板張りの床が、背中を容赦なく責め立てていた。
痛い。硬い。そして何より、骨の髄まで染み込んでくるように寒い。
意識の浮上とともに、強烈な不快感が全身を駆け巡る。
うっすらと目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。
いや、天井と呼ぶにはあまりに無惨だ。あちこちに穴が空き、腐った梁が肋骨のように剥き出しになっている。そこからシャンデリアのように垂れ下がる蜘蛛の巣が、隙間風に揺られていた。
「……ここ、どこ?」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど幼く、鈴を転がしたように高かった。
寝ぼけているのか? それとも、まだ夢の中?
起き上がろうとして、手をつく。
その瞬間、思考がフリーズした。
視界に入ったその手が、あまりにも小さすぎたのだ。
まるで紅葉のような、華奢で柔らかな子供の手。ささくれだった床板の冷たさを、その小さな掌が過敏なほど鮮明に伝えてくる。
慌てて自分の体を見下ろす。
擦り切れて色褪せた赤い着物。裾がボロボロにほつれ、泥汚れのついた袴のようなもの。
それはコスプレ衣装というよりは、長い年月を風雨に晒された「古着」と呼ぶのが相応しい惨状だった。
(え、マジで? これがいわゆる異世界転生ってやつ? それとも憑依?)
混乱で心臓が早鐘を打つ。
けれど、オタク特有の「異常事態への無駄な順応性」が、即座に現状把握を試みようと脳をフル回転させる。
前世の記憶はある。私はただの東方オタクで、しがない社畜だ。昨夜も安アパートの布団の中で、現実逃避がてら『東方』の原作ゲームをプレイしながら寝落ちしたはずだ。
だというのに、今の私はどう見ても、小学校低学年くらいの女児になっている。
それも、ただの女児じゃない。
視界の端で揺れる、この大きな赤いリボン。そして、特徴的すぎる袖と紅白の装束。
「博麗……霊夢?」
うっそ、まさかの「推し」になっちゃった感じ?
一瞬だけ、オタクとしてのテンションが爆上がりしかけた。最強の巫女、楽園の素敵な巫女、博麗霊夢。もしそうなら、空だって飛べるし妖怪だって退治し放題だ。
(落ち着け私。まずはセーブポイント……じゃなくて、現状確認だ。ここが本当に『博麗神社』なのか確かめないと)
はやる気持ちを抑え、私は軋む床を踏みしめて立ち上がった。
裸足の足裏に、砂利と埃がへばりつく感触が不快だ。
周囲を見渡す。どうやらここは拝殿のようだ。だが、あまりにも荒れ果てている。
壁は黒ずみ、畳は腐って床下に落ちている箇所すらある。
奥にあるはずの本殿への扉は半開きで、中を覗き込んでも御神体らしきものは見当たらない。あるのは積もりに積もったゴミと、何かの小動物の骨だけ。
(……え、廃神社? 霊夢さん、掃除サボりすぎじゃない?)
独り言を呟きながら、私は自分の懐や袖を探った。
もし私が霊夢なら、スペルカードやお守り、あるいは妖怪退治の道具を持っているはずだ。
だが、あちこちまさぐって出てきたのは、くしゃくしゃになった紙切れが一枚だけ。
文字は擦れて読めないが、辛うじてお札のようにも見える。
それ以外は、何もない。財布も、スマホも、身分証も。
文字通りの無一文。
(嘘でしょ……初期装備が『ボロ布』と『紙くず』だけって、どんな縛りプレイよ)
不安が胸をよぎる。
私はよろめく足取りで、外へと続く縁側に向かった。
眩しい日差しに目を細めながら、境内を見下ろす。
そこにあったのは、見慣れた幻想郷の風景――ではなかった。
石段の下、鳥居の向こうに見えるのは、鬱蒼とした森……ではなく、無機質なコンクリートの電柱と、遠くに見える高層ビルの影。
そして、境内には手入れされた桜の木などなく、背丈ほどもある雑草が生い茂り、賽銭箱は朽ち果てて横倒しになっていた。
(ここ、幻想郷じゃない……? 現代日本? それも、相当な田舎の廃神社?)
