煌々とした黄金が過ぎ去ってしまえば、後に残るのは翳りだけであるのは必然だったのだろう。
その眩さが脳だけでなく心の内までもを焼いてしまったというのであれば、尚のこと。
「――では、テストは二週間後に行いますので。しっかりと勉強しておくように」
壇上から響く解散の声に周囲の空気が弛緩しざわめきだす。
だが、それは普段通りに訪れるはずの喧騒と比較して張り詰めたような空気が残っているようで、それでいて頼りなさすらも感じさせるもの。
それが差した翳りの濃密さというものを理解させるようだった。
(テストねぇ……)
心の内で反芻して、言葉ではなく溜息を1つ。
テスト、延いては勉学。学生という今の立場では決して避けられないものである。
それに合わせて、高校生であるというこの現状。
学ぶことが義務であった小中学校とは異なり高校は自ら選択して進む道であり、課せられた義務は責務へと変遷するわけで。
簡潔に言うならば――”学生の本分は勉強である”という言葉だ。
月並みな言葉ではあるが、この言葉は多くの人が耳にしたことがあるだろう。
そして月並みであるという事が示すのは――その言葉が普遍的なものであり、確かな信頼と実績を持って用いられてきたという事実である。
だからこそ、テストという言葉は前よりもずっと重く私へと圧をかけるのだ。
さながら今辺りに漂う緊張感のような。そう自覚して、また1つ溜息を吐いた。
「へい!落ち込むなよ!」
「うわっ」
そんな憂鬱な内心を知ってか知らずか、後ろから肩へと感じ慣れてしまった衝撃。
頭では分かっているはずなのに、それでも口から漏れ出てしまう反応が少し恥ずかしく、恨みがましい視線を向ければそこに映るのは当然芽瑠だった。
「毎回やめてくれる?それ」
「だって辛気臭い感じ出してるからさぁ……心配なの?テスト」
心配がないと言えば噓になるだろう。微かなものではあるといえ、それが頭の隅でちらついているのは確かな事実なのだ。
だが芽瑠のからかい混じりの表情を見て、心配という言葉は些か過剰にも思えた。
「別に……ただ面倒なだけ」
「まあまあ……気持ちはわかるけど、こういうのはさっさとやるのが吉なわけ」
芽瑠は外から見れば勉強せずに遊んでいそうな印象であるが、実際のところ私なんかと比べたら圧倒的に勉強が出来る。
そして勉強を真面目にする理由も、面倒事を増やさず自由に使える時間を増やすためという。
学生の本分を全うし、されど遊び心を忘れるわけでもない。
芽瑠という少女は、清々しいまでに学生の鑑だった。
「小中と麻音がひどい点数を取ってること無かった気がするけど」
そう言われて、脳の奥底に眠る無味無臭の記憶を掘り起こしてみる。
中学生の時は確か、どんなに悪い点数を取ったとしても追試のようなものは行われず、ただ無情にも評価が下されるだけだった。
とは言え、それで退学にでもなるわけではなく、だからこそ私も期間中は普段よりも真面目になってみて褒められるでも怒られるでもないそれなりの点数を取っていた。
勉強が好きかと言われれば違うし、なら嫌いなのかと言われればそれもまた違う。
単純に、気が乗らない。それ以上でも以下でもなく、そういう話だ。
「やる気でない?」
「出ない」
「……ならやる気出させてあげるかぁ。神宮寺さーん!」
「え?」
あしらっていればこの話も終わるだろうと適当に返事をしていたら突然意識していない言葉が出てきて声をあげるも時すでに遅し。
普段よりもずっと静かな喧騒の中では当然芽瑠の声はよく通ってしまい、それが耳に届いた神宮寺さんがこちらを振り返り立ち上がっていた。
とてとてと、そんな擬音が聞こえてくるように駆け寄るその姿と物理的に近づく距離に口の端が上がってしまったような気がして、少しだけ顔を背けた。
「どうかしましたか?」
「いやね?さっき先生からテストあるって話が出たでしょ?それ聞いてから麻音が心配で心配で武者震いって感じなんだー」
「全然そんなんじゃないけど?」
「そうなんですか?」
「うっ……まあ、その……」
私がそう否定の言葉を投げかけても神宮寺さんは確認するように言葉と視線を向ける。
