4月1日
何となくだが、今日から日記を書くことにした。
今日は高校の入学式まで後一週間ぐらい。
新学期に備えて勉強道具の補充をしようと近くに買い物に出掛けた。新品のノートと、ついでに中学まで使っていた古くなった筆箱を買い替えた。
買い忘れがないか確認して、いざ会計に向かおうと思ったらこの日記帳が目に入った。
シンプルな青いデザインにお風呂に浮かべるあのアヒルみたいな絵が書いてある日記帳だった。
新しい季節も巡ってきて、新しい生活も始まる。
それならちょうどいいと、その日記帳を手にとってこうして寝る前に日記を書くことにした。
まぁ、私自身の生き方に特に変わりはないだろうが。
こういうことするのは初めてだ。とにかく続けることを意識してみようと思う。
4月3日
今日は進学先の高校から入学式の日程が送られてきた。
持ち物とかは特になく、制服を着ておけばいいらしい。
高校の制服は紺色のブレザーにチェック柄のスカート。普通だ。まあまあかわいいと思う。男子の方は特に興味がなかったので知らない。
正直な話、私自身は高校に行く意思は特に無かったが親に頼まれたから行くことを決めたので、進学先の学校がどんな学校なのかあまりよく分かってないが……特に心配はしていない。
どんな学校だとしても、やることも、私自身も特に変わらないだろうから。
4月4日
朝起きたら家に芽瑠が居た。
幼馴染みだし、こんなのは今に始まったことではないので特に驚かないが。
……でも私を起こさずに私より先に朝ごはんをお母さんに振る舞われているのはどうかと思う。
なんで芽瑠が食べてる朝ごはんの匂いで私が目覚めなければいけないんだ。
起きた後は特にどこへ行くわけでもなく部屋でだらだらと芽瑠と話していた。
芽瑠も当然の権利の様に小中と同じだったので案の定高校も同じである。私が特に心配してなかった理由だ。本人に言うつもりは微塵もないが。
今日話していて少し驚いたことがあった。芽瑠の制服の話だ。
芽瑠は高校ではスカートではなくズボンを履くつもりらしい。何でも最近は多様性がどうとかの話で女子もスカートとズボンを選択できるのだと。ちなみに男子はスカートを履けないらしい。
芽瑠にズボンを履く理由を聞いたら「動きやすそうだから」と返ってきた。そんな理由で通るのかと疑問に思ったが、「これも多様性の力ってわけよ」とまた返ってきた。多様性の乱用じゃないか。
まあ芽瑠は(あまり気に入らないが)私より少しだけ身長高くてスレンダーだから見た目的な問題は特に無さそうである。
何より学校側が許可を出してるのなら私からはもう何も言うまい。
そうしてだらだらと喋って夜ご飯までご馳走になろうとする芽瑠を追い出して一日が終わった。
4月7日
芽瑠に高校で友人を作る気はないのかと問われた。
私はいつも通り必要ないと答えた。
何度か同じようなことを問われたが結局自主的に行動を起こそうと思うぐらいまでになることはなかった。
興味のないことに、無理に意識する必要はないだろうと言えば、答え聞いた芽瑠はいつも通りすんなりと諦めた。
4月11日
明日は入学式だ。
別になにか起こるわけでもないだろうに、こういう、何かしらの予定の前日というのは未だにソワソワして落ち着かない。少し情けなさを感じる。
明日の準備もできてるし、寝坊しないように今日は早めに寝ようと思う。
4月12日
一目惚れという言葉が嫌いだった。
そんな中身のない言葉で表現される瞬間が嫌いだった。
だから今日、私はほんの少しだけ自分のことが嫌いになった。
■
「……んぅ」
私にとって眠りから目覚める瞬間は憂鬱だった。
単純に、眠り足りないという理由で。
「んー……」
眠たげな瞼を擦り、大きく伸びをすれば、窓からの暖かい日差しと閑散とした部屋が私を迎える。部屋の中は私を覆う掛け布団が擦れる音と遠くから車が走る音が聞こえていた。
普段と違った、少しの違和感。
疑問に思い、枕元に置いておいたスマホの電源を入れてみる。画面には現在時刻が6時30分の表示と目覚まし時計のマークが写った。
