『さて、来週には
リビングから聞こえてくるローカルなニュース番組の音を背に玄関へと向かい、しゃがみ込んで少し緩くなって解けかけている靴紐を固く結ぶ。
そうした後に立ち上がってスマホに反射する私の顔を覗くと、特に何の感慨も見せない自分の顔が映っていた。
何となく、その姿が気に入らなくて前髪の位置をほんの少しだけずらしてみた。
「……まあ、よし」
声に出す程、別によくはないけど。だけど悪くもない。
普段から変わらずやっている事だが、今日だけは何となく意識して行う。
一連の流れを玄関ドアの窓越しに透ける陽の光が照らしていた。
「あっつ……」
意を決して玄関ドアを開くと、濃さを増した夏の日差しが苛めるかのように私を出迎えてきて踏み出したはずの一歩を思わず後退しかけた。
7月後半ともなってしまえば見下ろす太陽の視線も随分と熱が込められるもので、日に日に過激さを増すアピールに私は辟易としていた。
じんわりと肌に汗が滲む。私とて、嗜み程度に化粧はしているがこうも陽の下に晒されるのであれば流石に日焼け止めの追加も考えねばならないようだ。
夏は考える事が多い気がする。暑さで脳が焼かれてしまうというのに。
だからか、私は夏があまり好きにはなれなかった。
「なーんか、朝から憂鬱そうじゃん」
扉を開けたその奥から、沈み気味の私と違って普段通りの感じで声が届いてきた。
視線を向けると 胸の前で両腕を組んで壁にもたれかかって照らす陽の光の如き笑顔を携えている芽瑠の姿がそこにはあった。
私の姿を視認したらしい芽瑠はこちらへと軽く手を振る。
既にその全身は陽の下に晒されていて。動きに合わせて揺れる艶のある黒髪がよりその存在を誇示しているかのように見えた。
「……そもそも朝はいつでも憂鬱でしょ」
その姿が若干寝不足気味の頭にはいつも以上に眩しく見えて目を逸らしたが、そうして逸らした先には陽の光を反射してキラキラと輝くアスファルトが目に入ったので結局芽瑠の方へと視線を戻した。
そんな私の姿を見てやたらと嬉しそうにけらけらと笑うものだから答えるのも早々に足速にして芽瑠の横を通り過ぎて歩き始める。
そうすると後ろに位置していた芽瑠が直ぐに追いついて私の一歩前を歩き始めた。
たった一歩の違い。これもまた普段と変わらない事だった。
「いやーめっちゃ夏って感じだねぇ」
「……たぁしかに」
一緒に漏れ出そうになった欠伸を嚙み殺して返事をする。
少し前には未だに路傍で紫陽花が梅雨に濡れた顔を覗かせていたというのに今では伸びきった蔦の足跡だけが残るのみ。
そういえば、今朝居間で流し見した時にテレビに全体的に赤く染まった日本地図が映っていたなと思い出す。ここら一帯はまあまあ熱い程度で済んでいるがあれこそまさしく夏といった感じである。当事者としてはたまったものではないが。
「しかしまあ、半年ぐらい?いや違うか。まあ、何かあっという間だったねーもう明日から夏休みに入るってやばいよ」
「……まあ、確かに」
どこか感慨深さのようなものを滲ませて芽瑠が言った。
そうなのだ。芽瑠の言う通り明日からは夏休みに入る。つまりその前日である今日は、終業式の日だった。
そしてそれこそが——今朝から私の頭を少しばかり悩ませている原因でもあった。
■
終業式とはいえ、やる事はただ記憶に薄い校長先生のありがたい話を頑張って聞き流すだけだ。
しかもそれも、体育館に集まるわけでもなく教室で座りながら放送を聞く形式なので非常に楽だった。
スピーカー越しに聞こえるざらついた音声がやたらと睡眠を誘導してくるような気がするのは多分、話の退屈さもあるだろう。
だから私は普段通りに視界の端に神宮寺さんを捉えて暇を潰していた。
悟られない程度で周囲に視線を巡らせると、スピーカーから放たれる術に嵌ってしまったのか既に夢の世界へと旅立とうとするクラスメイトも見受けられた。
