そこで僕は初恋に出会ったんだ。
ストックはそれなりにあるけど内容は保証できません。
星を駆ける初恋
・9月1日(月) はれ
今日から二学期。
学校に行くと、みんな夏休みの旅行の話とか、宿題が終わらなくて死にそうだった話とかをしていた。
僕も適当に笑ってあわせたけど、正直、全部どうでもいいことのように思えた。
だって、昨日の夜、僕は本当の「星の海」を見てしまったから。
夜中にふと目が覚めたら、僕は自分の部屋じゃなくて、真っ暗で、でも宝石をぶちまけたみたいにキラキラした場所を飛んでいた。
風はないのに、光の粒が体をすり抜けていくのがわかった。
そこで、彼女に会ったんだ。
黒い髪が長くて、瞳も夜の空みたいに真っ黒で。
僕が今まで見たどんな女の子よりも綺麗で、でも、どこか寂しそうな顔をしていた。
彼女は僕を見て、少しだけ驚いたあと、いたずらっぽく笑った。
「あなた、ずいぶん遠くまで来たわね」
彼女の声は、耳じゃなくて直接心臓に響くみたいな、不思議な音だった。
何か言おうとしたけど、急に体が重くなって、気がついたら自分のベッドの上だった。
窓の外からはセミの声が聞こえて、さっきまでの静かな光が嘘みたいだった。
昼休みの教室で、ノートの端っこに彼女の似顔絵を描いてみた。
白いワンピースが、宇宙の光を反射して輝いていたのを思い出す。
早く夜にならないかな。
今夜もまた、あの場所へ行けるだろうか。
彼女に、僕の名前を教えたい。
【連絡帳:家庭から学校へ】
いつもお世話になっております。 今日から二学期ですね。
今期もよろしくお願いいたします。
夏休み中、息子は特に大きな怪我や病気もありませんでしたが、少し寝不足気味のようです。
今朝も「夢に綺麗な女の子が出てきた」と、寝ぼけたようなことを言っていました。
学校でぼーっとしているようでしたら、注意していただければと思います。
・9月16日(火) くもり
夜、また彼女に会えた。
今夜の星の海はいつもより静かで、彼女の白いワンピースが遠くからでもよく見えた。
勇気を出して、彼女の隣まで泳いでいった。
「君は、どこから来たの?」
僕が聞くと、彼女は少し困ったように首をかしげて、自分の透き通るような指先を見つめた。
「どこから、と言われても困るわ。私たちは、あなたたちが言う『場所』には住んでいないの。形も、重さもない。ただ、こうして想い合う心だけが、私たちの姿なのよ」
彼女が僕の頬に手を伸ばした。
触れられると思ったのに、彼女の手は僕の肌をすり抜けて、冷たい光の粒子が通り過ぎただけだった。
「ごめんなさい。私、あなたみたいに『お肉』を持っていないの。だから、触れてあげられない」
彼女は寂しそうに笑った。
でも、その瞬間、僕の頭の中に彼女の感情がどっと流れ込んできた。
何万年も一人で、この暗闇の中で仲間を探し続けていたこと。
僕を見つけたとき、どれほどうれしかったか。
肉体なんて、なくていいと思った。
「僕が、君の形を覚えておくよ。毎日会いに来るから」
そう約束したら、彼女は今までにないくらい明るく笑って、僕の周りをくるくると回りながら飛んだ。
現実の世界に戻ってくると、自分の体がひどく重くて、汚れた泥の中に閉じ込められているみたいに感じる。
早く、あの自由な光の中に戻りたい。
【連絡帳:学校から家庭へ】
お世話になっております。
本日、理科の実験中に息子さんが「自分の腕が透けて見える」と言って、少しパニックになる場面がございました。
実際にはそのようなことはないのですが、本人はひどく思い詰めている様子です。
また、最近はお弁当をほとんど残されており、「食べると体が重くなるから嫌だ」と仰っています。
一度、ご家庭でもゆっくりお話しを聞いてあげてください。
・10月5日(日) 雨
外は雨が降っているみたいだけど、僕には関係ない。
最近、昼間もずっと眠っている。
学校に行こうとすると、体が鉛みたいに重くて一歩も動けないんだ。
お母さんが何度もドアを叩いて僕を呼ぶけど、その声は分厚い水の中にいるみたいに、ぼんやりとしか聞こえない。
彼女が言った。
「だんだん、こちら側の波長に合ってきたわね。もうすぐよ」