サーッと血の気が引いていく。
憧れの異世界スローライフどころか、現代社会の底辺からのスタート。
しかも、この廃れ方は尋常じゃない。空気が澱んでいる。重い。
背後の本殿の暗がりから、視線を感じるような気配がする。
だが、その淡い期待と不安は、直後に響いた音によって、より最悪な形で上書きされることになった。
『ギ……ギギ……ヂュル……』
不快な音が、鼓膜を直接やすりで削るように響いた。
水を含んだ雑巾を絞るような、あるいは生肉を無理やり引き千切るような、生理的な嫌悪感を催す音。
背筋が凍りつく。胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。
恐る恐る、音のする方へ首を巡らせる。
さっきまで私が寝ていた拝殿の奥、その朽ちかけた格子の隙間から、それはこちらを覗いていた。
あちこちが溶け崩れ、膿んだようにただれた赤黒い肉塊。
そこには、人間のものではない、爬虫類や昆虫のそれがデタラメに配置されたような、無数の目が埋め込まれていた。
ギョロリと、いくつもの瞳が同時に動き、私を捉える。
そいつと、目が合った。
(ヒッ……!)
喉の奥で悲鳴が引きつり、空気だけの音が漏れる。
違う。これは違う。
幻想郷の牧歌的で、どこか愛嬌のある妖怪なんかじゃない。
これは、もっとドロドロとした、怨念と悪意だけで構成されたナニカだ。ガチのJホラー映画に出てくるような、理屈の通じない「悪霊」。
ここは幻想郷じゃない。
もっとタチの悪い、救いのない怪異が
(ヤバいヤバいヤバい! ガチで殺される! あんなのに捕まったら一発でゲームオーバーだって! 痛みを感じる間もなく食われる!)
本能がガンガン警鐘を鳴らしてくる。逃げろ、と脳が叫んでいるのに、恐怖で足がガクガク震えて立ち上がれない。
涙目で後ずさりし、背中が壁にぶつかる。
その時、ふと、腹の虫が「ぐぅ〜」と情けない音を立てた。
死の恐怖と同時に襲ってきたのは、焼けるような強烈な空腹感だった。
胃袋が空っぽで、内側からしぼんでいくような感覚。そういえば、喉もカラカラに乾いて張り付いている。
この体、数日はまともにメシ食ってないんじゃないか? 栄養失調寸前の虚弱ボディだ。
逃げたところで、行く当てなんてない。
こんなボロ着物を着た子供が一人で街を歩いていたら、すぐに警察に保護されるだろう。
だが、戸籍も身分証もない不審な子供なんて、今の管理社会でどう扱われる? 施設送りか、それとももっと悪い場所か。
それに、あんなグロテスクな怪異が見えていることを話せば、「可哀想な子」として精神科の閉鎖病棟行きが関の山だ。
完全に詰んだ。
社会的にも物理的にも、ついでに霊的にもハードモードすぎる! なにこの無理ゲー、リセマラさせてよ!
(死ぬ。このままじゃ、野垂れ死ぬか、あの化け物の餌だ……イヤだ、死にたくない! なんで私がこんな目に!)
絶望で視界が暗くなりかけた時、私の脳裏に、ふとあの巫女の姿が浮かんだ。
どんな強敵も、理不尽な弾幕も、世界の危機ですら「めんどくさい」の一言で片付け、圧倒的な火力でねじ伏せる、最強の巫女。
彼女なら、こんな時どうする?
泣いて命乞いをするか? 逃げ惑うか?
――絶対にしない。
彼女はいつだって不遜で、強欲で、そして誰よりも自由だ。
もし私が「博麗霊夢」なら。
あんな肉塊、お札一枚で消し飛ばして、「掃除の手間が増えた」と文句を言うはずだ。
――なれるか? ただのオタクだった私が。
――いや、なるしかないでしょ! 生きるためには!
震える膝を、両手でバシンと思い切り叩いた。痛みが恐怖を少しだけ散らす。
恐怖をキレ芸に変換しろ。空腹を殺意に変えろ。
私は今から、博麗霊夢だ。
金に汚く、人使いが荒く、それでも誰より強い、博麗神社の巫女なんだ。
演じろ。生き残るために、最強の皮を被るんだ。
「……ふん」
鼻を鳴らす。精一杯の虚勢を張る。
震える足を無理やり地面に踏ん張り、私はその肉塊を睨みつけた。
心臓は早鐘を打っているけれど、表情筋だけは死ぬ気で固定する。眉間に皺を寄せ、相手を見下すように顎を上げる。
不遜に。傲慢に。圧倒的な強者のように。
「何見てんのよ、雑魚が」
私の第一声は、意外なほど低く、ドスの利いた声だった。
その言葉に反応したのか、それとも単に私の「生きようとする意志」が形を成したのか。
無意識のうちに右手に握りしめていた、ただの古びたお札のような紙切れが、カッと熱を持ち、淡く発光したような気がした。
「ここは私の神社よ。賽銭も入れないで覗き見なんて、いい度胸してるじゃない」
言い切った瞬間、体の中の「スイッチ」がカチリと切り替わる音がした。
怖い。足はまだ震えている。けれど、それ以上に腹が減った。
この際、幽霊でも神様でもなんでもいい。
私に飯を食わせてくれる「
ここが私の城で、私のシノギの場所だ。誰にも渡さない。
私は足元に落ちていた、そこそこの長さがある木の枝を拾い上げた。
ただの枯れ木だ。でも、今の私にはこれが妖怪を祓う「お祓い棒」に見える。
スッと切っ先を肉塊に向ける。
これこそが、現代怪異社会における、私の霊夢としての始まりだった。
『ア゛、ア゛ァァァァ……!』
肉塊が、耳障りな金切り声を上げて痙攣した。
まるで私の挑発を理解したかのように、ドロドロとした粘液を撒き散らしながら、その体積を一気に膨れ上がらせる。
(ひぃぃぃ! キレた!? 絶対キレたよね!? 声デカすぎ鼓膜破れるわボケェ!)