そんな中でも神宮寺さんは当然真面目に話を聞いていた。それも背筋を伸ばして律儀に音の流れているスピーカーの方向を見ながらだ。そういった風に真面目な所も変わらず如何にも彼女らしいと思うのだが——そんな彼女にも、この頃になって明確な変化が1つあった。
(……揺れてる)
神宮寺さんが少し動くと、それに合わせて小さな塊がその存在を誇示するかのようにふわりと揺れるのが視界に映る。
所謂、ローポニーテルとでも言うのだろうか。神宮寺さんが珍しく髪を結っているのだ。普段ならば帳のように視界の端に映るその後ろ姿はここ最近うなじの辺りで軽くまとめられていて普段とは違う姿を覗かせていた。
私が覚えている限りで、神宮寺さんの髪型は出会ってから特に大きく変わることはなかった。長さに関してはそれこそ今までだって結べる程度にはあったのだが、見ていた感じだと長さは変えずに毛量だけ梳く形で整えられていた。
それでも肩にかかる程度に収まっていたし、そんな姿もまたよく似合っていたのだが、流石に神宮寺さんもそのままでは暑いと思ったのかここ最近では後ろ髪を結って外に出るようになったらしい。
また身動ぎに合わせて、耳よりも下辺りに小さくまとめられた結び目がゆらゆらと揺れる。
そうすると——隙間から見えるうなじが、眩しいぐらいにきらりと光るのだ。
(………………)
なんとなしに、周りに視線を向ける。そこには当然クラスメイトの姿があるのだが、流石に彼ら彼女らもこの暑さに辟易としているのか大きく腕を捲っていたりして普段よりも肌色が目に付く。
時節に伴うその変化は別におかしなものではない。些細な変化だ。
ただ、そこに神宮寺さんの姿があるのが——少し、不思議に思ってしまう私が何故かいた。
「——では、これで今日は終わりです。夏休み中の行動には気をつけてくださいね」
取り留めのない思考に耽っていると、気づけば放送は終わっていて担任による締めの言葉が耳に入ってきた。
その言葉を皮切りに聞く姿勢を解いたクラスメイト達の浮ついた空気が徐々に教室を支配する。
「やっと終わった~」
そしてそれは後ろに座る芽瑠とて例外ではない事は、肩にかかる圧力と温もりが雄弁に語っていた。
上機嫌な声と共にぱたぱたとリズミカルに左右の肩が叩かれると、手に触れた私の髪が時折頬に掠めてまあまあ鬱陶しい。
もう随分と慣れてしまったその感触に私は振り返る事もせずただされるがままに体を前後に揺らされ続ける。
「なんか時間めっちゃ経ったと思ってたけど全然時間経ってなくてビビるね」
「まあ、たしかに」
芽瑠の言葉に教室の時計を見てみると、時刻はまだ正午を迎えて少し。
通常授業はそもそもなく事前に早めに終わるとは知っていたが、それにしてもこの時間帯で学校を終えるという経験はそうそう無いのでどこか浮ついたような奇妙な感覚を抱いていた。
「でさー……ご飯どうする?」
「んー」
カチカチと進む秒針を眺めていると未だに私の体を揺らし続けながら芽瑠がそう主張してくる。その言葉を聞いて、僅かに空腹感を訴えてくる自分自身に気が付いた。
先に言ったようにこのぐらいの時間帯で終わるという事で今日は昼食を持参していない。
そしてこの時間だと両親は仕事でどちらも不在なので昼食に関しては自分でどうにかする必要があるのだが、こういった場合大抵芽瑠と共にお昼を食べる事が多かった。
幼馴染という間柄も理由ではあるのだろうが、別にどちらが約束をしたとかでもなく、多分今までずっと同じクラスで帰るタイミングも一緒だったから続いていた話だ。
だからそれは慣習というよりも、どちらかと言えば癖のようなものに近かった。
「んでさ、多分何も家にないでしょ?だから外で食べようかなって思うんだけど」
「外で?別にいいけど……珍しい」
およそ16年と芽瑠の幼馴染をしているわけだが、実は私と芽瑠の二人で外食をする事は余りなかった。
私自身が出不精なのでそもそも外に出る機会が少ないからである。私の性格を熟知しているのか芽瑠も私を誘う時は外に出るのは程々で、その後にどちらかの家でだらだらと過ごすのがほとんどだった。
