私はベアトリクス   作:Beatrix

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頂上決戦

月が雲に隠れ、星の光さえ届かない漆黒の夜。

カゲノー領の山岳地帯、その最奥部にある「名もなき荒野」。

かつては鬱蒼とした森だったその場所は、過去に二人の怪物が繰り広げた「遊び」によって更地となり、今では草一本生えない岩場となっていた。

冷たい夜風が吹き抜ける中、二つの影が対峙していた。

「久しぶり……ではないね」

口火を切ったのは、黄金の粒子を薄く纏ったエルフの女性、武神ベアトリクス。

彼女は退屈そうに首を鳴らし、愛用の剣の柄に手をかけていた。

「先週も王都の裏路地でハンバーガーを半分こしたばかりだ」

対面に立つのは、漆黒のロングコートに身を包んだ少年、シド・カゲノー――シャドウ。

彼は不敵な笑みを浮かべ、夜闇に溶け込むように佇んでいる。

「ああ。あの店の新作、ダブルチーズ月見バーガーは絶品だった」

「ソースの隠し味が効いていたね。……だが、今日私が求めているのは、そんな甘い味じゃない」

ベアトリクスの瞳が、剣呑な光を帯びる。

ただの食いしん坊なエルフの顔ではない。

二千年の時を生き、数多の戦場を渡り歩き、歴史の裏側で「魔人」と呼ばれた存在の本性。

「シド、出会ってから5年、君がどれくらい強くなったか見せてほしい」

彼女の言葉と共に、重力が歪んだ。

魔力の放出などしていない。ただ、彼女の「意識」が戦闘モードに切り替わっただけで、周囲の空間が悲鳴を上げているのだ。

シドの心臓が、ドクンと高鳴った。

(キタ……ッ! これだよ、これを待っていたんだ!)

彼の内心は、お祭りの前日のような興奮に包まれていた。

「久しぶりの再会ではない。日常の延長線上にある、唐突な非日常」。

「師匠キャラが、弟子の成長を確かめるために本気を出すイベント」。

このシチュエーションこそ、陰の実力者ムーブにおける至高のスパイス。

「……ほう。我を試すと?」

シドはあえて挑発的に顎をしゃくった。

「そうだね、師弟対決だ」

ベアトリクスがニヤリと笑う。

その言葉が、シドの脳内で反響する。

『師弟対決』。

なんて甘美な響きだろうか。

最強の師匠と、それを超えんとする弟子。

互いの魂をぶつけ合い、言葉ではなく剣で語り合う、男(と魔人)のロマン。

「面白い……。望むところだ、古き者よ」

シドはスライムソードを形成した。

漆黒の刀身が月光(はないが)を反射し、妖しく輝く。

「ハンデをあげようか」

ベアトリクスが剣を抜いた。

何の変哲もない剣。だが、彼女が握った瞬間、それは世界を断つ魔剣へと変貌する。

「出力2割くらいだよ」

「……ッ!」

シドは仮面の下で、ニヤけそうになるのを必死に堪えた。

(出たァァァァッ!! 「出力〇〇%」宣言!!)

これは強キャラにしか許されない特権的台詞。

フリーザ様か、戸愚呂弟か、あるいは武神ベアトリクスか。

「今の私はまだ本気ではない」というアピールであり、同時に「2割でもお前を殺せる」という傲慢な宣告。

最高だ。この人と絡むと、厨二病的な供給が過多で死にそうになる。

「2割か……。舐められたものだ」

シドは演技たっぷりに悔しがるフリをした。

だが、その目は爛々と輝いている。

魔人ベアトリクスの2割。

それはつまり、通常の人類の限界を遥かに超えた領域。

「死ぬなよ」

警告は短く。

次の瞬間、ベアトリクスの姿が消失した。

ドォォォォォォンッ!!!

衝撃音が遅れて響く。

シドの目の前で、空間が爆ぜた。

速い、ではない。

「距離」という概念を無視した縮地。

ガギィィィン!!

シドの剣が、ベアトリクスの剣を受け止めていた。

いや、受け止めたという表現は正確ではない。

ベアトリクスの剣圧が重すぎて、シドの足元の岩盤が直径十メートルに渡って陥没したのだ。

「ぐ、ぅ……ッ!」

「いい反応だ」

至近距離。

鍔迫り合いの中で、ベアトリクスが微笑む。

その笑顔は美しいが、瞳の奥には底知れない冷徹さがある。

「5年前の君なら、今ので腕が消し飛んでいたよ」

「……成長期なものでな」

シドは魔力を循環させ、身体強化を極限まで高める。

力押しでは勝てない。

相手は「魔人」。生物としてのスペックが違いすぎる。

2割といえど、その膂力はドラゴンの顎(あぎと)に匹敵する。

「なら、技術(テクニック)で返す……!」

シドは力を受け流した。

ベアトリクスの剣のベクトルを読み、自身の剣を滑らせるようにして軌道を変える。

「柔」の剣。

ズンッ!

逸らされたベアトリクスの剣が、シドの横の地面を叩く。

ただそれだけで、地面が爆発し、岩片が散弾のように飛び散る。

シドはその隙を見逃さない。

カウンター。

漆黒の刃が、ベアトリクスの首筋へと走る。

「甘い」

ベアトリクスは、地面に突き刺さった剣を支点にして、体を空中に跳ね上げた。

アクロバティックな回避。

そして、空中で回転しながらの踵落とし。

「ッ!?」

シドは剣を盾にして防ぐ。

ドガァァァン!!