「……またか」
どうやら私はアラームが鳴る前に目覚めたらしい。
「ふわぁ……」
あくびが漏れる。こういう時はいつもそうだ。
いくつになってもイベント当日はドキドキして予定よりも早く目が覚めてしまう。
例えそれに少しの期待を抱いていないとしても。
そして眠りが足りてないように感じてしまい、「もう少し眠れたかもしれないのに」……と、何だかもったいない気持ちになる。
自分で寝坊しないように昨日は早めに寝たと分かっているのだが。なんだか、こう、釈然としない気持ちになってしまう。
「……準備しなきゃ」
未だに明瞭としない頭を晴らす為にも布団を剥がし、朝の支度を始める。
それが私――田井中 麻音の朝。
一般的な少女の朝である。
■
「あむ」
洗面所で一度顔を洗った後、リビングで朝食を取る。
焼いたパンが二枚。我が家――というよりも私の朝食はいつもパンだ。
理由は私が起きたばかりだと単純に食欲があまり湧かないのと、作るのが簡単だから。
マーガリンを塗ってトースターで適当に焼けば完成するので寝ぼけた頭にも優しくて素晴らしい。
美人なキャスターさんが語る最近のニュースを流し見しながらもそもそとパンを口に含んでいたら、扉の近くでピンポーンとインターホンの音が鳴ったのが聞こえた。
あぁ、もうそんな時間かなんて思いながら食べかけのパンをお皿に置き、玄関へと向かいドアを開ける。
「おはよ、芽瑠」
「やっほー!麻音おはよ~」
玄関を開けて――少し目線をあげると嬉しそうに目を細めた笑顔の少女が立っていた。
ぶんぶんと私に手を振るのと同期して切り揃えられたボブがふわりと揺れていた。
……毎朝のことではあるが、実にテンションが高い。
飼い主が帰ってきて大喜びしてる犬みたいだ。
……自分で言ってて少し納得した。やたら抱きついてくるし、芽瑠は人の形をしてるだけの大型犬かもしれない。
彼女――橘
幼稚園からの付き合いではあるが、小学校中学校と家が近かったので一緒に登校する時は芽瑠が私の家を訪ねてきていた。
……ちなみに私が朝に芽瑠の家を訪ねることはない。
私が芽瑠より早く起きることがないからである。芽瑠はやたらと早起きなので気づいたら私の家に来るのが習慣化していた。
「……来るのが早い。制服着て寝てたの?」
「なわけ!今日は結構早起きなのー。時間はいつもと同じくらいだと思うけど?」
ちらっと時計を見る。確かにいつも芽瑠が訪ねてくる時間とそう変わらなかった。
そうか。遅いのは私か。目覚ましの時間より早く目覚めたはずなのに、いつの間にか世界は思ったよりも私を置いて先に進んでいたらしい。
「ご飯食べてた?」
「もう食べ終わる。ちょっと待ってて」
「あいよー」
半ば習慣であるとはいえ、早く来てもらっているわけだ。
長く待たせるわけにもいかないのでさっさと食べ終えて着替えることにした。
■
「……本当にズボン履いてる」
「そりゃ履くって言ったし」
早めにパンを片付け、制服に着替えて軽く化粧をした後、私は芽瑠と登校中。ぽつぽつと桜の花びらが目立つ道を一緒に歩く。話題は芽瑠が履いてきたズボンの話だ。
「これ動きやすいよ。あと、似合ってるでしょ」
「まぁ、似合ってるけど」
こうして並んで歩くとよく分かるが、芽瑠は未だに少しづつ背が伸びている。
初めて会った時はどうだったか。
……その時はお互い母親に抱えられていたぐらいなので除くとして、小学校に入ったばかりの頃は同じくらいの身長だったはずだが、高学年時代にはもう私よりも芽瑠の背は高かった。
そして今では私の視線は芽瑠の肩の辺りに刺さる。
私はあまり成長せず、芽瑠だけがよく伸びていった。わりと悔しい。私自身、なけなしの成長期が終わった実感があるから余計に。
「遠くから見たら男子に見えるかも」
「えー……れっきとした乙女なんですけどぉ」
スラリとした背丈、短く切り揃えられたボブ。
芽瑠の特徴。所謂、高身長の王子様系JKである。
……あくまでも見てくれだけは、の話ではあるが。
背は高いが運動神経がいいわけでもない。
