「そろそろ着きます」
足取りは心なしか軽やかに。そんな神宮寺さんに先導される形で歩くこと十数分。
学校からいつもと違う方向へと出て辺りに見慣れない家々が連なり始め、辺りで聞こえる音に若さが混じり始めた頃に彼女は足を止めてこちらへと振り返った。
「おーここが……」
住宅街から少し歩いた場所。神宮寺さんの家は1つの大きな四角い箱を部分的にくり抜いたような、モダンな感じの家。
周りの家に比べても新築の様相を呈していて、白と黒が等間隔にグラデーションを作る外壁はコーディングがされているのか外界に晒されていても尚つやが残っている。
玄関先の隣には少し高い位置に、おそらくカーポートと思われる透明な天井があって、そこから透ける日の光が私たちを晒すように照らしていた。
「今開けますね」
先を進む神宮寺さんに倣うように玄関まで等間隔に並べられたタイルの道を渡る。
その両脇で膝丈程の低木には名前も知らない黄色い花が顔を覗かせて、小さく吹いた風に煽られてゆらゆらと揺れていて、さらにその隣にはポストが位置していた。
ポストの上側では銀縁の表札に綴られる神宮寺の文字がその存在を誇示するかのように日の光をキラキラと反射していた。
神宮寺さんが鞄の中から鍵を取り出す。
鍵にはコイルのような形をしたストラップで繋がれていて、その先端には小さな鈴がついていてチャリンチャリンと音を立てていた。
その様子を後方でボーっと眺めていたら、鍵が差し込まれ回されて、合わせて揺れる鈴の甲高い音と共にガチャリと音を立てて扉が開いた。
「お邪魔しまーす」
「……お、お邪魔します」
緊張感と共に扉をくぐって直ぐに、花の香りか、将又別の何かか分からないが、歓迎するかのように心地よい香りが肺にすっと入り込んでこわばっていた筋肉が少しばかり弛緩して心を落ち着かせた。
そうしてもう一段と落ち着こうと深呼吸をすると――不意に視界が大きく開けた。
(……ん?)
当然、現実の空間が突然拡張したなんてわけではなく、だから広くなったのは私の認識だ。
緊張から視野が狭くなっていたのもあるだろうが、それでも玄関先に立っていつもと違うと少しばかり違和感を感じたのは――恐らく自分の立つこの場所が思っている以上に広さを感じたから。
普段通りであれば玄関先には自分や家族の靴は出しっぱなしだから、自分の家と芽瑠の場合じゃそんな印象は抱かない。
生活感溢れるというか、とにかく生という言葉に血が通うような、そんな印象。
対して今この場所では神宮寺さんと私たちの靴だけが揃えて置かれている。
つまり私たちが来る前には何もなかった訳で、そこに私たちが空間を埋めることでより数瞬前の空白を意識させる。
それは何もない空間よりも、元々あったものがぽっかりと抜け落ちている方がより強く印象を与えるような――理屈ではなく感情に訴えかけてくるあの奇妙な感じに似ている気がした。
最も、他人の家に上がったことなどないので比較なんてできるほどの経験がないのだが。
(誰もいないのかな?)
