「あ、雨だ」
しとしとと。
静かに、けれども確かに雨音が窓を叩くのを見て放課後に浮ついていた教室の空気が俄かに揺れる。
傘を忘れたと嘆く人やそれを笑う人。特に反応を見せずにさっさと帰り支度をする人。
あるいは――そんなことは全く関係ないと項垂れている人。
「はあ………………」
私のことだった。
溜息と共に机の上に突っ伏していた顔を上げる。緩慢な動きで窓の外へ視線を向けると、弱々しく窓を濡らすだけだった雨はその勢いをどんどん増している。
教室に響く音も次第に硬さと強さを増していく。これでは鞄の底に眠る折り畳み傘は満足に役目を果たすことができなさそうだと現実逃避気味に考える。
直前まではそんな素振りなど見せなかったくせに、気がつけば太陽は隠れて空は大きく泣き始めた。
欲を言えば、私も同じようにみっともなく声を上げて泣きわめきたい気分だ。
「……じめじめしてんなぁ」
「……うるさいな」
呆れたような、揶揄うような感じで横から芽瑠の声が聞こえてきて軽く睨むと、芽瑠は普段の二割増しぐらいの笑みを浮かべて机に伏せる私を見下ろしていた。
じめじめしてるだなんて、仮にもうら若き女子高生に対する表現ではないだろう。
まあ、落ち込んでいるのはまごうことなき事実なので何も言い返せないからこうして睨む以上のことを出来ないのだが。
(………………)
降る雨は確かに気分を落ち込ませるし、空気はじめじめして髪はべたつく。
だが、確かに低気圧が与える鈍痛は私を苛めるのに十分な力を持ってはいるが、それでも私が真に落ち込む要因は他にある。
じめじめとした現実から目を逸らすように、あるいは縋るように視線を巡らせると視界の先——私の右斜め前に、ざわつくクラスメイトの隙間にポツンと空白の席が見えた。
(今日も休みだったな……神宮寺さん)
数日前の話。
その日の朝、芽瑠を連れて教室に訪れた時、普段通りであれば私たちよりも早く来ては予習復習をしているはずの神宮寺さんの姿はそこになかった。
珍しいこともあるのだと思いつつ、もしかしたら何か不測の事態でもあったのではないかと空白の席をちらちらと見て勝手にやきもきしていたのだが、そんな私の内心に反して朝礼開始の5分前ぐらいに神宮寺さんは小走りでやって来た。
無事に朝礼を終えた後に自分の席で息を整える彼女のもとで話を聞くと、別になんてことはなくただ寝坊してしまっただけだと少し顔を逸らして伝えられた。
居たたまれないと、随分としおらしい様子だったが、むしろあれほど真面目な彼女が見せる隙のような瞬間に親近感すら覚えたものだ。
そんなことがあった次の日、私たちが普段通りの時間に教室に訪れるとまた彼女の姿がなかった。
似たような状況が前日にもあったからまた寝坊してしまったのかなんて考えていたのだが——そんな楽観的な考えは、予冷が鳴っても未だ空白だった神宮寺さんの席を見て霧散した。
1限が始まって終わり、2限が始まって終わり、それを繰り返して昼食時になっても席は空白のままの辺りで、流石に休んでいるのだと察することはできた。
だがその理由については見当もつかなくて、やきもきした思いを抱えていたら——その理由は目の前でパンを頬張る芽瑠の口からあっけなく伝えられた。
『体調崩したらしいよ』
目の前に突き付けられるスマホの画面には、授業中にでもやり取りしたのか神宮寺さんとのトーク画面が表示されていた。
そこには不在に対して疑問を投げかける芽瑠と、それに対して神宮寺さんの体調不良であると簡潔にまとめられたメッセージ届いていた。
『……なるほど』
簡単にメッセージを送ることができる芽瑠の社交性には相変わらず慄くが、理由が判明して安心——いや体調不良に関しては全く安心できないが、とにかく安心したのだ。
(………………)
私の方からも大事にしてほしいとメッセージを送って、後は神宮寺さんが回復するのを祈るだけなのだが。
2、3日経った現状としては——今も彼女の席は空白のままである。
