私はベアトリクス   作:Beatrix

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七つ陰と顧問と

霧の立ち込める古都、アレクサンドリア。

シャドウガーデンの拠点であるこの場所は、夜の帳が下りると共に、静謐な空気に包まれていた。

その中枢にある、豪奢な執務室。

月光が差し込むバルコニーに、二つの影があった。

一つは、金色の髪を夜風に揺らす、完璧な美貌のエルフ。

シャドウガーデン第一席、アルファ。

もう一つは、手すりに腰掛け、どこからか調達したワインボトルを傾ける「武神」。

ベアトリクス。

二人の間には、血縁という言葉では片付けられない、奇妙で濃密な魔力の共鳴があった。

「……叔母様。そのワインは、ガンマが隠していたヴィンテージ物では?」

アルファが呆れたように、しかしどこか親愛の情を込めて指摘する。

「おや、バレたかい? 鼻がいいね、君は」

ベアトリクスは悪びれもせず、琥珀色の液体をグラスに注いだ。

彼女は一口飲み、満足げに息を吐くと、不意に真面目な顔つきでアルファを見つめた。

「アルファ。今日は少し、昔話をしようか」

「昔話、ですか?」

「ああ。君のルーツであり、私の罪でもある話だ」

ベアトリクスはグラスを置いた。

その瞳から、いつもの眠たげな光が消え、二千年の時を生きる「魔人」としての深淵が顔を覗かせる。

「君の叔母という身分は今のベアトリクスという名の関係性さ。私が魔人なのは何年も前に話した通り。私は時代によって立場を変え名前を変え身分を変えた」

淡々とした語り口。

だが、その言葉の重みは、部屋の空気を軋ませるほどだった。

「存じています。……貴女がただのエルフではないことも、通常の寿命を超越した存在であることも」

アルファは静かに頷いた。

彼女が幼い頃、一族から疎まれ、悪魔憑きとして腐り落ちそうになっていた時。

この「叔母」は、遠くから見守っていたという。

だが、救ったのは彼女ではない。

救ったのは、漆黒の闇――シャドウだ。

「理解が早くて助かるよ。……でもね、君が思っている以上に、私と君の繋がりは希薄で、同時に呪わしいほど深い」

ベアトリクスは夜空を見上げた。

そこには、二千年前と同じ月が輝いている。

「君は遠い遠い遠い子孫さ。まだ■■■■だった頃の妹の子孫、それが君たちの血族で……」

■■■■。

その名は、アルファの耳にはノイズのように響いた。

古代語の発音。今の言語体系には存在しない、失われた名前。

「妹……ですか」

「そう。私には妹がいた。……私とは違い、優しくて、臆病で、そして誰よりも『普通』のエルフだった」

ベアトリクスは懐かしむように目を細めた。

「当時の私は力を渇望していた。神の肉を食らい、魔人へと変貌していく私を、妹は最後まで止めようとしたよ。『姉さん、人じゃなくなってしまう』と泣いてね」

彼女は自嘲気味に笑った。

「結局、私は忠告を無視して魔人になった。生殖能力を失い、生物としてのサイクルから外れた。……だから、私には直系の子孫はいない」

ベアトリクスはアルファを指差した。

「対して、妹は普通に生き、普通に恋をし、子を成した。……その血が、数百年、数千年を経て、薄まりながらも受け継がれてきた。それが君たちだ」

アルファは、自らの金髪を指で梳いた。

英雄の血。

エルフの里で、彼女が持て囃され、そして「悪魔憑き」として捨てられた理由。

「皮肉な話さ。……神の肉を取り込んで化物になった姉(わたし)の因子は、私という個体の中で完結している。けれど、普通のエルフだった妹の血の中にこそ、隔世遺伝として『英雄の因子』が眠っていた」

ベアトリクスはグラスを回した。

「長い時を経て、その因子が濃く発現した子供……それが『悪魔憑き』と呼ばれる現象の正体の一つだ。君は、私の妹の血を引く者の中で、最も強くその因子を受け継いでしまった」

「……だから、私は腐ったのですね」

アルファの声に、悲壮感はない。

それは過ぎ去った過去の事実確認に過ぎない。

「そう。器が耐えきれなかったんだ。……本来なら、そこで死ぬ運命だった。私の妹の系譜は、そこで途絶えるはずだった」

ベアトリクスは身を乗り出し、アルファの青い瞳を覗き込んだ。

「だが、現れた。……理(ことわり)をねじ曲げる男が」

「シャドウ……」

アルファが、主の名を口にする。

その声色には、絶対的な忠誠と、それ以上の熱が宿っていた。

彼女は「様」を付けなかった。

公の場では付けるが、この「身内」との会話において、彼女は対等なパートナーとしての自負を覗かせた。

「彼は、崩壊する君の肉体を治しただけじゃない。……私の妹の血、そこに眠っていた『英雄の因子』を完全に制御下に置き、再構築した」

ベアトリクスは感嘆の溜息を漏らした。

「私が神の肉を食らって無理やり手に入れた力を、彼は君という器に合わせて最適化(チューニング)してみせたんだ。……結果、君は私と同じ『魔人の領域』に、人の身のまま足を踏み入れた」

「私は、貴女の模造品(コピー)ではない……ということですか」

「もちろんさ。君はオリジナルだ」

ベアトリクスは立ち上がり、アルファの肩に手を置いた。

「君は私の妹の子孫だが、同時にシャドウによって生まれ変わった新しい種族の始祖だ。……誇りなさい、アルファ。君は、私が二千年かけても手に入れられなかった『完成形』なのだから」

アルファは、叔母の手の温かさを感じながら、静かに微笑んだ。

それは、かつて捨てられた少女の顔ではない。

世界を裏から統べる組織の長、その第一席としての自信に満ちた顔だった。

「感謝します、叔母様。……その言葉を聞けて、胸のつかえが取れました」

「礼を言うのはこっちだよ。……妹の血が、こうして美しい形で残ったんだ。冥土の土産には十分すぎる」

「まだ死ぬつもりはないでしょう?」

「ふふ、どうかな。……シャドウと遊んでいると、命がいくつあっても足りないからね」

ベアトリクスは悪戯っぽく笑い、空になったボトルを置いた。

「さて、私の昔話はこれくらいにしておこうか」

彼女は執務室の扉の方を見た。

その視線の先には、気配を消して聞き耳を立てているであろう、もう一人の「七陰」の気配があった。

「次は、あの子だね。……君たちの記録係であり、私の物語を勝手に脚色して楽しんでいる小説家先生」

「ベータですね」

アルファも苦笑する。

ベータの「シャドウ様戦記」への熱量は、組織内でも周知の事実だ。

そして、そこに登場する「武神ベアトリクス」の扱いについても。

「彼女には、もう少し『真実』という名のスパイスを与えてあげようと思ってね。……創作意欲が爆発して、徹夜になるかもしれないけれど」

ベアトリクスは扉へと歩き出した。

その背中は、過去を語り終え、軽やかになっているように見えた。

「アルファ。……シャドウを支えてやってくれ。あの子は強いが、危うい。……君のような『完成された隣人』が必要だ」

「言われるまでもありません」

アルファは凛として答えた。

「シャドウは私の全て。……この命が尽きるまで、彼の覇道を共に歩みます」

「いい返事だ」

ベアトリクスは一度だけ振り返り、優しく手を振った。

そして、重厚な扉を開け、廊下へと消えていった。

廊下の先、書庫へと続く薄暗い通路。

そこには、銀髪のボブカットの少女が、羊皮紙とペンを構えて待ち構えていたかのように立っていた。

「……随分と待たせたね、ベータ」

ベアトリクスは、ニヤリと笑いながら歩みを進める。

夜はまだ長い。

魔人の語る「真実」の授業は、まだ始まったばかりだ。

 