その視線も、言葉も、両方とも純粋に心配しているからこそ出てくるもので。
「………………」
内包する意図がどうであれ、視線には必ず探るという前提が存在する。
だからよく見られたいと、悪く見られたくないと。人は誰しもそう考える。私だってそう考える。
恥ずかしい部分を見てほしくない。彼女の視界に映る私は、自分自身が思うよりほんの少しでも綺麗であってほしい。
恥じらいを持つからこそ人は噓をつくのだ。
そして、人が恥じらいを持つが故に――
「……す、少しだけ、心配で」
――少しだけ、正直にもなれる。
恥を隠す為に不義理を通す――そんな自分を恥だと思うから。
だからこそ私は、噓で覆い隠してしまおうだなんて思えなくなってしまうのだ。
……そうして、肩にかかる重力が微かに強くなった事は努めて気にしない。
「……まあ、こんなんだからさ――」
たんたんと、私の肩を軽く叩いた後に触れていた温度がじんわりと逃げて行って。
ああ、ようやく解放されたかだなんて吞気に考えていたら――
「――三人でテスト勉強しないってお誘いなんだけど、どうかな?」
私の視界に映る、真っすぐと神宮寺さんの方へと差し出される手。
その突然の違和感に反射的に筋肉がこわばる感じがして――それに連動するように目の前の手の指がピクリと動いた。
(……私の手か、これ)
そう自覚した途端、掲げられる腕に感じえなかった痺れと熱が思い出したかのように走った。
熱源は慣れ親しんだもの。視線を巡らせれば、私の腕の外側を沿うように芽瑠の腕があった。
添え木みたいだなと他人事のように思った。
「………………」
神宮寺さんは差し出された私の手を見て少し固まったと思えば――その視線が次いで私に注がれた。
向けられる視線の意味は困惑だろうか。だとしたら私もお揃いである。
目線を向ける意味も、その内に含まれる意味も私には想像しうるものではないが。
ただ――彼女の瞳に映る私が酷く揺らいで見えたから。
数回の瞬きと一呼吸の後に――
「……わかりました。私もご一緒させてください」
おずおずといった感じに彼女の手が重ねられる。
美麗な白磁。柔らかいようで、それでいて少しざらつきのようなものも感じられて、何よりも思っている以上に彼女の手はひんやりとしていた。
その冷たさが逆に自分自身の持つ熱を意識させるようで――少しだけ手に込める力を強めた。
「よーしよし成功ね」
「揺らさないでよ……」
添えられている芽瑠の腕が手首の辺りを掴んで上下にぶんぶんと揺らす。
私はされるがままに。そして手を握り続けている神宮寺さんも合わせるように揺れる。
何が起きているのかよくわかっていなさそうだが、それでも律儀に手を離さずいるのは彼女のらしさを体現しているように思えて少しだけ笑ってしまった。
それが原因だったのか神宮寺さんはびくりと肩を震わせ、頬に僅かな赤みがさしたと思えば視線を逸らされそのまま手を離されてしまった。
笑い声が聞こえてしまったのか、それで不快な思いを抱かせてしまったか。
熱の去った手を眺めてみれば、握られ続けていたはずのそれは既に赤みを取り戻していた。
「てか場所どうしようかな……」
状況が落ち着いた――とは言え、特段騒ぎ立てていたわけではないが――のを見計らってか、芽瑠も手を離しつつそう言葉をこぼす。
「考えてなかったの?」
「違うし~三人で都合のいい場所考えるほうがいいでしょ」
芽瑠の言葉に呆れたように突っ込もうとして――もっと突っ込むべき箇所に気づいた。
何も考えていないのではなく、三人で考えようと思っていたと。
つまり最初から芽瑠は神宮寺さんを誘うつもりだったということだ。
何というか、抜け目がないというべきか。
ニコニコとあーでもないこーでもないと思考を巡らせている姿を見ると、こういう瞬間にこそ不勉強が祟るものなのかと自分自身の現状に少しだけ危機感を抱いた。
「あの、まだ決まってないなら、その、良ければなんですけど……私の家はどうでしょうか?」
まとまらない議論と騒然とした背景の中で、その内容も相まってまるで鶴の一声のように彼女の言葉は入り込んできた。あるようで、きっと頭の片隅から追いやって考えていなかった完全な想定外。