(……体調不良か)
体調を崩したと言えば、大抵風邪を引いたとかそういうのが多くて、そこまで心配せずとも問題ないのかもしれない。
それでも、こうして過度な程に病というものを意識してしまうのは——あの日に知ってしまった言葉が脳裏にこびりつくように記憶しているから。
(………………)
神宮寺さんの席の周辺で他のクラスメイトが何でもないように通りかかると、腰がぶつかって机がずれる。
それに気づいたクラスメイトが位置を戻して友人と談笑しながら教室を出ていった。
(………………はあ)
別に、それを見て気にしてほしいだなんて言うわけではないが。
数日も同じ光景だと——違和感も少しづつ常識に塗り替えられてしまいそうで。
空白の席に思いを馳せていると、そこから引き起こすように芽瑠が声をかけてくる。
「……でもさ、本当に何したわけ?先生に呼ばれるなんてさぁ」
「……そんなのは私が聞きたい」
早めに帰ってしまおうと考えていた私に呼び出しがかかったのがさっきの話。
ましてやその声の主が担任の先生となると緊張してしまうのも無理はないだろう。
当然、何かした覚えなんて当然ない。第一良くも悪くも目立つほどの人間ではないのだ。
成績は、まあ褒められたものではないのかもしれないが、それでも呼び出されるほど酷いことはないはず。
「まあ悩んでても仕方ないしさぁ、取り敢えず行けば?」
「うわっ」
脇の辺りにこそばゆい感覚が走って思わず体が跳ねてそのまま腰が浮く。
後ろを振り返ろうとして――両側からかかる圧力がぎゅっと強くなったのを感じて、思わず嘆息。
身をよじるのを諦めて、首だけを回して後ろを見やると芽瑠が私の両脇に手を差し込んで持ち上げていた。
「こうすると伸びてる猫みたい」
体重と、ついでに身長の差も相まって軽く持ち上げられてしまい、両足は地面から離れる。
昔から抱き癖のようなものはあったが、私の視線が芽瑠の肩に当たるぐらいの時にはもう浮かし癖と言える程になっていた。さながら愛玩動物のそれである。
「……素直に行くから降ろしてよ」
地に足着かずぶらぶらと揺れる足は、まるで内心の写し鏡のよう。
例え数センチといえど、宙に浮かぶ状態は名状しがたい不安を抱かせるし、何よりも掲げられてしまえば周囲の視線がよく刺さる。
身をよじってそう抵抗の意思を示すと、何がおかしかったのか芽瑠はケラケラと笑いながらようやく私の身を地面へと降ろした。
「……まあ、あたしはもう帰るけどね」
「え……終わるまで待っててくれないの?」
「そんなこと言われても……あたしこれから歯医者なんだわ、すまんね」
実は虫歯なんだよねー、なんてけらけらと芽瑠が笑う。普段から一緒にいるというのに、そんな素振りなんてここ最近見せていなかったから驚いた。
当然のように、いつもと変わらず帰るものだと考えていて若干安堵していたのだが、流石に病人をこき使うほど私は傲慢ではない。親しき中にも礼儀ありというやつだ。
まあ、なんだかんだ言いつつこうして親身になってくれる時点でありがたい話ではある。
「別に悪い話じゃないでしょ、多分」
軽い感じでそう言う芽瑠は、多分そこまで心配してるわけでもないのだろう。
さして変わった様子を見せず、普段通りニヤニヤと笑みを絶やさずに私を見やる姿は、その後ろに見える雨天からは酷く浮いている。
そんな姿に、どことなく安心している自分がいた。
■
生徒は教えられる立場であり、先生は教える立場。私は前者で、先生は後者。
立場の持つ意味は名称以上に重いものだ。要は――それだけ私がビビっているという話。
こうして呼び出されるなんてことがない限り、職員室なんて場所は滅多に訪れるような場所ではないだろう。
今目の前には紙の束が高く積み上げられているのが広がるだけ。私の身長がそれなりに低い事を加味してもまあまあな高さである。私のように制服を着た人間は見当たらない。