ミツゴシ商会本店、地下深くに存在する「知の宝庫」。

そこは、シャドウガーデンが世界中から収集した機密情報と、古代の書物が眠る禁断のアーカイブである。

静寂を破るのは、羊皮紙の上を走る羽ペンの音だけ。

七陰第二席、ベータは、恍惚とした表情で机に向かっていた。

彼女の聴覚は、先ほどまで隣室で行われていたアルファとベアトリクスの会話を、魔法による集音で余さず拾い上げていたのだ。

「……素晴らしい。あまりにも素晴らしいですわ」

ベータは震える手でインクを付け直した。

一族の歴史、英雄の血脈、そして魔人との邂逅。

それら全てが、主であるシャドウの物語を彩る重厚な背景設定(バックボーン)として完璧に噛み合っている。

「盗み聞きとは感心しないね、作家先生」

不意に、背後の書架から声がした。

ベータは驚かなかった。彼女が来ることを予期していたからだ。

ゆっくりと振り返ると、そこには空になったワインボトルを片手に提げた武神ベアトリクスが、脚立に腰掛けていた。

「申し訳ありません、ベアトリクス様。……ですが、記録係としての性分でして」

ベータは淑やかに微笑み、一礼した。

彼女にとって、目の前の魔人は「生きた歴史書」であり、シャドウ様戦記における最重要の語り部だ。

ベアトリクスは脚立から飛び降り、音もなくベータの対面のソファへと移動した。

その動きには、生物としての重さが感じられない。

「まあいいさ。君には以前私の真実の歴史を聞かせた、ならば次に聞きたいのは何かな」

ベアトリクスは試すように小首を傾げた。

毒婦、聖人、海賊、剣客。

数多の人生を演じてきた彼女の、まだ語られていない側面。

ベータは少し考え、真剣な眼差しで問いかけた。

「……動機、でしょうか」

「動機?」

「はい。貴女様がまだ『ただのエルフ』だった頃。……禁忌とされる神の肉を喰らってまで、なぜそこまでして生きることに、力に執着したのか。その根源にある衝動を知りたいのです」

それは、物語の核となる部分だ。

英雄には動機が必要だ。

復讐、愛、正義、あるいは狂気。

シャドウには「陰の実力者になる」という崇高かつ絶対的な目的がある。

ならば、対となる魔人には何があったのか。

ベアトリクスは、ふっと虚空を見上げた。

二千年前の記憶。

まだ若く、未熟で、そして愚かだった頃の自分。

「神の肉を喰らってでも執着した理由? 簡単さ、力を求めただとか世界を支配したいとかじゃない」

彼女は淡々と言った。

ベータが期待するような、劇的な野望や、悲劇的な誓いではない。

「死にたくなかったからだよ」

あまりにも短く、そして原始的な答え。

ベータの筆が止まった。

「……死にたくなかった、とは……生存本能、ということですか?」

「もっと惨めで、切実な恐怖さ」

ベアトリクスは自らの身体を抱きしめるように腕を組んだ。

「当時の私は病に侵されていた。……不治の病だ。医者からは余命数ヶ月と宣告されていた。身体が動かなくなり、指先から壊死していく感覚。……毎晩、眠るのが怖かったよ。目が覚めないんじゃないかと思ってね」

彼女の声から、いつもの飄々とした響きが消えた。

そこにあるのは、死の淵を覗き込んだ者だけが知る、底冷えするような恐怖の記憶。

「世界から私が消える。意識が途絶える。……その『無』への恐怖が、私を狂わせた。だから私は、目の前に落ちてきた神の肉に喰らいついたんだ。それが毒だろうが呪いだろうが、この死の恐怖から逃れられるなら、悪魔に魂を売ってもよかった」

ベアトリクスは自嘲気味に笑った。

「高尚な理由なんてない。……ただ、生きたかった。泥水を啜ってでも、化物になっても、明日という日が欲しかった。それだけだよ」

ベータは言葉を失った。

英雄譚として書くには、あまりにも人間臭く、そして生々しい動機。

だが、だからこそ――。

「……美しいです」

ベータは呟いた。

「生への執着。それは全ての生命の根源。……死を恐れ、死を拒絶し、結果として死を超越した魔人。……ああ、これこそがシャドウ様が対峙するに相応しい『命の権化』……!」

彼女の目が怪しく輝き始め、猛烈な勢いで筆を走らせ始めた。

『――少女は哭いた。死神の鎌が首元に迫る夜、彼女は禁断の果実を齧る。それは生存への渇望か、あるいは神への叛逆か。彼女は人であることを捨て、永遠の孤独という名の生を選び取ったのだ――』

ベアトリクスは、その様子を見て呆れたように、しかし優しく微笑んだ。

「君にかかると、私の情けない過去も立派な叙事詩になるね」

「事実は小説よりも奇なり、ですが……事実は小説のように装飾されてこそ、後世に輝くのです」

ベータは満面の笑みで答えた。

「ありがとう、ベアトリクス様。このエピソードは、次巻の『魔人編・追憶の章』の冒頭に使わせていただきます」

「お手柔らかに頼むよ。……さて」

ベアトリクスは立ち上がり、背伸びをした。

アーカイブの冷たい空気が、少しだけ温かく感じられた。

自分の過去(恥部)をさらけ出し、それを物語として肯定されたことで、何かが浄化されたような気分だった。

「お喋りはこれくらいにしよう。……夜はまだ続く。次は、あの子の顔でも見に行こうか」

「あの子……?」

「君たちの『頭脳』だよ。……商売の才覚はあっても、運動神経が絶望的な、あの愛すべき不器用さんさ」

ベアトリクスは悪戯っぽくウインクをして、姿を消した。

残されたベータは、書き上げた原稿を胸に抱き、深く一礼した。

「いってらっしゃいませ。……ガンマによろしくお伝えください」

                 *

ミツゴシ商会本店、最上階。

そこは、王都の夜景を一望できる、商会長の執務室である。

最高級のマホガニー材で作られたデスクには、山のような書類が積み上げられていた。

決算書、新商品の企画案、物流ルートの拡大計画、そしてシャドウガーデンの活動資金管理。

その全てを一人で統括するのが、七陰第三席、ガンマである。

「うぅ……数字が合いませんわ……」

ガンマは眉間に皺を寄せ、眼鏡の位置を直しながら呻いていた。

知略と経営手腕においては組織随一の彼女だが、根が真面目すぎるが故に、完璧を目指して抱え込むきらいがある。

「主様が仰っていた『株式』という概念……。これを導入すれば資金調達は容易になりますが、市場の混乱を招く恐れも……。ああ、主様の深淵なる叡智を、私ごときが完全に理解するなど不可能なのか……」

彼女は頭を抱え、深いため息をついた。

その時だった。

「働き者だね、ガンマ」

窓枠の方から声がした。

ガンマはハッとして顔を上げる。

「ッ!? だ、誰ですの……!」

彼女は慌てて立ち上がり、戦闘態勢を取ろうとした。

だが、その拍子に足がデスクの脚に引っかかった。

「あっ」

バランスが崩れる。

彼女の体は前のめりに倒れ、手元にあったインク壺が宙を舞う。

さらに、倒れ込んだ先には、主様から預かっている(と彼女が思い込んでいる)高価な壺が――!