重い。

隕石が落ちてきたような衝撃。

シドの体が砲弾のように吹き飛ばされる。

岩山に激突し、砂煙が舞い上がる。

「……ふぅ、ふぅ……」

シドは瓦礫の中から立ち上がった。

左腕が痺れている。肋骨が一本、嫌な音を立てた気がする。

(痛ってぇ……! マジかよ、あれで2割!? 設定盛りすぎだろ!)

だが、楽しい。

この圧倒的な理不尽。

これこそが「修行」だ。

「立てるかい? まだ準備運動だよ」

砂煙の向こうから、ベアトリクスが歩いてくる。

彼女の周囲だけ、重力が異常な数値を叩き出しているかのように、小石が浮遊している。

黄金のオーラが揺らめき、夜の闇を照らす。

「クックック……。準備運動には丁度いい」

シドは口元の血を拭い、笑った。

やせ我慢ではない。

彼は今、自分が強くなっていることを実感している。

5年前は、手も足も出なかった。

触れることすら許されなかった「高み」。

それが今、こうして打ち合えている。痛みを感じる余裕がある。

「行くぞ、魔人……!」

シドが駆ける。

今度は彼から仕掛ける。

単純なスピード勝負ではない。

残像を残す特殊歩法。魔力による幻影。

無数のシドが、ベアトリクスを取り囲む。

「分身か。……古典的だね」

ベアトリクスは動じない。

彼女は剣を横に構え、ただ一閃した。

ズバァァァン!!

全方位斬撃。

魔力を乗せた衝撃波が、ドーナツ状に広がり、シドの分身を全て消し飛ばした。

だが。

「そこだッ!」

本物は上空にいた。

爆風を利用して跳躍し、死角からの急降下攻撃。

スライムソードを鞭のようにしならせ、変則的な軌道でベアトリクスの脳天を狙う。

「ほう」

ベアトリクスが少しだけ目を見開く。

彼女は剣を頭上に掲げ――防がなかった。

あえて、一歩踏み込み、シドの懐へと潜り込んだ。

「肉を切らせて骨を断つ……なんて安っぽい戦法は取らないよ」

彼女の左手が、シドの腹部に突き出される。

掌打。

魔力を一点に凝縮した、内部破壊の一撃。

(しまっ――!)

シドは空中で身体を捻り、魔力を腹部に集中させて防御壁を展開する。

ドォン!!

鈍い音が響き、シドの身体が「く」の字に折れ曲がる。

内臓が揺さぶられる感覚。

だが、シドもタダではやられない。

吹き飛ばされながらも、スライムソードを伸ばし、ベアトリクスの頬を掠める。

ヒュッ。

数本の金髪が宙を舞い、白い頬に一筋の赤い線が走った。

シドは地面を転がり、受け身をとって着地する。

咳き込み、血を吐き出す。

ダメージは深い。だが、致命傷ではない。

ベアトリクスは、自分の頬に触れた。

指先に付いた微かな血を見る。

「……やるね」

彼女の声が、少し弾んだ。

2割とはいえ、彼女に傷を負わせる者は、この世界に片手で数えるほどもいない。

それを、たった15歳(そこそこ)の少年がやってのけた。

「成長したな、シド。……5年前の君は、ただの才能ある原石だった。だが今は、立派な『凶器』だ」

「貴様の傷一つで満足する我ではない……」

シドはふらつきながらも剣を構え直す。

魔力が枯渇しかけている。

だが、彼の瞳にある炎は消えていない。

むしろ、追い詰められるほどに燃え上がっている。

(もっとだ……。もっと深いところへ。もっと速い領域へ……!)

彼は知っている。

この師匠(魔人)は、まだ底を見せていない。

2割という言葉が嘘でないことを、肌で感じている。

だからこそ、超えがいがある。

ベアトリクスは、シドのその目を見て、満足げに頷いた。

合格だ。

彼は期待通り、いや期待以上に育っている。

人間の枠組みを超え、魔人の領域へと足を踏み入れつつある。

ならば、師としてやるべきことは一つ。

更なる絶望と、その先にある希望を見せること。

「いいだろう」

ベアトリクスが、剣を強く握りしめた。

瞬間、世界が変わった。

今までが「強風」だったとするなら、ここからは「台風」だ。

黄金の魔力が爆発的に膨れ上がり、天を衝く柱となる。

山が震え、大気が悲鳴を上げる。

シドの肌がチリチリと焼けるような感覚に襲われる。

(おいおい……マジかよ。まだ上がるのか?)

数値が跳ね上がっていく。

スカウターがあったら爆発しているレベルだ。

ベアトリクスは、黄金の光の中で、凶悪に、そして嬉しそうに笑った。

「さぁ、出力上げていくよ」

彼女が一歩踏み出すだけで、地面がひび割れる。

プレッシャーだけで、シドの膝が折れそうになる。

だが、シドもまた笑った。

恐怖よりも、歓喜が勝る。

「次は4割だ!」

ベアトリクスの宣言と共に、彼女の姿が完全に消えた。

視覚でも、聴覚でも、魔力感知でも捉えきれない神速。

シドの本能が、最大級の警鐘を鳴らす。

来る。

死ぬかもしれない一撃が。

(最高だ……!)

シドは全魔力を解放した。

紫色の光が、黄金の嵐の中で一点の星のように輝く。

「来いッ!!」

激突の瞬間、荒野は光に包まれた。

夜が昼になるほどの閃光。

 

カゲノー領の山岳地帯。

かつて山だった場所は、今や巨大な臼ですり潰されたかのように地形を変えていた。

黄金の嵐と紫紺の雷光が衝突するたび、岩盤が悲鳴を上げ、夜空が昼間のように明滅する。

「ハァ……ハァ……ッ!」

シド・カゲノーは、砕けた岩の上に着地し、荒い息を吐いた。

スライムスーツのあちこちが裂け、自己修復が追いついていない。

全身の骨が悲鳴を上げている。筋肉が断裂寸前まで悲鳴を上げている。

だが、彼の瞳はかつてないほどギラギラと輝いていた。

(すげえ……! これが4割!? マジで言ってるのか!?)