内面では涙目で絶叫し、なんなら今すぐ土下座して許しを請いたい気分だったが、体は逆に一歩前へと踏み出した。
引くな。引いたら食われる。
私は最強。私は博麗霊夢。
こんな汚いスライムもどき、ワンパン余裕。そう自己暗示をかけろ。
「うるさいわね。耳障りよ」
冷徹に言い放ち、木の枝をピタリと眼前の敵に向ける。
その瞬間、肉塊がバネのように弾けた。
速い。
人間離れした速度で、鋭い牙のような突起が喉元へと迫る。
(うわ無理死んだ! ガチで速いって! 走馬灯見えたわコレ!)
思考よりも先に、体が勝手に動いた。
オタクとしての知識が、あるいはこの肉体に刻まれた本能が、私の右手を突き動かす。
握りしめていたお札を、まるで手裏剣のように指に挟んで構える。
「妖怪退治!」
叫んだ言葉は、ゲームで聞き飽きたあの台詞。
けれど、その効果は劇的だった。
指先から放たれたお札が、空中で幾何学的な軌道を描いて分裂したのだ。
一枚が二枚、二枚が四枚。
淡い紅白の光を帯びたそれは、物理法則を無視して加速し、迫り来る肉塊へと吸い込まれていく。
『ホーミングアミュレット』
私の脳裏に、技名がポップアップしたような錯覚。
光の弾幕が、肉塊に直撃する。
『ギョ、ア゛ァッ――!?』
断末魔は一瞬だった。
光に触れた箇所から、肉塊はボロボロと崩れ去り、浄化されるように黒い霧となって霧散していく。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように。
後に残ったのは、静寂と、宙を舞う埃だけ。
「……は?」
私は呆然と、自分の手とお祓い棒*1を見比べた。
(え、なに今の。強すぎワロタ。チート乙)
(っていうか、あんな木の枝とお札一枚で勝てんの? バランス崩壊してない? 運営にメール案件じゃんこんなの)
安堵よりも先に、あまりの理不尽な強さにドン引きしてしまった。
博麗の巫女、恐るべし。
これなら、このハードモードな世界でもなんとか生きていけるかもしれない。
……と、調子に乗りかけたその時。
『ぐぅぅぅぅ〜〜〜……』
腹の虫が、さっきよりも盛大に自己主張を始めた。
同時に、急激な脱力感が襲ってくる。
霊力を使いすぎた反動か、それとも単なるエネルギー切れか。膝から崩れ落ちそうになるのを、お祓い棒を杖にしてなんとか堪える。
「……勝っても、お腹は膨れないのね……」
世知辛い。あまりにも世知辛い。
怪異を倒したらドロップアイテムで「おにぎり」とか落ちればいいのに。現実は非情だ。
へたり込みそうになったその時、神社の入り口の方から、砂利を踏む音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
誰か来る。
それも、一人じゃない。
何かが、何かを追いかけてくるような、切羽詰まった足音。
(次はなによ! もうMPはとっくにマイナスだってば! これ以上イベント発生したらログアウト案件するわよ!)
私は引きつった顔で、ギギギと錆びついた機械のように首を巡らせ、音のする方へと視線を向けた。
ジャリッ、ジャリッ、と不規則に地面を蹴る音。それは単なる参拝客の足取りじゃない。何かに追われ、恐怖に駆られた者が発する、切羽詰まったリズムだ。
やがて、朽ちかけた鳥居の下をくぐり抜け、一人の少女が境内に転がり込んできた。