装いを変えるというのは何も見てくれが変化するだけではない。
好きな系統の服を纏えばテンションは上がるだろうし、面接か何かに着ていくスーツは鉛のように重いだろう。
ならば、夏の宴に向けて浴衣を身に纏うのであれば何を思うのか。
答えは——単純に、面倒である。
(うーん……)
誰にとも言わず心の中でそう言い訳をしながら着ていたオーバーサイズ気味の灰色のパーカーを脱いで、一緒に茶色のハーフパンツも脱いでその場に落とす。
そうして姿鏡の前に立てば否応が無しに下着姿の私自身と相対する事になる。
我ながら代り映えのしない身体である。背丈とか体重とかその他諸々を含めて。
去年よりかは外に出る回数というのは格段に増えているはずなのだが、それでも肌は変わらず地続き一色である。
変化が無い事がいいのか悪いのか。今の私には判断つけることは厳しい。
(浴衣は……ここか)
巷では浴衣の下には何も着けるべきではないと声高に叫ぶ派閥もいるらしい。何もそれは根拠のない妄言であるわけでなく、浴衣の原型となった湯帷子が湯上りに肌の水分を吸い取らせる為に存在したからであるらしいが——よしんばそれが事実であろうと、着る本人にとっては恥ずかしいものは恥ずかしいのだから彼らが政権を握る事はまあないのだろう。
とは言え、余りに華美な装飾のものやワイヤー入りのものだと着付けが崩れるのは確かなので避けるべきとは芽瑠のお姉さんの言葉。
だが、悲しいかな。現実ではそんな事は気にする必要は無いとでも言うように普段通り飾り気のないスポーツブラが凹凸に乏しい体の起伏を浮かび上がらせていた。
(……別に、いいけどね)
その事実を覆い隠す様に浴衣を羽織る。
藍色を基調として白の椿が散りばめられた浴衣。数年前に身に着けて以来丁重に封印されていたそれは記憶にあったそれと寸分違わずのままだった。
Tシャツなどとはまた違った硬めの感触に袖を通して、広がった衿先を両の手で捕まえて腰よりも幾分上の辺りで大雑把にクロス。そうすると、ともすれば暮れて宵闇と共に沈んでいってしまいそうな藍色が私の肢体をすっぽりと覆い隠す。
(……本当に変わらないな、全然)
私としては珍しく着丈を決めるこの瞬間と着付けの終わりはよく覚えていた。
前に着た時もそうだった。両腕を交差させて映るその姿はさながら蛹のようで、着るというよりは着られるといった風に見えてしまうのが少しばかり不満だった。そういう意味では、未だ羽化しない蛹側にも問題があるのかもしれないが。
とりとめのない事を考えつつも手は動かし続ける。
不思議なもので、浴衣なんてこんな機会でも無い限り触れる事なんて無いのにも関わらず着付けの仕方というのはよく覚えているものなのだ。あるいはその珍しさ故に記憶によく残るとでもいうのか。
位置を決めた後、近くに用意していた白色の腰紐を手に取り浴衣をしっかりと押さえて一周。ウエストの位置でそれなりの力で結び目を作って、余った部分は腰紐の下へと収納させる。
その次に、脇の辺りに何故か空いている穴(身八つ口というらしい)に手を通してだぶついている布(おはしょり)を腰紐が隠れるように真っ直ぐと伸ばして整える。皺にならないように丁寧にバストの下辺りで胸紐を結んで、もう一度背筋を伸ばすように真っ直ぐとたるみを取り除く。
(んー……)
姿鏡に背中を向けて確認。少しばかり小さい背丈も相まってただでさえ大きめの浴衣が余りがちなので確認は慎重に行う。
しかしまあ、浴衣そのものは麻の硬さを持ちながらひらひらとして風通しのいいものだが、こうして雁字搦めにされてしまうとそれも形無しである。こういうのが芽瑠などがよく言うおしゃれに対する隠れた努力というやつなのであれば、どうにも自分には向いていないように思えてしまう。
(よし。問題なし)