ちなみに、どちらかの家で食事をするとなると大体の場合私が調理担当である。
芽瑠の料理より私の方が上手いから——などではなく、単に芽瑠本人からリクエストされるから。
何故そんなリクエストをしてくるか見当も付かないし、私とて別に多くを作れるわけではないのだが——何を出しても満足そうに毎回美味しい美味しいと見えない尻尾をぶんぶんと振り回されるのは、まあ悪い気はしなかった。
とにかく、こうしてわざわざご飯を食べる為だけに外出しようと誘ってくるのは珍しい話なのだ。
芽瑠の言う通り家に何もないのは事実だ。お金だけ唯一不安だが、まさか高いビルの上の方にあるみたいな高級な場所にでも向かうわけあるまい。
「だって今日学校最後じゃん。そういう日ぐらい派手に行こうよ」
「……なるほど」
芽瑠の語った理由は言うなればノリや勢いというのに属するものだった。
芽瑠は昔から最初とか最後みたいな丁度いい節目の部分や記念日なんかを好んでいる人間だ。だから自分の誕生日なんかだと日付が変わった瞬間から祝ってアピールが開始されるのが恒例である。
反面、私は興味がないという程ではないが関心は少ない方だと自負している。
「あ、じゃあ神宮寺さんも誘っちゃお。おーい神宮寺さーん」
何の前触れもなく芽瑠がそう言葉を発する。
その言葉の意味を正しく理解する前に後ろからガタガタと騒がしい音が聞こえると思えば、肩にかかる圧力がぐっと増して思考が中断される。芽瑠が私の肩を支えに立ち上がったのだ。
私がかかる重さに沈みかけた体に力を込めている中でも、私に対して遠慮の欠片も見せずに芽瑠は神宮寺さんへと手を振っていた。
その手の向かう先を見てみると、帰ろうとするクラスメイトとは逆に扉をくぐって神宮寺さんが教室に入ってくるのが見えた。恐らくお手洗いからの帰りだろうか。
「……田井中さん、橘さんお疲れ様です」
芽瑠の声はざわざわと浮足立つ教室の中でもよく通るもので、それに気が付いた神宮寺さんがこちらへと視線を向ける。
私たちを視認すると少し不思議そうな表情を浮かべながらも、一度自分の机に寄って鞄を手に取ると両手で抱えてこちらへと向かってきた。
「神宮寺さんおつかれー。今から麻音とファミレス行こうぜって話してたんだけど一緒にどう?」
「それは……ご一緒してもいいんですか?」
どこか控えめに神宮寺さんがそう答えた。言葉には遠慮のような感情が滲んでいて、言葉尻がどんどんと小さくなっていって最後の方はざわめく空気の中に溶けていった。
「もちろん!麻音もそうでしょ?」
「え……まあ、そりゃ」
流れる大河の如くただ身を任せていればまとまるだろうと話を聞いていたのだから、自分に話の先が向けられるとは思わず口ごもってしまう。
そうは言っても答えは1つなのだ。元より私は誘われた身であるから断れる立場にはないし、その相手が神宮寺さんであれば尚更の事であるのは芽瑠もよく分かっているはず。
それでもこうして話芽瑠が話を向けてくるのは花を持たせるべくか、あるいは。
「………………」
神宮寺さんが何も発さずにじっと私を見つめる。向けられる表情はよく読めない。ただ黙って私の言葉を静かに待っていた。
(ん……)
どう伝えるべきか答えあぐねていると。ふと、その後ろでクラスメイト達の姿が見えた。
どうやら彼らはお互いの席の周りに集まってこれからの夏の予定を語っているらしくその様子は非常に和気藹々としていた。
ここから彼らまでそこそこの距離だがそれでも何を語っているかがわかってしまう辺りその浮かれ具合がよく伝わってくるというもの。
本来ならばその声量は迷惑に思う人間がいるかもしれない程の大きさだったが、解放感とでもいうのか今日はどこも似たようなもので夏の日差しのような輝かしさを放っていた。
(そりゃそうか、最後なんだよな)
