その違和感は、夜側を出た瞬間に消えるようなものではなかった。
帰り道の風景に紛れて薄まることもなく、眠れば忘れてしまえるほど軽くもない。
柚葉の中でそれは、言葉にならないまま、次の勤務まで静かに残り続けていた。
匂いが変だったわけでも、配置が入れ替わっていたわけでもない。
温室はいつも通り整然としていて、植物たちは変わらずいつもの位置にあり、夜側特有の湿度と暗さも、数値上何ひとつ問題がなかった。
しかし、違和感の正体はもっと無関係に思えるはずのものだった。
翌日、業務開始前の確認作業として端末を立ち上げたとき、柚葉は無意識のまま画面をスクロールし、ふと指を止めた。
何度も目を通してきた記録。
見慣れた書式、見慣れた項目、見慣れすぎてもはや内容を読まずに確認したつもりになっていた文字の並び。
その中に、今まで意識の外に追いやっていた『空白』があることに、初めて気づいた。
観察記録は、正確であることを前提に作られている。
誰が、いつ、どの個体を、どの視点で観察したか。
観察者の名前は必ず残り、植物の状態とともに積み重なっていくものだ。
それなのに、そこには名前のない記録があった。
記述は丁寧で、視点も一貫している、植物への分析も深い。
新人の記入ミスによる可能性も考えたが、仮登録のまま放置された形跡もない。
ただひとつ、観察者欄だけが、最初から存在しなかったかのように空白のままになっている。
最初におかしいと感じた記録から、柚葉の疑念は日に日に膨らんでいった。
夜側温室の作業記録は、もともと変化に乏しい。
温度、湿度、照度、葉の状態。
決められた項目に数値を入力し、基準値から外れていれば異常にチェックを入れる。
それだけの、単調な作業の繰り返しだ。
柚葉もこれまで、深く考えずに同じ手順をなぞってきた。
そんな、ある日──今度は、異常報告の欄が全て空白になっていた。
三か月分のログを遡っても、ほとんどすべてが『:異常なし』で埋められている。
管理が行き届いている、と言えばそれまでだ……夜側温室は特殊区画で、外部からの干渉も少ない。
普通なら疑問に持つこともないだろう。
ただ、柚葉は知っていた。
植物は、必ずどこかで変わるのだと。
葉の色がほんのわずかにくすむこともあれば、成長速度にばらつきが出ることもある。
土壌に微細な虫が混じることだってある。
自然に完全な安定はなく、むしろ些細なズレが積み重なるのが普通だ。
なのに、ここにはそれがない──また一つ、柚葉のなかで疑念が生まれる。
作業の合間。柚葉は端末から顔を上げて、いつものBPに声をかける。
「ねえ、真琴」
名前を呼ぶと、真琴は葉の裏を観察していた手を止めて、こちらに視線を向ける。
「夜側って、流石に異常報告が少なすぎない?」
ほんの軽い疑問のつもりだった。
だが真琴は、わずかに間を置いてから曖昧に首を傾げた。
「……別に」
「他の温室と比べてみてよ! 異常がないのが異常ってくらい──」
「──そういう場所なだけ」
そう言って、真琴はまた視線を植物に戻す。
これ以上話を広げる気はない、というようか仕草に、柚葉は無理に追求しなかった。
だが、その日の帰り、職員用の配置図を改めて確認する。
夜側温室の担当者欄には、自分と真琴の名前が並ばれ、その前にも同じように二人一組の名前が続いていた。
そんな中で、柚葉はどのペアも経過報告の途中で終わっていることに気づく。
異動も退職の報告も書かれていない。
配置そのものが、ある時点で途切れている。
──理由欄は、すべて空白で埋まっていた。
次に気づいたのは、植物の配置だ。
夜側温室の植物は、種類ごとに整理されていない。
生育条件も厳密には揃っておらず、通常なら管理の難しい配置のはずだった。
けれど、不思議なことにどの個体も安定している。
よく見ると、植物は二つずつ、寄り添うように置かれていた。
完全に重なり合うことはなく、けれど互いの葉が触れるか触れないか、まるでその距離を保っているように。