鍵を使っていたことから察せられたが、どうやら今家の中に他の人はいないようだ。
明かりがついておらず中は外と比べると余計に暗く感じ、私たちを出迎えた玄関先から見える扉も全て閉じられていて、それが少しばかり窮屈さのようなものを感じた。
「お家の人はお仕事?」
「両親は……この時間だと仕事です。夜には帰ってきますが、多分会えないと思います」
先に進む神宮寺さんの足が少し止まって。忙しく神宮寺さんの指先同士が絡み合うかどうかの直前で動く。
声色は特に感情を見せず思い出すように一拍置いて、だからか言葉がよく響いてただ空気を揺らした。
伏し目がちに、それでいてどこか申し訳なさそうにするその姿は懇願しているようにも見えた。
「んー……そっか。挨拶しようと思ったけどお仕事か、なら仕方ないね」
芽瑠は少し残念そうに呟くも、それ以上何か問いかけることもなかった。
その様子を見た神宮寺さんは意識しないと気付かないぐらい静かに息を吐いた。
「飲み物とか用意してくるので先に部屋で待っていてくれますか?」
「おっけーおっけー……部屋はどこ?」
「上がって一番奥の部屋です」
そうして神宮寺さんは少しだけ駆け足気味にリビングらしき扉を開けて部屋に入っていった。
「んじゃ、行きますか」
芽瑠と共に階段を上がって行くとシンプルな黒い扉手前に2つとその奥に1つ。
手前の2つの扉に付くドアノブはあまり使い込まれていないのか綺麗なままだ。物置の類だろうかと思いつつ、神宮寺さんに言われた通りに奥の部屋へと向かう。
奥の部屋の扉は手前のものと同様で取り付けられている四角い金属製のドアノブは綺麗だが どちらかと言えばそれは意識的に綺麗な状態に維持しているといった感じ。
だから恐らく、ここが神宮寺さんの部屋なのだろう。
「ここかな?お邪魔しまーす」
「え、ちょっと――」
私の内心はお構いなしに躊躇なく芽瑠がドアノブに手をかけて扉を開き慌てて私も部屋へと足を踏み入れる。
扉を開いて、部屋の全貌を目の当たりにして最初に感じたのが――既視感だった。
部屋自体に見覚えがあるわけではなく、それに対して抱いた印象――それもつい最近感じたような、そんな既視感。
(なんかまた……広い?)
そうして思い至ったのはさっきまでこの足で立っていた玄関先。
部屋自体も、多分広い。一番奥に位置していたので家の構造的にも他の部屋よりも少しばかり広くなっているはずだ。
そんな事実を理解していて、それでもなお広いと心が形容したがるのは――それだけ与える印象が大きいからだ。
「何というか……綺麗な部屋って感じだあ」
芽瑠の言う綺麗という感想は正しいがそれ以上の意味を含んでいる。
部屋を綺麗だと評価する時、基準は人によって変わってくるだろうが多くの人間は整理整頓されているだとかそんな理由で綺麗だと評するだろう。
逆に部屋を汚いと評価する時、理由としては例えばゴミが極端に多いだとかが挙げられるが、それは大抵物が多いことが要因となるのがほとんどだ。
要はその対極に位置する評価の綺麗という言葉は物が少ないことと捉えることができる。
それを踏まえてもう一度目の前に広がる光景を見れば――どうあがいても綺麗と称さずにはいられなかった。
(えっと……)
大きく目に付くのは、右手側にある腰辺りよりも少し低い場所に位置するベッド。それと正面に位置する小さめの丸テーブルとその奥側に位置する勉強机らしきもの。
……以上。
(物が少ない……)
本当に必要最低限のものだけで構成されていて巷でいうミニマリストのような様相。
ただでさえ広めの部屋でこんなにも空間が目立ってしまえば、ただ呆けたように綺麗だという言葉以外には私の語彙力では表現出来なかった。
それでも机の上に転がるシャーペンや少し皺のよったベッドシーツが確かにここに人が居た痕跡を残していて、それが逆に不安を残すようなどこか奇妙な光景だった。
「何か探しちゃう?ベッドの下とか」
「……やるわけないでしょ」