そして人間というのは想定外の来襲に滅法弱いもので、だからこそ彼女の言葉に答えるのは両者の間に満ちる沈黙だけだった。
「……え!いいの!?」
先に沈黙を破ったのは芽瑠で普段の快活という意味でとれるテンションとはまた違った勢いで神宮寺さんに迫っていた。
対する神宮寺さんは沈黙からの変わりよう、その落差に驚いたのか、もしくは輝かしいオーラと共に詰め寄る芽瑠の姿に気圧されたのか、真意は定かではないが後ろ足を一歩踏み込んでいた。
「わ、私としては特に問題ないですよ?あ、別の場所が良かったら全然それで構わないんですけど……」
「いやいや大丈夫だよ!麻音もいいって言ってるし!ねぇ!」
「いや、まあいいんだけど……」
私としても神宮寺さんの家というのは興味があるし、そもそもこの議論が簡潔終わるのであれば突拍子のない意見でなければ頷くつもりではあったが。
それはそれとして、端から全肯定だろう?と目線で投げかけてくるのが不満である。
(神宮寺さんの家か……)
話の流れ的に自然なのかもしれないが、ただやっぱり唐突というか。
私の心は、浮き輪であてもなく波にさらわれる様な高揚とも似つかない浮遊感の中にある。
それだけ神宮寺さんが自分の家に自ら誘ってくれるなんて意外なのだ。
神宮寺さんは自分というものを明確に持っている。
人ならば程度の差があれど持ち合わせているであろうプライドやアイデンティティだが、彼女のそれは殊更に根深く、強固なものだと思う。
だからこそ、自分の家に招く――相手をパーソナルな領域へと踏み込ませるというのは慎重になるものだと思ったのだが。
(……楽しみだな)
彼女の考えは分からないが、どういった理由にせよ今の私たちに残るのは彼女の家にお呼ばれしたという事実だけ。
その事実だけが、私の心を躍らせていた。
「よし決定!行こう今すぐ神宮寺さんホーム!」
「あの、すみません……その前に、ちょっと」
「行く前に……寄りたい場所があるんですけど、いいでしょうか?」
そう言った彼女の腕の中には、数冊の参考書が抱えられていた。
■
この高校の構造の話だが、同程度の大きさの校舎が2つとその2つの間にグラウンドが挟まるという構造である。
普段私たちが授業やHRを受けるている方が新校舎。その名が示すように比較的最近できたものであるらしく、毎度歩く廊下は陽に照らされピカピカと輝くものだから若干鬱陶しさすら感じる。
対して、私たちが今向かっているのが旧校舎。ここには理科室や家庭科室のような座学だけではない教室群や部活動等で用いられる部屋がまとめられている。
「あたしこっちの方来たことないや。神宮寺さんはよく来るの?」
「そんな頻繫には……何度か図書室の方にお邪魔させてもらっているぐらいです」
一歩先の神宮寺さんに先導される形で旧校舎の廊下を歩く。歩く度に靴と廊下が擦れる音が甲高く響く。
旧校舎と言えども全てが木造で出来ているみたいなそういう古さではない。
流石に新しい方と比べると使い古された感じが出ているが比較対象が無ければ旧と称されど特段何も感じることはない程度。
新しいのが出来て相対的に見て古いと分類されているだけの話である。
「お、図書室発見」
目的地である図書室に関しては少し特殊で、校舎の右端にある一階から三階までの全てが図書室になっている。
だが階層を渡る手段である階段は図書室内に存在しているらしく、入り口は一階にのみ存在しているというのが神宮寺さんの談。
どうやら図書室の入り口は教室のようなスライド式ではなく両開きのガラスドアであるらしい。
扉は全開の状態で固定されていて中の様子がよく見えていた。
「お邪魔しまーす」
図書室の中は、先程まで廊下を照らしていた無機質な光ではなく、暖かい色をした光で満ちていた。
前述したように、一階から三階までの全てが図書室であるということは、すなわちそれに値するだけの蔵書があるという意味である。
「さて、到着したわけですけど。ここで何か借りるの?神宮寺さん」
「そうですね……今借りているものを返した後に、ついでに参考書を借りようと思いまして」
