現代怪異社会の博麗霊夢(偽)   作:拓拓

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第1話

 板張りの床が、背中を容赦なく責め立てていた。

 痛い。硬い。そして何より、骨の髄まで染み込んでくるように寒い。

 意識の浮上とともに、強烈な不快感が全身を駆け巡る。

 (かび)(ほこり)が混じり合ったような、古びた建物特有の湿った匂い。それに混じって、どこか鉄錆のような、あるいは乾いた血のような生臭さが鼻腔をくすぐった。

 

 うっすらと目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。

 いや、天井と呼ぶにはあまりに無惨だ。あちこちに穴が空き、腐った梁が肋骨のように剥き出しになっている。そこからシャンデリアのように垂れ下がる蜘蛛の巣が、隙間風に揺られていた。

 

「……ここ、どこ?」

 

 口から漏れた声は、自分でも驚くほど幼く、鈴を転がしたように高かった。

 寝ぼけているのか? それとも、まだ夢の中?

 起き上がろうとして、手をつく。

 その瞬間、思考がフリーズした。

 視界に入ったその手が、あまりにも小さすぎたのだ。

 まるで紅葉のような、華奢で柔らかな子供の手。ささくれだった床板の冷たさを、その小さな掌が過敏なほど鮮明に伝えてくる。

 慌てて自分の体を見下ろす。

 擦り切れて色褪せた赤い着物。裾がボロボロにほつれ、泥汚れのついた袴のようなもの。

 それはコスプレ衣装というよりは、長い年月を風雨に晒された「古着」と呼ぶのが相応しい惨状だった。

 

(え、マジで? これがいわゆる異世界転生ってやつ? それとも憑依?)

 

 混乱で心臓が早鐘を打つ。

 けれど、オタク特有の「異常事態への無駄な順応性」が、即座に現状把握を試みようと脳をフル回転させる。

 前世の記憶はある。私はただの東方オタクで、しがない社畜だ。昨夜も安アパートの布団の中で、現実逃避がてら『東方』の原作ゲームをプレイしながら寝落ちしたはずだ。

 だというのに、今の私はどう見ても、小学校低学年くらいの女児になっている。

 それも、ただの女児じゃない。

 視界の端で揺れる、この大きな赤いリボン。そして、特徴的すぎる袖と紅白の装束。

 

「博麗……霊夢?」

 

 うっそ、まさかの「推し」になっちゃった感じ?

 一瞬だけ、オタクとしてのテンションが爆上がりしかけた。最強の巫女、楽園の素敵な巫女、博麗霊夢。もしそうなら、空だって飛べるし妖怪だって退治し放題だ。

 

(落ち着け私。まずはセーブポイント……じゃなくて、現状確認だ。ここが本当に『博麗神社』なのか確かめないと)

 

 はやる気持ちを抑え、私は軋む床を踏みしめて立ち上がった。

 裸足の足裏に、砂利と埃がへばりつく感触が不快だ。

 周囲を見渡す。どうやらここは拝殿のようだ。だが、あまりにも荒れ果てている。

 壁は黒ずみ、畳は腐って床下に落ちている箇所すらある。

 奥にあるはずの本殿への扉は半開きで、中を覗き込んでも御神体らしきものは見当たらない。あるのは積もりに積もったゴミと、何かの小動物の骨だけ。

 

(……え、廃神社? 霊夢さん、掃除サボりすぎじゃない?)

 

 独り言を呟きながら、私は自分の懐や袖を探った。

 もし私が霊夢なら、スペルカードやお守り、あるいは妖怪退治の道具を持っているはずだ。

 だが、あちこちまさぐって出てきたのは、くしゃくしゃになった紙切れが一枚だけ。

 文字は擦れて読めないが、辛うじてお札のようにも見える。

 それ以外は、何もない。財布も、スマホも、身分証も。

 文字通りの無一文。

 

(嘘でしょ……初期装備が『ボロ布』と『紙くず』だけって、どんな縛りプレイよ)

 

 不安が胸をよぎる。

 私はよろめく足取りで、外へと続く縁側に向かった。

 眩しい日差しに目を細めながら、境内を見下ろす。

 そこにあったのは、見慣れた幻想郷の風景――ではなかった。

 

 石段の下、鳥居の向こうに見えるのは、鬱蒼とした森……ではなく、無機質なコンクリートの電柱と、遠くに見える高層ビルの影。

 そして、境内には手入れされた桜の木などなく、背丈ほどもある雑草が生い茂り、賽銭箱は朽ち果てて横倒しになっていた。

 

(ここ、幻想郷じゃない……? 現代日本? それも、相当な田舎の廃神社?)