無事に背中の確認を終えて、ここまでくればほとんど完成。後は帯を巻くだけなのだが。
「おーい!着付け出来たー?あたしも着替えたいぞー」
そのタイミングを見計らったかのように扉の向こうから芽瑠の催促のような声が届いてきた。
部屋に取り付けられた時計を見やれば時刻は16時を迎えて少し過ぎた辺り。着換えを始めてからは10分程度で、神宮寺さんとの待ち合わせの時間の18時まではまだ余裕がある。別段催促される程に遅かったつもりは無かったのだが、そもそも今この場所は芽瑠の部屋。部屋の主を差し置いて持ち込んだ浴衣を片手に着付けに勤しんでいたわけだから、まあ妥当な要求であった。
「あと帯だけ」
「もうほぼ完成じゃん。帯着けたげる」
「え、ちょっと待っ——」
ガチャリと金物の音を立てて、部屋のそれとは違う空気と共に芽瑠が扉を開けて意気揚々と侵入してくる。ご丁寧にお邪魔しますの一言も添えてだ。この場合、謙遜での意味ではなく本来の意味でのお邪魔しますが多いだろうが。
別に既にほとんど着替え終わっているし見られて困るものでもないのだが、些細な抵抗として両腕で体を抱えて芽瑠を見やる。
「おー……全然変わってないね」
「どこ見て言ってんの?」
「どこって……全部だよ、全部。ほら帯着けるからそっち向く」
向けられた言葉自体への不満はほとんど無いが、同時に向けられた視線に関しては違う。
目線の先は上から下へと体をなぞるように動かされていたが、その目線が随分と失礼な事を考えてるように思って、抱える腕の力と投げかけた声に力を込める。
それに対して芽瑠は苦笑交じりに答えつつ、私の肩に両手を置いて軽く二度叩き、その後に私の体が小さな勢いに乗ってくるっと回る。よろけながらも真っ直ぐと立とうとすれば、視線の先には着替えていた時と同じように自分自身の姿が映る。180度回転させ元の形に戻されたのだ。
「はい手を挙げるー」
「うひゃ」
少しの間惚けていると、どことなく楽しそうに弾ませた声が耳に入って、同時に脇の辺りに余り感じ得ないこそばゆい感覚が走る。ぶるりと体を震わせて、跳ねるようにしてその感覚から逃れようと腕を地面とは垂直に伸ばせば、背後からケラケラとした笑い声。視線を動かそうとすれば、姿鏡には両腕を上げTの字ポーズを取る自分の姿と、その後ろに被さるように芽瑠の姿も一緒に映っていて私の両脇に手を差し込んでいる状態だった。
そこまでして、ようやく自身の現状について理解が追いついた私は——まあいいかと、黙って両腕を地面を水平に上げ芽瑠へと身を任せる事にした。
諦観である。色々一連の流れでケチを付けたい気分ではあるのだが、どうせ後は帯を着ければ終わりなのだ。崩されるわけでもなく、やってもらう分には楽できるのだし、それならばもう何も言わずに身を任せてしまえば余計な心労も抱えることは無いだろう。
それに——
「結び方のリクとかある?どうせなら可愛い結び方がいいよね」
語りかける芽瑠の顔にはいつもの5倍増しぐらいの笑顔が燦々と輝いている。
窓の外から差すのは、夏の夜といえど少々色濃い陰り。空に咲く花がよく映えそうな陰りだ。
ならばこそ——暮れなずむ先を照らす提灯代わりとしては、悪くない。
「……なんかテンション高くない?」
とはいえ、芽瑠から滲み出す"私今とっても楽しいですオーラ"の主張は凄まじい。
普段から楽しそうにニコニコと過ごしてはいるものの、その様子を昔から知っている私からみても今の芽瑠は際限の無い大海を思い起こさせるようである。祭りが楽しみなのは分からないでもないが、それにしても些か過剰というか、何かそれ以外の私の知らない要因があるように思えて仕方がない。
だから素直に疑問を投げかけた。言葉にせずともこういう時は大抵構って欲しいとでも思っているのが人である。いや芽瑠の場合なら私が聞いてこようが黙っていようが、多分どちらにしても気にする事は無いだろうが。