名前も知らない教職員たちの話し声やキーボードをカタカタと鳴らす音がよく響いていた。
「プリント、ですか」
そんな中、職員室の端の方に担任の机は位置していた。
机の上はここから見える他の先生に比べたら随分と整頓されているらしく雑然とした空間の中では落ち着きのようなものが見られて――今まさに向けられている朗らかな笑顔のような、私が抱く先生へのイメージと合致していた。
「はい。神宮寺さんに提出してほしいプリントがあって、それを届けてほしいんですよね」
そう言って目の前に差し出されたのは一枚のクリアファイル。
濁った透明のそれは中身まではよく見えないものの若干白く染まっていて、中には何かしらのプリントが入っているのが見てとれた。
「わ、私がですか……?」
言われたことはよく分かるのだが、それにしても自分がその役割を果たせと言われるのが意外というか。
元より学校生活において交友関係の狭さを堂々と見せつけたものである。故にこういった事を頼むには不適よりであるし、そもそも何かと厳しい今の時代にそう易々と個人に関する情報を他人の手に渡らせてしまうのは些か不用心でないかとも思う。
何よりも――その相手が直近に似たような事案を引き起こしている人間であれば、尚更。
「まあ、提出自体まだ余裕はあるんだけど……出来るなら早めの方がいいので」
勝手に沈む私の内心とは違って先生の言葉は軽く、せせらぐ小川のように言葉が流れる。
「それで、仲がよさそうな田井中さんに頼もうかなと。神宮寺さんも友人が来てくれたほうがいいでしょうし」
ここで私が首を横に振れば、話はそれで終わり。
他の人間か、もしくは先生自身かは分からないが、どういった形であれいつか神宮寺さんの元へプリントは届くのだろう。
だったら後は早いか遅いの違いであり、出来るだけ早めに済ましてしまおうという考えは利口である。
「……分かりました」
そこまで考えて、私は首を縦に振った。
結局のところ、元より断るつもりなど微塵もないのは私自身が一番よく理解しているのだ。
「ありがとう!このファイルに入ってるから渡してあげてね」
私の返答に先生はどこかほっとしたように笑顔を深めてファイルを両手で渡してくるので、同じように両手で受け取る。
指先に触れたファイルがその硬いようで柔らかい独特の感触を誇示しだした時、私の頭の中は先生に言われた単語の存在が大きくなっていた。
(友人、か……)
友情という繋がりを持つものを友人という。
その言葉はよく知っていて——けれども、知っているだけだ。
ほどよく会話はする。お昼ご飯を一緒に食べたし、家に集まって勉強会をして、休日に出掛ける経験もした。
私と神宮寺さんの関係は、多分友人と称するに相応しいのかもしれない。
ならば私と彼女の間に友情という繋がりが存在するかと言われれば、私はそれを断言できない。
(………………)
人の心は未知である。
何でもないように振る舞う芽瑠は虫歯の痛みを耐えていて、朗らかに笑みを浮かべる彼女は鬱だった。
悟らせないその素振りが上手いのか、私の察しが悪いのか、もしくはその両方か。
どちらにせよ——倒れそうな内心を抱えていてもなお変わらぬ笑顔を向けられるその事実が、少しだけ怖いと思ってしまうのは薄情なのだろうか。
それは、心にしこりを残すような、自分でも分からない感情。
分からないものは、分からなくて、怖い。それはいつだって私の心を縛り付けてきたものだった。
(………………)
要は、友人は目に見えるものだが友情はその限りではないという話。
触れ得る人と見えぬ情の差。ある種の言葉遊びでしかないような、たった一文字程度の違いは――されど、確かに足踏みさせるには十分な力を持つ。
「あ、住所教えてなかったけど――」
「い、行ったことあるので、分かります大丈夫です……」
うだうだと悩む思考の中に先生の声が入り込む。