「きゃあああああっ!!」

ガンマが悲鳴を上げ、目を閉じた瞬間。

ピタリ。

衝撃は訪れなかった。

彼女の体は、床スレスレのところで、見えない力によってふわりと支えられていた。

宙を舞ったインク壺も、倒れそうになった高価な壺も、全て空中で静止している。

「相変わらずだねぇ。……君のそのドジっぷりは、一種の芸術だよ」

クスクスという笑い声と共に、窓から黄金の粒子を纏ったベアトリクスが降り立った。

彼女が指先を振ると、ガンマの体は優しくソファへと運ばれ、インク壺は元の位置に戻った。

「ベ、ベアトリクス様……!?」

ガンマは真っ赤になって顔を覆った。

組織の顧問的存在である武神に、またしても失態を見られてしまった。

「も、申し訳ありません……! お見苦しいところを……!」

「いいや、和ませてもらったよ。……アルファやベータと話して少し肩が凝っていたからね」

ベアトリクスは、ガンマの向かいのソファに腰掛け、テーブルに置いてあったクッキー(試作品)を勝手に摘んだ。

「ん、美味い。……これは新作かい?」

「は、はい。カカオの配合を変えた『大人のビタークッキー』です。……主様が以前、『甘くない菓子があってもいい』と仰っていたのをヒントに」

ガンマは居住まいを正し、恐縮しながら答えた。

「なるほどね。……君は本当に、シド……いや、主様の言葉を形にするのが上手い」

ベアトリクスはクッキーを齧りながら、執務室を見渡した。

壁に貼られた世界地図。そこには、ミツゴシ商会の支店網が赤いピンで示されている。

ミドガル王国だけでなく、オリアナ、ベガルタ、そして無法都市に至るまで。

その広がりは、一国の経済圏を遥かに超えている。

「自信を持ちなよ、ガンマ。……君は剣ではアルファに勝てない。魔力制御ではベータに劣るかもしれない。デルタのような野生の勘もない」

ベアトリクスは、ガンマのコンプレックスを容赦なく列挙した。

ガンマがシュンと肩を落とす。

「ですが……」

ベアトリクスは言葉を継いだ。

「君は、剣を持たずに世界を征服しつつある」

「え……?」

「見てごらん、この地図を。……君が築き上げた物流網、金融システム、そしてブランド力。これらは、剣や魔法よりも深く、人々の生活に根ざしている」

ベアトリクスは地図を指差した。

「国を滅ぼすのは簡単だ。私が暴れれば一日で終わる。……だが、新しい国を『創る』ことは、私にもできない。君がやっているのは、破壊の後の創造だ」

ガンマは目を見開いた。

武神ベアトリクス。破壊の化身である彼女から、「創造」を評価されるとは。

「私が……創造を……?」

「そうさ。君はシャドウガーデンの屋台骨だ。……君が稼ぐ資金がなければ、アルファたちは動けない。君が集める物資がなければ、組織は一日で瓦解する」

ベアトリクスはニッと笑った。

「君は『最弱』かもしれないが、間違いなく『最強』の一角だよ。……金の力は、時に魔力よりも強大だからね」

ガンマの瞳に涙が滲んだ。

彼女はずっと悩んでいた。

七陰の中で、自分だけが戦闘において足手まといなのではないか。

主様の役に立てていないのではないか。

だが、この二千年の観測者は、彼女の戦いを正しく評価してくれた。

「勿体なき……お言葉です……!」

ガンマはハンカチで目元を拭った。

「ですが、これも全て……主様の教えあってこそです」

彼女は涙目で、しかし誇らしげに語り始めた。

「銀行、信用創造、株式会社、バレンタイン商戦……。これらは全て、主様が私に授けてくださった『陰の叡智』。私はその深遠なる知識の海から、ほんの一掬いを形にさせていただいただけ……」

「……ふふ、そうかい」

ベアトリクスは苦笑した。

彼女は知っている。シド・カゲノーが、前世の知識を適当に(あるいは雑談レベルで)話したことを、この少女が天才的な頭脳で解釈し、過剰なまでに完璧に実装していることを。

「0」を「1」にしたのはシドかもしれないが、それを「100」まで育て上げたのは間違いなくガンマの手腕だ。

(シドも罪な男だねぇ。……こんな優秀で忠実な部下を持って)

ベアトリクスは、もう一枚クッキーに手を伸ばした。

「主様は……今、何を?」

ガンマが期待に満ちた目で尋ねる。

ベアトリクスは、先日の「師弟対決(という名の地形破壊)」を思い出し、吹き出しそうになった。

「ああ、彼は元気だよ。……相変わらず、世界の理不尽と戦っている(ごっこ遊びをしている)」

「流石ですわ……! 私たちがこうして表の世界を整えている間も、主様は独り、深淵の闇で戦っておられるのですね!」

ガンマが胸の前で手を組み、うっとりと天井を仰ぐ。

その妄想力は、ベータに勝るとも劣らない。

「ガンマ。……あまり無理をするんじゃないよ」

ベアトリクスは、山積みの書類を見た。

「君が倒れたら、主様も困るだろう。……たまには息抜きも必要だ」

「はい。……ですが、この決算だけはどうしても今夜中に……」

「なら、手伝ってあげるよ」

「えっ? ベアトリクス様が……ですか?」

「計算くらいはできるさ。……伊達に二千年生きてないよ。海賊時代は、略奪品の分配計算を私がやっていたんだからね」

ベアトリクスは袖をまくり、ガンマの隣に座った。

まさかの武神による事務作業支援。

「ここの数字、合わないね。……ああ、ベガルタ支店の帳簿か。あそこの支配人は少し数字をごまかす癖があるから、再調査させた方がいい」

「す、凄い……! 一目で見抜くとは……!」

「伊達にベリンダ(毒婦)やってないからね。……横領の手口なんて、腐るほど見てきたよ」

二人は並んでデスクに向かった。

最強の魔人と、最弱(物理)の天才。

奇妙なコンビだが、その作業効率は凄まじかった。

ベアトリクスの直感と経験、ガンマの計算能力と実務知識が噛み合い、山のような書類が次々と片付いていく。

数時間後。

朝日が昇る頃には、デスクの上は綺麗に片付いていた。

「終わりました……! 信じられませんわ!」

ガンマは感動に震えていた。

一人なら三日はかかったであろう業務量が、一夜にして消滅した。

「ふぅ、肩が凝ったね」

ベアトリクスは首を回し、立ち上がった。

「さて、報酬として……このクッキー、一箱もらっていくよ」

彼女は机の上のクッキー缶を抱えた。

「ええ、どうぞ! いくらでもお持ちください!」

「ありがとう。……シドにも食べさせてやるよ」

「主様に……!?」

ガンマの顔色が輝いた。

自分が作った(監修した)クッキーが、主様の口に入る。

それだけで、彼女にとっては最高の報酬だ。

「じゃあね、ガンマ。……また遊びに来るよ。次は転ばないように、絨毯の厚さを変えておくといい」

「は、はい! 善処いたします!」

ベアトリクスは窓枠に足をかけ、朝日の中へと飛び出した。

黄金の粒子が朝霧に溶けていく。

ガンマは窓辺に駆け寄り(今度は転ばずに)、その背中を見送った。

「ベアトリクス様……。本当に、不思議なお方です」

彼女は胸に手を当てた。

主様への忠誠とはまた違う、温かい感情がそこにあった。

まるで、口うるさいけれど頼りになる、親戚の姉のような。

「さて……!」

ガンマは振り返り、片付いたデスクを見て気合を入れ直した。

「主様のため、そしてあの方の期待に応えるため……ミツゴシ商会、さらなる飛躍を目指しますわ!」

彼女の瞳は、朝日よりも眩しく輝いていた。

その足元には、まだ見ぬ未来の繁栄への道が続いている。

一方、クッキー缶を抱えて空を飛ぶベアトリクスは、上機嫌で鼻歌を歌っていた。

「ふふふん♪ さて、シドは起きてるかな。……朝ご飯代わりに、このクッキーで餌付けしてやろう」

魔人の気まぐれな「意識調査」と「お宅訪問」。

それは、シャドウガーデンの面々に、新たな活力と、少しの安らぎを与えていた。

そして、全ての道は、やはりあの「陰の実力者」へと繋がっているのである。

 