いつの間にか芽瑠の姿は既に神宮寺さんのベッドの上で、その弾力を確かめるかのようにペチペチと手を跳ねさせていた。
行動もその思考回路も男子中学生のそれである。そもそもベッドは地についていて隙間などないのだから意味のない話なのだが。
「すみません!扉を開けてもらえませんか?」
実のない話で時間をつぶしているとそう時間はかからずに扉の奥から少しくぐもった神宮寺さんの声が届いた。
「あ、今開けます」
未だに扉の辺りで座ることもできずに佇んでいた私が扉を開ける。
扉を開けると、その先には両手でお盆を持つ神宮寺さんの姿があった。お盆の上にはシンプルなガラスのコップに入ったオレンジジュースが微かに波打っていた。
「ありがとうございます。丁度手が塞がっていたので助かりました」
神宮寺さんは私に対して律儀にお辞儀をして部屋の真ん中にある丸テーブルへと歩みを進めた。
芽瑠もそれを見てベッドの上から反発を利用して跳ねるように飛びのいた後、目の前の丸テーブルに両足を揃えて座り私もそれを追ってようやく腰を落ち着ける。
神宮寺さんもカーペットの上へと座り、三人が丸テーブルを囲むような形。視線を巡らすと私から見て左手側に芽瑠が居て、右手側には神宮寺さんが居て、二人と視線が交わって――誰ともなく笑いがこぼれて、それにつられるように私も少し笑いをこぼした。
足に触れるカーペットの感触が何故だかくすぐったく感じた。
「……それじゃあ準備もできたので、始めましょうか」
■
シャーペンの先がノートに走る音と各々が漏らす呼気の音が静寂を満たしている。
要はそれだけ二人が集中しているという意味であり――そしてこうして取り留めのない思考に流されている私はあまり集中していないのだ。
沈黙とうだつの上がらない現実を誤魔化すようにペラペラと参考書の回答をめくってみると、そうして起こる風がふわりと頬を撫でて目の前の空気がキラキラと輝く。
(何かな……)
今私の頬を撫でる風がそうであるように――どうしてこうも数学の回答は冷たいものだと感じてしまうのか。
めくられていたページが最後までたどり着いて、参考書はぱたりと音を立てて倒れた。
それが無性に恥ずかしくなって、誤魔化すようにもう一度初めからページをめくってみても、同じように数字の羅列がつらつらと視界から流れては消えて、流れては消えてを繰り返す。
(はあ……)
途中の計算を間違えたら、グラフの描写をミスしたら、使わねばならない公式を忘れていたら。
要は1つボタンを掛け違えてしまえば、出来上がるのは不格好な自分の姿だと思うとどうしても一歩確かに進むことができなくなってしまうのだ。
「……どこか分からないところがありますか?」
「ふぇ?」
思わず欠伸がこぼれそうになったが流石に申し訳ないと思い嚙み殺そうと意識していたら、不意に飛んできた声に思わず間抜けな声が漏れ出てしまった。
もう既に意味がないとわかっていながらも口元を手元で隠しながら声の方向を見やれば、こちらを見ている神宮寺さんの視線が交わる。
思わず口元ではなく顔を覆ってしまいたくなったが――反対側から聞こえてくる隠す気もない笑い声が私に意地を張らせた。
それでも二人の手元で開かれているノートは私のものよりかはずっと埋められているものだから、何も言わずに、何でもないように努めて答える。
「何ていうか……答えが所々飛ばしてたりで、あんまり理解できなくて」
少しだけ目線を逸らして。
漏れ出た声への羞恥心と内容自体の躊躇いも相まって返事は後半にかけて徐々に萎んでいった。
「確かに、数学の答えってあまり途中式とか書いてなかったりしてちょっと困っちゃいますよね」
「あはは……」
そんな私の反応を気にすることもなく神宮寺さんは上品に袖で口元を隠し朗らかに、それでいて眉尻を下げて少し困ったように笑みを浮かべている。
その笑いは揶揄いの要素なんてものはなく、だからこそその笑顔がこそばゆい。