彼女と一緒に星の海を飛んでいる時だけ、僕は本当の自分になれる気がする。
鏡を見ると、僕の体はますます白くなって、輪郭がぼやけてきた。
お母さんが心配して僕の手を握ったとき、お母さんの手が僕の腕をすり抜けたのを、僕は見逃さなかった。
お母さんは悲鳴を上げそうになって口を押さえていたけど、僕は全然怖くなかった。
だって、彼女が隣で「大丈夫、それはあなたが自由になり始めている証拠よ」って笑ってくれたから。
【連絡帳:家庭から学校へ】
担任の先生。
本当に申し訳ありませんが、明日からしばらく欠席させていただきます。
息子の状態が、どうしても理解できないのです。
食事を全く受け付けず、ただ眠り続けています。
眠っている時のあの子は、見たこともないような幸せな顔をしていて、起こすのが罪悪感を感じるほどです。
病院の先生は「過度な空想への逃避」だと言いますが、あの子がここに居ないように感じることがあります。
もう、どうしていいか分かりません。
しばらく、連絡もできないかもしれません。
すみません。
すみません。
・10月12日(日) 天気はわかんないや
もう、学校のチャイムの音も、街の音も聞こえなくなった。
部屋の中はいつも、彼女が連れてきてくれた光の粒でいっぱいだ。
お母さんが部屋に入ってきて、僕のベッドの横で泣いているのが見える。
手を伸ばして涙を拭いてあげようとしたけど、僕の手はもう、空気みたいに透き通っていて、お母さんの顔を通り過ぎてしまった。
「悲しまないで。僕はこれから、一番きれいな場所に行くんだ」
声に出したつもりだけど、お母さんには届かなかったみたいだ。
彼女が僕の肩に頭を乗せてささやく。
「さあ、あともう少し。全部捨てて、私と一緒に行きましょう」
僕は、日記を開く力もなくなってきた。
でも、不思議と気分は最高にいい。
ただ、眠るのが待ち遠しい。
・10月28日(火) 天気は、もう関係ない
今、夜の11時。
もうすぐ、約束の時間。
お母さんがさっき、僕の部屋に来た。 僕の頬に触れて、「どうしてこんなに熱いの」って泣いていた。 お母さんの涙が僕の腕に落ちたけど、それは僕の体を通り抜けて、シーツに吸い込まれていった。
僕はもう、ほとんどこっち側にはいないんだね。
彼女が、窓の外で待っている。
真っ黒な夜の空に、彼女の白いワンピースが眩しいくらいに光っている。
寂しさに耐えかねた神様たちが、僕らを見つけてくれたんだ。
「準備はいい?」
彼女が窓をすり抜けて、僕の目の前に立った。
彼女の黒い瞳の中に、僕の知らない銀河がいくつも渦巻いている。
僕は最後にもう一度だけ、この重たい鉛筆を動かしている。
お母さん、ごめんね。
日記、勝手に見ないでって言ったけど、もし読んだら、笑ってほしい。
僕は病気になったんじゃなくて、光になったんだ。
あの日、学校の窓から見た空のずっと先まで、僕は彼女と駆けていく。
彼女の手が、僕の胸の中に重なった。
心臓が、光の粒になって弾けるのがわかる。
ああ、すごく温かい。
もう、なにも怖くない。
じゃあ、行ってきます。
初恋の人と、星の海へ。
【 】
「……本当に、これだけでよろしいですか?」
係員の問いかけに、母親は力なく頷いた。
棺の中には、少年の穏やかな遺体と、彼が最期まで離さなかったあの日記だけが収められている。
12歳のまま止まってしまった彼の時間は、これから炎によって解き放たれようとしていた。
重い扉が閉まり、点火の音が響く。
母親は、日記に記されていた「光になった」という言葉を思い出していた。
医師が何を言おうと、世間がどう思おうと、あの子の瞳は最期まで、この世の誰よりも幸せそうに、届かないはずの星を映していた。
その時、火葬炉の煙突から空へ向かって、一筋の青白い光が真っ直ぐに昇っていった。
それは秋の澄んだ夜空を切り裂き、瞬きを繰り返しながら、やがて一番明るい一等星の影へと消えていった。
母親はそれを見上げ、初めて小さく微笑んだ。
「行ってらっしゃい。……風邪、引かないようにね」
少年の初恋は、12年という短い月日を飛び越え、永遠の光の中に溶けていった。