「祭りだからね」
「はあ……」
芽瑠の口から出てきた答えは私の想像を上回る事も下回る事もなかった。
聞こえだって良い。祭りなんてのは特定の時節でもなければ開催されないものなのだから、数少ないその機会に向ける思いが強く輝くのも頷ける。
(ふむ……)
だがそれでも、どこか解せない。その内容では理解は出来ても納得までには至らない。特に根拠などはないけれども。
強いて言うのであれば——それは、長年培った勘とでも言うべきものだ。
曲がりなりにも、芽瑠との関わりは生を受けて、共に過ごしてきて16年と少し。そうまで過ごせば、感情の打つ波の機微に疎いと自負する私とて、芽瑠が何かしらを抱えている事を理解は出来る。
だから問題なのは——私自身が、それ以上を知りたいと思うのか。
(………………)
多分芽瑠は噓を言っていない。祭りが楽しみなのも本当の事だ。
思うに——それ以上の要因が隠されているのだろう。隠し立てるという事は、何か芽瑠に取って不都合があるのか。
「にしてもテンション高いから」
「……んーそう見えるか」
「うぐっ」
返答の代わりとでもいうように腹部にかかる圧力が強まって、情けない呻き声と空気が腹の底から絞り出された。姿鏡の中の私の腹部には帯が巻かれてもう既に浴衣の着付けは完成していた。確かに私の浴衣は大きめだから少しばかり強く締め付ける必要があるのはそうだが、それにしても些かきつい。
「きつかった?」
「……いや別に」
本当はちょっと苦しかったが悟らせないように振る舞う。
腹部に感じていた違和感に内心で喘いでいると、背の辺りで忙しなく皺を取り除いていた手が次いで私の髪に伸ばされる。
ちらりと視線を向ければ、どこからか取り出したのかいつの間にかもう片手には赤色の櫛を持って髪を通していた。あれは芽瑠が普段使っているものだ。どうやら髪型もついでに整えるらしい。
「……別に髪までやんなくてもいいけど」
「人前出るならおめかししたいでしょ。髪は女の命って言うし」
ならば積極的に人の命に触れようとするのは恐れ知らずが過ぎる。
あやす様に、ぼんやりとした熱と共に髪の隙間に手を通して伸ばされる。
今の私の髪は肩にかかるかそうでないかの瀬戸際程の長さで前髪を眉の上辺りで切り揃えた、所謂セミロング。正直アレンジなど特にせずそのままでも良いと考えていたのだが、どうやらそれではお気に召さないらしい。
「前より伸びてるなあ」
鼻歌混じりの芽瑠の言葉に体を預けて、何となく目をつぶる。
(案外気持ちいいな……)
暗闇と感じる芽瑠の手の感触の中。ともすればこのまま寝てしまいそうな程に、気持ちは安らかだ。
目をつぶると視覚から得られる情報が極端に少なくなって、だからこそ代わりに思考がよく巡る。
思えば、こんな風に髪をいじられる機会も久しぶりだ。
昔から芽瑠は髪をいじるのが好きだった。より正確に言うなら他人を着飾る事が。
中学の頃ではよく教室でクラスメイトの髪型を弄っているのを見かけたし、家では私自身も定期的に実験台にされていた。
私を連れ出して外出する時なんかはむしろあちら側から懇願されて髪型をいじらせていたぐらいである。
いつか、そんなにいじるのが好きなら髪を伸ばして自分のをいじればいいのではないかと思って、実際そう提案したのだが。
『あたしはこれでいーの』
返ってきた答えはたったそれだけ。当然そう言われれば理由が知りたくなるもので何度か聞き出そうとしてみたが、返答はすげもなく結局理由は分からずじまい。とにかく芽瑠自身は髪を伸ばすつもりがないと。私自身、特に不都合は無かったのでまあそれでもいいかと身を任せる事にしたのだ。
よくよく思い返してみれば、少なくとも小中と私の知る芽瑠の姿は揃えられたボブだった気がする。