 

 サーッと血の気が引いていく。

 憧れの異世界スローライフどころか、現代社会の底辺からのスタート。

 しかも、この廃れ方は尋常じゃない。空気が澱んでいる。重い。

 背後の本殿の暗がりから、視線を感じるような気配がする。

 

 だが、その淡い期待と不安は、直後に響いた音によって、より最悪な形で上書きされることになった。

 

『ギ……ギギ……ヂュル……』

 

 不快な音が、鼓膜を直接やすりで削るように響いた。

 水を含んだ雑巾を絞るような、あるいは生肉を無理やり引き千切るような、生理的な嫌悪感を催す音。

 背筋が凍りつく。胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。

 恐る恐る、音のする方へ首を巡らせる。

 さっきまで私が寝ていた拝殿の奥、その朽ちかけた格子の隙間から、それはこちらを覗いていた。

 

 あちこちが溶け崩れ、膿んだようにただれた赤黒い肉塊。

 そこには、人間のものではない、爬虫類や昆虫のそれがデタラメに配置されたような、無数の目が埋め込まれていた。

 ギョロリと、いくつもの瞳が同時に動き、私を捉える。

 そいつと、目が合った。

 

(ヒッ……!)

 

 喉の奥で悲鳴が引きつり、空気だけの音が漏れる。

 違う。これは違う。

 幻想郷の牧歌的で、どこか愛嬌のある妖怪なんかじゃない。

 これは、もっとドロドロとした、怨念と悪意だけで構成されたナニカだ。ガチのJホラー映画に出てくるような、理屈の通じない「悪霊」。

 ここは幻想郷じゃない。

 もっとタチの悪い、救いのない怪異が跋扈(ばっこ)する現代日本だという確信が、冷たい刃物のように突き刺さる。

 

(ヤバいヤバいヤバい! ガチで殺される! あんなのに捕まったら一発でゲームオーバーだって! 痛みを感じる間もなく食われる!)

 

 本能がガンガン警鐘を鳴らしてくる。逃げろ、と脳が叫んでいるのに、恐怖で足がガクガク震えて立ち上がれない。

 涙目で後ずさりし、背中が壁にぶつかる。

 その時、ふと、腹の虫が「ぐぅ〜」と情けない音を立てた。

 死の恐怖と同時に襲ってきたのは、焼けるような強烈な空腹感だった。

 胃袋が空っぽで、内側からしぼんでいくような感覚。そういえば、喉もカラカラに乾いて張り付いている。

 この体、数日はまともにメシ食ってないんじゃないか? 栄養失調寸前の虚弱ボディだ。

 

 逃げたところで、行く当てなんてない。

 こんなボロ着物を着た子供が一人で街を歩いていたら、すぐに警察に保護されるだろう。

 だが、戸籍も身分証もない不審な子供なんて、今の管理社会でどう扱われる? 施設送りか、それとももっと悪い場所か。

 それに、あんなグロテスクな怪異が見えていることを話せば、「可哀想な子」として精神科の閉鎖病棟行きが関の山だ。

 

 完全に詰んだ。

 社会的にも物理的にも、ついでに霊的にもハードモードすぎる! なにこの無理ゲー、リセマラさせてよ!

 

(死ぬ。このままじゃ、野垂れ死ぬか、あの化け物の餌だ……イヤだ、死にたくない! なんで私がこんな目に!)

 

 絶望で視界が暗くなりかけた時、私の脳裏に、ふとあの巫女の姿が浮かんだ。

 どんな強敵も、理不尽な弾幕も、世界の危機ですら「めんどくさい」の一言で片付け、圧倒的な火力でねじ伏せる、最強の巫女。

 彼女なら、こんな時どうする?

 泣いて命乞いをするか? 逃げ惑うか?

 ――絶対にしない。

 彼女はいつだって不遜で、強欲で、そして誰よりも自由だ。

 もし私が「博麗霊夢」なら。

 あんな肉塊、お札一枚で消し飛ばして、「掃除の手間が増えた」と文句を言うはずだ。

 

 ――なれるか? ただのオタクだった私が。

 ――いや、なるしかないでしょ! 生きるためには!

 

 震える膝を、両手でバシンと思い切り叩いた。痛みが恐怖を少しだけ散らす。

 恐怖をキレ芸に変換しろ。空腹を殺意に変えろ。

 私は今から、博麗霊夢だ。

 金に汚く、人使いが荒く、それでも誰より強い、博麗神社の巫女なんだ。

 演じろ。生き残るために、最強の皮を被るんだ。

 

「……ふん」

 

 鼻を鳴らす。精一杯の虚勢を張る。

 震える足を無理やり地面に踏ん張り、私はその肉塊を睨みつけた。

 心臓は早鐘を打っているけれど、表情筋だけは死ぬ気で固定する。眉間に皺を寄せ、相手を見下すように顎を上げる。

 不遜に。傲慢に。圧倒的な強者のように。

 

「何見てんのよ、雑魚が」

 

 私の第一声は、意外なほど低く、ドスの利いた声だった。

 その言葉に反応したのか、それとも単に私の「生きようとする意志」が形を成したのか。

 無意識のうちに右手に握りしめていた、ただの古びたお札のような紙切れが、カッと熱を持ち、淡く発光したような気がした。

 

「ここは私の神社よ。賽銭も入れないで覗き見なんて、いい度胸してるじゃない」

 