彼の目の前には、依然として涼しい顔をした武神ベアトリクスが立っていた。

彼女の足元には、直径数百メートルに及ぶクレーターが出来ている。

彼女が一歩動くたびに発生する衝撃波だけで、地形が変わるのだ。

「どうしたんだい? 動きが鈍っているよ」

ベアトリクスは剣を肩に担ぎ、楽しそうに笑った。

その余裕が、シドの闘争心に油を注ぐ。

「フッ……。我にとっては、まだ遊戯の範疇だ」

強がりではない。

事実、彼はこの極限状態を楽しんでいた。

死と隣り合わせのダンス。

一瞬でも気を抜けば消し飛ぶプレッシャーの中で、彼の魔力操作技術は秒単位で進化している。

「口は減らないね。……いいよ、その意気だ」

ベアトリクスは剣を下ろした。

ふと、彼女の纏う空気が変わった。

これまでの「武神」としての、洗練された黄金のオーラではない。

もっとドス黒く、粘り気のある、根源的な恐怖を煽る気配。

「シド。君は先刻、私のことを『魔人』と呼んだね」

「ああ……。貴様の本質は、人の皮を被った異形だ」

「正解だ。……だが、君はまだ私の本当の姿を見ていない」

ベアトリクスが、自分の胸元に手を当てた。

心臓の鼓動が、ドクン、ドクンと、太鼓のように大きく響き始める。

それは生物の鼓動ではない。

炉の燃焼音だ。

「これより魔人の因子を解禁する」

その言葉と共に、世界が赤く染まった。

「――ッ!?」

シドが目を見開く。

ベアトリクスの美しいエルフの肌が、血管が浮き上がるように赤黒く変色していく。

白磁のようだった肌に、禍々しい黒い紋様が幾何学的に走り、それが脈打つように発光する。

そして、あの眠たげだった金色の瞳が――。

白目が黒く染まり、瞳孔が真紅に輝く、魔物の目へと変貌した。

「グルルルル……」

彼女の喉から、獣のような唸り声が漏れる。

もはや、そこに「武神」の面影はない。

二千年前に神の肉を食らい、その呪いと力を我が物とした「魔人」の顕現。

(うおおおおおっ!! 第二形態キタアアアアアッ!!)

シドの内心は爆発寸前だった。

ボス戦の醍醐味。

追い詰めると真の姿を現す展開。

しかも、そのビジュアルが「闇堕ちエルフ」とか最高すぎる。

「ククク……ハハハハハッ!」

シドは笑った。

歓喜のあまり、魔力が勝手に溢れ出す。

「美しい……。それこそが貴様の真実か、魔人よ!」

「意識を保つのに少しリソースを割くけどね。……この姿になると、破壊衝動が抑えきれなくなるんだ」

ベアトリクス――魔人形態――の声は、重低音が重なり、空間を震わせるものに変わっていた。

「行くよ」

合図はなかった。

赤い閃光が走った。

「――ッ!?」

速い、という次元ではない。

シドの認識の外側から、暴力が飛んできた。

剣ではない。

ベアトリクスの腕が、ゴムのように伸び、その爪がシドの首を刈り取ろうと迫る。

ディアボロス細胞特有の肉体変異。

剣の間合いなど無意味。彼女の肉体そのものが、変幻自在の凶器なのだ。

ガギィンッ!!

シドはスライムソードを盾状に変形させ、辛うじて防ぐ。

だが、衝撃が違う。

4割の時とは桁違いの重量。

「ぐ、おおおおっ!!」

シドの体が軽々と吹き飛ばされる。

空中で体勢を立て直そうとするが、ベアトリクスは既に背後に回っていた。

「遅い」

ドカァッ!!

背中への蹴り。

シドは地面に叩きつけられ、バウンドしながら岩山を貫通する。

「かはっ……!」

血を吐きながら、シドは即座に跳ね起きた。

休んでいる暇はない。

彼女は「破壊衝動が抑えきれない」と言った。つまり、手加減が下手になっている。

「オラオラオラァッ!!」

ベアトリクスが追撃してくる。

剣技ではない。

爪、牙、そして背中から生えた魔力の触手による、全方位からの飽和攻撃。

野性的で、荒々しく、しかし二千年の戦闘経験に裏打ちされた、理にかなった暴力。

シドは防戦一方に追い込まれた。

スライムソードを駆使し、あらゆる方向からの攻撃を捌く。

弾く、流す、避ける。

思考が焼き切れそうだ。

だが、その極限状態の中で、シドの脳内麻薬が分泌される。

(視える……! 視えてきたぞ……!)

最初はデタラメに見えた魔人の動き。

だが、そこには法則がある。

ディアボロス細胞の収縮リズム。魔力の流動パターン。

彼女の攻撃には、彼女自身の「癖」がある。

シドは笑った。

口元から血を流しながら、ニヤリと。

ベアトリクスの右腕が槍のように伸びてくる。

シドはそれを、最小限の動きで首を傾けて回避した。

風圧で頬が切れるが、直撃は避けた。

続く左手の爪撃。

シドは剣を合わせず、スライムの粘性を利用して絡め取り、軌道を逸らす。

「……ほう」

魔人ベアトリクスの赤い瞳が、興味深そうに細められた。

シドは反撃に出る。

触手の隙間を縫い、懐へと飛び込む。

「ただの獣に成り下がったわけではないようだな……!」

シドの剣が紫電を帯びる。

魔人の硬い皮膚――魔力装甲――を貫通するための、超振動剣。

ザシュッ!