神宮寺さんの住所は前に訪れたことがあるので知っているし、単純にこの慣れない場所からさっさと出ていきたいという思いが先行して被さるように返事をしてしまった。
私の返事を聞いて、細められていた先生の目が大きく開ききょとんとした表情を浮かべたと思えば、何が面白かったのか口元を手で覆い隠しながら上品に笑い声をあげた。
「やっぱり、仲がいいですね」
■
心の有り様程度で現実がどうにかなるわけでもなく、しなしなと萎える私の内心など知ったことではないと雨は無情にも降り続いて肩を濡らし続ける。
萎れているからといって草花に水を与えすぎてもよくないことを見下ろす雨雲が知るはずもないのは当然のことだった。
(誰もいないな……)
学校から出て慣れない道を一人歩く。
私自身が比較的小柄であるにしても、相応に小さい折り畳み傘では予想通りその役目を十分に全うすることが出来ていないようで、吹く風と共に体は冷えゆく一方。
降る雨の勢いは随分と増していて傘を叩く雨粒は突き破らんとするほどにうるさく出張するが、それでもこの瞬間を静かだと感じてしまう自分がいる。
周りには人影は見られない。それだけで世界はずっと静かだ。
聞こえてくるのは私自身の音だけで、喧しくも安心させるような声や、聞いていて心の安らぐ声は聞こえない。
「………………はあ」
なんとなしに息を吐き出すと輝いているような白い息が靄のように薄暗い空へと昇っていく。
普段なら気にするまでもないような自然現象だが、今だけはその光景がよく目についた。
どうやら、私は自分が思っているよりもずっと不慣れに慣れてしまったらしい。
そう考える自分を自覚すると——肌を伝う雨粒の冷たさをもよく理解させられる。
(………………)
私からすれば、慣れというのは言ってしまえば毒と同じようなものなのだ。
例えば、何か競争があるとして、だが何もせずともその一番を常に取り続けられる環境にいる人間。
例えば、何らかの理由で悪意を振るわれて、何も言い返さずに諦観と共に耐える人間。
例え話としては些か大袈裟だが、2つの方向性が全く違うものでも行きつく先はよく似ている。
忘れてしまうのだ。
片や喜びを、片や痛みを。それらを快も不快も区別なく等しく受け入れる。
胸中に確かにあったはずの感情は慣れとか当然みたいな言葉で覆われてしまう。
(………………)
少しばかり、背筋が凍るものがある。
近くにいるのが当たり前になって、声が届くのも当たり前になって。
そうした慣れの先にあるのがこの冷たさであるのなら、やっぱり私は少し怖いと思ってしまう。
それが——殊更に甘い毒であるのならなおのこと。
(ん……)
暗色で埋め尽くされていた視界の上の方でパッと光が瞬いた気がして上を向いてみると、聳える街頭がチカチカと光るのと同時に遠くからチャイムの音が微かに聞こえてきた。
曇り空が太陽を隠してあまり正確な時間はわかっていなかったが、多分太陽も沈みかけだ。
私の歩く先、視界の前方に連なるようにパチパチと街頭が点灯していく。
街頭の光は暖色系の光を発していて、直接触れてはいないのにまるで炎のような熱を持っているように感じた。
それは、そうであって欲しいという幻覚と同じ類の考え。意味のない妄想の話。
(………………)
だが、だからこそ。
人が火を恐れて、それでも焦がれてしまう気持ちが何となくわかる気がする。
「…………寒いな」
街頭を辿るようにして足を早める。
私も——一刻も早く冷えた体を温めたい。
■
神宮寺さんの家がある近くまで来たが、悪天候のせいか住宅街だというのに相も変わらず人の姿は影すらも捉えられない。
まあ私だってこんな雨の中では外出する気分になんてならないが。
それでも、こうして濡れることを厭わず歩き続けていることが、私にとってこの瞬間の価値がそれだけのものであることを悠々と示しているのだ。
「あ、見えてきた」
記憶を頼りに慣れない道を進んで行くと視界の奥の方に見覚えのある家が見えてきた。