古都アレクサンドリアの外れに広がる、手つかずの原生林。

そこは、シャドウガーデンが管理する領域の中でも、特に危険な魔獣が生息する「狩猟区画」として指定されている場所だ。

鬱蒼と茂る木々、湿った腐葉土の匂い、そして濃密な血の香り。

「ガアアアッ!!」

静寂を引き裂く咆哮と共に、巨大な猪型の魔獣が宙を舞った。

体重数トンはある巨体が、まるでボールのように軽々と放り投げられ、大木をへし折りながら地面に叩きつけられる。

「んふふ、お肉ゲットー!」

その中心に立っていたのは、漆黒のスライムスーツに身を包んだ獣人の少女、デルタ。

彼女は尻尾を激しく振りながら、獲物の上に飛び乗った。

その全身からは、抑えきれない野生の闘気と、狩りの高揚感が溢れ出ている。

「今日のデルタ、絶好調! ボスに褒めてもらう!」

彼女が獲物の喉笛に牙を突き立てようとした、その時だった。

「いい動きだね。……バネがある」

頭上から降ってきた声に、デルタの耳がピクリと反応した。

彼女は即座に獲物を放置し、四つん這いになって警戒態勢を取る。

「誰っ!?」

木漏れ日の中、枝の上に腰掛けている人影があった。

金色の髪、長い耳、そして眠たげな金色の瞳。

手にはなぜか、どこかで摘んできた野イチゴの束を持っている。

「あ、強いボス(その2)!」

デルタの警戒が一瞬で解けた。

彼女の認識では、世界最強のボス(シャドウ)に次ぐ、あるいは並び立つかもしれない「強いボス」、武神ベアトリクスだ。

「やぁ、デルタ。……狩りの邪魔をして悪かったね」

ベアトリクスは枝からふわりと飛び降りた。

着地音がない。気配が希薄だ。

デルタの本能が、「絶対に勝てない相手」だと告げている。だからこそ、デルタは彼女に対して敵意ではなく、服従と親愛を示す。

「ボスー! 遊んで!」

デルタは地面を蹴った。

狩りの続きではない。全力のじゃれつきだ。

彼女は弾丸のような速度でベアトリクスに飛びかかった。

普通の人間なら、じゃれつかれただけで内臓破裂コースのタックル。

だが、ベアトリクスは野イチゴを口に放り込みながら、空いている手でデルタの突進を受け止めた。

ドスッ。

「おっと。……元気だねぇ」

ベアトリクスは一歩も動かず、デルタの頭を鷲掴みにしていた。

デルタは空中で手足をバタバタさせている。

「うー! ボス強い! デルタ負けない!」

「はいはい、よしよし」

ベアトリクスは、デルタの頭をワシャワシャと撫で回した。

犬耳の付け根、後頭部、そして首筋。

そこは獣人にとっての急所であり、同時に信頼する相手にしか触らせない快楽のポイントでもある。

「あう……ふあ……」

デルタの力が抜けた。

ゴロゴロと喉を鳴らし、尻尾の振りがゆっくりになる。

「そこ……気持ちいい……」

「ここかい? 凝ってるねぇ」

ベアトリクスは、魔力を指先に込めてマッサージを始めた。

二千年の経験を持つ彼女の手技は、筋肉の繊維をほぐし、魔力回路の詰まりを解消する神業だ。

デルタは完全に骨抜きにされ、地面にペタリと座り込んでしまった。

「ん〜……ボス、好き……」

デルタはベアトリクスの太ももに頭を擦り付けた。

完全に忠犬のポーズである。

組織内では「暴走機関車」として恐れられている特攻隊長が、この魔人の前ではただの甘えん坊の子犬になってしまう。

ベアトリクスは、心地よさそうに目を細めるデルタを見下ろしながら、ふと懐かしそうな表情を浮かべた。

「……思い出すね」

彼女はデルタのふかふかの毛並みを梳きながら呟いた。

「昔、ペットを飼っていてね。神狼と呼ばれる巨獣だった」

「しんろー?」

デルタが首を傾げる。

「ああ。フェンリルという名でね。……山脈一つを縄張りにする、白銀の狼だったよ。大きさは君の獣化時よりも大きかったかな」

ベアトリクスは虚空を見つめた。

千年以上前の記憶。

雪深い山奥で、彼女が育てた一匹の狼。

人間からは「災厄の魔獣」として恐れられ、神として崇められた存在。

「あいつは強かったよ。……牙は鋼鉄を砕き、咆哮は吹雪を呼んだ。人間なんて、あいつの前では餌にすらならなかった」

「デルタより強い?」

デルタが対抗心を燃やす。

「どうだろうね。……純粋な破壊力ならあいつかもしれないが、君にはシャドウから授かった『スライム』という武器と、魔力制御の技術がある。……いい勝負かもしれない」

ベアトリクスはデルタの顎の下を撫でた。

「でも、あいつは寂しがり屋だった。……どれだけ暴れても、最後は私の膝の上で眠るんだ。君みたいにね」

「ふふん! デルタはボス(シャドウ)の隣で寝るのが一番好き!」

「そうだね。……君には帰る場所がある。従うべき主がいる。それは、獣にとって最大の幸福だ」

ベアトリクスは少しだけ寂しげに笑った。

彼女のフェンリルは、最後は彼女を守るために、押し寄せる勇者パーティ(当時の人類最強戦力)と戦い、散った。

ベアトリクスが「魔人」として覚醒する前の、数少ない「家族」の記憶。

「デルタ。君の強さは、その『忠誠』にある」

ベアトリクスはデルタの目を見た。

「君は迷わない。疑わない。……ただボスのために牙を研ぎ、敵を喰らう。その純粋さが、君の魔力を鋭く、重くしているんだ」

「うん! デルタ、ボスのためなら何でもやる! 世界中のお肉、全部ボスにあげる!」

「あはは、全部はいらないと思うけどね。……でも、その意気だ」

ベアトリクスはポケットから、干し肉(最高級ドラゴンの燻製)を取り出した。

「ほら、おやつだよ。……いい子にしてたご褒美だ」

「わーい! お肉ー!」

デルタが飛びついて食らいつく。

ガツガツと食べる姿は野性味あふれるが、その表情は幸せそのものだ。

「よく噛んで食べるんだよ。……君の胃袋は丈夫だけど、味わわないと勿体ないからね」

「んぐ、んぐ……。おいひい!」

ベアトリクスは、食べているデルタの背中を優しく叩いた。

この子は、かつてのフェンリルよりも幸せになるだろう。

なぜなら、彼女の主であるシャドウは、決して彼女を見捨てないし、彼女より先に死ぬこともない(たぶん)からだ。

「デルタ」

「なに? おかわり?」

「君は七陰の中でも、一番『生き物』として完成されているよ。……難しいことは考えなくていい。その鼻と、牙と、本能を信じなさい。それが君の最強への道だ」

「よくわかんないけど……デルタ、最強になる!」

「ああ、なれるさ。……私が保証する」

ベアトリクスは立ち上がった。

デルタとのスキンシップで、少し心が温まった気がした。

野生のエネルギーは、魔人にとっても良い活力になる。

「もう行くの?」

デルタが名残惜しそうに見上げる。

「うん。……まだ会わなきゃいけない子がいるからね」

ベアトリクスは森の奥、アレクサンドリアの居住区とは逆方向にある、隔離された区画を見据えた。

そこには、常に爆発音と怪しい煙が立ち上る、マッドサイエンティストの巣窟がある。

「次は……イータのところかい」

「イータ? イータはずっと寝てるよ。……たまにデルタに変な首輪つけようとするから嫌い」

デルタが嫌そうな顔をする。

実験体にされかけたことがあるのだろう。

「ふふ、あの子は好奇心の塊だからね。……君とはまた違った意味で『獣』だよ」

知識欲という名の獣。

睡眠欲という名の泥沼。

「デルタは狩りの続きする!」

「頑張りな。……怪我するんじゃないよ」

「うん! バイバイ、ボス!」

デルタは元気よく手を振り、再び森の中へと駆け出して行った。

その背中は、迷いなく、力強く、そして自由だった。

ベアトリクスはそれを見送り、踵を返した。

さて、次は「知」の深淵へ。

あるいは、混沌の実験室へ。

彼女は音もなく木々を渡り、アレクサンドリアの地下へと続く隠し通路の入り口へと向かった。

そこから漂ってくるのは、薬品の刺激臭と、甘ったるいコーヒーの香り。

そして、何やら不穏な機械の駆動音。

「……やれやれ。あそこは空気清浄が必要かもしれないね」

ベアトリクスは苦笑しながら、暗闇の中へと足を踏み入れた。

七陰第七席、イータ。

組織の技術開発を担う天才建築家であり、シャドウガーデン随一の変人。

彼女との対話は、デルタのような肉体言語(スキンシップ)とは全く異なる、奇々怪々なものになる予感がしていた。

                 *

地下通路を抜けた先には、広大な空間が広がっていた。

そこは、古代の遺跡をそのまま利用し、さらに増改築を繰り返した巨大なラボだった。

天井には無数の配管が張り巡らされ、得体の知れない液体が流れている。

床には設計図や失敗したアーティファクトの残骸が散乱し、足の踏み場もない。

壁一面にはモニター(魔道具による映像投影装置)が並び、世界中のデータが高速で流れている。

「相変わらず、カオスだね」

ベアトリクスは、落ちていたネジを踏まないように浮遊しながら進んだ。

部屋の中央には、巨大なカプセルのような装置があり、その中でスライムが蠢いている。

シャドウのスライムスーツの解析と、量産化のための研究設備だろうか。

「……むにゃ」

部屋の隅にある、書類の山の中から声がした。

ベアトリクスが近づくと、そこには白衣を毛布代わりに被り、丸くなって眠るエルフの少女がいた。

目の下には濃いクマ。

髪はボサボサ。

手には飲みかけのエナジードリンク(ガンマ印)が握られている。

七陰第七席、イータ。

「……あと5分……」

寝言を言いながら、イータは書類の山にさらに深く潜り込もうとする。

ベアトリクスはしゃがみ込み、その寝顔を覗き込んだ。

デルタのような野生の可愛げはない。

あるのは、限界まで酷使された脳髄を休ませようとする、生命維持のための強制シャットダウンだ。

「起きなよ、イータ。……面白い話を持ってきたんだがね」

ベアトリクスは、イータの耳元で囁いた。

普通なら起きないだろう。

だが、彼女は知っている。この天才を起こすための魔法の言葉(キーワード)を。

「……古代の『自動人形(オートマタ)』の動力炉の構造についてなんだけど」

ピクリ。

イータの耳が動いた。

「……シャドウが言っていた『永久機関』のヒントになるかもしれないよ」

ガバッ!!