背が高いという理由だけでバレー部の練習試合に出された結果、ネットの前でずっとぴょんぴょん跳ねていたのは未だに思い返して笑いそうになる。本人は結構楽しそうだったが。
声は可愛い系だし、いつもニコニコして幸せそうな感じで、どちらかと言うとゆるふわ系の雰囲気全開といった感じ。
「そういやさ」
若干先に進んでいた芽瑠がこちらに視線を向けた。
「高校では私以外に新しい友だち作んないの?」
「はあ……」
またそれかと、芽瑠がそんなことを言ったのを聞いて露骨に眉をしかめなかった私を誉めたい。ため息は漏れたが。
それまでもそうだったが、中学に入った辺りから芽瑠はやたらと私に友人を作らせようとする傾向にあった。
そんなことを言われ続けた私は積極的に友人を作ろうと思ったことは今までない。
単純に、惹かれるものがないし面倒だと感じたから。
芽瑠については、もう最初から隣に居たから思うところはないし、思えないから例外だとして。
私が他人の興味のない話などに無理に付き合う姿は想像できない。共通の話題で和気あいあいと過ごすなんて、そんなもの寧ろ私にとって枷としかならない。中身のない時間を過ごす意味なんてないし、きゃぴきゃぴとした青春なんていらない。
私は一人で本でも読んでる方が圧倒的に有意義だし、好きだ。
一応私は友好的な対応ができる自信はあるが、結局のところそれも場当たり的な対応でしかなくそれ以上に発展を望むわけでない。
あまり人に興味を向けるようなことだってない。
クラスメイトの名前も要所で思い出しては忘却を繰り返すような人間だ。決して深いところまで潜り込むことはなく、浅く広く関係を築く。淡泊な付き合い方。
だからたぶん、友愛だろうの恋愛だろうと心から人に興味を向けることなんてないのだろうと考えていたしそれで私は満足していた。
そう、満足しているのだ。
つまり現状が完成しているということでもあって、極端な変化など求める必要はない。
……だから、私が新しく一歩踏み込むのは、厳しい。
そんな私が、この何度も繰り返し問われた命題に対して出す答えは決まってこうだった。
「友だちって……別にいらなくない?」
「ビビってんの?」
「……うるさい」
とりあえず一発殴った。
■
「あ、あたしたちまた同じクラスじゃーん」
「……また?」
しばらくとも言えないぐらいの距離を歩いた私たちは進学先である高校――第一高校に辿り着いた。
一般的な共学の高校で、偏差値とかは見ていないから分からないが、おそらく可もなく不可もなしといった感じ。親から高校は出てくれと頼まれた私としては家から近いのでそれで満足だった。
名前についてる第一は何が第一なのか知らないが。どこかに第二もあるのだろうか。
「運命じゃん。まじで」
「はぁ」
昇降口に張り出されたクラス分けの用紙を見……ようとしたがどうやら私たちと同じくらいの時間で新入生が集まっていた結果、まあまあの人混みが出来上がっていた。
「芽瑠、行って」
「はいはい仰せのままに」
不本意ながら、……本当に不本意ながら、この人混み全体では私は小さい方に分類されるため、芽瑠を確認にパシらせた。こういう時背が高いのは便利なんだな、と純粋に羨ましく思う。
「A組だってさー。なんか違和感あるね」
「中学は数字だった」
「4組だったねー」
適当に雑談をしながら昇降口へと向かい、新しい上履きを取り出して履き教室へと歩く。
新品の上履きと、若干年代を感じる下駄箱が少しミスマッチで面白い。
「A組あった」
「おーでかした」
芽瑠を連れて階段を上がって3階。上がりきった場所から奥に向かってAからD組までの看板が見えた。どうやら3階から1階に向けて1年生、2年生、3年生と順番にまとめられているらしい。
体験版年功序列といった感じか。いちいち階段を昇らねばならないのは少しだけ億劫だなと感じた。
「芽瑠開けて。私が後から入るから」
「前もそうだったけど、あたしのこと都合のいい壁か何かだと認識してる?」
「してない。早く開ける」
「別にいいけどさ……」