幼稚園の頃は流石に記憶も薄れてしまっているが、それでもなお芽瑠への印象が変わらない辺り多分相当にこだわりがあるのだろう。
いつからそうだったのかはもう随分と前だから覚えていない。気づいた時にはもうそれが当たり前になっていた。
要は、それだけ熱心に行なわれていたそれがここ最近では鳴りを潜めていたのはどうしてかという話。
(……高校に入った辺り、とか)
考えてみて、ふと気付く。
少なくとも高校に入学してからは髪をいじられた記憶が無いのだ。それも何の予兆も見せずにピタッと止まっている辺り不自然さが際立つ。自分でもよく疑問にも思わなかったとつくづく呆れてしまう。
ただ飽きられただけならば別にそれで構わないのだが、いきなりピタッと打ち切られているのは少しばかり気になる。
「……そんなに気になるの?」
巡る思考の中で、徐に頭に感じていた温もりが引いていく。名残惜しさに目を開くと鏡の中で苦笑する芽瑠の姿が視界に入った。普段快晴の如き笑みを見せる芽瑠としてはあまり見られない表情。
「……気になるって言ったら教えてくれるの?」
そんなのだから、余計に気になった。
そうまでして笑みを浮かべる芽瑠と、そうまでして笑みを浮かべさせる理由に。
「もう……そこまで言うなら教えるよ。別に言いたく無いわけじゃないし」
発した言葉に少しだけ硬さが混じれば、芽瑠が浮かべる苦笑はより深まる。一緒に返ってきた答えはまるで子供の我儘に手を焼く母親のような対応のようで。そんな態度が気に入らなかったから、私はこれ以上何も言わずに目を細めてじっと芽瑠を見据える。
「まあ、別に凄い理由ってわけでもないんだけど……麻音がさあ」
「私が?」
「うん。麻音がさ、自分からこういうのに誘ってくれたじゃん?」
「まあ……そうだけど」
「……だから、嬉しいなって。そんだけ」
「………………え?」
そんだけって。
思わず首だけで振り返ると、まあ当然そこには芽瑠がいるのだが。その芽瑠はというと、あれだけ鏡の中で視線が交わっていたというのに今私の視界には整った横顔だけしか映らない。
だが、それが故であるというべきか——髪の合間に覗く耳は一目見てわかってしまう程に真っ赤に染まっていた。
「……言っとくけど。じっと見つめても、もう何もないから。はい!前を向く!」
「いたっ、わかったから!自分で向くって!」
別に、それ以上の何かを期待したいわけではないのだが。ただ与えられた情報に惚けて——否、呆けてしまった私の姿が芽瑠には親から餌を待つ雛鳥にでも見えたのだろう。そこそこ強めの力で後ろに向いていた顔を元に戻されようとしたので、慌てて自ら鏡へと向き直る。
(全く乱暴な……)
心の中でため息を1つ。
そこまでして、ようやく芽瑠の発した言葉がある程度咀嚼出来て——ぼんやりとした熱が体を駆け出しているのがわかったから、意識してギュッと瞼を閉じる。
見たくもないし、見られたくもなかったから。
目は口程に物を言うなんて言うぐらいだし、特に。
「そもそもさあ……覚えてる?自分から最後に遊びとかに誘ったの」
「覚えてない」
再び髪に触れられる感触。それと共に芽瑠から言葉を投げかけられる。
とは言われても、本当に覚えていないのだから即答である。私の視点では連れまわされた記憶はあれど自ら進んで連れ出した記憶はない。そんな珍しい事があれば流石に私でも覚えているだろう。
「でしょー?そりゃそうだよ、だって誘われた事無いから!」
「……え、本当に?」
突然、普段の二割増しぐらいの声量に肩を跳ねさせると、それを押さえつけるかのように小気味のよい音と同時に両肩に衝撃と重量。恐る恐る目を開くと、芽瑠が私の両肩に手を置いて鏡越しにこちらを見据えていた。それも、眩しいくらいに物凄く良い笑顔を携えて。
それよりも何だ。私が1回も遊びに誘った事がないだって?
