君を知らないまま、君を想っている   作:ペンタス

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戻れない場所に、匂いだけが残る

 

 

 気づけば、数十年という時が過ぎていた。

 当たり前のように、私は何も変わっていない……あの頃を思い出して消えない懺悔をし続ける毎日。

 

 

 

 人の寿命が、いくつも終わるほどの時間。

 生まれ、名を与えられ、誰かの隣で笑い、そして消えていく――

 その一連が、何度も繰り返されるだけの長さ。

 

 街が変わった。

 石畳は削られ、道は広げられ、建物は壊され、また建て直された。

 

 名前が変わった。

 かつて呼ばれていた呼び名は、古い地図の片隅に小さく残るだけになり、やがてそれすらも塗り潰されていった。

 

 

 地図が更新されるたび、境界線が引き直されるたび、

 人々はそれを『時代が進んだ証』と呼ぶ。

 

 その多くは、戦争によるものだった。

 

 勝った国が名前を残し、負けた国が消える。

 英雄と呼ばれた者の像が立ち、数十年後には撤去される。

 憎しみは正義に塗り替えられ、正義は次の憎しみに変わる。

 

 

 私はそれを、何度も見てきた。

 遠くから、ただ眺めるように。

 

 

 時間は、本来、私にとって意味を持たないはずだった。

 老いない。

 衰えない。

 昨日と今日の違いを、わざわざ数える必要もない。

 

 朝日が昇り、沈み、また昇る。

 それが何万回繰り返されようと、私の身体は同じ形のままだ。

 

 それなのに――

 

 後悔だけは、確かに積もっていった。

 

 最初は、薄い霜のようなものだった。

 気づかないふりをすれば、そのまま通り過ぎられる。

 足元に白く残っていても、踏みしめれば消える程度の、取るに足らないもの。

 

(仕方がなかった)

(近づかなかったのは、正しかった)

(どうせ、いつか別れる)

 

 そんな言葉で、何度も覆い隠した。

 それでも、季節は巡り、霜は溶ける前に、いつの間にか雪へと変わっていた。

 一晩で積もることはなく、音もなく、少しずつ。

 

 朝、歩こうとしたとき、足が沈む。

 思ったより深く、思ったより冷たい。

 

 それでも進める。

 進めてしまう。

 私は、そうやって何度も自分に言い聞かせてきた。

 

 雪は、吹き溜まりになる。

 風が止まる場所にだけ、集められる。

 逃げ続けた場所、目を逸らし続けた場所にだけ、重なっていく。

 

 気づけば、動こうとするたび、足を取られるほどの重さになっていた。

 

 忘れたはずの声が、

 忘れたはずの匂いが、

 眠りの底から、何度も浮かび上がる。

 

 焼きたての小麦の匂い。

 少し焦げた皮の苦み。

 不器用に、でも真っ直ぐ投げられた言葉。

 

 名前を呼んだときの、あの驚いた顔。

 

 私は、時間を超えて生きてきた。

 何千年も、世界の変化を見送ってきた。

 

 それでも、あの小さなパン屋に残したものだけは、

 時間の外に置き去りにしてしまったのだと、

 その頃になって、ようやく理解した。

 

 置いてきたのは、思い出だけではない。

 選ばなかった言葉。

 確かめなかった想い。

 踏み出さなかった一歩。

 

 それらは凍りついたまま、

 解けることも、忘れ去られることもなく、

 ずっとそこに残り続けていた。

 

 永遠を生きるということは、

 すべてを失っても、なお生き続けるということだ。

 

 けれど私は、そのとき初めて知った。

 

 失わなければよかったものを、

 自分の手で手放してしまった後悔は、

 永遠に薄まらないのだと。

 

 

 

 試しに、と私は思った。

 その言葉は、言い訳のように軽く、けれど胸の奥ではずっと前から用意されていた響きだった。

 

 ほんの出来心だ。

 数十年という時間を生きてきた私にとって、街ひとつ戻ることなど、風向きが変わる程度の出来事のはずだった。

 

 それでも足は、確かに重かった。

 

 あの街に近づくにつれて、空気が変わる。

 小麦の匂いは薄れ、知らない店の看板が増え、道の幅さえ微妙に違って見える。

 それなのに、身体のどこかが、迷わず目的地を知っていた。

 