イータが跳ね起きた。

充血した目が、カッと見開かれる。

その動きは、ゾンビ映画のようでもあり、獲物を見つけた捕食者のようでもあった。

「……詳しく」

掠れた声。

だが、その瞳には狂気的な知性の光が宿っていた。

ベアトリクスはニヤリと笑った。

デルタが「肉」に釣られるなら、この子は「知」に釣られる。

どちらも本能に忠実で、扱いやすい。

「やぁ、おはようイータ。……意識調査の時間だよ」

ベアトリクスは、散らかったデスクの端に腰掛けた。

ここから始まるのは、科学(マッドサイエンス)と魔術、そして二千年のロストテクノロジーを巡る、深遠なる対話。

イータは涎を拭い、眼鏡をかけ直した。

「……ベアトリクス。……不法侵入です」

「堅いことは言いっこなしさ。……さあ、始めようか」

地下の研究室に、二人の怪物の声が響き始める。

それは、シャドウガーデンの技術力を数百年分進化させるかもしれない、危険な授業の幕開けだった。

 

 

アレクサンドリアの地下深くに広がる、混沌とした研究室。

薬品の刺激臭と、魔力駆動炉の唸るような重低音が支配するその空間で、二人の異才が対峙していた。

書類の山から這い出してきたエルフの少女、イータ。

彼女は眠そうな目をこすりながら、手近にあったエナジードリンク(カフェイン増量特別製)の蓋をプシュッと開けた。

「……んぐ、んぐ……。ぷはぁ」

一気に飲み干し、空き缶を放り投げる。

缶は放物線を描き、部屋の隅にある「リサイクル用」と書かれた(しかし溢れかえっている)ゴミ箱に見事に吸い込まれた。

「……で、自動人形(オートマタ)の話だっけ……?」

イータは白衣の袖で口元を拭い、眼鏡の位置を直した。

その瞳孔は、先ほどまでの睡眠欲が嘘のように開ききり、知的好奇心の光を宿している。

ベアトリクスは、散らかったデスクの上――唯一スペースが空いていた端っこ――に腰掛け、脚をブラブラとさせていた。

「そうさ。……君たちはディアボロス教団を『敵』として認識し、排除しようとしている。それは正しい。あいつらは世界の癌だ」

ベアトリクスは、イータが分解中だった古代のアーティファクト(教団の拠点から奪取したもの)を手に取った。

それは複雑な紋様が刻まれた金属球で、内部には生物の神経のような有機的な回路が埋め込まれている。

「でもね、認めるべきところは認めなきゃいけない」

彼女は金属球を指先で回した。

「教団の褒められた点は一つ、その技術力の高ささ」

「……技術力……?」

イータが首を傾げる。

彼女にとって、教団の技術は「古臭い」か「非効率」なものが多いという認識だった。

「あいつらは……無駄が多い……。回路の接続も雑だし……美しくない……」

「それは君が『完成された技術(シャドウの叡智)』を知っているからだよ」

ベアトリクスは苦笑した。

「教団はね、持たざる者たちの集まりなんだ。……私やシャドウのような、規格外の魔力も才能もない凡人たちが、どうすれば永遠の命を得られるか。どうすれば世界を支配できる力を持てるか。……数千年の間、それだけを考え続け、積み上げてきた」

彼女は金属球をイータに投げ渡した。

「見てみなよ。その球体の中にある神経回路。……それは人工的に培養された魔獣の神経を、金属に癒着させたものだ。……拒絶反応を抑え込み、魔力伝導率を維持したまま、千年経っても腐らない加工技術。……これだけは、天才のひらめきだけじゃ作れない。狂気的な『執念』が生んだ結晶だよ」

イータは金属球を受け取り、まじまじと観察した。

そして、デスクから拡大鏡を取り出し、覗き込む。

「……なるほど……。防腐処理の術式が……多重構造になってる……。それに……この神経の繋ぎ方……あえて歪ませることで……魔力の滞留時間を伸ばしてる……?」

イータの口元が、ニチャリと歪んだ。

「……へぇ。面白い……。非効率だと思ってたけど……『耐久性』という点では……マスターの知識とは違うアプローチ……」

「だろう? 彼らは時間を味方につけたんだ。……私が眠っている間も、彼らは地道に、泥臭く、技術を更新し続けてきた」

ベアトリクスは、研究室の天井を見上げた。

そこには、イータが開発中の新型魔力炉が鎮座している。

「君たちの技術は革新的だ。シャドウの知識(アイディア)と、君の実装力(エンジニアリング)は、歴史を数百年飛ばしている。……でも、教団の技術は『歴史そのもの』だ。侮ってはいけないよ」

「……ん。分かった」

イータは金属球を分解台にセットし、精密ドライバーのような工具を手にした。

「……教団の技術……全部バラして……私のものにする……。使えるものは……全部使う……。それがマスターの教え……」

「貪欲だねぇ。……それでこそ技術屋だ」

ベアトリクスは満足げに頷いた。

「で、だ。……さっき話した『自動人形』のことだけどね」

「……聞きたい……。動力源は……? 制御OSは……?」

イータが食いつく。

「私が現役だった頃……つまり二千年前だね。東の果てにある島国で、とある人形師が作った最高傑作さ」

ベアトリクスは語り始めた。

「動力は『竜の心臓(ドラゴンハート)』。……制御系は、死んだ人間の脳を魔力的にコピーした擬似人格。……全身がオリハルコンの骨格と、特殊な粘菌(スライムの祖先のようなもの)で覆われていた」

「……スライム……?」

「そう。君たちが今使っているスライムスーツの原型みたいなものさ。……その人形はね、主人の命令だけで動き、疲れを知らず、自己修復し、戦場を蹂躙した。……名前は『機神(デウス・マキナ)』」