朝から学校に訪れて夕方より少し前に帰る。そんな生活にも随分と慣れてきた時にこの長期休暇である。
要はつまり、私にとって夏休みは縁の一時的な切れ目でもあるのだ。
(………………)
特に、私の夏休みはいつだってそれが顕著に感じられた
クラスメイトに出会う事はなく、休暇中いつも会うのは家族を除けば芽瑠のみ。それも芽瑠だっていつでも私に会いに来るわけでもないので、多くの場合一人で過ごすことが多かった。
(1か月か……)
一月は長く、そしてあっという間だ。たったそれだけの時間で、こんなにも熱浮かす太陽が鳴りを潜めて夏は過ぎ去ってしまうというのだから。
時間の流れは絶対で、誰にでも等しく訪れる。
薪を与え続けなければ篝火はいつしか消えてしまうし、氷を放置すればやがて溶けていく。
そしてそれは——多分、今の私と神宮寺さんにも言える事だと思ってしまうのだ。
「……一緒に、どうでしょうか」
一度口に出してしまうと、その事実が確かに刻まれてしまいそうで。
だからこそ、その言葉を伝えるのに少しの躊躇いがあった。
「……わかりました。それならご一緒させてもらいますね」
そんな私の様子に何か思うところがあったのか、神宮寺さんは二度ほど大きく瞬きをした後、顔に笑みを浮かべて小さく頷いた。
「やったー!神宮寺さんと外食って初めてだよねー」
「わっ……そ、そうですね。あまり外では食べないので……」
その答えを聞いて、芽瑠は私の体から手を離して神宮寺さんの目の前まで近づくとその手を取って恐らく上下にぶんぶんと振っていると思われる。私の視界には芽瑠の背中が被さって神宮寺さんの姿は半身の更に半分程度しか見えないが、聞こえてくる声の弾み具合とその背中に幻視する揺れる尻尾から容易に想像出来た。その奥から神宮寺さんの戸惑ったような声も聞こえてくるが、少し声が揺れているのは多分手を離さずにされるがままなのだろう。
そんな所も神宮寺さんらしいと考えつつ、そろそろ芽瑠の動きを止めようと立ち上がりかけた時だ。
(……ん?)
ふわりと。ふいに、小さく吹いた風と共に鼻腔に嗅いだことのない香りが届いた。
感じた方向を見やるとそこには未だに神宮寺さんに戯れている芽瑠の姿。神宮寺さんもされるがままらしく、体に併せて揺れる黒髪に光が反射して小さな宇宙がキラキラと光っている。恐らく香りの出処はあそこだろう。
ミントのように清涼感のある香りで本来ならば特段意識するようなものでもないそれは——だからこそ強烈な違和感のように私の意識に差し込まれる。
(……神宮寺さんって、こんな感じの匂いだっけ?)
あくまで覚えてる限りだが、私としては神宮寺さんは柑橘系の匂いの印象なのだ。
実際に会う時もそう。家にお邪魔した時もそう。少しの甘さと清涼を併せ持った落ち着きのある匂い。それが香水か何かを付けているのか、それとも神宮寺さんそのもの匂いなのか私には判別できないが、とにかく神宮寺さんはそうだったはずなのだ。
「けほっ」
再び確かめるように控えめに息を吸い込んでみたが、肺に届いた空気はツンとした刺激を伴っていて、それでいて甘さや苦さ、酸っぱさを持ち合わせていた。
それはまるで、ドリンクバーにある飲料を全部混ぜたみたいな仄暗い無邪気さ。
ドロリとした何かが胃に落ちてきて空っぽの吐き気がやってくるような気がしたから、思わず咽せる。
「んー?どうしたの咽せちゃって」
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……気にしないでもらえると……」
心配する二人の視線を受けて問題ないと手を突き出してアピールして、その傍らで新鮮な空気を求めてもう一度大きく息を吸う。
今度の空気は、何の味も匂いもしなかった。
■
学校から歩いて大体10分と少し。駅前のビルの地下にそのファミレスはあった。
昼時を過ぎたこの時間帯では駅前の人も疎らだが、それとは打って変わってファミレスの中は従業員が忙しそうに動いて活発で少し待たされた後に私達3人は席に案内された。