ベアトリクスの脇腹に、浅いが確かな傷が入る。

赤い血ではなく、黒い霧のようなものが傷口から噴き出す。

「効かないねぇ」

ベアトリクスは傷を気にも留めず、カウンターの頭突きを放つ。

シドはそれをバックステップで回避。

距離を取る二人。

荒野には、二人の魔力がぶつかり合って生まれたスパークが、蛍のように舞っている。

「慣れてきたね」

ベアトリクスが、嬉しそうに笑った。

その顔は異形そのものだが、浮かべている笑みは、純粋に弟子の成長を喜ぶ師匠のものだ。

「魔人の因子を解放した私の動き。……初見で対応するどころか、反撃まで入れてくるとはね」

「単調なんだよ、獣の動きは」

シドは軽口を叩く。

実際は冷や汗ダラダラだが、絶対に顔には出さない。

「リズムが読めれば、踊ることは容易い」

「言うねぇ。……私の2000年の暴力を『単調』と言い切るか」

ベアトリクスは、自身の黒い爪を眺めた。

そして、ゆっくりと握りしめた。

バキバキと空気が割れる音がする。

「楽しいよ、シド。……君との戦いは、いつだって私の想像を超えてくれる」

彼女の体から立ち昇る赤いオーラが、さらに膨れ上がる。

大地が鳴動する。

小石が浮き上がり、粉々に砕け散る。

重力が狂い始めている。

シドはごくりと唾を飲み込んだ。

(おいおい……まだ上がるのか? 今の状態でギリギリなんだが?)

だが、彼の魂は「もっとやれ」と叫んでいる。

限界を超えろ。

その先にしか見えない景色がある。

ベアトリクスは、魔人の瞳でシドを見据え、凶悪に宣言した。

「次は7割だ!」

ドオオオオオオオオオオオオオッ!!!!

言葉が終わるより早く、衝撃波が世界を白く染めた。

7割。

それはもはや、個人の戦闘力の範疇ではない。

戦略級魔法が歩いているようなものだ。

「しまっ――」

シドの思考が追いつかない。

ベアトリクスが目の前にいた。

移動の予備動作ゼロ。

空間転移に近い速度。

彼女の拳が、シドの腹部にめり込む。

「が、はッ……!?」

痛覚が遅れてやってくる。

内臓が破裂しそうな衝撃。

だが、シドは意識を飛ばさなかった。

インパクトの瞬間に、腹部のスライムを硬質化させ、さらに後ろに飛び退くことで威力を殺したのだ。

それでも、体はボールのように吹き飛ぶ。

山を二つ貫通し、瓦礫の山に埋もれる。

「立ちなよ、シド!」

ベアトリクスの声が、遠くからでも耳元で囁くように聞こえる。

「7割の私は、手加減ができない。……死にたくなければ、君も殻を破るんだ!」

瓦礫の山が爆発した。

中から、青紫の光柱が立ち昇る。

「……上等だ」

シド・カゲノーが、ゆらりと立ち上がる。

コートはボロボロ。仮面も半分欠けている。

だが、その身に纏う魔力は、今まで以上に研ぎ澄まされ、濃密になっていた。

「魔人がなんだ。……7割がなんだ」

シドは笑う。

血に濡れた顔で、狂気的に。

「我は陰の実力者……。世界の理不尽をねじ伏せる者だ」

彼の背後に、スライムが展開される。

無数の触手、あるいは翼のような形状。

彼もまた、人であることを辞める覚悟で、魔力を暴走させる。

「来い、ベアトリクス! その7割……我が深淵で飲み込んでやる!」

「いい返事だッ!」

魔人と、陰の実力者。

二つの災害が、再び激突する。

その夜、カゲノー領の地図が書き換わるほどの破壊が撒き散らされたが、それを目撃した者は誰もいない。

ただ、夜明けの空に、二色の光がいつまでも輝いていたという伝説だけが残るのだった。

戦いは、まだ終わらない。

夜は、まだ明けない。

 

カゲノー領の山岳地帯であった場所は、もはや地図上の定義を失っていた。

「アハハハハハハハッ!!」

狂笑が響く。

それは大気の振動ではなく、魔力の奔流が空間そのものを震わせる音だった。

次元が揺れる。

空間が罅割れる。

魔人化したベアトリクスが、ただ腕を振るう。

それだけの動作で、視界の端に見えていた山脈の一角が、砂上の楼閣のように音もなく崩れ去り、数キロメートル四方が更地へと変わる。

「ッ……!?」

シド・カゲノーは、バックステップで距離を取ろうとしたが、足場となる地面が既に存在していなかった。

重力が機能していない。

余剰魔力の密度が高すぎて、物理法則が書き換えられているのだ。

(おいおいおい、マジかよこれ……! これもう格闘戦のレベルじゃないだろ! 怪獣大戦争か!?)