イータの手が止まった。

彼女の脳内で、パズルのピースが組み合わさっていく。

「……竜の心臓と……スライムの装甲……。それに擬似人格……」

イータはブツブツと呟きながら、計算機(魔道具)を叩き始めた。

「……理論上は可能……。でも……竜の心臓の出力を……制御しきれないはず……。熱暴走する……」

「そこで教団の技術さ」

ベアトリクスが指を鳴らした。

「教団は今、その『機神』の残骸を回収し、修復しようとしているという噂がある。……もし彼らが、あの執念深い保存技術と、現代の魔力制御技術を組み合わせたら……?」

「……厄介……」

イータは顔をしかめた。

「……マスターの手を煩わせるまでもないけど……デルタあたりだと……相性悪いかも……」

「物理攻撃が効きにくいからね。……そこで君の出番だよ、イータ」

ベアトリクスは、イータの肩に手を置いた。

「君なら作れるんじゃないか? ……古代の機神を上回る、最強の対抗兵器を」

イータの目が怪しく光った。

それはマッドサイエンティストの目。

未知への挑戦権を提示され、脳内麻薬がドバドバと出ている目だ。

「……作れる」

イータは断言した。

「……マスターの叡智は……世界一……。古代の遺物なんて……ポンコツにしてやる……」

彼女は立ち上がり、ホワイトボード(壁一面の黒板)に向かった。

猛烈な勢いで数式と設計図を書き殴り始める。

「……動力は……高純度魔力結晶の直列繋ぎ……。装甲は……スライムにミスリル粉末を混ぜて硬度強化……。思考回路は……アルファの戦闘データをベースに……」

ベアトリクスはその様子を眺めながら、感嘆のため息をついた。

この子は、ただの眠り姫ではない。

一度スイッチが入れば、食事も睡眠も忘れて没頭する、知識の怪物だ。

「……ふふ。楽しみだね」

ベアトリクスは、書き殴られる設計図の端に、古代語でいくつか補足式を書き加えた。

「……ん? これ……?」

イータが手を止める。

「古代の冷却術式さ。……これを使えば、出力があと30%は上がるよ」

「……採用」

イータは即座に取り入れた。

使えるものは誰であろうと使う。プライドよりも効率。それが彼女の流儀。

しばらくの間、二人は無言で、しかし濃密なコミュニケーションを取った。

数式と魔力理論による対話。

二千年の経験と、最先端の発想が融合し、新たな兵器の概念が生まれていく。

やがて、イータがペンを置いた。

「……できた」

ホワイトボードには、異形の巨人の設計図が描かれていた。

「……名付けて……『イータ式・対機神用決戦兵器(仮)』……」

「ネーミングセンスはともかく、中身は凶悪だね」

ベアトリクスは笑った。

これなら、教団が何を復活させようと、正面から叩き潰せるだろう。

「……報酬」

イータが振り返り、手を差し出した。

「……情報はタダじゃない……。ベアトリクス様……対価を要求する……」

「おや、しっかりしているね。……何が欲しいんだい? 古代の金貨か? それとも秘伝の魔導書か?」

「……いらない」

イータは首を横に振った。

そして、じっとベアトリクスの体を見つめた。

舐めるように。解剖するように。

「……貴女の……身体データ……」

「……ほう?」

「……魔人化した時の……細胞の変化……。魔力回路の書き換えプロセス……。それと……ディアボロス細胞との適合率……」

イータは聴診器のような魔道具を取り出し、ジリジリと迫ってきた。

「……マスター以外で……唯一の成功例……。貴重なサンプル……。ちょっとだけ……解剖させて……?」

「解剖は勘弁しておくれよ」

ベアトリクスは苦笑して後ずさる。

デルタとは違う意味で、この子の欲望もストレートで危険だ。

「……じゃあ……血液100ccと……皮膚片……あと髪の毛……」

「吸血鬼かい、君は」

ベアトリクスはため息をつきつつ、指先を剣で少し傷つけ、小瓶に血を垂らした。

さらに、髪の毛を数本抜いて渡す。

「これで勘弁しな。……これ以上は、シドに怒られる」

「……ん。妥協する」

イータは小瓶を宝物のように受け取り、光にかざしてうっとりと眺めた。

「……すごい……。魔力の密度が……常人の500倍……。これが……魔人の血……」

彼女はすぐにその血を分析機にかけようと動き出した。

もうベアトリクスのことなど眼中にない。

研究対象(データ)さえ手に入れば、用済みということだ。

「現金な子だねぇ」

ベアトリクスは肩をすくめた。

だが、嫌いではない。

この徹底した合理主義と探求心こそが、シャドウガーデンを技術面で支えているのだから。

「じゃあ、私は行くよ。……長居すると、実験台にされそうだしね」

「……ん。バイバイ……」

イータは背中を向けたまま、ヒラヒラと手を振った。

既に意識は顕微鏡の中の世界に没入している。

ベアトリクスは研究室の出口へと向かった。

扉を開けると、そこにはまた別の空気が流れていた。

無機質な地下通路。

だが、その先からは、優雅なピアノの旋律が微かに聞こえてくる。

「さて……」

ベアトリクスは耳を澄ませた。

その旋律は美しく、繊細で、しかしどこかナルシスティックな響きを含んでいる。

「最後は、あの子だね。……ある意味、一番『作り物』にこだわっている子」

彼女は足音を忍ばせ、音楽の聞こえる方角へと歩き出した。

七陰第五席、イプシロン。

魔力操作の天才であり、そして自らの体型に並々ならぬ執着(コンプレックス)を持つ少女。

「スライムの装甲……か」

ベアトリクスは、先ほどのイータとの会話を思い出す。

イータはスライムを兵器の装甲として使おうとした。

だが、イプシロンはスライムを「自分の皮膚」として、美貌の一部として使っている。

「技術の使い道も人それぞれだねぇ」

彼女はクスクスと笑いながら、楽屋――という名の私室――の扉の前に立った。

中からは、演奏の音と共に、

「ああ、主様……私の奏でる音色、届いておりますか……?」

という、陶酔しきった独り言が聞こえてくる。

「……入るのに勇気がいるね、これは」

ベアトリクスは一瞬ためらったが、意を決してノックもせずに扉を開けた。

「やぁ、イプシロン。……いい音色だね」

「ひゃうっ!?」

演奏がピタリと止まり、奇妙な悲鳴が上がった。

次の瞬間、部屋の中はまた別のカオス――「秘密」を守ろうとする少女と、それを全て見透かしている魔人の攻防――に包まれることになる。

夜は更けていく。

シャドウガーデンの個性豊かな面々との対話は、魔人にとっても刺激的な「意識調査」となっていた。

地下通路を抜け、美しい旋律が流れる一室へ。

そこは、武骨な研究室とは打って変わり、洗練された調度品と防音魔術が施された、芸術家のための聖域だった。

部屋の中央、黒塗りのグランドピアノに向かう少女が一人。

七陰第五席、イプシロン。

彼女は鍵盤の上で指を踊らせ、主であるシャドウから授かった「陰の叡智」の一つである楽曲を奏でていた。

「……素晴らしい旋律だ」

曲の切れ目に合わせ、ベアトリクスは音もなく部屋に滑り込んだ。

イプシロンの肩がビクリと跳ねる。彼女は演奏の余韻に浸る間もなく、反射的に自身の胸元を腕で隠すような仕草をした。

「ベ、ベアトリクス様……。ノックくらいはしていただきたいものです」

イプシロンは椅子から立ち上がり、不満げに、しかし礼儀正しく一礼した。

彼女の視線は油断なくベアトリクスを観察している。

この魔人は全てを見透かす。自身の魔力操作の極致である「スライムボディスーツ(着脱式豊胸)」の秘密さえも。

「すまないね。あまりに綺麗な音色だったから、水を差すのが惜しかったんだ」

ベアトリクスは部屋を見渡した。

壁には音楽家の肖像画や楽譜が飾られ、棚には数々の楽器が並べられている。

ここは、彼女が「七陰」としての顔ではなく、「奏者」としての顔を持つ場所。

「主様から頂いた楽曲を練習していたのです。……この曲には、世界の真理と、主様の深淵なる孤独が込められていますから」

イプシロンは誇らしげに語る。

彼女にとって、シャドウからもたらされた音楽は、単なる芸術を超えた聖典に近い。

「ふむ。……いい曲だ」

ベアトリクスはピアノに近づき、その黒鍵を指先で愛おしそうに撫でた。

「ピアノ借りていいかな?」

「え……?」

イプシロンは目を瞬いた。

武神ベアトリクス。剣の頂点。破壊の化身。

その彼女が、繊細な楽器を演奏する?

「あ、いえ……構いませんが。ベアトリクス様が楽器を嗜まれるとは存じ上げませんでした。てっきり、戦い以外には興味がないものかと」

イプシロンの言葉には、わずかな疑念が含まれていた。

ピアノは甘くない。

主様の曲は、高度な技術と表現力を要求する。力任せに鍵盤を叩くだけでは、雑音にしかならない。

ベアトリクスは椅子に座り、鍵盤蓋を開けた。

その所作は、剣を抜く時と同じように自然で、無駄がなかった。

「意外そうな顔をしてるのはわかるけどそれはそれとして心外だな。2000年も生きてるんだ、楽器の一つ二つ三つくらいは極めたよ」

彼女はポロロン、と試し弾きをした。

その音色は、粒が揃い、透き通るような響きを持っていた。

イプシロンの目が驚きに見開かれる。

素人の音ではない。

「暇つぶしだよ。……剣を振るのに飽きた時、私は音に救いを求めた」

ベアトリクスは、虚空を見つめながら語り出した。

「800年前の伝説のエルフの音楽家、ユーシェ。私が名乗った一つの名前さ」

「ユ、ユーシェ……ッ!?」

イプシロンが息を呑む。

音楽を志すエルフならば、知らぬ者はいない伝説の名。

既存の音楽理論を覆し、「魂の共鳴」を説いたとされる、吟遊詩人の始祖的存在。

その正体が、目の前の武神だというのか。

「ユーシェは……歴史の彼方に消えた幻の奏者。その指先から紡がれる音は、枯れた大地に花を咲かせ、荒れ狂うドラゴンすら眠らせたと言われる……」

「尾ひれがついているね。……ドラゴンは眠らせたけど、花は咲かないよ」

ベアトリクスは苦笑し、スッと背筋を伸ばした。

空気が変わる。

戦場における殺気とは違う、静謐で、厳かな集中力。

「聴かせてあげよう。……私の『月光』を」

彼女の指が、鍵盤に落ちた。

第一楽章。

静かに、湖面を揺らすさざ波のように。

「……ッ!」

イプシロンは言葉を失った。

それは、彼女が先ほどまで弾いていた曲と同じものだ。

『月光』。

主様が「ベートーヴェン」という名の異世界の賢者から受け継いだ(という設定の)名曲。

だが、音が違う。

イプシロンの演奏が、完璧な技巧と主様への忠誠によって構成された「精密な建築物」だとするなら。

ベアトリクスの演奏は、「夜そのもの」だった。

二千年の夜。

数え切れないほどの孤独。

見送ってきた無数の死。

それでも昇り続ける月の、冷たく、残酷で、美しい光。

(重い……。なんて、重く、優しい音……)

イプシロンの目から、自然と涙が溢れた。

技術ではない。

これは、人生(じかん)の重みだ。

彼女がどれほどの夜を越えてきたのか。その感情の奔流が、指先から鍵盤を通り、空気そのものを震わせている。

第三楽章に入ると、曲は激しさを増す。

嵐のような激情。

魔人が抱える破壊衝動と、それをねじ伏せる理性の葛藤。

ピアノが悲鳴を上げているようで、しかし決して濁らない。

ジャンッ!