確かに自分でも出不精ではあると自覚しているが、それにしたって0だなんて事はない、はず。
いや、もしかしなくても実際そうなのか。芽瑠は私よりも記憶力は良いし、そもそも私に対して噓をつく事だってないし、言う必要もない。
「疑ってる?マジのマジで本当だよ」
「……マジか」
言葉と共に、心なしか肩にかかる重圧も増している気がする。
二重に衝撃である。同時に自分で自分に引いた。まさかこれだけ与えられ続けてなお何も返す事が出来ていないだなんて。
右頬に冷たい汗が一筋伝うのは、まさしく夏場だからだ。
「えっと、ごめん」
「いや、怒ってないから謝らなくていいんだけどね。てか、むしろ嬉しいって言ってるの」
肩にかかる重さと熱が離れていく。芽瑠も落ち着いたのかさっきまでとは違いまたまた髪へと手を伸ばしながらワントーン下がった声で話を続ける。
「別に誘われなくても良かったんだよ、あたしは。麻音がそういうの好きじゃないって知ってるし、行きたくなったらあたしが誘えば来てれるでしょ。まあ誘われたら嬉しかったと思うけどね」
語りながらでも手は動いていて、耳上の髪が合わせて高い位置へと持っていかれる。
そして両方の毛束を真っ直ぐと伸ばし、丁寧にツイスト。この手付きは——ハーフアップか。
当然そんな髪型は自分には縁もゆかりもないのだが、それでも知っていたのは芽瑠が好んで作る髪型だったからだ。
「でもさ、そんな麻音が遊びに誘ったんだよ?しかもあたし以外の人も一緒に。偉業だよ偉業。もう進歩っていうか、進化って感じ?」
「進化って。そんな大袈裟な」
「0が1になるのは確かに偉業だよ」
(肯定的過ぎる……)
まさしく物は言いようであった。そう言われてしまうと納得出来てしまうのもたちが悪い。
「そんで?どうなの、その辺」
「どうって……何が?」
「なに企んでるのかなって。今度は私が聞くターンね」
半分ぐらいはされた仕打ちへの意趣返しのつもりなのだろう。そう問いかけてくる芽瑠の表情は随分と輝いている。
理由か。確かに行動には全て理由が付きまとうものだ。けれど差し向けられた側としては答えを臆してしまう。それが自分にとって不都合であるのなら尚更。
(理由か……)
あの時は、そう。どうしようもなく不安だった。変わっていく彼女の姿と、どうしようもないぐらいに変わらない自分との差異に。置いて行かれたくないと、そんな不安に押し流されるように勢いだけで行動をした結果の今。
正直に言ってしまうと、少しだけ後悔している部分もある。何も考えずにその場の流れみたいなもので誘ってしまったから、誘った日の夜ベッドで横になって目を閉じた時、あれで良かったのかとか、正しかったのかなんて、自分の事が信じられないからぐるぐると色んな考えが思い浮かんでは消えて全く眠れなかった。
そうしたいと、そうなりたいと、何かを目指して行動するのが人の常。だが私が抱えているのは目標なんて高尚なものではなく、そうだったらいいなの淡い願望だ。
目的があって行動するのではなくて、ただ行動に移す事そのものが目的だった。
そんなのだから、力がない。芯が入ったように納得させる力がない。
自分の足で力強く一歩踏みしめるのではなく、ただ大きな流れに押されて揺蕩うだけだから——私には、私の言葉が薄っぺらく感じられる。
(……言いたくないなあ)
恥ずかしいのだ。
うじうじとこの年齢になってこんな事にも悩んでしまう自分に。周りが当たり前に出来ている事でこんなにも不安を抱えてしまうのが凄く情けなくて、内心を知られてしまえばきっと笑われてしまうから。
今だってそうだ。どうせ隠している事はばれているのに、それでも保身に走って芽瑠にだって隠し通そうとして。
秘密にする事自体は別に構わないとは思う。誰だって言いたくない事の1つや2つはあるだろうし、全てをさらけ出す事が良いというわけではない。
思ってしまっているのだ。言ったら笑われるって。芽瑠はきっとそんな事で笑わないなんて分かっているのに。
だから言えないし、言いたくないし——知られたくない。
「言いたくない?」
「………………まあ、言いたくない」
黙ったままの私を見かねてか、伺うようにして芽瑠が声をかける。その声は柔らかく気遣う気持ちが十分に占めていて、安心する自分がいるのと同時に、そうまでさせてしまう自分がやっぱり恥ずかしくて。
「そう。じゃあいいけど」
芽瑠の言葉に甘えるように、緊張にカラカラと乾燥した口を開いて出た言葉に芽瑠の表情は変わらない。そう答えると想定されていたのか、芽瑠にとってさして重要な話題でもなかったのか、詳しく聞き出そうとするでもなく、ただ軽く言葉を言葉として受け止めた。
それは多分、私が話しても話さなくても同じなのだろうと、何となくそう感じさせた。