シドは空中に足場となるスライムの足場を形成し、そこを蹴って跳躍する。

直後、彼がいた空間が「パリン」という乾いた音と共に砕け散った。

比喩ではない。空間に黒い亀裂が走り、そこにあった大気ごと「無」へと変換されたのだ。

「逃げるなよ、シドォッ!!」

ベアトリクスが迫る。

彼女の背中から噴出する赤いオーラは、翼のように、あるいは巨大な手のように広がり、空を覆い尽くしている。

真紅に染まった瞳孔が見開かれ、そこには理性と狂気が混ざり合った、純粋な闘争の悦びだけがあった。

「逃げてなどいない……。間合いを測っているだけだ」

シドは強がりを言いながら、脳内CPUをフル回転させる。

7割。

今の彼女は出力7割と言っていた。

それでこれだ。

空間切断、重力操作、超音速機動。これらがノータイムで、呼吸をするように繰り出される。

(正面から受けたら蒸発する。……なら、受け流すか? 無理だ、質量が違いすぎる。……相殺? こっちの魔力が先に尽きる)

シドは、瞬時に数千のシミュレーションを行い、その全てを破棄した。

正攻法では勝てない。

ならば、邪道を行くしかない。

「――『ウィー・アー・アトミック』……の応用、魔力同調(シンクロ)」

シドは自身の魔力の波長を、ベアトリクスの暴れまわる魔力の波長に極限まで近づけた。

嵐の中で、風に逆らわず、風そのものになる木の葉のように。

ベアトリクスの爪撃が迫る。

シドはそれを、紙一重ですり抜ける――のではなく、彼女の魔力の渦の中に身を投じた。

「……!」

ベアトリクスの目が驚きに見開かれる。

手応えがない。

彼女の攻撃判定の中にいるはずのシドが、まるで幻影のように彼女の魔力を透過し、懐へと侵入していた。

「捕まえたぞ、魔人」

シドのスライムソードが、ベアトリクスの胸元に突き立てられる。

だが、硬い。

魔力装甲が分厚すぎて、刃が通らない。

「捕まったのは……君だろ?」

ベアトリクスがニヤリと笑う。

彼女の胸元の紋様が輝き、そこから全方位に衝撃波が放たれる。

ドオオオオオオオンッ!!!

ゼロ距離での爆発。

シドは防御が間に合わず、光の彼方へと吹き飛ばされた。

数百メートル、数キロメートル。

地面をバウンドし、岩盤を削りながら、ようやく止まる。

「が、はっ……!」

シドは血反吐をぶちまけた。

スライムスーツの胸部が完全に損壊している。

生身で受けていれば、上半身が消し飛んでいただろう。

だが、彼は笑っていた。

痛みよりも、興奮が勝る。

「最高だ……。これこそが、求めていた『死闘』……!」

彼が立ち上がると、遥か彼方から、赤い流星が飛来した。

ベアトリクスだ。

彼女は着地することなく、空中に停止し、シドを見下ろしている。

その全身から立ち昇る魔力が、さらに膨れ上がっていく。

周囲の空間が、彼女の熱量に耐えきれずに歪み、景色が陽炎のように揺らいで見える。

「耐えたね。……今の爆発で消し炭になるかと思ったけど」

ベアトリクスは、自分の手を見つめた。

赤黒く変色した爪。脈打つ血管。

二千年の時を経て、ようやく全開にできるこの力。

「楽しいよ。本当に楽しい。……だからこそ、礼儀を尽くそう」

彼女はシドを指差した。

その指先から放たれる殺気だけで、シドの周囲の岩が粉々に砕ける。

「終わり間際だ。出し惜しみは無粋だろう?」

彼女の口元が、三日月のように裂けた。

「さあ、10割、全力だ」

宣言。

その瞬間、世界から音が消えた。

あまりに強大なエネルギーが発生し、大気が消滅し、真空状態が生まれたのだ。

ベアトリクスの背後に、巨大な影が浮かび上がる。

それは彼女自身の魔力が具現化した、多腕の鬼神の如きシルエット。

魔神ディアボロスをも凌駕する、真なる「魔人」の姿。

「――来るぞッ!!」

シドは叫び(声にはならないが)、全魔力を防御ではなく攻撃に回した。

守りに入れば死ぬ。

攻めて、攻めて、攻め抜いて、ようやく生き残れるかどうかの賭け。

真空が破れ、爆音が戻ってくるのと同時に、ベアトリクスが動いた。

物理的な速度ではない。

「そこに移動する」という結果だけを世界に押し付ける因果の超越。

ドガガガガガガガガガガッ!!!!!

一秒間に数千発。

拳、爪、蹴り、そして魔力の触手による連撃。

その一発一発が、核シェルターを粉砕する威力を持っている。

シドは、その全てに対応していた。

否、対応させられていた。

脳のリミッターを外し、肉体の限界を超えて反応する。

スライムを自律駆動させ、防御と回避をオートで行わせながら、本体はカウンターの一撃を狙う。

「オラオラオラオラァッ!!」

ベアトリクスが吼える。

彼女は狂笑していた。

殴る感触。弾かれる感触。切り裂かれる感触。

その全てが愛おしい。

シドの剣が、ベアトリクスの肩を貫く。

だが、彼女は止まらない。

構わず殴る。

シドの肋骨が砕ける。

「いいぞ! もっとだ! もっと深く!」

ベアトリクスは、自分の肩に刺さった剣を筋肉で締め付け、シドの動きを封じる。

そして、がら空きの胴体に、渾身の右拳を叩き込む。

「――『アイ・アム・アトミック・シールド』ッ!!」

シドが極小範囲に防御結界を展開する。

拳と結界が衝突。

拮抗――などしない。

パリンッ!