最後の和音が叩きつけられ、余韻が部屋に溶けていく。

静寂が戻った部屋で、イプシロンは震えていた。

感動と、そして敗北感に。

「……お粗末だったかな」

ベアトリクスは鍵盤から手を離し、ふぅと息を吐いた。

「指が鈍っているね。……800年のブランクは大きい」

「いえ……。見事でした。……言葉もありません」

イプシロンは濡れた瞳を拭い、深く頭を下げた。

「私が弾いていたのは、ただ音符をなぞっていただけだったのかもしれません。……貴女様の演奏には、そこにあるべき『物語』がありました」

「君の演奏も悪くないよ、イプシロン」

ベアトリクスは立ち上がり、イプシロンに向き直った。

「君の音には『憧れ』がある。……主様への、純粋で真っ直ぐな想いが乗っている。それは、私のような擦り切れた老人には出せない音だ」

彼女はイプシロンの肩に手を置いた。

そして、そのまま視線を少し下げ、イプシロンの胸元(スライムスーツ)を見た。

イプシロンがびくりと身を強張らせる。

「……その『魔力操作』もね」

ベアトリクスは小声で囁いた。

「え……?」

「君は、自分の体型をごまかすためにスライムを使っている。……だがね、それを四六時中、寝ている間も維持し、質感や揺れ、体温まで完璧にシミュレートし続けることが、どれほどの難業か」

ベアトリクスは、感嘆の色を浮かべていた。

「それはもはや、芸術(アート)の領域だよ。……単なる見栄やコンプレックスで到達できるレベルじゃない。君のその執念と、緻密な魔力制御技術は、ピアノの演奏と同じく『神業』だ」

イプシロンは呆然とした。

今まで、彼女はこの秘密がバレることを何よりも恐れていた。

それは「偽物」だと指弾されるのが怖かったからだ。

だが、この魔人は違った。

その「偽物を作り続ける技術」そのものを、一つの強さとして、才能として認めたのだ。

「誇りなさい、イプシロン。……君は、世界で一番美しい『嘘』をつける奏者だ」

「ベアトリクス様……」

イプシロンの胸が熱くなった。

主様以外に、これほど自分の本質を理解し、肯定してくれる者がいただろうか。

「ありがとうございます……。そのお言葉、私の新たな誇りとします」

「うん。……これからも、いい音を聴かせておくれ」

ベアトリクスは、ピアノの蓋を閉じた。

「さて、そろそろ行くよ。……夜明けが近い」

「もう行かれるのですか? お茶くらいは……」

「いや、まだ最後の『問題児』が残っているからね」

ベアトリクスは窓の方を見た。

外はまだ暗いが、東の空がわずかに白み始めている。

「問題児……ですか?」

「ああ。……組織に属していながら、誰よりも自由に、誰よりも孤独に空を飛ぶ『猫』さ」

イプシロンは納得したように頷いた。

七陰第六席、ゼータ。

諜報と隠密を担う彼女は、メンバーの中でも単独行動が多く、その真意が読めない存在だ。

「あの子は今、どこに?」

「高いところだよ。……いつだって、世界を見下ろせる場所にいる」

ベアトリクスは窓を開けた。

冷たい夜風が吹き込んでくる。

「ありがとう、イプシロン。ピアノ、楽しかったよ」

「こちらこそ。……また、連弾でも」

「いいね。……今度は主様も誘って、トリオでもやろうか」

「まあ! それは素敵ですわ……いえ、素敵です!」

イプシロンの輝くような笑顔に見送られ、ベアトリクスは窓から飛び出した。

黄金の粒子を纏い、重力を無視して空へと舞い上がる。

眼下には眠る王都。

そして、古都アレクサンドリアの全景。

ベアトリクスは、感覚を研ぎ澄ませた。

魔力感知の網を広げ、特定の波長を探す。

風のように掴みどころがなく、しかし鋭いナイフのような気配。

(……いた)

場所は、拠点の最も高い尖塔の上。

月が一番近くに見える場所。

ベアトリクスは軌道を変えた。

風を切る音すら消し、夜の一部となって接近する。

尖塔の頂には、一人の獣人の少女が座っていた。

金色の獣耳、長い尻尾。

膝を抱え、巨大な月を背にして、退屈そうに下界を見下ろしている。

第六席、ゼータ。

彼女はまだ、背後に迫る魔人の気配に気づいていない――いや、気づいていて、あえて無視しているのかもしれない。

ベアトリクスは音もなく、彼女の背後の空間に着地した。

足元には瓦屋根。頭上には星空。

最後の対話の舞台は整った。

(さて、この気まぐれ猫と、どう遊ぼうか)

ベアトリクスは口元を緩め、その小さな背中に声をかけるタイミングを計った。

夜の終わり、そして朝の始まりの境界線で。

最後の「意識調査」が、幕を開けようとしていた。

 

古都アレクサンドリアの朝霧が、まだ街の輪郭をあやふやにぼかしている刻限。

拠点の最上部に位置する尖塔の頂きに、一人の獣人の少女が佇んでいた。

七陰第六席、ゼータ。

金色の獣耳を風になびかせ、長い尻尾をゆらりと揺らす。

彼女は膝を抱え、薄れゆく星空と、昇りくる太陽の境界線を、冷めた瞳で見つめていた。

(……平和だ)

眼下には、シャドウガーデンによって統治され、繁栄する古都。

その平和を支えているのは、彼女たちが積み上げた骸の山だ。

だが、ゼータにとってそんなことはどうでもいい。

彼女が見ているのは、もっと遠く。

この世界の理(ことわり)そのものを書き換え、主(あるじ)であるシャドウが永遠に君臨する未来だけ。

(主は優しい。……だから、汚れ仕事は私がやる)

彼女は決意を新たにするように目を細めた。

気配はない。

彼女の隠密スキルは、七陰の中でも突出している。

大気と同化し、存在を希釈する技術。

今の彼女を見つけられる者は、この世界に主以外存在しない――はずだった。

「わっ!」

「ひゃあぅ!?」

ゼータの喉から、猫が踏まれたような情けない悲鳴が漏れた。

ビクッ!! と全身が跳ね上がり、尻尾がブラシのように逆立つ。

反射的に爪を伸ばし、背後を切り裂こうと振り返るが、そこには誰もいない。

「上だよ」

「にゃっ!?」

見上げれば、尖塔のさらに上、避雷針の先端に、片足立ちでバランスを取っているエルフがいた。

黄金の粒子を朝日に煌めかせる、武神ベアトリクス。

彼女はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、完全に虚を突かれたゼータを見下ろしていた。

「……ッ、ベアトリクス……」

ゼータは瞬時に冷静さを取り戻そうと咳払いし、逆立った尻尾を無理やり落ち着かせた。

顔が熱い。

クールな諜報員としての威厳が、今の「ひゃあぅ」で台無しだ。

「……驚かせないでほしい。心臓に悪い」

ゼータは不満げに睨みつけた。

だが、内心では戦慄していた。

(気配がなかった。……接近を許したどころか、背後で声をかけられるまで認識できなかった)

ベアトリクスはひらりと降り立った。

瓦屋根の上に、音もなく着地する。

「修行不足だね、ゼータ。……猫じゃあるまいし、そんなに飛び上がらなくてもいいだろう」

「……誰のせいだと思ってる」

「君のせいさ」

ベアトリクスは、ゼータの鼻先で指を振った。

「カゲノー領のあの邸宅で、君に気配の殺し方、世界への同一化、そして何より存在の殺し方を仕込んだのは私さ。……忘れたとは言わせないよ」

ゼータの記憶がフラッシュバックする。

数年前。

彼女が悪魔憑きから救われ、主の下で力をつけ始めた頃。

主が留守の間に、ふらりと現れた謎のエルフ。

彼女は「シドの知り合い」とだけ名乗り、幼いゼータを森の奥へと連れ出し、地獄のような――いや、理不尽なまでの――しごきを与えた。

「……忘れるわけがない」

ゼータは苦々しく答えた。

「泥の中に三日間埋められたり、魔獣の巣穴に放り込まれて『気配を消さないと食われるよ』と放置されたり……。あれは訓練じゃない。拷問だ」

「効果はあっただろう? あのスパルタまたやりたいのかい?」

ベアトリクスが目を細める。

その瞳の奥にあるのは、冗談とも本気ともつかない光。

「……遠慮する」

ゼータは距離を取った。

この魔人は、冗談で本当にやりかねない。

「でも、おかげで君は『空気』になれるようになった。……他の七陰にはない、君だけの特質だ」

ベアトリクスは評価した。

アルファは「統率」、デルタは「暴力」、イプシロンは「精密」。

そしてゼータは「虚無」。

世界から自分を切り離し、観測者となる力。

「感謝はしている。……あんたの教えがなければ、私は今の任務を遂行できていない」

「任務、ねぇ」

ベアトリクスは尖塔の縁に座り込み、足をぶらつかせた。

「君は危うい橋を渡っているね、ゼータ。……アルファたちとは違う道を歩いている」

ゼータの表情から感情が消えた。

彼女の独自の動き。教団の技術を解析し、魔人ディアボロスの復活を目論んでいること。

それは、シャドウガーデンの方針とは異なる、反逆にも近い独断専行。

「……全ては主のためだ」

ゼータは短く答えた。

「主は永遠であるべきだ。……この世界は不完全で、愚かだ。主が神となり、全てを管理しなければ、平和など訪れない」

彼女の瞳に、暗い炎が宿る。

それは信仰を超えた、狂信的な執着。

「アルファたちは甘い。……主の優しさに甘えている。私は違う。主が手を汚さずに済むよう、私が全ての罪を背負う」

その言葉を聞いて、ベアトリクスは心の中で盛大に苦笑した。

(あちゃー……。この子もまた、盛大に拗らせちゃってるねぇ)