 言い切った瞬間、体の中の「スイッチ」がカチリと切り替わる音がした。

 怖い。足はまだ震えている。けれど、それ以上に腹が減った。

 この際、幽霊でも神様でもなんでもいい。

 私に飯を食わせてくれる「参拝客(カモ)」が来るまで、このボロ神社を死守してやる。

 ここが私の城で、私のシノギの場所だ。誰にも渡さない。

 

 私は足元に落ちていた、そこそこの長さがある木の枝を拾い上げた。

 ただの枯れ木だ。でも、今の私にはこれが妖怪を祓う「お祓い棒」に見える。

 スッと切っ先を肉塊に向ける。

 これこそが、現代怪異社会における、私の霊夢としての始まりだった。

 

『ア゛、ア゛ァァァァ……!』

 

 肉塊が、耳障りな金切り声を上げて痙攣した。

 まるで私の挑発を理解したかのように、ドロドロとした粘液を撒き散らしながら、その体積を一気に膨れ上がらせる。

 

(ひぃぃぃ! キレた!? 絶対キレたよね!? 声デカすぎ鼓膜破れるわボケェ!)

 

 内面では涙目で絶叫し、なんなら今すぐ土下座して許しを請いたい気分だったが、体は逆に一歩前へと踏み出した。

 引くな。引いたら食われる。

 私は最強。私は博麗霊夢。

 こんな汚いスライムもどき、ワンパン余裕。そう自己暗示をかけろ。

 

「うるさいわね。耳障りよ」

 

 冷徹に言い放ち、木の枝をピタリと眼前の敵に向ける。

 その瞬間、肉塊がバネのように弾けた。

 速い。

 人間離れした速度で、鋭い牙のような突起が喉元へと迫る。

 

(うわ無理死んだ! ガチで速いって! 走馬灯見えたわコレ!)

 

 思考よりも先に、体が勝手に動いた。

 オタクとしての知識が、あるいはこの肉体に刻まれた本能が、私の右手を突き動かす。

 握りしめていたお札を、まるで手裏剣のように指に挟んで構える。

 

「妖怪退治!」

 

 叫んだ言葉は、ゲームで聞き飽きたあの台詞。

 けれど、その効果は劇的だった。

 指先から放たれたお札が、空中で幾何学的な軌道を描いて分裂したのだ。

 一枚が二枚、二枚が四枚。

 淡い紅白の光を帯びたそれは、物理法則を無視して加速し、迫り来る肉塊へと吸い込まれていく。

 

『ホーミングアミュレット』

 

 私の脳裏に、技名がポップアップしたような錯覚。

 光の弾幕が、肉塊に直撃する。

 

『ギョ、ア゛ァッ――!?』

 

 断末魔は一瞬だった。

 光に触れた箇所から、肉塊はボロボロと崩れ去り、浄化されるように黒い霧となって霧散していく。

 まるで、最初からそこには何もなかったかのように。

 後に残ったのは、静寂と、宙を舞う埃だけ。

 

「……は?」

 

 私は呆然と、自分の手とお祓い棒*1を見比べた。

 

(え、なに今の。強すぎワロタ。チート乙)

(っていうか、あんな木の枝とお札一枚で勝てんの? バランス崩壊してない? 運営にメール案件じゃんこんなの)

 

 安堵よりも先に、あまりの理不尽な強さにドン引きしてしまった。

 博麗の巫女、恐るべし。

 これなら、このハードモードな世界でもなんとか生きていけるかもしれない。

 ……と、調子に乗りかけたその時。

 

『ぐぅぅぅぅ〜〜〜……』

 

 腹の虫が、さっきよりも盛大に自己主張を始めた。

 同時に、急激な脱力感が襲ってくる。

 霊力を使いすぎた反動か、それとも単なるエネルギー切れか。膝から崩れ落ちそうになるのを、お祓い棒を杖にしてなんとか堪える。

 

「……勝っても、お腹は膨れないのね……」

 

 世知辛い。あまりにも世知辛い。

 怪異を倒したらドロップアイテムで「おにぎり」とか落ちればいいのに。現実は非情だ。

 へたり込みそうになったその時、神社の入り口の方から、砂利を踏む音が聞こえてきた。

 

 ザッ、ザッ、ザッ。

 

 誰か来る。

 それも、一人じゃない。

 何かが、何かを追いかけてくるような、切羽詰まった足音。

 

(次はなによ! もうMPはとっくにマイナスだってば! これ以上イベント発生したらログアウト案件するわよ!)

 

 私は引きつった顔で、ギギギと錆びついた機械のように首を巡らせ、音のする方へと視線を向けた。

 ジャリッ、ジャリッ、と不規則に地面を蹴る音。それは単なる参拝客の足取りじゃない。何かに追われ、恐怖に駆られた者が発する、切羽詰まったリズムだ。

 やがて、朽ちかけた鳥居の下をくぐり抜け、一人の少女が境内に転がり込んできた。

*1
ただの枝

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