結界がガラスのように砕け、拳がシドを捉える。

だが、その一瞬の減速が命を救った。

シドは衝撃を利用して後方へ飛び、致命傷を避ける。

「ハァ……ハァ……ッ!」

シドは地面に膝をついた。

視界が霞む。

魔力残量が危険域に突入している。

相手はバケモノだ。

10割の力。それは、この惑星上で活動していいレベルを超えている。

「終わりかい? シド」

ベアトリクスが歩み寄る。

彼女の体からは、まだ無限の魔力が溢れ出ている。

肩の傷は、黒い霧となって既に塞がっていた。

無傷。無尽蔵。無敵。

「……まだだ。……我はまだ、踊れる」

シドはふらつきながら立ち上がる。

ここで倒れるのは、モブ以下の結末だ。

陰の実力者は、最後の最後まで諦めず、逆転の一手を狙うものだ。

その姿を見て、ベアトリクスは足を止めた。

彼女の瞳が、黒く濁った光の中で、異様な輝きを放ち始める。

「そうか。……まだ立つか」

彼女は自分の体を抱きしめるように腕を回した。

爪が自分の肉に食い込み、血が流れる。

その痛みすらも、彼女にとっては興奮の燃料となる。

「足りない……。10割でも、まだ君を壊しきれない。……君の底が見えない」

彼女の全身の血管が、ドクンドクンと波打つ。

魔力回路が悲鳴を上げている。

二千年の肉体といえど、これ以上の出力は崩壊を招く。

だが、彼女の狂気はそれを無視した。

「いやまだ足りないな! 20割の私だ!」

限界突破(オーバーロード)。

ベアトリクスの輪郭が崩れた。

黄金と赤黒い魔力が混ざり合い、彼女の肉体を内側から焼き尽くしながら再構築していく。

その背中から、光の翼が生える。

それは天使の翼ではなく、空間を切り裂く刃の翼。

「アアアアアアアアアアアッ!!!!」

咆哮。

周囲の山々が、ただの音圧で崩落を始める。

地面が液状化し、マグマのように赤熱していく。

20割。

それはもはや数値の遊びではない。

「自滅を前提とした、生命力の全放出」。

シドは、呆然とそれを見上げた。

(おいおい……。冗談だろ? 200パーセント? 界王拳かよ……)

だが、その顔は引きつりながらも笑っていた。

最高だ。

ここまでやってくれる敵(師匠)なんて、世界中どこを探してもいない。

「……付き合ってやるよ。とことんまでな」

シドもまた、覚悟を決めた。

温存していた予備魔力。スライムスーツの維持に使っていた魔力。生命維持に必要な最低限の魔力。

その全てを、「攻撃」へと回す。

防御など捨てた。

やるか、やられるか。

一撃必殺の領域へ。

ベアトリクス――崩壊する魔人――が、ゆらりと構えを取った。

その姿は、美しくもおぞましい、破壊の女神。

「踊りを続けよう」

彼女の声は、二重三重に重なって聞こえた。

シドはスライムソードを最大出力で励起させる。

刀身が十メートル、百メートルと伸び、紫色の光柱となって天を衝く。

「ああ。……ラストダンスだ」

二人の視線が交錯する。

言葉はいらない。

次に交わるのは、互いの全存在を賭けた一撃のみ。

ベアトリクスが地面を蹴った。

大地が消滅する。

シドが剣を振り下ろす。

空が割れる。

激闘は、いよいよ終幕へと繋がろうとしていた。

だが、その結末がどうなるのか、この瞬間の二人には分からない。

ただ、目の前の強敵を喰らう。

その純粋で原始的な欲望だけが、崩壊する世界の中で輝いていた。

「シドォォォォォォッ!!!」

「ベアトリクスゥゥゥッ!!!」

二つの光が、世界の中央で衝突する――。

 

カゲノー領の山岳地帯、その上空。

夜明け前の最も深い闇は、二つの恒星の如き輝きによって消滅していた。

大気は悲鳴を上げることすら許されず、イオン化してプラズマの嵐と化す。

重力は役割を放棄し、因果律はねじ切れ、世界を構成する物理法則がストライキを起こしているかのような惨状。

対峙するのは、紫紺の光を纏う少年と、赤黒い混沌を纏う魔人。

シド・カゲノーは、意識の極限にいた。

全身の血管が焼き切れ、筋肉繊維が断裂し、骨格が軋みを上げている。

だが、そんな肉体の悲鳴など、彼にとっては些末なノイズに過ぎない。

今、彼の魂は歓喜に震えていた。

(これだ……! これこそが、僕が夢見た『世界の終わり』の光景……!)

相手は出力20割、生命力を燃料に燃え盛る二千年の魔人。

この惑星上で、これ以上の敵は存在しない。

ならば、迎え撃つ自分もまた、最強のその先へ至らねばならない。

陰の実力者として。

世界の理不尽を、さらに理不尽な暴力でねじ伏せる者として。

シドは剣を掲げた。

スライムソードはもはや物質としての形状を留めていない。

それは純粋な魔力の奔流となり、天を突き破り、宇宙の彼方まで届かんばかりの紫色の光柱と化していた。

「アイ・アム……」

彼の声は静かだった。

だが、その囁きは爆音の嵐の中でも、はっきりと世界に刻み込まれた。

全ての魔力を一点に収束させる。

原子の鼓動を止め、時間の流れさえも凍結させる、終焉の輝き。

「アトミック……」

対するベアトリクスもまた、笑っていた。

魔人としての異形の顔貌。

真紅の瞳孔、裂けた口元、全身を走る幾何学模様の発光。

彼女の背中からは、有翼の怪物を思わせる巨大な魔力の翼が展開され、それが空間そのものを捕食するように広がっている。

「全種解放(オール・スピーシーズ・リリース)……」

彼女の口から紡がれる言葉は、呪文ではない。

それは、彼女が二千年かけて取り込み、同化し、支配してきた数億の生命情報の解放宣言。

神の細胞、魔獣の因子、英雄の血脈。

その全てを融合させ、一つの破壊エネルギーへと変換する、自爆をも辞さない神の御業。

「我が全てを解き放て」

「――ジ・エンド!!」

二つの「世界」が衝突した。

音はなかった。

光もなかった。

あまりに巨大すぎるエネルギーの激突は、人間の感覚器官で処理できる領域を超えていたからだ。

ただ、「在る」はずのものが「無くなる」という現象だけが、波紋のように広がっていった。

紫と赤が混ざり合い、黒になり、そして白になる。

空間がガラス細工のように砕け散り、その向こう側に広がる虚無が顔を覗かせる。

その極限の刹那。

シドは見た。

崩壊する世界の中心で、肉体が粒子となって霧散していく中で。

ベアトリクスが、慈愛に満ちた、聖母のような微笑みを浮かべているのを。

(あ、これ死んだな)

