ」
「……計画通り、ですね」
「いいや」
ベアトリクスの眉間に、深い皺が刻まれた。
「計算外だったよ。……私は向こう30年はリィンの意識を切り離せなかったよ」
「え……?」
「数十年、あるいは百年近く『聖人』として生きた反動さ。……暗示が解けても、思考回路が元に戻らなかった。魔人としての冷徹な思考と、聖人としての慈愛に満ちた思考が、脳内で戦争を始めたんだ」
ベアトリクスは頭を抱えるような仕草をした。
「人を殺そうとすれば涙が止まらなくなり、食事をすれば『これは民に分け与えるべきでは?』という罪悪感に襲われる。……魔力を使おうとすれば、無意識に祈りの言葉を口走ってしまう」
それは、アイデンティティの崩壊。
最強の魔人が陥った、精神の迷宮。
「地獄だったよ。……毒婦として国を滅ぼした時よりも、海賊として海を血に染めた時よりも。……『善』という呪いが、骨の髄まで染み込んでいたんだ」
「30年……。その間、貴女様はどうしていたのですか?」
「人里離れた洞窟に籠もり、ただひたすらに座禅を組んで、自分の中の『リィン』を殺し続けた。……私という自我を取り戻すための、孤独な闘いさ」
ベアトリクスは溜息をついた。
「ようやく彼女(リィン)が私の中から消えた時……私は自分が何を求めて生きていたのか、分からなくなっていたよ」
静寂が支配する。
ベータは言葉を失っていた。
あまりにも壮絶な「自分探し」。
不死者ゆえの、魂の摩耗と再構築。
「……シャドウ様は」
ベータは、震える声で主の名を出した。
「シャドウ様は、普段『シド・カゲノー』という平凡な少年を演じておられます。……あの方もまた、貴女様のように、いつか自己の境界が曖昧になり、苦しまれる時が来るのでしょうか……?」
それは、ベータが抱く密かな恐怖だった。
完璧な演技。完璧なモブ。
その仮面が、いつか本体を侵食してしまうのではないか。
ベアトリクスは顔を上げ、きょとんとした後、吹き出した。
「ふ、あはははは!」
「ベ、ベアトリクス様!?」
「心配ないよ、ベータ。……あの子は私とは違う」
ベアトリクスは笑い涙を拭った。
「私は『なりきった』。自分を騙し、記憶を消してまで、他者になろうとした。……だから壊れかけた」
彼女は、ベータが大切に抱えている『シャドウ様戦記』を指差した。
「でも、シドは違う。彼は『楽しんでいる』んだ。……シド・カゲノーというモブも、シャドウという支配者も、彼にとっては等しく『最高の遊び場』なんだよ」
ベアトリクスの瞳に、確信めいた光が宿る。
「彼は自分を見失わない。なぜなら、彼の核にあるのは『陰の実力者になりたい』という、あまりにも強固で純粋な欲望だけだからだ。……その欲望がある限り、彼はどんな仮面を被っても、中身はあのふざけた少年のままだよ」
「……そうですか。……そうですね」
ベータは安堵の息を漏らした。
そうだ。あの主が、役柄に飲み込まれるなどあり得ない。
彼こそが脚本家であり、演出家であり、主演なのだから。
「それにしても、聖人リィンか……」
ベアトリクスは立ち上がり、背伸びをした。
関節がポキポキと鳴る。
「今のオルム正教を見ていると、私が作ったものとは随分変わってしまったけれどね。……まあ、それも歴史の流れだ。私が口を出すことじゃない」
彼女は窓の外、白み始めた空を見上げた。
「私の過去話はこれくらいにしておこう。……これ以上話すと、私がただの多重人格の狂人だと思われそうだからね」
「いえ、とんでもありません。……貴女様の歩まれた道は、まさに世界の裏側そのもの。シャドウ様戦記の外伝として、これ以上ない価値があります」
ベータは書き上げた羊皮紙の束を、宝物のように抱きしめた。
毒婦、剣聖、そして聖人。
一人の魔人が演じた数々の人生。
それは、シャドウガーデンが対峙する世界の複雑さを象徴しているようだった。
「さて、夜が明ける。……私は行くよ」
ベアトリクスは窓枠に手をかけた。
「次はどんな話をしてくれるのですか?」
ベータが名残惜しそうに尋ねる。
ベアトリクスは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうだね。……次は、私が『魔王』として世界征服を企て、勇者に倒されるふりをして脱出した時の話でもしようか」
「魔王!? ……また、とんでもない設定ですわね」
「話の種はいくらでもある。……二千年は長いからね」
風と共に、黄金の粒子が舞う。
武神ベアトリクスは、朝焼けの中に消えていった。
残されたベータは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて机に向かい、猛烈な勢いで追記を始めた。
『――聖と魔は表裏一体。歴史の光と影は、一人の魔人の気まぐれによって紡がれていた。……しかし、我らが主シャドウ様は、その全てを包含し、更なる高みへと……』
彼女の筆は止まらない。
過去を知ることで、未来への希望はより輝く。
この世界の真実は、まだ闇の中にある。
だが、シャドウと、この愉快な魔人がいる限り、退屈することだけはなさそうだ。
「……ふふっ。シャドウ様、次回お会いした時、貴方様はどんな『設定』で私を驚かせてくださるのでしょうか」
知の宝庫に、朝の光が差し込む。
それは、新たな物語の始まりを告げる光だった。