私自身としては、人見知りというわけではない。ただ人と関わるのが面倒だと感じただけだ。
だからこうして柔らかな拒絶という意味でも、デカイ芽瑠の後ろに続くのが癖のようになってしまった。いつでも芽瑠と一緒に居たから尚更のこと。
芽瑠はあまり物怖じのしない性格だから率先して動いてくれるのも私にとって都合がいい。
所謂、適材適所である。
……これは絶対に言わないが、私が初めての場所に足を踏み入れるのが平気でないという理由もある。
絶対に、言わないが。
「たのもー」
「なにそれ……」
芽瑠がドアを開けて教室へと入るのに私も続くと、教室内には疎らに人が座っていたのが見えた。集合の時間まではまだ時間がある。
「あ、黒板に席順貼ってある」
教室前方の黒板に席順が掲載してあるのを確認した芽瑠の後ろを着いていく。席順は教室の廊下側から窓側に向けて名前順になっていた。性別問わずに機械的に並べられた、初日特有の今しか味わえない席順である。
「名前順だね」
「最初はそうでしょ」
私は田井中で、芽瑠は橘。
つまり、私が前で芽瑠が後ろの席順。ちなみに中学の時も最初はそうだった。芽瑠は背が高いので前に座られると私自身の身長も合わさって殆ど見えなくなる。芽瑠が橘家に生まれてくれて助かった。
芽瑠を連れて席へと向かう。私たちの席は教室の前半部分で、若干廊下よりの場所。なんとも言えない場所だ。結局はこれくらいの距離感が見やすくて丁度いいのだが。
「あんま人居ないね」
「入り口にいっぱい居たし、集まり始めるんじゃない」
席に着き、芽瑠と雑談しつつ周囲をなんとなく見渡す。
疎らに座る人の中には友人と話したりスマホをいじっている人などがいる。一応、この学校はスマホの持ち込みが認められてる。もちろん授業中はアウトであるが。
(ん……?)
はらりと。
私の視線の端に黒い風吹いた、そんな気がした。
その流れに沿うように視線を走らせれば、一人の少女が私の右斜め前の席に座るのを捉えた。
私の右斜め前の席に座るということは、私たちの縦列がた行で始まる名字の列なので、推定名字がさ行から始まる少女。
(綺麗だな……)
ふわりと、ウェーブがかった綺麗な黒髪が椅子の背もたれにかかっているのが見える。綺麗な黒だ。反射して私の顔が映るかもしれないと馬鹿げたことを思ってしまったぐらいに。
「おーい?話しかけてるんですけど?なに考え事?」
「ん……何もないけど」
「はぁ?なにそれ嘘すぎでしょ……」
目の前に手のひらがぶんぶんと映りこんで、私は芽瑠に話しかけられていた事実に遅まきに気づいた。
(……綺麗な髪)
「……なんか気にしてる?ちらちらと見てるけど」
「……え?」
意外、といった感じで声がかけられる。
見やれば芽瑠の胡乱な表情が私に向けられていた。
それよりも発言が気になる。
ちらちらと?私がなにかを見ていた?
「見てた?」
「うん」
「私が?」
「うん」
「何を?」
「それを聞いてるんだけど……」
反芻して。視界の端にまた少女の姿が映った。
おかしいな。私は芽瑠の方向を見やっていたはずだ。
少女の綺麗な黒髪がゆらゆらと揺れるのが見える。
……反芻して。
遅れて理解が広がり、そして驚いた。
私は今、彼女に無意識を奪われていた。
(……なんだ、それは)
自覚するだけでも、私を形成するパーソナルな領域は核シェルターのように深いところにあり、本当に必要なものだけを抑えただけて溢れてしまうような、そんな極めて狭く、堅牢で、脆い空間。必要以上に他人を引き入れるつもりもなければ、こちらが入り込むようなこともしない。
無関心。不干渉。傍観。
自分自身を守るためにそうあると決めた。
そんな人間。そんな人生。そんな私。
それが、見ず知らずの、ましてや一方的な認識でしかないこの状況で?
……まるで一目惚れのように?
ぶるりと、体が震えた。
(いやいやいや……うそ!)
心の中でそう繰り返そうが、事実として私は彼女を無意識に見つめていた。
私は見ず知らずの彼女に無意識を奪われ、そして今――彼女を明確に意識している。
(なにそれなにそれ……!)