「こんな感じになってるんですね」
「神宮寺さんは初めて来た感じ?」
「はい。実は初めてで……」
目の前で芽瑠と神宮寺さんが話しているのを尻目にタッチパネルをいじって商品を頼む。
三人で訪れた私達はボックス席に案内されたわけだが、そうなると必然的に二人と一人に分かれて座る事になる。
結果的には今の状況が示しているように芽瑠と神宮寺さんが二人、私は全員分の荷物を窓側にまとめて置いてその対面に座っていた。
まあ、私は最初から一人で座ろうと考えていたので何も言う事はない。注文を終えタブレットを元あった位置に戻して二人に話しかける。
「……注文し終わったけど」
「おー終わった?じゃあドリンクバー行こうよ」
「私後でいいよ。荷物見てるから二人で先行って」
「それなら田井中さんのも一緒に持ってきますね。何にしますか?」
「あ、じゃあ……コーヒーで」
荷物の近くに座っているから丁度いいとそう提案すると、そんな私を見かねたのか神宮寺さんが親切にも提案してくれた。
正直な話、私としては頼んだランチのセットにドリンクバーが付いているだけで別に喉の渇きを潤すだけならセルフサービスの水で十分なのだが、折角の申し出なので受け取る事にした。
その際、普段飲むことなんてないコーヒーを頼んでしまったのは——ただの気まぐれだ。
「……まあいいや。行こうか、神宮寺さん」
「……?わかりました」
芽瑠が何やら思案気な表情を浮かべていたが、少しして納得したのか神宮寺さんを連れて向こうへと歩いて行った。
芽瑠と神宮寺さんの2人が去っていった方向を視線で追いかける。そうすると、商品を持って歩く従業員の姿や席に座ってポテトを囲んでつまむ同い年ぐらいの客の姿がちらほらと視界に映る。
(しかしまあ……)
従業員が運ぶ盆の上の焼けた肉とか、あそこで囲まれているポテトだとか、隣で美味しそうに食べられているイチゴパフェとか。
ここはファミレスなので当然なのだが、空腹感をくすぐる匂いがよく充満している。それ以外にも人の微かな体臭や、それを覆い隠す香水らしき匂いも相まって情報が濁流のように嗅覚へと訴えてくるのだ。
私が人よりも匂いに敏感なわけではないとは思う。取り分け過敏に反応してしまうのは——変化に対してだ。
前まで普段からずっと似たような行動ばかりを取っていた私にとって、過ごす日常とは変わらない事が当たり前が故にどれだけ些細な変化であろうと大きな違和感として映る。
そんな人生に、些細な天変地異が起きて——それが自分にとって当たり前になった時、だからこそ変わりゆくモノを極端なまでに嗅ぎ付ける。
(……やっぱり、違う)
神宮寺さんが去った後。意識的に呼吸をすれば、残るのはミントのような清涼感のある香り。
ここに来る前に学校で感じた香り。気のせいではなく、さっきよりもずっと強くなったその匂いの発生源は間違いなく神宮寺さんだった。
(………………)
それが分かると、次はそうなった原因を知りたくなるのが人の性というもの。
新しく香水でもつけたのだろうか。神宮寺さんは普段からナチュラルよりであまり化粧っ気がなくてそういう素振りは見せなかったが、それでも十分彼女の魅力というものをよく引き出しているし寧ろ華美な飾り立ては無粋とすら言えるし——とにかく始めた理由というのが気になる。
(ん?)
ふと、近くから騒がしい店内には似つかない子気味の良い音が耳へと入ってくる。
トントンと一定のリズムで流れるそれは心音よりも少し速く、小さいはずの音は何故かはっきりと耳に残る。
音の出どころは——机を小さく叩く私の指先だった。
(………………はあ)
かぶりを振って立ち込める暗雲を散らす。今までも、多分これからも意味のない思考だ。
考えたところで、知ったところで、どういう理由であれど私が言える事なんて何もないじゃないか。