「……あ、それなら 私のノートを見ますか?私も後で自分で見返す為に丁寧に書いているつもりなので、もしかしたら参考になるかもしれません」
「え、いいんですか?」
「せっかく一緒に勉強してますし……田井中さんの助けになるなら、嬉しいなって思います」
言わずともこの現状が示すように、神宮寺さんは勉強が出来るのだから、そんな彼女の力を借りることができるのは成績向上の近道になるだろう。
ノートの貸し借り――というより一方的に借りるだけだが。
内容が内容なのはあまり考えないでおいて、それでもこうした関係に近づくことが出来たのは素直に嬉しかった。
「あー……お二人さん、お話中よろしくて?あたしちょっと休憩したいなーって思うんだけど」
そんな空気の中、芽瑠の声が若干申し訳なさそうに差し込まれる。
今まで声を発さずに集中していた様子だったが、今では正座に近い形だった足を大きく伸ばして姿勢を崩して自分の家に居る時のよう。
そう言われて壁の時計を見てみれば、気付けばここに来てから時計の針は一周と少し過ぎたあたりだった。
「それなら一旦休憩にしましょうか。そろそろ飲み物の補充もしようと思ったので」
神宮寺さんの一声で空気が緩んで、私自身も一息吐く。
わざとらしいと思えるぐらい大袈裟に腕を伸ばしてみれば変に凝り固まった体の節々からじんわりと疲労感が広がった。
まだそこまで進んでいないのにこうも疲労を感じるのは――何もしていないが故である。
「なら、あたしもお手洗い借りたいし一緒に行こうかな」
「分かりました」
二人が立ち上がって扉へ向かうのを尻目に自分の足を崩して少し楽な体勢をとる。
テーブルの上に広げられたノートにはさっきまで二人が勉強をしていた跡がそのまま残っていて、個々の性格が出るように赤色やらの蛍光色で綾なされていた。
それに比べると私のノートは手慰みに書かれたか細い線以外には未だに大部分が白紙のままでやたらと眩しく見えた。
現実逃避気味に眺めていると、今まさに芽瑠と共にドアノブに手をかけて出ていこうとした神宮寺さんがこちらへと振り返った。
「あ、田井中さん。数学のノートは机にありますので、好きに使ってください」
「え……はい」
私の返事が届いたからか分からないが、神宮寺さんはこちらへと微笑んだ後静かに扉が閉められた。
(好きにしていいって……)
一人残された静寂の中に、余りにもあっけなく投げかけられた言葉は私に重くのしかかる。
私だったら考えられない発言だ。許可してくれる辺りに本人にとってきっと見られて困るものが特段あるわけではないのかも知れないが、それにしてもどういう形であれ自分のプライベートな部分を自由に触れさせるなんて、そんな発言が軽いものであるはずないのだ。
そんな発言を、信頼であるが故と捉えるか。
あるいは――私が大袈裟に捉えているだけで彼女にとってさらりと口にできてしまうぐらいの言葉だと捉えるのか。
「……机にあるって言ってたっけ」
ままならない思考から意識を逸らすように、足腰に力を入れて言われた通りに机へと近づく。
机の上にはシンプルな卓上カレンダーと数冊の教科書が置いてあるぐらいで、部屋の中と同じように物が少ないからか広く見える。
しかしまあ、角を揃えて重ねられているのが神宮寺さんの丁寧な性格を表しているようでらしいと言えるのだが。
こうも綺麗に整頓されているものに触れるとなると――初雪に足を踏み入れるような、言いようのない感情が胸の奥底に渦巻くようで。
逸る動悸を努めて無視してノートに触れたのだが――
(あれ……ない?)
上から順に、古文、化学、英語。
ノートの表紙には少し角ばった文字でそれぞれの教科の名前が書かれているのだが、そこに目的である数学の文字が見つからない。
もしかしたら机にあるというのは神宮寺さんの勘違いだったのだろうか。こんな事でわざわざ噓をつく必要なんてないのだし、鞄の中に入れたままだとかそういう間違いないなのかもしれない。
あるいは――
(……引き出しの中とか?)