「……ごめん」
噓はつきたくなかったが、でも本当の事も言いたくなかった。
だから、口から出たのは謝罪の言葉だけだった。不義理だとは自分でもよく思う。
「別に謝んなくても。言わないならそれでいいんだよ。言わなきゃ無いのと同じなんだから。あたしはなーんにも知らないって事を知って、それでおしまい。ほら、ついでにセットもおしまい!」
「え、ああ……」
芽瑠の明るい声に前を向くと、それに倣うように後ろ首に薄く敷かれたカーテンがゆらゆらと揺れる。そうすると見え隠れする普段あまり露出させない部分が晒されて夏の暮れによく感じる熱がさわさわと肌を撫でる。
(……すごい)
正直、髪型一つでこうも印象が変わるものなのかと驚いた。
鏡の中に映る私は普段見せない髪型と浴衣姿なのも相まって、まるで現実感がなくて、開かれた瞼の奥も心なしか輝いているようにさえ思える。
何とも言えない違和感があった。
それは多分、今この現実との差異も相まって、特に感じられる。
「おーい、次あたしが着替えるから。下で待っててよ」
鏡の前でしばし硬直していると今度は優しく肩をつつかれる。後ろを見やると、芽瑠は既に浴衣を片手に持って自分の姿に重ねるようにして確認をしていた。それと同時に視界に映った時計の針は間もなく17時を迎えようとしていて、二人で話していた分も含めて思ったよりも私の着付けに時間がかかってしまったのが分かった。出る時間も考えるとそろそろ余裕があるとは言えなくなってきたかもしれない。
「あ、うん……ありがと」
ままならない思考を振り切るように勢いづけて立ち上がり扉へと向かう。
久しぶりに立ち上がった影響か、固まった体からはパキパキと音がなった。
■
(………………)
下に降りてきて大体10分程経ったぐらい。私はただ何もせず、リビングに設置されているソファに座っていた。
こういう隙間時間を潰すのは案外難しいものだ。
目の前にあるテレビをつけてみようにも勝手知ったる相手とはいえ我が物顔で使うのは憚られるし、スマホでネットサーフィンするとかは何となく印象が悪い気がする。
暇を潰す方法は幾つか思いついたがこれぐらいの人が着替えるのを待つ時間みたいなのなんかは何をするにしても短くも長くもなくて微妙だしで、だから結局こうして何もしない事が多くあった。
そもそも待たされる状況になる事なんて、ほとんどないのだけど。
人と関わる機会なんてそんなにないから。
(はあ……)
だから、数少ないながらこういう状況にあった時、私は大抵目を瞑って何かしら考えようとする事にしていた。逃避行動とも言える。
(言わなきゃ無いのと同じ、か……)
考えていたのは部屋で芽瑠から放たれた最後の言葉。目を瞑って、何度も頭の中で反芻させてその意味を考える。
多分、何気なく放たれたその言葉は不思議とよく耳に残っていた。
例えば何処かで戦争があったとしよう。それなりに規模も大きくて悲惨な戦争が世界の裏側で行われているのだ。それでも私がその事を一切知らないのであれば、極論私の中ではその戦争は存在しない事と同じと言えるのではないだろうかと。
(確かにそうかもしれない)
要は、知らなければ何もない事と同じだと言いたいのだろう。芽瑠が言おうとしているのはそんな大袈裟なことじゃないだろうけど、結局は——私の世界は私の認識によるものが大きいから、知らなければやっぱりそれはないのと同じなのだ。
「お待たせー」
そんな巡る思考を中断するかのように、何も音のなかった空間に扉が開く音と芽瑠の快活な声が響く。
声の方向へと振り返れば扉の辺りで腰に両手をを当てて胸を張っている芽瑠の姿が目に映る。
「どうよこれ?」
「……いいと思う」
両手を大きく広げて感想を求められる。
芽瑠の着ている浴衣は真っ白の生地の上に色の濃い黄色の花が散りばめられた浴衣だ。
元々芽瑠の背が高いのもあって上から下への流れが誘導されるように綺麗に強調されていて、それでいて帯をキツめに締めているのか胸元の部分は出ている感じ。
そういえば確か、前に連れらた時も同じものを着ていたような気がするし芽瑠からも同じように感想を聞かれたはず。白色が多く目立つから汚したら大変そうだなと単純ながら思った記憶が薄っすらとある。
「前行った時も同じ感想聞いたなあ、それ」
苦笑される。どうやら数年前の私も同じ答えを出したらしい。お前の情緒は年月を経ても一向に育っていないと、暗にそう言われているのだ。
まごうことなき正論なので何も言えず黙って目を逸らした。
「まあいいけど。時間もあれだし、そろそろ出ようかなって思ってるんだけど……」
そこまで言って言葉が一旦区切られる。視線の先の芽瑠は両腕を胸の前で組んで「んー」とか「あー」みたいな言葉を漏らしながら頭を左右に行ったり来たりさせて何か悩んでいる。