試しに、柚葉は一つの鉢を意図的にずらした。
すると翌日、鉢は元の位置に戻っていた。
柚葉が動かし記録した移動記録は、どこにも残っていなかった。
ある日の作業終盤、真琴が何気ない調子で言った。
「ここってさ。一人じゃ、任されないんだって」
柚葉は足を止めた。
「それって、どういう意味?」
「昔ね、一人で担当する事があったらしいの」
真琴の声は、やけに落ち着いていた。
「でも、今までズレが生じなかった数値が全て乱れたんだって」
「まさか……いや、夜側にそんな異常なことなんて、どこにも書いて──」
「──うん。だって、人だもん」
柚葉の言葉に、被せるように言った真琴の軽い一言が、喉の奥がひやりと冷えた。
「……」
「でもね。またペア制にしたら、安定するようになった」
「……」
真琴は少し俯き、言葉を紡ぐ。
「感情とか。思考とか。存在の輪郭とか全部がね」
真琴の言葉から、冗談なのか本気なのか、判別する事はできなかった。
柚葉にとっての最悪の想像──今までの疑念や真琴の発言から、全ての点が線になる。
そして、それが決定的になったのは、隠しログからだった。
夜側温室の端末は権限が低く誰でも動かせてしまう。
真琴は迷いなく操作し、画面を切り替えた。
そこに表示されたのは、植物データではなく人事情報だった。
名前。
ペア。
担当期間。
そして、その最後に並ぶ項目。
状態遷移:固定
役割変更:観察対象
「……ねえ、真琴」
声が震えた。
「やっぱり──夜側の植物は、人……なんだよね?」
「うん」
真琴は否定せず、頷きながら答える。
「元々は、だけどね」
「元々?」
「最初は、みんな観察者だった」
───────
──夜側温室は、ある事故から生まれた。
閉鎖環境における人間関係の研究。
特定の他者とだけ関わり続けたとき、人の感情はどう変化するか。
最初は一つの心理実験として始まり、次に、生理指標の管理が加わった。
すると、やがてある地点が見つかる。
──そこは変化が、不可逆になる地点。
そこを越えた人間は、外界に戻れなくなる。
刺激を欲っして選択を拒み、変化そのものを必要としなくなる。
「俗に言う、植物人間だね」
真琴はそう言った。
「でもね、苦しくはないんだよ」
真琴から出てくる言葉は、凄惨な事ばかりなのに──柚葉は耳を塞ぐことなく真琴の横で話を聞き続けた。
配置が変わる前日。
柚葉にとって逃げる時間は十分にあり、申請すれば異動も可能だと聞いた。
しかし、柚葉は今日も夜側の扉を開ける。
ここは、静かだ。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
隣に真琴がいる。
「あの時、観察者の話をしてた時、真琴は笑顔だった……」
だから、私にはそれだけで十分なんだ。
言葉は、少しずつ減っていく。
名前を呼ぶ必要がなくなり、視線を合わせる意味も薄れる。
ただ同じ方向を向いていれば、それでよかった。
ある日、柚葉は自分の声を思い出せなくなった。
ある日、真琴の顔が『形』として理解されるようになった。
ある日、夜側温室の奥に二つの鉢が追加された。
葉は絡み、根は同じ土に沈む。
動かない。変わらない。
札は『 』だ。
「……ねえ」
2人の少女が、夜側に入ってくる。
「この植物って、なんか落ち着くよね」
「うん。この空気、私好き」
担当表には、また二つの名前が書かれている。
夜側温室は、今日も静かだ、変化しないものを、育てるために。
ということで……第1話完結です!
もちろん、Aパートは今後一切語れることはありません。
しおりを挟んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!!
まさか、まさか4人も参加してくださるとは思いもしませんでした……
第2話がいつになるかは分かりませんが、今回参加してくださった方々、この続きから知ってくださった方々……これからも是非、しおりを挟んでくださると嬉しいです!!
では、また。