前に訪れたのは数週間と前だったが、当然変わらずに佇むその姿にどこか安心感を憶える自分がいた。
一歩踏み出して、足元にできた水面に薄く波紋を広げながらインターホンの前まで辿り着く。
玄関先に位置するインターホンは雨に降られ続けてよく濡れている。
取り付けられたレンズから涙を流すように雨水が滴って、その瞳の中にこわばった顔の私を見つけた。
そんな自分の姿が情けなく思って、意を決して少しだけ強めにインターホンに触れた。
「………………」
指先にボタンの弾力が跳ね返る。
ざあざあと降り続く雨音の中インターホン特有のざらざらとした音質の音がやけに大きく響いて——けれども特に反応がない。
(家にいる事は確かなはずだけど……)
もちろん例外はあるだろうが、体調不良だと聞いているからどこかに出かけているのは余り考えられない。
インターホンを鳴らしてから特に反応も見られず、外から見た感じだと恐らく電気も点いていないように見える現状も相まって不安を搔き立てる。
一応、学校を出る前に家へと向かう旨を神宮寺さんに連絡を入れたのだが、ここに来るまでスマホに触れていないのでその意思が伝わっているかどうかは分からない。
(……どうするべきかな)
体調不良なのだから今は寝ているのかもしれない。だとしたらもう一度インターホンを押して起こしてしまうのは忍びない。
だが、仮にそうだとしても手元の預けられたプリントがどうするべきかという問題がある。
正直な話、こうして他人に委ねられる程度ならばそこまで重要な類のものではないだろうからポストにでも投函してその旨を連絡を入れておけばいいとも考えた。
だが私の性格的に、いくら相手が神宮寺さんであれど自分が認識しないところで事が進むのは不安が残る。
何よりも——単純に、この目で神宮寺さんの姿を見たいという気持ちもある。
無論、その気持ちは元気な姿を見たいという心配心から来るものである。
とは言え、そうして欲をかいて痛い目にあったのも随分と最近の話であるのだが。
(んー……)
こうしてうだうだと悩んでいる間に何か反応があればよかったのだが、残念ながら未だに反応はない。
そんな現実の冷酷さというものを知らしめるかのように降る雨の勢いは更に増して私の体から熱を奪い続けていた。
体が濡れる事に関してはもうどうしようもないので諦めているが、それでも服と肌が一体化したかのようなこの独特の不快感は現状も相まって想像しているよりもくるものがある。
(……もう1回押して出なかったらポストに入れようかな)
流石に自覚できる程度には体が冷えてきている。このまま粘って私も体調を崩してしまっては元も子もないだろう。
そう考えて、もう一度インターホンに指を伸ばそうとしたその瞬間——視界の奥の方でドアが開かれるのが目に入った。
「あ……」
ゆっくりと開かれるドアの動きが焦れったく感じて、側へと駆け寄ってみると。
半開きになったドアの奥から覗き込むようにこちらを伺う神宮寺さんの姿がそこにはあった。
覗き込む神宮寺さんの顔は元より色白ではあったものの、暗くなり始めた周囲の光景も合わさってそれがより際立っているように見える。
体調不良というのがどの程度であったのかは分からないが、一目見た感じだとそこまで辛そうにしていないように見えて少しだけ安心できた。
あくまでも、表面上は。
「……あ、えっと、その……こんにちは」
「あ、こんにちは……」
体調に関してだとか、持ってきたプリントの事とか、話したいと思ったことは多く思い浮かんでいるのにいざこうして対面してみると何故か思うように言葉が出てこない。
会わなかった期間は数日でしかないはずなのに、まるで初対面かのような反応でお互いに挨拶を交わす。
緊張している、というよりかはこの不慣れなシチュエーションにそわそわしている私の心模様が伝搬してしまっている感じ。
気まずいようなそうでないような、何とも言えない空気が私たちの間に漂っていた。
(……あれ?)