その様子は、言い出せないというよりかは、言葉を選んでいるという印象を受けた。
「まあ、その……言いたいこととかあるなら、今のうちだけど?」
「————」
ひゅっと。瞬き程の一瞬で呼吸が止まった。
「……な、なんのことだか」
「いや、まあ凄い悩んでるの雰囲気に出てるし……さっき謝られちゃったし」
思わず立ち上がって芽瑠に駆け寄り肩を掴んだ。私の問いかけに芽瑠は本当に気まずそうに目を逸らしながらあやすように私を押しやる。
声が震えて、次いで顔に熱が集まっていくのがよく分かる。要は、見抜かれていたというわけだ。
私の懊悩はどうやら芽瑠の目からしたら随分と分かりやすいものだったらしい。これでは構って欲しいオーラが出てるだなんて、私が言えた事ではないじゃないか。
「………………」
これはあれか。ここにきて話が戻る辺り、やっぱり言わなかった事を根に持っていたりするのだろうか。自分は恥をかいているのにお前だけ違うのはなしだと。
それで、笑ったりするのだろうか。その年にもなって未だ一歩踏み出す勇気も持てない私を。
だったら一度不義理を重ねた身としては覚悟を決めて全て晒す他ない。
「いやね?ごめんね?まじでお節介みたいなもんだけどさ、その、これから楽しいお祭りなんだからあんま抱えるのもどうかなって思ってね?」
黙りこくってしまった私の様子を見かねてか、芽瑠が慌てて言葉を重ねる。
そこには揶揄うだとかそんな感情はない。
ただ純粋に心配だけがそこにはあった。
(——馬鹿だな、私)
恥ずかしいだなんだと、その感情を否定するつもりはない。現に今からしようとしている事は私にとって恥以外の何ものでもないし、心臓だってどくどく動いて余剰に送り出される血液はどんどんと顔に集まっているだろう。
(けどさ……)
けど、それでも、一時の恥がなんだというのだ。
そんなものよりも——この期に及んでなお、信じられない自分の方がずっと恥ずかしいじゃないか。
「あ、本当に言いたくないなら言わなくていいんだけど——」
「——あのさ!」
大きく息を吸って、意識して大声を出す。そうすると部屋にいっその事騒々しいまでの沈黙がよく響いて、その後には二人の呼吸だけが残った。
芽瑠からの視線がよく刺さる。視線に込められた感情はほとんどが純粋な困惑で占められていて、その様子がまた私の鼓動を速くさせる。
「……さっき、誘った理由を聞かれたでしょ」
「う、うん……」
前までは言葉にしなくてもいいじゃないかと思っていた。口にしてしまうのは強欲で恥ずかしいと思うのもあったが、それ以上に名前になんてこだわらなくて、ただそこにある事実だけで私にとって十分で、それ以上を求めるのはきっと傲慢なんだと思った。自分はそれでいいと思っていた。
けれど、違う。
(……言わなきゃないのと同じ)
それは、芽瑠がさっき言った言葉。知らなければ存在しないのと同じだと。
言葉にしない。
それはつまり、ただそれだけで、抱いた熱も、何もかもを全て否定されてしまう——否、存在しないから否定すらされないのだ。
言葉にしないから、私の秘密は私の中にしかなくて——挙句の果てに、それすらからも目を逸らして。
結局、私の中には何もないのだ。
自分に噓をついて、他人に隠し通そうとして、空っぽな何かを必死になって守り続ける。
それの——何と虚しいことか。
「神宮寺さんに……友達になろうって、伝えたい」
だから、宣言する。言葉にして、伝えて、そして——自分自身に刻むのだ。
こんなにも胸を焦がす熱も痛みも確かにここにあるんだと、認めさせてやるのだ。
そうすれば、自分の足で力強く一歩踏みしめることが出来ると。
そう思った。言わなければないのと同じだなんて、この気持ちが無いのと同じだなんて、自分でも思いたくないから。
「はあ……なるほどね、友達に」
(……あれ)
納得したような言葉1つと共にうんうんと大きく頷いて、芽瑠は長く、大きく息を吐いた。
それでも未だに表情は困惑というかまだ完全に復活出来ていないのか、胸の前で組まれた腕の上では小刻みにそれぞれの指先が一定のリズムで動かされていた。
「まあ、うんそうか」
「………………」
芽瑠の反応は本当に微妙というか、この感じは与えられた情報の処理に手間取っているのだろう。私の方をちらちらと伺いながらも唸っていた。
(………………)
よく考えたら性急過ぎたかもしれない。今更になって少し後悔してきた。結構言葉も足りていなかったし、もっと良い言い方があったのではないか。いきなりそんな事言われてもそりゃ反応に困るだろう。
(……待てよ)
今になって気が付いたが——神宮寺さんと友達になるためって理由は、詰まる所芽瑠を誘ったのがおまけであると暗に言っているよなものではないか?