気づいてしまってはもう遅い。
胸元に手を添えれば、普段は気にならない心臓の鼓動が速くなったのを意識してしまい、余計に自分自身の現状というものを理解させられる。
これは、この心臓の高鳴りは……きっと、恐怖だ。そうに違いない。
思考に反する私の感情と、彼女に対しての。
そうだ。きっとそうだ。そうとしか、考えられない。
疑問に蓋をするように、煩わしい心臓をぎゅっと押さえつけて納得させる。
(……すごく、気になる、けど)
驚いたことには驚いたが、それはそれとして。
気になったからといって、そこから何かを行動に移せるほどの強い人間である私ではない。ましてや前に回り込んで話しかける勇気など私にあるはずもなく。こうして遠巻きに言葉にならない何かを募らせるので精一杯だった。
「で?何が気になってたの?」
「だから、何もないって」
「どれどれ……あ」
芽瑠が周囲に視線を巡らせるのを私も視線で追った時また彼女が視線に入った。
そしてある光景が目に入ってまた驚く。さっきまでは気がつかなかったが、こうして今一度彼女に視線を向けた時、私は彼女のことが気になった理由がまた1つ増えた。
「おー、あたし以外にズボン履いてる人いるじゃん」
――推定名字がさ行から始まる彼女は、ズボンを履いていたのだ。
■
「皆さんの担任になります山内美穂です。担当科目は数学です。何か困ったことがあれば遠慮なく相談してください」
確実に言えることがあるのならば、この入学式はおそらく人生で最も退屈な入学式だったと言える。
……そもそも入学式など片手で数えられる程にしか経験しないものだが。
しかしこの先の人生で退屈という理由以外でこんなにも時間が早く過ぎてほしいと思った瞬間は訪れないだろう。
「では廊下側の生徒さんから前に出て軽く自己紹介を行いましょうか。自分の名前と好きなこと簡単に発表してくれればいいですからね」
そんな時間が終わって私を待っていたのは自己紹介の時間だった。
あいにくだが、推定名字がさ行から始まる彼女は入学式での列も私の前にいたからしっかりと顔を確認することは出来なかった。だから暇潰しと……敵情視察も兼ねて対象の観察を続けていた。
お陰様で俯瞰した入学式中の私は、他人の頭頂部を眺め続ける不審者と化していただろう。校長先生の話や関係者の祝辞を聞き流す行為よりはずいぶんと有意義な時間だったが。
つまり私は未だに彼女のご尊顔に相まみえることが出来ていないのだ。
分からないというのは怖い。私は一刻も早く安心が欲しかった。
なんと焦れったいことか。がたがたと心の中で貧乏揺すりが炸裂する。現実でやる程の勇気はないから心の中で存分に揺するのだ。
「はい、ありがとう。じゃあ次の人お願いします」
(あ、来る)
相変わらず彼女の後ろ姿を眺めていたらついにその時が、彼女の番が回ってきた。彼女を気にしすぎて他の人の自己紹介を聞きそびれてしまったが、いつものことだ。どうせ関わった時に思い出して忘れるだけだから構わない。
「……は、はい」
少し小さな返事が聞こえた。鼓膜が確かに震えた。
かわいい声だ。それこそ鈴を転がすような、なんて洒落た表現が当てはまるような。
彼女が教卓の横に立つ。こうして並ぶと分かるが、腰の辺りに教卓が来ているのを見るにおそらく私と同程度かやや低い身長だ。
そして顔を見やるために下に向かっていた目線を上げようとする。
……なぜだろうか。ドキドキと、少し緊張してきた。不安だ。まるで秘されていたものを無理に暴く様な気分。……そんな経験は一度もないが。本当に私が視認しても問題ないのか不安になってきた。心の準備が出来ていない。見た瞬間に心臓が止まったりしたらどうしよう。
目線を上げる一瞬、彼女がかけている少し大きな黒縁メガネを通して、まっすぐとした視線があった気がした。
……おそらく本当に気がしただけだが。
目に当たっていた焦点が引いて、私は彼女のご尊顔を認識した。
食い入るように、あるいはいっそ睨みをきかすほどに。
……端的に言おう。
(か、かわいい……)
彼女は――美少女だった。
「か……?ぇ……?あ、じ、神宮寺由良です。本を読むのが好きです。……よ、よろしくお願いします」
彼女が――神宮寺さんがお辞儀をして、何故か不自然に視線をきょろきょろとさせながらそそくさと席へと戻る。
教室にぱらぱらと拍手の余韻と次を促す先生の声が残り、私の耳にはそれらを廃して彼女の声の残響が残っていた。
(神宮寺、由良さん……)
彼女のことを、知らなければならないと思った。
当然、この感じたことのない震えの原因を突き止めるために。
私を、安心させるためという意味で。