「んーあたしも何か借りてこうかな……歴史とかの暗記系ちょいと不安なのよねぇ。麻音もやばそうな教科のやつ借りてけば?」
「……まあ、数学とか?」
「こっちに向かって首傾げないで自分で把握してくれます?」
そう言われても、私は今日この日までテスト勉強に手を付けていないし、復習だって課題の片手間程度で腰を据えて向き合ったことはない。
なので各教科の進捗は全てが等しくゼロ。世間で幅を広げる平等とは違う真の平等である。
とは言え、あくまでも目標は追試ラインを下回らないこと。
その点だけを考えればこの2週間である程度は形になるだろうと私は考える。
だから個人的に一番不安要素がある数学をあげることにした。
「あっそう。神宮寺さんは?」
「私も、橘さんと同じで歴史が少し不安で……」
神宮寺さんの言葉は、少しだけ意外だった。
私の印象としては授業の合間でよく教科書やノートを確認しているし、きっと家に帰った後なんかもきちんと予習復習を習慣的にこなしていると思うのだ。
だからこそ、特に反復こそが肝要である暗記系統が不安だというのは意外なのだ。
「ほいほい。じゃあ、あたしと神宮寺さんで一緒に歴史系の参考書探してこようか。麻音は自分で数学の探してきてね」
「分かれるの?」
「そっちの方が早いでしょ。歴史系は三階にあるらしいから。数学は一階ね」
理詰めで話されると返すことができるのは同じく理であるか感情だけである。
そして、自分自身の凡庸さを嫌というほど理解している私ができるのは――言葉も感情も発さずにただ頷くのみ。
「じゃ、そういう事なんで!神宮寺さん行こっかー」
「あ、はい……田井中さんもまた後で」
話がまとまったところで芽瑠はひらひらと手を振り、それに続くように神宮寺さんも控えめにこちらへと会釈をして上階へと向かっていった。
二人の姿が完全に見えなくなったのを確認して少し長めに息を吐いてから私も歩き始めた。
(しかしまあ……)
辺りを見れば四方八方に書という書が壁のように立ち、鼻には紙特融の匂いもよく届く。
中を歩く人はあまり見かけないが遠くからは本をめくる音やペン先がカチカチとぶつかる音がしていた。
だからだろうか。こうも”学”という圧に囲まれる経験がなかった私は、自分よりもずっと高い本棚が背丈との関係によって物理的に与えてくる威圧感も相まって若干気後れしていた。
(数学数学……)
そんな中でも、そこまで人と遭遇することが無かったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
人自体は図書室内にも存在してはいるのだが他の階層にいるのか、自習室で机に向かっているのか少なくとも私の目の前ではあまり見かけなかった。
(あ、あそこか)
探すのにそう時間がかかることはなく、入口の方から少し奥まった場所に数学関係の本はまとめられていた。
正直な話、表紙に描かれている何に使うかわからない複雑で長い数式だとかグネグネとうねってもはやトリックアートのような立体なんかが目に入ってくる時点で、私のモチベーションはそれこそ指数関数的に減衰しているのだが、世の中これらによってやる気を昂らせる人種もいるわけなのだから不思議な話である。
そうして嫌な現実から目を背けるように思考してみて――つまり、そうでもしないとやっていられない問題がここで1つ。
(と、届かないんですけど……)
”初学者向けの数学”という文字列が影を落とし、私を見下ろしていた。
――私が求めている参考書がよりにもよって一番上に置いてあるのだ。
(何という不親切さ……)
とは言え、状況に呆れはすれどそう焦っているわけではない。
こういう場合は、大抵脚立のような補助する目的の何かしらの道具があるはずだ。
小学生の時はそうだった。中学生の時だってそうだ。それは私にとって馴染み深いものだから。
この聳え立つ本棚の半分にも満たない背丈と共に歩んできた人生の足跡がそう囁いていた。
ましてや、学校という公共機関の内。そういった配慮がなされていない方が不自然である。
(……いや、ないですけど?)