一応、机の一部ではある。机がなければこの引き出しは意味をなさないのだから、神宮寺さんがそう意識して発言したのかもしれない。
(……違うか)
実際のところ、そうであって欲しいと願っているだけだと頭の片隅ではよく理解している。
多分神宮寺さんは本当に勘違いしてただけで、このまま帰ってくるのを待っていれば本人にパッと探してもらって手渡しされて、きっとそれで終わる話なのだ。
だが、空を握る掌に寂しさを覚えてノートの表紙に触れてみれば。
手に触れる乾いたインクの感触が――こうして彼女のプライベートな部分に触れられているという事実が私に甘く囁いているのだ。
(……気になる)
仮に、この先似たような状況が訪れるとして。
そうだとしても、あるかもしれない未来と今確かにある現実ならば――誰だって後者を選ぶに決まってる。
意を決して引き出しの取っ手に手をかけて、胸の内から湧き出る好奇心に身を任せて引き出しを開いた。
(………………あった)
引き出しの中には机の上と同様に丁寧に数冊のノートがしまわれいて手に取ると――そこには、涼しさを感じさせる水色のノートと数学の文字。目的の数学のノートそのものである。
あまりにあっけない終わりに、私の胸中には安心感と小さな口惜しさがどっとやってきて、その瞬間どくどくと逸る鼓動の速さに気がついてようやく自分の現状に思い至る。
(何してんだ、私……)
思い返せば、酷く軽率な行動だ。誰もいない他人の空間で物を漁る行為は空き巣と何ら変わらないではないか。
それともどうだろうか。彼女は優しいから、探していただけだと伝えてしまえばきっとそれで納得して笑って済ましてくれるのかもしれないし、そんなものは私が抱く甘い幻想でしかないのかもしれない。
どちらにせよ今の私は――電波の向こう側で出来心だったなどと発言する人間を笑えなかった。
(はあ……)
深く、深く息を吸って、腹の底で渦巻く淀んだ感情を全て吐き出すように長く息を吐き出す。
数学のノートに手を取る。手先からはひんやりとした感触がスッと届く。
茹だった頭を冷ますように伝わってしまえば、続けて他の引き出しを開けてみようだなんて考えにはもうならなかった。
そう思い数学以外のノートを元に戻そうと引き出しに入れた時――ぐしゃりと。
(やばっ)
引き出しの奥で紙同士が擦れ合う音と、それよりも大きく紙が潰れるような音が響いた。
慌てて手にしたノートを机の上に置いて引き出しを覗き込むと、少し見づらいが奥の方に小さめの白いもの――少し雑に折りたたんだ紙の類のようなものが見えた。
それは引き出しの中に入れるには少々大きいような気がしたし、何よりもこんな――まるで出来の悪いテストみたいな見られたくないものを無理やり奥に押し込んで目を逸らしているような、そんな印象は私が抱く彼女に対してのものからは随分とかけ離れていると疑問に思ったが、それよりも何か皺などになって傷ついていたら大変だと思い直し手を伸ばして取り出す。
(これって……紙袋?)
実際に手に持って明りの下に晒すと、荒々しく折りたたまれた紙袋のようなものは蛹が羽化するかのようにゆっくりとその形を元の状態に戻そうと広がる。
じれったいと手を這わせて手伝ってやると、最終的に袋のサイズは手のひらから少しはみ出るぐらいの大きさになった。
ノートや教科書とはまた違った硬い感触。折りたたまれた跡は相当強く力を入れられたのか全体の形はかなり歪だ。
側面には深めの皺ができてしまっているが、よく見るとそれは中心部分へと沈み込んでいくようなもので、今私がつけてしまった皺というには深すぎるもの。
まるで――日常的に握りしめてできたような、そんな深い皺。
何も書かれず、ただ皺だけが刻まれたそれはまるで空間そのものに入った亀裂のようで、整頓された空間にはそぐわない違和感も相まって見れば見るほど不安がこぼれ落ちるよう。
へばりついたそれをどうにか拭いたくて、裏面に何か書いていないかと恐る恐る手に持つそれをひっくり返すと――
(………………薬?)
目に入ったのは大小様々な文字等々。どうやら今まで見ていたのが裏面だったらしく、何も書かれていなかった面とは打って変わってこちらの面には一分のずれのない機械的な文字と小さくカラーで印刷された写真が存在していた。
そしてその上部――開口の辺りでは、唯一赤色で強調するかのように内服薬の文字が光っていた。
自分にも明確に見覚えのあるものが出てきて、未知が既知へと変化して少しだけ安堵する。
つまりこれは薬局でよく渡されるあの硬い包装のもので、広げて少し揺らしてみると確かに中からカラカラとした音が主張してくる。
(もしかして体調悪かったのかな……)
そう思ってみても、ここ最近から今に至るまで神宮寺さんが不調という不調を見せた記憶はない。
前に飲み切れなかった薬の残り?それとも今もまだ体調不良でそれを隠している?