長く、大きく息を吸い込んで、吐き出す。だが落ち着かせる為に行ったそれは、ただ普段よりも速い鼓動をより際立たせただけだった。
体を駆ける血流は、無意識に指先で奏でていた音よりも少し速く流れているらしい。
「帰ったぞー」
「……おかえり」
自覚して心臓も落ち着いてきた頃合いで2人が帰ってきた。
神宮寺さんの手には、私が頼んだコーヒーが右手に、反対の左手には神宮寺さんが選んだであろうジャスミン茶らしき飲み物が左手にあった。家にもあった辺り彼女の好物なのだろうか。
それに対して芽瑠の手にはメロンソーダが入ったコップが2つあった。多分追加で持ってくるのが面倒臭いと考えたが故の行動だ。
「田井中さん、どうぞ」
「ありがとうございます」
神宮寺さんの手からコーヒーが渡される。受け取るとコップの中に浮かぶ2つの氷による影響か表面は少し結露していて、だからなのか直前まで手にしていた神宮寺さんの体温がよく分かる気がして誤魔化すようにコップに口をつけた。
(あんまぃ……凄い甘いなこれ)
口をつけたのだが。口の中に入ってきたのは自分が想像していたものよりずっと甘くて、思わずむせそうになる。ずっと飲んでいたら胸焼けを起こしてしまいそうだ。
「甘い……」
「コーヒーにはミルクとガムシロップを2杯ほど入れたんですけど……もしかして、お口に合いませんでしたか?」
「あ、いや全然好きなんですけど、なんでかなって」
本当の事を言えば甘いよりかはビターな方が好みではあるのだが、わざわざ神宮寺さんが持ってきてくれたのだからそれをここで話す事もないだろう。
むしろ甘いだけならまだいいのだ。多分、ミルク等々を何も入れずにコーヒーだけで渡されていたら苦すぎて飲めないだろうし。
「その……あの時に、甘い方を選んでいたので」
「……あの時、ですか?」
神宮寺さんはおずおずと語るが彼女が指し示すあの時が分かっていない。
いや、よく考えれば分かるはずだ。ただでさえ記憶らしい記憶がない中で私と神宮寺さんが持つ共通の記憶なんてものはそう多くないし、何よりこの短期間で神宮寺さんに関する記憶が褪せるはずもないのだ。
これほどまでに甘い一緒にコーヒーを飲んだ記憶?
「あ」
あの時って、公園で話したあの時の事だ。
神宮寺さんを連れ出して名前も知らなかった公園で初めて会話らしい会話をしたのを今でもよく覚えている。
私にとっても大事な記憶。それなのに、こうして考える機会がこないと思い出せなかった自分がいるのに驚いた。
そして——そんな些細な事でも、神宮寺さんは覚えてくれているらしい。
「…………ありがとう、ございます」
感謝を述べて、もう一度コップに口をつける。
喉元を通るコーヒーは冷たいのに、頬には微かに熱が集まっている気がした。
■
「そう言えば、神宮寺さんに聞きたかったんだけどさ」
ジェノベーゼを口にした芽瑠がそう口にした。2つとも言葉通りの意味で。
その隣では神宮寺さんがハンバーグを頬張りつつ芽瑠の方向を見やる。私も同じように頼んだドリアを味わいつつ耳を傾けていた。ちなみにドリアは半熟卵がのってるやつである。
「何でしょうか?」
「いやね?神宮寺さんって香水とかつけてるっけ?」
芽瑠が尋ねた内容は今日すっと私が気にしている事だった。神宮寺さんの匂いが変化していたのはどうやら気のせいではなかったらしい。
話の矛先を向けられた神宮寺さんは、首を傾げつつ口元についたデミグラスソースを紙ナプキンで丁寧に拭い取る。言われている事にあまりピンときていない様子だ。
「香水ですか……?特につけてませんよ?」
「そーなの?なんかいつもと違う感じだったから新しくしたのかと思ったんだけど」
「わひゃ」
「は」
食べるのに半分、話を聞くのにもう半分と意識を割いていたのだが——目の前で披露された衝撃的な光景に握っていたスプーンを取り落としそうになる。
なんと突然、芽瑠が隣に座る神宮寺さんの露出しているうなじの部分に顔を近づけて匂いを嗅いだのだ。
(ななななんて破廉恥な……!)