ベアトリクスは知っている。

シド・カゲノーという少年が、そんな高尚なことなど微塵も考えていないことを。

彼は「永遠の支配者」になりたいわけでも、「神」になりたいわけでもない。

ただ、「なんかカッコいい陰の実力者」を演じて、適当に無双して、気持ちよくなりたいだけなのだ。

世界平和も、教団の殲滅も、彼にとっては「ごっこ遊び」の舞台装置に過ぎない。

だが、ゼータにとって彼は絶対神だ。

「主様は深遠な考えをお持ちだが、優しさゆえに非情になりきれない。だから私が代わりにやる」という、完璧な誤解に基づいた忠義。

(シド……君の演技力が高すぎるのも問題だね。こんな可愛い猫ちゃんが、君のために世界を敵に回そうとしているよ)

しかし、ベアトリクスはそれを指摘しなかった。

ここで「あいつ、ただの中二病だよ」と言ったところで、ゼータは信じないだろうし、何よりシドの「遊び」を台無しにしてしまう。

「……主は、それを望んでいるのかい?」

ベアトリクスは試すように尋ねた。

「主は何も仰らない。……だが、私は理解している。主の視座は、私たちが見ている地平の遥か先にあることを」

ゼータは断言した。

「あんたには分からないだろうな、ベアトリクス。……あんたは強いが、主の『深淵』には届いていない」

「ふふ、手厳しいね」

ベアトリクスは笑った。

確かに届いていない。シドの「深淵(という名の妄想)」は、二千年生きた魔人の理解すら超えているからだ。

「でも、これだけは言っておくよ」

ベアトリクスは立ち上がり、ゼータと向き合った。

「君が背負おうとしている『罪』。……それは重いよ。二千年生きても償いきれないほどにね」

「覚悟の上だ」

「そうかい。……なら、その覚悟の程、少し見せてもらおうか」

ベアトリクスから、殺気が放たれた。

今までのじゃれ合いではない。

本気のプレッシャー。

空気が凍りつき、朝の光さえも色褪せる。

「……やる気か」

ゼータもまた、漆黒の魔力を解放する。

チャクラムを構え、重心を低く落とす。

「意識調査の最後は、実技テストだ。……私の教えた『隠密』が、どこまで通用するか」

「いいだろう。……後悔するなよ、師匠(ババア)」

ゼータの姿が霧散した。

高速移動ではない。光学迷彩でもない。

「気配の消失」。

そこにいるのに、世界が彼女を認識しなくなる。

ベアトリクスは目を閉じた。

視覚はいらない。

聴覚もいらない。

魔力感知すら、今のゼータには通用しないだろう。

(世界に溶け込む……。私が教えた通りだ。いや、それ以上か)

ゼータの才能は「適応」だ。

彼女は環境そのものになりきる。

風になり、影になり、光になる。

ヒュンッ。

死角からの刃。

ベアトリクスの首筋を、チャクラムが掠める。

回避行動すら取らせない、完全な奇襲。

だが。

カィン!

ベアトリクスは指一本で、その刃を弾いた。

「なっ……!?」

虚空からゼータの驚愕の声が漏れる。

「惜しいね。……完全に消えていたよ。殺気も、音も、魔力も」

ベアトリクスは、何もない空間に向かって言った。

「でも、君には『迷い』がある」

「迷いだと……!?」

「主のため、世界のため、罪を背負う覚悟。……そんな御大層な理由で自分を塗り固めているから、最後の一瞬で『私』という自我が漏れ出るんだ」

ベアトリクスが踏み込む。

何もないはずの空間に、彼女の手が伸びる。

ガシッ。

彼女の手は、透明化していたゼータの首を正確に捉えていた。

「が……っ!」

ゼータの姿が実体化する。

首を掴まれ、持ち上げられる。

「本気で消えたいなら、自分すら捨てなよ。……『主のために』なんて考えているうちは、君はまだ世界の一部になれていない」

ベアトリクスは、ゼータを放り投げた。

猫のように着地するゼータ。

彼女は喉をさすりながら、忌々しげにベアトリクスを睨んだ。

「……化け物め」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

ベアトリクスは笑った。

「でも、悪くない動きだった。……5年前、私の手にかみついて泣いていた子猫とは大違いだ」

「泣いてない!」

「はいはい。……君は強くなったよ、ゼータ。それは認める」

ベアトリクスは、朝日に照らされたアレクサンドリアの街を見下ろした。

「君の計画……ディアボロスの復活だっけ? それが主の望みかどうかは、私には分からない(大嘘)。……でも、もし君が道を誤って、主の顔に泥を塗るようなことになったら」

彼女は振り返り、黄金の瞳でゼータを射抜いた。

「その時は、私が君を『しつけ』直してあげる。……あのスパルタ教育の百倍の厳しさでね」

ゼータは息を呑んだ。

恐怖。

だが、それは不快なものではなかった。

誰にも理解されない孤独な道を往く彼女にとって、真正面から叱ってくれる存在は、主以外にはこの魔人くらいしかいない。

「……ふん。余計なお世話だ」

ゼータはそっぽを向いた。

だが、その尻尾は微かに揺れていた。

「さて、朝だ。……腹が減った」

ベアトリクスは伸びをした。

重苦しい空気は霧散し、いつものマイペースなエルフに戻る。

「おい、話は終わりか?」

「終わりさ。君の『意識』は十分に分かった。……主への愛が重すぎて、ちょっと暴走気味だってこともね」

「重くなんかない……!」

「はいはい。……じゃあ、私は行くよ。シドのところへ」

「主の……?」

「ああ。今回の調査結果を報告しなきゃならないしね。……あと、美味しい朝食をたかりに」

ベアトリクスは尖塔の縁に立った。

「ゼータ。……たまには肩の力を抜きな。君が張り詰めすぎると、主も息苦しいかもしれないよ?」

「……主は、そんな柔な方じゃない」

「そうかい。……じゃあね、子猫ちゃん」

ベアトリクスは飛び降りた。

重力を感じさせない落下。

ゼータは一人、尖塔に残された。

朝風が冷たい。

だが、先ほどまでの張り詰めた孤独感は、少しだけ薄れていた。

「……食えないババアだ」

ゼータは呟き、口元を緩めた。

彼女は空を見上げた。

青く澄んだ空。

その向こうに、主の姿を思い描く。

「待っていてください、主。……私は必ず、貴方様に『永遠』を捧げてみせます」

彼女の決意は揺るがない。

だが、ベアトリクスの言葉が、小さな棘のように心に残っていた。

『自分すら捨てなよ』。

その境地に至った時、自分は主の隣にいられるのだろうか。

ゼータは影に溶けた。

彼女もまた、自身の任務へと戻る。

世界の闇を駆ける、一匹の猫として。

                 *

王都ミドガルの学生寮。

シド・カゲノーは、朝の日差しで目を覚ました。

窓の外から、スズメの鳴き声が聞こえる。

「ふわぁ……。よく寝た」

彼はあくびをし、ベッドから起き上がった。

平和なモブの朝だ。

今日はどんな「陰の実力者ムーブ」をしようか。

そんなことを考えながら、窓を開ける。

すると、窓枠に手紙が挟まっていた。

古風な羊皮紙。

そこには、達筆な文字でこう書かれていた。

『意識調査完了。

 君の部下たちは、どいつもこいつも君への愛が重すぎるね。

 特に猫と小説家には注意しなよ。

 追伸:今日の放課後、駅前のパンケーキ屋で待つ。全メニュー制覇に付き合え。

 ――ベアトリクス』

シドは手紙を読み、苦笑した。

「……やれやれ。魔人様も暇だな」

彼は手紙を燃やし、灰を風に流した。

「愛が重い、か。……まあ、カリスマ設定の演出としては悪くない」

シドは勘違いしたまま、満足げに頷いた。

彼の知らないところで、七陰たちがどれほどの覚悟と狂気を抱いているかなど、露ほども知らずに。

「さて、パンケーキか。……金、足りるかな」

シドは財布を確認し、ため息をついた。

最強の魔人との付き合いも、楽ではない。

だが、彼の表情は明るかった。

今日もまた、退屈しない一日が始まりそうだ。

物語は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

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