当然私にそんなつもりはないし、芽瑠とだって一緒に居たいのも決して噓ではないのだが、それにしたって今の発言はそう捉えられても仕方がないだろう。芽瑠だって気難しい表情にもなる。
(……やらかした、かも。謝った方が——)
「——よし」
不安に思うがそれでも撤回は出来ないので黙って言葉を待っていると、ようやく眉間の皺が取れたらしい芽瑠が一度大きく頷いた。
遂に来るのかと、何を言われるのかとドギマギしていると——私の予想に反して組んでいた腕をほどくとその両手を私の肩に置いて、少ししゃがんで芽瑠の顔が私の顔の正面にまで近づけてきた。
(え、近っ)
お互いの息遣いですらばれてしまいそうな、まつ毛の一本一本ですら数えられそうな距離。
もしかして頭突きでもされてしまうのだろうか。それは流石に野蛮過ぎてないとは思うが、本当に怒っているのなら芽瑠は多分それくらい出来る人間だ。
芽瑠の顔にはいつものような笑顔は鳴りを潜めて、凛とした表情で見据えられる。
覚悟を決めた表情だ。その気迫に、ごくりと唾を飲み込むのと同時に芽瑠の口が開いて——
「その………………が、がんば!」
絞りだされるように出されたのは、応援の言葉だった。
「え、あ……ありがとう?」
てっきり怒られるとでも思っていたのに、投げかけられたのは応援の言葉で。
未だに正しく状況を吞み込めていなかったから、緊張感に固く結ばれていた口元からは弱弱しい感謝の言葉が出た。
「………………」
「………………」
お互いに至近距離で見つめあいながら、再び沈黙。
今度は逆に芽瑠の方が呆けたように目を大きく開いている。
開かれて覗く瞳の中には揺れる私の姿が映っていて——それは多分、私の瞳に映っているであろう芽瑠の姿も同じで。
「……あはは」
「……ふふ」
そんな空気に耐えられないと、吹き出したのはどっちもだった。
「ありがとうって……何で疑問形なの」
「……だって、応援されるとは思わなかったから」
「いや、いきなり宣言される身にもなってよ!どんな発言が飛び出るのかと思ってビクビクしてたんだから」
腹を抱えて芽瑠が笑う。
妙なツボにでも入ったのか口元を覆い隠すことすらしないで白い歯を覗かせている辺り相当に面白いらしい。
「行く前に疲れさせないでよね……」
「ごめんって」
「もー……時間もあれだからそろそろ行くからね!」
言われて時計を見てみると確かにもう出ないとそろそろ危ういかもしれない時間帯だった。
ある程度波が収まったのか、そう言って芽瑠は私に背を向けてずんずんと進んでいく。
先導するように進んでいく芽瑠だが、そうは言っても未だに思い出して笑っているのかその背中は時折びくりと小刻みに震えていて。
そして私は、そんな芽瑠の姿がまた可笑しくて笑ってしまうのだ。
別に、冷静に考えれば面白い事なんて何もないはずなのに。
でも、だからこそ。
(……いいな、こういうの)
——そんなくだらないことでも神宮寺さんともそう笑えたら、きっと、もっと素敵だ。