辺りを軽く見て、それらしきものは見当たらず。
それならば、きっと他人が使って違う場所に置かれているのだろうと、少し離れた列の棚周りなどを探してみてもそれらしきものは影すらなく。
試しに爪先立ちで腕を出来る限り伸ばしてみても、元からほとんど体幹がない故に体は不安定にぷるぷると震えるし、そもそも指先は最上段の1つ下にすら届いていなかった。
何かしらのすれ違いによる不幸か、あるいはただ不親切なだけか。
どういった理由にしろ、ただ一つ分かっているのは――私の手には、未だに結果が握られていないということだけだ。
(困った……本当に)
実のところ、この状況を容易に突破できる方法に検討はついている。
それでも、こうして心底困ったと心の内で嘆くのは――心情的にはその方法をとりたくないと考えているからだ。
その方法ならば結果は両手の内に抱えられ、この葛藤がばかばかしく思えてしまうのであれば尚更。
それだけ思っている以上に――人に頼るというのは案外難しいものだ。
頼るという行為そのもののハードルもそうだし、何よりも高い場所にあるものが取れないという内容。それが誰にも手の届かない位置にあるのならこんなにも悩む必要などないのだが、ここで他者を頼るというのは、つまり相手には出来て自分には出来ないと認めるということ。
それが合理であると理解していても、まざまざと自分の子供らしさを見せつけられるのは心にくるものがある。
うだうだと思考がまとまらないでいると――
「ねえ」
――覆い被さるように大きく影が差した。
驚き一瞬思考が停止して、恐る恐る後ろを振り返れば――視界に広がるのは緩やかに曲線を描く紺色の壁。
それが自分が纏うブレザーと同じ紺であると気づいて首を上へと向けた。
(え……)
私が見上げるということは、つまり私よりもずっと背が高いということ。
見上げた先には当然私の知らない女子生徒の姿。
藍色に近い黒髪とそれに混じる深緑色のインナーカラーが首筋に沿って流れている。所謂ウルフカットというやつだろうか。耳元で鈍い光を放つのは恐らくピアス。それも1つだけではなく複数。
肌が若干青白いのか、暖色系に囲まれる図書室の中では彼女自身が漂わせるダウナーな雰囲気も相まってやけに目立っていた。
それは私が思い描くような不良系にそっくりで、かなり近寄りがたい感じで――はっきり言ってビビっている。
そんな彼女は、縁の細い大きめの丸眼鏡越しにはっきりと隈を携えつつ、その瞳を眠たげに細めて私をじっと見据えていた。
「え、あ、ごめんなさい邪魔ですよね退きます今すぐに……」
人がいないといえど、流石に同じ場所にとどまり続けるのは良くなかったかもしれない。
そう思って狼狽えつつもさっと横にずれようとすれば――どうしてか、遮るように一歩彼女がこちらへと踏み出す。
(……え)
想定外に硬直する私をよそに、彼女はまた一歩こちらへと距離を詰める。
私も逃れるように後ろへ一歩踏み出そうとして――背中に軽い衝撃。
横目で見てみれば、後ろには本棚がそびえたっていた。
追い詰められた。気づけば彼女はさっきよりもずっと近く私の前に立ちふさがって、私との距離は既に爪先が触れ合ってしまうほど。
もうなす術がないと、最後の手段としてギュッと目を閉じた。
これから何をされてしまうかはまるで分からないが、それでも耐え忍びさえすれば事が終わると信じて――
「――欲しいのはこれ?」
(……あれ?)