 人の通らない外れ通り。

 記憶の中で、何度も立ち止まった場所。

 

 

 そして──

 

 

 ──パン屋は、畳まれていた。

 

 看板は外され、窓は板で塞がれ、あのガラスケースがあった場所には、光の反射すら残っていない。

 焼きたての匂いも、彼の声も、まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに消えていた。

 

 

 やっぱりだ。

 

 

 内心、そう呟いた自分がいた。

 わかっていた。

 ここに、何も残っていないことくらい。

 

 それでも、胸の奥が、鈍く痛んだ。

 

 長い時間を生きてきて、失うことには慣れているはずだった。

 王国が滅びる瞬間も、街が焼ける夜も、人が死んでいく音も、すべて見送ってきた。

 なのに、たった一軒の店がなくなっただけで、こんなにも息が詰まる。

 

 私は、背を向けた。

 

 これでいい。

 確かめただけだ。

 試しただけだ。

 

 

 そう言い聞かせて、一歩踏み出した──そのとき。

 

 

「最近まで、開いてたのよ」

 

「……っ!?」

 

 

 横から、不意に声がかけられた。

 

 中年の女性だった。

 買い物袋を抱え、何気ない世間話の延長のような口調で、彼女はそう言った。

 

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった、私の頭に届かなかった。

 

 

「ほら、このパン屋さん。ついこの前までね」

 

 時間が、止まった。

 

(最近…?)

(ついこの前…?)

 

 それは、私にとって曖昧で、輪郭を持たない言葉のはずなのに、今は刃物のように鋭かった。

 

「店主さん、体を悪くしてねぇ……それで、閉めちゃったの」

 

 

 女性は、残念そうに肩をすくめた。

 それ以上の事情を、深く語るつもりはないらしい。

 ただの『よくある話』として、彼女はそれを口にした。

 

 けれど、私の中では、何かが音を立てて崩れていった。

 

 

 息が、できなくなった。

 

 

 胸の内側に、冷たい水が一気に流れ込んだような感覚。

 空気を吸おうとしても、肺がうまく動かない。

 心臓だけが、やけに大きな音を立てている。

 

 生きていたのだ。

 彼は、確かに生きていた。

 

 私が、近づかないようにしていた間も。

 噂を聞かないように、耳を塞いでいた間も。

 この街で、パンを焼いて、生き続けていた。

 

 知らなかった。

 知らないままで、いた。

 それは、守るためだったのか。

 それとも、逃げるためだったのか。

 

 

 答えは、もうわかっている。

 

 私は、彼が死んだという話を聞く勇気がなかっただけだ。

 だから、生きている可能性からも、目を背けていた。

 

 女性が去ったあとも、私はその場から動けなかった。

 

 閉ざされた扉の向こう側に、確かにあったはずの時間。

 私が選ばなかった時間。

 後悔は、もう霜でも雪でもなかった。

 凍りついた地面の下で、春を待てずに腐っていく何かのように、胸の奥で重く沈んでいる。

 

 そんな最中、私は気づいてしまった。

 

 裏口の方角から、かすかな光が漏れていることに。

 

 夜の街に溶け込むほど弱く、意識しなければ闇と見分けがつかない光。

 風に揺れる蝋燭の火のように、今にも消えてしまいそうで、それでも確かにそこに在った。

 

 それは、希望と呼ぶにはあまりに頼りなく、

 奇跡と名付けるには、あまりにも現実的だった。

 

 けれど、見なかったことにするには、あまりに眩しい。

 

 長い時を生きてきて、私は知っている。

 こういう光は、気づいてしまった時点で、もう逃げられない。

 触れなければ何も起きないが、触れてしまえば、何かが確実に変わってしまう。

 

 胸の奥が、ひどくざわついた。

 期待と恐怖が、同じ形をしていることを、私はよく知っている。

 数えきれない別れの中で、何度も騙され、何度も学んできたはずだった。

 

「それでも、いい……!」

 

 私の足は、光の方角から離れなかった。

 

 それは、誰かに呼ばれたわけではない。

 約束があったわけでもない。

 ただ、長い時間をかけて積もった後悔が、私の背中を静かに押していた。

 

 もし、これが見間違いだったとしても。

 もし、扉の向こうに何もなかったとしても。

 それでも、このまま自分の心に背を向けるよりは、ずっとマシだと私は思った。

 

 

 

 

 

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