シドの思考は、驚くほど冷静だった。

痛みはない。

ただ、電源コードを引き抜かれたテレビのように、プツンと世界が暗転した。

そうして、シド・カゲノーの意識はそこで途絶えた。

                 *

暗い。

寒い。

いや、暗いという概念も、寒いという感覚もない。

そこは、絶対的な「無」だった。

シドは自分がどうなっているのか分からなかった。

手足の感覚がない。

目を開けているのか閉じているのかも分からない。

そもそも、自分という存在がまだ残っているのかさえ怪しい。

(これが……死後の世界か?)

思考だけが、水面に浮かぶ泡のように漂っている。

三途の川もお花畑も見えない。

ただひたすらに、虚無。

モブとして死に、転生し、そして最強を目指して駆け抜けた人生。

その結末がこれか。

(悪くない……)

彼は満足していた。

伝説の魔人と戦い、全力を出し切り、相打ち(たぶん)となって消滅する。

これ以上ないほどドラマチックで、最高に「陰の実力者」らしい最期だ。

物語の幕引きとしては、百点満点だろう。

『――まだだよ』

不意に、声が聞こえた。

鼓膜を震わす音ではない。

魂に直接書き込まれるような、懐かしく、そして絶対的な響き。

『物語を終わらせるには、まだ早すぎる』

虚無の中に、一筋の光が差し込む。

それは黄金の粒子。

温かく、力強く、そして強引な光。

(ベアトリクス……?)

『戻っておいで、シド。……君との遊びは、まだ終わっちゃいない』

強烈な引力が彼を襲った。

霧散していた魂の欠片が、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように集められていく。

感覚が戻ってくる。

痛み、熱、重力、そして肺に吸い込む空気の味。

ガバッ!!

シドは勢いよく上半身を起こした。

心臓が激しく脈打っている。

全身に冷や汗をかいている。

自分の手を見る。

ある。動く。五本指がついている。

「……ッ、はぁ、はぁ……!」

彼は荒い呼吸を繰り返しながら、周囲を見渡した。

そこは、穴だった。

ただの穴ではない。

直径数キロメートル、深さは底が見えないほどの、巨大なクレーターの底。

土も、岩も、植物も、微生物さえも存在しない。

完全に「死滅」した、ガラス質の地面が広がるだけの虚無の空間。

命がいっぺんたりともない、世界の墓場。

その中心で、シドは目覚めたのだ。

「おはよう、シド」

声の方を向く。

そこには、一人の女性が立っていた。

ボロボロの衣服を纏い、しかしその肌は白磁のように美しく、傷一つない。

金色の髪が、朝焼けの光を受けて輝いている。

ベアトリクス。

魔人の角も、赤い紋様も消えている。

いつもの、眠たげで、食いしん坊なエルフの姿に戻っていた。

「……ベアトリクス」

シドは掠れた声で名を呼んだ。

喉が渇いている。

生きている実感がある。

「一度死んだ気分はどうだい?」

彼女はニカっと笑った。

悪戯が成功した子供のような、無邪気で残酷な笑み。

シドは自分の体を触った。

傷がない。

あれほどの激闘の末、ミンチになっていてもおかしくない肉体が、新品同様に再生されている。

いや、むしろ以前よりも魔力回路が太く、強靭になっている気さえする。

「……我は、死んだのか?」

「ああ。完全に死んでいたよ」

ベアトリクスはあっさりと肯定した。

「君の『アトミック・ジ・エンド』と、私の『全種解放』。……あれがぶつかった瞬間、君の肉体は素粒子レベルで分解された。魂ごと蒸発したと言ってもいい」

「なら、なぜ……」

「私が繋ぎ止めたからさ」

ベアトリクスはシドの隣に座り込んだ。

彼女からも、凄まじい魔力の消耗を感じる。だが、その瞳の光は衰えていない。

「本当さ、私が君の肉体を再構成してあの世の行列から引っ張ってきたんだから」

彼女は人差し指で、シドの胸――心臓のある位置をつついた。

「私の魔力は『命』そのものだ。……二千年かけて、私は他者の命を取り込み、自分のものとしてきた。だから、逆もできる」

「逆?」

「私の命を分け与え、君という存在の設計図(青写真)を読み取り、世界に再定義したんだ。……『シド・カゲノーはここに在る』とね」

シドは絶句した。

それは蘇生魔法(レイズ)などというチャチなものではない。

「創造」だ。

無から有を生み出す、神の領域。

(すげえ……。マジですげえよ、この人)