だが暗闇に差したのは、冷たく、それでいて私が想像しているよりもずっと優しい声と、頭に感じた軽い感触。
恐る恐る目を開けてみれば――目の前には先程まで私を悩ませていた何に使うかわからない複雑で長い数式たち。
私の手が届かなかった参考書だった。
「……えっと」
「じっと眺めてるみたいだったから、これが欲しいのかなと思ったんだけど……合ってる?」
「あ、え……」
女子にしては低く、それでいてよく耳に届く低音。
その顔と声色には感情という色が抜け落ちているようで、彼女のそれは言葉を放るという表現が近い。
冷たく、投げやりな感じすら抱かせるが、それでも言葉の向かう先が私自身であるという事実と――今この現状が硬直していた私の心身をほぐした。
……詰まる所、全て私の勘違いであった。
「……もしかして、違った?」
「いいいいいえあってます!これです!あ、ありがとうございます……高い所にあって、届かなくて……」
安堵と羞恥がせめぎあって落ち着かない状況で自分が未だに何の答えも出してないことに気づいて、大きく頭を下げて参考書を受け取る。
その際に彼女の握っていた部分は――ほんのりと暖かかった。
「……本当は脚立が置いてあるんだけど、先週辺りでガタが来て今修理中。だから新しいものを申請したけど、生憎まだ届いていない」
「な、なるほど?……詳しいですね」
どうやらそういう事情があったらしい。
原因が分かった事は大いに結構なのだが、それはそれとして目の前の彼女の口からやけに詳しい内容がすらすらと出てくるものだから純粋に驚いて言葉が漏れた。
私が漏らした言葉を聞いて、おおよそ反応と呼べるものが初めて彼女の顔に出た。
彼女は驚いたように細められていた瞳を僅かに開いていた。
まるで自分の言葉が想定していたものとは違うといった感じの反応だ。
「ん?……あー、先に自己紹介をしておくべきだったか」
そう言って、彼女はバツが悪そうに目を逸らして、肩の辺りにかかる毛先をくりくりといじりだし頬は少しだけ赤く染まっているように見えた。
それから少しもしない時間で再び私と彼女の視線が交わると、彼女はふうと小さく息を漏らした後に口を開いた。
「
「……文芸部、部長?」
あまつしお――天津先輩。それが目の前の彼女の名前らしい。
どうやら二年生だったらしい。知らないわけだと思ったが、そもそも今の時点で私が覚えている同級生の名が芽瑠と神宮寺さんの二人分である。同級生だとしても全然記憶にないのだからどちらにしても同じだった。
そしてもう1つ気になったワード――文芸部、それに部長という言葉も。
文芸部はその名が示すように文学に関する部活動のことだろう。
私は元より入るつもりもなく、それ故あまり詳細に覚えてはいないがこの学校では屋内で行う文化系の部活動よりも屋外で行う体育系の部活動の方が多い。それは部活動自体の数もそうだし部員の数もまた同様である。
つまり文芸部はその少数派の内の1つであり――ましてや目の前の先輩はそのトップであると。
(……見えないなぁ)
頭の頂点からつま先まで、失礼だと分かってはいるがそれでも一巡。
背は高く、だが全体的に細く。若干不健康そうな肌色にはっきりとした隈やその雰囲気。
パンク系というか、口を開いて舌先に十字架が垂れ下がっていてもおかしくないと持ってしまうような見た目だ。
そんな人が部活動、それも文芸部という外見から受けるイメージの対極の枠組みに収まっているというのは、実際に本人の口から語られたとしても未だに信じきれない話なのだ。
「……そっちは?」
「そっち……?部活動は入ってません……」
「……いや、そっちじゃなくて名前の方」
「あ……田井中麻音です」