これ以上何か発するわけでもなくゆっくりと開かれる扉を眺めていた。
扉が半分ほど開いた所で、もたれかかるように扉を開く神宮寺さんの姿が現れてくると——その姿に、形になろうとしていたあれこれは見事に雨音の中に溶け込んでいってしまった。
(あんま、見ない格好だ……)
完全に開ききったドアの先に神宮寺さんの姿全てが視界に晒される。
特に装飾のついていない淡い菫色のシンプルなルームウェア。
前開きのデザインでボタンは上から下まで全てかっちりと留められていて、少しサイズが大きいのか袖口の部分からは色白の手先が見え隠れしていた。
(………………)
よく考えてみれば神宮寺さんと会う時というのは専ら学校の中での話で、記憶の中にある彼女の姿も制服のものだけだ。
一緒にこの家で勉強会をした時も学校からの流れで制服のままだったし、唯一例外なのは三人で一緒に出かけた時に見たワンピース姿だけである。
要は、つまり。
私は今まで彼女の真にプライベートな姿を見たことがなくて——そして今、それが目の前にあるということだ。
「その、今まで寝てて……だから格好は気にしないでいただけると……」
「え、あ!ごめんなさい!」
気づかぬ内に凝視しすぎてしまったのか、神宮寺さんは私の視線から体を隠すように片腕を抑えて僅かに身をよじらせる。
さわさわと落ち着きなく腕をさするその手先は、さっきよりもほんのりと赤みを増しているように見えた。
「えっと、これプリントで……あ、一応メッセージも送ったんですけど」
「メッセージならさっき見ました……わざわざありがとうございます、こんな雨の中……」
慌てて鞄の中から取り出したプリントを神宮寺さんへと手渡す。
この雨の中だから肩にかけていた学校指定の鞄もかなり濡れてしまっていて少し不安になったが、幸いにも中身に被害はなかった。
「ありがとうございます……」
「いや、全然大丈夫ですよ……!」
神宮寺さんは両手で抱えるようにプリントを受け取ると、丁寧にも頭を下げられてそれにつられて私も軽く数度頭を下げる。
プリントが確かに神宮寺さんの手元に渡ると、文字通りの意味で鞄の中身が軽くなる。
冷静に考えて、たかがプリント一枚の重み程度で感じられる鞄の重さの差異なんてあってないようなものだが。
その実態以上に肩の荷が降りたのも、また事実だった。
「………………」
「………………」
為すべき事は為した。神宮寺さんも病み上がりだろうし、迷惑にならない内にささっと帰ってしまおうと考えたのだが。
律儀にも下げられた頭が元の場所に戻った後、じっと私を見つめる彼女の視線を感じ取った。
「………………」
(なんか……すごく、見られてる……)
始めに視線が交わった。その後に、首筋の辺り。胸元、腹部。太もも。爪先。
一番下まで辿り着いたら爪先から太ももに。その後に、腹部。胸元。首筋。そうしてまた、視線が交わる。
頭の上から爪先へ。爪先から頭の上へ。何度も何度も執拗に。
彼女にしては珍しく無遠慮で大胆に——体全体を撫でるかのように、ゆっくりと視線を動かす。
(うう……どうしたんだろう)
もしかして、あれなのか。
今日最初に会った時、私が慣れない神宮寺さんの姿を見て惚けてしまったその意趣返しかなにかだろうか。
だとしたら、完全に私の落ち度なので甘んじて受け入れる他取れる行動はないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「………………」
「………………」
お互いに何かを発することはない。二人の間には降る雨音と、少しだけ荒くなった私の呼吸音だけがこの場を支配している。
そんな中でも私の体は未だに視線に晒され続ける。そのままの勢いで制服に穴が開いてしまうのではないかと錯覚してしまう程に。
(ちょっと、恥ずかしすぎるかもしれない……!)