どういった理由にしろ――私がここで得た情報は口外できないものなのだからどうしようもない話である。
私は別に知ることのなかった情報で罪悪感やら疑念でないまぜになる内心を意識し続けないといけないだけ。
そう考えると、改めて自分のしたことに気分が憂鬱になった。
(帰ってくる前に早く戻そ……)
下がってしまった気分を見抜かれてしまってはまずいので早めに元の場所に戻そうと手元の薬袋へと目を向ける。
そこには病院の名前とか、神宮寺さんの名前など色々な情報が書いてある中で真ん中辺りに恐らく入っているであろう薬の画像がカラーで印刷されている。
それが妙に目を引くものだから――つられるように隣の文字列へと目を向けた。
(えっと……ジェイゾロ――)
「――すみませーん、扉を開けてほしいんですが」
「んえっ!?痛ぁ!?」
私の心音や息遣いだけが響いていた空間に、今一番聞きたくなかった声がはっきりと耳に届いて。
驚いて体全体がびくりと震えて、その拍子に降ろしていた左手が跳ね上がって開いたままだった引き出しにぶつかってしまい、口から漏れ出た間抜けな叫びと共に子気味のいい音を響かせた。
たまらず痛みと共に崩れるように左手を抱えて床にしゃがみこむ。
「ど、どうかしましたか!?凄い音がしましたけど……」
「だ、大丈夫……全然、本当に大丈夫なので。今開けるので、気にしなくていいです……」
誰も部屋にいないのが幸いであった。
じんじんと左手は赤みを増して痛みも主張してくるし――顔はきっとそれ以上に赤くなっていることだろうから。
先程までの残響が遠のくと、私の耳には神宮寺さんが慌てて心配する声とさっきよりもずっと速くなった自分の鼓動だけが残っていた。
それらを意識から逸らすようにできるだけ大声を出して、その間にバレないように素早く引き出しを閉めてドアに近づいてドアノブに手をかける。
「ど、どうぞ……」
「あ、ありがとうございます……でも一体何が?」
「えー……ちょっとびっくりして、手ぶつけただけなんで、本当に気にしなくていいんで、あはは……」
ドアを開けると、オレンジジュースの入った3つのコップをお盆にのせた神宮寺さんが立っていた。
そこから動かずじっと不安げに揺れる神宮寺さんの視線が突き刺さって、直前までに自分がしでかしたことも相まって居たたまれない気持ちになって目を逸らした。
「そ、それなら何か冷やすものを持ってきた方が……」
「いやもう痛みとかもないんで……あ、コップとかも持てますよ、ほら!」
正直な話、まだ左手には鈍い痛みが這いずりまわっているのだが、流石にこれ以上神宮寺さんに心労をかけさせてしまうのは忍びないし、それ以上に申し訳なさ過ぎて私の心の方が先に限界を迎えてしまう。
だから気丈な姿を見せて安心させようと、神宮寺さんの持つお盆の上から一番近い場所にあったコップを左手で掴み取りそのまま煽る。
スッと喉元をオレンジジュースが通り抜けていくとあちこちに駆けていた羞恥心やら何やらが落ち着いた気がしたが――そのせいで逆に左手に残る痛みにだけ感覚が集中している感じになってしまったのは失敗だったかもしれない。
それでも訝しむように表情が晴れないが、そんな内心を悟られまいとできるだけ朗らかな表情を出せるように努める。
最も、普段からそんな表情を意識したことが無かったので多分相当ぎこちないものになっているだろうが。
「んー?二人して入口のとこで何してるの?」
そんな押し問答――というよりほとんど独り相撲は神宮寺さん後ろから顔を覗かせた芽瑠によって終わりを迎えた。
「……テスト勉強頑張りましょうって話」
これ幸いと芽瑠が現れたことをいいことに、話は終わりと神宮寺さんたちの方向から背を向けて元々座っていた場所へと歩みを進める。