シドは戦慄し、同時に歓喜した。

自分が目指していた「核にも勝てる強さ」。

その先にある、「死すらも超越する強さ」。

それを、この魔人は平然とやってのけたのだ。

「……ククッ、ハハハハ!」

シドは笑った。

乾いた笑いが、死のクレーターに響く。

「やってくれる……! まさか、三途の川の渡し賃まで踏み倒させられるとはな」

「君を死なせるには惜しかったからね。……それに、君がいなくなったら、誰が私にハンバーガーを奢ってくれるんだい?」

ベアトリクスは冗談めかして言ったが、シドには分かった。

彼女が支払った代償が、ハンバーガー代どころではないことを。

おそらく、彼女自身の「寿命」あるいは「存在強度」の一部を削って、シドを定着させたのだ。

「……借りができたな」

「いいや。これで貸し借りなしさ。……私も久しぶりに『死』を味わえた。君の一撃、私の核(コア)まで届いていたよ」

ベアトリクスは自分の腹部をさすった。

そこには傷はないが、服が破れ、新しい皮膚が覗いている。

シドは立ち上がった。

足元を見る。

ガラス化した大地。

見渡す限りの荒野。

かつてここにあった山脈は消滅し、地形が変わってしまっている。

地図からカゲノー領の一部が抹消されたに等しい。

「……この破壊、どうしましょう?」

シドは素に戻って尋ねた。

これは流石にヤバい。

姉のクレアにバレたら殺されるし、王国の騎士団が調査に来たら「謎の超兵器実験」として国際問題になりかねない。

何より、実家の領地だ。

父上が泣く。

「心配ご無用」

ベアトリクスは立ち上がり、パンパンと服の埃を払った。

彼女はクレーターの中心に立ち、両手を広げた。

「君を治すついでだ。……世界の方も治しておこう」

「は?」

シドが聞き返す間もなく。

ベアトリクスは指をパチンと鳴らした。

その乾いた音が、世界のスイッチとなった。

カッ!!!!

黄金の光が、クレーターを満たした。

シドは目を覆った。

強烈な光の中で、彼は「音」を聞いた。

ゴゴゴゴゴゴゴ……。

シュルシュルシュル……。

それは、ビデオテープを巻き戻すような音。

あるいは、時間が逆流する音。

光が収まった時。

シドは目を見開いた。

「…………な」

そこには、森があった。

ガラス化していた地面は消え、黒々とした土と、青々とした下草が広がっている。

消滅したはずの木々が、何事もなかったかのように聳え立ち、風に揺れている。

粉々になったはずの岩山が、元の形を取り戻して鎮座している。

鳥がさえずり、虫が鳴いている。

命がいっぺんたりともなかった場所が、生命の楽園へと戻っていた。

「……嘘だろ」

シドは近くの木に触れた。

幻影ではない。

温かい樹皮の感触。瑞々しい葉の香り。

本物だ。

「時間を戻したわけじゃないよ」

ベアトリクスが、木陰から現れた。

「『在ったはずのもの』を、魔力で再構築しただけさ。……木も、土も、岩も、私の記憶にある通りに作り直した」

「作り直した……? この広範囲を? 一瞬で?」

「そうさ、私は魔人。あるいは神、何でもありさ」

ベアトリクスは悪戯っぽく微笑んだ。

(何でもあり、ってレベルじゃねーぞ!!)

シドは内心で叫んだ。

地形を変えるほどの破壊なら、シドにもできる。

だが、それを「元通りにする」なんて芸当は、破壊の何万倍ものエネルギーと、神がかった演算能力が必要だ。

生態系まで完全に再現するなど、不可能の極み。

それを、指パッチン一つで。

「……参りました」

シドは降参のポーズをとった。

勝てない。

戦闘力では肉薄できたかもしれない。

だが、「存在としての格」において、この魔人は次元が違う。

「君もいずれできるようになるさ。……君は世界を『壊す』側から、世界を『回す』側になりつつあるんだから」

ベアトリクスはシドの背中をバンと叩いた。

「さあ、帰ろうか。……流石に腹が減った」

「……またですか」

「当たり前だろう。20割も出して、蘇生もして、世界創造までしたんだ。……牛一頭まるごと食べても足りないくらいだよ」

ベアトリクスは腹をさすりながら、森の獣道(これも彼女が再構築したのだろうか?)を歩き出した。

シドはその背中を見つめた。

偉大なる師匠。

最強のライバル。

そして、何でもありの神ごっこパートナー。

「……ふっ」

シドは口元を緩めた。

この世界は、やはり面白い。

こんなデタラメな存在がいる限り、彼の「陰の実力者」への道は、まだまだ退屈しそうにない。

「おい、置いていくよ」

「ああ、今行く」

シドはコートを翻し、彼女の後を追った。

朝日が差し込む森の中を、二人の影が並んで歩いていく。

「ねえシド。……次は海に行こうか」

「海?」

「ああ。伝説の海竜『リヴァイアサン』の刺身が食べたくてね。……深海一万メートルまで潜る必要があるんだけど」

「……潜水艦でも作るか」

「いや、泳いでいこう。息継ぎなしで」

「無茶言うな」

「できるさ。私たちは一度死んで帰ってきたんだから」

他愛のない会話。

だが、その内容は世界を揺るがす冒険の計画だ。

こうして、伝説の「師弟対決」は幕を閉じた。

勝敗はつかず。

残ったのは、再生された美しい森と、二人の間のより深まった絆。

そして、シド・カゲノーの中に芽生えた、新たな野望。

(蘇生……。世界創造……。いいな、それ。次の設定に取り入れよう)

「シャドウ様は死をも超越する」。

その設定が、ただのハッタリではなく、現実のスキルとして実装される日も、そう遠くないかもしれない。

ミドガル王国の歴史の裏側で、神話級の戦いがあったことを知る者はいない。

ただ、その日以降、カゲノー領の森の植生が微妙に変化し、絶滅したはずの古代植物が群生しているのが発見され、植物学者たちを大混乱に陥れることになるのだが……それはまた、別の物語である。

 

 

 

 

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