どくどくと心臓が逸って、顔に熱が集まるのがよく自覚できる。
視線に晒された部分は僅かな羞恥によって熱を帯びて、ついさっきまで忘れかけていた濡れた制服の冷たさを思い出させた。
「……へっくし」
その感覚が引き金となったのか、私の口から漏れ出たくしゃみがざあざあと降る雨の音の中で鮮明に響いた。
5分か、10分か、あるいはそれ以上の時間か。神宮寺さんの家に辿り着いてからどれくらいの時間が経ったのか正確には分からないが——雨水を吸って重さを増した制服が私の現状をよく示していた。
「……あ」
寒さに震える私の姿を見て、神宮寺さんは何かを発しようと口を動かそうとして、だがその口からは意味のある言葉ではなくかすれたか細い息が漏れ出た。
何もない場所から無理やり絞り出したかのようなその息は、薄く白い靄となって私と彼女の間に溶け込んだ。
「えっと、じゃあ……お大事にして、体調よくなったら、また学校で——」
全く意図した形ではないが沈黙は破られた。
これ幸いというわけではないが、時間も丁度いいだろうと思い切って自分から言葉を投げかけてみる。
それと、自身のくしゃみを聞かれてしまった事への羞恥心も、多少は、ある。
そう思って、半ば逃げ出すように神宮寺さんへと背を向けようとした瞬間——
「——っちょっと、待ってください!!!」
「うわっ!?」
自分の腕先が暖かくて柔らかい感触に包まれたと思ったら、存外に強い力によって踵を返そうとした足が一歩後ろに下げられる。
その勢いで崩れそうになる体勢を整えようと足をどうにか動かすと私の体はさっきまでとは正反対の方向に戻される。
だからその先には——当然、私の腕を両手で掴む神宮寺さんの姿があった。
「あ、神宮寺さん?……えっと、何か?」
驚愕と困惑と、手首の辺りに感じる温もりにほんの少しの羞恥と共に声をかけると、一瞬の沈黙の後まるで今自分の状態に気が付いたかのように神宮寺さんがたじろぐ。
掴んだのは神宮寺さんだというのに、何故か神宮寺さん自身が一番驚いたように目を開く。
「あ、えっと……その……」
不思議な反応だった。
表情は不安げで、まるで気まずい事がばれた子供のようなのに、けれども頬は指先の持つ熱のように微かに紅潮する。
視線が揺れて、時折握った手をちらちらと不安げに確認して、まごついた口元からはかすれ音が漏れ出る。
そんな光景を——自分の事のように、私はどこかで知っている。
「………………」
だからこそ、私は何も言わず握られた手にそっと手を添えた。
手に触れると、神宮寺さんは一瞬大きく体を跳ねさせて目を丸くして私の方を見やった。
掴んだ腕は——まだ離されていない。
「………………あの」
沈黙は長いようで、多分そうでもなかった。
言葉は小さく、ぽつぽつと滴る雨水のように神宮寺さんの二人の間に広がって波紋を作る。
「その、すごい雨が降ってて。でもそんな中でもプリントを届けてくれて、すごく嬉しいんですけど……やっぱり濡れちゃって、その……寒いと思うんです、すごく……だから 」
下げられていた視線が真っ直ぐと私を捉える。
外と内の湿度の差なのか神宮寺さんの眼鏡は少しずつ白く靄が薄く広がっていく。
その先にある瞳がどんな光景を映しているかは、私には分からない。
「……今から家に、来ませんか?」
「……………………へ?」