ボックス席だし、神宮寺さんが座る場所は草木が生えている窓側なのでまだ衆目に晒される事はあまりないが、それにしたって気になるからといって、いきなりそんな行動に出る芽瑠はもう少し加減というものを覚えるべきだろう。例え同性同士であろうと、というより同性同士であるからこそ、もっとこう配慮した方がいい部分があるわけで。
その対象である神宮寺さんはというと、初めの内は自分がどういう状況であるのか把握できていなかったのかきょとんとした表情を浮かべていたが、どうやらうなじに近づいた薄い鼻息に何をされているか理解したらしく体を硬直させてされるがままになっていた。だが、その表情には羞恥心は多少見られど嫌悪感等は浮かんでおらず、だからこそ私も言葉を発することもなく、こうして傍観に徹する他にないのだ。
芽瑠がすんすんと鼻を鳴らすせばそれに反応して神宮寺さんの体が大きく跳ねて、私の視点からでは首に隠れていたローポニーがちらちらと主張している。名が示すように、揺れ動く髪の一房はまさに尻尾のようだ。
その光景が何だかいけない物を見ているようで現実逃避気味にドリアを食す。ドリアはほんの少しだけ冷たくなっていた。
「んー……やっぱ違う感じ。あ、全然いい匂いだけどね」
「はあ……あ、もしかしたら……制汗剤の匂いかもしれません」
未だに抵抗せずにいた神宮寺さんが何かを思い出したようで、そこでようやく芽瑠が離れて聞く姿勢を取る。
今まで醸し出されていた違和感はどうやら制汗剤の匂いだったらしい。確かにこれだけの暑さの中では汗の一滴でも気になるものだろうし納得のいく答えだった。
「へー制汗剤?どんなやつ?」
「実は、村瀬さんにおすすめされたのを使ってみまして」
「へー村瀬ちゃんが?」
神宮寺さんの口から聞きなれない単語が出てくる。疑問に思って問いかける事も頭によぎったが、当然のように会話を続けている目の前の二人を見て言葉はコーヒーと共に飲み込んだ。知らないのは私だけらしい。
(村瀬さんって……誰だ?)
おすすめされたって事ならば、裏を返せば何かしらの形でやり取りが出来る関係にあるという事で。
こう言ってはなんだが、神宮寺さんの交友関係は狭いはずだ。勿論彼女の全てを知っているわけではないので言い切る事は出来ないのだが、少なくとも私や芽瑠以外だとクラスメイトと話しているところぐらいしか思い浮かばない。
そんな彼女は私の知らない誰かさんに香水をおすすめされたのだと。
それはまるで——友達みたいな関係だ。
対して私はどうだろうか。
よく話す。定期的に食事も一緒にする。休日に買い物にも出掛けた。体調を崩せばお見舞いにだって行った。
それもまるで——友達みたいな関係だ。
(………………)
過程は違えど辿り着く結果はどちらも同じだ。
だというのに——どうしてこうも、名状しがたいモヤモヤが胸の内に燻るのだろうか。
「——麻音は?なんか意見ある?」
「え?何が——うわっ」
無性にその事が気になってしまい頭の中で考え続けているところに、カラカラと甲高い音と共に芽瑠の声が耳に入る。
つられて顔を上げると、視界に入ってきたのは緑よりもずっと緑のような、不自然さすら感じさせる緑色。目と鼻の先の随分と近い場所に飲みかけのメロンソーダが入ったコップが突き付けられていた。
想像以上に近い場所にあるそれから距離を置こうと下がれば背中に革張りのソファーが持つ硬い感触がぶつかって声が漏れた。その反応の何が面白いのか、芽瑠は掲げていたコップを気障ったらしく揺らして音を立てた。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
「いやね?夏休み三人でどっか行くかなって話だよ」
どうやら考える事に熱中しすぎていたのか、いつの間にか二人の話題は違うものに変化していたらしい。その状況を示すかのように眼前に突き付けられたメロンソーダからはやたらとひんやりとした感覚が空気を通して伝わってきた。
「今日から夏休みになりますし、せっかくならとお話してたんですけど、どうでしょう?」
話の矛先がこちらに向いて、神宮寺さんが体ごとこちらへと向き直る。
表情は笑顔だ。普段と変わらずに目尻を下げて柔らかく笑う。
(………………)
でもそんな彼女の輪郭は髪を結っている影響から普段よりもすっきりした印象を与えるし、少し身動ぎをすれば私の鼻腔には誰かから勧められたらしい普段とは違う匂いがふわりと届くのだ。
今一度改めてその姿を見て、鼻に届くミントの香りに気づいて、ようやく燻る感情の正体に思い至る。
(………………そうか——)
(——不安なのか、私は)
私の知っている彼女が、私の知らない姿で、私の知らない香りを纏って、私の知っている笑顔を向ける。