少々強引な形にはなってしまったが心配されるほどのことでもないのは紛れもない事実だし、何よりこんなにも醜態を晒してしまっているので何かしら形をもって結果を残して今日という日を終わらせたいのだ。
実際、休憩前よりかはよっぽどやる気に満ち溢れている。
無事に発見できた神宮寺さんの数学のノートを開くと、目の前に現れるグラフやら表やら数字たち。
現実逃避という意味が大部分かもしれないが、それでも今だけはこの退屈で冷たい世界が心地よく思えた。
「ふぅん……?まあ、やる気あるならいいと思うけど」
「えっと……そうですね?」
後ろから芽瑠と神宮寺さんの困惑したような声が届くが、意識は目の前に。
左手は――未だに痛みを帯びたままだった。
■
「あー……痛っ」
自室に着いて、倒れ伏すようにベッドに飛び込めば覚えている以上にずっと固い感触が顔の辺りに返ってきて。
寝返りを打って視界に見慣れた天井が映ると、ああ確かに私は帰ってきたのだと実感できてどっと疲れが押し寄せてきた。
「はあ……」
あの後、勉強会は滞りなく進んで空の主役が月へとバトンタッチされた辺りで解散する流れになった。
肝心の内容の方はどうかというと、幸いにも現実逃避という名の集中は思ったよりも続いて、白色だらけで煌々と輝いていたノートは今や夏の緑が形作る庇程度の濃さにはなっていた。
その証拠といってはなんだが、右手の小指側の部分を見ると、ずっとノートと触れていたからかシャー芯の黒鉛によって少し黒ずんでいた。
(………………)
それと、帰る間際に神宮寺さんから機会があればまたこうして集まって勉強会をしようとの話も出た。
別に正確な日時を決めたわけではないので約束というよりかはふわふわとした願望のようなものだが、こうして神宮寺さんから積極的になってくれたという事実が私の胸を熱くする。
総じて――実りのある結果になったのではないかと思う。
(……そういえば)
ボーっと天井を眺めて思考に沈んでいると。
思い浮かぶのは神宮寺さんの家の中とか、部屋の中だとか、筆跡だとか。
今日だけでも私の知らない彼女の姿が沢山あったが、それでも一番記憶に残る光景がずっと頭の隅でちらついていた。
頭によぎるのは――深く皺の入った固い袋。
(………………薬かぁ)
別に薬なんて誰でも飲んでいるものだろうに。
こんな思考が頭をぐるぐるとしている時点で説得力なんてあってないようなものだが、それでも私は深くまで詮索したいと思っているわけじゃないのだ。
興味がなくても、視界の端でちらちらと蚊が羽音を立てて飛んでいる様子を見たら気にしてしまうように、妙に記憶にこびりついて離れないだけ。
(ジェイ……なんとかだっけ)
だから私は敢えて決着をつけることにした。
羽音を立てる存在が根本からいなくなってしまえば問題は解決すると分かっているなら、誰だってそう行動すると信じて。
ポケットからスマホを取り出していざ検索――しようとして、どう検索すべきかの問題に直面する。
あの時、名前を確認しようとしてみたもののそれは一瞬。
その後神宮寺さんが早く帰ってきて満足に確認する時間が取れなかったし、さらにその後は自分のやらかしをどうにかするのに必死で前後の記憶も大雑把にしか覚えていない。
そんな中でも唯一覚えていたのはジェイなんとかみたいな名前だった気がすることぐらい。
これでは正確な情報を入手するのは難しいだろうと、正直もうさっきまで張っていた惰性に近い好奇心は完全に萎んでしまったので半ば投げやりに"ジェイなんとか 薬"と検索してみる。
だがこの検索システムとやらはよくできているもので、もしかしたらこれかもしれないと数個の候補を画面に表示して――その中にある1つの名前を認識した時、頭の中の霧が靄へと変化したような、そんな微妙にすっきりとしない感じに襲われた。
(これだったかな……?)
薬の名前は、恐らくジェイゾロフト。
その用途は――
「…………………………うつ病?」