そこまで言われて自分が未だに名乗っていない事を思い出し、慌てて頭を下げた。
幸いにも、呆れた様子は多少見られるが怒っているわけではないらしく安堵する。
私の名前を聞いても特に表情を変えることもなく、ただ天津先輩は満足そうに一度頷いた後に、ゆらりと体を180度回転させてこちらに背を向けた――その手の内に私の目的である数学の参考書を抱きながら。
「……え?あの?」
「これ借りるんでしょ?やってあげるから行くよ」
私の声に対して天津先輩は一瞬だけ足を止めこちらへと視線を向け、さも当然であるかのように強く歩みを進めた。
そんな先ゆく天津先輩の姿を数歩遅れるようにして私も追いかけた。
■
本を借りると言っても何か特別なことをするとかではない。
借りたい本を係りの人に渡して、学生証を専用の機械にタッチ。そうすることで誰がどの本を借りたのかが登録されて、それで終わり。
後は期限までにしっかりと返却することだけ気を付ける。
天津先輩の説明の中で1つ嬉しかったのが、返却する際は必ずしも今のように対面である必要はなく、入口の近くに設置してある返却BOXに入れるのでも構わないことだ。
これだけ簡単な作業では特段対話をするわけでもないから対面でもそこまで苦に感じないのだが、それはそれとして接触が必要最低限になるシステムは私のような人間には嬉しいものだ。
「はいこれ。二週間だからそれまでに返しに来て」
「ありがとうございました……あ、天津……先輩」
先程までの事から今の現状まで含めて、改めて深く頭を下げれば。
天津先輩はまたも意外そうにその目を大きく開いて、首を横に向けて顔を逸らされてしまった。
そんな直接的な逃避行動に、何かおかしなことを言ってしまったかと思い返すも特に思い至らず。
両者の間には沈黙が広がっていた。
「……別に、仕事だから。ほら、早く行きな」
その沈黙は特段気まずく感じることはなく、寧ろこそばゆさを感じさせるものだった。
そう心の内で感傷に浸っていると、目に入ったのはしっしっと、そんな擬音が聞こえてくるような勢いで手を追い払う天津先輩の姿だった。
その姿がやけに手慣れた感じで堂に入ったものだったから思わず口から笑いが漏れてしまい、その音が耳に入ったのかさっきよりも少し強めの勢いでまた追い払われてしまった。
「お、麻音発見~」
紆余曲折ありつつも何とか早めに自分の目的を終わらせることが出来たので芽瑠たちの所へと向かおうか考えていたら、後ろから聞き慣れた声とぱらぱらと不揃いな足音が耳に届く。
音の出所へと目を向ければ、丁度上の階から降りてくる芽瑠と神宮寺さんの姿が。
二人とも両手で数冊の参考書らしきものを抱えていた。どうやらこれから借りるらしい。
「もう借りた?」
「ついさっきね」
「ナイスタイミング!そんじゃあ、あたしたちも借りてきちゃおっか」
そう言って天津先輩の座るカウンターへと向かう二人の後ろ姿を見て、多少とはいえ手持ち無沙汰になった私は手慰みにペラペラと手元の参考書をめくる。
内容に目を通すわけではなく、めくる度に起きる小さなそよ風に心地よさを感じていると――参考書の中からひらりと一枚何かが床に落ちていった。
(ん?)
手のひらサイズの小さなメモ用紙が一枚。
誰かが挟んだまま忘れていったものだろうかと思い、拾い上げてみると――そこには短めの数字の羅列と文章が書かれていた。
”困ったことがあれば XXXX…… 天津より”
(………………)
用紙を拾い上げて、顔を上げればそこには芽瑠と神宮寺さんに対応している天津先輩の姿。
その姿と――用紙上に踊る可愛らしい丸文字を見て。
やはり人を見た目で判断してはいけないのだと、随分と初歩的な事を思い出した。