普段と変わらないものと違うものが混ざり合って、けれども結局それは彼女自身であって。
そんな姿が、無性に心に不安の影を落とす。
(………………)
匂いもそう。姿もそう。後は、その在り方も。
変わっていく姿が怖いのだ。変わらないものだと思っていたから。根拠もなく信じていたし、そうであって欲しいと願っていた。流される事がなく、あるがままでそうあり続けていて、きっとこの先も変わらずにいるものだと。
彼女を知ってから数か月の短い間で、私にとって神宮寺さんの存在は既に当たり前に——変わらないものになっていた。
だからこうして、私の知らない彼女を知る度に信じて疑わない当然が揺らいでしまうのではないかと勝手に思ってしまうのだろう。
答えあぐねる私の姿にも微笑みを携え正面の二人は私の言葉を待つ。
正直言って、どこかに行きたいかと問われても特に意見はない。そう多くを求めているつもりはなくて、私はただ——今みたいな時間が変わらず続いて欲しいと思っているだけなのだ。
それを自らの行動で壊してしまうのは避けたかった。安定している状態でわざわざ新しい変化を加える必要なんてないと思っていた。
「……隣町で、夏祭りがあるんですけど」
——今に至るまでは。
「夏祭り、ですか?」
「おお……継宮のか」
神宮寺さんは純粋な疑問をこぼして、芽瑠が意外そうな表情を浮かべて感心したような声を上げる。
私が自分から提案したのがそんなに珍しいか。いや珍しい事ではあるか。
口にしたのは、頭の片隅に残っていた今朝テレビで話していた内容だ。
昔からやっているのは知っているし、過去に何度か芽瑠に連れられて会場まで行った事はあるがそれでも自分から現地に向かおうと誘う事は一度もなかった。人混みは好きじゃないし、ましてや夏祭りなんて特にそうだから。
別に誘われるのが嫌だったわけではない。むしろこんな私でも一緒に行こうと誘ってくれる芽瑠には感謝しかない。
だからというか、私は
相手が望めばそれに応えて、私はただその現状を望むだけ。
ただ漠然と時間の流れに揺蕩っていればそれだけでいい。
(……それがいけないんだ)
でもそれはきっと甘えだし、逃げなのだ。待ち続けて、与えられるだけで何も返さない。
与えられた現状に相応に報いなければならないとまでは言うつもりはないが、少なくとも一方的に施しを享受し続けて変わらない反応だけを示す人形があるとすれば関心が薄れるのは道理である。
今この瞬間、私と神宮寺さんの間には些細だが決して無視できない距離がある。手を伸ばせば触れられる程度の距離だが、そう遠くない内に私の視界では捉える事が出来ない程に距離は離れてしまうのだろう。
差が開いてしまうのはもちろん彼女が一歩先に進むからではあるが——結局の所、私自身が一歩も動かないから縮まらないだけの話なのだ。
(——よし)
どうすればいいのかは正直分からない。自分からこうして進みだす経験なんてない。
そんな私が知っている事といえば——行動に移さなければ変化など起きるはずもないという事だけなのだ。
「花火とかも、その、やるんで……あ、でも結構人来ちゃいますけど……それでもいいなら……」
今までは変わらないという意味での安定を望み続けていたが、それは違った。
真に求めるべきなのは、どれだけ変化してもなお変わらないという意味での安定だ。
変わりゆく彼女の姿が、燻る靄の温度が私にそう理解させた。
だから、必要なのは後一歩だけ。
神宮寺さんが一歩踏み出すのなら、私は二歩踏み出して、駆け出すのならば、自転車でも何でも使ってみせればいい。
そうすれば、その背中に触れるとまでは言わずとも、その視界の先で、その近くで、声が、匂いが、表情が——全てがいつしか当たり前になるのかもしれない。
言うなれば——友達みたいな、そんな関係。
(………………ともだち?)
一度心の中で呟いて、感じた事のないむず痒さが全身に走る。
友達になりたくないと問われれば当然そんな事はないのだが、反して友達になりたいのかと問われると素直に頷く事が出来ない自分もいる。
それは決して嫌悪感みたいなのが理由ではなく、今まで多くを受け取ってきた側として今更そこまで特別なものを受け取るのは畏れ多いというか、とにかく申し訳なさが勝る。
多くを求めるつもりはない。
私はただ本当に、私と神宮寺さんの間に小さな当たり前が芽生えて欲しいだけなのだ。
そう、思っているだけなのだが。
(………………友達)
仮に、もしも。
私と神宮寺さんの間に芽生えた小さな当たり前に、友達という名前がつけられたとしたら。
(………………)
そうすれば——燻るこのモヤモヤが夏の空に咲く花のように儚く散ってくれるのだろうか?
実は今回の話に出てきた村瀬さんは過去の話で登場している人です